その言葉にボクは「上京以来最高の幸せ」を感じますが、彼女が母親に会いたがることをこれだけ喜ぶのは、彼女との結婚を脳裏に描いてるということでしょうか。
この二人最終的には別れるわけですが、なんで上手くいかなくなっちゃったんですかね。
・東京に出て来たら、と言うボクからの誘いの電話を受けるオカン。
話してる間中右腕をまっすぐ突っ張っているのが気になる。ガン手術の後遺症?(首が縮んだせいで周囲の筋肉も突っ張るようになった?)
この姿勢がオカンの体が弱ってるという印象を観客に与え、これまで気丈に食い扶持を自分で稼いできたオカンがボクを頼って東京に出てゆく決意をした理由付けになっている。
・ボクの部屋の隅に「らでぃっしゅぼーや」(減農薬野菜を中心とする安心食材などの宅配業者)のダンボールが立ててある。
えのもとが貧しかった時分から「らでぃっしゅぼーや」を利用している話は映画では出てきませんでしたが、この場面でさりげなくアピール。
・「行ってもいいんやね?」とわざわざもう一度確認の電話をかけてくるオカンと妙にしどろもどろのボク。
長く別々に暮らしてきてそれぞれのライフスタイルも出来ているだけに、お互い自分の生活を変えることにも相手の生活を変えることにも緊張がともなうのでしょう。
特にボクの場合、まだちゃんと別れたわけじゃないオカンとオトンの仲を完全に引き裂くことになるかも、という気遣いもあるわけで。
・ボクが口ずさむ炭鉱節をBGMに、筑豊を離れ東京へと向かうオカンの姿を映す。
見送る人は誰もなく、人気のない町を一人歩くオカンの旅立ちは、アカペラの炭鉱節とあいまって、何とも物悲しい風情。
この後、オカンが新幹線の窓から眺める東京の街並みとオカンを迎えにゆくボクの車が走る東京の街並みを交互に見せながら、BGMが炭鉱節から映画のメインテーマ?へと切り替わる。
筑豊の象徴というべき炭鉱節から包みこむような優しいメロディへの切り替わりは、住み慣れた故郷を離れて大都会へと出て行くオカンの不安が、次第に息子とともに暮らせる安心感と喜びに変化してゆくさまをうかがわせます。
・ボクとの新居に落ち着いて真っ先に糠床のダンボールをあけるオカン。「これさえあれば怖いもんなし」という表現に、オカンがいかにこの糠床を大切にしているか(すでにアイデンティティーレベルかも)が示されています。
ボクも「来た来たー!」と糠床の登場を喜んでますが、オカンの糠漬けがそれだけ好きなのか、糠床最優先のあたりがいかにもオカンらしいのが嬉しかったのか。
・夜、車で東京タワーの近くを通り、しばし車を止めてタワーを見上げるボクたち。
この夜のドライブの前のシーンで、オカンが年金も払わずに生活を切りつめまくってボクの学費を捻出した話が出てくるので、特に説明はないもののこのドライブ、そして今度東京タワーにも上ろうという約束は、恩返しも兼ねた親孝行のためオカンをあちこち観光案内してる、という意味付けを持ってくる。
説明は最小限にしてシーンの組み立て方で説明に代える。この映画の静かな情感はそうした演出手法に拠る部分も大きいのでは。
・オカンを励まし抗がん剤治療をすすめるミズエ。
東京に出てきてからの友達にこれだけ慕われてるのは「ありえないことなんだよ」とミズエは語るが、確かに東京での友達がみな年の若い、もともとはボクの友達ばかりなのを考えると、彼らにとってのオカンが「友達のオカン」でなくボクを介在せずとも「友達」になっているのはすごいことかも。
だからこそミズエもすでにボクと別れていても、それを隠して変わらずオカンのお見舞いに来てくれるわけですし。
・病院から帰る途中のボクとミズエ。別れていながらオカンの前では恋人同士を装うはめになった彼らは、二人きりになるとやはり以前と違ってぎこちない。
ミズエがいずれボクと結婚すると思っているオカンがオトンとの思い出の指輪をくれたことにとまどうミズエの「もらっていいのかな、あたしが」という涙まじりの上擦った声や、ボクの「それ、はめる時とはめない時があっていいから」という言葉も、二人の微妙な距離感を感じさせる。
オカンの前では恋人のふりを続けてくれと暗に言うボクにミズエは「変」と返すのだが、彼女の中にはこのさいよりを戻したいという気持ちが多少あったりするのだろうか?
