カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

C年 枝の主日 

2016年03月14日 | 神父様からメッセージ(C年)

 
枝の祝日の日曜日を迎えると、キリスト信者は一年間の心の有り様、信仰の淵の一番深い所、叉希望の頂点に触れることになっています。それは復活祭の方へ誘導する聖周間です。この日曜日は伝承によってソテツかオリーブの枝を配り、皆が持つことになっているので「枝の主日」と言います。実はイエス様が人類を愛することを覚悟して、エルサレムの都に入城された祝日です。イエス様がエルサレムに入ることによって、当時の社会の中心であった都で、皆のための限りない神様の愛を見せて自分を献身しました。理想のために献身する人は皆に尊敬され、大きく評価されます。弱く、罪人である私たちへの愛のために献身されたイエス様は、人生の欠かせない命、希望、喜びとなりました。さて、イエス様の人生の最後はキリスト信者にとって手本になり、キリスト信者が読み取る人生の心で、永遠に生かされる愛の物語です。
「ルカによる福音書 22・14-23、56」
「枝の主日」にはイエス様の人生の二つの重要な出来事を記念し朗読します。イエス様のエルサレムの入城とご受難です。イエス様の死は私たちが罪の中に生きる現実の立場を示し、人類の欠かせない運命なのです。けれどもイエス様が人類と一緒に苦しんで私たちの代わりに処刑され、最高の苦しみから脱出する道を示してくださいました。イエス様の受難の物語は、あくまでも典礼の時に朗読されるために書かれた物語であって、観想するための物語として、人を祈りに導いています。イエス様の受難の物語は典礼的な目標を二つ勧めています。一つは、誰にとってもイエス様の受難は手本であり、もう一つは、イエス様が苦しみに耐えながら愛の意味を教えてくださいます。イエス様が受難の「時」(神様の存在に満ちた神秘的な時)自分の心の中の大きな決断を迎えました。つまり神様から示された使命を全うされた時でした。そして同時に御父である神様との深いつながり、親子のつながりを示しました:「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます!」。ルカ福音記者がイエス様の受難を語りながら、仕えるために来られたイエス様の姿を紹介します。誰でも皆、弱い者、貧しい者、病気の人、罪人に仕えるため、イエス様が耐えられないほどの苦しみを受けて、十字架上で自分の人生を全うしました。苦痛、寂しさ、侮辱などの中でイエス様は神様のみ旨を行うことだけを思っていました。神様の愛の大きさを知らせるためです。イエス様が悪いことを良いことに還し、限りない勇気でご自分の理想と思い、愛を証しました。ご自身を神の子であると疑わず宣言しながら、皆を寛大な心で赦し続けました。限りない大きな信頼の中で、イエス様がご自身全てを、十字架上で御父である神様に委ねました。
                                   モヨリ神父
        

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。