goo blog サービス終了のお知らせ 

about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2)-4(注・ネタバレしてます)

2008-09-01 02:23:13 | 東京タワー
・オカンを東京に呼ぶべきか悩んでいるボクにミズエは「マー君のお母さんに会ってみたい」と言う。
その言葉にボクは「上京以来最高の幸せ」を感じますが、彼女が母親に会いたがることをこれだけ喜ぶのは、彼女との結婚を脳裏に描いてるということでしょうか。
この二人最終的には別れるわけですが、なんで上手くいかなくなっちゃったんですかね。

・東京に出て来たら、と言うボクからの誘いの電話を受けるオカン。
話してる間中右腕をまっすぐ突っ張っているのが気になる。ガン手術の後遺症?(首が縮んだせいで周囲の筋肉も突っ張るようになった?)
 この姿勢がオカンの体が弱ってるという印象を観客に与え、これまで気丈に食い扶持を自分で稼いできたオカンがボクを頼って東京に出てゆく決意をした理由付けになっている。

・ボクの部屋の隅に「らでぃっしゅぼーや」(減農薬野菜を中心とする安心食材などの宅配業者)のダンボールが立ててある。
えのもとが貧しかった時分から「らでぃっしゅぼーや」を利用している話は映画では出てきませんでしたが、この場面でさりげなくアピール。

・「行ってもいいんやね?」とわざわざもう一度確認の電話をかけてくるオカンと妙にしどろもどろのボク。
長く別々に暮らしてきてそれぞれのライフスタイルも出来ているだけに、お互い自分の生活を変えることにも相手の生活を変えることにも緊張がともなうのでしょう。
特にボクの場合、まだちゃんと別れたわけじゃないオカンとオトンの仲を完全に引き裂くことになるかも、という気遣いもあるわけで。

・ボクが口ずさむ炭鉱節をBGMに、筑豊を離れ東京へと向かうオカンの姿を映す。
見送る人は誰もなく、人気のない町を一人歩くオカンの旅立ちは、アカペラの炭鉱節とあいまって、何とも物悲しい風情。
この後、オカンが新幹線の窓から眺める東京の街並みとオカンを迎えにゆくボクの車が走る東京の街並みを交互に見せながら、BGMが炭鉱節から映画のメインテーマ?へと切り替わる。
筑豊の象徴というべき炭鉱節から包みこむような優しいメロディへの切り替わりは、住み慣れた故郷を離れて大都会へと出て行くオカンの不安が、次第に息子とともに暮らせる安心感と喜びに変化してゆくさまをうかがわせます。

・ボクとの新居に落ち着いて真っ先に糠床のダンボールをあけるオカン。「これさえあれば怖いもんなし」という表現に、オカンがいかにこの糠床を大切にしているか(すでにアイデンティティーレベルかも)が示されています。
ボクも「来た来たー!」と糠床の登場を喜んでますが、オカンの糠漬けがそれだけ好きなのか、糠床最優先のあたりがいかにもオカンらしいのが嬉しかったのか。

・夜、車で東京タワーの近くを通り、しばし車を止めてタワーを見上げるボクたち。
この夜のドライブの前のシーンで、オカンが年金も払わずに生活を切りつめまくってボクの学費を捻出した話が出てくるので、特に説明はないもののこのドライブ、そして今度東京タワーにも上ろうという約束は、恩返しも兼ねた親孝行のためオカンをあちこち観光案内してる、という意味付けを持ってくる。
説明は最小限にしてシーンの組み立て方で説明に代える。この映画の静かな情感はそうした演出手法に拠る部分も大きいのでは。

・オカンを励まし抗がん剤治療をすすめるミズエ。
東京に出てきてからの友達にこれだけ慕われてるのは「ありえないことなんだよ」とミズエは語るが、確かに東京での友達がみな年の若い、もともとはボクの友達ばかりなのを考えると、彼らにとってのオカンが「友達のオカン」でなくボクを介在せずとも「友達」になっているのはすごいことかも。
だからこそミズエもすでにボクと別れていても、それを隠して変わらずオカンのお見舞いに来てくれるわけですし。

・病院から帰る途中のボクとミズエ。別れていながらオカンの前では恋人同士を装うはめになった彼らは、二人きりになるとやはり以前と違ってぎこちない。
ミズエがいずれボクと結婚すると思っているオカンがオトンとの思い出の指輪をくれたことにとまどうミズエの「もらっていいのかな、あたしが」という涙まじりの上擦った声や、ボクの「それ、はめる時とはめない時があっていいから」という言葉も、二人の微妙な距離感を感じさせる。
オカンの前では恋人のふりを続けてくれと暗に言うボクにミズエは「変」と返すのだが、彼女の中にはこのさいよりを戻したいという気持ちが多少あったりするのだろうか?

・小倉からオカンの見舞いにやってきたオトン。久々の再登場でまず思ったのは「老けたなー」。そう思わせるメイクにしてるんでしょうから成功です。
オカンの髪型がきちんとしてるのは、映画の最初の方で出てきた通り平栗くんにセットしてもらったからですね。

・久しぶりの夫婦再会だけにオトンは何だか居心地悪げで、オカンも敬語を使ったりしている。
しかしオカンの方はその敬語っぽい喋り方もあわせて恋する乙女のような恥じらいが見えて、初々しく可愛らしい。オトンも深刻になるのを避けるようにリアップの話したりするのがちょっと可愛い。

・最近調子が悪いからとガンの再発を疑うオカンにボクの反応はもう一つ鈍い。
もちろん優しい声をかけてはいるが、同居当初ならもっと親身に大騒ぎしていたはず。一緒に暮らしはじめて7年が過ぎ、仕事で家をあけることも増えたボクの「倦怠期」ですね。
うさぎの「ブドウ」が死んだというのも二人の幸せな時間が過ぎさったことを象徴しているようです。

・これから入院するオカンは綺麗に化粧して服もよそ行きのものを着ている。
行き先は病院であっても「お出掛け」なのだから身綺麗にしておこうという心持ちがオカンのきちっとした、同時に女らしい人柄を感じさせます。
あるいはこれが最後の外出になると悟っての最後のお洒落だったのかも。そう考えると何とも切ないです。

