ところで蜷川さん及び『ムサシ』初演のスタッフ・キャストが武蔵・小次郎以外のキャラクターは死者という設定なのを知ったタイミングを(2)-※28では(終盤の)〈台本が届いた時〉としているが、『ムサシ』初演時の舞台裏に密着したドキュメンタリー『ムサシ 激動の123日間の舞台裏』では台本の到着が滞る中で初日が二週間後にまで迫った2009年2月14日、皆で気分転換をかねて鎌倉へ行き、鎌倉在住の井上さんの自宅(『ムサシ』のメイン舞台である架空の寺「宝蓮寺」のすぐ近所、というか自宅=宝蓮寺かもしれない(※90)にも押しかけていったさいに井上さんが〈命を大事にしなかったことを悔やむ幽霊がたまたまやってきた剣豪二人に話を聞いてもらうことで成仏しようとする話〉だと種明かしする場面を映し出している(※91)。
『ムサシ』初演で沢庵を演じ、それまでにも井上作品に多く出演している辻萬長さんは、井上さん没後の井上麻矢さん・栗山民也さんとの鼎談の中で〈若い俳優たちが「井上さんの家に激励に行こう」と言い出したときとんでもないと思った、でも若い俳優たちとのやりとりが刺激になったのかその後原稿が進んだようだ〉(※92)と話しているが、ここで押しかけてなければ〈武蔵と小次郎以外はみんな死者〉設定を知るのがもっと遅れたかもしれないわけだ。
ちなみにこの鼎談で辻さんに〈さすがに演出家だけは戯曲のアウトラインを俳優陣より早く知らされてるんじゃないか〉と聞かれた栗山さんは、〈本当に知らない、前もって尋ねたところで後から設定ががらっと変わってしまうので無意味〉と答えている(※93)。となると、井上さんは意地悪で〈武蔵と小次郎以外は死んでる〉ことを伏せたわけではなく、書きながら自分でもこれが決定稿になるのか急に全面改訂したくなるのか判断がつかなかったということも考えられるわけだ。
井上さんの、突然の大きな設定変更については、『四谷諧談』』(※94)、『イヌの仇討』(※95)、『キネマの天地』(※96)など数々のエピソードがあり、栗山さんが演出助手として初めて井上作品に参加した『しみじみ日本・乃木大将』にしても、最初におおまかな設定を聞かされた時に感心するあまり黙りこんでいたら井上さんはウケが悪いと誤解したらしく、全く別の(現行の)ストーリーに改変してきた話が※91の鼎談で語られている。
しょっちゅう台本の到着が初演ギリギリになるキャスト・スタッフ泣かせの言動も、より面白い作品を生み出そうとする必死の試行錯誤の結果にほかならない。栗山さんは上掲『キネマの天地』の時にあまりの台本の遅さに業を煮やしてやはり井上さん宅に押しかけたことがあるそうだが、机に向かう井上さんの命を削るような執筆姿勢に胸を打たれて、責める言葉が出てこなくなったという(※97)。
実質怒鳴り込みにきた人間を感動させて帰途につかせてしまうのだからすごい。井上さんがどれほど真摯に〈書くこと〉に向き合っているのかを想像させる。
(余談ながら上掲の〈若い俳優たちとの会話が刺激になった〉くだりを読んで一つ腑に落ちたことがある。
(2)-5で〈武蔵は小次郎の保護者か〉と突っ込んだ場面や、気絶から醒めた後もまだ魂を抜かれたような小次郎の着物を武蔵が直してやる場面がいかにも、言葉は悪いが〈腐女子向け〉な感があるとかねてから感じていた。
しかし女性ファンの多い若手人気俳優を起用する機会の多い蜷川さんなら女性心理─贔屓の俳優が別のイケメン俳優とどんな風に絡むと喜ぶか─に通じていてもおかしくないが、これらの場面のほとんどは戯曲の段階で「武蔵 間に入る」「武蔵、小次郎を抱き起こして、立たせて、扇子を持たせたり、ちょっと身繕いなどもしてやりながら、」とト書きで指定されている(※98)。蜷川さんと違ってアイドル的若手俳優と仕事することの少ない井上さんが、男同士のスキンシップを嬉しがる〈女心〉を理解しているようなのがいささか意外だったのだ(実際『ムサシ』以外の井上戯曲に腐女子向け要素を感じたことはほとんどない。もっとも戯曲で読んだだけで実際の舞台を見ていないからかもしれないが)。
だから上のくだりを読んだとき、プライベートでも仲の良い藤原くんと小栗くんの素のやりとりにインスパイアされるところがあったのだろうな、と何やら納得できたのだった)
ちなみに井上さんの初期戯曲を近作より高く評価するのは蜷川さんに限った話ではない。桐原良光『井上ひさし伝』での演出家・評論家たちへのインタビューなど見ると、著者の桐原氏自身をはじめ、〈最近の作品には毒気が足りない〉〈初期戯曲の破壊的なパワーは凄かった〉といったコメントが少なくない(※99)。
中でも扇田昭彦氏はたびたび初期作品の悪の魅力と破天荒なエネルギーにに言及している(※100)(後に『太鼓たたいて笛吹いて』の三木清のキャラクター造型を見て考えを改めたそうだが)(※101)(※Ⅷ)。
井上さん没後に文芸雑誌『すばる』誌上で数度にわたって行われた座談会「井上ひさしの文学」でも〈こまつ座立ち上げ以降のわかりやすい、人間愛に満ちた作品より、初期中期作品の方に魅力を感じる〉という意見が複数人から出ていた(※102)。
私自身、戯曲を読むかぎりにおいては、ヒューマニズム溢れる〈いい話〉よりも、(3)-5でも触れた「江戸三部作」における主人公の(特に色事がらみでの)残酷さと彼らをスケープゴートに仕立てて恬淡としている一般民衆のさらなる残酷さの形象に惹かれる。
これら三部作や、近作でも〈悪人〉は登場しないものの笑いの要素をほぼ完全に排除した『少年口伝隊一九四五』(初演2008年)には慄然とせざるを得ない凄味を感じる(※Ⅸ)。『少年口伝隊~』など朗読劇だから(まして私は戯曲で読んだだけだから)いいようなものの、これを役者が舞台の上ないし映像で実際に演じたとしたら正直最後まで見続ける自信が私にはない。