・小倉からオカンの見舞いにやってきたオトン。久々の再登場でまず思ったのは「老けたなー」。そう思わせるメイクにしてるんでしょうから成功です。
オカンの髪型がきちんとしてるのは、映画の最初の方で出てきた通り平栗くんにセットしてもらったからですね。
・久しぶりの夫婦再会だけにオトンは何だか居心地悪げで、オカンも敬語を使ったりしている。
しかしオカンの方はその敬語っぽい喋り方もあわせて恋する乙女のような恥じらいが見えて、初々しく可愛らしい。オトンも深刻になるのを避けるようにリアップの話したりするのがちょっと可愛い。
・最近調子が悪いからとガンの再発を疑うオカンにボクの反応はもう一つ鈍い。
もちろん優しい声をかけてはいるが、同居当初ならもっと親身に大騒ぎしていたはず。一緒に暮らしはじめて7年が過ぎ、仕事で家をあけることも増えたボクの「倦怠期」ですね。
うさぎの「ブドウ」が死んだというのも二人の幸せな時間が過ぎさったことを象徴しているようです。
・これから入院するオカンは綺麗に化粧して服もよそ行きのものを着ている。
行き先は病院であっても「お出掛け」なのだから身綺麗にしておこうという心持ちがオカンのきちっとした、同時に女らしい人柄を感じさせます。
あるいはこれが最後の外出になると悟っての最後のお洒落だったのかも。そう考えると何とも切ないです。
・ボクがはじめてオカンの手を引いて歩く。宣材でもよく使われていた映画独自の名シーン。
横断歩道を渡る場面をスローモーションで丁寧に、子供の頃線路を二人で歩いたシーンをだぶらせながら見せる。穏やかなBGM中のパーカッションが電車の走る音を想起させる。
作中には出てきませんが、二人が横断歩道を渡る時、おそらくは盲人用信号の「通りゃんせ」が流れているはずで、それも「通りゃんせ」を歌いながら歩いた過去に繋がっています。
・親切でさばけた人柄の大家さんを演じるのは松田美由紀さん。
原作によれば、松田さんとリリーさんは共同で事務所を借りていて、その部屋の契約更新を機会にリリーさんは自宅兼用の(オカンの介護も可能な)広い家に越すことにしたそうですが、映画ではそのエピソードを改変して、代わりに大家さん役で松田さんに出てもらうという形をとっています。
(初期の脚本段階(『ザ・シナリオ 東京タワー』)では原作通りだった)
・病院の売店で買い物するオカンとオトン。やたらにオカンのために物を買い込もうとするオトンと「すみません」と他人行儀に、でも嬉しげにいちいち礼を言うオカン。
まるで付き合い始めのカップルのような初々しい思いやりの形が何だか可愛らしい。
二人を影で見つめるボクも微笑ましげに目を細めています。
・抗がん剤治療を受けるオカンの苦しみ。胃液を吐く音、背中が波打つ様子、足の指の曲げ方・・・苦しみ方があまりにリアルで、ボクのみならず観客まで目を背けたくなってしまう。
見舞い客の人々の反応も、オカンに上着を着せ掛けてやり泣き出しそうな顔で背中をさする平栗くん、オカンとボクの苦しみようにかける言葉もなく密かにドアを閉めるミズエ、オカンの背中をさすってやりつつ「いつまでこれが続くの?」とタマミとその傍らで立ち尽くす磯山――と三者三様。
そしていずれの時も、ボクはオカンに声をかけず手を触れることもなく、ただ側でその苦しみを見つめている。励ましの言葉も体をさすることもオカンの苦しみを軽減できないと知るボクが、なすすべもなく憔悴の度を深めてゆくのが痛々しいです。
・そしてずっと苦しみに耐えてきたオカンがついに「(抗がん剤治療を)やめたい」と言ったときに、ボクはオカンを抱きしめ背をさする。
抗がん剤をやめれば長くない命と知りつつも当面の苦しみから解放してやれることに、ボク自身もいくぶん解放されたのでしょう。
薬をやめても今の医療ならきっと助かる道はあるはず、とオカンと自分に言い聞かせながら。
・ボク画のオカンのイラストを留める重しに使われているのが白黒二つのうさぎの置き物(ぬいぐるみ?)。飼いウサギのパンとブドウをイメージしてるのでしょう。
ウサギを可愛がっていたオカンがウサギたちに会えない(ブドウはすでに死んでしまってるけど)寂しさを少しでも埋められるように、とボクが買ってきてあげたんでしょうね。悲しい緊迫した場面の中で少しだけほのぼのしました。
・意識朦朧として、鍋になすびの味噌汁があるから食べるように、などと言い出すオカン。かつて筑豊のおばあちゃんがボケてしまった場面を思い出させます。
言うことがすっとんきょうなのが、オカンが正気まで冒されつつあること、そんな状況なのにまず息子のことを心配する本能的な母の愛を感じさせる。
「オカン、何を言う・・・」と泣きじゃくるボクも悲しい。
