・タンゴが流れて暗転、そして朝。座禅の最中に気を散らしていた平心を沢庵が警策で打つ。
「うちの大檀那衆の事が気がかりです」という平心を沢庵は「去るものは去り来るものは来る、これ、人間世界の実相なり!」と叱る。この言葉はのちのち劇的に反復されることになります。
・ついで前のめりに眠ってた宗矩を打つと、宗矩がまた謡曲を歌いはじめる。遮った沢庵に宗矩が反論し、そこから突然宗矩の舞狂いの真相にせまる深い話に。「お能を政治の隠れ蓑にしているわけだ」のあたりなど妙にリアルだが、史実の宗矩の舞狂いも同じ理由だったんだろうか。
しかし〈次の将軍と政治顧問が舞狂いでは徳川も三代でおしまい〉と油断させるために舞狂いを演じているというが、結果徳川に見切りをつけた大名がこぞって造反した場合、本当に徳川の世が終わっちゃったりしないだろうか。まだまだ徳川の地盤も安泰じゃないだろうに。
・忠助が走り込んでくる。武蔵らも含め全員で話を聴き、ここで浅川甚兵衛の正体と乙女の父の死の真相が明らかに。
乙女の父の舟が甚兵衛が雇ったごろつきに沈められたというのは、少し前の場面で宗矩が謡っている『孝行狸』の父狸の末路と重ねられてるわけですね。
・忠助は武蔵と小次郎に、甚兵衛に対抗するための棒術を教えてくれとすがる。さらにそこへ乙女とまいが刀を抱えて走り込んできて、それぞれ武蔵と小次郎に剣術の指南をお願いする。
沢庵がツッコむように、昨日は武蔵と小次郎の切り合いを止めようとしていた二人がまるで別人のよう。人の事なら理想論を述べられてもいざ自分が当事者となると憎しみに捕らわれてしまう。「報復の連鎖」とはまさにこうした心理から引き起こされるものだろう(※12)。
・小次郎と武蔵が口々に刀の扱いに気をつけろと二人にアドバイスする。そして二人同時にまいと乙女の手から刀を奪って飛びすさり距離をとって睨み合う。今にも抜き合いそうな様子で周囲を脅えさせるがあっさりと取り上げた刀を平心に預ける。
このへん実に息があってるんですよね。五人六脚なんていらないくらい。ただ〈再び戦うのだ〉という意志までピタリ一致してるから争い続けることになるわけですが。
・乙女が亡父と浅川甚兵衛は聞き茶のライバルで甚兵衛は常に二番だった(※13)と話すと「それはいささか辛いはなしだな」と武蔵が小次郎に背後から近づきつつ言う。小次郎の耳元で聞かせるような口調があからさまにあてこすっている(笑)。小次郎も目をむいています。
・興奮して棒でなく刀を教えてくれと言い出す忠助。まいも今の安楽な暮らしは筆屋夫婦のおかげ、仇討ちのために燕返しを授けてくれと小次郎に懇願。
この前のシーンもそうですが、まいはいつのまにか小次郎担当のようになっています。
・乙女が剣の達人が二人も、と繰り返し言うのに後ろで宗矩が咳払いし、それを受けて乙女が「三人も」と言いなおす。
しかし父の仇が知れた日に剣の達人が居合わせたのも宝蓮寺のおかげ、仏の導きと言うのはいかがなものか。殺生を禁じる仏の教えに反して、時もあろうに参籠禅の最中に仇討ち計画を練っているというのに(後にわかるように果たし合いそのものは武蔵・小次郎組と同日同時刻なので一応参籠禅明けではある)。このうえない僥倖だと言いたくなる気持ちはわかりますが。
・ついには平心まで助太刀の助太刀をしたいと言い出す。あなた僧侶でしょうが。さすがに沢庵が「これが座禅か!」と声を荒らげるが、本来まず平心が言ってしかるべき台詞だよなあ。
まあ少し後に「大檀那のお志は拙僧の志」と言っているから、平心の中では仏徒として人を殺さない、傷つけないことより住職として檀那に対する義理を果すことの方が正しい僧侶の道として認識されてるようです。
・殺生はいかんと強く止める沢庵の後を受けて、宗矩が奥義中の奥義(争いごと無用)を開陳する。
この「兵法は能なき者のわざなり」「剣術は我も打たれず他人打たず無事に行くこそ妙とこそ知れ」という柳生石舟斎の教え(※14)は、井上さんが武蔵や江戸初期の武芸家・針ヶ谷夕雲について書いた文章に通じるものがあります(※15)。
・これを聞いて同時に笑いだし、ならどうして武士に帯刀を許しているのか、それは万一の時には抜いてもいいということではないのかと代わる代わる宗矩を責めたてる武蔵と小次郎。
武蔵は「初めて意見が合ったな」と小次郎に言うが、切り合いに反対する人々の中であくまで再決闘に臨む意志を崩さなかった時点で、とっくに意見合いまくっています。この後も柳生新陰流は腰抜け剣法ほか宗矩を批判する言葉も見事な気の合い方。
もともと宗矩と面識のある武蔵の方が小次郎よりさらに辛辣な言葉を口にしているのが面白いです。
・二人に左右から責め立てられて、「目の前の事実を振りかざして膝詰めでこられると、ちょっと弱いのです」と答える宗矩。
前半は声高に、後半だんだんしぼんでゆく台詞回しが上手いです。最後ちょこんと頭を下げる感じもユーモラス。
・沢庵に昨日のお二人は切り合いを止める側だったのにと責められて、乙女は昨日の自分は月だが今日は燃えさかる日輪だと、まいはただの御隠居から羅刹女に変じたと、理屈の通らない答えを堂々と言い放つ。
このときのまいの顔と声音が本当に羅刹のごとき迫力で、つい笑ってしまいました。
・正面から仇討ちするのでなく、「ここにいる二大剣客」に道場破りをしてもらって相手の武名を貶め干乾しにしてはどうかと提案する宗矩。
自身が道場破りに加わらないのは将軍家政治顧問の立場上当然でしょうが、自分も入れて「三大剣客のうち二人」とか言わないのは一応謙遜したものでしょうか。