初期中期のみならずその気になれば晩年でもこれだけ重い、凄味のある作品を書ける人が、天皇や庶民に対する毒を多分にまぶしながらも基本は口当たりの良い、善人ばかりで構成された喜劇をもっぱら描いているなんて(喜劇作家に対して甚だ失礼な言い種ながら)もったいないとすら思ってしまう。
その他の初期中期作品に関しても、『天保水滸伝』の枠組みにシェイクスピアの全作品を入れ込んだ『天保十二年のシェイクスピア』(初演1974年)の実験精神や『日本人のへそ』(初演1969年)『珍訳聖書』(初演1973年)のしつこいほど何重にもしつらえられたマトリョーシカのごとき入れ子構造、愛馬の脚の視点で乃木大将を語る『しみじみ日本・乃木大将』(初演1979年)や鎌倉時代の高僧・道元と現代の精神病者を夢を介して接続する『道元の冒険』(初演1971年)の奇想天外さなど、具体的な芝居の内容より発想のとんでもなさと、その発想を本当に芝居にしてしまうさらなるとんでもなさに目眩くようなワクワク感を覚える。比べると近年の、というより『イーハトーボの劇列車』(初演1980年)以降の作品の大半はどうも大人しく感じられてしまうのだ。
※90-井上ひさし・こまつ座編著『太宰治に聞く』(文春文庫、2002年)収録の表題作(初出1998年)で、井上さんは「鎌倉の山の中」にある自宅の裏の崖に掘られた穴=ヤグラについて「中世鎌倉に特有の横穴式の墳墓である。(中略)持仏堂でもあり、ときには仏殿としても使用されたりもするので、ヤグラの前には広場がある」以下詳細な説明があるが、宝蓮寺にもヤグラがあるのが、平心の寺開きの挨拶の中の「(武蔵が寺を普請するさいに)夜は夜で向うのやぐら(正面竹林)、鎌倉武士たちの洞穴墓場のことをこのあたりではやぐらといいますが、そのやぐらに蝋燭を立てて図面を引き直」したという言葉から明らかである。この近辺ではヤグラは珍しくないものらしいが、井上さんが長年構想を暖めてきた『ムサシ』執筆にあたって、自宅を舞台に設定したことは充分考えられるだろう。
※91-『ムサシ 激動の123日間の舞台裏-蜷川幸雄と若き俳優たち─』。ちなみにこの中で蜷川さんは「初日の一日・・・半前に最終稿が来たから、ま、俳優だって大変だったし、ぎりぎりで通し稽古をやって、翌日直したから、そこに間に合ったってことですね」と語っている。ひええ。ついでに書くと、一度は公演中止が決定しながら紆余曲折の末上演された『黙阿弥オペラ』の時は初日三日前に最後の台本が届いたという(栗山「あのときはいったん、稽古場でお別れ会をやって、マスコミにも公演中止を発表した。でも、井上さんは、「僕は書く」とおっしゃる。書くっていっても、もう劇場のスケジュールもないし、メンバーは解散しているんですよ。ところが本当に書き続けた。役者やスタッフはみんな次の仕事に入っている。そこで二十四時間使える稽古場を探したら、シアターコクーンが使えるというので、みんなテレビや他の仕事が終わったあと集まって稽古をしましたね。舞台も、たまたま東京映画祭が延期になって同じシアターコクーンが一週間なら空いているという。それで再度、初日が決定された。」辻「三時間四十分という長い芝居を必死に稽古して、わずか四日間、六回公演しかなかったけど(笑)。」栗山「井上さんに、初日が決まりました、と報告すると、「ああ、よかった。じゃ、しっかり書きます」とおっしゃった。だけど、またペースがゆっくりになって、結局、台本が全部出来たのが初日の三日前。こんなことなら、「勝手に書いてください。出来上がったらやりますから」と言ったほうがよかった(笑)。」(井上麻矢・栗山民也・辻萬長「追悼 こまつ座が見た井上ひさし 待たされた、ダマされた──だけど楽しかった」、『文藝春秋』2010年6月号))。現場の苦しみは想像に余りあるが、それだけに無事初日を迎え千秋楽を迎えた時の満足感も半端ないんだろうなあ。
※92-「書き上がる前は、僕らには遠慮があって、なかなか側に行くことができなくて、とにかく稽古場で待つだけなんですが、この前の『ムサシ』のときは、若い小栗旬や藤原竜也が、みんなで鎌倉のご自宅を訪問しようなんて、なんとも無神経なことを言い出した(笑)。ところが実際に行ってみると、若い連中がいろいろ話すことが、井上さんにはすごくヒントになったようで、次の日にはもうワンシーンが出来ていた。それが、二人の会話のニュアンスがふわっと出ている、とても面白い掛け合いのシーンになっていたから、オレたちはちょっと考えすぎていたのかなとも思いましたね。」(井上麻矢・栗山民也・辻萬長「追悼 こまつ座が見た井上ひさし 待たされた、ダマされた──だけど楽しかった」、『文藝春秋』2010年6月号)
※93-辻「僕ら俳優は、最後どうなるか知らないまま稽古しているけど、栗ちゃんは演出家なんだから、ある程度、井上さんと話をして、知っていたんでしょ」栗山「いやぁ・・・・・・。」辻「そういう機会はなかったの?」栗山「というか、井上さんはとにかくいろんなことを話されるから。もちろん会って、今回はこういう芝居にしたいということを一時間も二時間も話しますよ。そのとき井上さんは僕や周囲の反応を見ているわけ。「ここは面白い仕掛けを考えていて、こうなります」などと言ったとき、辺りの表情が輝いていないと、「これはペケだな」と、その場で物語を変えてしまう。(中略)井上さんがこうなりますと言ったところで、それを信用してはいけないんです。決してそうなりませんから(笑)。」(井上麻矢・栗山民也・辻萬長「追悼 こまつ座が見た井上ひさし 待たされた、ダマされた──だけど楽しかった」、『文藝春秋』2010年6月号)。ちなみに『キネマの天地』の時にも「井上さん、これは推理劇ですよね。今、稽古場は、なんとなく動きのポジションだけは付けてありますが、それにしてもこれからの展開で一つだけ知りたいことがあるのです。いったい犯人は誰なんですか?」井上ひさしさんはお茶を一つすすってからゆっくりと、「栗ちゃん、それがわかったらすぐに書けるんだけど」静かに、そして、真顔でそうおっしゃいました。」(栗山民也『演出家の仕事』(岩波新書、2007年)というやりとりがあったそう・・・。