・ボクがはじめてオカンの手を引いて歩く。宣材でもよく使われていた映画独自の名シーン。
横断歩道を渡る場面をスローモーションで丁寧に、子供の頃線路を二人で歩いたシーンをだぶらせながら見せる。穏やかなBGM中のパーカッションが電車の走る音を想起させる。
作中には出てきませんが、二人が横断歩道を渡る時、おそらくは盲人用信号の「通りゃんせ」が流れているはずで、それも「通りゃんせ」を歌いながら歩いた過去に繋がっています。

・親切でさばけた人柄の大家さんを演じるのは松田美由紀さん。
原作によれば、松田さんとリリーさんは共同で事務所を借りていて、その部屋の契約更新を機会にリリーさんは自宅兼用の(オカンの介護も可能な)広い家に越すことにしたそうですが、映画ではそのエピソードを改変して、代わりに大家さん役で松田さんに出てもらうという形をとっています。
(初期の脚本段階(『ザ・シナリオ 東京タワー』)では原作通りだった)

・病院の売店で買い物するオカンとオトン。やたらにオカンのために物を買い込もうとするオトンと「すみません」と他人行儀に、でも嬉しげにいちいち礼を言うオカン。
まるで付き合い始めのカップルのような初々しい思いやりの形が何だか可愛らしい。
二人を影で見つめるボクも微笑ましげに目を細めています。

・抗がん剤治療を受けるオカンの苦しみ。胃液を吐く音、背中が波打つ様子、足の指の曲げ方・・・苦しみ方があまりにリアルで、ボクのみならず観客まで目を背けたくなってしまう。
見舞い客の人々の反応も、オカンに上着を着せ掛けてやり泣き出しそうな顔で背中をさする平栗くん、オカンとボクの苦しみようにかける言葉もなく密かにドアを閉めるミズエ、オカンの背中をさすってやりつつ「いつまでこれが続くの?」とタマミとその傍らで立ち尽くす磯山――と三者三様。
そしていずれの時も、ボクはオカンに声をかけず手を触れることもなく、ただ側でその苦しみを見つめている。励ましの言葉も体をさすることもオカンの苦しみを軽減できないと知るボクが、なすすべもなく憔悴の度を深めてゆくのが痛々しいです。

・そしてずっと苦しみに耐えてきたオカンがついに「(抗がん剤治療を)やめたい」と言ったときに、ボクはオカンを抱きしめ背をさする。
抗がん剤をやめれば長くない命と知りつつも当面の苦しみから解放してやれることに、ボク自身もいくぶん解放されたのでしょう。
薬をやめても今の医療ならきっと助かる道はあるはず、とオカンと自分に言い聞かせながら。

・ボク画のオカンのイラストを留める重しに使われているのが白黒二つのうさぎの置き物(ぬいぐるみ?)。飼いウサギのパンとブドウをイメージしてるのでしょう。
ウサギを可愛がっていたオカンがウサギたちに会えない(ブドウはすでに死んでしまってるけど)寂しさを少しでも埋められるように、とボクが買ってきてあげたんでしょうね。悲しい緊迫した場面の中で少しだけほのぼのしました。

・意識朦朧として、鍋になすびの味噌汁があるから食べるように、などと言い出すオカン。かつて筑豊のおばあちゃんがボケてしまった場面を思い出させます。
言うことがすっとんきょうなのが、オカンが正気まで冒されつつあること、そんな状況なのにまず息子のことを心配する本能的な母の愛を感じさせる。
「オカン、何を言う・・・」と泣きじゃくるボクも悲しい。

・春なのに時ならぬ雪が降り、雪景色の中に東京タワーが浮かび上がる。しかもエイプリルフールの日に。
「何が本当で何が嘘なのかわからない」非日常的→幻想的な光景が、オカンの最期が近付いていることを強く印象づけます。
これ演出ならあざといくらいですが、実話なんですよね。

・オカンの枕もとで、「こいつが来れん時はオレがおるけんな」と声をかけるオトン。
一緒に暮らしていた頃はろくに働かず飲み歩いてばかり、その後は現在に至るまで長い別居生活、と夫らしいことは何一つして来なかった彼が、ここに来てようやく「夫」らしくなった。その頼もしさが悲しくもあります。

・オカンの病室の料金をオトンはボクに質す。「1日4万」と聞いて、しばし沈黙してから「すごいな」と答える。
堅実なサラリーマンというのではない、ある意味オトンにも似た浮き草稼業でありながら成功者の道を歩いているボクを、自分とひきくらべて眩しく思ったのでしょう。
ボクはやや俯き加減の無表情で返事をしませんが、記憶の中の傍若無人さとうってかわった弱気な態度を見せるオトンを、年を取ったと感じて寂しさを覚えているように見えます。このあとリアップの話など始めるからなおさら。

・ボクがDJをつとめるラジオをオトンと聴くオカン。
二人の思い出の曲?である「キサス・キサス」をボクが流し、それにあわせてダンスホールで踊る若い頃のオカンとオトンの映像が長々と映し出される。
以前オカンが語ったオトンとの馴れ初めからいくと、これは二人の出会いの場面かと思われます。この一晩と今現在とがこの二人の短い蜜月なのでしょう。

・「キサス・キサス」のメロディーの余韻をBGMにオカンがストレッチャーで運ばれてゆく。
オトンが一旦帰ることになった夜、容態が急変したことについて、ボクはオトンに帰ってほしくない思いがそうさせたのかもととっさに考える。
オカンが亡くなる直前の展開は、オカンとオトンのラブストーリーの様相も色濃いです。

・意識を取り戻したオカンは真っ先に(半ば無意識に?)ボクの頭を撫でる。オトンもそばにいるのにまずボクの方に向くのが母の愛ですね。
そして最期にオカンの体がぐっと持ち上がるのが、最後の最後まで生きようとする人間の生命力のようなものを感じました。

・オカンの亡骸の傍らに座るボクのもとに原稿催促の電話が。
病院にかけてきた(携帯でなく病院にかけてくるのだからボクが容態の悪いオカンにつききりなのはわかっているはず)のに続いて再度の電話。
「こんなときになんなんですけど」と一応断りはするものの「原稿の締め切りがぎりぎりなんですが、どうですか」という言い方はあまりにも礼を失している。
スケジュールに追いまくられる仕事をしていると相手への思いやりが摩滅していくのはわかるんですが・・・。

