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俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(4)

2017-03-31 02:28:33 | ムサシ
タイトルに反してこのところ、勝地くんはおろか『ムサシ』そのものにさえ触れない回が続いたので、最終回前にちゃんと『ムサシ』について、キャスト中心に振り返ってみようと思います。

(3)-4~6あたりを書いていた頃に、遅ればせながら初演のDVDを見ることができました。『ロンドン・NYバージョン』のパンフレットで吉田鋼太郎さんが「今回は蜷川さんも、初演よりシリアスな部分を大切にしていこうとされてるようなので」と語ってらっしゃるのを読んではいたものの、予想以上にコント的な笑いを取る場面が多かったのに驚きました。
特に五人六脚のシーンはもつれっぷりがより激しく、武蔵が扇子でハリセンのごとくバシバシ相手を叩きまくっていたり、小次郎が「それがしの方がはるかに残念です」とコミカルに悔し泣きしたり(ここは再演ではシーンごと削られた)それに対して宗矩が「泣いてるぞ」とツッコんだり(この台詞は戯曲にない。戯曲の台詞を変えることを嫌う蜷川さんにあとで怒られなかったろうか)・・・。
「初期の井上作品に目立った爆笑喜劇風の笑いが生き生きとよみがえった。」との評(※168)が改めて腑に落ちた気がしたものでした。

それが再演にあたってよりシリアスな演出に変わったのはなぜだったのか。一つには海外、特に2001年のアメリカ同時多発テロ事件の舞台となったニューヨークで公演が行われるとあって、「報復の連鎖を断ち切る」という作品のテーマをよりわかりやすく切実に打ち出していく必要を蜷川さんが感じたからかと思います。
そしてもう一つと考えられるのは、蜷川さんがあえてやりにくい方向を目指したという可能性。井上さんの初期戯曲を好む蜷川さんは、五人六脚など脚本の段階でコント的要素を持つ『ムサシ』を初演時は初期戯曲のような「爆笑喜劇風」に演出したものの、自分にとってやりやすい、好ましい方向に作品を曲げてしまったような感覚があったのかもしれない。
6年間武蔵との再戦を期して厳しい修行を経てきた小次郎の苦心や無念はギャグにしていいようなものなのだろうか──そんな疑問が次第に生じてきたのではないかと思えるのです。

蜷川さんは再演にあたって「大きく変えたいと思っているのは小次郎像」だとパンフレットで語っています。
初演の小栗旬くんに変わって勝地くんが小次郎を演じることが決まったのが、小次郎像を大きく変えることに決めた前なのか後なのかはわかりませんが(パンフレットの勝地小次郎の写真が小栗小次郎を思わせる小綺麗な姿なのは、撮影の時点ではまだ初演のような小次郎でやるつもりだったのか)、小栗くんの貴公子然とした小次郎とは対極の薄汚れた「野良犬のよう」な小次郎、一度地に堕ち泥に塗れたところから這い上がろうとする怨念じみた迫力を漂わせた鬼気迫る小次郎を現出させたのは勝地くんの演技があればこそだったと思います。
「おのれとだまれの二つしかない」と武蔵に揶揄される語彙の乏しさ、単線的な物言いも、小栗小次郎ではお坊ちゃんらしい子供っぽさと感じられたものが勝地小次郎では復讐一途ゆえの視野の狭さと映りました。
上でも書いたように脚本を一字一句変えないことを旨とする蜷川さんにとって(今回海外公演のために井上さん自ら脚本を手直ししてはいますが、シーンごとカットした箇所がほとんどで残した場面の台詞はほぼ手を入れていない)、同じ台詞、同じ場面でも初演とは別のニュアンスを乗せられる勝地くんの表現力は、新たな小次郎像を作りあげるうえで大きかったんじゃないでしょうか。
たとえば親王のご落胤だと〈判明〉する場面で、小栗小次郎は目を剥いていかにもかつユーモラスな驚きの表情を作っている(初演の喜劇志向的にはそれで正解)のに対し、勝地小次郎は無表情に突っ立っているだけ。なのに〈動揺が大きすぎてリアクションを示すことさえできない〉状態なのがありありと伝わってくる。
わかりやすい動きは何もないのに何もしないことでかえって感情を表現するのは勝地くんの得意とするところで、初演より笑いの要素を抑えながらも基本はやはり喜劇というこの作品において勝地くんはその持ち味を上手く活かしていました。

また武蔵役の藤原竜也くんと小栗くんが同い年の、元々仲の良い友人なのに対し、4つ年下でなおかつ初めて観た舞台が藤原くん主演の『身毒丸』だった勝地くんにとって藤原くんが憧れの先輩というべきポジションだったことも大いに役作りに反映したと思います。
武蔵と小次郎も実のところ小次郎が六歳下の設定であり、常に小次郎が武蔵の背中を追いかけているような関係なので、勝地くんが藤原くんを見上げるような関係性はちょうど小次郎と武蔵さながら。当初はそれが演技のうえでの遠慮として現れてしまったものの、藤原くんにもっと正面からぶつかってくるようハッパかけられて以降は、武蔵に追いつき追い越そうとする小次郎の思いを我が物にできたのでは。
(3)-15ほかで書いたように武蔵と小次郎のやりとりは実際の藤原くんと小栗くんのやりとりに触発されたところの多い、いわばこの二人に対するアテ書きのはずですが、最初から勝地くんにアテ書きしたかのようにしっくりと、彼は小次郎と一体化していたと思います。

同時に小次郎を演じるうえでもう一つ有利に働いたのが、彼特有の品の良さ。薄汚れた着物に無精髭、目の下の隈が目立ついかにも復讐鬼然とした姿にもかかわらず、その佇まい、雰囲気にはどこかしら涼やかな清潔感がある。
真っ赤な嘘だったとはいえ親王のご落胤、皇位継承順位第十八位と言われても十分ありえそうと思えるだけの品性が小次郎役にはやはり必要なわけで、野良犬のような鋭さ・泥臭さと端正な上品さという対極のような二要素を同時に表現しうる(野良犬ぽさの方は演技、上品さの方は本質的なもの)勝地くんはまさに小次郎には適役でした。

他のキャストの方々も皆素晴らしかった。とりわけ主演の藤原竜也くん。武蔵役はタイトルロールでありながら自分から積極的に何かを仕掛けていくことはほとんどない、食ってかかってくる小次郎をいなし幽霊たちの企みに振り回される、基本的に受けの芝居が中心となる。
再演時でさえ27、8歳という若さでありながらどっしりとした重心の低さで、めったに自分からは動かない、しかし時折その泰然たる態度を破って剣客としての闘争本能が吹き出してくる(「あのときの沸き立つような命の瞬間がまた味わいたくて、おぬしに止めを刺さなかったのかもしれないな」「戦うのだよ、小次郎」)ような、静の中に動のある武蔵という男を見事に演じきっていました。
勝地くんも基本、年に似合わぬ重心の低い演技をする人ですが、今回は目をぎらつかせながら主役に挑みかかっていく挑戦者の役どころ。加えて憧れの役者である藤原くんと初めてがっつり共演することや蜷川舞台で初の二番手、初の海外公演など、俳優・勝地涼にとっても二重三重に挑戦の連続だったことと思います。
重心の低さはそのままに、同時に大きな壁に立ち向かって行くひりつくような熱さを感じさせる点では『亡国のイージス』に通じるものがあるかもしれません。
また藤原くん以外のキャストも勝地くんより年下の鈴木杏ちゃんに至るまで、抜群の表現力と安定感を備えたベテラン揃い。しかも沢庵役の六平直政さんを除けば全員初演からのメンバー。顔馴染のメンバーもいるとはいえ、すでに半ば出来上がっているカンパニーに途中参加する意味でも、勝地くんはチャレンジャー的なポジションだったわけですね。

このあとも『ムサシ』は2013年から2014年にかけて再々演されていますが、他のキャストはそのままに小次郎役だけが溝端淳平くんに代わりました。
ベテラン揃いのカンパニーの中に若手俳優が一人後から入っていくという構図(勝地くんの場合は若くともすでにデビューから十年近いキャリアを重ねていたわけですが)──役柄の上でも役者としてもチャレンジャーな小次郎という型を、ある意味勝地くんが確立したのかなと思ったりもします。