※94-「(三億円強奪事件をテーマにした『四谷諧談』について)スンナリできるわけがないじゃありませんか。この芝居は、最初『聖面聖絵』という題名だったのです。三億円事件を担当していた刑事が定年になって四国へ帰り、巡礼宿へ行ってみると、毎晩、客が一人二人といなくなるというんですな。おかしいというので追及し始めると、これがどうやら客を安楽死させているのではないか、という話になっていくというわけです。 女主人には楠侑子さんだというので決めていたら、本ができません。大騒ぎでした。できてみたら『四谷諧談』でしょう。仙台から公演が入っていて、初日が明けてはじめてこういう芝居だったのか、とこっちもやっと分かったぐらいですから。あちこちポスターや看板作っちゃったところは、ぼくが勝手に“お断り”をつけちゃったんですな。ヒュードロドロなんてお化けのように出ていっては、『実は今日の題名が変わりました』とやるわけです。(中略)あの方のものは、やれば面白いんですが、やるまでが地獄の苦しみなんです」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年)中の小沢昭一インタビュー)
※95-1988年9月初演(こまつ座)の「イヌの仇討」はもとは「長屋の仇討」のタイトルで〈常陸国(茨城県)牛久藩の江戸上屋敷の侍長屋に住む元締役(金穀の係)がふとしたことから、ある日の正午敵討の討手となり日没時には返り討にされ夜には死体になっていた〉というストーリーの予定だったが、上演直前になって、〈赤穂浪士に襲われ炭小屋に隠れた吉良上野介が、大石の本音(吉良を討つことでお上の裁きに対する異議申し立てをする)を推察したうえで、コロコロ気の変わる将軍家への意趣返しのため自分から赤穂浪士に討たれてやる〉という筋の「イヌの仇討」に変更された。変更前の「長屋の仇討」の内容を綴った井上さんのエッセイ(おそらく『イヌの仇討』上演時のパンフレットに収録されたもの)が井上ひさし『演劇ノート』(白水社、1997年)に収録されているが、エッセイのタイトルが「長屋の仇討」なのに目次は実際上演された戯曲のタイトル通り「イヌの仇討」になっていて、文章の末尾に〈「長屋の仇討」がぎりぎりで「イヌの仇討」に変更になった〉との説明が付されているあたりが(笑)。上演当時パンフ制作などもいかにギリギリ進行だったのかがうかがえます。
※96-「一九八六年のことになりますが、井上ひさし書き下ろし作・演出の東京・日生劇場公演『キネマの天地』のときのことです。私はその演出助手の仕事を頼まれ、喜んで引き受けたものの、一抹の不安は確かにありました。それは初日ひと月前の顔合わせのころから、はっきりしたカタチで現れました。そうなのです。新作の原稿が一向に現れないのです。書いた原稿は毎日数枚ずつ稽古場に届くのですが、稽古場に演出家井上ひさしはいないのです。当たり前のことですが、作者は執筆のため、カンヅメ状態。仕方なく、演出家不在のまま、できた場面だけの立ち稽古に入りましたが、さて、いったいこの先どうなるのだろうか・・・・・・。(中略)ある時、登場人物全員の名前が変更になったのです。皆同じ一つのイニシャルにするための変更でした。俳優にとって、覚えていた相手役の名前が変わることほど、悲劇的なことはありません。到底、言葉で伝えられる状況ではなかったので、変更になった名前を大きな模造紙に書いて、稽古場の壁に貼り出し、知らん顔で、 「じゃあ、稽古をはじめます」と続けていたら、そのうち一人の女優が、「あれ、何かしら?・・・・・・何ですか、これ?アレーェッ」と過呼吸で倒れてしまった。これをきっかけに、もう一人の大物女優が、中央の椅子にデンと腰を下ろすなり、 「出来ない。もう出来なーい!」 と野太い声を響かせました。稽古場は水を打ったかのごとくの長い静寂の間。仕方なく、私が、「今日の稽古は、これで終わります。明日は、明日は・・・・・・」と口ごもったその瞬間に、稽古場は崩壊しました。」(栗山民也『演出家の仕事』(岩波新書、2007年)
※97-※96の事件の直後、「担当プロデューサーと、 「とにかく台本完成が先決だ」と当たり前のことを呟きながら、井上さんのカンヅメ先の新橋の古い旅館に向かったのです。(中略)学生が使うような木製の机を部屋に運び入れ、裸電球にアルマイトの笠の卓上ランプを灯し、原稿用紙を高く積み上げその原稿用紙に十五センチぐらいのところまで顔を近づけて、一字一字書いている。私は何も言えずただその光景に見入っていました。(中略)必死に机に向かいながら、一つひとつの言葉がそのとき生まれ出る、まさに血の滲むようなその瞬間に出会い、私は涙がこぼれそうになりました。 昔、東ベルリンで出会った養成所の若い女優の卵が言っていた、「世界で一番美しい職業は、俳優です」という、私にとって決して忘れられない言葉が、「世界で一番美しい職業は、言葉の作者です」とそのときは、確かに思えたのです。(栗山民也『演出家の仕事』(岩波新書、2007年)
※98-『ムサシ』(『井上ひさし全芝居 その7』、新潮社、2010年)