・結局はボクの仕事する姿を見るのが好きだったオカンのために、オカンの隣りで猛然と仕事を始めるボク。
仕事の内容が面白コラムとイラストなのがかえって悲壮なものがあります。

・階下で賑やかに飲む人々。すでに彼女ではないのにミズエが給仕役を務めているのが彼女の人柄とオカンとの繋がりの深さを感じさせます。
そして「寂しい寂しい寂しーいー!」と泣き、両手でコップを持ってお酒を飲む平栗くんの挙措にも人柄が出ています。

・オカンの鼻めがね芸を披露するタマミに爆笑する弔問客。
通夜というと形ばかり神妙にしたり、逆に親戚の会合の場として騒いだりということがありがちですが、ここではみなボクの言葉どおり、賑やかなのが好きだったオカンを変にしんみりせず送り出そうという一同のオカンへの愛情を感じます。

・「喪主はおまえやけん、俺は挨拶せんからの」と言いつつ、涙で声の出ないボクに代わって挨拶するオトン。
先には1日四万の病室代を払いきるボクに引け目を感じてたオトンでしたか、ここで父親の面目躍如。
しかし間もなくやはり言葉を詰まらせてしまう。ダメ男だったオトンなりのオカンへの愛と男気がこの場面に凝縮されています。

・オカンが「自分が死んだらあけるように」と言い残していた箱をボクは開いて、オカンのメッセージを読む。最後までボクはミズエと結婚するものと思っていたオカンの、それを前提とした文章が悲しいです。
自分のことはおいといてボクのことばかりを心配する文章は、かつて大分の高校に入るボクが旅立ったときと何も変わりませんね。

・オカンの遺骨を抱いて東京タワーに上ったボクとミズエが展望台から外を眺める。
東京タワーにいっしょに上るという約束をやっと果たしたボク。別れたにもかかわらずミズエも同行しているのは、「三人で東京タワーに上る」のがオカンとの約束だったからですね。
余韻の残る美しいラストシーンです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2)-3(注・ネタバレしてます)

2008-08-28 02:43:43 | 東京タワー
・不動産屋へ行く場面で平栗くんのモヒカンヘアーが初お目見え。映画館でくすくす笑いが漏れていたのが思い出されます。
傘で頭隠すようにして、不動産屋に入る瞬間まで髪型を出し惜しみしてるのもナイス演出。
ダンサーを目指して上京した平栗くんですが、努力する姿が一切描かれずに「ダンサーの夢破れた」とナレーションで済まされるものだから、すごーくあっさり諦めたみたいで何かヘタレっぽく感じられます。ヘタレが似合うキャラですけどね。
(p.s.『Famima com』(ファミリーマートの無料配布誌)2007年5月号の勝地くんインタビューによると、「ほかのシーンとの兼ね合いもあて、モヒカンは特殊メイク。ぜひ、地毛でやりたかったんですけどね」とのこと。地毛でって・・・男気ありすぎです(笑))

・部屋を借りるために出版社(それも講談社)勤務と大嘘を吐くボク。隣りで平栗くんが「えっ!?」という顔をしてるのが笑える。
直前の「ダメの二階建て」とか、平栗くんが出る場面はいい感じに笑いを取ってくれます。

・えのもと初登場。「アルフィーの高見沢さんです。」 似てはいないが、個性はある絵ですね(笑)。

・借金催促の電話が来たと事務?の女性に呼び出されるボク。
「いつもいない(という返事)でいいですか?」と尋ねる女性に、「いいんじゃないですか」「自信持って」と答えるボク。言える立場かと(笑)。
ボクの場当たり的な適当な性格が端的に表れた名台詞ですね。他人事みたいな口調がまた(笑)。
しかしよくこんな借金取りに追われてるような講師がクビにならないなあ。

・飲み屋の若い客に「仕事決まったとね?」と尋ねるオカン。「あそこは俺には合わんばい」と答える客。
物事が上手くいかないのを相手(社会)のせいにしがちな「負け組」な男の姿にオカンはボクを重ねあわせたりしてるんだろうな。直後にボクから金の無心の電話が来るし。

・店の壁に飾ったボクの卒業証書を見上げるオカン。賞状や免許証ならわかりますが、単なる卒業証書をわざわざ飾る人は珍しい。
それだけボクが何とか学校を卒業したことが嬉しく、また卒業までボクの学費を払いきった自分を誇らしく思う気持ちがあったんでしょう。

・「たびたび悪いけんど」と言いながらオカンに電話で金を無心するボク。
その前にオカンが「電話しても全然出」ないと文句を言ってますが、これはすでに電話を止められたか、借金取りからかかってくるため電話に出られないかのどっちかなんでしょうね・・・。公衆電話からかけてるところを見ると前者か。

・すでに金(ばあちゃんの具合が悪いので、帰ってきてもらうための新幹線代)は送ったというオカンに「え?」と一瞬戸惑うボク。
「あんたまさかその金も使うたんじゃなかろうね?」と言われて言い返さないので、ほんとにボクが使い込んだかのようですが、シナリオ(『シナリオ 東京タワー』収録)の段階では、実は平栗くんが密かに着服していて、そのせいでボクがおばあちゃんの死に目に会えなくなった事を気に病んだ平栗くんが部屋を出てゆく、という流れになっていました。
尺の関係なのか実際の映画ではその設定は消されていますが、この「え?」というボクの台詞に元のシナリオの影響が少し残っているようです。

・おばあちゃんを見舞ったときの回想。
「あそこに百万円あるから、それで鍋を買いなさい」という台詞が、登場当初は毅然としていたおばあちゃんがすっかりボケてしまってる無常感、それでも孫を思いやる愛情の双方を感じさせるのが悲しい。百万円→鍋という発想の飛び方が一種ユーモラスなのもなおのこと悲しさを強めている。
オカンも臨終直前に鍋の味噌汁=ボクの食事を心配してましたが、この母娘はこんなところも似てるんですね・・・。

・麻雀に気の乗らないボクは雀卓の向こうに幼い自分を幻視する。「あんた何しに東京に出てきたとね」と静かにボクを責める幼いボクは「ロン」の一声とともに牌を倒す。
オカンが喉頭ガンを患ったと知ったのをきっかけに猛烈に働きはじめ、頭角を表してゆく後の活躍ぶりを思うと、この時点までのボクは才能とエネルギーを余るほどに持ちながら、それを発揮すべき動機付けを得られなかったがために自堕落な毎日に溺れていたのかと思えます。
結果エネルギーをもて余したその疼きが、おばあちゃんの状況を聞いたさいの良心の痛みに連動して、「自分を責める自分」を見せたのでは。
この直後、同居人の平栗くんが何事も成せぬままに東京を離れるエピソードでさらに焦燥感をあおられつつ、ボクは目覚めの時を迎えることになります。

