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俳優・勝地涼くんのこと。

『幸福な食卓』(3)-2(注・ネタバレしてます)

2008-05-17 01:13:59 | 幸福な食卓

対して映画『幸福な食卓』を見た場合、たとえば父さんが受験に失敗した直後の夕食の席で直ちゃんが「人間には役割ってあるよね。我が家はそれをみんな放棄してるんだよな。」と呟く場面がある。
原作でも直ちゃんはこれと似た台詞を口にしているし、そのきっかけがヨシコに「フラれた」ことなのも映画と共通しているが、急に家庭内での役割を重んじ始めた結果佐和子に「(呼び方を「直ちゃん」でなく)お兄ちゃん、もしくは兄貴に変更すべきだ」などと要求したりした直ちゃんは、ヨシコとよりが戻るなり「気持ち悪いなあ。そういう不似合いな呼び方するのやめてくれる?」と態度を一変させる。
つまり「人間には役割・・・」は原作では恋の悩みで半ノイローゼに陥った直ちゃんの一過性の世迷言に過ぎないのだが(その台詞に対する佐和子の反応も「別にこれでいいんじゃないの?母さんも一人暮らしを楽しんでるし、父さんだってバイトだけど、ちゃんと仕事してるんだし・・・・・・。誰も困ってないよ」である)、それを映画は中原家の「崩壊した」現状を表すものとして扱っている。
この一点だけを取っても、家庭内での役割-しかるべき家族の枠組みに対する原作と映画のスタンスの違いを見ることができる。

(そういえばプロのライターによる映画評で直ちゃんをニートと誤認しているものを見かけた。日中家にいるシーンが多いので誤解するのもわかる気はするが、「家族の崩壊がテーマ」とも書いていたので、ニートの方が農業従事者より以上に現代の「崩壊家庭」にふさわしいという認識が無意識に直ちゃんの職業をすりかえさせたのかもしれない)

また、映画で追加・改変されたエピソードや設定は多分に中高年好みであるように思える。
佐和子が大浦くんに語る「携帯なんかなくても、話したいことがあれば会って話せばいい」という主張や佐和子の発言には「けど」が多いというツッコミ(物事を曖昧に濁したがる現代人らしい喋り方へのやや否定的言及)は新聞の投書欄にでも載っていそうだし、一見自堕落そうなヨシコは、脱いだ靴の先をドア側に向けて揃えたり平飼い鶏の卵をわざわざ購入したりする存外「きちんとした女性」であることが示されている。

一方、削除されたエピソードを見ると、たとえば大浦くんが亡くなって少し経った頃に、佐和子が彼女を励まそうとした友人たちに連れ出される場面がある。
ここで佐和子は無理にカラオケで歌い無理に笑いながら「マキコも智恵もたぶん親友だけど、正直に不機嫌な態度をとって許されるほど、深くない。」と淡白な友人関係を表明するのだが、映画ではここのくだりは完全にカット。
さほど重要度の高いエピソードじゃないので尺の関係で切ったのだろうが、佐和子の現代っ子らしい一面を描くのを避けようとした部分もあるのではないか。

パンフレットのインタビューで脚本の長谷川さんが「この年代の少女が主人公の映画を、五十を挟んだジジイたちが作っていいのか?って(笑)。」と書いてらっしゃるが、まさにこの中高年男性の感性-保守性が、執筆当時30歳になるかどうかだった若い女性の手になる原作との相違を生んだのではないか(『卵の緒』あとがきにある瀬尾さんの生育史と先輩夫婦との関係も大いに影響しているだろう)。

そして映画版についてのレビューを見ると、これら映画独自の解釈こそが観客に大きな感動を与えたようなのである。
携帯に関する佐和子の見識に快哉を叫んでいるブログも見かけたし、私自身、鑑賞中最も心を揺すぶられたのはラストで母さんがお皿を並べる、まさにそのシーンだった。

そしてほとんどの感想が「家族がそろって食卓を囲むことの大切さ」「佐和子と大浦くんのプラトニックな初恋」を取り上げている。
この両方ともが近年では珍しくなりつつあるもの。大人しいけれど芯の強い礼儀正しい佐和子も、見た目も性格も柔弱さを微塵も感じさせない男らしく気のよい大浦くんのどちらも、今時の少年少女らしくない。
そんな二人の今時らしからぬ初々しい純愛、常に手作りの料理が並ぶ家族全員が揃う食卓・・・。

以前私はこの映画を「日本的情緒が詰まった」作品と評したのだが(こちら参照)、映画『幸福な食卓』の魅力とは要は「古き良き時代」への郷愁だったのではないか。
対する原作はむしろ木村氏が指摘するような「「ちょうど良い温度」をもって広がる関係性」」「心地よい関係」――「近代家族」モデルが上手く機能しなくなった現代に見合った、「新しい時代」の家族像を描いている。

こう考えていくと『幸福な食卓』もまた「映画化にあたって原作とは全く別物のようになってしま」った作品なのだが、それをマイナスに評価する気持ちは不思議と起こらない。
雰囲気もキャラクターも、基本テーマの違いにもかかわらず原作のイメージを損なっていないこと、スタッフが非常な情熱と信念をもって、細部まで丁寧に作り上げた作品なのが随所から伝わってくるゆえだろう。
そしてリアルな存在感を持ってスクリーンの中で動いていた登場人物たち。
およそあらゆる要素において、原作の「ほっこり」に加えて凛としたものを感じさせる映画版は、原作とは別のベクトルを持った、甲乙付け難い名品になっているのではないだろうか。


※木村浩則『「完全な家族」から「つながりの家族」へ―『幸福な食卓』にみる家族のかたち―』(『教育』2007年6月号掲載)

 


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『幸福な食卓』(3)-1(注・ネタバレしてます)

2008-05-14 01:47:28 | 幸福な食卓

映像化にあたって原作とは全く別物のようになってしまう作品も多い中、瀬尾まいこさんの原作が持つほっこりした雰囲気を驚くほどに再現してみせた映画『幸福な食卓』。
パンフレットのインタビューで脚本の長谷川康夫さんが「この作品の持っている空気感のようなものを、映画で伝えるのはそう簡単じゃないと思いました」と語ってらしたが、それを見事になしとげていた。
実はかなりのエピソードを追加・改変しているにもかかわらず、それをほとんど感じさせない。原作ファンも多くがこの出来栄えに満足したんじゃないだろうか。 

ただ最近になって熊本大学の木村浩則助教授(2007年4月時点)が『幸福な食卓』について書かれた論文を読み、映画は原作とは全く反対のメッセージを打ち出していることに気づかされた。 
木村氏は、映画ではラストで母さんが家に帰ってくる(原作では母さんはアパートで一人暮らしを続行している)こと、母さんが「うちの家庭って崩壊しているのかな?」という佐和子の問いに「どうして?恐ろしく良い家庭だと思うけど」と答える場面などを取り上げて、

「結末の母親の行動において、このような決定的な違いが生まれたのはなぜだろうか。それはこの作品のテーマにかかわる問題の認識において、原作者と映画制作者の間に大きな隔たりがあったためではないか。」
「瀬尾は、必ずしもこの作品を「家族の崩壊と再生の物語」とは位置づけてはいない。では、映画制作者たちが、そう考えたのはなぜか。それは彼らの理想的な家族像が、「近代家族」という枠組みから今だ抜け出せていないからではないか。それゆえに、家族の「再生」とは、解体した家族が元のさやに納まることでなければならないのである。」

と指摘する。こう書くとわかるように、この論文は原作のテーマを〈捉えそこなった〉映画版にはあまり好意的でないのだが、それをあえて紹介することにしたのは、ここで語られていることが映画独自の魅力を探るうえで(同時に映画とは異なる原作の魅力を知るうえでも)有効だと思えるからである。 

引用文に登場する「近代家族」とは「働く父と専業主婦の母、その両親のもとで育つ子どもからなる」と定義されている。父さんが「事件」を起こす前の中原家はまさにこの「近代家族」の形であった。
それが父さんの自殺未遂によって母さんは家を出て、兄の直ちゃんは優等生をやめて農業に従事し、さらに数年を経て父さんは「父さん」をやめてしまう。
これは確かに「近代家族」という枠組みの崩壊ではあるが、「心がつながっていれば家族」という視点に立てば、「家族」としては崩壊していない。
母さんが別居を続けた状態で終わる原作は、この変てこな家族の在り様も家族の一形態として認めている。

思えば瀬尾さんの作品にはちょっと変わった家族や愛情関係が多く登場する。論文中で取り上げられている『卵の緒』『7’s blood』の母子・姉弟のほかにも、女教師と男子生徒の師弟愛というには近しい(ただし恋愛感情とも違う)関係、とりたてて愛もないのに他の女から略奪した男との同棲生活、不倫相手の娘との交流・・・。
これらの一風変わった「つながり」が暖かな目線で描き出されている。瀬尾作品の「ほっこりした雰囲気」はこの、さまざまな形での人と人との繋がりを、社会通念に捉われず肯定していることに由来しているのではないか。

(つづく)

※木村浩則『「完全な家族」から「つながりの家族」へ―『幸福な食卓』にみる家族のかたち―』(『教育』2007年6月号掲載)


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『幸福な食卓』(2)-5(注・ネタバレしてます)

2008-05-11 02:44:01 | 幸福な食卓
・終業式の日、新聞配達のバイトについて打ち明ける大浦くん。
「(マックとかのポップなバイトより)こういうの中原は好きだからさ」「そうなんだ」に笑った。人の性格を決め付ける大浦くんにも、それに押し切られて納得しちゃってる佐和子にも。
彼のこういう言い方が押し付けがましくならないのは、彼の態度に佐和子を好きな気持ちが溢れているのと、佐和子の方もそういう大浦くんを好き―そして彼の目に映る自分を好き―なのがはっきりしてるからですね。

・「俺たち絶対長生きするからな。あと80回は(クリスマスが)できるかもな。」 
80年後、つまり一生佐和子と一緒にいるのを大前提にした発言に、彼の単純な愛情深さを感じます。
そして「長生き」発言は原作を知ってる人には悲しすぎる。知らない人でも、二人の未来をあまりに無邪気に信じてる彼の姿に何か悪い予感みたいなものを感じたんじゃないでしょうか。二人がまともに会話するのはこれが最後になってしまうんですね・・・。

・佐和子が忘れ物を取りに戻る間に電車のドアが閉まり別れ別れになる二人。これまた不吉なものを感じさせる展開。
何事か口パクで佐和子に訴える大浦くん。メイキングによれば「切磋琢磨、臥薪嘗胆」だそう。なぜこの場面でこの台詞?とも思いますが、二人の思い出の場所である塾に繋がる言葉だからでしょうか。
この場面、大浦くんは頭を掻きつつ一生懸命口を動かし、にっと全開の笑顔を見せるのですが、その仕草も表情も本当に15、6歳の少年のよう。
勝地くん本人は顔立ちは結構幼いにもかかわらず、どちらかと言えば年より落ち着いて見える方なので(実際、22、3歳になっても高校生役を演じる俳優さんが多い中、実年齢より上の役を演じることの方が多い気がする)、この無邪気さ・幼さはもっぱら演技力によるものなのですよね。すごいものだ。