※99-「ひさしが、その後、平穏な家庭を取り戻して、落ち着いた大きな仕事を次々と展開しているのはご承知のとおりである。ただ、ひさしの舞台に、以前のようなもっとすさまじい笑いが欲しい、という人はいる。単純な構造の頭脳しかもち合わせのない筆者もその一人だ」(桐原良光『井上ひさし伝』、白水社、2001年)。「井上さんは、基本的に権威に対する対立項、アンチテーゼで書いていくほうですよ。オーソドックスなドラマツルギーをもっている方だと思いますけど、いまや中心も周縁もごちゃごちゃになってしまって、テーマ設定が難しくなった。」(同上、扇田昭彦インタビュー)。「井上さんの作品は、鋭い文明批評になっていたのですが、いまは何もかもが相対化されて文明そのものがものすごく小さくなってしまったでしょう。いまほど『個性』が口に出る時代はなかったと思いますけれど、いまほど個性的でなくなった時代はないでしょう。 文明が薄っぺらになってしまったのですから、日本の構造を撃つというか、かつて確固として存在していた撃つ対象が、いまは風化して拡散してしまったのです。井上さんの批判精神が衰えたというよりも、対象そのものがなくなってしまったのです。井上さんの笑いは、下位の者が上位の者をひっくり返す、権威をひっくり返すという面白さが笑いになる快感ですね。(中略)権威というものがすっかりなくなってしまって、いまは政府なんて批判の対象にすらもならないほどですから」(同上、長部日出雄インタビュー)。「(井上さんの芝居が最近になって真面目になったとは思わない、という。)世の中がハチャメチャになっているんですよ。ハチャメチャの上にハチャメチャをやるというのが井上さんではないと思うのです。世の中がハチャメチャになったのなら、ハチャメチャじゃない別の世界を求めているのが井上さんではないでしょうか」(同上、宇野誠一郎インタビュー)
※100-「近年の井上ひさしの劇作について懸念があるとすれば、それは二面性のうちの俗の部分、つまり悪ふざけやナンセンスな笑い、無償の遊びといった部分が縮小気味になり、その分だけ聖なる部分、ひたむきな警世の精神、つまり治癒をめざす使命感が突出してきたことだろう。なかでも目立つのは、「悪」の形象がしだいに少なくなったことで、『頭痛肩こり樋口一葉』(八四年)や『きらめく星座』(八五年)では、善なる被害者の心やさしい円環だけでドラマが構成されている。悪徳、流血の殺人、ぎらつく欲望が抑制を排除してあふれだし、人間の闇の世界を拡大してみせた『藪原検校』や『天保十二年のシェイクスピア』(七四年)の世界からは、かなり遠い地点である。 だが、ここで私たちは井上ひさしが「変質しない」果敢な喜劇作家として、困難な闘いを執拗に持続している努力をもう一度見直すべきかもしれない。(中略)対立しあう二つの面のバランスは絶えずどちらかに傾くかもしれない。しかし、彼がどちらの面にも決定的には加担せず、しかもどちらの面をも過激に冷徹に育てあげていく時、私たちはそこに、世界そのものにも似た大きな怪物的作家像を見ることになるかもしれない。」(扇田昭彦「世界救済のドンキ方程式に挑むハムレット」、『井上ひさしの劇世界』(国書刊行会、2012年)、初出1986年)。「「悪妻」といわれた好子さんが身近にいた時期は、井上氏がこの「二律背反」を作品の上でもっとも過激に生きた時代だったといえるだろう。シェイクスピアの『リチャード三世』を連想させる戯曲『藪原検校』(七三年)のような「悪の魅力」にあふれた傑作が生まれたのもこの時期だ。カオス的活力にあふれた血みどろの流血喜劇『天保十二年のシェイクスピア』(七四年)もこの時期の作品だ。 こうした作品に比べると、近年の井上戯曲は、「悪」の要素が際立たず、心優しい善人の登場人物が増えている。その点に不満を覚え、私はたびたび、「もっと『悪』を描いてほしい」と思った。」(同上、「複雑な喜劇的多面体」、初出2005年)。「『天保十二年のシェイクスピア』は、初期の井上ひさしの熱い過剰なエネルギーがまるで溶岩流のようにあふれ出た異様な傑作である。」(同上、「冒険する大人たちの演劇」、初出Bunkamura『道元の冒険』公演パンフレット、2008年)。「驚くほどの多面性と、人間を世界の中心とは見ない喜劇的視点を持ち、グロテスク趣味をもそなえた井上ひさしには、黒い笑いの秀作といえる作品がいくつかある。『藪原検校』(七三年)、数十人の登場人物が不条理に「みな殺し」になる『天保十二年のシェイクスピア』(七四年初演)といった作品である。ことに『藪原検校』では、井上ひさしのうちに確実にあるグロテスクな怪奇趣味が、ヒューマニズムの修正なしにあらわにほとばしり出ることによって、とりわけすぐれた作品となった。グロテスクな悪の化身である杉の市を主人公にすえることによってこの劇全体が、まるで遊園地のイルミネーションに輝く恐怖の館のように不気味にまばゆく放電しているのである。」(扇田昭彦「黒い笑いへの傾き」、『世界は喜劇に傾斜する』(沖積社、1985年)、初出1980年)。
※101-「二〇〇二年にこまつ座が初演した秀作劇『太鼓たたいて笛ふいて』(栗山民也演出)を観て、私の考えは変わった。」「(登場人物の三木孝について)こうした変節漢は普通、嫌味な悪役として描かれることが多いが、作者の井上氏は意表をついて、この男を気さくで明るい、人情味のある善人風の人物として設定した。つまり、三木は自分の変節に疑問も抵抗感も屈折も覚えない「いい人」なのだ。そして、自分の「悪」を自覚しないこういう普通の「いい人」こそが、実はもっともおそろしい「悪」であり、それは私たちの分身かもしれないことを、この作品は暗示している。(中略)つまり、いかにも悪漢風の「悪」ではなく、さりげない風貌をした新しい「悪」、より身近でよりおそろしい「悪」を、井上氏は鮮明に造形したのだ。 というわけで、私は「悪」の形象をめぐる注文をすぐに撤回した。そして井上氏の才能に対する賞賛の念をさらに強めたのである。(扇田昭彦「複雑な喜劇的多面体」、初出2005年)