・ボクの元におばあちゃんの死を知らせる電報が届いた直後に、荷物をまとめてボクと暮らした部屋を出てゆく平栗くん。
シナリオ段階での「平栗くんがボクの新幹線代を着服」(上述)設定がなくなったため、おばあちゃんの死と平栗くんが出て行くことの因果関係も消滅しているので、映画では単にタイミングが重なっただけなんでしょうね。
ところでボクは平栗くんがゲイと知りつつ一緒に暮らしていたわけですよね?となると同居ではなく同棲?女の恋人がたびたび登場するボクは完全にノンケっぽいのに。
別に平栗くんにとってボクが好みのタイプでない(恋愛対象ではなく純粋に友達)なら同居もアリかと思いますが、そのわりには(手付きのアヤしげな)ボディタッチが妙に多いんだよな~。
このあたりは実在の「同郷の後輩、モヒカンでダンサー志望の同居人」バカボンに、オカマ&ゲイだとか元は美容師だとかのいろんな設定をプラスして平栗くんというオリジナルキャラを造型したためのひずみかな、という気もします。

・別れ際にボクのことを「あんたは才能あるから、頑張りぃ」と励ます平栗くん。
多くの役において、勝地くんの声には優しいトーンで話していても凛としたものを感じるんですが、平栗くんではその凛とした響きは薄まってただただ柔らかく優しい。
オカマだから、というだけでなく根っから気の優しい平栗くんというキャラクターを体現しているように思います。
最後に「僕はもう、頑張りきれん」と告げるときの泣き笑いのようなトーンが切ないです。

・甲状腺ガンを手術したオカンは「首のシワが縮まった」と嬉しそうに語る。
ボクに心配させないための強がりからくる発言なのでしょうが、こんな時に冗談を言えること、親不孝を繰り返す息子をなお気遣えるオカンの心の強さ・大きさに打たれます。

・現在、オカンの病床にはべって仕事をしているボク。上下とも濃いピンク系の服は男性が着るには難易度の高い色使いですが、驚くほど似合っている。
この場面に限りませんが、仕事が軌道に乗り出してからのボクの服の色使い(赤・ピンク系が多い)は全体にすごい。映画評で「こんな色の服が似合うのはリリー・フランキー本人かオダギリジョーしかいない」(概要)と書いたものを読んだ記憶がありますが、言い得て妙。
服の似合いっぷりを抜きにしても、この映画(現在パート)のオダギリさんは髭や髪型のせいかリリーさんご本人に雰囲気がよく似ている。オダギリさんも母子家庭で育ちお母さんへの思い入れはボクに通じるものがあるそうですし、よくぞオダギリさんをキャスティングしてくれた、と思います。

・えのもとと敷金礼金を折半して部屋を借りるボク。
あらゆるサラ金から融資を断られる状況でどうやって当面の金を調達したのか。「なんとか工面して」のナレーションで済まされてますが、本筋に関係ないながら詳細が気になる・・・。
母子の愛情物語として読者の紅涙を絞ったこの物語ですが、個人的にはむしろ「マルチなアーティストの半生記」と受け止めているので、彼がどん底の暮らしから社会的成功者になってゆくターニングポイントでの身の処し方が妙に気になってしまうのでした。出版・放送業界へのコネをどうつけたのか、とか。

・「あと三万円で借金完済っすよ」と言うえのもとにボクが微笑む。ボクの髪が伸びていることで、猛烈に仕事を始めてから借金を返し終わるまでに相応の時間が流れたことを一目で理解させる。
この時のボクの笑顔には先までにはない柔らかさがあって、仕事が軌道に乗り精神的に(おそらく生活的にも)余裕が出てきてるのがうかがえます。
窓から差し込む光が部屋を明るく照らしているのも、それを象徴しているよう。

・ボクが送った著書を受け取ったオカンから電話が。
今までオカンから貰う一方だったボクは、オカンに何かを贈るのはこれが初めてなのでは。それも安手の本ではなくハードカバー。
オカンもさぞ感慨深かったことと思います。息子に改まって「ありがとうございましたー」と電話口の向こうで頭を下げるあたりにオカンの感激ぶりが表れています。

・ボクの借金完済祝い&平栗くんの開店祝い。はっきり説明はないものの、ミズエたちの会話内容からするに、平栗くんのお店はどうやらゲイバーであるらしい。
平栗くんが白い着物姿なのが、グラスを両手で持つ手付きなども合わせて、バーのママさん然とした貫禄があります。

・ボクの手を握りながら、「マイナス抱えたまま終わっちゃう人間がどれだけいると思ってるの、東京に。」とボクを誉める平栗くん。
そういう彼自身もダンサーの夢破れ、ボクとともに貧苦にあえぐ経験をしたものの、今はこうして自分の店を構えるまでになっている。
東京で店を開いてるということは、故郷に帰ると言いつつ東京で、おそらくはゲイバーないしその種のお水系のお店で働いて、資金と人脈を作ったんでしょうね。ボクとの同居を解消してからここに至るまでの平栗くんの軌跡も気になります。

・ボクと話す途中、中年の男客が入ってくると、平栗くんは「いらっしゃーい♪」と両手を小さく振っていそいそと男の方へ駆けつける。おそらくは開店前に勤めていた(それ系の)店の常連客なのでしょう。
その男の方を向いた時の笑顔や仕草が何やらなまめかしいのにどきっとしました。営業用にせよ本気にせよ、男性に対してごく自然に女っぽい媚態を示すあたり、平栗くんが根っからその道の人なのだと見せつけられた感じ。
『おれがおまえで~』の時もそうでしたが、本当にそっちの素質(才能)があるんじゃないかとうっかり不安になってしまいそう(笑)。