・もう遅い、すでに果し状を突きつけたという乙女に宗矩は呆然。このスピーディーな展開に私も呆然。観客の気持ちを飽きる間なく芝居に惹きつける巧みな組み立てです。
・果たし合いの時間と場所が自分たちと同じと知って怒り困惑する武蔵と小次郎。まい曰く「こうしたことには慣れておりませぬゆえ、小次郎さまの果し状をお手本にいたしました」。
・・・そりゃ慣れてるはずもないし、確かに果し状を見たことなど小次郎のあれが最初で最後だろうけど、日付と場所までそのまま似せなくたってなあ。同じ時間に同じ場所にいれば否応なく巻き込んで助太刀してもらえるだろうという計算が見えるような。
あるいは武蔵と小次郎の果たし合いを延期させようという魂胆か(戯曲では宗矩が「おぬしたちの果し合いを先へ延ばせばよい」とそれらしい台詞を言っている)。後から思えば後者が正解だったんでしょうが、場所の方を変更すると言い出されたら幽霊たちどう対応したんだろう。
ちなみにこの時、自分の果たし状を手本にしたと言われて困り顔の小次郎が、文字通り眉がハの字になっている(笑)。お見事です。
・果し状を取り返してこいと忠助を叩いて促す沢庵に、いまさら取り消しの効くものでないと兵法者らしい観点から異を唱える武蔵と小次郎。
しかし果し状を取り消すのは沢庵が仏への誓いを取り消して「巷の遊女屋の亭主になろうとするようなもの」とはまた極端な例え。しかも言ったのは武蔵。相手は禅の師匠なのに。
・大声で泣きだしたまいたち三人に、剣術の基本は足運びだと教える方向にまずシフトしたのは小次郎の方だった。なんだかんだで復讐者の心はわかるということか。必死で励めば「奇跡がおこるかもしれぬ、いや、奇跡をおこそう」とかすっかり熱血教師モードに。
予定通り二日後に自分らの隣で果たし合いやられたら彼はどうしただろう。というよりどうする気でいたんだろう。放っておく事は到底できないだろうから当然助太刀する気だったろうが、そのために武蔵との勝負を一時預けるのでなく、後に〈自分たちの勝負を止めようとする謎の敵〉と対決した際にやろうとしたように、一瞬で決着がついた後に勝った方が助太刀をする心積もりだったんじゃないか。
まあ隣で武蔵と小次郎が命がけの勝負始めたら、むしろ二人の姿を見た時点で浅川一味が逃げだしそうだけど。
・脚運びの練習に当たり前のように平心が加わっている(笑)。感激屋で周囲に流されやすい平心は僧侶として適格かはともかく、人間としては愛すべきキャラですね(結局はこれも全部演技なのだけど)。
やがて小次郎も並んで一緒にやりはじめる。さらに腕を組んで眺めていた武蔵もいつの間にか加わっている。気づいた時の小次郎の「ああっ!?」という声と表情の怒りを含んだ驚き方が、真面目なのに、むしろ真面目であるゆえに笑えてきます。
武蔵が自分と並ぶに及んで、小次郎はやりにくそうにしてますが、ここでも小次郎が右、左と指示を出すのに皆はワンテンポ遅れて動くのに対して武蔵だけは同時に動いてる。ほんと息ぴったり。
・彼らがやがて一列になって動き出すとバックにタンゴの音楽が流れ、なんだかんだ言って宗矩が、ついで沢庵も加わって音楽に合わせてフォークダンスのように動きはじめる。
横一列になったところで小次郎の指示が止まり、曲の盛り上がりに合わせて皆当然のように動きが踊りのようになっていく。客席から笑い声が。二人ずつペアで向き合って足運びするにいたってはもう完全にダンス。
沢庵を先頭に寺内へと階段を上がり、円を描きつつ摺り足の早足を行うところでまた笑いが起きる。全員あくまで真顔なのがかえって面白い。五人六脚と並んでこの舞台の笑い所として劇評でもよく言及される場面です。
・踊りの列の中から真顔のまま武蔵が抜ける。「太刀を返してあげたらどうだ。丸腰のままではまるでお能の稽古だ」と呆れ顔のムサシにやはり環からぬけた小次郎が「でしゃばるな!ちょうどそうしようとしていたところではないか」と怒鳴る。
そしてやめと声をかけて平心に皆に刀を返すよう指示する。ここで一瞬武蔵を振り返る顔が「これで文句ないだろ」と言いたげで、子供っぽさがなんか可愛いです。
・太刀の抜き方の稽古に移るが女性陣はやはりダメ。とくにまいは抜こうとすると体が釣られて前にのめってしまう。本当に引きずられてのめってしまったような自然な動きが上手い。上段の構えの時も乙女ともども刀の重さに耐えかねたようによれよれになっています。
お堂の上で眺めながらもぞもぞ体を動かしていた宗矩が「上段というのは」といいながら降りてきて自分のやり方を説いたあと「「その程度の腕でわたしとやる気か?ご冗談を」といった気分で構える」と言い添える。この「ご冗談を」のところでフッと笑うのがダンディな感じで実に格好いい(言ってる内容は単なるダジャレだが)。さすが鋼太郎さんです。
この後も小次郎がいろんな構えを教える横から何に適した構えである、といった短い説明を加えてますが、本当に偽者にしては知識ありすぎるんだよなあ。
・女性陣の間に入ると小次郎の腰を落とした構えの安定感が際立つ。女たちの手足に軽くふれながら構えを直す場面では声もしぐさもどことなく優しくて、根は優しい小次郎の性格がのぞいています。
・打ちこむ瞬間にぺっと唾を飛ばしてもよい、これは効くぞと言って、本当にペっとやりながら扇子を降り下ろす小次郎に「それはわが流儀にはない」と真顔でボケる宗矩。そりゃどこの流儀にも(巌流にだって公式には)ないだろう。
しかしその後の「家光さまに恐れおおくもぺをなさいませと申し上げるわけにいかんだろ!」という台詞に又笑いが。将軍家に指南する以外でならぺっとやるのに抵抗ないってこと?
