「おれはそれを変えたい。この時代が、おれの手から平等という贈り物を受け取る。すべては均等になり、地上に不可能が訪れ、月がおれのものになる、そのときたぶんおれ自身も姿を変え、おれと一緒に世界も姿を変える。人はもう死ぬことはなく、幸福になるだろう。」
これらカリギュラの台詞を聞いたとき思い出したのが、荒木飛呂彦氏の漫画『ジョジョの奇妙な冒険 Part6 ストーンオーシャン』に登場する「天国」理論である。
(以下、『ストーンオーシャン』の重大なネタバレを含むため反転)
舞台は近未来のアメリカ、日系の19歳の少女空条徐倫(くうじょう・ジョリーン)は無実の罪によって投獄される。
それが自分を狙う陰謀の一環と気づいた徐倫の父・承太郎は徐倫を脱獄させようとするが、敵の罠に嵌り記憶と「スタンド」(『ジョジョ』世界で言う超能力のようなもの。『ストーンオーシャン』のメインキャラは全員スタンド使いである)を奪われ仮死状態に陥る。
徐倫は父を救うため獄中に留まり、仲間たちとともに謎の敵に立ち向かう――というのが『ストーンオーシャン』のあらすじである。
やがて敵の黒幕が刑務所の教戒師・プッチ神父で、彼の目的が承太郎の記憶を手がかりに「天国に行く」ことだと判明。物語は「天国」の実現を阻止しようとする徐倫たちとプッチの戦いに発展してゆくが、肝心の「天国」が何を指すのかはなおラストまで明かされない。
話が佳境に入る頃、「天国」の正体に先立って、プッチが「天国」を目指すきっかけとなった事件が回想の形で語られる。
プッチが敬虔な神学生だった時分、彼にはペルラという妹がいたが、ある時プッチはペルラの恋人・ウェザーが実は生き別れの双子の弟(ペルラにとっては兄)だと偶然知ってしまう。
ペルラに真相を知らせず傷つけずに二人を別れさせるためプッチは探偵を雇うが、この探偵の暴走によってウェザーは半死半生の重傷を負い、彼が死んだと思い込んだ(加えて性的暴行を受けたことを匂わせる描写がある)ペルラは絶望して崖から湖に身を投げてしまう。
妹のため良かれと思ってしたことが彼女を死に追いやった事実に打ちのめされたプッチは我が身と理不尽な運命を呪い、事件に前後して親しくなったディオという男と彼の語る「天国」理論に傾倒していったのだ。
この、妹の死とそれを機とする人一倍純粋だった青年の「変心」、そして近親相姦というモチーフは『カリギュラ』に通じるものがある。
カリギュラ-ドリュジラの場合と違い、プッチ自身が妹と関係を持ったわけではないが、ウェザーが単に「弟」ではなく「双子の弟」(二卵性なのであまり似ていないが)の設定なのは、二人が体質的に引かれあう(プッチがスタンド能力に目覚めた時ウェザーにもスタンドが発現する)ことの説明のためばかりでなく、ひょっとすればウェザーをプッチの分身のごとく描くことでプッチとペルラが精神的に近親相姦関係にあったことを匂わす意図があるのかもしれない。
それはともかく、この過去エピソードが描かれた時点で、「天国=ペルラが復活する、もしくは彼女の死が最初からなかったことになっている世界」と考えた読者は私自身を含め多かったらしい。
プッチはキリスト教徒であるから、『新約聖書』の「黙示録」(神の手になる世界の滅亡と、その後選ばれた人々が復活し神の統べる楽園で永遠の命を享受する様が預言されている)の世界を自ら地上に齎そうと考えたのかもしれない。そう思った。
しかしプッチの(そして荒木飛呂彦の)発想は、こんな想像を遥かに超えていた。
結局徐倫たちの奮戦虚しく、ついに「天国」は実現してしまう。
プッチの新しいスタンドの能力によって世界中の時間が異常に加速し、食べ物はたちまちに腐り金属は錆び付き、あらゆる無機物は劣化し崩壊する。やがて地球や宇宙さえその寿命を迎える。
そして世界は「二巡目」に入る。一度終焉を迎えた世界は再び振り出しに戻り、全く同じ歴史を繰り返す。一巡目に存在した人間は再び新しい世界で同じように人生を送る。唯一違っているのは人間の意識である。