・中年男性に続いて、ミズエとその友達が入店。どうも友達の方がミズエを連れてきたらしいですが、開店間もないこの店に、どんな縁があってカタギの女の子二人がやってくる気になったものやら。
この時ミズエはボクに「ここ(隣りの席)、いいですか?」と声をかけるが、以降はボクはえのもとと、ミズエは友達と話していて、二人の間に会話はない。互いに反対隣りに向かって話をしている二人をカメラがフレーミングして「そして新しい彼女ができたのでした」とナレーションが入る。
出会いの場面、それも本当にただ出会っただけの場面を映し出して、二人の関係の深まりは一切描かないまま、「恋人になった」という結果だけを説明する――最初と最後だけで過程を飛ばす見せ方がシンプルかつクールで実に格好良い。

(つづく)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2)-2(注・ネタバレしてます)

2008-08-24 04:22:57 | 東京タワー
・引越しのためバスで町を去るボクとオカンをおばあちゃんが見送りにやってくる。
といっても言葉は交わさず近くにも寄らず、手さえ振らずに離れた場所から遠ざかるバスを見つめるのみ。
見送られる方も最後部の座席で後ろをじっと見つめるだけでやはり手を振ったりはしない(オカンがかすかに頷くだけ)。
愁嘆場を嫌いあくまで淡々と別れてゆく母と娘(+孫)の関係は、オカンが筑豊に帰ってきた場面同様、あえてドライであるだけにかえって心に染みます。

・高校受験を期に筑豊を出る決心を固めたボクが筑豊の町並みを見下ろす。
オカンと初めて筑豊に越してきたさいに、同じ場所から同じ眺めを見るシーンがありましたが、その時に比べると町が小さく、色褪せて見える。
ボクの等身が高くなったというだけでなく、炭鉱の閉鎖によって町が活力を失っているのが二つの光景の対比に表れています。

・風俗店のバックルームで女たちを前にたじたじのボク当時15歳。「オッパイ」を連呼する女たちの崩れた態度が場末感を醸し出す。
昭和五十年代後半ごろの風俗嬢には、親が炭鉱の閉鎖で失職した北海道・九州の女性が多かったという話を読んだことがありますが、彼女たちもその口なのかも。

・風俗嬢がオトンの目を盗んでボクに乳房を見せ、ボクはそのたびちょっと目をそらす。
純朴な少年をからかう年増女と彼女の狙い通りだろうウブな反応を返すボクの攻防が笑いを誘う。
こんなボクも数年後には「よく似た親子やねえ」と言う風俗嬢の言葉にあやまたず、自堕落な日常へと転落してゆくんですねえ・・・。

・初めてオカンと離れ一人遠方の高校に通うことになったボクは、旅立ちの電車の中でオカンの手紙を読んで涙する。
「自分のことはいっさい記さず、ただひたすらにボクを励ます言葉だけが強く書いてありました。」 
静かで揺るぎない母の愛を伝える少年編きっての名シーン。

・ボクの旅立ちシーンのすぐ後に、現在のラジオ番組でエロトークをするボクのエピソードが挿入される。
オカンの暖かな励ましに感動した直後に、だらけきった高校時代のボクの話に行ってしまうと「何やってんだよ!」と観客が興ざめしかねないからとワンクッション置いたものでしょうか。
この時点でのボクはエロトークしてても入院中の母を献身的に看護する孝行息子ですしね。

・オトンが上京してくると聞いて、こんな髪の毛じゃ恥ずかしくて会えないと駄々をこねるオカン。
「あ、ダメよ~」と繰り返す声のトーンや手鏡を見て髪を撫でる仕草が、年が寄っても病気でも「男」の前では綺麗でありたいという女心をごく自然に見せていて、可愛らしく、どこか色っぽくさえあります。

・平栗くん初登場。先生にボクを呼びにいくように言われて、嬉しげに片手をぴょこんと挙げる仕草や立ち上がる動作、「はい!」と高いトーンの声も、予備知識なしでも「何かカマっぽい子だな」と感じさせる。『おれがあいつであいつがおれで』でもそうでしたが、カマ演技上手いんだよなあ(笑)。
もっともこれ松岡監督の演技指導も大分入ってるらしいので、むしろ監督を誉めるべきなのか(笑)。
『ソウルトレイン』の時も、三浦大輔監督がキョドり芝居を実演しつつ演技指導していたとか。監督や演出家は俳優以上に名優でないと務まらないのかも。

・ボクの手を引いてせかすように歩く平栗くん。
撮影時(2006年)勝地くんは20歳になったばかりの頃かと思いますが、高めの声のせいもあって当時15歳の冨浦くんとちゃんと同年輩に見えます。
ボクのナレーションは平栗くんを「毛色の変わった友達」と評していますが、この時点でもう平栗くんの「性癖」は固まってたんでしょうかね?

・再び現代に舞台を移し、オカンの髪を梳かす30代の平栗くん。
口調も表情もオカンの髪をいじる手付きも、相変わらず男性としては柔らかすぎるほど。
(1)で「平栗くんの男性としての魅力にメロメロになった」と書きましたが、このシーンでの彼は臙脂色のセーターとふっくらした頬のラインのせいか、時々本当の女性のようにも見えてしまいました。
「女性」というより、小学生くらいの子供がいて子供の友達に手作りのクッキーなど振る舞ってくれるような品のいいお母さん、みたいな感じ。何となく佇まいに家庭的温かみがあるというか。中身が20歳の男の子だということを忘れてしまいそう。
この場面、大女優・樹木希林さんとの共演(しかも髪にさわる)とあって緊張で手が震えていたそうですが、映像を見る限りごく自然な演技になっていると思います。

・やつれたオカンを見るにしのびなく、早々に引き上げる平栗くん。
出演時間も台詞も多くないものの「ごめんね、ごめんね、一番辛いの中川くんなのにね」と泣き出しそうな声で詫びる姿に、彼の人一倍心優しい性格がよく表されています。

・東京の大学を受験する意思を固めつつあったボクは、オトンに「オカン残していってええんやろか」と尋ねる。
大分の高校に行く時には「オカンを自由にしてあげる」ことも遠方の学校を受ける動機の一つだったのが、今度はオカンを一人にすることへの心配が先立っているのは、すぐ前の場面で一人住まいになったおばあちゃんが孤独に食事を取る様子に触れたのが大きいのでしょう。高校受験の頃よりオカンも年を重ねたわけですし・・・。
対するオトンが東京へ行っていろんな経験を積むことを推奨するのは、自分の果たせなかった夢(東京での成功)を息子に託した部分もあったでしょうか。