・武蔵が小次郎の隣にやってきて、ほとほと情けなさそうな顔でこれ見よがしにため息をつく。小次郎も目をむいて「いやみたらしいため息だな」という。ため息だけで言わんとするところが伝わってきますからねえ。
武蔵は小次郎の教え方を褒めたたえるのだが「あまりに見事なだけにかえって悲しい。(中略)かくも履歴正しい剣客が、ぺっ、などという下種な技を教えている。これは悲しい」。
戯曲では「ごろつき侍どもの下種技」となっているところを「ぺっ、などという下種な技」と言い換えた(再演にあたって井上さんが脚本にいくらか手を入れたそうなので、藤原くんのアドリブではないのかもですが)。はっきり「ぺっ」という語を出したことでおかしみを増しています。この「ぺっ」前後のタメの長さもちょうどいい匙加減。
本当に厭味でなく悲しそうな表情の武蔵と「誉めながら腐すな!」と叫ぶ小次郎のコントラストも面白い。まあ実際小次郎のイメージ─外見は大分ワイルドになったものの生真面目でどこか育ちの良さそうな折り目正しい居ずまいに「ぺっ」はどうにも似合ってなくて、嘆かわしい気持ちになるのもわかるというものです。
・わが方には時間がないのだから奇手奇策も用いるべきだ、と迫った小次郎は「待てよ、奇手奇策ならおぬしの得意とするところだったな。何か策はないのか」と意見を仰ぐ。
まんざら厭味だけでなく本当に意見を求めてる感じ。結局武蔵を一番認めてるのは小次郎なんでしょうね。その逆もしかり。
・沢庵が平心を皆の成仏を願う側に回るよう説得する。この言葉を受けて、乙女は「成仏もできずに、この世とあの世の間を、未来永劫さまよいつづけているのは・・・それだけはいやでございます」と泣き崩れる。後から思えばそれが彼女たちの現状であるわけだ。
まいと忠助も泣きながら平心に成仏させてくれるよう頼み、平心も沢庵や宗矩も熱心に祈っている。彼らの本音が出てしまった貴重な場面。
・小次郎が一同を「先潜りをしてそうむやみに嘆くこともあるまい」と一喝、その言葉に皆はっと立ち上がる。
武蔵にも策がありそうだし、いざとなったらこの小次郎が助太刀を買って出よう、この仇討かならず成功させるぞと断言する。本当、妙に肩入れしてるんだよなあ。
・武蔵は「太刀を抜いて、高く掲げよ」と無策の策を指南する。浅川甚兵衛役をどうぞと武蔵に指名され、沢庵にも肩を押されて甚兵衛役を引き受けるよう促された宗矩が、一呼吸おいて「ええー」といかにも嫌そうな顔をするのが(「ええー」という声ともども)可愛いです。
・刀を掲げたまま、名乗りをあげてもいけない、恨み言を並べてもいけない、ただツカ、ツカと前進するよう武蔵はアドバイス。「ツカ、ツカ」と言う時の間の取り方が絶妙です。
勝つことにひたすら焦点を据えたやり方で確かに有効そうですが、仇を打ったというカタルシスはないよなあ。 この「無策の策」は『五輪書』にある「秋猴の身」(※16)あたりがモデルですかね。
・刀を振り下ろす時のポイントを話す武蔵の表情が、どことなく狂気を感じさせる。
六年間武蔵へのリベンジを期してきた小次郎がいかにも鬼気迫る雰囲気を醸し出してるのと対照的に、これまで武蔵は感情を大きく乱すことなく悟ったような雰囲気を纏っていた。
そんな彼もやはり剣に取り憑かれた人間なのだと実感させられるシーン。藤原くんの抑えた演技が光っています。
・小次郎が不敵な笑いで嬉しそうに「おぬしの手の内を見たぞ!」と武蔵に言う。武蔵との果たし合いを数日後に控えているだけに相手の戦法、極意を知ることができれば非常に有利になる。
ト書きによれば「「ウヌ、やるではないか。それならば・・・・・・」と対応策を練る気配がある」そうですし、手の内を見たことを本番で生かそうとしてるのは確かでしょう。
ただここで小次郎が喜んでるのはそればかりでなく、より単純に、最大のライバル=もっとも敬愛する武術家の技を目の当たりに学ぶ機会を得たことを嬉しがってるように思える。ある意味武蔵の大ファンなんですよねこの人。それこそ一挙手一投足を見張りたくなるぐらいに。
・続けて宗矩が「わしも見たぞ」「いきなりツカツカのツツツとこられては、知らぬ者はまごつくわ」。
「ツカツカのツツツ」と言う台詞自体もユーモラスだが、吉田さんの節回しが面白味をなお引き立てている。いい役者さんだなあ。
・もう一度宗矩に甚兵衛役を頼み、沢庵と平心にもその仲間役を振る武蔵。ここで敵役三人が客席に降りる。これ、側の座席の人は興奮したでしょうねえ。
ところが練習中へなぜか「たかさごや~」と歌いながら今度は本当の甚兵衛一味がこれまた客席から現れる。こちらから出向いてやったと三人ならんで大仰な名乗りをあげる甚兵衛たち。
いきなり果し状を突きつけた乙女たちも驚くべきスピーディーさでしたが、受けて立つ甚兵衛側もこれまたスピーディー。明後日の決闘までに武蔵と小次郎を変心させないといけないからですね。
・武蔵たちも刀を取り、沢庵が先頭に立って果たし合いは明後日のはずと堂々抗議する。
小次郎や宗矩も口々に文句を言ったところで、平心が進み出て宗矩たちの素性を明かす。嘲笑う甚兵衛たち。確かにメンツが豪華すぎて本当のこととも思えないのは確か。
大体小次郎は六年前武蔵に敗れて死んでおると言われて小次郎が目をむく。世間でそう思われてるのはとっくに承知だったろうが、改めて他人に言われると腹が立つのも無理はない。
「ところがお手当てがよかったのです」と言いながら踊るような足どりでぐいぐい前に出て行く平心の動きと話し方が可笑しいです。
・聞き茶の会で乙女の父に恥をかかされたと甚兵衛の恨み言。恥をかかされた恨みを相手を殺すことで晴らし、そのために今度は自分が憎まれ命を狙われている。これが憎しみの連鎖か。
「故郷の茶の味もわからないとはねー」という乙女父の話し方(甚兵衛による口真似)はユーモラスだけど。
・「雑念を捨てて真っすぐにまいられい」と武蔵が乙女・まい・忠助の背を順に叩く。無表情に刀を振り上げるとツツツと走り寄る乙女たち。忠助など無表情通り越して白痴的な顔になっています。