※Ⅷ-「以前は、善玉と悪玉がいて、対立が大事だ、セリフ自体も対立していかなきゃいけない、対立がドラマツルギーだと思っていた時期があるんですね。自分の頭の中に善玉と悪玉を作って、善玉に勝たせるために悪玉を武装させて、悪玉が勝ちそうになる最後の時にかろうじて善玉が勝利をおさめるというスタイルが多かったと思うんです。でも、これは劇作家の頭の中で処理したことをただ観てるだけで、お客さんはいやな感じがするんじゃないかと思いまして。全員が悪玉と善玉を兼ねていて、それが時間と共にどういう風に変わっていくか、自然に「生まれて成る」、生成ドラマツルギーと言うんですかね。そっちへ移ってきた。つまり、善玉と悪玉が対立しているようでいて、実はその悪こそが自分自身だったという、そういうドラマの作り方に変わってきたんですね。」(インタビュー・構成 扇田昭彦「井上ひさしインタビュー 渋谷を変えた劇場でダークな喜劇の実験」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)
※102-「たとえば教科書的な学者先生のシェイクスピアについての高説を解体してみせたのが『天保十二年のシェイクスピア』です。井上さんは芝居においては、一に趣向、二も趣向、そして思想も趣向のうちといっていた。その趣向で、リア王の家督相続はたちまち侠客の跡目相続になってしまう。聖なるものはすなわち俗なのものであるというバフチンのカーニバル論に通じている。『藪原検校』『日の浦姫物語』『雨』などもそれです。またこまつ座以前の井上さんの芝居は、一通りでは語れない複雑な仕掛けを次々とつくり出していったんですね。『しみじみ日本・乃木大将』という作品では、人格ではなく「馬格」、馬の前脚と後脚によって乃木大将の生涯が演じられる。あるいは『小林一茶』では、寸劇仕立ての劇中劇の構造を持っている。つまり、仕掛けをどこまでも探求していくというところに重点がおかれていたのですが、それを、こまつ座のために「平明な前衛」へシフトしていったということです。」(今村忠純+島村輝+成田龍二+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学① 言葉に託された歴史感覚」、『すばる 5月号』(集英社、2011年)より今村発言)。「永井「(『頭痛肩こり樋口一葉』について)不思議なのは、あの難解な『漱石』(管理人注・1982年初演の『吾輩は漱石である』のこと)の後なのに、こちらは非常にわかりやすい。しゃべる言葉はすべて現代風だし、子供が見ても観てもわかる。それはなぜかと推測すると、井上さんにはとうしても伝えたいことがあったからではないかと思うんです。その頃の井上さんは、押しも押されもせぬ中央の人。今までは少し中心から外れていたところにいたはずなのに、いつの間にか真ん中に来てしまったという意識もあったと思います。 そうしたときに、昔のようなナンセンスやあからさまな毒気より、中央にいる者の責任が芽生えたのではないか・・・・・。難しいことを易しく、面白く、深く、というまさにお手本のような本です。(中略)この後に書かれた『泣き虫なまいき石川啄木』や『太鼓たたいて笛ふいて』も読みやすい。でも、『しみじみ日本』と『小林一茶』は上演時間内になんか読めません(笑)。(中略)上演時間はどんなに長くても三時間くらいですから、読むならもっと早いはずです。ところが、それまでの井上さんの戯曲は読むのに倍くらい時間がかかる。それが後年になると、どんどんシンプルになっている。(中略)複雑なことは伝えにくい。だからどうしても簡略化し、わかりやすい形で伝えることになる。でも、そのことによって失われるものもある。それが何なのか。井上さんのように大きな問題を書こうとしてきた人には、永遠について回るのだと思います。 知的な表現者たちの背負った問題を、数時間の芝居で観客に伝えていかなくてはいけない。それにはなるべく単純化しなければならない。難解なところがない台詞で、人間世界の複雑さを描く。この非常に難しいバランスを、井上さんは強いられ続けていたのだと思う。 複雑な人ほど単純に見えるという宿命を、井上戯曲は負い続けている。」成田「井上さんの後期の作品に対する、とても共感あふれる批判だと思います。」永井「批判でありません。ただ、井上さんに直接こういうことをお聞きする勇気が出なかったのが最大の後悔です。」」(永井愛+成田龍一+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学④ 評伝劇の可能性」、『すばる 7月号』、集英社、2013年)
※Ⅸ-今井克佳「少年口伝隊一九四五─記録と記憶の間で」(日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録)は「死んだ兵隊が残した手榴弾を用いてテロリズムを起こそうと決心していた少年、勝利を台風による洪水が飲み込んでしまう。少年の死はやるせないが、テロリズムは実行されなかった。復讐の連鎖を起こすテロリズムを井上はこのような表現で否定したのではないだろうか。」と指摘する。なおこの論文は、この作品に頻出する具体的な数字データ(特に被害者数)や事実と相違する描写(「原子爆弾がパラシュート付きで投下されたという俗説」など)について「実際、公表されている記録データと付き合わせてみると、これらの数値はあまり正確とはいえないものであることがわかってくる。」「いかにも「記録」を装いながら、客観性に欠ける誤解や俗説をそのまま、当時の人々の「記憶」がそうであるから、といって上演を続けることは間違った「史実」を伝えることになってしまい、むしろこの作品に傷がつくのではないか。」との危惧を示している。