・「春になると東京には、掃除機の回転するモーターが次々と吸い込んでゆく塵のように、日本の隅々から若い奴らが吸い集められてくる。」 
原作の、軽妙さの中に時に詩的なセンチメンタリズムをうかがわせる文体を生かしたナレーション。この文体が、その破天荒な生き方にもかかわらずボクをナイーブで育ちのよさそうな文学青年めいて見せる効果を果たしている。
つづく「しかし、トンネルを抜けると、そこはゴミ溜めだった。」は川端康成『雪国』の有名な冒頭の文章を匂わせたものでしょうか。

・炬燵でガールフレンドと事に及ぶのを、箪笥?の上のおもちゃのサルのシンバルが鳴る、という形で表現する。
下品にならず、ユーモラスでちょっと情けないこの隠喩は、志を持って都会に出てきた青年のありがちな堕落をわかりやすく描き出している。
このサルの隣りにはオトンが作ってくれた(途中まで)白塗りの船が飾ってある。都会に染まって見える今でも、子供の頃のオトンとの思い出を大事にしてるのがここから想像される。

・パチンコ屋で思いがけず平栗くんと再会。パチンコ台に顔をぺったりつけたような姿勢が実にアヤしい(笑)。
「2000円貸して」と言われた平栗くん、懐かしそうな顔のまま硬直していますが、この時点での彼の懐事情はどんなもんなのでしょう。とうていリッチとは思えないが。

・映画『フラッシュダンス』に憧れて、ダンサー目指して上京したという平栗くんがダンスを披露。
勝地くんはあちこちで「ダンスは苦手」と話していますが、まあ確かに上手いかと言われれば微妙な・・・。でも平栗くんもダンサーの夢破れる設定なんだからいいんです(笑)。
ダンスを見せられたボクの「うん、躍動的だった」という実のない誉め言葉(棒読み)が笑える。最初にこの映画を見た翌日は、微妙なフラッシュダンスを踊る平栗くんの姿が頭から離れなくなったものです。

・苦しい家計の中から何とか学費を捻出したにもかかわらず、息子が留年という事態に、「なんで頑張れんかったとやろかねえ・・・?」と繰り返すオカン。
正面から責めるのでなく、どこまでも不思議そうな口調がかえって子供としては胸に痛いのでは。でも、オカンからもう一年頑張るよう連絡があったときの様子からするとあまり反省してるようでも・・・(笑)。
このオカンから連絡がくる場面ですが、オカンの電話を受けながら女と乳繰りあってるのが、実話を元にした話だけに、よくここまで描いたなとちょっと感心。

 

(つづく)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2)-1(注・ネタバレしてます)

2008-08-18 03:14:09 | 東京タワー
・BGMも効果音もなく、静かなナレーションをバックに古い日本家屋の玄関を内から見た光景が最初の映像というのに、日本的情緒を大事に、エモーショナルな表現を極力抑えて描くこの映画のスタンスが象徴されています。

・上述の映像のまま、「それが5秒後、アバンギャルドなことになります」とのナレーション。観客の興味を画面に引きつけるのに実に効果的。
まあここで期待した分、思ったほどアバンギャルドじゃない気もしてしまいましたが。その後の「ゴジラ」のがアバンギャルドだな。

・幼いボクをかばいつつ(位置的に盾にしてるようにも見えてしまうけど)、オトンから逃れようとするオカン。
隣りの部屋にボクを逃がすあたりも、オトンはほとんど危険人物扱い。後のシーンを思えば怪獣扱いというべきか?

・障子ごしに、嘔吐するオトンの姿を見て、「ゴジラやー!」と叫ぶボク。
酒乱の父親が暴れ、止めようとした祖母を突き飛ばし、母親は息子をかばおうとして父の醜態の犠牲になるという、一歩間違えばかなり悲惨な家庭の修羅場をギリギリでコメディにしてみせる。
まあ酒乱といっても殴る蹴るするわけじゃないので、大迷惑なりにユーモラスさがあるんですが。ダメ人間だけど憎めないオトンのキャラが、このオープニングでもう確立されています。

・オトンの若い頃の写真に映っている建築中の東京タワーから、現在の東京タワーの夜景へ。東京タワーつながりで、自然な形で時代を移行する。
オトンの写真が白黒であるだけに、東京の夜景の鮮やかさが実に美しく華やかに見える。

・「それがまるで独楽の芯のようにきっちりと、ど真ん中に突き刺さっている。日本の中心に」 
原作の文章をほぼそのまま移したナレーションは、比喩が巧みで言葉の選び方も詩的。
ある青年の破天荒な半生を、こうしたロマンティシズムあふれる文体で描き出す。それが『東京タワー』と言う作品の大きな魅力のように思います。

・カメラが次第に東京タワーに寄ってゆく、その動きが螺旋を描くよう。「独楽の芯のよう」という比喩を体現するカメラワークが見事。

・病室の窓から東京タワーを眺めるボクとオカンの姿にボクのナレーションがかぶさる。
「東京に弾き飛ばされ故郷に戻っていったオトン」「帰る所を失ってしまったボク」「東京に連れてこられて戻ることも帰ることもでき」なくなったオカン、という台詞は、家族全員をそれぞれの形で不幸な、人生の失敗者と捉えているように響きます。
といってもめちゃめちゃ不幸とまではいかない、ごくいじましい人生を生きる小市民であると自嘲してる感じでしょうか。
ともかくも家を構え、オカンを引き取って養っているボクが、かえってその事でオカンを不幸にしたかのように思っているのがちょっと切ないです。
ちなみにオトンが東京から「弾き出された」という表現は東京タワー→独楽→遠心力、という連想が下敷きにあるのでしょうね。

・モノクロ&一部カラーの古い映像を組み合わせて、完成間もない東京タワーの姿を映す。高度経済成長に向かう時期の、一番輝いていた頃の東京タワーがすっくと空に伸びる姿にタイトル文字が重なる。
思うにオカンへの思いを軸にリリーさんの半生を綴ったこの作品(原作小説)のタイトルが『東京タワー』なのは、一人毅然と世界の真ん中に立ち、田舎の青年たちに強大な求心力を発揮している東京という街を象徴するタワーに、一人で息子を育てあげ、リリーさんの友人たちにも非常な人気を誇っていたオカンの姿を重ね合わせたからなのでは。