そしてわけがわからず突っ立ったままの甚兵衛一味を見事ばっさり。ついさっき心得を習ったばかりなのに見事にやりとげた。ちなみにこの乙女の仇討ちのモデルというか発想の原型を井上さんのエッセイに見ることができます(※17)。
・たちまち阿鼻叫喚の嵐。切り落とされた甚兵衛の腕の指が思い切り動いているがあれどんな仕掛けなんだろう。
その有様を見た乙女が驚愕の顔になる。想像を超える無残な現実を見てたちまち後悔したのだろうか。
最初は武蔵と小次郎の果たし合いを止めようとしていたのが、いざ自分の事となると理想論はふっとび父の復讐に走った。そして今度は復讐が生んだ惨劇を目の前にして再度の変心。結局人間自ら体験してみないと、当事者の気持ちなどわからないということでしょうか。
・刀を低く構えたまま甚兵衛ににじりよってゆく乙女に声援を送る一同。当然止めを刺すものと思えば、乙女は「恨みは晴れるのではなくて、太るの、では」と絞り出すような声で言い、さらに「この恨み・・・・・・いまわたくしが断ち切ります」と自分に刀の刃の側をいったん向ける(ここでギラリという効果音)。
そして刀を捨てる。武蔵は驚くようでもなく少し悲しげな表情で一連の行動を見つめている。彼は乙女が最終的にこうすることを察してたんでしょうか。
・「恨みの三文字を細筆で、初めに書いたのは父でした。その文字を甚兵衛どのが小筆で荒く書き、いまわたくしは中筆で殴り書きしようとしている、やがて甚兵衛殿のゆかりの方々が太筆で暴れ書きすることになるはず。そうなると、恨み、恨まれ、また恨み、恨みの文字が鎖になって、この世を黒く塗り上げてしまう。恨みから恨みへとつなぐこの鎖がこの世を雁字搦めに縛り上げてしまう前に、たとえ、今はどんなに口惜しくとも、わたくしはこの鎖を断ち切ります」。
この作品のテーマと言われている〈恨みの鎖を断ち切るべし〉とのメッセージを篭めた長台詞。〈恨みを筆で書く〉例え表現が、彼女の家業「筆屋」に相応しい。
・頭の鉢巻きを外して甚兵衛の腕を止血する乙女。泣きながらの少し乱暴な動きに彼女の必死に抑えようとしてる憎しみの深さが感じられる。
「恨みの鎖は斬ろうと思えば切れるんですね。人が作った鎖ですから人が切れるのは当たり前ではありますが」と穏やかに語る平心がすがるように武蔵の袖を掴む。〈恨みの鎖は切れる〉ことを武蔵にこそ訴えかけようとしているのがわかる場面です。
「人という生き物か美しく見えるのはこんなときではないでしょうか、ねえ?」と泣きながら小次郎の胸に手を当てるまい。さっきまでの激情ぶりを思うと乙女が変心したからと言ってこうもあっさり軟化するのが多少不自然ではある。これも全ては芝居で本物の恨みではなかったことを暗示してるんでしょうか。
・ここで能管が響き背景の竹林が揺れ、問いかけるように小次郎が武蔵を見ると、武蔵は少し目を逸らす。武蔵を見つめてしまう小次郎も、視線を逸らしてしまう武蔵も、この状況と乙女たちの言葉に多少感じ入るところがあったのだろうか。竹の揺れは二人の心の揺れでもあるのかもしれない。
ト書きには「なにか怪しいものを感じて、顔を見合わせる」とありますが、武蔵が目線を外したことで別の意味が立ち上がってきた気がします。
※12-「決闘を懸命に止めようとするのは、禅寺を支援する筆屋乙女(鈴木杏)と木屋まい(白石加代子)の女性二人。だが、彼女たちも、乙女の父を殺した犯人が分かると、たちまち仇討ちに着手。理想としての平和論が、自分たちに関わる現実問題になると、報復戦に早変わりするこの展開には不気味なリアリティーがある。」(扇田昭彦「爆笑に潜む「報復の連鎖」」、『井上ひさしの劇世界』、国書刊行会、2012年収録)
※13-「乙女の父親は聞き茶勝負で負かした浅川甚兵衛に殺された。井上は乙女の仇討ちにも茶の湯に縁のある設定を考えたのだろうが,芸道上の遺恨に端を発する仇討ちものは現行の能の中でも「富士太鼓」(宮中管弦の出仕をめぐって殺された楽人の妻と娘の仇討ち)ぐらいで,非常に珍しい。」 (坂本麻実子『井上ひさしと能の関係 -『ムサシ』の演能から読み解く-』(https://toyama.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=938&item_no=1&page_id=32&block_id=36)。
※14-これについて井上さんはエッセイ「無刀流について」(井上ひさし『ふふふふ』(講談社文庫、2013年)所収)で詳しく書いています。「今村嘉雄編の『武道歌撰集』によれば、石舟斎は次のような言葉を遺している。 「兵法の争ひ事、無用 兵法は能なき者のわざ 兵法は浮かばぬ石の舟 兵法の極意。思案して遠慮して避け外せ 兵法の争ひ事も欲ゆゑに 兵法は心許さず気を使ひ耳に立つなる言葉使ふな 兵法は勝ちたがるこそ大下手よ負けぬやうにとすれば勝つなり」 戦わずに勝つことを最高の理想とする孫子の兵法書を、石舟斎は生涯、手放すことがなかった。彼の頭の中ではいつも孫子謀攻篇の中の「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり(中略)」という一行が鳴り響いていた。」
※15-「「どうやら真の武芸家とは、戦うことを巧みに避ける者のことを言うのではないか。これからは戦わずにすむ方策を練ることに意を用いることにしよう」 これが一流の武芸家たちが最後に到達する境地なのである。」(井上ひさし「プロローグ 憲法の前に剣法の話をちょっと」、井上ひさし・樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』(岩波現代文庫、2014年(オリジナルは講談社、1994年))
※16-「秋猴の身とは、手を出さぬ心なり。敵へ入る身に、少しも手を出す心なく、敵打つ前、身を速く入るる心なり。手を出さむと思へば、必ず身の遠退くものなるによつて、総身を速く移り入るる心なり。」(宮本武蔵著、佐藤正英校注・訳『五輪書』(ちくま学芸文庫(筑摩書房)、2009年)「水の巻 秋猴の身といふこと」)