『ムサシ』初演で沢庵を演じ、それまでにも井上作品に多く出演している辻萬長さんは、井上さん没後の井上麻矢さん・栗山民也さんとの鼎談の中で〈若い俳優たちが「井上さんの家に激励に行こう」と言い出したときとんでもないと思った、でも若い俳優たちとのやりとりが刺激になったのかその後原稿が進んだようだ〉(※92)と話しているが、ここで押しかけてなければ〈武蔵と小次郎以外はみんな死者〉設定を知るのがもっと遅れたかもしれないわけだ。
ちなみにこの鼎談で辻さんに〈さすがに演出家だけは戯曲のアウトラインを俳優陣より早く知らされてるんじゃないか〉と聞かれた栗山さんは、〈本当に知らない、前もって尋ねたところで後から設定ががらっと変わってしまうので無意味〉と答えている(※93)。となると、井上さんは意地悪で〈武蔵と小次郎以外は死んでる〉ことを伏せたわけではなく、書きながら自分でもこれが決定稿になるのか急に全面改訂したくなるのか判断がつかなかったということも考えられるわけだ。
井上さんの、突然の大きな設定変更については、『四谷諧談』』(※94)、『イヌの仇討』(※95)、『キネマの天地』(※96)など数々のエピソードがあり、栗山さんが演出助手として初めて井上作品に参加した『しみじみ日本・乃木大将』にしても、最初におおまかな設定を聞かされた時に感心するあまり黙りこんでいたら井上さんはウケが悪いと誤解したらしく、全く別の(現行の)ストーリーに改変してきた話が※91の鼎談で語られている。
しょっちゅう台本の到着が初演ギリギリになるキャスト・スタッフ泣かせの言動も、より面白い作品を生み出そうとする必死の試行錯誤の結果にほかならない。栗山さんは上掲『キネマの天地』の時にあまりの台本の遅さに業を煮やしてやはり井上さん宅に押しかけたことがあるそうだが、机に向かう井上さんの命を削るような執筆姿勢に胸を打たれて、責める言葉が出てこなくなったという(※97)。
実質怒鳴り込みにきた人間を感動させて帰途につかせてしまうのだからすごい。井上さんがどれほど真摯に〈書くこと〉に向き合っているのかを想像させる。
(余談ながら上掲の〈若い俳優たちとの会話が刺激になった〉くだりを読んで一つ腑に落ちたことがある。
(2)-5で〈武蔵は小次郎の保護者か〉と突っ込んだ場面や、気絶から醒めた後もまだ魂を抜かれたような小次郎の着物を武蔵が直してやる場面がいかにも、言葉は悪いが〈腐女子向け〉な感があるとかねてから感じていた。
しかし女性ファンの多い若手人気俳優を起用する機会の多い蜷川さんなら女性心理─贔屓の俳優が別のイケメン俳優とどんな風に絡むと喜ぶか─に通じていてもおかしくないが、これらの場面のほとんどは戯曲の段階で「武蔵 間に入る」「武蔵、小次郎を抱き起こして、立たせて、扇子を持たせたり、ちょっと身繕いなどもしてやりながら、」とト書きで指定されている(※98)。蜷川さんと違ってアイドル的若手俳優と仕事することの少ない井上さんが、男同士のスキンシップを嬉しがる〈女心〉を理解しているようなのがいささか意外だったのだ(実際『ムサシ』以外の井上戯曲に腐女子向け要素を感じたことはほとんどない。もっとも戯曲で読んだだけで実際の舞台を見ていないからかもしれないが)。
だから上のくだりを読んだとき、プライベートでも仲の良い藤原くんと小栗くんの素のやりとりにインスパイアされるところがあったのだろうな、と何やら納得できたのだった)
ちなみに井上さんの初期戯曲を近作より高く評価するのは蜷川さんに限った話ではない。桐原良光『井上ひさし伝』での演出家・評論家たちへのインタビューなど見ると、著者の桐原氏自身をはじめ、〈最近の作品には毒気が足りない〉〈初期戯曲の破壊的なパワーは凄かった〉といったコメントが少なくない(※99)。
中でも扇田昭彦氏はたびたび初期作品の悪の魅力と破天荒なエネルギーにに言及している(※100)(後に『太鼓たたいて笛吹いて』の三木清のキャラクター造型を見て考えを改めたそうだが)(※101)(※Ⅷ)。
井上さん没後に文芸雑誌『すばる』誌上で数度にわたって行われた座談会「井上ひさしの文学」でも〈こまつ座立ち上げ以降のわかりやすい、人間愛に満ちた作品より、初期中期作品の方に魅力を感じる〉という意見が複数人から出ていた(※102)。
私自身、戯曲を読むかぎりにおいては、ヒューマニズム溢れる〈いい話〉よりも、(3)-5でも触れた「江戸三部作」における主人公の(特に色事がらみでの)残酷さと彼らをスケープゴートに仕立てて恬淡としている一般民衆のさらなる残酷さの形象に惹かれる。
これら三部作や、近作でも〈悪人〉は登場しないものの笑いの要素をほぼ完全に排除した『少年口伝隊一九四五』(初演2008年)には慄然とせざるを得ない凄味を感じる(※Ⅸ)。『少年口伝隊~』など朗読劇だから(まして私は戯曲で読んだだけだから)いいようなものの、これを役者が舞台の上ないし映像で実際に演じたとしたら正直最後まで見続ける自信が私にはない。
初期中期のみならずその気になれば晩年でもこれだけ重い、凄味のある作品を書ける人が、天皇や庶民に対する毒を多分にまぶしながらも基本は口当たりの良い、善人ばかりで構成された喜劇をもっぱら描いているなんて(喜劇作家に対して甚だ失礼な言い種ながら)もったいないとすら思ってしまう。
その他の初期中期作品に関しても、『天保水滸伝』の枠組みにシェイクスピアの全作品を入れ込んだ『天保十二年のシェイクスピア』(初演1974年)の実験精神や『日本人のへそ』(初演1969年)『珍訳聖書』(初演1973年)のしつこいほど何重にもしつらえられたマトリョーシカのごとき入れ子構造、愛馬の脚の視点で乃木大将を語る『しみじみ日本・乃木大将』(初演1979年)や鎌倉時代の高僧・道元と現代の精神病者を夢を介して接続する『道元の冒険』(初演1971年)の奇想天外さなど、具体的な芝居の内容より発想のとんでもなさと、その発想を本当に芝居にしてしまうさらなるとんでもなさに目眩くようなワクワク感を覚える。比べると近年の、というより『イーハトーボの劇列車』(初演1980年)以降の作品の大半はどうも大人しく感じられてしまうのだ。