・春なのに時ならぬ雪が降り、雪景色の中に東京タワーが浮かび上がる。しかもエイプリルフールの日に。
「何が本当で何が嘘なのかわからない」非日常的→幻想的な光景が、オカンの最期が近付いていることを強く印象づけます。
これ演出ならあざといくらいですが、実話なんですよね。
・オカンの枕もとで、「こいつが来れん時はオレがおるけんな」と声をかけるオトン。
一緒に暮らしていた頃はろくに働かず飲み歩いてばかり、その後は現在に至るまで長い別居生活、と夫らしいことは何一つして来なかった彼が、ここに来てようやく「夫」らしくなった。その頼もしさが悲しくもあります。
・オカンの病室の料金をオトンはボクに質す。「1日4万」と聞いて、しばし沈黙してから「すごいな」と答える。
堅実なサラリーマンというのではない、ある意味オトンにも似た浮き草稼業でありながら成功者の道を歩いているボクを、自分とひきくらべて眩しく思ったのでしょう。
ボクはやや俯き加減の無表情で返事をしませんが、記憶の中の傍若無人さとうってかわった弱気な態度を見せるオトンを、年を取ったと感じて寂しさを覚えているように見えます。このあとリアップの話など始めるからなおさら。
・ボクがDJをつとめるラジオをオトンと聴くオカン。
二人の思い出の曲?である「キサス・キサス」をボクが流し、それにあわせてダンスホールで踊る若い頃のオカンとオトンの映像が長々と映し出される。
以前オカンが語ったオトンとの馴れ初めからいくと、これは二人の出会いの場面かと思われます。この一晩と今現在とがこの二人の短い蜜月なのでしょう。
・「キサス・キサス」のメロディーの余韻をBGMにオカンがストレッチャーで運ばれてゆく。
オトンが一旦帰ることになった夜、容態が急変したことについて、ボクはオトンに帰ってほしくない思いがそうさせたのかもととっさに考える。
オカンが亡くなる直前の展開は、オカンとオトンのラブストーリーの様相も色濃いです。
・意識を取り戻したオカンは真っ先に(半ば無意識に?)ボクの頭を撫でる。オトンもそばにいるのにまずボクの方に向くのが母の愛ですね。
そして最期にオカンの体がぐっと持ち上がるのが、最後の最後まで生きようとする人間の生命力のようなものを感じました。
・オカンの亡骸の傍らに座るボクのもとに原稿催促の電話が。
病院にかけてきた(携帯でなく病院にかけてくるのだからボクが容態の悪いオカンにつききりなのはわかっているはず)のに続いて再度の電話。
「こんなときになんなんですけど」と一応断りはするものの「原稿の締め切りがぎりぎりなんですが、どうですか」という言い方はあまりにも礼を失している。
スケジュールに追いまくられる仕事をしていると相手への思いやりが摩滅していくのはわかるんですが・・・。
・結局はボクの仕事する姿を見るのが好きだったオカンのために、オカンの隣りで猛然と仕事を始めるボク。
仕事の内容が面白コラムとイラストなのがかえって悲壮なものがあります。
・階下で賑やかに飲む人々。すでに彼女ではないのにミズエが給仕役を務めているのが彼女の人柄とオカンとの繋がりの深さを感じさせます。
そして「寂しい寂しい寂しーいー!」と泣き、両手でコップを持ってお酒を飲む平栗くんの挙措にも人柄が出ています。
・オカンの鼻めがね芸を披露するタマミに爆笑する弔問客。
通夜というと形ばかり神妙にしたり、逆に親戚の会合の場として騒いだりということがありがちですが、ここではみなボクの言葉どおり、賑やかなのが好きだったオカンを変にしんみりせず送り出そうという一同のオカンへの愛情を感じます。
・「喪主はおまえやけん、俺は挨拶せんからの」と言いつつ、涙で声の出ないボクに代わって挨拶するオトン。
先には1日四万の病室代を払いきるボクに引け目を感じてたオトンでしたか、ここで父親の面目躍如。
しかし間もなくやはり言葉を詰まらせてしまう。ダメ男だったオトンなりのオカンへの愛と男気がこの場面に凝縮されています。
・オカンが「自分が死んだらあけるように」と言い残していた箱をボクは開いて、オカンのメッセージを読む。最後までボクはミズエと結婚するものと思っていたオカンの、それを前提とした文章が悲しいです。
自分のことはおいといてボクのことばかりを心配する文章は、かつて大分の高校に入るボクが旅立ったときと何も変わりませんね。
・オカンの遺骨を抱いて東京タワーに上ったボクとミズエが展望台から外を眺める。
東京タワーにいっしょに上るという約束をやっと果たしたボク。別れたにもかかわらずミズエも同行しているのは、「三人で東京タワーに上る」のがオカンとの約束だったからですね。
余韻の残る美しいラストシーンです。