※17-「夕雲の辿り着いた大事な結論に「心が居つく、居つかない」ということがある。(中略)そこで夕雲はこう考えた。(いくら剣の上手でも、無心の者を相手にすれば負けてしまう。うまく行っても相討ちだ)と。 ここは大事なところだがら、わたしなりの注釈をつけると、一人の剣客の前に、かよわい娘が小太刀を構えて立っている。剣客は以前に娘の父親を斬っていた。つまり娘にとっては父の敵討ち。娘はこの日に備えて小太刀を習ってきており、男の敵ではないにしても、しかしそれなりに使える。(中略)男が斬りつけてきたら避けようなどと思わず、それどころかこちらからも一歩踏み込んで行こう。すべてを捨ててかかっているから、心がどこにも居ついていない。つまり無心。 夕雲は、このような極限状況を百通り以上想定して、三年かかってこう考えた。「いくら修業をしたところでこういう者を相手にしては勝てない。うまく行って相討ちである。だとすれば剣の修業になにほどの意味があるのか」 (井上ひさし「プロローグ 憲法の前に剣法の話をちょっと」、井上ひさし・樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』(岩波現代文庫、2014年(オリジナルは講談社、1994年))
「うちの大檀那衆の事が気がかりです」という平心を沢庵は「去るものは去り来るものは来る、これ、人間世界の実相なり!」と叱る。この言葉はのちのち劇的に反復されることになります。
・ついで前のめりに眠ってた宗矩を打つと、宗矩がまた謡曲を歌いはじめる。遮った沢庵に宗矩が反論し、そこから突然宗矩の舞狂いの真相にせまる深い話に。「お能を政治の隠れ蓑にしているわけだ」のあたりなど妙にリアルだが、史実の宗矩の舞狂いも同じ理由だったんだろうか。
しかし〈次の将軍と政治顧問が舞狂いでは徳川も三代でおしまい〉と油断させるために舞狂いを演じているというが、結果徳川に見切りをつけた大名がこぞって造反した場合、本当に徳川の世が終わっちゃったりしないだろうか。まだまだ徳川の地盤も安泰じゃないだろうに。
・忠助が走り込んでくる。武蔵らも含め全員で話を聴き、ここで浅川甚兵衛の正体と乙女の父の死の真相が明らかに。
乙女の父の舟が甚兵衛が雇ったごろつきに沈められたというのは、少し前の場面で宗矩が謡っている『孝行狸』の父狸の末路と重ねられてるわけですね。
・忠助は武蔵と小次郎に、甚兵衛に対抗するための棒術を教えてくれとすがる。さらにそこへ乙女とまいが刀を抱えて走り込んできて、それぞれ武蔵と小次郎に剣術の指南をお願いする。
沢庵がツッコむように、昨日は武蔵と小次郎の切り合いを止めようとしていた二人がまるで別人のよう。人の事なら理想論を述べられてもいざ自分が当事者となると憎しみに捕らわれてしまう。「報復の連鎖」とはまさにこうした心理から引き起こされるものだろう(※12)。
・小次郎と武蔵が口々に刀の扱いに気をつけろと二人にアドバイスする。そして二人同時にまいと乙女の手から刀を奪って飛びすさり距離をとって睨み合う。今にも抜き合いそうな様子で周囲を脅えさせるがあっさりと取り上げた刀を平心に預ける。
このへん実に息があってるんですよね。五人六脚なんていらないくらい。ただ〈再び戦うのだ〉という意志までピタリ一致してるから争い続けることになるわけですが。
・乙女が亡父と浅川甚兵衛は聞き茶のライバルで甚兵衛は常に二番だった(※13)と話すと「それはいささか辛いはなしだな」と武蔵が小次郎に背後から近づきつつ言う。小次郎の耳元で聞かせるような口調があからさまにあてこすっている(笑)。小次郎も目をむいています。
・興奮して棒でなく刀を教えてくれと言い出す忠助。まいも今の安楽な暮らしは筆屋夫婦のおかげ、仇討ちのために燕返しを授けてくれと小次郎に懇願。
この前のシーンもそうですが、まいはいつのまにか小次郎担当のようになっています。
・乙女が剣の達人が二人も、と繰り返し言うのに後ろで宗矩が咳払いし、それを受けて乙女が「三人も」と言いなおす。
しかし父の仇が知れた日に剣の達人が居合わせたのも宝蓮寺のおかげ、仏の導きと言うのはいかがなものか。殺生を禁じる仏の教えに反して、時もあろうに参籠禅の最中に仇討ち計画を練っているというのに(後にわかるように果たし合いそのものは武蔵・小次郎組と同日同時刻なので一応参籠禅明けではある)。このうえない僥倖だと言いたくなる気持ちはわかりますが。
・ついには平心まで助太刀の助太刀をしたいと言い出す。あなた僧侶でしょうが。さすがに沢庵が「これが座禅か!」と声を荒らげるが、本来まず平心が言ってしかるべき台詞だよなあ。
まあ少し後に「大檀那のお志は拙僧の志」と言っているから、平心の中では仏徒として人を殺さない、傷つけないことより住職として檀那に対する義理を果すことの方が正しい僧侶の道として認識されてるようです。
・殺生はいかんと強く止める沢庵の後を受けて、宗矩が奥義中の奥義(争いごと無用)を開陳する。
この「兵法は能なき者のわざなり」「剣術は我も打たれず他人打たず無事に行くこそ妙とこそ知れ」という柳生石舟斎の教え(※14)は、井上さんが武蔵や江戸初期の武芸家・針ヶ谷夕雲について書いた文章に通じるものがあります(※15)。
・これを聞いて同時に笑いだし、ならどうして武士に帯刀を許しているのか、それは万一の時には抜いてもいいということではないのかと代わる代わる宗矩を責めたてる武蔵と小次郎。
武蔵は「初めて意見が合ったな」と小次郎に言うが、切り合いに反対する人々の中であくまで再決闘に臨む意志を崩さなかった時点で、とっくに意見合いまくっています。この後も柳生新陰流は腰抜け剣法ほか宗矩を批判する言葉も見事な気の合い方。
もともと宗矩と面識のある武蔵の方が小次郎よりさらに辛辣な言葉を口にしているのが面白いです。
・二人に左右から責め立てられて、「目の前の事実を振りかざして膝詰めでこられると、ちょっと弱いのです」と答える宗矩。
前半は声高に、後半だんだんしぼんでゆく台詞回しが上手いです。最後ちょこんと頭を下げる感じもユーモラス。
・沢庵に昨日のお二人は切り合いを止める側だったのにと責められて、乙女は昨日の自分は月だが今日は燃えさかる日輪だと、まいはただの御隠居から羅刹女に変じたと、理屈の通らない答えを堂々と言い放つ。