※90-井上ひさし・こまつ座編著『太宰治に聞く』(文春文庫、2002年)収録の表題作(初出1998年)で、井上さんは「鎌倉の山の中」にある自宅の裏の崖に掘られた穴=ヤグラについて「中世鎌倉に特有の横穴式の墳墓である。(中略)持仏堂でもあり、ときには仏殿としても使用されたりもするので、ヤグラの前には広場がある」以下詳細な説明があるが、宝蓮寺にもヤグラがあるのが、平心の寺開きの挨拶の中の「(武蔵が寺を普請するさいに)夜は夜で向うのやぐら(正面竹林)、鎌倉武士たちの洞穴墓場のことをこのあたりではやぐらといいますが、そのやぐらに蝋燭を立てて図面を引き直」したという言葉から明らかである。この近辺ではヤグラは珍しくないものらしいが、井上さんが長年構想を暖めてきた『ムサシ』執筆にあたって、自宅を舞台に設定したことは充分考えられるだろう。
※91-『ムサシ 激動の123日間の舞台裏-蜷川幸雄と若き俳優たち─』。ちなみにこの中で蜷川さんは「初日の一日・・・半前に最終稿が来たから、ま、俳優だって大変だったし、ぎりぎりで通し稽古をやって、翌日直したから、そこに間に合ったってことですね」と語っている。ひええ。ついでに書くと、一度は公演中止が決定しながら紆余曲折の末上演された『黙阿弥オペラ』の時は初日三日前に最後の台本が届いたという(栗山「あのときはいったん、稽古場でお別れ会をやって、マスコミにも公演中止を発表した。でも、井上さんは、「僕は書く」とおっしゃる。書くっていっても、もう劇場のスケジュールもないし、メンバーは解散しているんですよ。ところが本当に書き続けた。役者やスタッフはみんな次の仕事に入っている。そこで二十四時間使える稽古場を探したら、シアターコクーンが使えるというので、みんなテレビや他の仕事が終わったあと集まって稽古をしましたね。舞台も、たまたま東京映画祭が延期になって同じシアターコクーンが一週間なら空いているという。それで再度、初日が決定された。」辻「三時間四十分という長い芝居を必死に稽古して、わずか四日間、六回公演しかなかったけど(笑)。」栗山「井上さんに、初日が決まりました、と報告すると、「ああ、よかった。じゃ、しっかり書きます」とおっしゃった。だけど、またペースがゆっくりになって、結局、台本が全部出来たのが初日の三日前。こんなことなら、「勝手に書いてください。出来上がったらやりますから」と言ったほうがよかった(笑)。」(井上麻矢・栗山民也・辻萬長「追悼 こまつ座が見た井上ひさし 待たされた、ダマされた──だけど楽しかった」、『文藝春秋』2010年6月号))。現場の苦しみは想像に余りあるが、それだけに無事初日を迎え千秋楽を迎えた時の満足感も半端ないんだろうなあ。
※92-「書き上がる前は、僕らには遠慮があって、なかなか側に行くことができなくて、とにかく稽古場で待つだけなんですが、この前の『ムサシ』のときは、若い小栗旬や藤原竜也が、みんなで鎌倉のご自宅を訪問しようなんて、なんとも無神経なことを言い出した(笑)。ところが実際に行ってみると、若い連中がいろいろ話すことが、井上さんにはすごくヒントになったようで、次の日にはもうワンシーンが出来ていた。それが、二人の会話のニュアンスがふわっと出ている、とても面白い掛け合いのシーンになっていたから、オレたちはちょっと考えすぎていたのかなとも思いましたね。」(井上麻矢・栗山民也・辻萬長「追悼 こまつ座が見た井上ひさし 待たされた、ダマされた──だけど楽しかった」、『文藝春秋』2010年6月号)
※93-辻「僕ら俳優は、最後どうなるか知らないまま稽古しているけど、栗ちゃんは演出家なんだから、ある程度、井上さんと話をして、知っていたんでしょ」栗山「いやぁ・・・・・・。」辻「そういう機会はなかったの?」栗山「というか、井上さんはとにかくいろんなことを話されるから。もちろん会って、今回はこういう芝居にしたいということを一時間も二時間も話しますよ。そのとき井上さんは僕や周囲の反応を見ているわけ。「ここは面白い仕掛けを考えていて、こうなります」などと言ったとき、辺りの表情が輝いていないと、「これはペケだな」と、その場で物語を変えてしまう。(中略)井上さんがこうなりますと言ったところで、それを信用してはいけないんです。決してそうなりませんから(笑)。」(井上麻矢・栗山民也・辻萬長「追悼 こまつ座が見た井上ひさし 待たされた、ダマされた──だけど楽しかった」、『文藝春秋』2010年6月号)。ちなみに『キネマの天地』の時にも「井上さん、これは推理劇ですよね。今、稽古場は、なんとなく動きのポジションだけは付けてありますが、それにしてもこれからの展開で一つだけ知りたいことがあるのです。いったい犯人は誰なんですか?」井上ひさしさんはお茶を一つすすってからゆっくりと、「栗ちゃん、それがわかったらすぐに書けるんだけど」静かに、そして、真顔でそうおっしゃいました。」(栗山民也『演出家の仕事』(岩波新書、2007年)というやりとりがあったそう・・・。
