タイトルに反してこのところ、勝地くんはおろか『ムサシ』そのものにさえ触れない回が続いたので、最終回前にちゃんと『ムサシ』について、キャスト中心に振り返ってみようと思います。
(3)-4~6あたりを書いていた頃に、遅ればせながら初演のDVDを見ることができました。『ロンドン・NYバージョン』のパンフレットで吉田鋼太郎さんが「今回は蜷川さんも、初演よりシリアスな部分を大切にしていこうとされてるようなので」と語ってらっしゃるのを読んではいたものの、予想以上にコント的な笑いを取る場面が多かったのに驚きました。
特に五人六脚のシーンはもつれっぷりがより激しく、武蔵が扇子でハリセンのごとくバシバシ相手を叩きまくっていたり、小次郎が「それがしの方がはるかに残念です」とコミカルに悔し泣きしたり(ここは再演ではシーンごと削られた)それに対して宗矩が「泣いてるぞ」とツッコんだり(この台詞は戯曲にない。戯曲の台詞を変えることを嫌う蜷川さんにあとで怒られなかったろうか)・・・。
「初期の井上作品に目立った爆笑喜劇風の笑いが生き生きとよみがえった。」との評(※168)が改めて腑に落ちた気がしたものでした。
それが再演にあたってよりシリアスな演出に変わったのはなぜだったのか。一つには海外、特に2001年のアメリカ同時多発テロ事件の舞台となったニューヨークで公演が行われるとあって、「報復の連鎖を断ち切る」という作品のテーマをよりわかりやすく切実に打ち出していく必要を蜷川さんが感じたからかと思います。
そしてもう一つと考えられるのは、蜷川さんがあえてやりにくい方向を目指したという可能性。井上さんの初期戯曲を好む蜷川さんは、五人六脚など脚本の段階でコント的要素を持つ『ムサシ』を初演時は初期戯曲のような「爆笑喜劇風」に演出したものの、自分にとってやりやすい、好ましい方向に作品を曲げてしまったような感覚があったのかもしれない。
6年間武蔵との再戦を期して厳しい修行を経てきた小次郎の苦心や無念はギャグにしていいようなものなのだろうか──そんな疑問が次第に生じてきたのではないかと思えるのです。
蜷川さんは再演にあたって「大きく変えたいと思っているのは小次郎像」だとパンフレットで語っています。
初演の小栗旬くんに変わって勝地くんが小次郎を演じることが決まったのが、小次郎像を大きく変えることに決めた前なのか後なのかはわかりませんが(パンフレットの勝地小次郎の写真が小栗小次郎を思わせる小綺麗な姿なのは、撮影の時点ではまだ初演のような小次郎でやるつもりだったのか)、小栗くんの貴公子然とした小次郎とは対極の薄汚れた「野良犬のよう」な小次郎、一度地に堕ち泥に塗れたところから這い上がろうとする怨念じみた迫力を漂わせた鬼気迫る小次郎を現出させたのは勝地くんの演技があればこそだったと思います。
「おのれとだまれの二つしかない」と武蔵に揶揄される語彙の乏しさ、単線的な物言いも、小栗小次郎ではお坊ちゃんらしい子供っぽさと感じられたものが勝地小次郎では復讐一途ゆえの視野の狭さと映りました。
上でも書いたように脚本を一字一句変えないことを旨とする蜷川さんにとって(今回海外公演のために井上さん自ら脚本を手直ししてはいますが、シーンごとカットした箇所がほとんどで残した場面の台詞はほぼ手を入れていない)、同じ台詞、同じ場面でも初演とは別のニュアンスを乗せられる勝地くんの表現力は、新たな小次郎像を作りあげるうえで大きかったんじゃないでしょうか。
たとえば親王のご落胤だと〈判明〉する場面で、小栗小次郎は目を剥いていかにもかつユーモラスな驚きの表情を作っている(初演の喜劇志向的にはそれで正解)のに対し、勝地小次郎は無表情に突っ立っているだけ。なのに〈動揺が大きすぎてリアクションを示すことさえできない〉状態なのがありありと伝わってくる。
わかりやすい動きは何もないのに何もしないことでかえって感情を表現するのは勝地くんの得意とするところで、初演より笑いの要素を抑えながらも基本はやはり喜劇というこの作品において勝地くんはその持ち味を上手く活かしていました。