・朝も暗いうちから起きだして大浦くんを待つ佐和子。窓の曇りを手で拭う仕草も健気。
そこまでしながら声をかけるでもなく、新聞を配って走り去ってゆく大浦くんを黙って見守るだけ。何ていじらしい。

・母さんと一緒に毛糸を買い物。何の説明もないが大浦くんに何か編むつもりだということ、自分も毛糸の袋を手にする母さんも誰か(まず間違いなく父さん)に何か編むんだろうとわかる。
この作品、一切の台詞なくシンプルな画面の連続だけで状況からキャラクターの心情までを伝える手法が実に巧みです。

・直ちゃんのいない時間を狙ってやってきたというヨシコ。そういや彼女は何をしてる人なんだろう。日中自由が利くあたりや雰囲気からして大学生だろうか。お中元・お歳暮の余り物を大量に持ってきたところからすると実家住まいのようですが。

・自画像をプレゼントすると決めたヨシコ。手製の品という点ではシュークリームやマフラーも変わらないんですが、これは引くよなあ。つくづく普通な贈り物をしない人だ(シュークリームは殻さえ入ってなければまともなのだが)。
まあ恋人に我が家の鶏を絞めてプレゼントしようとする直ちゃんも相当変わっているので、ある意味似たもの同士。だから案外上手くいってるのかな。

・プレゼントを包みながら明日を思う佐和子。この後の展開を思うと・・・。この頃母さんもマフラーらしきものを編んでいますが、翌日までに完成しそうに見えないなあ。

・楽しげに明日のことを語る佐和子の姿に父さんは「子供はいいなあ。次の日が楽しみになるなんて大人になるとそうそうないからな」と言う。
実際には佐和子の「明日」はとんでもないことになってしまったわけですが、父さんのこの言葉は、深く傷ついてもやがては立ち直ってゆけるだろう佐和子の、若者の精神の復元力・逞しさを予言するものでもあります。

・クリスマスの朝、今まで無言で見守るだけだった佐和子ははじめて「大浦くん」と声をかける。大浦くんの方も「おう!」と返事を。最後にわずかなりとも言葉を交わせたのがせめてもの慰めです。
自転車で遠ざかっていく大浦くんの後ろ姿をやけに長々と映すのに、このまま彼がどこか遠くへ行ってしまいそうな不吉な感じを匂わせています。夜明けの町の薄暗さもその不吉感をなお強めている。

・説明は一切抜きのままお通夜のシーンに。父さんの自殺未遂に続き、悲劇はまた雨の日に起きる。
生徒たちの断片的な会話と佐和子の暗い表情で「まさか、まさか」と思わせておいて、遺影でとどめを差す。この遺影の表情がまた・・・。そんないい顔で笑わないでくれぇ。何度も映さないでくれぇ・・・。

・焼香の順番が来ても無表情のまま動かない佐和子。回りが不審がる中すっと身体が傾いたのに、一瞬そのまま倒れるのかと思いました。
その代わりに後ろに向かって走る(逃げ出す)ところへ、大浦くんの声を聞いた気がして振り向くけれど、そこには遺影の彼が笑っているだけ・・・。
原作では正体なく泣き崩れるシーンですが、一滴の涙も見せずどこか力の抜けた表情で遺影を見つめるばかりの映画の方に、目の前の現実を受け入れられない佐和子の深い悲しみをより強く感じました。
メイキングのインタビューによると、このシーン本来は原作通り号泣するはずがきいちゃんが上手く泣けなかったので現行の形になったそう。でも父さん役の羽場さんは「あえて悲しみの描写を抑えて、後になって初めて一筋の涙を流す表現が実に良い」(概要)とかえってこの演出効果を高評価してました。私も羽場さんに同意です。

・ベッドに制服で突っ伏したまま朝を迎えた佐和子。お通夜から帰ってそのままベッドに倒れこんだのでしょう。カーテンを少し開けて下を覗いてみても、もうそこに大浦くんはいない・・・。
ここで初めて佐和子は一筋の涙を見せるのですが、その涙以上に、再びベッドに突っ伏して枕に顔を埋める動作の方に、何をする気力もわいてこないほどの大きな喪失感を感じました。

・ベッドに仰向けに横たわる佐和子の姿から暗転する数秒のシーンが入る。
ストーリーの動きにも心理描写にも何ら関係のないカットですが、このカットが挿入されたことで、それから(無気力のままに)数日が過ぎたという時間経過を自然と観客に感じ取れるようにしている。こうした間の取り方もシンプルだけど(ゆえに)巧みです。

・鳥のさえずる声・朝の光とともに目覚め身体を起こす佐和子。いかにも爽やかな朝の情景が、対比的に傷ついた佐和子の姿を強調する。
同時に、そうした周囲の明るさが、起き出せる程度に立ち直りつつある、いずれは健康に復するだろう佐和子の心の状態を象徴しているように思います。

・佐和子が階段を降りてきても食卓についても、直ちゃんは本を読み続け、父さんも黙っている。話をするのはもっぱら母さん。
男性陣が傷ついた年頃の娘にどう声をかけてよいかわからずにいるこんな場合、力を発揮するのはやはり女親ですね。母さんもそう思えばこそやってきたのでしょうし。
もしかしたらこれまでの数日も毎日、佐和子が起きて来るときに備えて顔を出していたのかもしれません。

・「死にたい人が死ななくて、死にたくない人が死んじゃうなんておかしいよ。」 
いつも「いい子」だった佐和子のひどい暴言。口調は静かですが、それだけに素直な心情の吐露という感じで、なまじ責める口調よりも相手を傷つけるかも。
でも沈黙のあとに「ごめんなさい」と謝るところはやはり佐和子ですね。「変だよ。おかしいよ」と何度も繰り返すのも、彼女の抑えきれない苦しみを感じさせました。

・佐和子の暴言を誰も責めることなく、ややあって直ちゃんが「そんなこと言うほど、傷ついてんだよな」と彼女を思いやる発言をする。それもどこか泣き出しそうなトーンの声で。
家族だからこそ何も言わずに許してくれる。彼女の傷に同調して痛みを共有してくれる。そんな皆の心に触れて初めて佐和子は静かながらもしゃくりあげて泣く。
ここで感情の捌け口を見つけたことで、彼女は少しずつ再生に向かってゆきます。

・佐和子が一人部屋で膝を抱えているころ、母さんは神社にお参りをし、塾で講義中の父さんは物思わしげな表情をし(後の展開からすれば、佐和子のためにも受験を諦めて塾に就職する決意を固めてたんだろう)、直ちゃんはヨシコを「いきなり」呼び出す(これも少し後の展開を思えば、佐和子を励ましてくれるよう頼むためだったと推測されます)。
ここの場面、バックに映画のメインテーマ(?)が流れています。静かだけれど長調の穏やかなメロディーは今だ苦しんでいる佐和子の姿には不似合いなようですが、彼女が遠からず立ち直ること、彼女を支えようとする家族の現在進行形の行動の温かさを示しているものでしょう。
以前にもこの曲に合わせて家族がそれぞれ別の事をしている(直ちゃんはギターを弾き、佐和子と父さんはそれぞれに受験勉強をし、母さんは洗濯物を干している)場面がありましたが、その時はみな自由に自分のことをしていたのに対し、今回は全員が佐和子のための行動を取っているという形で、ちょうど表現を対にしてあります。

・ヨシコに佐和子を励ましてくれるよう頼んでいる(とおぼしき)直ちゃん。以前佐和子が直ちゃんに言ったように、「他人じゃないと救えないものがある」と思ったからですね。
それはヨシコの存在が自分にとっての「救世主」だったから、佐和子にとってもそうなれるだろう、という直ちゃんのヨシコに対する無条件の信頼を思わせます。

・食器を片付け、洗濯物を干しに出る佐和子。日常の雑事を普通にこなしている姿に、彼女が生活力を取り戻しているのがわかります。
そしてあんな暴言を吐いたのに、父さんと特にわだかまりもなく会話している。何の変哲もない、いつもと変わらず彼女を受け止めてくれる家族と家庭生活のあり方が、自然と佐和子を癒していったのですね。

・鶏小屋のガブリエルに「あんた、まだいたんだ」と佐和子は声をかける。
父さんの出勤時間を訝しんだこともですが、回りの物事に少しずつ目が向いてきている。彼女の回復を改めて思わせるシーン。

・佐和子を大浦くんのお母さんが訪ねてくる。原作にあるような憔悴した感じはしないが、その暖かな眼差しには大浦くんへの愛情が感じられる。
「よかった。あなたのようなお嬢さんで」という発言からすると原作と違い二人は初対面らしい。二度クラクションとともに(クラクションのみで)、佐和子と大浦くんの間に水を差すような形で登場してきた、姿を見せないまま恋の邪魔者的緊迫感を纏っていたお母さんと初めて、それも二人きりで対峙する。
大浦くんのバイトが佐和子にプレゼントを買うためだったことを思えば、お母さんとしては佐和子を逆恨みしたくなってもおかしくないところですが、お母さんはたえず穏やかに佐和子に対する。大浦くんの存在がなくなったことで、顔を合わせる以前に争いの種が消えてしまい、同じ人間を愛する者同士の共感が残ったというところでしょうか。
穿ちすぎかもしれませんが、あえて深読みした方が味わいが増すシーンかと思えたので。

・佐和子に「よかった。あなたのようなお嬢さんで。」 一瞬俯いてから涙をこらえるようにしてお母さんは言う。
ごく素朴な可愛らしさを持ち礼儀正しい佐和子は、「息子の彼女」としてはもっとも望ましいタイプだと思うので、説得力のある発言です。

・「人は時々いつもと違うことをする」で始まる佐和子のナレーション。
一人称小説を原作にしながら、この映画はごく序盤の一部分以外ナレーションを一切使ってこなかった。それがここでもう一箇所だけナレーションを用いたのは、それだけここの場面への製作側(脚本家?)の思い入れが強かったんでしょうね。

・今は亡き大浦くんの姿が、口語文体の手紙と勝地くんの台詞を通してリアルに蘇る。懐かしい「切磋琢磨」の文字も。
パンフレットの勝地くんインタビューによると、「手紙を読むシーンは、暗くなりすぎても明るくなりすぎてもいけなかったので難しかったです」とのことで、この場面の台詞回しは、大浦くんらしくも(結果的に最後の手紙になったという内容柄)軽すぎないようにと大分試行錯誤したのだそうです。