※168-「井上氏が蜷川演出のために初めて書き下ろした新作が前述の『ムサシ』だった。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の後日談だが、初期の井上作品に目立った爆笑喜劇風の笑いが生き生きとよみがえった。」(扇田昭彦「井上ひさしと蜷川幸雄の共通項」、初出・こまつ座&ホリプロ『ムサシ』再演パンフレット、二〇一〇年五月)

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『ムサシ』(3)-15(注・ネタバレしてます)

2017-03-15 19:01:42 | ムサシ
話がいいかげん広がり過ぎたのでここらへんでまとめると、井上さんと蜷川さんは批評に対し戦う姿勢、反骨精神、新劇に対する愛憎半ばする思いなど多分に似た資質を持っていながら、井上さんの方は蜷川さんが初期戯曲ばかりを高く評価することやその「いちばん新劇的」な要素に反発したい気持ちも抱いていた、それが初めて新作戯曲を託すにあたって、〈武蔵と小次郎以外の全キャラクターは実は死者〉という重要情報をあえて伏せる、しかも完成稿を初日の2日前にようやく渡すという蜷川さんへの嫌がらせに近いような挑戦に繋がったのではないかというのがここまでの主旨である。

ところで近年やはり「嫌がらせに近いような挑戦」を蜷川さんに挑んだのが、小説家の古川日出男さんだった。初の戯曲『冬眠する熊に添い寝してごらん』(初演2014年)を蜷川さんの依頼で書き下ろすにあたって古川さんは、「蜷川さんへの挑戦状のつもりで書きました」と製作発表で語ったという(※149)
また初日直前に書かれたエッセイでは「対決などという大それたことをするつもりはなかった。対峙しようと決めていただけだ」「できあがった戯曲は、どうやら蜷川さんを本気で困惑させている。つまりここに“本気”対“本気”がある。」(※150)と記していて、実際蜷川さんも「やりにくいものが来ることを期待して古川さんにお願いしたんですが、想像以上にやりにくい。まだ僕らが理解しえていない部分も何カ所かあって、初日までに解けるといいなってところです。三割くらい謎が残ってる。」「とにかく整理無視、ルール無視のホンですね。 だから裏方も苦労しています。」(※151)と大分苦しんだらしい。
膨大なト書きを適当に取捨選択すれば大分楽になったのだろうが、蜷川さんはいかなる時も台詞やト書きをいじらずその通りやるのが信条の人である(※140参照)(※152)。もちろん古川さんもそれを承知のうえで〈ト書きが異様に長い台本〉という挑戦状を用意したのだ。

といっても古川さんは悪意をもってそうしたわけではなく「あのニナガワに戯曲を依頼されたのだから、一〇〇パーセント本気で書こう」(※150参照)とした結果だった。そして「やりにくいものが来ることを期待して」とあるように、蜷川さんにとってこの困難は自ら買って出たものだった。晩年にあって自己のスタイルの解体・再構築を目指し続けた蜷川さんにとっては『冬眠する~』のような今までの方法論が通用しない戯曲はむしろ望ましかった。
となれば、井上さんの初期戯曲を高く評価する蜷川さんにとって近年の、というより最新の戯曲である『ムサシ』は、自分の好みに合わないことが想定されるがゆえにかえってやり甲斐のある作品だったのではないか。噂に聞く井上さんの大遅筆による迷惑をついに正面から被るに違いないことも、かえって燃える要因になったことだろう。

前回名前を挙げた清水邦夫さんも遅筆で知られた方だが、蜷川さん演出の『血の婚礼』(1986年初演)を執筆したさい、初日一週間前になっても全く台本ができていない状態にもかかわらず蜷川さんが先にセットを作り、それにインスパイアされた清水さんが10枚ほど書き、その10枚分の稽古の様子を見てまた触発されて書き・・・を繰り返して無事完成した(!)そうだが、蜷川さん曰く「ライブみたいなもんで、そういうときの清水の作品って、すごくいいんですよ」「“現在”というものが刻印されている気がして、ライブ感覚がすごくいい。言葉のライブ感覚。」(※153)
脚本家の遅筆ゆえに苦労を背負いこみながら、演出(セットの設定、稽古)・役者(稽古場での演技)・脚本が相互作用しながら作品が仕上がっていく過程を「ライブ感覚」として逆に楽しめる感性と強靱な精神力。近年の蜷川さんが即興的な演出を行うようになった(※151参照)のも「ライブ感覚」を重視する気持ちの表れなのではないか。
蜷川さんにとっては井上さんの遅筆に伴うさまざまな面倒事も、結果いい脚本が仕上がってくるなら、むしろ好ましい困難ですらあったかもしれない。井上さんも『ムサシ』執筆中に蜷川さん及び役者陣の訪問を受けて、生の藤原くんと小栗くんのやりとりに触れたことで筆が進んだ(※92参照)(※154)というが、これもまさに「ライブ感覚」の所以であろう。

井上さんの遅筆を「好ましい困難」と捉えたのは蜷川さんばかりではない。井上作品を数多く演出してきた鵜山仁さんは※153のトークショーの中で「僕なんかは「これからどうなるんですか」と伺うと、「いや、わかりませんよ」と言って、よーいドンなんで気楽なんですよね。」「(俳優から)「どうしたらいいんですか」と言われて「僕はわかりません」なんて言うと普通演出家としては具合が悪いんですけど、井上さんの現場は「いやあ、わかりません」と苦笑まじりに言っておけば、よーいドンで同じ目線で仕事ができる」(※155)と語っている。
同じく井上作品を多く演出した栗山民也さんも「井上さんはよく遅筆が話題になるけど、演出家の立場からすると、今の現代演劇の書き手から一年前につまらない台本をもらうよりも、井上さんの稽古場のほうが、より芳醇な時間を過ごすことができた。人生なんて結局、ラストシーンがあって、そこへたどる伏線を張って、それでこの人はどういう人だったのかなんて考えませんよ。その瞬間を必死に生きて、会話を交わす。どこへ行っちゃうのかなんてわからない。僕は、芝居はそういった瞬間の連続で作られていくのが一番面白いと思う。」(※156)と言う。

井上さんと親交のあった作家たちがその遅筆に苦言を呈している(※157)(※158)一方で、直接迷惑をかけられたはずの演出家たちが井上さんの遅筆ぶりを好意的に見ているのが面白いが(※Ⅹ)、考えてみれば栗山さんのいう通り、いかに時間的にはゆとりがあろうと、どう演出しても面白くなりそうもない箸にも棒にもかからないような作品を渡されるより、初日ぎりぎりの綱渡りであろうと演出し甲斐のある(役者にとっては演じ甲斐のある)名作を渡されたほうがどれだけいいかしれない。
そして「その瞬間を必死に生きて、会話を交わす。(中略)芝居はそういった瞬間の連続で作られていくのが一番面白い」とは蜷川さんの「ライブ感覚がすごくいい」に等しい見解であろう。ギリギリのスケジュールの中で演出家も役者も全身全霊をかけて奮闘することによって、かえってリアルな息吹のこもった芝居が生まれてくる。それはまぎれもなく「芳醇な時間」に違いない。
もっとも※153のトークショーの中には〈今回新国立劇場で連続上演した「夢三部作」は台本がぎりぎりだった初演に比べて「全然違うなぁと思うくらい、出来がいい〉」(※159)という話も出てくる・・・まあ確かにしっかり稽古する時間があった方がより完成度の高い作品になるのが普通だよなあ。

ちなみに井上さん自身は『代役』という短編小説(今村忠純さんはこの作品を「台本、演出、俳優、裏方たちへの、小説のかたちをかりた井上演劇論」と評している(※160))の中で、「その俳優が持っているものは初日の舞台にすべて発現される。もっていないものは出ない。それだけのことである。もしも台本がはやく上ればもっといい演技ができたのにという俳優がいるなら、彼はシェイクスピアの作品で名演技を示してくれなければならない。だが、決してそうはならない。」(※161)との見解を述べている。
これはさすがにちょっとヒドいというか議論のすり替えめいたものを感じる。役者にも向き不向きがあるわけで、シェイクスピアの舞台で名演技を示せない役者でも井上作品の再演─つまり台本が稽古初めから出来上がってる状態─では初演時よりいい演技をするかもしれない。俳優が無理に無理を重ねてかろうじて芝居として成立させたもの(「かろうじて」なので※159にあるように微妙な出来ばえだったりする)を〈実力のある俳優ならそれくらい出来て当然〉とばかりに開き直られると・・・。
さらに井上作品の多くはミュージカル仕立て、つまり歌があり、方言のある芝居も多い。歌も方言も通常の芝居以上に練習時間を必要とする。これを初日まで残り数日という状況で覚えろ、お金をとって観客に見せられるレベルに仕上げろというのだから無茶ぶりもいいところだ。