また武蔵役の藤原竜也くんと小栗くんが同い年の、元々仲の良い友人なのに対し、4つ年下でなおかつ初めて観た舞台が藤原くん主演の『身毒丸』だった勝地くんにとって藤原くんが憧れの先輩というべきポジションだったことも大いに役作りに反映したと思います。
武蔵と小次郎も実のところ小次郎が六歳下の設定であり、常に小次郎が武蔵の背中を追いかけているような関係なので、勝地くんが藤原くんを見上げるような関係性はちょうど小次郎と武蔵さながら。当初はそれが演技のうえでの遠慮として現れてしまったものの、藤原くんにもっと正面からぶつかってくるようハッパかけられて以降は、武蔵に追いつき追い越そうとする小次郎の思いを我が物にできたのでは。
(3)-15ほかで書いたように武蔵と小次郎のやりとりは実際の藤原くんと小栗くんのやりとりに触発されたところの多い、いわばこの二人に対するアテ書きのはずですが、最初から勝地くんにアテ書きしたかのようにしっくりと、彼は小次郎と一体化していたと思います。
同時に小次郎を演じるうえでもう一つ有利に働いたのが、彼特有の品の良さ。薄汚れた着物に無精髭、目の下の隈が目立ついかにも復讐鬼然とした姿にもかかわらず、その佇まい、雰囲気にはどこかしら涼やかな清潔感がある。
真っ赤な嘘だったとはいえ親王のご落胤、皇位継承順位第十八位と言われても十分ありえそうと思えるだけの品性が小次郎役にはやはり必要なわけで、野良犬のような鋭さ・泥臭さと端正な上品さという対極のような二要素を同時に表現しうる(野良犬ぽさの方は演技、上品さの方は本質的なもの)勝地くんはまさに小次郎には適役でした。
他のキャストの方々も皆素晴らしかった。とりわけ主演の藤原竜也くん。武蔵役はタイトルロールでありながら自分から積極的に何かを仕掛けていくことはほとんどない、食ってかかってくる小次郎をいなし幽霊たちの企みに振り回される、基本的に受けの芝居が中心となる。
再演時でさえ27、8歳という若さでありながらどっしりとした重心の低さで、めったに自分からは動かない、しかし時折その泰然たる態度を破って剣客としての闘争本能が吹き出してくる(「あのときの沸き立つような命の瞬間がまた味わいたくて、おぬしに止めを刺さなかったのかもしれないな」「戦うのだよ、小次郎」)ような、静の中に動のある武蔵という男を見事に演じきっていました。
勝地くんも基本、年に似合わぬ重心の低い演技をする人ですが、今回は目をぎらつかせながら主役に挑みかかっていく挑戦者の役どころ。加えて憧れの役者である藤原くんと初めてがっつり共演することや蜷川舞台で初の二番手、初の海外公演など、俳優・勝地涼にとっても二重三重に挑戦の連続だったことと思います。
重心の低さはそのままに、同時に大きな壁に立ち向かって行くひりつくような熱さを感じさせる点では『亡国のイージス』に通じるものがあるかもしれません。
また藤原くん以外のキャストも勝地くんより年下の鈴木杏ちゃんに至るまで、抜群の表現力と安定感を備えたベテラン揃い。しかも沢庵役の六平直政さんを除けば全員初演からのメンバー。顔馴染のメンバーもいるとはいえ、すでに半ば出来上がっているカンパニーに途中参加する意味でも、勝地くんはチャレンジャー的なポジションだったわけですね。
このあとも『ムサシ』は2013年から2014年にかけて再々演されていますが、他のキャストはそのままに小次郎役だけが溝端淳平くんに代わりました。
ベテラン揃いのカンパニーの中に若手俳優が一人後から入っていくという構図(勝地くんの場合は若くともすでにデビューから十年近いキャリアを重ねていたわけですが)──役柄の上でも役者としてもチャレンジャーな小次郎という型を、ある意味勝地くんが確立したのかなと思ったりもします。
※168-「井上氏が蜷川演出のために初めて書き下ろした新作が前述の『ムサシ』だった。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の後日談だが、初期の井上作品に目立った爆笑喜劇風の笑いが生き生きとよみがえった。」(扇田昭彦「井上ひさしと蜷川幸雄の共通項」、初出・こまつ座&ホリプロ『ムサシ』再演パンフレット、二〇一〇年五月)
