マリナ・イスマイール
中東の産油国アザディスタンの王女で、本作のヒロイン的存在。一般家庭で庶民として育つが、王家の血を引いていたがゆえに国のシンボル、王女として祭り上げられてしまう。
彼女の親しみやすさ、偉ぶらない態度を思えば庶民育ちというのは納得がいくようでもあり、一方で表情や挙措から滲み出る気品を見ると上流社会で生まれ育ってないのが信じられないようでもある。血は争えないというべきか。
一般市民から王女に、というとシンデレラストーリーのようだが、アザディスタンのような政情不安定な国のトップに立つのは(飢えや寒さの心配はないとはいえ)ほとんど罰ゲームのようなものではないか。
しかし罰ゲームなみの困難を承知でマリナが王女=アザディスタンの指導者となることを引き受けたのは、自分個人の幸福は捨てても国のために尽くしたいという想いがあったからだろう。こうした彼女の〈大きな愛〉は劇場版でフェルトに「あの人の愛は大きすぎるから」と評された刹那に似たものがある。
そう、刹那とマリナの二人はよく似ていて、同時に対照的でもある。刹那は幼少期、洗脳によって神の名のもとに自ら両親を殺し、少年兵として戦場で多くの人の命を奪ってきた。過去への悔恨から戦争の根絶を願い、しかし〈自分は戦うことしか知らない〉からとガンダムに乗って戦うことで平和な世界を招来しようとしている。
対するマリナは平和を望む心は同じでも、そのために武力を用いることを是とする刹那と違い、武力行使を非とする。マリナは最後まで刹那や劇場版のデカルト・シャーマンのように脳量子波を使えるようにはならなかったが、他人を「わかりたい、わかりあいたい」と思う気持ちは誰よりも強かった。
劇場版の序盤でもコロニー開発公社の青年に「あなたはこのコロニーの開発現場をどう捉えていますか?」「あなたの言葉で話してもらえませんか」と語り、彼が暗殺者としての正体を現わした時も「これであなたの家族は幸せになれるのですね?」と哀しげながらも穏やかに問いかけ、相手に抵抗も非難も示さない一方で命乞いもせず、あくまでも対等な人間同士として話し合いを持とうとする。
彼女のこうした〈非暴力・不服従〉的言動は、ともすれば夢想的な理想主義との印象を与えかねない。その最たる例が、セカンドシーズンでマリナがカタロンに一時的に身を寄せていた時期、アジトが襲撃を受け、クラウスが自ら囮となってマリナ・シーリン・子供たちを逃がしたさいのエピソードだろう。
シーリンは自分だけでなくマリナにも護身用の拳銃を持たせようとするが、マリナは〈銃を持てば子供たちの目をまっすぐに見られなくなりそうだから〉とそれを拒絶する。この発言に反感を抱いた視聴者は多かったのではないか。
彼女がこれまで自ら銃を取らずとも殺されずにきたのは、代わりに銃を撃ってくれる人間がいたからだ。アロウズに囚われた時には刹那が力づくで彼女を救出してくれた。この時だってクラウスが盾になってくれたおかげでマリナたちは何とか脱出できたのだ。
そしてこの場には大人のマリナ以上に守られるべき存在である幼い子供たちがいる。ずっと人に守られてきたマリナだが、今度は子供たちを守るために泥をかぶるべき時ではないのか。マリナの返答に対するシーリンの怒りに多くの視聴者も共感したことだろう。
ただマリナの気持ちもわかるのだ。どんな理由があるにせよ、一度銃を手にしてしまったら次に銃を持つ時の心理的ハードルは確実に低くなる。
大事な人を守るためだ、仕方がないんだと自分に言い訳しながら銃を取ることへの躊躇いが次第に薄れていき、そしていつか引き鉄を引いてしまう時がくるかもしれない。マリナが恐れているのはそれだろう。
最初はあくまで自衛のために武装したはずが、いつしかエスカレートして大きな紛争へと発展する。人類の歴史の中で何度となく繰り返されてきた悲劇だ。〈今回だけ〉〈一度だけ〉を自分に許してしまえば歯止めが効かなくなる。それを防ぐために彼女は武装を徹底的に拒絶するのだ。
実際ファーストシーズンでソレスタルビーイングが〈反対勢力をより強い武力で抑圧してこそ平和が実現できる〉と示してしまったことが、その理念をさらに過激化させた〈恒久平和を実現すべく、反乱分子殲滅のためには手段を選ばない〉アロウズの台頭を招く結果となった。
ファーストシーズンの中でさえ、ソレスタルビーイング―プトレマイオスクルーのやり方を先鋭化した「トリニティ」が現れ、そのやり口の容赦なさには、それまでの武力介入には好意的だった人たちや身内と言ってよいプトレマイオスクルーたちさえ強く反発している。
しかしもともとソレスタルビーイングに好意的でない、危険思想のテロ集団と見なしていた人たちから見れば、プトレマイオスクルーもトリニティもやってることは五十歩百歩である(そもそも別個の集団という認識さえない)。
どこまでが〈良い〉武力介入でどこからが〈悪い〉武力介入なのか。その線引きは人それぞれであり、自分たちの武力介入は正しくトリニティの武力介入は正しくない、というのはプトレマイオスクルーの恣意的判断と言われても仕方ないだろう。
