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俳優・勝地涼くんのこと。

カリギュラの幸福論(1)(注・ネタバレしてます)

2009-05-29 01:52:14 | カリギュラ
「人は死ぬ、そして人は幸福ではない。」 
「おれはそれを変えたい。この時代が、おれの手から平等という贈り物を受け取る。すべては均等になり、地上に不可能が訪れ、月がおれのものになる、そのときたぶんおれ自身も姿を変え、おれと一緒に世界も姿を変える。人はもう死ぬことはなく、幸福になるだろう。」

これらカリギュラの台詞を聞いたとき思い出したのが、荒木飛呂彦氏の漫画『ジョジョの奇妙な冒険 Part6 ストーンオーシャン』に登場する「天国」理論である。

(以下、『ストーンオーシャン』の重大なネタバレを含むため反転)

 

舞台は近未来のアメリカ、日系の19歳の少女空条徐倫(くうじょう・ジョリーン)は無実の罪によって投獄される。
それが自分を狙う陰謀の一環と気づいた徐倫の父・承太郎は徐倫を脱獄させようとするが、敵の罠に嵌り記憶と「スタンド」(『ジョジョ』世界で言う超能力のようなもの。『ストーンオーシャン』のメインキャラは全員スタンド使いである)を奪われ仮死状態に陥る。
徐倫は父を救うため獄中に留まり、仲間たちとともに謎の敵に立ち向かう――というのが『ストーンオーシャン』のあらすじである。

やがて敵の黒幕が刑務所の教戒師・プッチ神父で、彼の目的が承太郎の記憶を手がかりに「天国に行く」ことだと判明。物語は「天国」の実現を阻止しようとする徐倫たちとプッチの戦いに発展してゆくが、肝心の「天国」が何を指すのかはなおラストまで明かされない。
話が佳境に入る頃、「天国」の正体に先立って、プッチが「天国」を目指すきっかけとなった事件が回想の形で語られる。

プッチが敬虔な神学生だった時分、彼にはペルラという妹がいたが、ある時プッチはペルラの恋人・ウェザーが実は生き別れの双子の弟(ペルラにとっては兄)だと偶然知ってしまう。
ペルラに真相を知らせず傷つけずに二人を別れさせるためプッチは探偵を雇うが、この探偵の暴走によってウェザーは半死半生の重傷を負い、彼が死んだと思い込んだ(加えて性的暴行を受けたことを匂わせる描写がある)ペルラは絶望して崖から湖に身を投げてしまう。
妹のため良かれと思ってしたことが彼女を死に追いやった事実に打ちのめされたプッチは我が身と理不尽な運命を呪い、事件に前後して親しくなったディオという男と彼の語る「天国」理論に傾倒していったのだ。

この、妹の死とそれを機とする人一倍純粋だった青年の「変心」、そして近親相姦というモチーフは『カリギュラ』に通じるものがある。
カリギュラ-ドリュジラの場合と違い、プッチ自身が妹と関係を持ったわけではないが、ウェザーが単に「弟」ではなく「双子の弟」(二卵性なのであまり似ていないが)の設定なのは、二人が体質的に引かれあう(プッチがスタンド能力に目覚めた時ウェザーにもスタンドが発現する)ことの説明のためばかりでなく、ひょっとすればウェザーをプッチの分身のごとく描くことでプッチとペルラが精神的に近親相姦関係にあったことを匂わす意図があるのかもしれない。

それはともかく、この過去エピソードが描かれた時点で、「天国=ペルラが復活する、もしくは彼女の死が最初からなかったことになっている世界」と考えた読者は私自身を含め多かったらしい。
プッチはキリスト教徒であるから、『新約聖書』の「黙示録」(神の手になる世界の滅亡と、その後選ばれた人々が復活し神の統べる楽園で永遠の命を享受する様が預言されている)の世界を自ら地上に齎そうと考えたのかもしれない。そう思った。
しかしプッチの(そして荒木飛呂彦の)発想は、こんな想像を遥かに超えていた。

結局徐倫たちの奮戦虚しく、ついに「天国」は実現してしまう。
プッチの新しいスタンドの能力によって世界中の時間が異常に加速し、食べ物はたちまちに腐り金属は錆び付き、あらゆる無機物は劣化し崩壊する。やがて地球や宇宙さえその寿命を迎える。
そして世界は「二巡目」に入る。一度終焉を迎えた世界は再び振り出しに戻り、全く同じ歴史を繰り返す。一巡目に存在した人間は再び新しい世界で同じように人生を送る。唯一違っているのは人間の意識である。
彼らはおぼろげながら一巡目の記憶を留めている。彼らは自分がどのように生き、いつどのようにして死ぬのかを前もって知っている。ただし「知っている」だけでそれを変更することはできない。それがその人間の運命であるから。
例えば自分が事故に遭うとわかっていてそれを回避しようとしても、「細かい出来事は違っても運命は決して変えられない」。
あらかじめ自分がいつどのように死ぬのか災厄に遭うのかがわかっている、しかも逃げられないとは「天国」どころか生き地獄のように思えるが、プッチは言う。

「それこそ『幸福』であるッ! 独りではなく全員が未来を「覚悟」できるからだッ!「覚悟した者」「幸福」であるッ! 悪い出来事の未来も知る事は「絶望」と思うだろうが 逆だッ! 明日「死ぬ」とわかっていても「覚悟」があるから幸福なんだ! 「覚悟」「絶望」を吹き飛ばすからだッ! 人類はこれで変わるッ!」 

