カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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「今週の公教要理の錠剤」62

2013年03月06日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 四旬節第四主日 2013・3・10
 「カトリック教会の教え」から
「人間と文化と経済」
キリスト信者は自分が住んでいる地域、社会、国とその文化を愛してその中に溶け込んでいくつもの関わりを持ち、イエス様の思いとその価値観に元づいて動き、働き、場合に応じて選択して自分の力を注いでいます。文化とは時代を通して積み重ねられた習慣、価値観、技術、法律などです。日本の文化の中にも、日差しのようなイエス様のメッセージは何百年も前から差し込んでいて、その跡が残っています。光のようなみ言葉の力が歴史に定められた文化は新しい内容、新しい価値観、新しい思いに少しずつ変えられ、改善されながら豊かになっています。キリスト信者は自分が生まれた故郷の文化を深く知り、愛し、イエス様の心を一所懸命に吹き込んでいきます。信仰と理性と、つまり宗教と文化は対立するのではなく、お互いに満たされて人間の心をより豊かなあり様に誘導しています。そのようにいつも文化に対して、人間の心と歴史から生まれたいろんな国の文化に対し、キリスト信者は大きな愛着と尊敬を持ちながら、それをイエス様の目で見て、イエス様が教えられたことを魂のように文化と社会に吹き込んでいます。現在は日本の文化の中でキリスト教の思いがずいぶん入り込んでいます。しかしまだ、隅々までイエス様の心とその価値観は広がっていません。キリスト信者の役割はその使命を完成するように勤められていることです。同じようなパターンで、人間の労働の様々な形の中でも、イエス様の教えは欠かせないことです。まず人間は労働のために生きるのではなく、労働は人間の独特な特徴であり、人間をまず優先にして労働は人間の豊かさの為にあるように考えなければなりません。同時に人間にとって厳しい労働、つまり人間の素晴らしさとその価値を見失う労働は赦されていないし、イエス様の思いに反しています。経済に対する思いも同じです。経済は人間の豊かさと幸せの為にあるので、その反対のためではありません。経済を犠牲にする人間の行動は神様の思いには赦されていません。どんな時でも、聖書によって語られる神様の思いにはいろんな活動の中で、文化であれ、労働、あるいは経済であれ、その目的は人間の喜びとその幸せです。そうではなくむしろ、人間が文化、労働、経済によって犠牲にされた場合、それは神様が望まれることではありません。 
モヨリ神父

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