このときのまいの顔と声音が本当に羅刹のごとき迫力で、つい笑ってしまいました。
・正面から仇討ちするのでなく、「ここにいる二大剣客」に道場破りをしてもらって相手の武名を貶め干乾しにしてはどうかと提案する宗矩。
自身が道場破りに加わらないのは将軍家政治顧問の立場上当然でしょうが、自分も入れて「三大剣客のうち二人」とか言わないのは一応謙遜したものでしょうか。
・もう遅い、すでに果し状を突きつけたという乙女に宗矩は呆然。このスピーディーな展開に私も呆然。観客の気持ちを飽きる間なく芝居に惹きつける巧みな組み立てです。
・果たし合いの時間と場所が自分たちと同じと知って怒り困惑する武蔵と小次郎。まい曰く「こうしたことには慣れておりませぬゆえ、小次郎さまの果し状をお手本にいたしました」。
・・・そりゃ慣れてるはずもないし、確かに果し状を見たことなど小次郎のあれが最初で最後だろうけど、日付と場所までそのまま似せなくたってなあ。同じ時間に同じ場所にいれば否応なく巻き込んで助太刀してもらえるだろうという計算が見えるような。
あるいは武蔵と小次郎の果たし合いを延期させようという魂胆か(戯曲では宗矩が「おぬしたちの果し合いを先へ延ばせばよい」とそれらしい台詞を言っている)。後から思えば後者が正解だったんでしょうが、場所の方を変更すると言い出されたら幽霊たちどう対応したんだろう。
ちなみにこの時、自分の果たし状を手本にしたと言われて困り顔の小次郎が、文字通り眉がハの字になっている(笑)。お見事です。
・果し状を取り返してこいと忠助を叩いて促す沢庵に、いまさら取り消しの効くものでないと兵法者らしい観点から異を唱える武蔵と小次郎。
しかし果し状を取り消すのは沢庵が仏への誓いを取り消して「巷の遊女屋の亭主になろうとするようなもの」とはまた極端な例え。しかも言ったのは武蔵。相手は禅の師匠なのに。
・大声で泣きだしたまいたち三人に、剣術の基本は足運びだと教える方向にまずシフトしたのは小次郎の方だった。なんだかんだで復讐者の心はわかるということか。必死で励めば「奇跡がおこるかもしれぬ、いや、奇跡をおこそう」とかすっかり熱血教師モードに。
予定通り二日後に自分らの隣で果たし合いやられたら彼はどうしただろう。というよりどうする気でいたんだろう。放っておく事は到底できないだろうから当然助太刀する気だったろうが、そのために武蔵との勝負を一時預けるのでなく、後に〈自分たちの勝負を止めようとする謎の敵〉と対決した際にやろうとしたように、一瞬で決着がついた後に勝った方が助太刀をする心積もりだったんじゃないか。
まあ隣で武蔵と小次郎が命がけの勝負始めたら、むしろ二人の姿を見た時点で浅川一味が逃げだしそうだけど。
・脚運びの練習に当たり前のように平心が加わっている(笑)。感激屋で周囲に流されやすい平心は僧侶として適格かはともかく、人間としては愛すべきキャラですね(結局はこれも全部演技なのだけど)。
やがて小次郎も並んで一緒にやりはじめる。さらに腕を組んで眺めていた武蔵もいつの間にか加わっている。気づいた時の小次郎の「ああっ!?」という声と表情の怒りを含んだ驚き方が、真面目なのに、むしろ真面目であるゆえに笑えてきます。
武蔵が自分と並ぶに及んで、小次郎はやりにくそうにしてますが、ここでも小次郎が右、左と指示を出すのに皆はワンテンポ遅れて動くのに対して武蔵だけは同時に動いてる。ほんと息ぴったり。
・彼らがやがて一列になって動き出すとバックにタンゴの音楽が流れ、なんだかんだ言って宗矩が、ついで沢庵も加わって音楽に合わせてフォークダンスのように動きはじめる。
横一列になったところで小次郎の指示が止まり、曲の盛り上がりに合わせて皆当然のように動きが踊りのようになっていく。客席から笑い声が。二人ずつペアで向き合って足運びするにいたってはもう完全にダンス。
沢庵を先頭に寺内へと階段を上がり、円を描きつつ摺り足の早足を行うところでまた笑いが起きる。全員あくまで真顔なのがかえって面白い。五人六脚と並んでこの舞台の笑い所として劇評でもよく言及される場面です。
・踊りの列の中から真顔のまま武蔵が抜ける。「太刀を返してあげたらどうだ。丸腰のままではまるでお能の稽古だ」と呆れ顔のムサシにやはり環からぬけた小次郎が「でしゃばるな!ちょうどそうしようとしていたところではないか」と怒鳴る。
そしてやめと声をかけて平心に皆に刀を返すよう指示する。ここで一瞬武蔵を振り返る顔が「これで文句ないだろ」と言いたげで、子供っぽさがなんか可愛いです。
・太刀の抜き方の稽古に移るが女性陣はやはりダメ。とくにまいは抜こうとすると体が釣られて前にのめってしまう。本当に引きずられてのめってしまったような自然な動きが上手い。上段の構えの時も乙女ともども刀の重さに耐えかねたようによれよれになっています。
お堂の上で眺めながらもぞもぞ体を動かしていた宗矩が「上段というのは」といいながら降りてきて自分のやり方を説いたあと「「その程度の腕でわたしとやる気か?ご冗談を」といった気分で構える」と言い添える。この「ご冗談を」のところでフッと笑うのがダンディな感じで実に格好いい(言ってる内容は単なるダジャレだが)。さすが鋼太郎さんです。
この後も小次郎がいろんな構えを教える横から何に適した構えである、といった短い説明を加えてますが、本当に偽者にしては知識ありすぎるんだよなあ。
・女性陣の間に入ると小次郎の腰を落とした構えの安定感が際立つ。女たちの手足に軽くふれながら構えを直す場面では声もしぐさもどことなく優しくて、根は優しい小次郎の性格がのぞいています。
・打ちこむ瞬間にぺっと唾を飛ばしてもよい、これは効くぞと言って、本当にペっとやりながら扇子を降り下ろす小次郎に「それはわが流儀にはない」と真顔でボケる宗矩。そりゃどこの流儀にも(巌流にだって公式には)ないだろう。
しかしその後の「家光さまに恐れおおくもぺをなさいませと申し上げるわけにいかんだろ!」という台詞に又笑いが。将軍家に指南する以外でならぺっとやるのに抵抗ないってこと?