この「天国」の恐ろしさは、その実体―人が皆自分の未来を知る世界―そのものよりも、妹の死をきっかけにプッチが求めたものがこれである、という点にある。
ペルラが死んだ直後こそ「命を返してくれるならなんでもするぞ」と嘆いたものの、死んだものは生き返らないと思い切った後は、このような事態へ自分たちを導いた数々の出会いの意味、「人はなぜ出会うのか?」の答えこそが「この世の最強の力(パワー)であり真理にちがいない」と、人間同士を引き寄せる「引力」の謎を解明することを熱望するようになる。

妹を、そして弟を直接に苦しめた探偵に復讐するでもなく、神父志望でありながら神への信仰に精神の安寧とペルラの魂の平安を求めるでもない。
そして彼がディオの志を引き継ぎ目指した「天国」は、死者の復活や永遠の命を約束するものではなく、全人類に確実にやってくる死への覚悟を促すことを目的とするものだった。
思いがけぬ形での妹の死に苦しんだ彼が望んだのは、妹の復活でも彼女が死ぬ運命を変えることでもなく、それを「思いがけぬ」ものでなくする、前もって妹の死を知っておくことで自分の、そして死んでゆく妹のショックを軽減できるような世界だったのである。
(正確には二巡目の世界に来られるのは時間加速を生き延びた人間だけなので、それ以前に死んでいるペルラは二巡目の世界には存在していない。彼女に似た別人が同じような運命を生きて彼女の抜けた穴を埋めているはずである。だから「天国」の恩恵によって「ショックを軽減」される(かもしれない)のは「似た別人」であり、結局ペルラ本人は救われないままだ)

確かに「覚悟した者」は「幸福」になりうるのかもしれない。しかし覚悟できなかった者はどうなるのか。
どんな残酷な死が待っているとしてもそれを回避できない。回避の手段として自殺することもできない。いっそ錯乱することさえできない。この状況を「覚悟」できる者は一部の超人的精神の持ち主だけであろう。
しかしプッチは皆が「覚悟」できる事を前提に語っている。彼は大抵の人間が心弱い存在であることを理解していないし、弱くあることを認めていない。
「天国」は大多数の人間を幸福にするはずであり、そのためには「少しばかりの人間が犠牲になったからといって」大事の前の小事、そこで躊躇うのは「安っぽい感情」に過ぎないと考える。
これでも彼の行動はあくまで人々の幸福を願う博愛精神、全き善意に裏打ちされているのだ(彼は最期まで敬虔なクリスチャンでもあった。積極的に神への冒涜を行ったカリギュラと異なる点だ)。

そんな彼をウェザーは評する。「おまえは」「自分が『悪』だと気づいていない・・・もっともドス黒い『悪』だ・・・」。
真に恐ろしいのは「天国」それ自体より、それこそが幸福な世界と信じて全人類に押し売りする独善性、妹の死そのものより死による衝撃を回避する方が大事だと感じるプッチの精神性の方ではないだろうか。

(つづく)

 


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『カリギュラ』人物考(6)(注・ややネタバレしてます)

2009-05-25 02:23:23 | カリギュラ

ドリュジラ

カリギュラ最愛の妹にして愛人。その死によってカリギュラを「真理」に目覚めさせる。

結局作中人物のなかで、カリギュラに対して最大の影響力を振るったのは、人々の会話の中にしか登場しないこのドリュジラであろう。
繰り返し書くように、この戯曲においては「若さ」がそのまま周囲への影響力、人間関係の中で優位性に繋がっている。全キャラクターをその論理によって引き摺りまわし、物語全体を圧倒的存在感によって牽引しているカリギュラはその若さ、「子供」性にたびたび言及されているし、唯一そのカリギュラを一瞬でも「愛」に引き戻しかかったシピオンは、わざわざト書きで「若いシピオン」と言及される。
シピオンは登場人物の中でただ一人カリギュラより年下であり、彼がカリギュラにもたらす影響力の大きさはその点に由来していると考えられる。
そして「非」登場人物も加えるなら、シピオン以外でただ一人カリギュラより年下なのが、このドリュジラなのだ。

カミュがその創作ノートにはじめて『カリギュラ』のプロットを書き付けた時点では、ドリュジラは二幕の終わりまで生きていることになっていた。それをなぜ登場させないことにしたのかは不明だが、想像するに、ドリュジラにその影響力に見合うだけの個性を賦与しえなかったからではないか。

現行の戯曲において、ドリュジラはカリギュラとの関係性からしか語られない。物語の冒頭では彼女の死から三日しか経過していないにもかかわらず、皆が問題にしているのは彼女の死そのものではなく、そのためにカリギュラが失踪したという事実である。皇帝が行方不明となれば政治的に大問題ではあるが、それにしても、である。
最も政治的な視点から遠くにいそうなシピオンでさえ、ドリュジラの死の現場(少なくとも死んで間もないところ)に立ち会っていたというのに、そのときカリギュラがどれだけショックを受けたかしか語ろうとしない。
さらにはそのカリギュラも「あの死なら、なんでもない」「年老いたドリュジラは、死んだドリュジラよりも悪い」と彼女の死を、というより存在価値を貶めるような発言しかしない。ドリュジラ個人の死をまともに悼む者は誰一人出てこないのである。

そしてその人となりについても一切触れられていない。あえて言うなら、実兄と近親相姦のタブーを犯したという事実からして、性的に至って奔放な女性、あるいは兄の情熱に無理矢理押し切られて罪悪感に苦しんでいた気の弱い不幸な女性のどちらかだったろうと類推できるが。
カリギュラの変心の原因となったという意味では作品の要とも言えるキャラクターでありながら、ドリュジラについては本当に徹底して情報が伏せられているのだ。

それはおそらくドリュジラが作中で果たす役割の特殊性にあるのだろう。
カリギュラの変心はドリュジラの死を契機としてはいるが、彼女が死んだ事実そのものではなく「人は死ぬ。そして人は幸福ではない」という真理の発見が彼を変えた、という展開上、ドリュジラはカリギュラの回りの人間や読者が感情移入するような存在感・好感度をもっていてはむしろ邪魔になる。
けれどその一面でカリギュラが本当に彼女の死に無頓着だったのなら彼は残酷なこの世の真理に気づいたりはしなかったはずで、それだけカリギュラに愛されていた、というのが納得できるようなキャラでなければならない。
存在感があってはいけないし無くてもいけない。矛盾する二つのポイントを解決するための手段が、「ドリュジラを登場させず、どんな女性だったかは観客の想像に任せる」ことだったのではないか。

作品に一度も登場せぬまま全編に深い影を落とす彼女の存在は、カリギュラが求めつづける「月」の象徴と言ってよいだろう。概念のみで語られるごく曖昧な存在、それゆえに実像を捕まえようもない幻の月の。

 

 


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『カリギュラ』人物考(5)-4

2009-05-21 01:40:12 | カリギュラ
長谷川博己さんのケレア

長谷川さんのお名前と顔を初めて知ったのは、これも蜷川さんの演出による舞台『KITCHEN』。といっても実はいまだ未見なので(勝地くんが出演してるにもかかわらず)、長谷川さんの演技を見たのはこの『カリギュラ』が最初になります。
そのせいもあるのかもしれませんが、風貌から声からまさに戯曲のケレアのイメージにぴったりと重なりました。
見るからに学究肌でやや線の細い美男子なところ(ケレアにはとくに美形設定はないですが)、落ち着いた態度で自信に満ちた横柄なくらいの話し方をするのに、傲岸不遜というよりかえってどこかしら青臭さと可愛げを感じさせるところなど。

そしてこの可愛げと時として漂わせる中性的な(男性的とも女性的ともいえない)色気は原作よりも舞台のケレアの方がずっと強められていたように思います。
原作にはほとんどないスキンシップの場面が(主としてカリギュラを相手に)何箇所か挟まれているのがその理由でしょう。

原作でもカリギュラは貴族たちやシピオン、セゾニアに何かと触る場面が多いのですが、今回の舞台ではそのカリギュラをはじめ全体にスキンシップシーンがさらに多く盛り込まれている。
原作ではほとんど他人と肌を接触しないケレアでさえ印象的な「触れあい」場面が登場する。ケレア邸での食事の場面でカリギュラがケレアの肩に肘をつくシーン、エリコンがケレアの頬にキスして宣戦布告するシーン、ラストめった斬りにされたカリギュラが己の血をケレアの頬になすりつけるシーンなど。

これらはどれも彼はスキンシップを行う側ではなく受ける側ですが、唯一彼が自分から他人に触れるのが第四幕第一場のシピオンとのシーン。このときケレアは自分からシピオンの両肩をつかんでいる。
(5)-3で書いたように、戯曲を読んだときにはこのシーンでいきなりケレアがシピオンへの強い思い入れを示すのが何だか唐突に感じられ、そこからケレアがカリギュラにプライドを踏みにじられたその補いをシピオンに求めたのだろうとの印象を受けました。
しかし舞台のほうでは、この場面での長谷川ケレアの動作や熱さ、そして「あいつのせいできみはそうなった」と言うときの、痛ましげな、懸命に感情を抑制してるかのような表情を見ていると、彼のシピオンへの執着は自身のプライドを守ろうとする心理の屈折が生んだものではなく、純粋な愛情の賜物のように思えてきます。
それが原作にはなかったカリギュラ-ケレア-シピオン間に三角関係めいたエロティックなものを孕んだ緊張感をもたらしていました。

原作のケレアは共闘関係にある貴族たちとさえ心理的に距離を置いていて、他のメインキャラクターそれぞれの関係性がどこか色っぽい空気を持っているなかで、唯一孤高の、硬質な雰囲気を保ち続けている。
存在感は大きいが他者との交わりから醸し出される色気には乏しい―その「乾いた」ところが他と異なる彼の魅力でもある―人物という感触だったのですが、長谷川さんのケレアには対カリギュラ、対エリコン、対シピオンと、それぞれのケースにおいていい意味で色気が感じられました。
長谷川さんがケレアを演じたことで、作品全体にいっそうの艶が加わったように思います。

 


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『カリギュラ』人物考(5)-3(注・ネタバレしてます)

2009-05-17 00:36:17 | カリギュラ
そんなカリギュラの狙い通り、第四幕に入るなりケレアはシピオンにカリギュラへの強い憎しみを訴え、カリギュラ暗殺計画に加わるよう熱烈に呼びかけるわけだが、しかしここまでケレアのシピオンに対する思い入れが特に描かれていないだけに、「あいつはきみを絶望させた。(中略)これまでにあいつが犯した全ての罪を超える罪だ」とまで言い出すのには、どうも唐突さを覚える。
カリギュラがこれまでに行った多くの殺人・横領・密通よりも、シピオンの心を苦しめた罪のほうがより重いというのだから相当なものだ。
ここに至ってケレアが突然シピオンへの強い執着を見せるのは、すぐ前の場面でのカリギュラとの会話が効いているのだろう。タブレットの焼却をめぐってケレアの中にはカリギュラに対する憎しみが生まれたが、彼はその憎しみがカリギュラに二重三重に誇りを傷つけられたことに由来しているのを認めたくないのではないか。

第四幕第十三場でカリギュラは、「おれの暗殺者は、息子や父親をおれに殺された連中ではない。(中略)だが、ほかの連中、おれに馬鹿にされこけにされたやつらには、虚栄心がある。その虚栄心を相手に、おれには身を守る術がない。」と吐露している。
さらに少し後には「正しい言い方をすれば、おれに敵対しているのは愚かな連中だけではない。幸福になりたいと思っている者たちの、誠意と勇気も、おれに刃向かっている。」と続ける。
後者は明らかにケレアを意識して口にされた言葉だ。カリギュラと「心の底から話を」した時のケレアなら確かにこれに該当しただろう。

しかしこれまで「誠意と勇気」によってクーデター計画を進めてきたケレアは、問題の対話を機にカリギュラに憎しみを抱くようになってしまった。身内を殺されたからではなく自尊心を傷つけられたゆえに彼を憎むことで、ケレアは「馬鹿にされこけにされた」「愚かな連中」の仲間入りをしてしまった。すなわち彼が日頃低く見ている貴族たちと同レベルということになってしまうのだ。
彼は個人的な憎しみや卑しい恐怖のゆえでなく、もっと実存的な「理由のある恐怖」を抱くゆえにカリギュラの理念に立ち向かってきたはずなのに、ケレアの中に生まれた憎しみが彼自身を貶めてしまう。ゆえに彼はカリギュラ殺害を正当化するための理由付けをシピオンに求めたのではないか。

父親の仇と言う、カリギュラを憎むこの上なく正当な理由を持っていて、その清らかな心をカリギュラに傷つけられた若者。貴族たちにも、そして自分にもできないカリギュラに恐れ気なく自分の意見を述べることのできる唯一の人間。
ケレアはシピオンに「傷ついた虚栄心と卑しい恐怖心の群れのなかで、動機が純粋なのはきみとわたしだ」と言う。
自分の動機がすでに純粋とは言えなくなったのをケレアは知っている。残るのはシピオンだけだ。だから彼はシピオンをカリギュラ殺害の「尊敬できる保証人」、一挙のシンボルとして欲したのである。

そしてもう一つ、「愛」の問題がある。セゾニアはケレアに「一度でも人を愛せたことがあるの」と尋ねる。
ケレアはカリギュラとの対話の中で「愛する者たちの死を望むことがあります。家族や友情の掟が禁じている女を欲望することもあります」と自分の内にも暴力的な「愛」が存在することを告白しているが、あくまでそれは理性でやすやすと押さえ込める程度のものだ。
カリギュラや彼を愛したセゾニア、エリコン、シピオンのようなパセティックな情熱は確かにケレアには感じられない。彼は情熱―激しい憎しみや愛のゆえにカリギュラを殺そうとするのではなく、理性に照らしてカリギュラが有害だから取り除こうとした。

そうした彼の態度をエリコンは「あんたは誰に仕えているんだ。美徳にか?」「奴隷をさげすめばいい、ケレア!この奴隷はな、あんたの美徳より上にいる、というのはな、こいつはあの哀れなご主人を今も愛することができるからだ」と罵倒した。
ケレアの美徳―理性的判断よりも自分のカリギュラへの愛情の方が尊いとエリコンは言っている。実際どちらの価値が上かはともかく、理性よりは情熱の方がモチベーションを高めるのは確かだろう。
カリギュラを倒す動機に不純な憎しみが混じりこんできたとき、ケレアはその憎しみの根拠、カリギュラとの戦いのモチベーションを「愛するものを傷つけられたこと」に置くべく、「愛」の対象となるものを探したのではないか。
「ことが済んだら、きみたちのだれとも関わるつもりはない」ような貴族たちは論外である。カリギュラ側の人間ではなく、かつケレアが愛しうる人間はシピオンしかいなかった。もともと好意と尊敬の念は抱いていただろうから、それが必要に迫られて急激に深まった感じだろうか。
愛する者を傷つけられた、「わたしが逆上してあいつを殺すには、それで充分だ」。ここで改めてケレアはカリギュラを倒すための大義名分を手に入れた。
たとえシピオン本人がカリギュラを倒すことに協力しなくても、たとえ止めようとしても、「あいつのせいできみはそうなった。そのためにわたしはあいつが一層憎い」のだから、モチベーションには影響しない。旗頭に担げれば一番いいがそうならなくても問題はない。
ケレアはシピオンに肩入れすることで絶好の動機を手に入れたのである。

結局、シピオンは叛乱者たちの旗印となることなく一人旅立つが、彼がカリギュラの元を離れたとき―より正確にはカリギュラがシピオンを決定的に突き放したとき―ケレアは叛乱実行を決定する。
それは『カリギュラ』(2)で書いたようにシピオンとの別離をもって「カリギュラが天命を失った」と判断したためであり、同時に彼もまたシピオン同様に、カリギュラが己の死に向けて最終準備の段階に入ったことを悟ったためだろう。
今叛乱を起こすなら死にたがっているカリギュラはそれを阻止することはしない。叛乱は成功を約束されたも同然だ。しかしそれはカリギュラの自殺を手助けする、いわばカリギュラの介錯役を自ら買って出るに等しい。
ケレアは第三幕ラストの時点ですでにそれに気づき強い屈辱感を抱いているが、「シピオンのため」という名目によってそれを捻じ伏せ、正義の使者として雄雄しく暴君に立ち向かう。

しかしシピオンが去り際にカリギュラに対して「ぼくはあなたを愛しました」という一言を残していったことを読者(観客)は知っている。シピオンの心はカリギュラの側にある。
ケレア不在の場でなされたシピオン最後の告白によって、ケレアの大義名分は本人の知らぬうちに効力を失わされているのだ。

ラストシーン、ケレアたちはカリギュラのもとへ雪崩れ込み、よってたかってカリギュラをなぶり殺しにする。この場面は、「謀反人たちが入ってくる」とのト書きが示すようにカリギュラの目線で描かれている。
ケレアはカリギュラの顔面に切りつけているものの、一言の台詞もなく、彼が皆を先導している様子も描かれない。単なる「謀反人」の一人という扱いなのである。
激しく苦悩し、笑い、あえぎ、「歴史のなかに入るんだ、カリギュラ。歴史のなかに。」「おれはまだ生きている!」とわめくカリギュラの鮮烈さに比して、ケレアの影はどうにも薄い。

常識人の―自らそうあることを選択した―ケレアが紙一重の狂人であるカリギュラにインパクトで劣るのは当然であって本来恥ずべきことでもなんでもないのだが、平穏無事な生活を望んでいたはずのケレアが、この異常な時代にあって(言うなればカリギュラに触発されて)英雄たらんとしてしまった。しかし彼は結局狂気のヒーロー・カリギュラに対抗するには「まとも」でありすぎたのである。

暴君を倒しローマに平和を取り戻すという当初の予定を達成し、表面的には勝利を収めたものの英雄にはなりそこなった、他の貴族たちほどすれていない、カリギュラ的なものを内に持ちながら凡夫である――つまりは観客に一番近いところにいるキャラクター、それがケレアという男なのではないだろうか。

 


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『カリギュラ』人物考(5)-2(注・ネタバレしてます)

2009-05-13 02:06:14 | カリギュラ
第二幕第二場、クーデター決行にはやる貴族たちをケレアは諭す。言葉を荒げたり叫んだりする箇所は一度もないが、その論理的であるゆえにまだるっこしい長台詞にもかかわらず、言葉の内容には人々の心を打つだけの真摯な熱と危機感がある。
彼はカリギュラの暴政を「高尚で致命的な情念のため」と言い、彼の持つ理念を正しく察知したうえで、「わたしはそれと戦いたい。命を失うなど大したことではない。いざとなれば、その勇気はある。だが、命の意味がなくなり、われわれの存在理由が消えてしまう、そんな目に遭うのは、どうしても耐えがたい」「わたしは大きな理念と戦う。その理念が勝利すれば、この世は終わりだ」と語る。
作者であるカミュ自身がカリギュラの方法論に否定的である(「カリギュラ」の項の※8、※9を参照)ことを思えば、そのカリギュラに命を懸けて立ち向かおうとするケレアこそが、この作品の真のヒーローとして設定されていると見ることもできる。

ただそう言い切るのには躊躇いがある。というのは第三幕終わりのカリギュラとの「男同士の語らい」以降、ケレアはヒーローにはふさわしくない卑小な顔を見せ始めるからだ。
この「語らい」の中に、カリギュラがケレアたちのクーデター計画の証拠であるタブレットを、燃やして彼らを見逃してやる、という場面がある。この時ケレアは「なにか仕草をしかけ、理解したらしく、口をあけ、突然出てゆく」。
この時のケレアの心理は二通りの解釈が出来る。おそらくこの二つの解釈のどちらもが正解なのではないか。

一つは、カリギュラに情をかけられたと受け取り、長く敵と目してきた彼に助けられたことに強い敗北感を味わったという解釈である。
ただ憐れみを掛けられたからというだけではない。この時すでに証拠を押さえられたことを察して死を覚悟していたケレアは、思いがけず命拾いしたことに確かに安堵してしまったのだ。
人情として当然のことではあるが、敵に情をかけられて喜ぶなど英雄たらんとしたケレアの誇り、ヒロイズムが許さないだろう。
そんな彼の心理をよくわかったうえでカリギュラは「この証拠が消えるにつれ、無罪の夜明けがおまえの顔にひろがってゆく。清らかなすばらしい額をしているな、ケレア。じつに美しい、罪のない人間、じつに美しい!」とことさらに追い打ちをかける(「無罪の夜明け」が「顔にひろがってゆく」とはそれまでは死の覚悟に張り詰めていたケレアの表情に過ぎった安堵の緩みを意味するのだろう)。
一番見られたくない相手に自分の心弱さを見られた。しかもそれを言い立てられる。このうえない恥辱だったに違いない。

そしてもう一つは、これをカリギュラが自身を殺せと教唆していると受け取って驚いたという解釈である。
カリギュラ自身がケレアたちに殺されることを望んでいる(第二幕第十場でメレイアに「おまえは人々を煽動する革命家だ。立派だ。」「おまえは男らしく死ぬ。反抗したためにな」と言うのも、貴族たち、とくにその近くにいたケレアに向かって自分を倒すよう挑発しているように見える)とあっては、彼らの行おうとしていることは暴君を倒すための勇気ある戦いから自殺幇助へと貶められてしまう。
貴族たちに「きみたちの小さな屈辱に味方するわけではない。」と言ったケレアは「大きな理念と戦う」、崇高な目的のために命をかけることにこそ価値を見出していたはずだ。だからこの発見は彼の自尊心を甚だしく傷つけたに違いない。
しかしもちろん皇帝を野放しにしておくこともできない。彼は苦々しい思いを抱えながらも自身を殺そうとするカリギュラと共闘せざるを得ない。

ケレアはカリギュラとの語らいの中で彼の求めに応じて、激烈といっていいほどの容赦なさでカリギュラを「有害」「全員の厄介者」と断じたが、その極めて率直で堂々とした態度は、結局すでに皇帝暗殺未遂のかどで処刑されると思い極めていればこそのものだった。開き直り、と言ってもよい。計算抜きに正面からカリギュラに感情をぶつけるシピオンとは大きく違う点だ(※3)

これ以前も以後もケレアはカリギュラに意見したりセゾニアたちに対して彼に否定的な発言をしたりはしていない。
他の貴族たちのようにあからさまな阿りを口にはせず、むしろ一捻りした嫌味めいた表現の発言をしてはいるものの、所詮それは決定的な危険は冒さずに「傷ついた虚栄心と卑しい恐怖心の群れ」と自分は違うのだ、という自尊心を慰めるためのレトリックに過ぎない。いっそ精一杯阿諛追従してみせる貴族たちの方が潔いとも言える。
踊りのマイムを行ったカリギュラを冷ややかな態度ながらも「偉大な芸術だった」と評したケレアは、カリギュラがヴィーナスを演じた場にいたとしても、シピオンのように一人平伏せずあまつさえカリギュラを神を冒涜したと非難するような真似はできないだろう。

カリギュラもそうしたケレアの弱さ―それだけ理性的だということでもある―を抉るような発言をわざわざ繰り返す。ただ自分を殺させるために処罰しないというだけなら言わなくてもいいはずの言葉を。
上述の「無罪の夜明け」もそうだし、反乱の証拠を押さえられていてこそ率直だったケレアの態度を「おまえの素直さじたい、猫をかぶった素直さだった」と指摘するのもそう。自分を憎んでいないと言ったケレアの憎しみを煽り立てようとするかのように。
反乱計画を知りながら見逃してやったというだけでもケレアは屈辱を覚えるだろうし、それが憎しみに発展したかもしれないが、ことさら彼に憎まれようとしているように思える。その理由はなんだろうか。

カリギュラはケレアに言う。「頭の良さは、高くつくか、それともみずからを否認するか、そのどちらかだ。おれは代償を払う。おまえは、どうして、否認せず、しかも代償を払おうともしないんだ」。
世の不条理を正しく見抜いていながらその不条理を正すために戦おうとはせず、自分が発見した真理を見なかったことにして非論理的な俗世間に沈むこともしない。
代償を払えばカリギュラとなり、否認すれば貴族たちのようになる。そのどちらにも組せずに、両方を高みから見下ろしているようなケレアの理性的な顔を、カリギュラは崩したかったのではないか。

(つづく)

 

※3-桂川久「カミュの『カリギュラ』を読む-シピオンの父親殺し-」(『藝文研究』XXVI、京都大学フランス語学フランス文学研究会、1995年)。「 「僕はカイユスに真実を言うことに決めたんだ。」(66) この反抗は結果的に実効を持たないにせよ、つまりカリギュラの考えを改めさせるに至らないにせよ、本当のことが言えない貴族たちの臆病さと比べても、Ⅲ-6(引用者注・第三幕第六場)におけるケレアの「誠実さの芝居」(80)―ケレアは一見、率直大胆にもカリギュラに死を宣告する。しかし、陰謀の明白な証拠を握られていると知ったうえでのことなら、それは誠実な言葉とは言えず、新たな危険を冒すことにもならない。―と比べても著しい対照をなす」。 


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『カリギュラ』人物考(5)-1(注・ネタバレしてます)

2009-05-09 01:22:32 | カリギュラ

ケレア

登場当初からその論理性においてカリギュラに拮抗し、最後には反乱者たちの先頭に立ってカリギュラを倒すケレア。彼は『カリギュラ』のもう一人の主役と言える。

ケレアはカリギュラに言う。「この世で生きていこうと思うなら、この世を弁護するのが当然ではありませんか。」 
彼はシピオンとは別の意味で現状の世界を肯定する。
シピオンは目の前にあるものを素直に愛している。父の死によって世の中が絶望に染まったときも、彼の詩的感受性は身の回りにある美しいものを確実に掬いあげる。
この詩的感受性は本来カリギュラも持っているはずのものだが、彼は絶望の深さとシピオンよりも論理的にすぎたために、その感受性に背を向けてしまった(あるいはむしろ、負の方向にその感受性を育ててしまったというべきか)。

ケレアの場合、その行動は基本的に沈着冷静な損得勘定に基づいている。上の台詞はそれを端的に示しているだろう。
彼もカリギュラも論理的思考の持ち主であるが、カリギュラが「弁護など必要ない。(中略)この世はすこしも重要ではない」→「弁護する価値のないこの世で生きていこうとは思わない。よってこの世のルールを引っくり返して別の世界を作る」ととんでもないことを考える論理的ロマンティストなのに対してケレアは論理的リアリストであるといえる。
ケレアの場合の「論理的」というのはカリギュラのように絶対的に論理を突き詰めることではない。「安全と論理は両立しない」なら、安全の方を取る。
論理性を競うなら彼はカリギュラに負けているが、本人も言うとおり「論理的ではありません。けれども健康的」である。カリギュラのような論理原理主義が何の得になるというのだ。
彼は幸福であること、生きることを論理よりも優先した。論理的であることを絶対視せず、幸福や安全と天秤にかけてより重要と思えるほうを取る。合理性に即した行動を取れる点で彼は「論理的」であり、非合理に論理を追うカリギュラはその意味で逆説的ながら「非論理的」なのである。

この違いには二人の年齢が大きく影響しているだろう(この戯曲は、年齢がキャラクターの力関係に決定的な影響力を持っている)。
初期の設定にによればカリギュラは25~29歳(第四幕第十三場に「おれは二十九だ。たいした齢ではない」という台詞があるので、第一幕で26歳、第二幕以降は29歳ということになる)、ケレアは30歳とある。
ケレアの年が第一幕と第二幕以降のどちらを指してるのかはっきりしないが、とにかくカリギュラより少しだけ年上、というのが設定のミソである。
史実のケレアは大分年配の人物だったらしい(※1)(※2)のをわざわざこの年齢にもってきたのは、ケレアがカリギュラに精神的に近い、だけど少しだけ「すれている」というのを強く出したかったからだろう。

ケレアも理屈っぽい点ではカリギュラとどっちこっちなのだが、彼の方がわずかに大人な分(そしてなまじ巨大な権力などない分)、不可能は不可能と割り切っているのである。
カリギュラを倒したのちは「あらたに首尾一貫した世界のなかでふたたび平安を見出したい」。カリギュラにとっては我慢ならない不条理に満ちた世界を彼は「首尾一貫した世界」だと感じている。
もとより神にたてつこうなどと不可能な野心は抱かない彼にとっては、「神の不条理」は不条理ではないのだ。

公演パンフレットでケレア役の長谷川博己さんが、「個人的にはカリギュラに共感するかなあ。僕も10代のころ、いろいろなことを考え込んで抜け出せなくなってしまったことがありました。言ってみればケレアもカリギュラ的なものを持っているし」と述べているが、カリギュラの理屈をとことん通そうとする性格、世の不条理への怒りはいかにも自負心の強い若者の特性である。
おそらく「カリギュラ的なものを持っている」ケレアも通ってきた道だろう。だから彼にはカリギュラの心理がよくわかる。保身に汲々としている貴族たち(ケレアとしては本来なら付き合いたくない連中)よりは遥かにカリギュラの方を近しい存在と感じているだろう。
((2)で書いたように尊敬しているとはいいがたい。ケレアにとってはカリギュラは自分がとうに通過してきた場所で悩みもがいている子供である)

しかし心理がわかればこそカリギュラの論理の危険性も正しく理解できる。精神的に近しいゆえに彼はカリギュラを殺すのである。


(つづく)

※1-白井浩司『アルベール・カミュ その光と影』(講談社、1977年)。「史実の上でケレアは、カリグラの親衛隊の一指揮官でかなりの年配の者だったようだが、カリグラに最初に襲いかかるのは彼である。」

※2-塩野七生『ローマ人の物語Ⅶ 悪名高き皇帝たち』(新潮社、1998年)。「カリグラ殺害の首謀者であり、実際に手を下した二人のうちの一人であったカシウス・ケレアが、二十七年昔の紀元一四年当時にライン河を守るゲルマニア軍団で百人隊長を務めていたことは史実にもある。(中略)コネもない身で百人隊長にまで昇進するのは、普通十七歳から志願する兵士でも三十歳前後になってからである。ケレアも、紀元一四年当時に三十前後であったとすれば、紀元四一年には五十代の後半に入っていたことになる。」

 


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『カリギュラ』人物考(4)-5

2009-05-05 00:43:02 | カリギュラ

蜷川さんは戯曲の台詞をほとんど変えることをしない方なので、戯曲から読み取れる人物像と実際の舞台上の人物像は理屈からいけばそう違わないはずなんですが、私が戯曲を読み返しながらブログを書く中である程度把握したつもりのシピオン像((4)-1~3参照)と勝地くんの演じるシピオンには大分違いがあったように思います。

戯曲のシピオンの言動のいちいちには「無意識の媚態」とでも言うべきものがある気がする。
幼時から周囲の人間に愛されることを当たり前としてきたがために、自分のどんな発言・仕草が相手の気を引くのか無意識に察知していて、適宜それを振りまいて見せている。
――というより子供の頃と同じように振る舞い続ければそれが他人の意に叶うとみて、その「勝利の方程式」通りの行動を取り続けているような印象です。

このやり方は年を重ねてゆくほどに効力を失い、それに本人が気づかないことでグロテスクにすらなってゆきかねませんが、シピオンはまだ充分それが通用する若さと美しさを持っていて、それがために一種小悪魔的な魅力を放っている。
愛されることに慣れている人間は、他人が自分に好意を持つのを大前提に行動するために、その自信に満ちた態度がさらに他人を惹き付けることになる――そういう「愛されスキル」をシピオンは元々備えている。
これらは幼時からの習性であって意識的に相手に媚びているわけではないので、他人には純粋という印象を与え、それがまた愛される要因になる。一言で言えば得な性格というやつでしょうか。
こうした「愛される自信」に満ちた態度は周囲から蔑まれ虐げられるのが当たり前になっている(いた)ような人間、たとえばエリコンなどには時として鼻につくんじゃないかと思いますが、そうした人間でさえ鼻につきつつも結局そんなシピオンを愛し、彼を愛しか知らない無垢のままに置いておきたいと願ってしまう、それがシピオンというキャラクターなのだと思います。

そんな彼を初めて決定的に傷つけ、憎しみと言う感情を教えたのがカリギュラだった。それでも久しぶりに昔のような優しさを見せたカリギュラと詩を詠みあううちに、彼の心は憎しみから愛へと帰ってゆく。
他人から愛され、その愛を投げ返すのが常態だった彼の心は、本来憎しみには馴染まない。カリギュラやケレアと激しく言い合う場面でも、完全に相手を拒絶することはしない。
拒絶するような言葉と身振りのあとで、ちょっと相手の顔色を、自分の態度が相手にどんな印象を与えたかを窺うような目つきをしてみせる――それが戯曲のシピオンのイメージでした。

対して勝地くんのシピオンにはこの「媚態」をあまり感じなかったのです。
戯曲を読んでいると、カリギュラとの論戦の中の「ぼくをばかにしていますね、カイユス」という台詞は(4)-2でも書いたとおりどこか甘ったるい響きを帯びているし、カリギュラ殺しへの協力を求めたケレアに「正しい人間など、ぼくにはもうだれもいない!」と叫ぶ場面も、台詞を言ったあとに上目使いのすがるような視線をケレアに向けてそうなんですが、勝地くんのシピオンはもっと直球。敢然と怒り、敢然と否定する。
台詞の内容やト書きの指示は基本忠実に守られてるので甘さ皆無ではないんですが、戯曲から受けるイメージより大分凛とした男らしさを勝地シピオンは持っていたように思います。
「ぼくはカイユスに真実をいおうと決めたんです」の言葉どおり、毅然とした態度で言うべきことを言う。それによって相手にどう思われるかは別段重要ではない。自分の信じる道を行くのだという信念を感じます。

こうした勝地シピオンの性格は、「相手が先輩であっても、明らかに間違っていると思えば堂々と意見することを辞さない」勝地くん自身の気性が少なからず反映された結果でしょう。
また上述の「ぼくはカイユスに真実をいおうと決めたんです」の台詞をあえて笑顔で言ってみたら蜷川さんに速攻ダメ出しされたというエピソード(※1)からすれば、蜷川さん自身の求めるシピオン像も、態度のそこここに無意識の媚びを含んでいるような柔々した少年ではなく、もっと硬質な、それゆえの強さと脆さを兼ね備えた人物だったということなのかもしれません。

複数回観劇された方の感想を読むと、公演初期のシピオンはもっと儚げで女性的な印象だったのが、後半になるにつれ強さと男らしさを感じさせるように変化していったそう。初期のシピオンはもっと原作のイメージに近かったのかも。こちらバージョンのシピオンも見てみたかったなあ。

 

※1-シアターコクーン『カリギュラ』パンフレットより勝地涼インタビュー。「シピオンがカリギュラに「真実を言うと決めたんです」と言うシーンであえて笑顔で言ってみたら、蜷川さんから速攻ダメ出しをされて、あくまでシピオンは屈折しないで真っ直ぐに感情をぶつけていく人間なんだと思いました。」

 


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『カリギュラ』人物考(4)-4

2009-05-01 01:34:59 | カリギュラ

 

勝地涼くんのシピオン


正直私にとって、シピオンという人物はこの戯曲で一番理解しにくいキャラクターでした。
「理」のケレアに対する「感性」の人、純粋無垢といったイメージで語られることが多いシピオンですが、第三幕ではカリギュラに議論を仕掛けたりもするし、セゾニアやエリコンへの態度は小悪魔的とさえ見える。

勝地くんはこの戯曲について「これまで演じた作品の中でもとりわけ難解」と言ってましたが、なかでもシピオンはもっとも性格が見えにくい難役だと思うので、その心境を理解しようとした勝地くんの苦労がしのばれます。
公演パンフレットのインタビューでも「正直、僕には、シピオンが父親を殺されたにもかかわらず、カリギュラを愛し続けていることが不思議でならない。」と語っていますが、尊敬する人物は「父親」だという勝地くんだけに、シピオンの心理は想像を絶するものがあったろうと思います。

そしてこれは想像なんですが、おそらく彼はある時点でシピオンを「理解する」―彼の心境を理論的に解明する―ことを諦めたんじゃないでしょうか。
(2)でも書きましたが、シピオンはあまり物事を論理的に考えることをしない。もちろん馬鹿ではありませんが、自分を取り巻く世界をまず詩的感受性によって捉え、その場で湧きあがってくる感情のままに動く。
彼の行動原理がよくわからないのは、彼に論理的一貫性が乏しいゆえではないか。

前掲のインタビューの中で勝地くんは「台本を読んだだけでは分からなかった感情が、相手の演技から発見されることがあると思うんです」と述べています。
このインタビューには「感情」という言葉が多く登場する。勝地くんが自分のことを理屈っぽい性質だと評しているのを以前読みましたが、シピオンを演じるに当たって、彼は理屈でシピオンの人間像を捉えるのでなく、他者との関係の中で激しく揺れ動くシピオンのその時々の「感情」を素直に出してゆくことにしたんではないでしょうか。

あと興味深かったのは、上で引用した「~不思議でならない。」の少し後で、「たぶん、シピオンの頭の中には情緒的な音楽が流れているのかもしれません。」と続けていること。
シピオンは詩をメロディに乗せて歌う吟遊詩人とは違う。普通に節をつけることなく口ずさんだり、(作中にはシーンとして登場しませんが)文字で書き表したりしているはずなのに、勝地くんの中でシピオンは音楽と結びついているらしい。
おそらくそれは言葉というものが基本的に論理世界に属している(カリギュラやケレアの話し方に顕著です)のに対し、シピオンの言動がどうにも非論理的な、感性まかせのものであるゆえに、彼の詩心を表すのに言葉なしでも成立する芸術―音楽を連想したためじゃないでしょうか。
(2)の※5が指摘するこの戯曲の「言葉」(発話・書字両方)への忌避を考えると、シピオンの人間性を表すのに音楽を持ち出した勝地くんの感性の鋭さを感じます。自ら音痴をもって任じる勝地くんだけにちょっと意外な気もしますが(笑)。

これに続けて、
「『シブヤから遠く離れて』で初めて蜷川さんの舞台に出演させていただいたころ、よく聴いていた音楽があるんですが、この間久しぶりに聴いてみたんです。シピオンを演じるには真っ直ぐで純粋な気持ちが必要だと思って。」
とあるのには、以前映画『吉祥天女』の頃のインタビュー(『CREA』2007年7月号)で、
「自分がイケてないときは、以前出た舞台『シブヤから遠く離れて』の台本を引っ張り出します。あのときは計算せずに自然にやれた。冷や汗をかきながらも自分のすべてを使ってどうにかしようとしたから。野生ですよ。その感覚を思い出したくて。」
と話していたのを思い出しました。勝地くんにとって17歳当時の初舞台作品がどれほど大きな影響力をもっているのかがうかがえます。

(つづく)


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