しかしこまつ座唯一の専属俳優として多くの井上作品に出演している辻萬長さんが〈井上さんの作品には多くの「責め」があるが、それをちゃんとやるとお客さんの拍手があるのが一番の喜び〉と語っている(※162)ように、その「無茶ぶり」は演じ手に俳優冥利に尽きる喜びを与えてもくれるものだった。
ぎりぎりに届く台本に四苦八苦し、そもそもちゃんと初日の幕が開けられるかどうかの不安にいらいらし続け──それでも井上さんの芝居に出ようという役者が引きもきらないのは、出来あがった台本が面白いからであり、難しいけれど演じ甲斐のある、役者を喜ばせるような仕掛けが用意されているからなのだ。

この無茶ぶり、難しいけれどやり甲斐のある仕掛けは演出家に対してもまた用意されている。蜷川さんは井上さんとの対談の中で、初めて井上戯曲を演出した『天保十二年のシェイクスピア』の時の経験を、「「ロミオ、ふわりと上へ上がる」なんてト書きがあると、どうやったらいいんだろう、と頭を抱えて悩むわけです。でもそこをリアルに変更してしまうよりも、工夫して本当に「ふわりと」ロミオが飛ぶと、客席からは大喝采が起きるんですよ。」と述べている(※163)
苦しいが、そこを抜けた先には喝采が待っている。そして苦しんだ分、自身も一つステップアップできる。苦しみと背中合わせのそんな喜びが俳優や演出家を井上作品へと惹きつけるのだろう。

(ちなみに舞台美術の大御所で蜷川作品も多く手がけている朝倉摂さんは、おそらくは蜷川さんを念頭において「あたしの場合は、演出家はわがままなことを言うほどいいと思ってるわけ。とんでもないようなこと、とてもできないようなことを言ってくれた方が、できることに近づき得るわけです」とインタビューで発言している(※164)。蜷川さん自身もスタッフに無茶ぶりし、その無茶ぶりをかえって慕われ望ましく思われているわけだ)

また※163の対談で蜷川さんは「僕は、何が嬉しかったかというと、生き返ったんです。井上さんの戯曲の言葉で。僕自身が蘇生した。井上さんはどうしてこんなに美しい言葉を書けるんだろう、どうやったら、こんなことが舞台の上で成り立つんだろう。この人の言葉を何とか自分のものにしたい……。三島由紀夫に対しても、寺山修司に対してもそうですが、その思いが、僕を芝居へと駆り立てているんだと思います。」とも述べている。
無茶な指定のト書きに挑むことのみならず、井上戯曲の言葉の魅力もまた蜷川さんの演出意欲を駆り立てるものだった。蜷川さんは「再生」という言葉を使っているが、上で書いたように自身の解体・再構築を目指していた蜷川さんにとって自分を「再生」させてくれる井上作品との出会いが実に大きかったのがわかる。

一方の井上さんも同対談で『天保~』の導入部について長かったト書きを削りに削って「「農民合唱隊が歌う」とそっけなく始め」たところが、「蜷川さんの手にかかると、皆が半裸で肥桶を担いで、とどろくような大合唱に生まれ変わっていた。稽古場で最初のシーンを見たときは、驚いて、面白くて、腰を抜かしそうになりました」「次々に繰り出されてくる色彩の組み合わせの面白さとか、役者さんたちの色気や熱気とか、大道具の出てくるスピードとか、芝居10本分くらいの手が使われていて、気がついたら4時間たっていました。自分の作品を通して、蜷川さんというのはすごい人なんだと改めて実感しました。」と興奮を表明している(※165)
ト書きでごく細かいところまで指定されていて演出の自由度の低い井上戯曲について、「演出家としては、こんなにうまく書きやがってもうやることないじゃないか、という思いもあるんですが、逆に敵愾心というか自尊心が湧くということもあるのです」(木村光一さん談、※86参照)、「木村光一さんが「(井上さんの作品は)僕がやっても君がやっても同じだね」と乱暴なことをおっしゃったことがあります。それだけ井上さんの戯曲は井上さんの色が濃いので」(鵜山仁さん談、※166)と演出家から冗談交じりの不満の声が上がる中、蜷川さんも「演出家の俺は、どこにやるべきことが存在しているのだろうかと思うのね。」と言いつつも、「ぼくはそういうとき、井上さんの本の中に生々しいものをちょっと入れたくなる。(中略)きっちり井上さんが計算して作ったものを、ちょっと亀裂を入れたくなるんだよ。」(※85参照)と独自の仕掛けを投げ込んできた。井上さんを驚嘆させた『天保~』の大合唱がいい例だろう。ト書きの指定は厳密に実行し台詞には一切手を加えない、元の戯曲を徹底して尊重しながら、井上さんの色に拮抗できる蜷川色を打ち出してきた。

井上さんは、その遅筆にめげることなくぎりぎりで届いた戯曲を一定以上の完成度を持った芝居に仕立ててくれる優れたパートナーとしての演出家たちと長く仕事をしてきたが、晩年に至って下手をすると自分の色を消されかねないような好敵手としての演出家と出会うことになった。
ただこれまではすでに台本の存在する既存の作品、演出プランに時間をかけることのできる状況があったが、新作ならばどうか。台本がぎりぎりに届くような状況でも蜷川さんはこれまでのように自分の色、独自の演出を入れ込んでくることが可能だろうか。
台本そのものはぎりぎりになろうとも、「演出家にどっさりと考える時間をさしあげなければならない」からと、「演出家に「世界」解読の鍵を呈上するため」に事前に長いプロットを書いて渡すことにしている(※167。もっともこのプロットも大分遅れがちではある)井上さんが、〈武蔵と小次郎以外は全員死者〉という根幹的設定をぎりぎりまで演出家にさえ洩らさなかったのは、『ムサシ』という作品を通して蜷川さんに勝負を挑んでいたからではないかという気もするのである。



※149-「製作発表で古川は「僕の初めての戯曲は、ト書き(登場人物に対するせりふ以外の動作や行動の指示)が異様に長く、蜷川さんへの挑戦状のつもりで書きました」。蜷川は「古川さんの小説は、現代の捉え方に劇作家と違う、独特の疾走感があって、ぜひ戯曲を演出したいとお願いしました。ただ、台本をもらって『えっ、古川さん、これどうやって演出すればいいの?』と思うことが次々と出てくる。でも、舞台化のハードルが高いことは、演出家として燃えます。もっと上に行ける可能性が生まれますから」と答えていた。」(高橋豊「舞台 冬眠する熊に添い寝してごらん 蜷川幸雄が燃えた古川日出男の挑戦状」、『週刊エコノミスト』2014年12月31日・1月7日合併号)

※150-「対決などという大それたことをするつもりはなかった。対峙しようと決めていただけだ。あのニナガワに戯曲を依頼されたのだから、一〇〇パーセント本気で書こう、と。差し向かいになり、「おれは一人の小説家として、曝されている」と感じながら筆を執りつづけようと。そして、そうした。できあがった戯曲は、どうやら蜷川さんを本気で困惑させている。つまりここに“本気”対“本気”がある。」(古川日出男「舞台初日三時間前のメッセージ」、『波』2014年2月号)

※151-「奔放な戯曲なので演出は全部難しいですよ。もちろんやりにくいものが来ることを期待して古川さんにお願いしたんですが、想像以上にやりにくい。まだ僕らが理解しえていない部分も何カ所かあって、初日までに解けるといいなってところです。三割くらい謎が残ってる。(中略)とにかく整理無視、ルール無視のホンですね。 だから裏方も苦労しています。最近の僕はやりながら作っていくから、その日その場で演出していく。はじめから全部プランがあって、建築のように構造的なものを作るわけじゃない。熊の穴をちゃんと寝られるようにとか、堤防作ってとか、大仏の扉は観音開きがいいとか、ほぼ即興演出です。スタッフは意地でしょうね。僕を喜ばせたい、古川さんを驚かせたい、そういう気持ちでやってるんじゃないかな。」(蜷川幸雄「舞台初日三週間前のインタビュー ─古川日出男『冬眠する熊に添い寝してごらん』」、『波』2014年2月号)

※152-「(唐十郎作の83年の舞台『黒いチューリップ』について)僕は演出家として、戯曲の台詞を変えず、ト書きを守るのを原則としています。唐さんは、ト書きの中で文学的に問い掛けてきて、僕はそれに対して演劇的に応えたつもりです。ト書きに書いてあることはすべてやりました。」(インタビュー・構成 高橋豊「蜷川幸雄インタビュー ファッショナブルな街にノイズを」(扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』、株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)

※153-「清水「『血の婚礼』って作品では、きみに迷惑かけたけど、今考えると、不思議な稽古だったね。まるでおくれちゃって、一週間前になっても台本ができない。ところが本がゼロなのに、「セットつくったぞ」って連れていかれて、セットを見ながら書き出した。書き出したって、一日十枚ぐらいできればいいところで、その十枚で稽古するわけなんだ。それを見て、ぼくがまた次を書いてくる。 蜷川「清水に体力があれば、そういうやり方をしたときの清水の芝居って、ぼくは好きなんです。『血の婚礼』がぜんぜんできなくて、ぼくがコインランドリーとビデオショップのセットをつくって、稽古場で遊んでいたんです。それがおもしろいんで、清水に「ちょっと見に来い、見に来い」って、ベニサン・ピットに来てもらったの。そうしたら清水が見て「あっおもしろい、書く」ってすぐ帰って、翌日十枚ぐらいくれた。それをもらって、みんな初見で稽古していく。清水はこっち側で見てて帰る。すると、次が出てくる。それをもってくると、またみんながやりながら、清水は見ている。で、また帰って書く。その繰り返しを一週間ぐらいやってできた本なんです。ライブみたいなもんで、そういうときの清水の作品って、すごくいいんですよ。そういうきみの芝居がぼくは好きなの。(中略)文学的に言ったらいろいろな問題はあるのかもしれないですけど、なまの演劇として、パフォーマンスとして、すごく生き生きとしてておもしろいんです。“現在”というものが刻印されている気がして、ライブ感覚がすごくいい。言葉のライブ感覚。」(清水邦夫ラ蜷川幸雄「ぼくたちの青春 ぼくたちの演劇」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年)収録、初出1995年)

※154-「びっくりしたのは、『ムサシ』という新作をやったとき。僕らこまつ座のときの新作は大事に鎌倉の自宅で書いてらっしゃるから、絶対に邪魔しないようにということで、ひたすら待つだけだったんですが、『ムサシ』のときは井上さんのところに陣中見舞いに行こうということになって、そんなことしたらと僕は内心思っていたんですが、実はそれが大成功で、藤原竜也と小栗旬が出ていて、彼らは若いから井上さんもあまりご存じないふうでしたが、井上さんの自宅にみんなで行った次の日に出てきた原稿がすごかった。まさに当て書きの、若い2人のキャラクターを生かしたすごい台詞が出てきて、そのときは新作で苦闘しているときでも井上さんのところに行ったほうがいいんだと思いました。」(「「東京裁判三部作」新国立スペシャル・トーク ─井上ひさしの現場─」(出席者 辻萬長・鵜山仁、聞き手・大笹吉雄、http://www.nntt.jac.go.jp/library/library/theater_talk07_03.html)より辻さん発言。

※155-「僕なんかは「これからどうなるんですか」と伺うと、「いや、わかりませんよ」と言って、よーいドンなんで気楽なんですよね。」「(俳優から)「どうしたらいいんですか」と言われて「僕はわかりません」なんて言うと普通演出家としては具合が悪いんですけど、井上さんの現場は「いやあ、わかりません」と苦笑まじりに言っておけば、よーいドンで同じ目線で仕事ができるんで、新作をやらせていただくときは妙に気楽に入っていけたというか、実はそういう感じでした。」(「「東京裁判三部作」新国立スペシャル・トーク ─井上ひさしの現場─」(出席者 辻萬長・鵜山仁、聞き手・大笹吉雄、http://www.nntt.jac.go.jp/library/library/theater_talk07_02.html)より鵜山さん発言。

※156-「井上さんはよく遅筆が話題になるけど、演出家の立場からすると、今の現代演劇の書き手から一年前につまらない台本をもらうよりも、井上さんの稽古場のほうが、より芳醇な時間を過ごすことができた。人生なんて結局、ラストシーンがあって、そこへたどる伏線を張って、それでこの人はどういう人だったのかなんて考えませんよ。その瞬間を必死に生きて、会話を交わす。どこへ行っちゃうのかなんてわからない。僕は、芝居はそういった瞬間の連続で作られていくのが一番面白いと思う。」(井上麻矢・栗山民也・辻萬長「追悼 こまつ座が見た井上ひさし 待たされた、ダマされた──だけど楽しかった」、『文藝春秋』2010年6月号)

※157-「永六輔は、ひさしについて話をすることについて、これだけは書いてくれないと、と条件を提示した。筆者も約束を違えるわけにはいかないのでここに紹介しておこう。 「ひさしさんはすごい人ですけれども、台本が遅れるのは許しません。遅れても本が良ければ許されるというのは、一回二回限りです。慣例になってしまってはいけません。俳優というのは弱い立場にいるのです。立場の弱い役者をいじめちゃいけません。初日に緞帳を上げられなくては劇作家とはいえません。天才ですから、彼の周囲には累々と仲間がころがるのは仕方がないことことかもしれませんけれども、それを見ているのは、正直いってつらいです。」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年)

※158-「井上さんは一〇回、舞台の幕が開かなかったことがあるんです。心のやさしい、いい人なのにどうして、芝居の初日までに台本が届かないということが演者や演出家、劇場の経営者にとってつらいことかわからないんだろう。わからんはずがないと思うんだけど、そこだけはどうにもならないところがありましてね。幕が開かなかったことが一〇回で、開かなくなりそうなことは、そのまた三倍くらいはあったんじゃないかと思いますけどね。」(阿刀田高「小説の書き手として、読み手として」、菅野昭正編『ことばの魔術師 井上ひさし』、岩波書店、2013年)

※Ⅹ-ちなみに井上さんの遅筆のためにおそらくは最大の被害を被ったと思われる人物──(3)-13で触れた公演中止になった舞台『パズル』のプロデューサーだった本田延三郎さんの娘である青木笙子さんは「パズル事件」に関してこう書いている。「八十三年一月十二日から三十一日に西武劇場で予定されていた「パズル」が、公演間近になって中止になった。それまではぎりぎり公演に間に合った。だから今度もそうなるにちがいないと、本田は踏んでいただろう。しかし、間に合わなかった。 中止と決断するに至るまでの、井上ひさしの苦闘がどんなものか、とうていわかるものではない。なんとか完成させねばという焦りといらだちが極限に達し、それでも書けないとわかったときの無念さ。すでに公演日程も決まり、それに向けて関係者は動いている。それでもどうすることもできない。書けない。中止だ。そう決意するまでの長い時間、地獄を見た思いであったろう。」「スタジオジブリ発行の「熱風」(二〇〇五年五月号)には、特集記事として「僕が演劇を続けてこられたわけ」というテーマで、四人の演劇関係者が文章を寄せている。そのなかの一人、渡辺さん(管理人注・こまつ座の渡辺昭夫氏)は「早送り “私”のこまつ座二十年」という題で書いている。(中略)「天才とただの男が仕事をするということはどういうことだろう。理屈抜きに感じていた恐怖があった。自己の存在にかかわることだった。」 この部分を読んだとき、本田の姿が重なった。父も同じ思いではなかったかと。渡辺昭夫はそれを知っていた。だからこそ、同じ制作者という立場以上のものを本田に感じていたのだろう。井上ひさしの恐ろしいほどの才能、そして温かい人柄は誰もが魅せられる。一緒に仕事をする人間は心酔しきってしまうのではないか。それがどういう結果をもたらすか。それが「理屈抜きに感じていた恐怖」という言葉になって出てきたような気がする。 「天才とただの男が仕事をするということ」の怖さを、渡辺昭夫は「パズル事件」にも見たにちがいない。(中略)井上ひさしの原稿の仕上がりに本田はこれまでも何度もはらはらしてきたが、それでも結果として間に合った。今度も大丈夫だ、そう信じていたのだろう。でも、間に合わなかった。どの世界にだってそんなことはいくらでもある。誰が悪いのでもない。今回はうまくいかなかった、それだけのことだ、本田はそう思っていたにちがいない。 誰かに、何かに賭ける──それは本田にとって幸せなことだった。「才能」に賭ける──渡辺昭夫もそうだったのではないか。でもその結果、何かが見えなくなる、見えなくさせられてしまう。その何かがわからないから、「恐怖」という言葉になって出てきたのだろう」(青木笙子『沈黙の川 本田延三郎 点綴』(河出書房新社、2011年))。この事件のせいで相当の迷惑を被ったはずなのに、井上さんに恨み言を述べずかえって彼の苦しみを思いやる青木さんの寛容さには驚くが、本田さんが井上さんの遅筆にさんざん振り回されながらも幸せだったはずという確信があればこそなのだろう。ちなみに本田さんは戦前プロレタリア演劇同盟の中核人物だったためにたびたび検挙され、ゆえに「小林多喜二の検挙・虐殺は本田の「自白」に基づくものではないか」との不名誉な疑いを長らくかけられていたが、井上さんは遺作となった戯曲『組曲虐殺』の中で多喜二逮捕をお膳立てしたのが特高警察のスパイだった三船留吉であったことをはっきり描いている。この作品の取材のために青木さんからご両親の日記を借り出したりもしていて、執筆の動機のうちには、かつて大迷惑をかけた罪滅ぼしのために本田さんの無実を作品を通して世に知らせようという意図もあったのかなと思ったりします。(「渡辺さんからお願いしたいことがあると電話を受けたのは、二〇〇九年の初夏だ。井上ひさしが『組曲虐殺』を書くにあたって、小林多喜二と同時期に築地警察署にいたわたしの父の何か資料でもあればという話だった。直接当時のことと関係はないが、父の日記と母の日記が手元にあったので、それでよければと、その日に持参した。(中略)しばらくして本田の日記が戻ってきたときに添えられていた手紙には、丁寧なお礼の言葉とともに「本田延三郎様が、あの時代に生き抜くことのできなかった(官憲の拷問などによって)方々の生命を受けついでこられた!それはプロデュースされた演劇作品になって結実していると思います。本田さんの生命も、本田さんが手がけた井上作品を上演することで、私たちも引きつがせていただいているとも感じております。八月三日」と書かれてあった。」「昭和八年二月二十日正午、小林多喜二は同志今村恒夫とともに赤坂溜池付近で拘束され、その夜京橋区(現・中央区)築地警察署で、特高刑事によって拷問の果てに殺された。 その一週間前、二月十三日、父本田延三郎は検挙され、同じ築地警察署に留置、取り調べを受けていた。 このことが本田にとって、のちに決定的な「烙印」を焼き付けられることになる。小林多喜二の検挙、虐殺は本田の「自白」に基づくものではないか、ということが、当時もまた後にも囁かれもし書かれもした。 本田は終生、これについて自ら何の弁解もしなかった。ただ戦後、「五月舎」を立ち上げたとき、劇作家の井上ひさしにだけは、事実の一部を伝えていたようである。井上は最晩年「組曲虐殺」の構想に際して、この歴史的事実を徹底的に検証していった。井上の取材に全面協力した渡辺昭夫から、一冊の資料を手渡された。司法省調査部作製の極秘資料「司法研究」報告書二十八輯九「プロレタリア運動に就ての研究」(昭和十五年三月)というものだった。これを読むと運動に携わってきた人たちの動向を司法局は同時点で完全に把握していたということがわかる。」(青木前掲書)。余談ながらこの『沈黙の川』には蜷川さんの舅にあたる生江健次氏((3)-※39参照。共産党員で小林多喜二とも本田さんともプロレタリア運動に関して直接接触があった)も登場している。井上さんも当然生江氏のことは知っていたでしょうが、蜷川さんの身内だと気づいていただろうか。

※159-「大笹「この夢シリーズも初演はたいへんだったようですが。」  鵜山「僕は現場にいなかったんですが、3本ともそれぞれぎりぎりでしたね。」 大笹「だから、というとちょっとおかしな言い方になるんですけど、今回の連続上演は初演とは全然違うなぁと思うくらい、出来がいいんですよね。」(「「東京裁判三部作」新国立スペシャル・トーク ─井上ひさしの現場─」(出席者 辻萬長・鵜山仁、聞き手・大笹吉雄、http://www.nntt.jac.go.jp/library/library/theater_talk07_02.html)より大笹さんと鵜山さん発言。

※160-今村忠純「解題」、『井上ひさし短編小説集成第7巻』(岩波書店、2015年)

※161-「読者のなかの、さらに心ある方々はこうおっしゃるかもしれない。「いくら創作劇だからといっても、やはり台本は早く上るにこしたことはないではないか。仕上りのおそい役者は、台本がおくれると困るだろう。彼らに発酵する時間を与えなさい」と。 一理はある。とくに台本の最後の一枚が舞台稽古の三日前にようやくできあがったというような忌わしい前歴をもつぼくには、これは恐しい批判である。しかしあえて強弁すれば、俳優の演技に、おそい仕上りだの、はやい仕上りだのというものはない。その俳優が持っているものは初日の舞台にすべて発現される。もっていないものは出ない。それだけのことである。もしも台本がはやく上ればもっといい演技ができたのにという俳優がいるなら、彼はシェイクスピアの作品で名演技を示してくれなければならない。だが、決してそうはならない。」(井上ひさし『代役』、『井上ひさし短編小説集成第7巻』(岩波書店、2015年)収録、初出1985年)

※162-「大笹「書き手としては、役者を責めているというとおかしな言い方だけれど、苦しませたあげくに花を咲かせる仕掛けがありますね。」 辻「井上さんの芝居をやっていていちばんの喜びというのは、いまおっしゃったようにいろんな責めがあるんですよ。なんでこんなことやらなくちゃいけないんだと思うんですけど、それをやるとちゃんとお客さんの拍手がある、ご褒美が待っている、これがいちばんいいですね。」 大笹「いわゆる「かせ」というんでしょうか、それが何重にもあって、「かせ」が重くかかってくればくるほど、芝居としてもおもしろい。俳優としてもやりがいがあるわけでしょ。そして、それを抜けたらお客さんの拍手が待っていると、それこそ私は俳優の経験がないので味わったことがないけれども、うまくいったらこれは俳優冥利につきると思いますね。」 辻「『雨』で最後に白装束をおたかが着せるじゃないですか、やっぱり着せるというのは実はすごい技術なんですよ、しかも着せながら山形弁でしゃべる。それをやるとお客さんがわぁとくるから、それが井上さんの舞台をやっていちばんの喜びですね。」(「東京裁判三部作」新国立スペシャル・トーク ─井上ひさしの現場─」(出席者 辻萬長・鵜山仁、聞き手・大笹吉雄、http://www.nntt.jac.go.jp/library/library/theater_talk07_04.html)より大笹さんと辻さんの発言。

※163-「あと、僕の場合は何とかして戯曲の「言葉」に拮抗したいなあと思っている。今回も、印刷された上演台本のほかに、井上さんの手書きの修正が入った原稿をテーブルの上に置いているわけです。どこをどう直したか、たとえば「ね」を消して「と」にしたとか、そういうのがヒントになる。僕は台本の言葉は変えないで一字一句そのままやりたいので、役者にもすぐ「語尾を変えるな!」って言うし、飛躍しているところ、よくわからない部分はパズルを解いているみたいな感じです。たとえば井上さんの「ロミオ、ふわりと上へ上がる」なんてト書きがあると、どうやったらいいんだろう、と頭を抱えて悩むわけです。でもそこをリアルに変更してしまうよりも、工夫して本当に「ふわりと」ロミオが飛ぶと、客席からは大喝采が起きるんですよ。」(「演劇界の両雄、初顔合わせ 「リア王」よりも「怒れるジジイ」でいたい 井上ひさしラ蜷川幸雄」、http://hon.bunshun.jp/articles/-/4861、初出『オール讀物』2006年1月号)