彼らはおぼろげながら一巡目の記憶を留めている。彼らは自分がどのように生き、いつどのようにして死ぬのかを前もって知っている。ただし「知っている」だけでそれを変更することはできない。それがその人間の運命であるから。
例えば自分が事故に遭うとわかっていてそれを回避しようとしても、「細かい出来事は違っても運命は決して変えられない」。
あらかじめ自分がいつどのように死ぬのか災厄に遭うのかがわかっている、しかも逃げられないとは「天国」どころか生き地獄のように思えるが、プッチは言う。
「それこそ『幸福』であるッ! 独りではなく全員が未来を「覚悟」できるからだッ!「覚悟した者」は「幸福」であるッ! 悪い出来事の未来も知る事は「絶望」と思うだろうが 逆だッ! 明日「死ぬ」とわかっていても「覚悟」があるから幸福なんだ! 「覚悟」は「絶望」を吹き飛ばすからだッ! 人類はこれで変わるッ!」
この「天国」の恐ろしさは、その実体―人が皆自分の未来を知る世界―そのものよりも、妹の死をきっかけにプッチが求めたものがこれである、という点にある。
ペルラが死んだ直後こそ「命を返してくれるならなんでもするぞ」と嘆いたものの、死んだものは生き返らないと思い切った後は、このような事態へ自分たちを導いた数々の出会いの意味、「人はなぜ出会うのか?」の答えこそが「この世の最強の力(パワー)であり真理にちがいない」と、人間同士を引き寄せる「引力」の謎を解明することを熱望するようになる。
妹を、そして弟を直接に苦しめた探偵に復讐するでもなく、神父志望でありながら神への信仰に精神の安寧とペルラの魂の平安を求めるでもない。
そして彼がディオの志を引き継ぎ目指した「天国」は、死者の復活や永遠の命を約束するものではなく、全人類に確実にやってくる死への覚悟を促すことを目的とするものだった。
思いがけぬ形での妹の死に苦しんだ彼が望んだのは、妹の復活でも彼女が死ぬ運命を変えることでもなく、それを「思いがけぬ」ものでなくする、前もって妹の死を知っておくことで自分の、そして死んでゆく妹のショックを軽減できるような世界だったのである。
(正確には二巡目の世界に来られるのは時間加速を生き延びた人間だけなので、それ以前に死んでいるペルラは二巡目の世界には存在していない。彼女に似た別人が同じような運命を生きて彼女の抜けた穴を埋めているはずである。だから「天国」の恩恵によって「ショックを軽減」される(かもしれない)のは「似た別人」であり、結局ペルラ本人は救われないままだ)
確かに「覚悟した者」は「幸福」になりうるのかもしれない。しかし覚悟できなかった者はどうなるのか。
どんな残酷な死が待っているとしてもそれを回避できない。回避の手段として自殺することもできない。いっそ錯乱することさえできない。この状況を「覚悟」できる者は一部の超人的精神の持ち主だけであろう。
しかしプッチは皆が「覚悟」できる事を前提に語っている。彼は大抵の人間が心弱い存在であることを理解していないし、弱くあることを認めていない。
「天国」は大多数の人間を幸福にするはずであり、そのためには「少しばかりの人間が犠牲になったからといって」大事の前の小事、そこで躊躇うのは「安っぽい感情」に過ぎないと考える。
これでも彼の行動はあくまで人々の幸福を願う博愛精神、全き善意に裏打ちされているのだ(彼は最期まで敬虔なクリスチャンでもあった。積極的に神への冒涜を行ったカリギュラと異なる点だ)。
そんな彼をウェザーは評する。「おまえは」「自分が『悪』だと気づいていない・・・もっともドス黒い『悪』だ・・・」。
真に恐ろしいのは「天国」それ自体より、それこそが幸福な世界と信じて全人類に押し売りする独善性、妹の死そのものより死による衝撃を回避する方が大事だと感じるプッチの精神性の方ではないだろうか。
(つづく)