・学力の違いから二人が同じ大学に進むのは絶対無理だと確信している大浦くん。「女の子の方が頭がいいカップル」というのは佐和子の両親と同じパターン。
母さんがそうしたように佐和子が大浦くんのレベルに合わせた大学に一緒に進むというのもありだと思うんですが、それは大浦くん的には佐和子の可能性を潰すみたいで嫌なのかな。

・OLに言い寄られるとか上司に惚れられるとかの不吉な?未来予想をつらつら綴った手紙。勝手な想像をどんどん膨らませてゆくあたりの暴走っぷりがその内容もあいまって実に大浦くんらしくて、その予想が決して現実にはなりえない今となっては、微笑ましいだけにより切ない。

・自宅の机で手紙を書く大浦くんの映像。文章に困って頭を掻く仕草やその時の表情が本当に高一の、天真爛漫な少年そのもの。
勝地くんの出演作品は何本も見ていますが、どの作品でも初めて見る表情に出会う。勝地涼自身のものではない、他の役のものとも違う、そのキャラクターに固有の表情。彼がその時々で、演じる役の人間性を体現していればこそですね。

・大浦くんボイスが途切れたところで手紙のアップ。これを見ると音声は手紙の内容を適宜要約したもののよう。文末のサインが「大浦」だけなのが、転校当時の、下の名前を嫌がっていたのを思い出させる。
結局大浦くんは直接佐和子を名前で呼ぶことは出来ませんでしたね。

・手紙を読み終えた佐和子はマフラーを取り出して首に巻きつける。大浦くんの最後の文章に触れ、最後のプレゼントに触れながら、彼女は泣くのではなく微笑んでいる。「おう」と彼の口真似をするときのような柔らかな表情で。
この時彼女の心を占めているのは悲しみよりも彼への愛おしさ。この笑顔が、彼女はもう大丈夫なのだと、大浦くんのことを辛い記憶でなく美しい思い出に変えてゆけるのだと予感させてくれます。

・玄関の鍵が開いてたとはいえ、チャイムも鳴らさずに勝手に入ってくるヨシコ。このあたりの不躾さは大浦くんのお母さんの訪問とは対照的。勝手に佐和子のマフラーを取り出して首に巻いてしまうのも。
こうした傍若無人ぽく見えるヨシコだからこそ、荒療治的なあの台詞がいえるんですが。

・「家族は作るのは大変だけど、その代わりめったになくならないからさ」と語るヨシコ。
確かに中原家は父さんの自殺未遂をきっかけに傍目には崩壊とも見える様相を呈しながらも、家族がちゃんと互いを思いやり繋がっている。父さんが父さんをやめたのも、母さんが家を出て通常の形での母親の立場を放棄したのも、ある意味家族の絆を信じて子供たちに「甘えた」結果なのでしょう。だから今度は佐和子が甘える番。
こうした家族の形を見据えているヨシコ自身はどんな家庭に育った人なんでしょうね。

・ヨシコのシュークリームを食べる佐和子。久しぶりに物を食べている場面がここで登場する。
生きることに直結する食べるという行為、シュー生地のほっこりした形と生命の源である卵が材料に使われていること、カスタードクリームの暖かい黄色と甘さ。シュークリームという食べ物の全てが生きる活力を暗示しているように思います。
そしてこの夜の中原家の献立は鍋。家庭(集団で食べる)料理の代表ともいえる鍋物がこの日のメニューなのに、家族の歯車がまたちゃんと回り始めたのが象徴されている。母さんはまだ不在のままですが。

・父さんに生きててくれてよかったと思いを伝える佐和子。他人を思いやれるいつもの佐和子の完全復活。
同時に長らく「あのこと」にはっきり触れずに来ただろう中原家の中で、4年前に佐和子が伝えられなかった言葉をちゃんと伝えられた瞬間でもあるのでは。

・「何だかヨシコさんに迷惑かけちゃった。」 初めて佐和子が「小林ヨシコ」でなく「ヨシコさん」と呼ぶ。彼女がはっきりヨシコを兄の彼女として認めたのがわかります。
佐和子のおかげでこれまで命拾いしてたガブリエルですが、いよいよローストチキンの運命は目前でしょうか・・・。

・直ちゃんは机の引き出しから遺書を取り出し、ヨシコの自画像に目をやったのち破り捨てる。
これまでのいい加減な処世術を捨てる、ヨシコとも真剣に恋愛していこうという意志が、細かく何度も遺書を破く動作に表れています。

・大浦くんの霊前に手を合わせる佐和子。お通夜の席では受け入れられなかった大浦くんの死をきっちり形にして受け入れた瞬間。
制服を着ているので新学期が始まってからの出来事ですね。中三一学期の始業式の朝から始まった物語が、始業式かはわかりませんが高一三学期の始めで終わるのが、実に綺麗な幕の引き方です。

・佐和子の編んだマフラーを取り出して、「あの子すごく喜ぶと思うわ」と笑顔ながらもしみじみと呟くお母さん。
ヨシコの言うように、恋人はまた作れるけど家族はそうはいかない。若さゆえの回復力もあって次第に立ち直りつつある佐和子以上に、息子を亡くしたお母さんのダメージはより深く長く続いてゆくのかもしれません。

・弟の寛太郎登場。クワガタ柄のセーターはこんな場面なのに笑わせてくれます。「弟はクワガタのことだけ」という大浦くん発言がこんなところで生きてきました。
この寛太郎くん、眉のあたりとか少しお兄ちゃんに似ているかも。

・大浦家を出た佐和子はガレージの隅に思い出の電動自転車を見つけて足を止める。今は乗り手を失ったあの自転車も、いずれ弟くんが乗ってくれるでしょうか。

・わざわざ佐和子を追いかけてきて「だいじょうぶ、僕、大きくなるから」と宣言する寛太郎。
相手が若くて可愛いお姉さんだけに、にこりともしない(できない)愛想のなさは思春期初めの少年らしいですが、マフラーが大きすぎるかと気にしていた佐和子をフォローしにやってくるあたりの気遣いはさすが大浦くんの弟です。
そしてもう年を取ることのない兄と違い寛太郎は生きて成長しつづけてゆくこと、佐和子が「家族になりそこねた」大浦家も佐和子自身も、ゆっくりと時の流れとともに大浦くんの死を乗り越えてゆくだろうことが、彼の発言に凝縮されています(寛太郎自身にそういう意図はないでしょうが)。
この場面、寛太郎が坂道の上側に立っているため佐和子より背が高く見えるのも効いている。大浦家を坂の上の設定にしたのは、このシーンのためもあったのかも。

・大浦くんとホームで別れたときのことを思い出す佐和子は、それでも一瞬のちには笑顔に戻る。彼との思い出を幸せな記憶に変えてゆけた証。

・佐和子は寛太郎に「切磋琢磨って書ける?」と尋ねたあと、「じゃ行くね」と声をかける。
これは寛太郎にというより、大浦くんに向けて言ったように聞こえました。大浦くんの時間は止まってしまったけれど、自分は歩き続けてゆくという意志の表明ですね。

・大浦くんの言葉を思い起こし呟きながら一人歩き続ける佐和子。そこに主題歌であるMr.Childrenの「くるみ」がかぶさる。全コーラスを流しきる間、映像はほとんど佐和子が歩き続ける姿だけを映す。
このラストシーンについては賛否両論ありますが、個人的にはこれで正解だったと思います。パターン通り1コーラスのみ流して2コーラス目でスタッフロールに入る手法だと、佐和子の心情にぴったりマッチしている歌の最後部分の歌詞を本編で使えないし、何より最後を佐和子の笑顔で締めるためには、1コーラスでは短すぎる。彼女の歩く距離、笑顔が浮かぶまでの間の長さが、佐和子が大浦くんを失った痛みを乗り越えるのに必要な時間を示しているのだから。
「ミスチルのPVみたい」という批判も覚悟のうえであえてこの演出法を選んだプロデューサーの英断に拍手したいです。

・間奏部分で中原家の食卓に母さんがお皿を並べる場面が挿入される。真っ白い揃いのお皿が4枚並んだ食卓の在り様は、母さんがこの家に戻ってくることを予期させる。
ごく当たり前の(でも今まで中原家では当たり前でなかった)家族全員が揃う予定の食卓の光景に、間奏部ラストの盛り上がりが重なる。この映画の中で一番胸が熱くなった場面です。

・一人歩く佐和子の表情はやや沈んでいて足取りもゆっくりだが、何度か振り返り振り返りしながら(きいちゃんいわく、佐和子が振り向くのは大浦くんに呼ばれた気がしたからだとのこと)歩き続けるうち、表情にはうっすらと微笑みが浮かび、肩の揺れもリズミカルになってゆく。
そこへ最後の歌詞「引き返しちゃいけないよね 進もう 君のいない道の上」。これがとどめという感じです。
最初「くるみ-for the Film-幸福な食卓」を聴いた時、桜井さんのエモーショナルなボーカルはこの静かな映画には合わないんじゃないかと思ったんですが、全体に淡々としたトーンの作品だからこそ最後は盛り上げて締めるのもまた良しですね。


♪おまけ♪ 以下は公開当時「Yahoo!映画」に投稿したレビューです。リアルタイムの感想ということで、見比べていただければ。 

 先日二回目を見て来ました。一回目はついつい原作と比較して、切られたエピソードや台詞を惜しむ気持ちが大きくなってしまったのですが、二回目は原作と切り離して映画そのものを楽しむことができました。
この映画には近年失われつつある日本的情緒が詰まっているように思えます。大浦くんを失った佐和子の悲しみを号泣芝居でなく一筋の涙と食卓での小さな嗚咽で表現し、佐和子に対する家族の思いやりも、そもそもの発端だった三年前の事件に関することもはっきりとは描かれない。
ちょっとした台詞やエピソードを注意深く拾っていくことでそれらが浮かび上がるような構成をとっている(例えばお母さんがアパートの風呂を掃除する場面と大雨にもかかわらず銭湯に出かける場面は、彼女が夫の自殺未遂を想起させる浴室を使えないこと、使ってもない浴室を掃除しないではいられないことを暗示して、三年を経てもなお塞がらない心の傷の深さ=家を離れずにいられなかった気持ちがわかるようになっている)。そこに一から十まで説明せず、「匂わす」「行間を読む」ことを良しとする感性を感じました。
それだけに一度見ただけでは見落としてしまう部分も多いと思うので、是非二度三度と見ることをお勧めします。そして、「もっと説明的に作らないと観客に理解されないのではないか」という不安は当然あっただろうに、その不安に負けることなく映画を作り上げたスタッフに拍手を贈りたいです。
今のところお客の入りはあまり良くないようですが、是非この映画にはヒットしてほしい。そして今作のような奥行きのある上品な映画が今後も続々生み出される地盤となってほしいなと思います。


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『幸福な食卓』(2)-4(注・ネタバレしてます)

