カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 年間第十五主日

2010年07月10日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「自分の望みを少なくすればするほど、人は神のみ旨を多く果たすようになります。」
聖フランシスコ・サレシオ
「七夕」、旧暦7月7日、またその日の行事を言います。牽牛星と職女星が一年に一度会うという古代中国の星合いの伝説があります。この日に詩や歌、願い事を短冊に書いて七夕竹に飾り、手習いの上達等を祈ります。この頃の稲の苗は成長してどんどん分蘖(ぶんけつ)※を始め、目を見張るばかりの美しい青田に変わってきます。そこを吹く風により、青稲が揺れ渡る景を「青田波」と呼びます。暑さも徐々に募ってきますが、最近は居間に散らばり、台所に置かれていた団扇も、すっかり影が薄くなっています。しかし、使ってみると、ことに、「来民の渋団扇」は昔も今も実用に耐える強さがあり、時を重ねるほどに柿渋の色合いも深みを帯び、一種独特の風格を感じさせます。
さて、初代キリスト信者の間には、確かにイエス様が皆の心と体を癒されると信じる覚悟があったと思いますがしかし、人の目に見えない復活されたイエス様が、どのように人を癒し続けるのだろうかという疑問が残っていたと思います。それには福音記者の皆が、イエス様の活動を語りました。復活されたイエス様がたとえ人の目に見えなくても、すべての人を、罪人でさえ愛し、どのように癒し続けているかと言う疑問に答えるようにしました。癒してくださるのは信仰をもった祈りの中の願い、そして他人の為に祈り願うことです。特別に病人はイエス様の言葉によって癒されます。イエス様があるいはイエス様の代理人である弟子が、手を伸ばして人の上におかれることによって癒されます。信仰によってイエス様に触れて関わる時、命であるイエス様はわたし達の命を支え、取り戻してくださいます。
ルカによる福音書10・25-37
時代を通して、よきサマリア人のイエス様の例え話はいくつかの形で解説されましたが、有名になったのは教父たちの解説です。それは良きサマリア人はイエス様です。追いはぎに襲われた人はキリスト信者です。追いはぎは罪です。通りかかる祭司とレビ人は救いまで至らない人間の力を表しています。傷の上に注がれた油とワインはイエス様の慈しみと憐れみのことです。襲われた人が乗せられたロバはイエス様の人間性を示し、どのようにイエス様がわたし達の弱さを背負ってくださるかを象徴しています。宿は教会を象徴し、宿の主人は司祭のこと、デナリオン二枚とは二組の秘跡を示しています。しかし近代の解説によって、良きサマリア人の例え話の中に新たな特徴が強調されています。当福音書では、二つの質問が基本となっています。一番目、何をして永遠の命を受け継ぐでしょうか。二番目はだれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。このようにイエス様がイスラエル人の考えから新しいメッセージを宣べています。永遠の命を得るには、神様と隣人と自分も愛さなければなりません。人間はイエス様の言葉を聞いて、神様のご計画に従ってその命を全うした時にこそ、神様が自分を愛し大切にされていたことを示すことになります。しかし隣人を愛するとはどのようなことでしょうか、確かにイエス様が良きサマリア人のやり方を真似するように勧めています。しかし、それだけではなく、聞き手の人にイエス様が新たな質問を投げかけます。「あなたは誰の隣人になっているのですか」と。正しく神様への愛と自分への愛を理解すれば、隣人への愛はキリスト信者にとって、欠かせない心の形、言い変えれば慈しみと愛のある心となっています。慈しみと憐れみはキリスト信者の心の土台であり、常に苦しんでいる人の立場に立てるように勧められています。
                                    モヨリ神父
(※分蘖(ぶんけつ:稲・麦等で、根に近い関節から茎がふえて出ること。かぶはり)


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