・武蔵が小次郎の隣にやってきて、ほとほと情けなさそうな顔でこれ見よがしにため息をつく。小次郎も目をむいて「いやみたらしいため息だな」という。ため息だけで言わんとするところが伝わってきますからねえ。
武蔵は小次郎の教え方を褒めたたえるのだが「あまりに見事なだけにかえって悲しい。(中略)かくも履歴正しい剣客が、ぺっ、などという下種な技を教えている。これは悲しい」。
戯曲では「ごろつき侍どもの下種技」となっているところを「ぺっ、などという下種な技」と言い換えた(再演にあたって井上さんが脚本にいくらか手を入れたそうなので、藤原くんのアドリブではないのかもですが)。はっきり「ぺっ」という語を出したことでおかしみを増しています。この「ぺっ」前後のタメの長さもちょうどいい匙加減。
本当に厭味でなく悲しそうな表情の武蔵と「誉めながら腐すな!」と叫ぶ小次郎のコントラストも面白い。まあ実際小次郎のイメージ─外見は大分ワイルドになったものの生真面目でどこか育ちの良さそうな折り目正しい居ずまいに「ぺっ」はどうにも似合ってなくて、嘆かわしい気持ちになるのもわかるというものです。
・わが方には時間がないのだから奇手奇策も用いるべきだ、と迫った小次郎は「待てよ、奇手奇策ならおぬしの得意とするところだったな。何か策はないのか」と意見を仰ぐ。
まんざら厭味だけでなく本当に意見を求めてる感じ。結局武蔵を一番認めてるのは小次郎なんでしょうね。その逆もしかり。
・沢庵が平心を皆の成仏を願う側に回るよう説得する。この言葉を受けて、乙女は「成仏もできずに、この世とあの世の間を、未来永劫さまよいつづけているのは・・・それだけはいやでございます」と泣き崩れる。後から思えばそれが彼女たちの現状であるわけだ。
まいと忠助も泣きながら平心に成仏させてくれるよう頼み、平心も沢庵や宗矩も熱心に祈っている。彼らの本音が出てしまった貴重な場面。
・小次郎が一同を「先潜りをしてそうむやみに嘆くこともあるまい」と一喝、その言葉に皆はっと立ち上がる。
武蔵にも策がありそうだし、いざとなったらこの小次郎が助太刀を買って出よう、この仇討かならず成功させるぞと断言する。本当、妙に肩入れしてるんだよなあ。
・武蔵は「太刀を抜いて、高く掲げよ」と無策の策を指南する。浅川甚兵衛役をどうぞと武蔵に指名され、沢庵にも肩を押されて甚兵衛役を引き受けるよう促された宗矩が、一呼吸おいて「ええー」といかにも嫌そうな顔をするのが(「ええー」という声ともども)可愛いです。
・刀を掲げたまま、名乗りをあげてもいけない、恨み言を並べてもいけない、ただツカ、ツカと前進するよう武蔵はアドバイス。「ツカ、ツカ」と言う時の間の取り方が絶妙です。
勝つことにひたすら焦点を据えたやり方で確かに有効そうですが、仇を打ったというカタルシスはないよなあ。 この「無策の策」は『五輪書』にある「秋猴の身」(※16)あたりがモデルですかね。
・刀を振り下ろす時のポイントを話す武蔵の表情が、どことなく狂気を感じさせる。
六年間武蔵へのリベンジを期してきた小次郎がいかにも鬼気迫る雰囲気を醸し出してるのと対照的に、これまで武蔵は感情を大きく乱すことなく悟ったような雰囲気を纏っていた。
そんな彼もやはり剣に取り憑かれた人間なのだと実感させられるシーン。藤原くんの抑えた演技が光っています。
・小次郎が不敵な笑いで嬉しそうに「おぬしの手の内を見たぞ!」と武蔵に言う。武蔵との果たし合いを数日後に控えているだけに相手の戦法、極意を知ることができれば非常に有利になる。
ト書きによれば「「ウヌ、やるではないか。それならば・・・・・・」と対応策を練る気配がある」そうですし、手の内を見たことを本番で生かそうとしてるのは確かでしょう。
ただここで小次郎が喜んでるのはそればかりでなく、より単純に、最大のライバル=もっとも敬愛する武術家の技を目の当たりに学ぶ機会を得たことを嬉しがってるように思える。ある意味武蔵の大ファンなんですよねこの人。それこそ一挙手一投足を見張りたくなるぐらいに。
・続けて宗矩が「わしも見たぞ」「いきなりツカツカのツツツとこられては、知らぬ者はまごつくわ」。
「ツカツカのツツツ」と言う台詞自体もユーモラスだが、吉田さんの節回しが面白味をなお引き立てている。いい役者さんだなあ。
・もう一度宗矩に甚兵衛役を頼み、沢庵と平心にもその仲間役を振る武蔵。ここで敵役三人が客席に降りる。これ、側の座席の人は興奮したでしょうねえ。
ところが練習中へなぜか「たかさごや~」と歌いながら今度は本当の甚兵衛一味がこれまた客席から現れる。こちらから出向いてやったと三人ならんで大仰な名乗りをあげる甚兵衛たち。
いきなり果し状を突きつけた乙女たちも驚くべきスピーディーさでしたが、受けて立つ甚兵衛側もこれまたスピーディー。明後日の決闘までに武蔵と小次郎を変心させないといけないからですね。
・武蔵たちも刀を取り、沢庵が先頭に立って果たし合いは明後日のはずと堂々抗議する。
小次郎や宗矩も口々に文句を言ったところで、平心が進み出て宗矩たちの素性を明かす。嘲笑う甚兵衛たち。確かにメンツが豪華すぎて本当のこととも思えないのは確か。
大体小次郎は六年前武蔵に敗れて死んでおると言われて小次郎が目をむく。世間でそう思われてるのはとっくに承知だったろうが、改めて他人に言われると腹が立つのも無理はない。
「ところがお手当てがよかったのです」と言いながら踊るような足どりでぐいぐい前に出て行く平心の動きと話し方が可笑しいです。
・聞き茶の会で乙女の父に恥をかかされたと甚兵衛の恨み言。恥をかかされた恨みを相手を殺すことで晴らし、そのために今度は自分が憎まれ命を狙われている。これが憎しみの連鎖か。
「故郷の茶の味もわからないとはねー」という乙女父の話し方(甚兵衛による口真似)はユーモラスだけど。
・「雑念を捨てて真っすぐにまいられい」と武蔵が乙女・まい・忠助の背を順に叩く。無表情に刀を振り上げるとツツツと走り寄る乙女たち。忠助など無表情通り越して白痴的な顔になっています。
そしてわけがわからず突っ立ったままの甚兵衛一味を見事ばっさり。ついさっき心得を習ったばかりなのに見事にやりとげた。ちなみにこの乙女の仇討ちのモデルというか発想の原型を井上さんのエッセイに見ることができます(※17)。
・たちまち阿鼻叫喚の嵐。切り落とされた甚兵衛の腕の指が思い切り動いているがあれどんな仕掛けなんだろう。
その有様を見た乙女が驚愕の顔になる。想像を超える無残な現実を見てたちまち後悔したのだろうか。
最初は武蔵と小次郎の果たし合いを止めようとしていたのが、いざ自分の事となると理想論はふっとび父の復讐に走った。そして今度は復讐が生んだ惨劇を目の前にして再度の変心。結局人間自ら体験してみないと、当事者の気持ちなどわからないということでしょうか。
