浅い一考を。
ニュースで連日、年金制度の見直しが報じられている。
「年金制度改革」という看板のようだが、どうにも違和感がある。
年金の基本は、自分が支払った(国家に預託した)掛け金を自分が老後に受け取ること。だが、既に現実は、年金受給者を何人の「現役」で支えるかという話になっている。それをとやかくは言うまい。
以前は5人だか10人だか複数人で支えていた状況が、年々支える若い世代が少なくなり、40年後(だったかな)には1人を1人で支える試算になるらしい。だからといって少子化を嘆くつもりもない。
こういう状況を踏まえて思うのは、年金制度改革の出発点は、まずは、制度が破綻必至なのか、修正で済むのか、を明確にするところからではないのか。
素人目にも年金制度の現状は破綻への道のりを歩んでいると見える。
その一方で、修正の域を出ないとしか思えない「受給開始年齢の引き上げ」を対処策のメインにしていることは、年金制度の要諦である「長期的かつ安定的」の理念におよそそぐわない。これが違和感の原因だ。
もし破綻必至を出発点とするならば、それを避けるために、(国が最大限やるべきことをやったという前提で)年金受給者と現役世代とで痛みを分かち合う大胆な改革を行わなければらない。おそらくそれは行政の合理化と、税制、社会保障制度全般の変革とセットで論じられるトータルな改革だろう。
ハードル(課題)は多くかつ高いが、国家経営という観点では避けて通れない道だ。
「どじょう」か「うなぎ」か知らないが、リーダーは勇気を持ってまずは前述の点を出発点とし、国民に正論を示してもらいたい。熱いから豆腐に頭を突っ込んで最後は死んでしまうようでは困る。正論で議論しようではないか。
塩野七生氏によれば、古代ローマ帝国が国家であったレゾンデートルは、安全保障と食料の安定供給であったとか。国民の「生活を保障する」という本質からすれば、現代においては、年金制度、広く社会保障制度も国家としての存在意義であることは言を待つまでもない。
次代を担う子どもたちに負の遺産を残すようなことだけは何としても避けなければ。痛みを分かち合う覚悟ぐらいはできている。