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俳優・勝地涼くんのこと。

『カリギュラ』人物考(5)-2(注・ネタバレしてます)

2009-05-13 02:06:14 | カリギュラ
第二幕第二場、クーデター決行にはやる貴族たちをケレアは諭す。言葉を荒げたり叫んだりする箇所は一度もないが、その論理的であるゆえにまだるっこしい長台詞にもかかわらず、言葉の内容には人々の心を打つだけの真摯な熱と危機感がある。
彼はカリギュラの暴政を「高尚で致命的な情念のため」と言い、彼の持つ理念を正しく察知したうえで、「わたしはそれと戦いたい。命を失うなど大したことではない。いざとなれば、その勇気はある。だが、命の意味がなくなり、われわれの存在理由が消えてしまう、そんな目に遭うのは、どうしても耐えがたい」「わたしは大きな理念と戦う。その理念が勝利すれば、この世は終わりだ」と語る。
作者であるカミュ自身がカリギュラの方法論に否定的である(「カリギュラ」の項の※8、※9を参照)ことを思えば、そのカリギュラに命を懸けて立ち向かおうとするケレアこそが、この作品の真のヒーローとして設定されていると見ることもできる。

ただそう言い切るのには躊躇いがある。というのは第三幕終わりのカリギュラとの「男同士の語らい」以降、ケレアはヒーローにはふさわしくない卑小な顔を見せ始めるからだ。
この「語らい」の中に、カリギュラがケレアたちのクーデター計画の証拠であるタブレットを、燃やして彼らを見逃してやる、という場面がある。この時ケレアは「なにか仕草をしかけ、理解したらしく、口をあけ、突然出てゆく」。
この時のケレアの心理は二通りの解釈が出来る。おそらくこの二つの解釈のどちらもが正解なのではないか。

一つは、カリギュラに情をかけられたと受け取り、長く敵と目してきた彼に助けられたことに強い敗北感を味わったという解釈である。
ただ憐れみを掛けられたからというだけではない。この時すでに証拠を押さえられたことを察して死を覚悟していたケレアは、思いがけず命拾いしたことに確かに安堵してしまったのだ。
人情として当然のことではあるが、敵に情をかけられて喜ぶなど英雄たらんとしたケレアの誇り、ヒロイズムが許さないだろう。
そんな彼の心理をよくわかったうえでカリギュラは「この証拠が消えるにつれ、無罪の夜明けがおまえの顔にひろがってゆく。清らかなすばらしい額をしているな、ケレア。じつに美しい、罪のない人間、じつに美しい!」とことさらに追い打ちをかける(「無罪の夜明け」が「顔にひろがってゆく」とはそれまでは死の覚悟に張り詰めていたケレアの表情に過ぎった安堵の緩みを意味するのだろう)。
一番見られたくない相手に自分の心弱さを見られた。しかもそれを言い立てられる。このうえない恥辱だったに違いない。

そしてもう一つは、これをカリギュラが自身を殺せと教唆していると受け取って驚いたという解釈である。
カリギュラ自身がケレアたちに殺されることを望んでいる(第二幕第十場でメレイアに「おまえは人々を煽動する革命家だ。立派だ。」「おまえは男らしく死ぬ。反抗したためにな」と言うのも、貴族たち、とくにその近くにいたケレアに向かって自分を倒すよう挑発しているように見える)とあっては、彼らの行おうとしていることは暴君を倒すための勇気ある戦いから自殺幇助へと貶められてしまう。
貴族たちに「きみたちの小さな屈辱に味方するわけではない。」と言ったケレアは「大きな理念と戦う」、崇高な目的のために命をかけることにこそ価値を見出していたはずだ。だからこの発見は彼の自尊心を甚だしく傷つけたに違いない。
しかしもちろん皇帝を野放しにしておくこともできない。彼は苦々しい思いを抱えながらも自身を殺そうとするカリギュラと共闘せざるを得ない。

ケレアはカリギュラとの語らいの中で彼の求めに応じて、激烈といっていいほどの容赦なさでカリギュラを「有害」「全員の厄介者」と断じたが、その極めて率直で堂々とした態度は、結局すでに皇帝暗殺未遂のかどで処刑されると思い極めていればこそのものだった。開き直り、と言ってもよい。計算抜きに正面からカリギュラに感情をぶつけるシピオンとは大きく違う点だ(※3)

これ以前も以後もケレアはカリギュラに意見したりセゾニアたちに対して彼に否定的な発言をしたりはしていない。
他の貴族たちのようにあからさまな阿りを口にはせず、むしろ一捻りした嫌味めいた表現の発言をしてはいるものの、所詮それは決定的な危険は冒さずに「傷ついた虚栄心と卑しい恐怖心の群れ」と自分は違うのだ、という自尊心を慰めるためのレトリックに過ぎない。いっそ精一杯阿諛追従してみせる貴族たちの方が潔いとも言える。
踊りのマイムを行ったカリギュラを冷ややかな態度ながらも「偉大な芸術だった」と評したケレアは、カリギュラがヴィーナスを演じた場にいたとしても、シピオンのように一人平伏せずあまつさえカリギュラを神を冒涜したと非難するような真似はできないだろう。

カリギュラもそうしたケレアの弱さ―それだけ理性的だということでもある―を抉るような発言をわざわざ繰り返す。ただ自分を殺させるために処罰しないというだけなら言わなくてもいいはずの言葉を。
上述の「無罪の夜明け」もそうだし、反乱の証拠を押さえられていてこそ率直だったケレアの態度を「おまえの素直さじたい、猫をかぶった素直さだった」と指摘するのもそう。自分を憎んでいないと言ったケレアの憎しみを煽り立てようとするかのように。
反乱計画を知りながら見逃してやったというだけでもケレアは屈辱を覚えるだろうし、それが憎しみに発展したかもしれないが、ことさら彼に憎まれようとしているように思える。その理由はなんだろうか。

カリギュラはケレアに言う。「頭の良さは、高くつくか、それともみずからを否認するか、そのどちらかだ。おれは代償を払う。おまえは、どうして、否認せず、しかも代償を払おうともしないんだ」。
世の不条理を正しく見抜いていながらその不条理を正すために戦おうとはせず、自分が発見した真理を見なかったことにして非論理的な俗世間に沈むこともしない。
代償を払えばカリギュラとなり、否認すれば貴族たちのようになる。そのどちらにも組せずに、両方を高みから見下ろしているようなケレアの理性的な顔を、カリギュラは崩したかったのではないか。

(つづく)

 

※3-桂川久「カミュの『カリギュラ』を読む-シピオンの父親殺し-」(『藝文研究』XXVI、京都大学フランス語学フランス文学研究会、1995年)。「 「僕はカイユスに真実を言うことに決めたんだ。」(66) この反抗は結果的に実効を持たないにせよ、つまりカリギュラの考えを改めさせるに至らないにせよ、本当のことが言えない貴族たちの臆病さと比べても、Ⅲ-6(引用者注・第三幕第六場)におけるケレアの「誠実さの芝居」(80)―ケレアは一見、率直大胆にもカリギュラに死を宣告する。しかし、陰謀の明白な証拠を握られていると知ったうえでのことなら、それは誠実な言葉とは言えず、新たな危険を冒すことにもならない。―と比べても著しい対照をなす」。 


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