カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 年間第十二主日

2010年06月17日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「忍耐強い心は常に平静で、神のみ旨を求めます。無理な頑張りは嫌気を招きます。神に心を開いて打ち克ちなさい。」 聖フランシスコ・サレシオ
父の日は6月の第三の日曜日に父に感謝する日として定められたのが始めとされています。日本でも次第に普及しつつありますが、その歴史が新しいため、まだ活発な行事は定着していません。この時に皆が父の愛で包んでくださる天の父を考えて、身近にある大事なお父さんにも大きな感謝の心を表します。
さて、春分を過ぎると昼は目に見えて長く、夏至のころの夜は最も短くなります。夜のことだからさほど判然とはしませんが、なんとなく眠れぬ一夜、いつしが明るむ窓に驚いて目覚めるということはだれしも覚えがあるかもしれません。そこには一抹のわびしさとやるせなさといった感情もふくまれています。このわたし達が生きている人生も短い一夜のように見えますが、その後限りのない普遍的な一日の明るさが待っています。
また梅雨に入って田植えも進み、苗もほとんど植えられて田に広がり、成長する段階に入っています。その小さな苗、風にふらふらする弱い青草のような植物の中に大きな希望があります。キリスト信者も小さな祈りの中の、心にある弱い願いに大きな希望が含まれています。皆を大切にされる神様はいつもわたし達の小さな願いに耳を傾けてくださいます。それがわたし達の大きな希望になっています。自分に従った者達にイエス様は、神様になんでも頼むように勧めておられます、愛である神様は信仰を持っている人にとって欠かせない希望となっています。
ルカによる福音書8・18-24
イエス様に従う人は、先生であるイエス様の心の通りについて行きます。イエス様が定められた生き方の通りに進むのは欠かせない条件です。自分を捨てて、憎まれて、自分の十字架を背負ってイエス様に従うことは、実際にどのような意味があるのでしょうか。マルコの福音書によると、ペトロの信仰の告白は福音書の中心になっています。ルカの福音書では少し違いますが、マタイの福音書ではイエス様のご受難につながっています。それはどういうことかと言えば、選ばれた弟子がその先生に従って先生に倣って、先生の心をまず知るべきなのです。先生に従う、知る、自分の人生に受け入れるのは、大きな努力や真剣な決定の結果ではなく、祈りの中で生まれてくるものなのです。「イエス様が一人で祈っておられた時…」イエス様は自分のことを弟子たちに知らせわからせる時に、苦しみから喜びへの道を教えられます。このようにイエス様が自分の死と復活を予言し、このように自分の弟子の心とあり様を見ておられます。ルカの福音書によると、イエス様の弟子の特徴は五つあります。1)自由に選択する(わたしについて来たい人は…)2)自分の十字架を受け入れること (自分の十字架を背負って)3)忍耐を持つ(日々)4)従うこと(わたしについて)5)神様のみ旨の通りを考えて行うこと(わたしの為に命を失うものはそれを救うのである。)当福音書の注目すべき事は人間の心の自由です。マタイの福音書の中にも同じことが上げられています(もし完全になりたいのなら… わたしに従いなさい)。イエス様が自分の弟子になりたいわたし達を、暖かい心で無条件に誘っておられます。弟子になりたい人はイエス様の誘いを受け入れて、イエス様が教えられた通りに従うようになることです。
                             モヨリ神父

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