2008-05-07 02:39:00 | 幸福な食卓
・クリスティーヌの小屋にクリスマスリースが飾ってあるカット、ついで門松が飾ってあるカットを入れて季節の経過を表現する。
こんな場所に門松飾っちゃうの?というツッコミはさておき(まあクリスティーヌにも季節の気分をおすそわけ、という発想はすごく中原ファミリーらしい気もする)、歳時記的な描き方の風流さと、物言わぬ動物が餌を食み育ってゆく姿にうかがえる伸びやかな生命力は、映画全体に流れる日本的情緒とさわやかな明るさを象徴してるように思えます。

・夜遅くまで勉強を続ける佐和子。受験票がすでに用意されてるくらいだから入試間近なのだろうに、彼女の表情には笑顔がある。
大浦くんも今こうして勉強してるだろうことを思うと、何だか一体感があって嬉しかったりするのでしょうね。微笑ましいなあ。

・ヨシコの別の男と鉢合わせして喧嘩したという直ちゃんに「男いたの?だって直ちゃん来るってわかってたんでしょ」という佐和子。他の男の存在自体に驚いてないのは先に他の男とのデート現場を目撃してるからですね。
この「鉢合わせ事件」ですが、もしかすると何事にも熱くならない直ちゃんの「いけすかなさ」に業を煮やしたヨシコの「賭け」だったのかとも思えるのですが。

・合格発表の日、結果を知るのに怯える佐和子がすっと手を握ってくるのに、大浦くんは一瞬はっとして、ややあってからしっかり手を握り返す。
大浦くんの反応からするに、二人が手をつないだのは初めてだったのでは?映画では二人がいつ友達から恋人に変わったのか明確な描写はありませんが、高校入学時にはもう付き合ってるような感じなので、この「手つなぎ」がターニングポイントだったんでしょうね。

・佐和子の名前を見つけて「あったおまえ!」と掲示板を指さす大浦くん。この時の声のトーンが何か好きです。
そして大浦くんの名前を探すべく比較的大人しい性質の佐和子が人ごみをかきわけて果敢に前進する。その思いきった行動に彼女の愛を感じました。

・大浦くんの名前を見つけて佐和子は恥ずかしいほどの大声で「あった!あったよ、大浦勉学!」と大騒ぎする。
実際まわりから失笑が洩れてますが、これは佐和子の騒ぎ方と「勉学」という名前が可笑しいだけでなく、「彼氏」のために一生懸命な女の子の姿が微笑ましかったのもあったんでしょう。大浦くんも夢中で名前を恥ずかしがるどころではなさそう。

・大浦くんが掲示板を見つめながら感慨深げに「何だか、軽かったよなあ」とつぶやくのに、佐和子は「え~?」と笑う。
受験が終わるなりこんなこと言ってしまう、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」を地でいってるような彼の台詞が可笑しかったからでしょうが、この大浦くんの台詞にはもう一つ別のニュアンスがある気がする。
大浦くんはきっと長いこと、親しい友人から恋人に昇格するきっかけ―たとえば初めて手をつなぐタイミング―を探してたのだろうと思うのですよ。でもなかなか踏み出せずにあれこれ考えあぐねていたところへ、佐和子の方から手を握ってきたことで、ごく自然な形であっさりハードルを越えてしまえた。
案ずるより産むが安しだったなあ、という感慨も篭ってたんじゃないでしょうか。

・佐和子はめでたく合格したものの父さんが不合格だった中原家の食卓の空気は重い。照明を暗めに撮っているのがその重さをさりげなく伝えてきて上手い。

・「人間には役割ってあるよね。我が家はそれをみんな放棄してるんだよな。」 この状況だと父さんへの痛烈な批判として聞こえてしまう。父さん食べずに上に行っちゃいましたし。
しかし「みんな」というものの、仕事をやめて浪人生やってる父さん、家を出て一人暮らししてる母さん、エリートコースを自らドロップアウトした直ちゃん(とはいえちゃんと、おそらくは正規職員として働いてるわけだが)はわかるとして、佐和子は一般的女子中学生・中流家庭の娘としての「役割」をごく真っ当に果たしている。
今どきの子としてはいい子すぎるくらいですが、(そうした性格形成に三年前の事件が作用してるとしても)特に無理をしてる感じはしないし。
佐和子が唯一家族の中であるべき役割を果たしているからこそ、後に彼女が大浦くんの死の衝撃でそこから逸脱してしまった時、家族が彼女を守るようにして「役割」に戻ってくるのですね。

・対照的に母さんはアパートで一人きり食事をする。おかずが共通ぽいので、おそらく母さんがお祝いのために家まで夕飯を作りにきたのでしょうね。どうせなら一緒に食べていけばいいのにそうはしない。
家族四人揃った食卓の光景というのはラストまで一度も登場せず(大浦くんの死後、佐和子を心配して食事を作りに来てくれたときも、一緒に食卓に座る場面は少なくともシーンとして存在していない)、そのことがエンディングで四人分並べられた食器―家族が揃う食卓の暗示―の感動を高めている。

・佐和子が学級委員に選ばれたと聞いて大浦くんは「なっちゃったの?お前が!?」と驚く。(映画では)佐和子は中3の時もクラス委員だったんだし、そこまで不向きでもない気もするが。
「昔っからクジ運悪いんだよね」と佐和子が慨嘆してるところからすると、中3の時もハズレクジを引いたんでしょうね。

・「学級委員て学校生活が二倍は楽しくなるからな。中原が一緒ならもっとだ。」 みんなの人気者らしいポジティブ思考がいかにも大浦くん。
「二倍になる」と言うのも大浦くんの口癖ですね。彼の単純明快な性格が良く表れています。高一二学期終業式の日、駅での別れ際にも言ってましたね・・・。

・「翼をください」を歌う佐和子。線が細いけれど綺麗な声をしてます。きいちゃんはたしかCDも出していたはず。聴いてみたいかも。
ちなみにこの交流会のエピソードの原型とおぼしき実話を、原作者・瀬尾まいこさんのエッセイ「生徒会」(『見えない誰かと』収録)で読むことができます。

・指揮の手振りもですます調の喋り方もいかにも学級委員な堅さの佐和子。元気に合いの手を入れ、指揮棒の振り方も妙にノリノリな盛り上げ上手の大浦くん。二つのクラスの明暗が鮮やかに表れてます。
(勝地くんがインタビューで話してたところによるとあの合いの手は彼のアドリブとのこと。生徒役のエキストラの方たちがリアルで佐和子のクラスのような感じだったので、盛り上げるよう頑張ったのだそうです)
黒板に歌詞を貼る戦略もナイス。しかしあの歌詞の紙、大浦くんの筆跡じゃないので、クラスに協力者がいるんでしょうね。それともお母さんに手伝ってもらったか?

・この歌の練習が何のためなのか、佐和子の口を通して状況説明がなされる。
しかし彼女の言葉の選び方はなまじ丁寧な話し方とあいまってなかなかにキツい響きがあり、クラスメートから反発を受けるのもわかるような。

・クラスの皆に非難の言葉を投げられ笑われる佐和子は、一見無表情ながら口もとや喉のあたりがわずかに引きつるように動いている。
辛さを懸命に堪える苦しさ、その苦しさをストレートに出さず押さえ込もうとする佐和子の性格がよく出ている。
女優としてはまだごく経験が浅いはずのきいちゃんの表現力に驚かされました。

・悩む佐和子に秘策を授ける大浦くん。秘策の内容は実際の佐和子の行動によって明かされます。
しかし高校に入ってからの短期間でよそのクラスの力関係まで洞察し、それを巧みに利用する大浦くんはなかなか世渡り上手。
大浦くんは「おまえ女だろ」「きちっとしてるから」とだけ言うけれど、佐和子の容姿の可愛さを大前提にしての作戦ですね。

・大浦くんの読みどおり、佐和子がちゃんと説明する以前に快く協力を申し出てくれる吉沢くん。
別に佐和子が自分に気があると誤解したわけではなく(人気者-社交家だろう彼は当然佐和子が大浦くんの彼女なのも知ってるんだろうし)、「真面目で可愛い女の子に頼られたんだから力になってやらないと」という彼の男気の表れなのでしょう。
吉沢くんが皆に人気があるのが頷けます。大浦くんも似たようなシチュエーションでクラスの女の子に頼られてたりして。

・吉沢くんは交流会の歌の出来が内申書に載るらしいと(デマを)言って、クラスの皆が歌を練習するよう上手くリードする。「内申」という言葉で釣るあたりは原作より世知辛いかも。

・教室での歌の練習風景がそのまま実際の交流会の場にリンクする。「翼をください」という選曲もあって、なんだか胸にじんとくるシーン。

・帰ってきた佐和子はヨシコと家の前で出会う。
ヨシコは前に中原家に来た時と比べて化粧が薄くなり、表情もぶすっとした不機嫌顔だが、むしろ以前より好感がもてるし綺麗に見える。虚飾がなくなった、ということかな。

・ヨシコについての佐和子の質問に「やっぱりヨシコさんはすごいよ。」とずれた解答をする直ちゃん。
シュークリームを手土産にするのは(ヨシコとしては画期的でも)ごくポピュラーなセレクトだと思いますが、佐和子の好みを察知してシュークリームを持ってきたと思い込むあたりに、直ちゃんのヨシコへの過大評価―ベタ惚れっぷりが出てます。

・大きなパラソルで相合傘する佐和子と大浦くん。原作では大きすぎて使い物にならなかった傘がちゃんと活躍。
そしてこの場面についで和菓子屋に勤める母さんが「水ようかん はじめました」の紙を店のウィンドウに張り出すシーンがあることで、時期的にこの雨が梅雨なのが示唆されている。なのに梅雨のたび調子を崩してきた佐和子は、不調の陰もなく大浦くんの隣りで微笑んでいる。
以前宣言した通り、「大浦くんがいてくれればなんとかな」ったんですね。何だかこちらまで嬉しくなってしまいました。去年の梅雨の日にやはり父さんと相合傘で帰る場面では「梅雨が明けたら私の梅雨も治るから」の台詞通り不調を引きずっていたのと、ちょうど対照的に描かれています。 
また父さんとの相合傘では小さな傘のせいで肩が濡れてしまっていた(撮影時、羽場さんがきいちゃんを濡らすまいとしたところ、監督から「気持ちはわかるんだけどお父さん濡れすぎ」と言われて自分側に傘を動かした結果きいちゃんの肩が濡れてしまったそう)彼女が、今は大浦くんの大きな傘でしっかりと守られているのも、大浦くんが佐和子にもたらす安心感を表しているように思えます。

・二人の初めての(たぶん。原作によれば毎回同じ質問してるそうなので)キスシーン。
少し視線を泳がせてから、「キスしていいか?」っていう時のちょっとかすれた声と眼差しの真剣さ、「キスするまでのスパンが~」の説明のテンションの高さや、「キス」と連呼する恥ずかしさ・・・可愛いったらありゃしない大浦くん。