・刀を低く構えたまま甚兵衛ににじりよってゆく乙女に声援を送る一同。当然止めを刺すものと思えば、乙女は「恨みは晴れるのではなくて、太るの、では」と絞り出すような声で言い、さらに「この恨み・・・・・・いまわたくしが断ち切ります」と自分に刀の刃の側をいったん向ける(ここでギラリという効果音)。
そして刀を捨てる。武蔵は驚くようでもなく少し悲しげな表情で一連の行動を見つめている。彼は乙女が最終的にこうすることを察してたんでしょうか。
・「恨みの三文字を細筆で、初めに書いたのは父でした。その文字を甚兵衛どのが小筆で荒く書き、いまわたくしは中筆で殴り書きしようとしている、やがて甚兵衛殿のゆかりの方々が太筆で暴れ書きすることになるはず。そうなると、恨み、恨まれ、また恨み、恨みの文字が鎖になって、この世を黒く塗り上げてしまう。恨みから恨みへとつなぐこの鎖がこの世を雁字搦めに縛り上げてしまう前に、たとえ、今はどんなに口惜しくとも、わたくしはこの鎖を断ち切ります」。
この作品のテーマと言われている〈恨みの鎖を断ち切るべし〉とのメッセージを篭めた長台詞。〈恨みを筆で書く〉例え表現が、彼女の家業「筆屋」に相応しい。
・頭の鉢巻きを外して甚兵衛の腕を止血する乙女。泣きながらの少し乱暴な動きに彼女の必死に抑えようとしてる憎しみの深さが感じられる。
「恨みの鎖は斬ろうと思えば切れるんですね。人が作った鎖ですから人が切れるのは当たり前ではありますが」と穏やかに語る平心がすがるように武蔵の袖を掴む。〈恨みの鎖は切れる〉ことを武蔵にこそ訴えかけようとしているのがわかる場面です。
「人という生き物か美しく見えるのはこんなときではないでしょうか、ねえ?」と泣きながら小次郎の胸に手を当てるまい。さっきまでの激情ぶりを思うと乙女が変心したからと言ってこうもあっさり軟化するのが多少不自然ではある。これも全ては芝居で本物の恨みではなかったことを暗示してるんでしょうか。
・ここで能管が響き背景の竹林が揺れ、問いかけるように小次郎が武蔵を見ると、武蔵は少し目を逸らす。武蔵を見つめてしまう小次郎も、視線を逸らしてしまう武蔵も、この状況と乙女たちの言葉に多少感じ入るところがあったのだろうか。竹の揺れは二人の心の揺れでもあるのかもしれない。
ト書きには「なにか怪しいものを感じて、顔を見合わせる」とありますが、武蔵が目線を外したことで別の意味が立ち上がってきた気がします。
※12-「決闘を懸命に止めようとするのは、禅寺を支援する筆屋乙女(鈴木杏)と木屋まい(白石加代子)の女性二人。だが、彼女たちも、乙女の父を殺した犯人が分かると、たちまち仇討ちに着手。理想としての平和論が、自分たちに関わる現実問題になると、報復戦に早変わりするこの展開には不気味なリアリティーがある。」(扇田昭彦「爆笑に潜む「報復の連鎖」」、『井上ひさしの劇世界』、国書刊行会、2012年収録)
※13-「乙女の父親は聞き茶勝負で負かした浅川甚兵衛に殺された。井上は乙女の仇討ちにも茶の湯に縁のある設定を考えたのだろうが,芸道上の遺恨に端を発する仇討ちものは現行の能の中でも「富士太鼓」(宮中管弦の出仕をめぐって殺された楽人の妻と娘の仇討ち)ぐらいで,非常に珍しい。」 (坂本麻実子『井上ひさしと能の関係 -『ムサシ』の演能から読み解く-』(https://toyama.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=938&item_no=1&page_id=32&block_id=36)。
※14-これについて井上さんはエッセイ「無刀流について」(井上ひさし『ふふふふ』(講談社文庫、2013年)所収)で詳しく書いています。「今村嘉雄編の『武道歌撰集』によれば、石舟斎は次のような言葉を遺している。 「兵法の争ひ事、無用 兵法は能なき者のわざ 兵法は浮かばぬ石の舟 兵法の極意。思案して遠慮して避け外せ 兵法の争ひ事も欲ゆゑに 兵法は心許さず気を使ひ耳に立つなる言葉使ふな 兵法は勝ちたがるこそ大下手よ負けぬやうにとすれば勝つなり」 戦わずに勝つことを最高の理想とする孫子の兵法書を、石舟斎は生涯、手放すことがなかった。彼の頭の中ではいつも孫子謀攻篇の中の「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり(中略)」という一行が鳴り響いていた。」
※15-「「どうやら真の武芸家とは、戦うことを巧みに避ける者のことを言うのではないか。これからは戦わずにすむ方策を練ることに意を用いることにしよう」 これが一流の武芸家たちが最後に到達する境地なのである。」(井上ひさし「プロローグ 憲法の前に剣法の話をちょっと」、井上ひさし・樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』(岩波現代文庫、2014年(オリジナルは講談社、1994年))
※16-「秋猴の身とは、手を出さぬ心なり。敵へ入る身に、少しも手を出す心なく、敵打つ前、身を速く入るる心なり。手を出さむと思へば、必ず身の遠退くものなるによつて、総身を速く移り入るる心なり。」(宮本武蔵著、佐藤正英校注・訳『五輪書』(ちくま学芸文庫(筑摩書房)、2009年)「水の巻 秋猴の身といふこと」)
※17-「夕雲の辿り着いた大事な結論に「心が居つく、居つかない」ということがある。(中略)そこで夕雲はこう考えた。(いくら剣の上手でも、無心の者を相手にすれば負けてしまう。うまく行っても相討ちだ)と。 ここは大事なところだがら、わたしなりの注釈をつけると、一人の剣客の前に、かよわい娘が小太刀を構えて立っている。剣客は以前に娘の父親を斬っていた。つまり娘にとっては父の敵討ち。娘はこの日に備えて小太刀を習ってきており、男の敵ではないにしても、しかしそれなりに使える。(中略)男が斬りつけてきたら避けようなどと思わず、それどころかこちらからも一歩踏み込んで行こう。すべてを捨ててかかっているから、心がどこにも居ついていない。つまり無心。 夕雲は、このような極限状況を百通り以上想定して、三年かかってこう考えた。「いくら修業をしたところでこういう者を相手にしては勝てない。うまく行って相討ちである。だとすれば剣の修業になにほどの意味があるのか」 (井上ひさし「プロローグ 憲法の前に剣法の話をちょっと」、井上ひさし・樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』(岩波現代文庫、2014年(オリジナルは講談社、1994年))