ソレスタルビーイングに続けてトリニティが現れ、アロウズが台頭した。〈紛争根絶のため〉〈恒久平和実現のため〉武力を行使したはずが、反対勢力の殲滅、徹底した情報統制による人類のコントロール、コントロールから漏れた一般人は反対勢力もろとも口封じ、とエスカレートの一途を辿ってしまった。
武装を是としつつエスカレートを防ぐためには、いざという時には引き鉄を引ける覚悟と、いざという時以外は決して引き鉄を引かない覚悟の双方が必要となる。特に後者は、敵か味方かもわからない相手が近づいてきた時に、武器を持っていても相手が敵だと確定するまで疑心暗鬼にかられず恐怖に打ち勝って引き鉄を引かずにいられるかが問われることになる。
それができなかったゆえに起きてしまったのが、ソレスタルビーイングの指揮官であるスメラギ=リーサ・クジョウがかつてAEUの戦術予報士だった時に畏友カティ・マネキンが率いる友軍と同士撃ちのあげく恋人をはじめとする多くの死傷者を出した事件である。
誤った情報がそもそもの原因だったとはいえ、前線の兵士たちが相手の装備や服装が友軍の物だと気づける冷静さを保てていたなら、もっと早く戦闘を中止できていたのではないか。
武力を持ちながらそれを適切に運用することは、武力を一切持たないことよりも一層難しいのだ。
一方で武力を否定することの困難さもしっかり描かれる。先に挙げたマリナたちがコロニー公社の手先の青年に銃殺されかける場面だが、上手いなと思うのは青年が引き鉄を引くか否か迷っているうちにロックオンが彼を狙撃する展開にしていることだ。
もしロックオンが現れなかったなら、彼はマリナを撃っていたのか。殺されかけているのに怯えるでも罵るでもなく「これであなたの家族は幸せになれるのですね?」と語りかける、彼の家族の幸せのために大人しく殺されてくれるかにも見えるマリナを前に「この人を殺すなんてできない」と自分から銃を下ろすことを選んだか、それとも家族のため心を鬼にして引き鉄を引いたか。
そこをあえてはっきりさせないことで、マリナの〈非暴力・不服従〉に相手を改心させるほどの力があるのかどうかを不明にしているのだ。
TVシリーズでも、マリナの理想主義は見事なほどに報われない。貧困にあえぐアザディスタンを救おうと、太陽光発電システムを建設するための援助を求めてマリナは外遊を重ねるが、援助に手を挙げてくれる国はついぞ見つからない。
ようやく国連大使アレハンドロ・コーナーが積極的に話に乗ってくれたと思ったら、それは紛争をさらに拡大させるためのアレハンドロの計画の一環であり、保守派の要人マスード・ラフマディーの誘拐なども起こりアザディスタンの状況はさらに悪化した(ラフマディーを取り戻し、マリナとラフマディーの話し合いによる一応の解決をもたらしたのは、ソレスタルビーイングの「武力介入」だった)。
さらにセカンドシーズンでは早々にマリナはアロウズに拉致監禁され、緊急避難とはいえ反政府ゲリラ(カタロン)に身を寄せることとなり、あれほど守りたかった祖国は廃墟と化してアザディスタンという国自体が一時は消滅してしまった。
マリナの度重なる挫折を通して、過酷な現実を前に理想主義がいかに無力で実現困難かが繰り返し強調されているのである。
しかし(エンターテインメント作品の作劇ルール的に)当然のことながら、理想が現実に敗れてそれで終わり、などとはならない。
セカンドシーズンの後半、マリナがカタロンに保護された戦争孤児たちとともに作った平和への祈りを込めた歌が、草の根的に世界中に広がっていく。アロウズの徹底的な情報統制下にあって、アロウズが行う軍事作戦は全て地球市民の平和な生活を守るための正義の戦いと信じているはずの人々が、心の奥底ではどんな理由があろうと争いを嫌悪し、誰も傷つかない社会を求める気持ちがあることを示しているかのようだ。
そして最終回ではアロウズの敗北・解体を受けて、アザディスタン王国は新体制で再出発した連邦の支援により再建を実現する。
そこにはマリナの身の危険を顧みない働きぶりと真っ正直な言動が大きく寄与したことが小説版で説明されている。世界規模で多くの人々がマリナを支持した背景には、彼女があの〈平和の歌〉の作者&歌い手であることも当然影響しただろう。
アロウズによる非人道的戦闘行為が明るみに出てショックを受けた人々の“戦争アレルギー”とも言うべき状態が、武力に拠らない根気強い話し合い、相互理解による平和実現を旨とするマリナをアロウズのアンチテーゼ、平和の象徴たらしめたのだ。
ただ劇場版の序盤での沙慈のモノローグにあるように、この時点での平和は、ソレスタルビーイングの武力介入によるパワーバランスの崩壊~アロウズ覇権時代の反動としての「忘れられない恐怖によるかりそめの平和」に過ぎない。マリナの理想主義が真に勝利する姿が描かれるのは劇場版のクライマックスを待つことになる。