・オトンをフライパンで殴るオカンの髪が湿っているような。
前の場面ではそんなことないので、つまり髪を洗った→オトンの吐瀉物を頭から被った、という・・・。これは悲惨。

・オカンは幼いボクを連れて実家に戻る。直接の契機は描かれていないが、先のシーンからオトンの無軌道ぶりに愛想が尽きたのだろうと察せられる。
(『シナリオ 東京タワー』収録の初期脚本によると、二人が上手くいかなくなった原因は実はお姑さんにあったそうなのですが、その部分は映画ではカット)
この作品は、とくに幼少時代においてはこうした「理由が説明されない行動」が多いですが、それはリリーさん自身が本当になぜそうなったのかの事情を知らないからなのでしょう。
わからない事はわからないままに、そのかわりエピソードで「こういうことだったんだろうな」と観客に予測の余地を与える描き方がこの映画の特徴のように思えます。

・「通りゃんせ」を歌いながら手をつないで線路を歩くボクとオカン。この場面は後に大人になったボクがオカンの手を引いて東京の横断歩道を渡る場面で至極印象的にリフレインされます。

・荷物が満載のリヤカーを引く老母に「おかあちゃん」と明るい笑顔で声をかけ、自分のトランクをリヤカーに載せて後ろから押して歩くオカン。
出戻りの娘を何も言わず自然に受け入れる母と、何ら引け目のない笑顔を見せるオカン。無言のうちに母子の揺るぎない絆を感じさせる秀逸なシーン。

・トロッコに小動物を轢かせて遊ぶ男の子たち。
ボクが他の子と同じようにランニングシャツ一枚の姿なのは、ナレーション通りに筑豊の生活に馴染んでるのを思わせますが、一人だけ坊ちゃん刈りなのは都会(小倉)育ちの名残りですね。

・ウサギを轢かせようとしたものの、ぎりぎりで助けて抱いて歩くボクの姿に、「いくらハジけたガキでも少しくらいの分別はあったのです」のナレーションがかぶさる。
カエルはまだしもウサギは助けるのが分別、という考え方にはいささか愛玩動物偏重の子供らしい偽善性を感じますが、同時に将来ウサギを飼う(ウサギ好き)の伏線でもあります。

・上記のシーンをイラストに起こす、という形で舞台を現在に転換。ボクはイラストレーターでもあるので、ごく自然な流れで上手い。

・「オカンはピラミッドの頂点やからねえ」。 
一番偉い(上にいる)から誰からも怒られない、という意味ですが、ピラミッドという比喩は、都市を代表する高い建築物という点で、この作品の要である東京タワーを想起させる。
先に東京タワーはオカンの象徴と書きましたが、ここでオカン=ピラミッド(の頂点)という表現が出たことで、さらにその象徴性を強調しています。

・立て膝で花札に興じるオカン。作品の前評判で、オカンは母性愛の塊のような人なのだと思っていたので、この博徒のような姿に最初ちょっと衝撃を受けた。
オカンのキャラクターが通りいっぺんでないのは、さすがに実話ならではのリアリティー。

・夏休みを小倉の家で過ごすボク。久しぶりに息子が来ているというのに、オトンは張り切って遊びに連れていってやるでもなく部屋でだらしなく寝転んでいる。
このへんのマイペースさがいかにもオトン。

・ボクのために船の模型を作ってやるものの、なぜか完成間近で放棄して酒を飲みに出かけてしまうオトン。
この「才能はあるのにあと少しのところ投げ出してしまう」行動が見事にオトンの性格を象徴している。

・労働者が集まるオカンの店にサラリーマン風の男が入ってくる。
オカンたちとの会話からすれば常連さんなのに、彼がやってくると他の男客が黙ってしまうのは、明らかに場違いな風体の男に反感を抱いてるんでしょう。
もしかするとそれに加えて、彼らのマドンナ的存在(たぶん)のオカンとこの男がアヤしいような気配を感じとっているのかも?

・男と会うためにいつになく化粧をするオカン。鼻歌を歌いながら鏡に向かっている姿に、男とのデートに胸ときめかせている心情が見てとれます。
続けて煙草をふかす仕草と表情は、赤い口紅のせいもあっていつになく「女」を濃厚に感じさせる。
しかしボクにどこへいくのか問い質されると口ごもり、連れていけとせがまれたでもないのに「あんたも行く?」と言ってしまうあたり、子供もあり夫とも正式に別れていない自分が恋愛することに多分に迷いを持っているのでしょうね。

・車の中では男もオカンも口をきかず、重苦しい沈黙だけがある。差し向かいでお茶を飲んでる時も、オカンと男の間で会話が弾んでるようでもない。
この言葉のなさと、ボクにゲームをさせておいて宿泊施設のある階に二人で消えるあたりの淡々とした流れに、もしかしたら二人の間は恋愛ではなくもっと割り切った関係だけなのかとも思ったんですが、先にオカンがメイクしてる時のうきうきした様子からすれば、子供を連れてきたオカンの、恋愛に躊躇する気持ちを感じ取った男がやはり躊躇してしまって、それがこのぎくしゃくした雰囲気になったんじゃないかと推測。
少し後でボクに彼との関係を聞かれたとき、「あんたお父さんのこと好きね?」と尋ねるあたり、再婚もちょっと念頭にあったようだし。

・オカンを捜し回るボクの姿をナレーションは「ぐるぐる、ぐるぐる、ボクはオカンを捜した」と形容する。
この「ぐるぐる、ぐるぐる」というのは、オープニングの東京タワーのシーン(原作)でも登場する表現で、東京の中心に聳えるタワーとボクの心の中心にいるオカンの存在がダブらせてあるのがわかります。

・オカンの姿を見つけ「お母さん!」と叫んで抱きつくボク。ボクがオカンを「お母さん」と呼ぶのはこのシーンだけ。
オカンを捜す様子を長々と描いていることも含め、ボクのオカンに対する愛情を強く示した場面です。

・しがみついてきたボクを抱きしめたオカンは「帰ろうか」とつぶやくように言う。
ボクがいなくなったのに気づいていたのかどうかわからないが(当然気づくと思うのだがその割にはあわててなかった)、ここの時点で、オカンは女としての自分は捨てて、あくまで「オカン」であろうと決意したように思えます。
帰りの車も相変わらず全員無言ですが、行きと違ってボクがオカンの膝に頭を乗せオカンが肩を抱くようにしてるのが、二人の揺るぎない絆を示しているようです。