(3)-4~6あたりを書いていた頃に、遅ればせながら初演のDVDを見ることができました。『ロンドン・NYバージョン』のパンフレットで吉田鋼太郎さんが「今回は蜷川さんも、初演よりシリアスな部分を大切にしていこうとされてるようなので」と語ってらっしゃるのを読んではいたものの、予想以上にコント的な笑いを取る場面が多かったのに驚きました。
特に五人六脚のシーンはもつれっぷりがより激しく、武蔵が扇子でハリセンのごとくバシバシ相手を叩きまくっていたり、小次郎が「それがしの方がはるかに残念です」とコミカルに悔し泣きしたり(ここは再演ではシーンごと削られた)それに対して宗矩が「泣いてるぞ」とツッコんだり(この台詞は戯曲にない。戯曲の台詞を変えることを嫌う蜷川さんにあとで怒られなかったろうか)・・・。
「初期の井上作品に目立った爆笑喜劇風の笑いが生き生きとよみがえった。」との評(※168)が改めて腑に落ちた気がしたものでした。
それが再演にあたってよりシリアスな演出に変わったのはなぜだったのか。一つには海外、特に2001年のアメリカ同時多発テロ事件の舞台となったニューヨークで公演が行われるとあって、「報復の連鎖を断ち切る」という作品のテーマをよりわかりやすく切実に打ち出していく必要を蜷川さんが感じたからかと思います。
そしてもう一つと考えられるのは、蜷川さんがあえてやりにくい方向を目指したという可能性。井上さんの初期戯曲を好む蜷川さんは、五人六脚など脚本の段階でコント的要素を持つ『ムサシ』を初演時は初期戯曲のような「爆笑喜劇風」に演出したものの、自分にとってやりやすい、好ましい方向に作品を曲げてしまったような感覚があったのかもしれない。
6年間武蔵との再戦を期して厳しい修行を経てきた小次郎の苦心や無念はギャグにしていいようなものなのだろうか──そんな疑問が次第に生じてきたのではないかと思えるのです。
蜷川さんは再演にあたって「大きく変えたいと思っているのは小次郎像」だとパンフレットで語っています。
初演の小栗旬くんに変わって勝地くんが小次郎を演じることが決まったのが、小次郎像を大きく変えることに決めた前なのか後なのかはわかりませんが(パンフレットの勝地小次郎の写真が小栗小次郎を思わせる小綺麗な姿なのは、撮影の時点ではまだ初演のような小次郎でやるつもりだったのか)、小栗くんの貴公子然とした小次郎とは対極の薄汚れた「野良犬のよう」な小次郎、一度地に堕ち泥に塗れたところから這い上がろうとする怨念じみた迫力を漂わせた鬼気迫る小次郎を現出させたのは勝地くんの演技があればこそだったと思います。
「おのれとだまれの二つしかない」と武蔵に揶揄される語彙の乏しさ、単線的な物言いも、小栗小次郎ではお坊ちゃんらしい子供っぽさと感じられたものが勝地小次郎では復讐一途ゆえの視野の狭さと映りました。
上でも書いたように脚本を一字一句変えないことを旨とする蜷川さんにとって(今回海外公演のために井上さん自ら脚本を手直ししてはいますが、シーンごとカットした箇所がほとんどで残した場面の台詞はほぼ手を入れていない)、同じ台詞、同じ場面でも初演とは別のニュアンスを乗せられる勝地くんの表現力は、新たな小次郎像を作りあげるうえで大きかったんじゃないでしょうか。
たとえば親王のご落胤だと〈判明〉する場面で、小栗小次郎は目を剥いていかにもかつユーモラスな驚きの表情を作っている(初演の喜劇志向的にはそれで正解)のに対し、勝地小次郎は無表情に突っ立っているだけ。なのに〈動揺が大きすぎてリアクションを示すことさえできない〉状態なのがありありと伝わってくる。
わかりやすい動きは何もないのに何もしないことでかえって感情を表現するのは勝地くんの得意とするところで、初演より笑いの要素を抑えながらも基本はやはり喜劇というこの作品において勝地くんはその持ち味を上手く活かしていました。