・ちょっと呆れた調子で「逃げるわけないでしょ」とごくシンプルに答える佐和子の言葉に愛があります。
対する大浦くん、口癖の「おう」が何か蚊の鳴くような声になっています(笑)。

・大浦くんがためらいつつちょっと近寄り、ずっと伏し目がちだった佐和子がそっと目を閉じながら顔をあげる。このキスシーンの流れはじつに丁寧に二人の表情の変化を捉えて映しているので、二人と一緒にこちらも息を詰めてしまう。
そしてここまでずっとBGMなしの無音だったところへ、佐和子が目を閉じた瞬間にポーンとBGMの導入部の音が鳴るのが、彼女の胸の高鳴りを思わせて何かきゅんとしました。
顔を近づけてゆく大浦くんが何度も目をしばたたいているのも彼のどきどき感を伝えています。

(つづく)


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『幸福な食卓』(2)-3(注・ネタバレしてます)

2008-05-04 01:35:51 | 幸福な食卓
・通知表を真剣に見つめていた大浦くんが、佐和子に「二学期会うときに、日焼けしてたりしたら怒るからな」などと言う。彼に佐和子の生活態度をうんぬんする権利などないんだが(笑)。
対する佐和子は「きっとその前にわかるよ」といたずらっぽい笑顔。佐和子はこんな笑い方を家族にも見せていない。大浦くんといるときが、佐和子は一番生き生きしていますね。

・塾のBクラスに入るとき、大浦くんを見つけた佐和子のこれまたいたずらっぽい笑顔。驚かそうとしてそろそろと近づくのも可愛らしい。

・「Bだと西高結構ヤバいんだぜ」「だから(塾に)来てるんでしょ」。 意外と佐和子の方がポジティブな一面も。
そしてあっさり納得して一気にやる気を出す大浦くん。お互い励ましあっていける。この二人とてもいい関係です。

・受験生なのに「切磋琢磨」を書けないどころか言葉そのものを知らない佐和子。ちょっと勉強不足なんでは?

・「切磋琢磨」と大書する大浦くん。横書きのノートに縦に、でかでか書いてしまうあたりに、彼の物にこだわらない大らかさが出ている。
書き終えたあと頬杖をつく仕草と表情が何か得意気なのが可愛い。上手くないけど読みやすい大胆な文字にも人柄が表れています。
ちなみに作中の大浦くんの文字は全部勝地くん自身によるもの。やっぱり勝地くんと大浦くん似てるのかも。

・「やるね、さすが勉学」という佐和子の軽口に、大浦くんは「おう」と翳りのない笑顔で応じる。
嫌ってる下の名前も佐和子に呼ばれるならバカにされた気がしないんでしょうね。

・「あのさ、中原って結構可哀想な家の子なの?」。 
携帯もってなくて自転車通学なくらいでこの言われよう。「可哀想な家の子」という語彙と声のトーンに彼なりの「聞いていいのかな?」という感じの気遣いがにじんでます。
反論する佐和子の「貧困な頭だよね」という語彙もなんかユーモラスで、ぎすぎすした雰囲気になるのをぎりぎりで止めている。
「貧困な頭」といわれた大浦くんは俯き気味に手を胸にやってる。心が痛んでるんですねえ。

・「それとそのバッグ、すっごい変だよ」。うむ確かに(笑)。
佐和子とのこの会話を契機に、大浦くんはリュックと自転車通学に切り替える。大浦くんの金持ちの坊ちゃん然とした部分が、佐和子との関わりの中でどんどんそぎ落とされてゆきます。

・クラクションで合図をする迎えの車と自転車にまたがった佐和子の間でためらう大浦くん。
この車を運転してるのは(おそらく佐和子が大浦くんにプリントを届けに行ったときのも)、仕事三昧のお父さんではなく息子の受験に熱心なお母さんでしょうね。
大浦くんが佐和子と話すのをクラクションでさえぎるパターンが二度繰り返されるあたりは、息子が可愛い女の子と立ち話してるのをお母さんが快く思っていないことが暗示されているのでは。
まだ顔を合わせてもいない佐和子と大浦母が大浦くんを挟んで対立してる構図がほんのり浮かんできます。

・佐和子が家に帰ると玄関に女物の靴が。小林ヨシコはちゃんと靴の爪先を扉側に向けて脱いでいる。身勝手な自堕落女に見える彼女が存外きちんとした女性であることの象徴。

・ヨシコが直ちゃんの農園に卵を買いに来たのが二人の馴れ初めだったそう。この設定は映画のオリジナル(原作ではヨシコの方から告白されたというだけで知り合ったきっかけは書かれていない)。
後にヨシコ自作のシュークリームが登場することを思うと、卵を買いに来たという設定はなかなか自然。と同時に彼女が放し飼いの鶏の卵をわざわざ手に入れようとするような、食の安全に関心を持っていることも示していて、先の場面の揃えた靴ともども、ヨシコがちゃらちゃらしただけの女でないことを匂わせている。
だからなのか自然派志向と対立するような「きつい香水の匂いをぷんぷんさせている」原作の設定はなくなってましたね(少なくとも触れられていない)。化粧は多少ケバいけど。

・「直が人を好きになるのはまだまだ先のことだよ」。 
いっしょに暮らしてない母さんの方が直ちゃんをよくわかっている。これも「離れている方がかえって敏感になって気づいたりできる」うちの一つなのでしょう。

・「買ってもらった。電動機付き自転車」。 その日のうちに買ってもらうあたりの即決ぶりがいかにも大浦くんらしい。
そしてそう安くない買い物を簡単に買ってもらえちゃうあたりやっぱり金持ちなんだなあ。いきなり送り迎えを拒否して自転車で通うと言い出した息子をお母さんはどう思ったんだろ?

・充電が切れた自転車で坂道を上がる大浦くん。たぶん本当に充電しない状態の電動機付き自転車使って撮影したんでしょうね。本気できつそうです。
「迎えに来てもらえばいいじゃない」という佐和子をしばし無言で見つめ、「いや、いい。これで帰る」と力強く答えた大浦くんは佐和子の目に男らしく映ったものでしょうか。原作では「ちっとも男らしくなかった」と愛を込めて一蹴されてましたけど(笑)。
原作のこの部分のやりとりは大浦くんの愛すべきおバカっぷりが全開なので映画でも入れてほしかったかも。

・自転車でフラフラと走ってゆく大浦くんの背中を見送る佐和子。後半の新聞配達最後の朝もこれと似た光景が反復されるんですよね・・・。

・中原家の玄関にまたもヨシコの靴が。ちゃんと揃えたパンプスが置いてあるだけでまたヨシコが来てるというのが一発で伝わる。
その靴を乱暴に足で寄せる佐和子。基本的に行儀の良い佐和子らしからぬ行為にヨシコへの反感が出てます。ヨシコの靴がパンプスなのに対し佐和子がスニーカーなのも、二人のキャラの違いと年齢差(大人と子供)を際立たせている。
しかし直ちゃんはまだしも佐和子が靴の爪先をきちんと扉側に向けて脱がないのは意外。時々訪ねてくる母さんはちゃんと扉側に向けてるのになあ。

・今度の手土産は青海苔。さっそく手巻き寿司に使っているので実用的なのは確かだが確かに色気も常識もないなあ。

・二学期初日の席替え。佐和子も大浦くんも新しく隣りになった生徒にはろくに挨拶もせず、顔見合わせて笑い合ってるあたりがもう(笑)。
この頃にはもう周囲からもほぼカップルと見なされてるでしょうね。

・「でも気を遣ったつもりでこれだもんね。母さん父さんのこと何も気づいてなかったんだから」。
母さんの笑顔が穏やかさの中に寂しさを漂わせている。石田さんがパンフレットのインタビューで「中原家の家族役はみんな顔がどこか似ているんですよ」と語ってましたが、「穏やかさの中にどこか寂しさを漂わせた笑顔」がこの一家の共通項のように感じます。
外の人である大浦くんやヨシコはその対極みたいな顔つきをしてますね。

・「本屋にいたでしょ。一人辛気くさい顔してんだもん、目だってたよ」と佐和子に嫌味っぽく言うヨシコ。
他の男といるのを見られたのをきっかけに本性を出してきた模様。愛想笑いも一切しないですし。

・カメラがギターに勉強に仕事にそれぞれ励む中原家の人々の姿を順に追ってゆき、最後に空っぽの食卓を映す。家族がみな自分のことにせいいっぱいでバラバラになっているのを象徴したものか。

・直ちゃんの部屋に入るのに、誰もいないにもかかわらず「辞書を借りますよー」と声をかける佐和子。
観客への状況説明という面もあるんでしょうが、佐和子の慎み深い性格を示しています。

・遺書を見つかったのをきっかけに、直ちゃんが佐和子に心情を吐露。涙をこらえているような語り口の中に、直ちゃんの恐怖や痛みが集約されている。
平岡くんは『シネマスクエア』vol.9でのインタビューで、
「(原作を読んで)〝直は俺だな〟と思ったんです。それから直を演じたくて仕方がなくなって、ギターを持ってプロデューサーの方に会いに行き、その場で1曲歌ったんです。そこで即決していただいて(笑)。」 「今回、自分を役に近づける作業をほとんどしなかった気がします。現場に入ったらもう直の気持ちが自分の想いとして実感できて、全然ブレなかったんです。」
と語ってましたが、平岡くんはまさに直ちゃんを体現していたように思います。彼の「直」への思い入れがあればこそですね。

・3年前までエリートコースまっしぐらだった直ちゃんが大学に進まずいきなり農業それも有機農法の道を選んだのは、父さん同様心理的に追いつめられていた彼が、これまでの生き方を180度転換するにあたって、限りなく地に足が着いている―存在意義を疑い得ない、社会的貢献度が高い仕事をしたかったからですね。
原作では進学せず農業をやると両親に宣言する場面があり、そこで「明確に実感したいんだ。もっとわかりやすい方法で、何かをしたって。そういう毎日を送りたい」という台詞が出てくるので、そうした直ちゃんの心理がなお見えやすくなっている(メイキングにこの宣言シーンの断片らしきものが入っていたので、撮影はしてたんでしょうか)。
真剣さを捨て、いい加減に生きると決心して、実際女性関係に関してはその決意通りにふるまってきた直ちゃんですが、結局根本のところでは確固として揺るがないものを求めていたのでしょう。
「もしかしたらこの方法は間違ってるかもしれないな」と呟くあたり、結局いい加減な生き方は自分に合っていないとうっすら自覚しつつあるようですし。

・バーガーショップで大浦くんに家庭の事情を語る佐和子。「お兄ちゃんは病気なの。そのせいで女にフラれまくってる」。
先のシーンでの「真剣さを捨てれば困難は軽減できる」→「小林ヨシコは直ちゃんを救うかもよ」という台詞のやりとりの説明不足さ(原作では一人称の地の文で佐和子の心情をずっと説明しているので佐和子の発言意図や直ちゃんの言葉を彼女がどう受け取ったかがクリアにわかる)を、直ちゃんが真剣に生きようとしない(という病気)のために交際が長続きしないことを、大浦くんとの会話と言う形で観客に向けてずばりと説明。
さらに、身内の佐和子にはわからなかった直ちゃんの「病気」を見抜いたうえで、「相当いけすかないところがある」と言いながらも二股なりに直ちゃんと付き合い続けてるヨシコはこれまでの女と違うと感じて、佐和子の中にヨシコが直ちゃんを変えてくれることへの期待が生まれたのだとわかるようにしている。
断片的な台詞や場面をパズルのように繋ぎあわせることで全体像が浮かび上がってくる作りにはつい引き込まれてしまう。

・「意味わかんないけど、中原の言いたいことはわかる。要するに一緒に西高入ろうってことだろ」。
大浦くんの単純すぎるまとめ方に佐和子はちょっと意表をつかれたような反応をしつつも一応肯定する。「大浦くんがいてくれれば(梅雨も)なんとかなりそうな気がする」=「一年先ももっと先も、ずっと大浦くんといたい」と解釈できるので確かに間違ってはいない。
この二人まだちゃんとカップルじゃないのに、照れるでもなくごく当たり前にこんな台詞を言ったり受け止めたりしてるんですよね。あからさまに両想いな二人の進展を、友人気分でわくわくと見守ってしまいます。

・「すごいだろ。気づかないところで中原っていろいろ守られてるってこと」。
原作では転校生の坂戸くんが再びどこかへ転校してゆく去り際に残す言葉なのですが、映画では坂戸くんのキャラクターを大浦くんに吸収したため、大浦くんがこの台詞を言う。
序盤で消える坂戸くんでなく、最後まで佐和子に最大の影響力を及ぼす大浦くんの発言としたことで、この作品のテーマというべき、家族をはじめとする人との絆を象徴する一言となった。パンフレットほか宣材でもよくこの台詞が紹介されてました。

・「切磋琢磨の上に臥薪嘗胆だ」と言いながら宙に指で「臥薪嘗胆」と綴ってみせる大浦くん((1)で書いた『Invitation』で紹介されていた写真はこのシーンのもの)。
その肩に頭をもたせかけるような角度で、極上の笑顔で彼の指先を見つめる佐和子。お店の人も何とも微笑ましいカップルだと思ってそう。

(つづく)


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『幸福な食卓』(2)-2(注・ネタバレしてます)

2008-04-30 01:54:57 | 幸福な食卓
・器用に鶏小屋を作る直ちゃん。さすが音楽以外は何でもできる男。鶏に「クリスティーヌ」なんて名前を付けるセンスが笑えます。

・卵を取り上げて「ついに産んだの、クリスティーヌ!」と叫ぶ佐和子。この台詞でクリスティーヌが来てから数日~数十日が経過してるのがわかるようになっている。

・食卓に現れる父さん。ちゃんと父さんの分の箸や焼き魚も用意されている。
「父さんをやめる」宣言以来朝食を一緒に取らなくなったらしい父さんの分もちゃんと箸などが用意してある(魚は暖め直して食べてってことでしょう)のが、家族の暖かさですね。

・直ちゃんが父さんの(というか全員の)ごはんをよそい、それを佐和子が父さんに運ぶ。
食事の仕度を自然と助け合ってるのも、近年では薄らいでしまった古き良き家庭のあり方を象徴しています。

・「これでようやく肩書きができたな」。
よき家庭人・職業人であろうとするプレッシャーに追いつめられて3年前手首を切った父さんですが、逆にいえば、それだけ彼にとって「あるべき役割」は捨てがたいもの。
家庭人・職業人として立派に役割を果たすことに自身のアイデンティティーを置いている人なのですよね。最終的に彼が塾に再就職し「父さん」に戻る下地がここにあります。

・「一度やってみたかったんだ」と言いつつ、ごはんにみそ汁をかける父さん。これはプロデューサーが自身の経験に鑑みてぜひ入れたかったシーンなのだそう。
確かにいささかお行儀は悪いですが、外食じゃなくて家の食事なんだし、そんなにやりたきゃやってみりゃ良かったのに。このへんにもつい自分を規範でがちがちに縛ってしまう父さんの性格が表れています。
こういうところでガス抜きをしつつちゃんと家庭人をやるのが一番いいバランスなのかも。

・大雨の中銭湯に出かける母さん。アパートにお風呂はちゃんとあるのに(先に佐和子が母さんのアパートを訪ねたとき、母さんは風呂場を磨いていた)。
これは後の回想シーンを見ると、彼女が夫の自殺未遂を想起させる浴室を使えないせいだと察せられる(実際の現場ではないにもかかわらず)。
そこに三年を経てなお癒えない彼女の心の傷の深さがうかがえます。使いもしない浴室を掃除しつづけているのにも。

・夜遅くまで受験勉強を続ける父さんを、部屋の前を通る佐和子の目線で捉える。この場面、机に並ぶ赤本数冊を映すことで、父さんが目指しているのが医大ないし薬科大なのだとわかる。
そしてはっきり子供たちにどういう系統の大学に行くか告げなかった(わざとぼかした)のは、目的が自分のせいで梅雨になると体調を崩すようになった佐和子にいい薬を作るためだと早々に知られると、佐和子に気を遣わせると判断したからなのでしょう。
勉強する父さんを見つめる佐和子の表情からすると、そうした父さんの思いをこの時点で読み取っていそう。それは後の父さんと相合傘で帰るシーンの会話に表れます。

・母さんが銭湯に出かけてゆくシーンに平行して、佐和子が家の風呂に向かうシーンを入れる。
なぜかアパートに風呂があるのに銭湯にゆく母さんと風呂場を暗い目で見つめる佐和子を並べて描くことで、母娘がともに「浴室」に何かマイナスの思い入れがあること、それが三年前に起きた「あのこと」に関係してるかもしれないことを、種明かしの回想シーンに先がけてそれとなく示しておく。
この映画はこうした伏線が細々張りめぐらされているので、注意深く見るほどに味わいが増す。

・給食のサバに憂鬱そうに文句をつける佐和子。その前の「梅雨かあ・・・」に続く彼女の欝気分があらわれている。
この時代わりにサバを食べてくれた大浦くんの行動は、やがて彼が佐和子を梅雨の欝から救い出してくれることの象徴になっています。

・「それがサバの持ち味だからな」 こんな台詞を大真面目に言っているのが可笑しい(笑)。
続くサバについての薀蓄。大浦くんは結構雑学博士なんですが、得々と知識を披露するさまは実にストレートなだけに嫌味がない。
ついでに佐和子の「どうしたらサバを給食から追放できるかな」も「追放」という大仰な表現がやはり可笑しい(笑)。結構この二人感性が似てるというか、天然同士でお似合いなのでは、と思わせる。

・断る前に、というか断りながら佐和子のサバをもっていく大浦くん。新聞配達もそうですが、言う前にもう行動してる人ですね。
しかし「朝食取ってないからちょうどいいんだ」っておかずの減った佐和子の方はお腹すくんじゃあ(あれだけ嫌がるってことは残すという選択肢を考えてない、つまりいつもは嫌々ながらも食べてるわけですよね)。代わりに何かおかず分けたげなよ。

・朝ごはんを食べない、食事のときにお父さんがいたためしがないという大浦くん。
「俺んち崩壊してんだよな」なんて大浦くんは言いますが、ラストで出てくる大浦くんのお母さんも家庭そのものもごく尋常なように思えます(しかし大浦母、息子の受験にそんなに熱心なら朝食はしっかり食べさせないと)。大浦くんのパーソナリティもいかにも暖かな家庭で育ったふうの大らかさを感じさせますし。
ちなみに映画公開ごろのインタビューによると、勝地くんは朝食は食べない、きいちゃんは必ず家族(おばあちゃん)と一緒に食べるとのことで、なんか大浦くんと佐和子を地でいってるような。まあ成人男子と女子高生では食生活のリズムが違って当然なんですが。

・「中原、今日どっか調子悪いのか?」。 
出会ってそれほど経ってないのに、佐和子の不調にさっと気づいてくれる。それは大浦くんの意外な神経の細やかさと彼がいつも佐和子を気にかけていることの両方を感じさせます。
こんな友達ないし彼氏がそばにいてくれたら頼もしいですね。

・「うちの家族、崩壊してるのかな」「どうして?恐ろしくいい家庭だと思うけど」。 
一般的な家族の形態を外れていても互いを思いあっている、その意味で確かに中原家は「いい家庭」なのだけども、その思いやりゆえに彼らは良き父・母・息子であろうとするあまり自身の生き方を窮屈にし、ついには3年前の事件をもたらす結果になった。
「とても」「すごく」でなく「恐ろしく」いい家庭という表現には、そんな「いい家庭」であるゆえの危うさが匂わされているように思えました。

・「近くにいると逆にぼんやりして気づけないことも、離れているとかえって敏感になって気づいたりできるんだから」。 
さらっとした口調ですが、かつて夫が自殺をはかるまで彼の苦しみに気づけなかった母さんの後悔の深さが感じられます。後に小林ヨシコも似たようなことを佐和子に告げますね。

・仕事に出かける母さんに佐和子は「ありがとう、来てくれて」という。
先の「梅雨かあ・・・」発言とあいまって、佐和子が梅雨が苦手(梅雨の時期に必ず体調を崩す)なのを暗示し、その流れで体調不良の原因となった3年前の事件へと物語を進めてゆく。このへんのエピソードの組み上げ方は秀逸。

・3年前の自殺未遂の光景。浴室の前にへたり込んで「どうして」とつぶやくだけで何もできない母さん。
夫の命の心配よりも、夫が死のうとした理由がわからず、自分が信じていた世界の崩壊にただ呆然としているように見える。
このとき夫を救うために即座に適切な処置を取れなかったことが、彼女の傷をなお深いものにしたように思えます。

・大浦くんに校外実習に関するプリントを届けるため彼の家を探す佐和子。
この場面、学校でプリントが配られる場面と隣りの空席を気にする佐和子の顔を映した後すぐに坂道を自転車を押して歩く佐和子の映像になっていて、何も具体的な説明はないものの、先に下駄箱前で大浦くんが学区の端っこの坂の上の方に住んでいると佐和子に語るシーンがあったことで、佐和子が彼の家を探してる(正確な位置まではわからないので一軒一軒表札を見ながら歩いている)のだとわかる。
こういう最低限の情報と映像の繋ぎ方で観客に状況を判断させる、あからさまに描かず行間を読ませることで観客が無意識のうちにキャラクターの心情に寄り添えるように仕組む手法は見事なもの。

・「おまえずっと俺んち探してたの?」という声のトーンと表情がさりげなく嬉しそう。わざわざ家を探してまで、そしてこの急な坂道を登ってまで、プリントを届けにきてくれた気持ちが嬉しいんでしょうね。
そして佐和子が差し出したプリントを受け取るため手を伸ばす仕草に一瞬見える戸惑い。恋しかかってる少年の初々しい心の動きが細やかに伝わってきます。

・「早く来い」というようにクラクションを鳴らされて振り向いたときの大浦くんの表情が実に悲しげ。もっと佐和子と話をしていたい、そんな気持ちがよく表れている。

・「あんな勉強の仕方ダメだよ。もっともっと父さんになっちゃってるよ」。
意味の取りにくい発言ですが、かつて自殺をはかるまでに自身を追いつめた生真面目な生き方(「父さん」らしい生き方)を放棄すると宣言しながら、夜遅くまで根を詰めて勉強する姿がこれまで同様生真面目すぎて、また自分を追いつめてしまうのではと心配してるわけですよね。
あえて婉曲的な言い方をするところに、控えめに父を傷つけないように心を配る佐和子の優しい性格が表れています。

・「私、薬なんかいらないよ」。 
これもやはり意味がわかりにくいですが、梅雨になると体調を崩す佐和子の持病を父さんが直したいと思っていること、佐和子が父の部屋に並ぶ医大の赤本でそれを察したことが、この短い台詞で示されている。
父さんが医大を受けようとするのは、娘を助けたいという父性愛だけでなく、自分が死のうとしたことが原因で佐和子の心にトラウマを残してしまった贖罪意識も多分にあるのでしょう。
そんな父さんに佐和子の言葉は字面だけだとそっけなさすぎるようですが、言葉の調子と表情の柔らかさがむしろさらっとした物言いの中に佐和子の優しさを滲ませている。きいちゃんさすがです。

・佐和子は西高を受験すること、そのために塾に行くことを告げる。
下駄箱で大浦くんと話してた時点では西高を受ける意思がはっきりしてなかった佐和子が西高受験を決めたのは、大浦くんの影響が大でしょうね。塾だってわざわざ彼と同じところを選んでましたし。

(つづく)


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『幸福な食卓』(2)-1(注・ネタバレしてます)

2008-04-26 03:18:19 | 幸福な食卓
・真っ暗な画面の中、音声だけが聞こえるオープニング。食器のぶつかる音や会話の内容だけで、これがある家族の食事の席であることを簡潔に示しつつ、これから何が起こるのかという緊張感をあおる。
そして衝撃の「父さんなあ、今日で父さんをやめようと思う」発言へともってゆく流れが巧み。この場面ですでに全編を貫くキーワードというべき「卵」を登場させている。

・上述の告白の直後に初めて画面が現れる。
そのファーストシーンが佐和子のぽかんとした顔と「へ?」というちょっと間の抜けた声なのが、本来深刻なはずの状況をふんわりと受け止めるこの家族および映画全体のカラーを象徴する。つづく直ちゃんの「あらまあ」も同じく。
澄んだ音色の穏やかなBGM(メインテーマ)もこうした空気感をバックアップしている。

・佐和子のナレーションによって作中の時間が「あのことがあってから3年目」と説明される。
原作では5年なのを3年に変えたのは、回想シーンできいちゃんが小学3年生を演じるのはさすがにきついからでしょうね(原作では父さんの宣言は佐和子が中2の時の出来事)。結果直ちゃんもちょっと若返ってます。

・中原家のややショッキングな家庭環境を佐和子の淡々としたナレーションで観客にさらっと了解させ、彼女の暮らす地方都市の景観(遠くに富士山)も見せて、ゆったりした作品世界をも示している。導入部の一連の展開は本当に隙がない。

・大浦くん初登場。映画では転校生設定のため、ここでさっそく下の名前がバレる。
名前を隠したがる態度(原作でもそうですが、映画ではみんなの前でそわそわしてるので)、「どうも、大浦です」というにこりともしない挨拶は、大浦くんの第一印象をちょっとまわりに馴染まないタイプに見せてしまってるかも。
映画の大浦くんは原作の坂戸くんの設定も入ってるのでそのせいもあるでしょうか。

・先生に「下(の名前)はいいですから」とちゃんと敬語で話し、学ランのボタンも上まできっちりと留めている大浦くん。彼の育ちの良さが表れています。
まあ彼に限らずクラスの誰も制服を着崩したり髪を染めたりしてないですけどね。

・大浦くんの席は佐和子の隣り。んー出来すぎ(笑)。
彼が自分の名前を「まんますぎるよな」とぼやくのに「慣れれば気にならなくなるよ」と佐和子。風変わりな家庭環境にそれなりに馴染んできた佐和子が言うと独特の重みがある。今朝起きたばかりの「父さんが父さんをやめた」事態に順応すべく自身に言い聞かせてるようにも響きます。まあ大浦くんの知らないことですが。
ちなみに勝地くんはパンフレットのインタビューで「みんながオレの名前を笑うのに、こいつは笑わない」ことが嬉しくて、それが大浦くんが佐和子に好意を抱くきっかけの一つになったんじゃないかと分析してます。確かに佐和子の言葉に大浦くん、ちょっとはっとしたような顔をしてますしね。

・母さんのアパートを訪ねる佐和子は、一応チャイムを鳴らしはするものの、その動作は存外乱暴で、すぐにドアを開け「ただいまー」と声をかける。
佐和子には母さんが住むこの部屋ももう一つの家なのですね。

・佐和子が入ってきた時、母さんは「あらっ!?」と驚いたあとに「そうか、始業式か」と笑う。
「ただいま」と言うくらいで佐和子がこの部屋を訪ねてくること自体は珍しくないようなので、母さんが驚いたのは佐和子が久々に制服を着てたことに対してなんでしょうね。
同じ家に住んでいれば娘の始業式を知らないというのはまずありえない。ちょっとした言葉の中にもこの家族の特殊な関係性が匂わされている。

・生クリームそばを食べる佐和子と母さん。二人のお皿が色も形もバラバラなのが、いかにも一人暮らしの家という感じ。
ラスト間際で中原家の食卓に並べられる揃いのお皿とのコントラストを意図した演出でしょう。

・「家族のごはんっておかしなもの作れないでしょ」 シンプルなセリフの中に一人暮らしの気楽さと寂しさが示されている。

・父さんは母さんのところに教師をやめると報告に来たという。こうして普通に連絡を取り合っていること、佐和子もそれを当たり前にしてることから、別居してても父さんと母さんの心が繋がっているのが伝わります。

・母さんの「あらま」は冒頭シーンの直ちゃんを思わせる。頭の良さも含め直ちゃんはお母さん似らしい。つづく「忙しいのね」という言葉もいい意味で緊張感がない。
父さんの「父さんをやめる」発言はやや意味の取りにくいところもありますが、要は一家の主として子供たちを養育すべき立場を放棄するということですね。

・直ちゃんのヘタクソな歌。平岡くんいわく、あれはわざと下手に歌ってるのだそう。
平岡くんはもともとミュージシャン目指してたくらいなので本来ギターも(たぶん歌も)上手なはず(メイキングでもテロップでフォローが入ってました)。本気のプレイも聴いてみたいかも。

・父さんを「父さんやめたんだから」とあっさり「ヒロシさん」と呼ぶ直ちゃん。順応早いですね。
とはいえ「ヒロシさん」呼びが出てくるのはこのシーンだけで、あとは直ちゃんも佐和子も終始「父さん」と呼びつづける。仕事やめようが扶養義務を放棄しようが、子供たちにとって父さんは父さんのままなんですよね。

・「家計を心配する妹に早く見せてやろうと思ってさ」 父さんが仕事をやめてしまって、まだ勤めてから年数の浅い直ちゃんの給料と貯金だけで食べていけるのか、という観客の疑問への一つの解答。
食べ物関連の仕事は現物が安く、ときにはタダで手に入るメリットがありますね。

・きれいに掃除された浴室を物思わしげに見つめる佐和子。この視線の意味はもう少し後で明かされることに。
中原家皆のトラウマと言っていいだろうこの浴室、誰が掃除してるんでしょう・・・。

・机にペンケースのみ出してどっしり腕組みして座る大浦くん。「教科書忘れたの?」と聞かれて「うん・・・」と曖昧な相槌を打つ。一応嘘はついてないわけだ。
その後の「見せたい!?」でぱっと顔が明るくなるのも、彼の一種おめでたいほどの単純さを持ったキャラクターをうかがわせる。

・教科書を見せるかどうかの対応だけで「中原のこと、よくわかった」と言い切ってしまう大浦くん。この根拠のない自信が彼の持ち味ですね。まあ原作じゃ坂戸くんの役まわりなんですが。

・直ちゃんが西高で全科目トップだったという話に佐和子は「音楽除いてだけどね」と答える。あの歌を聴いた後だから説得力がありますね。

・「うちの親、俺を西高に入れたくて、この町にも家買ったんだ」。
この町「にも」ということは完全に引っ越したのではなく、前の家もキープしたまま別宅を設けたわけで・・・。どれだけ金持ちなんだ大浦家。

・「おまえって、「けど」が多いよな」。佐和子の物事を言い切らない(現代人にありがちな)話し方に単刀直入に斬りこんでいる。
といっても大浦くんとしては特に批判するつもりではなく、自分と全く違う佐和子の話し方(大浦くんの決めつけ喋りの方が結構異端)に対し、疑問を感じたままに口にしてるんでしょう。

・「これからはライバルとして、俺、おまえと友達になるから」。
「ライバルとして友達」ってわかるようなわからないような。「友達になってくれ」でなく「なるから」と一方的に宣言するのが大浦流。

・大浦くんの一方的な友達宣言に「いいけど・・・」とちょっと語尾を濁す佐和子に「ほら、また「けど」」と笑顔でツッこむ大浦くん。
嫌がられてる、とかの発想にいかないんですよね。実際笑顔で「気をつけて帰って」と言い、「おう」と彼の口癖を真似る佐和子は楽しそうですし。
大浦くんのような単純明快な決め付け型は、合わない(彼のようなタイプを受け付けられない)人は本当合わないだろうから、教科書関連のやりとりで「こいつは馬が合いそう」と判断した大浦くんはやはり慧眼だった。

・父のいない食卓で二人並んで座り食事をとる佐和子と直ちゃん。
二人だけなのに向かい合わせに座ろうとはしない、定位置を守りつづけるところは、ある意味3年前と変わらないこの家族のかたくなさを思わせる。この日まで「朝食は家族みんなで」の習慣が遵守されてきたことも同じく。
けれどこの定位置-自分のいるべき場所という概念は人間を縛りもするけれど、帰るところがあるという安心感をももたらす。家庭とはまさにそうした窮屈さと安らぎの同居した場所なんじゃないか。
中原家のように、家族が揃ってない時でも、あえて、というか当たり前にいつもの席に座り続ける(隣の席に移動した方がテレビがよく見えたりおかずが取りやすかったりするのに)家庭って結構多いんじゃないですかね。
余談ですが、『栄養と料理』2007年5月号で女子栄養大学の足立己幸先生が、
「部屋の中にどーんとある、厚みのある木の食卓の大きな吸収力に引きつけられました。家族がバラバラの方向を向いている中で、唯一安定した存在が木の食卓でした。」
と指摘されてるのを読んで、中原家の食卓が木製である意味に気づきました。