・夜中に台所で糠床を掻き混ぜるオカン。なぜこんな時間に、とボクに聞かれて、食べる時間から逆算すると今が一番よく漬かる、と答える。
家族の食事のために眠いのを我慢して働く姿は、いかにも古い日本の「母」らしさを感じさせる。
オカンの女の部分を描いたエピソードのすぐ後にこのシーンを持ってくることで、オカンが女であるより母であることを選んだのが改めて示されている。このへんの繋ぎ方は秀逸。

(つづく)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(1)(注・微妙にネタバレしてます)

2008-08-15 03:16:20 | 東京タワー
今は亡きお母さんへの思いを主軸に自身の半生を綴ったリリー・フランキーさんの同名小説を映画化。
スペシャルドラマ、連続ドラマ、舞台にもなった大ベストセラーだけに世間の注目度も高く、映画雑誌など方々で特集が組まれたりしたものです。

2006年の秋ごろだったか、ロケに参加したエキストラの方が自身のブログで、勝地くんが撮影に参加していたと書いてらしたのを読んで、以前勝地くんがおすすめ本として『東京タワー』を挙げていたこともあり、確度の高い情報として密かに期待を寄せていました。

その後公式サイトがオープン、キャストの写真一覧を見て確かに勝地くんが出演してることを確認したんですが・・・髪型が衝撃的すぎた。
モヒカンってあなた。(当時原作未読だったので、モヒカン頭の人物がいるとは思ってもいなかった) パソコンの前でたっぷり一分間は抱腹絶倒しました。
キャストの髪型で見るのをやめようかと悩んだ映画は初めてだ(笑)。

などと思いつつも2007年3月、翌月の全国公開に先駆けて行われた試写会のチケットをとある方からお譲りいただき、いそいそと見てまいりました。

結果・・・見てよかった、とつくづく思いました。
2時間半近い長さのストーリーを淡々とした描写で見せるため、正直集中力が切れるところもありましたが、自堕落だけど気の優しい母親思いの青年とひたすらに息子を思う母の物語を、過剰にならず抑えた演出で描く手法はとても好印象。
大仰な仕掛けで誤魔化すことのできない作品だけに、メインの役者がヘタだとグダグダになりかねないところですが、主演のオダギリジョーさん、オカン役の樹木希林さんをはじめとするキャスト陣――ケレン味なしに演技力で観客の心を掴むことのできる俳優さんたちが揃ったことで、しっとりした情感を持った映画に仕上がったと思います。

そして勝地くん演じる平栗くん。てっきり小泉今日子さんや宮崎あおいちゃんのようなカメオ出演なのかと思っていたので、思ったより出番が多い&重要なポジションだったのが嬉しかったです。

平栗くんは原作には登場しない(つまり実在しない)キャラクターで、ボクの後輩「バカボン」を土台に幼馴染の「前野」のキャラを融合させ、プラスいろんな要素(オカマのゲイとか)を付け加えたものだそう。
舞台挨拶で松岡錠司監督が勝地くんを起用した理由について「何でもできる役者ということで、以前から目をつけていた」と仰ってたそうなので、

「平栗役、高校から30代まで一人の役者で通しちゃおう。勝地なら何とかするだろ」
→「どうせならフラッシュダンス踊らせるか。勝地なら何とかするだろ」
→「平栗、オカマのゲイ設定にするか。勝地なら(以下略)」

のような過程で平栗くんのキャラが出来上がっていったのかなーと妄想。

昔から勝地くんは実年齢より上の役を演じることが結構多いですが、30代というのはさすがに初めてだったはず。
それだけに「20歳の勝地涼がオダギリジョーと同じ年というのは無理がある」という感想も大分見ましたが、個人的には不思議なほどに違和感を感じませんでした。

初登場時は高校生(回想場面)、直後に30代(現在)、後にボクと東京で再会→同居する20代(モヒカンスタイルはこの時期の髪型)、再び30代と年齢が移り変わってゆきますが、ちゃんと各年齢にあわせた役作りがなされている。
高校の時はカマっぽいキャラだからというだけでなく20、30代に比べて声が高めだし仕草の可愛さ度合いも高い。
その後、ボクと東京で再会し『フラッシュダンス』を踊ってみせる20代の彼には、自分の可能性を(ボクによるナレーションを聞くかぎり到底見込みがありそうではないのに)根拠なく信じて突き進める青年期の無鉄砲な若さが溢れていました。
そしてダンサーの夢は破れたものの自ら店を構えるまでになった30代の平栗くんにはしっとりした落ち着き、数々の苦労を乗り越えてきた人間ならではの深み――年輪のようなものを濃厚に感じました。
こんな円熟した雰囲気を弱冠20歳の若者が醸し出せるとは。改めて彼の表現力に舌を巻いたものでした。
(さすがにお葬式の場面だけは喪服着用のため服装でごまかせないので、高校生みたいに見えちゃいましたが)

平栗くんはゲイ&オカマ設定のキャラですが、女言葉を使ったり男にしなだれかかったりのいかにもさがないので(やたらにボクの手や膝に触ってはいるが、決定的な言動がない)、単にいささかスキンシップ過剰な、ものすごーくソフトな性格の持ち主というようにも取れる。
だからでしょうか、私にとって平栗くん、とくに30代の彼は、すこぶる魅力的な大人の男性として映りました。
映画を見るまではあれだけモヒカンヘアが目に焼きついていたのに、実際に観た後印象に残ったのはもっぱらフラッシュダンスのシーンおよび30代の時のふわっとした髪型の彼。
当時女性的な平栗くんの男っぷりにすっかりメロメロになったものでした。

4月29日に行われた監督&勝地くんの舞台挨拶をご覧になった方によると、勝地くんは「ゲイということを意識するより、オカンやボクのことを大好きな心優しい男の子を演じました」と話していたとのこと。
演じる役を表層的な個性でなく(ゲイ&オカマという強烈な個性を持った役であってさえ)一つの人格として捉える勝地くんらしいコメントだなあとしみじみしてしまいました。
彼のこうした役に向かう態度が、特に内面を掘り下げて描かれてるわけでもない平栗くんを、あれだけ魅力的なキャラクターたらしめたのだと思います。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする