この真理は冒頭ですでに「第一の貴族」が口にしている。「ありがたいことに、悲しみは永遠ではありません」。
人の心は移り変わってゆく。愛も悲しみも時とともに薄れてゆく。それを第一の貴族は「ありがたい」と感じているが、まさにその事がカリギュラには許せない。魂の懊悩も時が経てば癒えてしまうのだとすれば、その懊悩も懊悩する魂自体も実に安っぽい軽軽しい物という事になるではないか。
そして「愛があるだけでは充分ではない。(ドリジュラが亡くなった)当時おれが理解したのはそのこと。(中略)ひとりの人間を愛する、それはいっしょに年を取っていくのを受け入れること。おれにはこの愛ができない。年老いたドリュジラは、死んだドリュジラよりも悪い」と言うカリギュラは、自分自身が不変の愛を持ち合わせていないことを承知している。
おそらくドリュジラが死んだとき、彼は年老いて醜くなるドリュジラを見なくて済んだことに心のどこかで安堵して、この事実に気づいたのだろう。
しかし自身が不変の愛を持たないと知りつつ可変的な魂の軽軽しさを憎んだ彼は、自分の内に不変性を持ちえそうな物を愛の代わりに探し当てようとした。所詮あらゆる感情は移ろうもの。そこで彼が見つけたものが「論理」だった。
論理は反駁され否定されることはあっても移ろい消えてゆく類のものではない。むしろ別の論理によって反駁されることは、論理というものの力と正しさ、曖昧なところのない明確さを証明してくれる。
そしてそれゆえに感情という極めて個人的なものと違って、不特定多数で共有することができる。カリギュラはセゾニアに叫ぶ。「愛などとるにたりない。おれはそれを学んだ。正しいものは別にある。国の財政だ!」
財務長官の側から話題を振られたのが発端とはいえ、彼がその恐怖政治を国の財政問題からスタートしたのは思えば必然だった。金銭はもっとも価値が目に見えやすい、至って明確かつ物質的な存在であるからだ。
しかし論理を押し通すその過程で、彼は時に不必要なまでに残酷だった。人々を啓蒙すべく無差別に処刑を行うのはまだわかるとして、なぜ苛烈な拷問を行い舌を抜いたりする必要があったのか。神の残酷さに抵抗するために同じく残酷に行動しているのか。
もしかするとそれは彼が苦悩の永続を望んでいたゆえではないか。
愛に代わる不変の存在として彼は論理を見出したが、それはそれとしてドリュジラを失った時、「人は死ぬ、そして人は幸福ではない」という真理を知った時の苦悩が薄れてゆくことが耐え難かったのではないだろうか。その苦悩こそが彼が論理を押し進めるうえでの原動力ともなっているのだから。
際限なく他人を苦しめることで自分自身をも苦しめる(そこには同時に自分の苦しみを分かち合ってほしいという甘えもあったのかもしれないが)(※3)。心が苦悩に慣れて鈍ってしまわないように、その行動の残酷さ・馬鹿馬鹿しさはエスカレートしてゆく。
それでも彼は結局「苦悩もまた永続しない」「何一つ永続しない!」と叫ばざるを得なかった。
しかしこの時の彼は苦悩に慣れて心が動かなくなっているようには思えない。むしろひどく疲れ傷ついている。
苦悩も恐怖も永続しないのは、人の心がそれに耐え得ないからだ。ドリュジラの死から三年、意識的に苦悩を長引かせてきたカリギュラは、心が苦悩に慣れてしまったと感じるほどに――もはやまともに苦悩を感じ取れないほどに、精神を疲弊させてしまったのだ。
そしてやはり三年もの間、死の恐怖と苦悩に苛まれつづけた貴族たちは、もはや精神の限界点を超えたためにその苦悩の源であるカリギュラを殺すのである。
魂の不変を求めて自身と他人の苦悩を刺激し続けたカリギュラ。その結果彼は「苦悩もまた永続しない」ことを発見したが、彼はその発見こそを「本当の苦しみ」だとも言っている。
これは明らかにパラドックスだが、つまるところ彼はやはり苦しみ続けているのであり、だとすればやはり彼はやはり永遠に続くものを手に入れたのである。ゆえに彼はその心境を「法外な幸福」と語るのだ。
そこには苦悩が幸福であり、永続しない苦悩に永続的に苦しむという二重の矛盾がある。非論理的な情熱を持って論理を追求するという、最初から矛盾に満ちた企てはついに袋小路に迷いこんだように見える。
しかしカリギュラは「幸福とは、これだ」と言う。傍目には壁に突き当たったと見えるものが彼にとっては到達点だったのか。
第三幕以降、エリコンの忠言をあえて無視し反乱を企んだケレアを罰しなかったカリギュラは、死を望んでいた、ケレアたち反逆者を利用してカミュが言うところの「高度な自殺」をはかろうとしていたように見える。
もともと生殺与奪の権利が神に握られていることに反発して暴君の道を歩んだカリギュラが、自身の死ぬ時と場所、状況をかなりの程度自由に選択できる「自殺」に惹かれたのは自然の成り行きだし、(2)でも書いたように「死というゴールが与えられたことで彼は「最後まで理屈を通す」ことに成功した」。
しかしそんな「自由」なら凡夫でも充分手にする事が可能である。人間の代表として神に肩を並べようと企て、その途方も無い計画のために多くの人間を屠ってきたカリギュラの終着点が自死だとすれば何とも虚しいことだ。
カリギュラの意図が最後まで理屈を通すことそのものにあったにせよ、魂の不変を求めて論理と苦悩を極限まで追求したのにせよ、彼の企ては半分失敗している。
彼は自分自身に関する限りは目的地に到達し幸福を手にしたと言ってよいかもしれない。血塗られた、不幸としか見えない幸福でも本人がそう主張する以上、彼にとってはそれが幸福に違いないのだ。
しかし彼は、「人はもう死ぬことはなく、幸福になる」――いわば公共の福祉を目指していたはずなのに、他人のことは一切救えなかったのだ。
もっとも人々にプラスの影響をもたらした一面もなくはない。ケレアは言う。「あの男は考えることを強要する。みんなにむりやり考えさせる。安全ではない、ということが、人を考えさせるんだ」。
「何について」考えさせるのかケレアは語っていないが、おそらくは「生について」だろう。
絶えず死の恐怖にさらされていることが、必然的に彼らに生を意識させる。これまではうかうかと安楽に人生を送ってきたものが、生き残るために神経を尖らせ必死にならざるを得ない。ある意味彼らはカリギュラのおかげで、これまでになく真剣に充実した生を生きたのである。
カリギュラは彼らの生に対する「蒙を開く」ことにはある程度成功したと言える。
(「ある程度」というのは、「死」をテーマに詩人たちが詩作を行ったさい、カリギュラの心に叶う詩を書いたのがシピオン一人だけだったからである。彼らの生に対する理解は結局その程度にしかならなかったともいえる)(※4)。
ただそれを「幸福」と感じうるのは、苦悩に幸福を見出せる一部の「超人」だけであろうが。
それでもカリギュラが暴政を行った三年間、生に対し限りなく真剣に向き合ったことが、もしも彼らの精神に幸福に至るための何がしかの道筋を与えていたならば、その時こそカリギュラは真に世の不条理との戦いに勝利できるのかもしれない。
少なくとも彼の暴虐が確実に突きつけた事実がある。カリギュラは自分が神の行動をなぞっていることを繰り返し強調している。その理不尽さ、不条理のゆえにカリギュラを憎むのは神を憎むことに等しい。無差別に死をばらまくカリギュラを殺すことは神を殺すこと。ケレアたちは結果的に神の不条理を否定したのである。
これまでは信仰のもとに試練と思って耐えてきたさまざまの苦痛を、神の采配と言って片付けずに立ち向かうことで、取り除くことがある程度可能になる。やがてはカリギュラが望んだように生病老死さえも人間の手でコントロールできるようになるかもしれない(現代の医学を見ても、避妊、輸血、臓器移植、遺伝子治療などかつては「神の摂理に干渉すること」と批判を受けた技術が実用化されて、これまでなら失われていた命が助かるようになった)。
いわばカリギュラは神と人との関係を洗い直したのである。
※3-東浦前掲書。「彼は苦しむことを恐れない。彼が恐れるのは、ひとりで苦しまなければならないことである。ひとりで苦しむことを避けるために、万人を自分と同じ苦しみに引きずり込もうとすること―それはきわめて子供っぽい反応だろうし、ある意味では、堕落したロマン主義ともいえるだろう。しかし、そこには、他人に理解されたいというきわめて人間的な欲望を見ることができる。」
※4-調佳智雄「カミュの初期作品に於ける〝繰り返し〟(1)-「死」「幸福」「男」と『カリギュラ』」(『人文社会科学研究』45号、早稲田大学創造理工学部知財・産業社会政策領域・国際文化領域人文社会科学研究会、2003年)。「詩人たちはなぜ呼び子に中断されることになったのか。彼らに共通することはいずれも、「直接的」な死を歌っていることだ。しかも、死をまるで特別なものであるかのごとく、美辞麗句を並べ立てている。はなはだしきは、思い入れよろしく、おおげさに身構える。カリギュラにとって、死はそんなおおげさなものではない。もっとありふれた、どこにでも転がっているようなものなのだ。(中略)若くして父を失ったシピオン少年は日常的な幸福の情景を歌ってカリギュラの心を捉えている。両者とも死が身近なところに、幸福のすぐ傍に、あるいは幸福そのもののなかに巣くっていることを知っているからだ。」