(つづく)


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『幸福な食卓』(1)-2

2008-04-22 02:43:29 | 幸福な食卓
また特筆すべきは主人公佐和子を演じた北乃きいちゃん。
最年少で「ミスマガジングランプリ」に選ばれたグラビアアイドルでもある(映画公開当時はまだグラドルイメージの方が強かった)彼女ですが、スクリーンの中の彼女はグラドルとして元気いっぱいのコケティッシュな笑顔を振りまいている時とは全く違う、ごく普通の女の子の素朴な可愛らしさを持つ初々しい少女でした。
まさに原作の佐和子そのもの。オーディションの際満場一致で彼女が選ばれたというのも納得です。

その一方で、インタビューなどで見せる「女優」北乃きいの顔には、無邪気な明るさの中に不思議なスター性があったように思います。
メイキングで、始業式のシーンを撮影したあと壇上に上がってエキストラの人たちに挨拶をしている映像がありますが、外見は佐和子のままなのに、大人しいタイプの佐和子にはない強い輝き、オーラのようなものを感じました。
そしてその堂々とした(偉そうという意味ではなく)態度。これで映画初出演・初主演とは。
演技においても『女優誕生・北乃きい』(きいちゃんにスポットをあてた『幸福な食卓』の宣伝番組)で石田ゆり子さんや勝地くんが、
「最初のころはじっとカメラの前に立ってることってすごく緊張するものなのに、そういう間を怖がらずに作ることができる」「緊張してる緊張してるっていいながら、台詞とかも自分のことでいっぱいいっぱいになってるんじゃなくて、勉学にかける言葉ということを(その時の佐和子の心情を)ちゃんと意識して演じていた」(ともに大意)
と話しているあたり、新人離れした才能を感じさせます。

主演のきいちゃんについては「この子が佐和子を演じる」というのを知ったうえで原作を読んだので、だからきいちゃんと佐和子が違和感なく重なった部分もあったんですが、読了後に配役がわかった他のメインキャストについても、ほぼ皆さん見事にイメージ通りの外見だったのに驚きました。
特に直ちゃん役の平岡祐太くん。優男系の美男子で、でも結構ガタイのいい平岡くんは、元優等生で現在は農業(肉体労働)に勤しむ直ちゃんにぴったりでした。
小林ヨシコは原作だともっとケバいスッとんだ外見な感じがしてたので、さくらさんは普通に綺麗だよなあと最初は思いましたが、佐和子に対するちょっと挑むような目付きや、ぶっきらぼうだけど優しい重みのある言葉を見聞きするうち、映画のヨシコを原作のヨシコ以上に好きになっていました。
各キャストの演技力とインタビューからうかがえる役と作品への愛着が、これだけ個々のキャラクターを生き生きと輝かせたのでしょうね。

何より小説『幸福な食卓』に惚れ込み、エピソードを多分に取捨・加筆しながらも原作の空気感とキャラクターを忠実に別メディアに再現した(ただ物語の根本的なテーマにおいては原作と映画で実は異なっている。詳しくは(3)で)小滝プロデューサーと脚本の長谷川さん、それらを見事にフィルムに焼き付けた小松隆志監督が最大の功労者だと思います。
この映画は一貫して「行間を読ませる」手法を取っている。「すごく抑制されている」原作の味を生かすため、そしてそれ以上に近年の映像作品の「分かりやすさ」を苦々しく思うプロデューサーらの信条のために。
パンフレットのインタビューで長谷川さんや小松監督が、
「今、テレビも映画も語りすぎだと思うんです。」「今の時代、いろいろなものが〝分かりやすく、分かりやすく〟という風潮になっています。(中略)今回はそれを見せないように〝抑えて、抑えて〟作りました。」
と語っていたことからそれがわかります。やはり小滝・長谷川コンビによる『亡国のイージス』も観る側の読解力を要求する映画でしたし。

キャストにも演出・宣伝にも派手さがなかっただけに残念ながらヒットには至らなかったものの、公開から一年以上を経た今でもしばしば個人ブログでこの作品の感想を見かけます。
その多くが好評価・・・いやその程度ではなく、映画およびキャラクターへの深い愛情と、鑑賞を通して心洗われる感覚を味わわれたことが強く感じ取れる美しい文章なのに驚かされます。
これだけ人の心を動かす―それもじわじわと心に染みいるように―素晴らしい作品に重要なポジションで勝地くんが関わっていること、むしろその感動の少なからぬ要素を彼が負っていることが何だか誇らしく思えるのでした。

 


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『幸福な食卓』(1)-1

2008-04-19 02:49:12 | 幸福な食卓
瀬尾まいこさんの同名の小説を映画化。勝地くんは北乃きいちゃん演じるヒロイン佐和子の恋人「大浦勉学」役で出演してます。

この映画に勝地くんが出演すると知ったのは2006年の1月だったように記憶しています。
それからすぐに原作を読んで、平易な文体で多感な少女の心を感傷的にならず淡々と、けれど暖かさをもって描き出した世界観と、「愛すべき単純さ」を持つ明るくマイペースな大浦くんのキャラに大いに惹き付けられました。
「彼」を勝地くんが演じるのだと思うとわくわくしたものです。

と同時に、中学生~高校生の役を当時19歳の勝地くんが演じることに、
「高校生はいいとして(『幸福な食卓』の少し後に撮影した単発ドラマ『少しは恩返しができたかな』でも高校生役だったし)中学生ってのはすごいなあ、まあ勝地くんのことだから何とか演じきるだろうけど」
と妙に感心してみたり。

少しして『月刊SkyPerfecTV!』(2006年2月号あたり)に勝地くんの写真つきインタビュー記事(内容はその頃スカパーで初放映された『亡国のイージス』について)が載ったんですが、この写真がアカデミー賞授賞式や『恋するハニカミ!』の時のような前髪を上げたツンツンの短髪+「『幸福な食卓』撮影中」の文字が入っていたので、てっきり大浦くんはこのヘアスタイルなのかと思ってました。
前髪下ろした方が幼く見えそうなところをあえてその逆を行ったのに、
「ワイルドな印象を強く出すことで中学生としては若干老けてることに(「ワイルドタイプは実年齢より上に見られがち」という形で)説得力を持たせる戦術か、まあ大浦くんのキャラにも合ってるんじゃないかなー」と。

ところが同5月発売の雑誌『Invitation』6月号に映画のワンシーン(佐和子とファーストフード店で語りあう場面)が小さく紹介されてるのを見てびっくり。予想に反して前髪を下ろしてる。
そしてややふっくらしてた時期のせいもあるのかすごく幼く見える。中学生として全然違和感なし。顔だけ見るなら小学生でも通用しちゃうかも?
やはりこの時期に店頭に並んでいた雑誌『QRANK』vol.15の「We love MOVIE」特集に勝地くんの写真つきコメントがちょこっと載ってたんですが、こちらの写真(2005年11月発売号に載ったものの転用、つまり『幸福な食卓』撮影より数ヶ月以前のもの)はすごく大人っぽくて23、4歳にも見えるのに。
外見年齢のあまりの違いっぷりに頭がクラクラしたものでした。
(ちなみにこのとき『QRANK』で勝地くんが紹介してた映画は深作欣二監督の『仁義なき戦い』。舞台『父帰る/屋上の狂人』で共演した高橋克実さんに勧められたそうです)

それから数ヶ月、『幸福な食卓』の公式サイトが立ち上げられ、改めて「大浦くん」の姿を見たわけですが・・・。
大きな写真でちゃんと見ると、さすがに中学生はキビしいかなーと多少の違和感は否めませんでした(笑)。
この違和感は公開初日に映画を見たときにもしばらくはつきまとっていました。単にビジュアル的な問題だけでなく、原作に比べると大浦くんの「愛すべき単純さ」がいくぶん不足している気がしたのです。

原作の(なんか家庭が複雑そうな)坂戸くんのキャラがミックスされてるせいもありますが、完全に佐和子の視点で描かれた小説と違い、佐和子の知らない大浦くんの表情(たとえば「可哀想な家の子なの?」発言に怒った佐和子が走り去った後を見送るときの顔とか)、迷ったり辛かったりする気持ちが観客に示されていたためかと思います(こちらで書いたように映画も基本は佐和子目線なので、あくまで「いくぶん」なのですけど)。

けれど合格発表の頃にはもうこうした違和感はすっかり感じなくなった。
明るく前向きで、一方的に決めつける喋り方も嫌味なく微笑ましくて、でもそれなりに悩んだり迷ったりもしている少年「大浦勉学」の姿が、勝地涼という俳優を通して、同じ教室にいるかのような実体感をもってそこに存在していました。
だから新聞配達のエピソードが登場するあたりからもう悲しくて。エンディングのスタッフロールを見たときには「ああそうだ、勝地くん自身はちゃんと元気にしてるんだった」と本気でホッとしてしまった。そのくらい大浦くんはスクリーンの中で「生きて」いました。
勝地くんはインタビューで、「勉学に魅力がないと彼を失った佐和子の悲しみがお客さんに伝わらないから」(概要)と、大浦くんが愛すべきキャラクターになるよう心を配ったむね語っていましたが、この作品を見て勝地涼にというより「大浦勉学」に恋してしまった人が少なくないあたり、彼の努力は見事に成功したようです。

プロデューサーの小滝祥平氏とは(脚本の長谷川康夫氏とも)以前『亡国のイージス』で一緒に仕事をしていて、その縁から大浦役のオファーが来たそうですが、あえて当時19歳の彼に中学生~高校生の役を振った小滝Pはさすがの慧眼です。
(『イージス』で演じた如月行は大浦くんとはおよそ対極的な役だというのに。『イージス』キャンペーンで役を離れた素の勝地くんを見知っていたからでしょうか)
映画を見た方の感想を読むと、多くの方が「さすがに中学生役は無理がある」と書きつつも、「あの嫌味のなさと包容力は勝地涼だから出せた」「大浦勉学があれだけ魅力的なキャラクターになったのは彼が演じたからこそ」と評価しているのがその証でしょう。
ついでに、ちょうど映画公開と同時期に連ドラ『ハケンの品格』に新人社員役で出演していたものだから、「彼の実年齢は一体!?」と混乱された方も多かったらしいですが(笑)。

(つづく)

4/22追記-意味不明な一文が入ってしまってたので、そこだけ削除しました。


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