※164-「強固な美意識をもち、鮮烈で躍動的な動きを重視する蜷川幸雄演出と組むことで、朝倉摂の世界はそれまで以上に躍動的になり、重層的になり、視覚性も強くなった。 雑誌『新劇』(白水社)一九八〇年五月号に掲載された座談会「舞台空間の可能性」で朝倉摂さんはこう語っている。 「あたしの場合は、演出家はわがままなことを言うほどいいと思ってるわけ。とんでもないようなこと、とてもできないようなことを言ってくれた方が、できることに近づき得るわけです」 要するに、常識を破り、舞台美術家に難しい課題を突きつける「とんでもない」演出家のほうがスリリングで好ましいというのである。具体名は出していないが、「とんでもないようなことを言う」演出家として朝倉さんが蜷川幸雄をイメージしていたのは確かだろう。」(扇田昭彦「きっぱりとした国際派─朝倉 摂」、扇田昭彦『才能の森 現代演劇の創り手たち』(朝日新聞社、2005年)収録、初出2000年)

※165-「削りに削って「農民合唱隊が歌う」とそっけなく始めました。あとはすべて蜷川さんにお任せしようと……。それが蜷川さんの手にかかると、皆が半裸で肥桶を担いで、とどろくような大合唱に生まれ変わっていた。稽古場で最初のシーンを見たときは、驚いて、面白くて、腰を抜かしそうになりました。あの通し稽古はすごかったですね。自分が作者であることも忘れて唖然として観ていました」「次々に繰り出されてくる色彩の組み合わせの面白さとか、役者さんたちの色気や熱気とか、大道具の出てくるスピードとか、芝居10本分くらいの手が使われていて、気がついたら4時間たっていました。自分の作品を通して、蜷川さんというのはすごい人なんだと改めて実感しました。」(「演劇界の両雄、初顔合わせ 「リア王」よりも「怒れるジジイ」でいたい 井上ひさしラ蜷川幸雄」、http://hon.bunshun.jp/articles/-/4861、初出『オール讀物』2006年1月号)

※166-「木村光一さんが「(井上さんの作品は)僕がやっても君がやっても同じだね」と乱暴なことをおっしゃったことがあります。それだけ井上さんの戯曲は井上さんの色が濃いので、「あれは僕だっけ、君だっけ」みたいに、(笑)とぼけた言い方をされることがあるくらいで、つまり強力な井上さんの世界があるものですから、それを変にゆがめるとか、趣向の変わった演出でどうのこうのというのを考えるより先に、まず台本がないですからね。(笑)それ、戦略じゃないかと思うくらいですけど。」(「東京裁判三部作」新国立スペシャル・トーク ─井上ひさしの現場─」(出席者 辻萬長・鵜山仁、聞き手・大笹吉雄、http://www.nntt.jac.go.jp/library/library/theater_talk07_02.html)より鵜山さんの発言。

※167-「俳優が生きなければならぬ「世界」を解読するのは演出家の仕事だ。この仕事がうまく行われると、どこのどんな台詞がどんな意味をもち、どんなふうに云われなければいならないかが明らかになる、仕草にしても同じことだ。演出家は自分が解読したことを正確に俳優へ伝え、俳優はその指示を己が肉体へ取り込む。つまり俳優の肉体のなかに演出家が移り住むのである。(中略)したがって俳優と演出家とのもっとも仕合せな関係は、演出家のもろもろの指示を俳優が充分に吸収しつくして、ついには演出家の存在がまったく俳優の肉体のなかに溶けて消えてしまうことにあるといっていい。こうなるためには演出家にどっさりと考える時間をさしあげなければならない。ぼくが百枚以上も筋立(プロット)を書くのは、演出家に「世界」解読の鍵を呈上するためである。」(井上ひさし『代役』、『井上ひさし短編小説集成第7巻』(岩波書店、2015年)収録、初出1985年)

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『ムサシ』(3)-14(注・ネタバレしてます)

2017-03-03 00:02:15 | ムサシ
また、(3)-13で井上さんが名前をあげたバフチンだが、蜷川さんもバフチンの影響を強く受けていることをあちこちで表明していて、「井上さんの作品はバフチンそのものじゃないかって思えるぐらい構造がそうで、大好きだった。それで分析すると、いくらでも分析できていく。それがあって、殊に初期のものがずっと好きだった」とも述べている。((3)-※79参照。また(3)-※102も初期の井上さんの作劇術が「聖なるものはすなわち俗なものであるというバフチンのカーニバル論に通じている」ことを指摘している)。
井上さんが「当時日本で流行りはじめたバフチン」と言っている通り、当時少なからぬ文化人がバフチン理論の影響を受けてはいるのだが、蜷川さんは晩年までバフチンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』を座右に置いていたというから筋金入りである。
そういえば、大江健三郎さんが座談会で引き合いに出した((3)-12参照)サイードについても、蜷川さんはインタビューで「僕は、つくづく僕自身がパレスチナ出身の思想家エドワード・サイードに依拠する人間なんだと実感します」。(※131)と述べるほど大きな影響を受けている。
すぐ後に「ここで『オリエンタリズム』の話をしたってしょうがないけれど」と続けているように、ここで蜷川さんが想定しているのはサイードの代表作『オリエンタリズム』だが、「サイードに依拠する」と自認する蜷川さんはこのインタビューの前後で邦訳が出版された『晩年のスタイル』も読んだことだろう。

思えば『晩年のスタイル』が説く〈大作家は晩年カタストロフィーに陥るものだ〉という理論は、蜷川さんにそのまま当てはまる。蜷川さんの追悼特集では、多くの評論家・作家が彼の「絶えず新しい作品と舞台を創ろうとする熱い情熱」((3)-12参照)や〈成熟を否定し、常に自己の演劇を解体・再創造しようとする姿勢〉に言及している(※132)(※133)(※134)
特に「ヴィスコンティもフェリーニも、晩年は力のある仕事をしていない。ピーター・ブルックもどんどん小さな世界を描くようになっている。そういう優れた人たちの収束の仕方にぼくは抵抗感がある」「作品を小さな世界に閉ざさない。もっとほころびと荒々しい隙間がある終わり方がいい」(※135)という発言などはまさしく『晩年のスタイル』の説くところそのままではないか。


そして蜷川さんが「自己の演劇を解体・再創造する」中で目指したものは※132の指摘に従うなら、「自らが薫陶を享けた新劇の演劇修行時代を総括し、自分の演出家としての出発点であるアングラの時代をさらに過激に解体することで、彼の目指すべき演劇を獲得」することだった(※136)
演劇人生の最初、新劇系の劇団青俳に所属していた蜷川さんは演出の倉橋健さんから台本を徹底的に分析することを叩き込まれた(※137)(※138)。蜷川さんの〈台本を直さない、とにかくト書き通りにやる〉「新劇的」姿勢はこの頃培われたものだ。あちこちで話しているように当時からの盟友・劇作家の清水邦夫さんの〈生みの苦しみ〉を間近に見てしまった影響も大きかっただろう(※139)。そう考えると、蜷川さんに対する「新劇最後の演出家」」(※140)「新劇運動の最後のランナー」(※141)という評は適切である。
その彼が晩年に目指した演劇とは「セリフの内容、感情をしっかり作」った「言葉、言葉、言葉の演劇」(※141参照)だった。あたかも倉橋さんから学んだスタニスラフスキー・システム、新劇的方法論の再来のごとくである。
「一周回ってオレは今そのことに気がついたんだ」という台詞通り、新劇、アングラ劇、商業演劇と経験を重ねてきた蜷川さんはそれらを総括・解体しつつ最後に新劇に戻ってきた。むしろ「あの時代は、よくも悪くもヨーロッパ演劇を勉強させられたから、まず徹底的に啓蒙と分析なんだよね。だけどいま外国で仕事をするとき、まさにその遺産で食ってるというところがある。これは倉橋先生に感謝しなきゃいけない」と※137で語っているように、そして台本を直さない、ト書き通りにやるスタイルから言っても、蜷川さんは終始新劇の人だったという言い方もできるかもしれない。