また武蔵役の藤原竜也くんと小栗くんが同い年の、元々仲の良い友人なのに対し、4つ年下でなおかつ初めて観た舞台が藤原くん主演の『身毒丸』だった勝地くんにとって藤原くんが憧れの先輩というべきポジションだったことも大いに役作りに反映したと思います。
武蔵と小次郎も実のところ小次郎が六歳下の設定であり、常に小次郎が武蔵の背中を追いかけているような関係なので、勝地くんが藤原くんを見上げるような関係性はちょうど小次郎と武蔵さながら。当初はそれが演技のうえでの遠慮として現れてしまったものの、藤原くんにもっと正面からぶつかってくるようハッパかけられて以降は、武蔵に追いつき追い越そうとする小次郎の思いを我が物にできたのでは。
(3)-15ほかで書いたように武蔵と小次郎のやりとりは実際の藤原くんと小栗くんのやりとりに触発されたところの多い、いわばこの二人に対するアテ書きのはずですが、最初から勝地くんにアテ書きしたかのようにしっくりと、彼は小次郎と一体化していたと思います。
同時に小次郎を演じるうえでもう一つ有利に働いたのが、彼特有の品の良さ。薄汚れた着物に無精髭、目の下の隈が目立ついかにも復讐鬼然とした姿にもかかわらず、その佇まい、雰囲気にはどこかしら涼やかな清潔感がある。
真っ赤な嘘だったとはいえ親王のご落胤、皇位継承順位第十八位と言われても十分ありえそうと思えるだけの品性が小次郎役にはやはり必要なわけで、野良犬のような鋭さ・泥臭さと端正な上品さという対極のような二要素を同時に表現しうる(野良犬ぽさの方は演技、上品さの方は本質的なもの)勝地くんはまさに小次郎には適役でした。
他のキャストの方々も皆素晴らしかった。とりわけ主演の藤原竜也くん。武蔵役はタイトルロールでありながら自分から積極的に何かを仕掛けていくことはほとんどない、食ってかかってくる小次郎をいなし幽霊たちの企みに振り回される、基本的に受けの芝居が中心となる。
再演時でさえ27、8歳という若さでありながらどっしりとした重心の低さで、めったに自分からは動かない、しかし時折その泰然たる態度を破って剣客としての闘争本能が吹き出してくる(「あのときの沸き立つような命の瞬間がまた味わいたくて、おぬしに止めを刺さなかったのかもしれないな」「戦うのだよ、小次郎」)ような、静の中に動のある武蔵という男を見事に演じきっていました。
勝地くんも基本、年に似合わぬ重心の低い演技をする人ですが、今回は目をぎらつかせながら主役に挑みかかっていく挑戦者の役どころ。加えて憧れの役者である藤原くんと初めてがっつり共演することや蜷川舞台で初の二番手、初の海外公演など、俳優・勝地涼にとっても二重三重に挑戦の連続だったことと思います。
重心の低さはそのままに、同時に大きな壁に立ち向かって行くひりつくような熱さを感じさせる点では『亡国のイージス』に通じるものがあるかもしれません。
また藤原くん以外のキャストも勝地くんより年下の鈴木杏ちゃんに至るまで、抜群の表現力と安定感を備えたベテラン揃い。しかも沢庵役の六平直政さんを除けば全員初演からのメンバー。顔馴染のメンバーもいるとはいえ、すでに半ば出来上がっているカンパニーに途中参加する意味でも、勝地くんはチャレンジャー的なポジションだったわけですね。
このあとも『ムサシ』は2013年から2014年にかけて再々演されていますが、他のキャストはそのままに小次郎役だけが溝端淳平くんに代わりました。
ベテラン揃いのカンパニーの中に若手俳優が一人後から入っていくという構図(勝地くんの場合は若くともすでにデビューから十年近いキャリアを重ねていたわけですが)──役柄の上でも役者としてもチャレンジャーな小次郎という型を、ある意味勝地くんが確立したのかなと思ったりもします。
※168-「井上氏が蜷川演出のために初めて書き下ろした新作が前述の『ムサシ』だった。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の後日談だが、初期の井上作品に目立った爆笑喜劇風の笑いが生き生きとよみがえった。」(扇田昭彦「井上ひさしと蜷川幸雄の共通項」、初出・こまつ座&ホリプロ『ムサシ』再演パンフレット、二〇一〇年五月)