そしておそらくは蜷川さん以上に、自身の中の新劇的なものに対して複雑かつ分裂した感情を持っていたのが井上さんだった。特に初期において新劇を繰り返し批判しながら(※142)(※143)、一方で「新劇がダサイだなんて冗談じゃないと思っている」(※144)と述べたりもする。
そうした井上さんの屈折した態度を中野正昭さんは「おそらく井上ひさしほど新劇嫌いを公言しつつも、自らの演劇的スタンスとして新劇に拘った劇作家もいないだろう。」(※145)と評し、数年間井上さんとの対談を連載した平田オリザさんは「「(井上さんは)自分は日本の演劇界の傍流から出発したという想いが強かったようで、いわゆる「新劇」というものに対する愛憎相半ばする感覚は、他人には理解できない繊細なものがあった。」「「正統」と呼ばれるものへの距離感と、自分自身がその「正統」の中に入っていく違和感がない交ぜになっていた」(※146)と書く。
蜷川さんは井上さんに「蜷川さんがさ、いちばん新劇的なんですよね」」(※147)と言われたというが、新劇に対する「愛憎相半ばする感覚」を井上さんは「いちばん新劇的」な蜷川さんに対しても感じていたのかもしれない。
そしてその井上さん自身を「井上ひさしはもっとも正統的な新劇の継承者の一人」とする評者もいるのである(※148)


※131-「僕は、つくづく僕自身がパレスチナ出身の思想家エドワード・サイードに依拠する人間なんだと実感します。ここで『オリエンタリズム』の話をしたってしょうがないけれど」。 公演プログラムのインタビューで突然サイード(一九三五-二〇〇三)にふれたのは、サイードが代表作ともいえる著書『オリエンタリズム』(一九七八)の中で、西洋が中東やアジアをエキゾチシズム(異国情緒)等のロマンチックなイメージで包む伝統が帝国主義や植民地主義の隠れ蓑になっていると論じたことについて、蜷川が共感したからである。」(「オセロー」、同上)(秋島百合子『蜷川幸雄とシェークスピア』(角川書店、2015年)

※132-「《もっと過激に拡大してやりたいんだ。つまりね、劇団を創った時、世界を否認したいと思った。世界を否認して否認して続けて、その結果世界を肯定するものを発見したい。自分の人生も終わりが見えているから、とにかくそれを一貫させたいんです。これは単なる決意だけど、ぼくは自分の演劇を解体しますよ、最後にはね。それをちゃんとやろうと思う。まとまって終わらないよ》(拙著『[証言]日本のアングラ』作品社、二〇一五年、二百十一頁) これは蜷川幸雄が二〇〇六年に筆者のインタビューに答えて語った言葉である。(中略)この言葉は、わたしの質問「・・・・・・現代人劇場や櫻社の時代、つまりアングラでやり残したことをもう一回新たにやり直すということですか」に答えてのものだった。 蜷川は自らが薫陶を享けた新劇の演劇修行時代を総括し、自分の演出家としての出発点であるアングラの時代をさらに過激に解体することで、彼の目指すべき演劇を獲得したいと語っているのだ。七十歳にしてその気魄は凄まじく、尽きることなき演劇への野望が彼を前駆させているように思えた。まだまだ彼には到達すべき〈演劇〉があったのである。」「蜷川の決意が並々ならぬものであったことは、かつて成功した作品を今の視点で読み直し、解体しながら再創造したことでも了解できる。彼は自分の「名作」が神話に包まれることを決して許さなかった。」(西堂行人「蜷川幸雄の演劇の解体、脱神話化、そして来たるべき演劇」、『悲劇喜劇2016年9月号』(早川書房)

※133-「扇田「演出家・蜷川幸雄にとって、成熟っていうのはあるんですか。 蜷川「放っておくと、安定した作品を作ることはさほど困難ではなくて、イメージは、本読んでる間にそれなりに整合されたものが出てくるんですね。それが自分ではいやなわけです。成熟ってみっともないじゃないですか。」(蜷川幸雄インタビュー「芝居は血湧き肉踊る身体ゲームの方がいい」扇田昭彦編『劇談 現代演劇の潮流』(小学館、2001年)

※134-「晩年の作品で私が最も衝撃を受けたのは『蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』だろうか。若き愛弟子たちが熱演好演する舞台に突如、旧き大衆芸能を象徴するこまどり姉妹を出現させて、自らが創りあげた秀作を自らの手で破壊してみせたところにアングラの旗手、蜷川幸雄の面目躍如たるものがあった。」(松井今朝子「五体が痺れた舞台」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年))

※135-「蜷川は、日本の芸術家に多い枯淡の晩年は送りたくないという。 「ヴィスコンティもフェリーニも、晩年は力のある仕事をしていない。ピーター・ブルックもどんどん小さな世界を描くようになっている。そういう優れた人たちの収束の仕方にぼくは抵抗感がある」 では、どんな収束の方向を蜷川は目指すのか。 「作品を小さな世界に閉ざさない。もっとほころびと荒々しい隙間がある終わり方がいい。例えば、ブニュエル、ダリ、ピカソのような。老いの終点が盆栽や室内楽のような小さな宇宙というのは嫌なんだ。演劇人としては、頭脳だけでなく、体全体を使った官能の追究を続けたい。知的ゲームでは終わらない、体がうずき、痙攣するような舞台を作りたい」(扇田昭彦「過激な晩年へ─蜷川幸雄」、扇田昭彦『才能の森 現代演劇の創り手たち』(朝日新聞社、2005年)収録、初出1999年)

※136-「彼は言葉の探究に心血を注いだ。「新劇」が果たしてきた役割を明確に認識し、翻訳劇主流だった歴史を再点検した。それと同時に、後発のアングラ・小劇場によって開拓された実験や前衛の成果を、新劇の肥沃な土壌に継ぎ木し、重層化しながら発展させようと考えた。歴史を批判的に継承し、未来や後続世代にどう繋いでいくか、蜷川が自らに課した使命は、おおよそここらあたりに集約される。蜷川にとっての「現代演劇」の未来形を舞台そのもので指し示そうとしたのである。」(西堂行人「蜷川幸雄の演劇の解体、脱神話化、そして来たるべき演劇」、『悲劇喜劇2016年9月号』、早川書房)

※137-「あの時代は、よくも悪くもヨーロッパ演劇を勉強させられたから、まず徹底的に啓蒙と分析なんだよね。だけどいま外国で仕事をするとき、まさにその遺産で食ってるというところがある。これは倉橋先生に感謝しなきゃいけない。倉橋さんのいいところも悪いところも、ぼくが言うぶんにはいいわな。倉橋さんは徹底的な分析をするわけです。 たとえば、安部公房の『制服』という芝居をするとき、初めから終わりまでの全セリフ、全ト書き、全部上にサブテクストを出していく。もちろん「・・・・・・」まで出すわけですから、下の文章よりはるかに膨大な分析が出てくるわけですよ。ひと月の稽古だと、それは約十五日から二十日間かけるわけです。それを徹底的にたたきこまれる。ぼくなんか、倉橋さんの芝居に出るときは、行動表といって、分析とか、サブテクストを言葉であらわさなきゃいけないから、夜寝るときに、枕元に鉛筆とノートを置いて寝ているんです。で、ぱっと目が覚めて、たとえば、「・・・・・・」は黙っているときに相手をうかがっているんだと思うと、「相手をうかがう」と夜中に書いて、また寝るといったふうだった。そういう徹底的な分析をさせられたんです。」(清水邦夫ラ蜷川幸雄「ぼくたちの青春 ぼくたちの演劇」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年)収録、初出1995年)

※138-「青俳時代、蜷川幸雄は劇団の指導者だった倉橋健にスタニスラフスキー・システムをたたきこまれた。セリフの背後にある心理を分析し、アクションにつなげる。そのため枕元にいつも台本を置き、セリフの意味に気づくと、すぐ書きこむ習慣がついた。サブテキストを徹底して作りこむこと。衝動的な演技を重んじた蜷川演劇の源には、このサブテキストがあった。」(内田洋一「逆説を生きた自己処断の人」、『悲劇喜劇2016年9月号』、早川書房)

※139-「僕は清水邦夫が初めて脚本を書いて直しているとき、同じホテルに泊まって寝ていたんですが、清水は「できないっ、できないっ。ダメだ、ダメだっ」て言いながら、ウウ~ッって部屋の中をグルグル走っている。僕はそこで起きられなくて、寝たふりをしていたんですが、そのとき、ああ、自分は文字に手出しをしちゃいけないと思いました。」(「演劇界の両雄、初顔合わせ 「リア王」よりも「怒れるジジイ」でいたい 井上ひさしラ蜷川幸雄」、http://hon.bunshun.jp/articles/-/4861、初出『オール讀物』2006年1月号)

※140-「蜷川は演出するにあたり、戯曲の言葉をカットしたり、編集を加えないというポリシーを持つ。(中略)設定は変えても台詞はいっさい変更しない──これが彼にとっての「演出」だとすれば、彼はアングラ以前、すなわち「新劇最後の演出家」だったことになる。」(西堂行人「蜷川幸雄の演劇の解体、脱神話化、そして来たるべき演劇」、『悲劇喜劇2016年9月号』、早川書房)

※141-「アングラ演劇は近代をまたいだ新劇運動に芽生えた最後の波で、その自己破壊のエネルギーによって新劇そのものが滅んだと私は思っている。その分水嶺に生きた蜷川幸雄はまさに新劇運動の最後のランナーだったといえるかもしれない。新劇は知的階層には受け容れられたが、西洋演劇をついに大衆に根づかせることができなかった。蜷川幸雄のシェイクスピアは日本的な意匠の力、スターの輝きを取り入れることで、新劇の宿題を成しとげたといえる。(中略) 自己の中にある新劇的なものを信じこむことは、だができなかった。時代が宿命づけた新劇的な自己への懐疑、それとの闘いがあのひりひりした演技を生んだのだろう。 逆説を生きた蜷川幸雄は最後の『ハムレット』で、演劇史的にも重要な自己否定を打ちだした。主役の藤原竜也を激しいダメだしで責めたが、目指したのは言葉、言葉、言葉の演劇であった。稽古場で滝沢修まで例にひき、セリフの内容をしっかり言うことを求めた。「正統な思想も芸術もなくなり、世の中が表層的な言葉で満たされてしまうと、かつてオレがタツヤに言わせていたような衝動的なセリフじゃもうダメなんだ。セリフの内容、感情をしっかり作れ。一周回ってオレは今そのことに気がついたんだ」 新劇から出発して新劇に帰ったが、そのとき新劇はなかった。長い旅を終え、新しい演劇が始まるはずだった。私は最後の最後でそのことに気づいた。」(内田洋一「逆説を生きた自己処断の人」、『悲劇喜劇2016年9月号』(早川書房)

※142-「なぜ、新劇の「劇場」に、浅草の大道で耳に出来るあの活々したコトバがないかといえば(ということは私にいわせれば「演劇」がない、ということでもあるが)、西洋の演劇を手本として出発した築地以来の日本の新劇が、西洋の観念を輸入するついでに、それを支えるコトバまで取りこむこができると過信しているせいであろう。観念を持込むことが出来ても、コトバまで取り込める道理はない。ごく少数の語学堪能者を除いて、だれにとってもコトバとは母国語のことなのだ。とすれば、生硬な翻訳臭を絶えず放ちつつ横行する「新劇コトバ」でものを考えている間は真の解決がないのは当然で、駄洒落や地口や語呂合せの可能性に富むわれわれの母国語を十分に駆使し、そういったコトバ遊びを通して、われわれの問題を考え、つきつめて行くよりほかに、私の方法はない。」(「浅草のコトバと劇場のコトバ」、『パロディ志願』(中公文庫、1982)収録、初出1971年)


※143-「コトバを喋る専門家たちといってよい新劇俳優の道具の使い方の拙さはどうであろうか。(中略)コトバの専門家としての訓練の足りなさはブレヒトの芝居などをふると覿面に暴露される。ブレヒト劇には歌が多いが、いまだに一度も、歌詞を明瞭に喋りながら歌う役者に、お目にかかったことはない。新劇の大衆化という結構なお題目を掲げ、歌の多い芝居に取り組んだ新劇の劇団が軒並み惨敗を喫したのは、歌詞そのものの拙さ、芸のなさも相当なものだが、まず、 なによりも歌詞を観客に伝える訓練が全く出来ていなかったことに主な原因のひとつがあったのではないかと、私は睨んでいる。」(「アテゴト師たちのおもしろい劇場」、『パロディ志願』(中公文庫、1982)収録、初出1970年)
※144-「ぼくは内心では、新劇がダサイだなんて冗談じゃないと思っている。民主主義がいまだにきちんと成立したことがないのに、「戦後民主主義は破産した」と利口そうに言い触らす早トチリ屋さんが多いが、それと構図は同じ、新劇が大きな可能性を秘めながらまだ成立の途上にあるのに、その可能性を少しも点検しようとせずに、「新劇リアリズムはもうダメだ、だいたいダサクてかなわない」と言い立てる新しがり屋さんが大勢いるのである。ぼくの戯曲もそのダサイ新劇のうちの一つと見られ、演劇青年たちに敬遠されている」(「決定版までの二十年──『十一ぴきのネコ』」、井上ひさし『演劇ノート』(白水社、1997年)収録、初出1990年)

※145-「おそらく井上ひさしほど新劇嫌いを公言しつつも、自らの演劇的スタンスとして新劇に拘った劇作家もいないだろう。劇作家を志しながらも一端は放送の仕事に携わり、時を得て再び再デビューを果たすことになった井上にとって、先ず必要性を感じたのは旧態依然とした演劇形式の刷新であり、これは極めて知的で新劇的な問題だった。(中略)「新劇なんて、“理解しよう”という観客と、“理解してもらいたい”という舞台との、なれあいの上に成立っている演劇」だという井上の批判には、「なれあい」を前提としない者、「なれあい」を前提と出来なかった者を排除する閉ざされた関係性への怒りが秘められている。」(中野正昭「日本人のへそ─放送作家から劇作家へ」、日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録)

※146-「(井上さんは)自分は日本の演劇界の傍流から出発したという想いが強かったようで、いわゆる「新劇」というものに対する愛憎相半ばする感覚は、他人には理解できない繊細なものがあった。 ちょうど、この対談の連載が行われていた時期は、井上さんが、新国立劇場に立て続けに作品を書き下ろし、名実共に「国民作家」(小説家としてではなく劇作家として)の地位を確立していった時期でもあった。「正統」と呼ばれるものへの距離感と、自分自身がその「正統」の中に入っていく違和感がない交ぜになっていた時期であったかもしれない。そのような、晩年への変化の時代に、六年間も対談を続けられたことは、まことに幸せであった。」(平田オリザ「井上さんの思い出」、井上ひさし・平田オリザ『話し言葉の日本語』(新潮文庫、2014年)文庫版あとがき(2013年11月)

※147-「井上さんからぼくに言った印象的な言葉で「蜷川さんがさ、いちばん新劇的なんですよね」っていうのがある。台本は直さないし、ト書き通りにやるからね。(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」、『悲劇喜劇』2013年1月号)

※148-「戦時中から戦後にかけてのお上のやり方、大人のやり方に不信感を抱いた井上ひさしは、歴史を教訓にして自分を生きることの必要性、中央政府に対案や代案を出す必要性をたえず感じている。 築地小劇場以来、欧米の演劇を糧として育ってきた演劇、新劇全体の持っている「志」が、新劇の代表とは位置付けにくい井上ひさしによって体現されているのは皮肉なことである。だが、新劇の規定の仕方によっては、大笹吉雄が説くように、「井上ひさしはもっとも正統的な新劇の継承者の一人」と見ることも可能であろう(大笹吉雄『同時代演劇と劇作家たち』)。 とまれ、ここに取り上げた二作を通じて、井上ひさしが問うたことは、日本および日本人の在り方を異化してみせるということであった。そしてわたしが思うには、その誕生以来、新劇のもっとも大きな課題がこの問題だったとするならば、リアリズムに拠らないそのスタイルにもかかわらず、井上ひさしはもっとも正統的な新劇の継承者の一人であろう。新劇とは、おそらくほかの何であるより、演劇的な一つの精神志向である。 大笹吉雄が「ここに取り上げた二作」とは、『しみじみ日本乃木大将』(ママ)(一九七九)と『小林一茶』(一九七九)である。新劇の「志」を革新性、旧劇に対する自己主張とするならば、日本の社会や時代、あるいは日本人の思考や有り様に対して問いかけ、異なった在りようを模索し、日本的な在りようを異邦人の目で眺め、ときに異議申し立てをし、対案を出している井上ひさしを「もっとも正統的な新劇の継承者の一人」とすることは、たしかに当に得ている。」(秋葉裕一「ベルトルト・ブレヒトと井上ひさし─「あとから生まれてくる人々へ」の「思い残し切符」」(谷川道子・秋葉裕一『演劇インタラクティヴ 日本ラドイツ』、早稲田大学出版部、2010年)

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