※94-「(三億円強奪事件をテーマにした『四谷諧談』について)スンナリできるわけがないじゃありませんか。この芝居は、最初『聖面聖絵』という題名だったのです。三億円事件を担当していた刑事が定年になって四国へ帰り、巡礼宿へ行ってみると、毎晩、客が一人二人といなくなるというんですな。おかしいというので追及し始めると、これがどうやら客を安楽死させているのではないか、という話になっていくというわけです。 女主人には楠侑子さんだというので決めていたら、本ができません。大騒ぎでした。できてみたら『四谷諧談』でしょう。仙台から公演が入っていて、初日が明けてはじめてこういう芝居だったのか、とこっちもやっと分かったぐらいですから。あちこちポスターや看板作っちゃったところは、ぼくが勝手に“お断り”をつけちゃったんですな。ヒュードロドロなんてお化けのように出ていっては、『実は今日の題名が変わりました』とやるわけです。(中略)あの方のものは、やれば面白いんですが、やるまでが地獄の苦しみなんです」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年)中の小沢昭一インタビュー)
※95-1988年9月初演(こまつ座)の「イヌの仇討」はもとは「長屋の仇討」のタイトルで〈常陸国(茨城県)牛久藩の江戸上屋敷の侍長屋に住む元締役(金穀の係)がふとしたことから、ある日の正午敵討の討手となり日没時には返り討にされ夜には死体になっていた〉というストーリーの予定だったが、上演直前になって、〈赤穂浪士に襲われ炭小屋に隠れた吉良上野介が、大石の本音(吉良を討つことでお上の裁きに対する異議申し立てをする)を推察したうえで、コロコロ気の変わる将軍家への意趣返しのため自分から赤穂浪士に討たれてやる〉という筋の「イヌの仇討」に変更された。変更前の「長屋の仇討」の内容を綴った井上さんのエッセイ(おそらく『イヌの仇討』上演時のパンフレットに収録されたもの)が井上ひさし『演劇ノート』(白水社、1997年)に収録されているが、エッセイのタイトルが「長屋の仇討」なのに目次は実際上演された戯曲のタイトル通り「イヌの仇討」になっていて、文章の末尾に〈「長屋の仇討」がぎりぎりで「イヌの仇討」に変更になった〉との説明が付されているあたりが(笑)。上演当時パンフ制作などもいかにギリギリ進行だったのかがうかがえます。
※96-「一九八六年のことになりますが、井上ひさし書き下ろし作・演出の東京・日生劇場公演『キネマの天地』のときのことです。私はその演出助手の仕事を頼まれ、喜んで引き受けたものの、一抹の不安は確かにありました。それは初日ひと月前の顔合わせのころから、はっきりしたカタチで現れました。そうなのです。新作の原稿が一向に現れないのです。書いた原稿は毎日数枚ずつ稽古場に届くのですが、稽古場に演出家井上ひさしはいないのです。当たり前のことですが、作者は執筆のため、カンヅメ状態。仕方なく、演出家不在のまま、できた場面だけの立ち稽古に入りましたが、さて、いったいこの先どうなるのだろうか・・・・・・。(中略)ある時、登場人物全員の名前が変更になったのです。皆同じ一つのイニシャルにするための変更でした。俳優にとって、覚えていた相手役の名前が変わることほど、悲劇的なことはありません。到底、言葉で伝えられる状況ではなかったので、変更になった名前を大きな模造紙に書いて、稽古場の壁に貼り出し、知らん顔で、 「じゃあ、稽古をはじめます」と続けていたら、そのうち一人の女優が、「あれ、何かしら?・・・・・・何ですか、これ?アレーェッ」と過呼吸で倒れてしまった。これをきっかけに、もう一人の大物女優が、中央の椅子にデンと腰を下ろすなり、 「出来ない。もう出来なーい!」 と野太い声を響かせました。稽古場は水を打ったかのごとくの長い静寂の間。仕方なく、私が、「今日の稽古は、これで終わります。明日は、明日は・・・・・・」と口ごもったその瞬間に、稽古場は崩壊しました。」(栗山民也『演出家の仕事』(岩波新書、2007年)
※97-※96の事件の直後、「担当プロデューサーと、 「とにかく台本完成が先決だ」と当たり前のことを呟きながら、井上さんのカンヅメ先の新橋の古い旅館に向かったのです。(中略)学生が使うような木製の机を部屋に運び入れ、裸電球にアルマイトの笠の卓上ランプを灯し、原稿用紙を高く積み上げその原稿用紙に十五センチぐらいのところまで顔を近づけて、一字一字書いている。私は何も言えずただその光景に見入っていました。(中略)必死に机に向かいながら、一つひとつの言葉がそのとき生まれ出る、まさに血の滲むようなその瞬間に出会い、私は涙がこぼれそうになりました。 昔、東ベルリンで出会った養成所の若い女優の卵が言っていた、「世界で一番美しい職業は、俳優です」という、私にとって決して忘れられない言葉が、「世界で一番美しい職業は、言葉の作者です」とそのときは、確かに思えたのです。(栗山民也『演出家の仕事』(岩波新書、2007年)
※98-『ムサシ』(『井上ひさし全芝居 その7』、新潮社、2010年)
※99-「ひさしが、その後、平穏な家庭を取り戻して、落ち着いた大きな仕事を次々と展開しているのはご承知のとおりである。ただ、ひさしの舞台に、以前のようなもっとすさまじい笑いが欲しい、という人はいる。単純な構造の頭脳しかもち合わせのない筆者もその一人だ」(桐原良光『井上ひさし伝』、白水社、2001年)。「井上さんは、基本的に権威に対する対立項、アンチテーゼで書いていくほうですよ。オーソドックスなドラマツルギーをもっている方だと思いますけど、いまや中心も周縁もごちゃごちゃになってしまって、テーマ設定が難しくなった。」(同上、扇田昭彦インタビュー)。「井上さんの作品は、鋭い文明批評になっていたのですが、いまは何もかもが相対化されて文明そのものがものすごく小さくなってしまったでしょう。いまほど『個性』が口に出る時代はなかったと思いますけれど、いまほど個性的でなくなった時代はないでしょう。 文明が薄っぺらになってしまったのですから、日本の構造を撃つというか、かつて確固として存在していた撃つ対象が、いまは風化して拡散してしまったのです。井上さんの批判精神が衰えたというよりも、対象そのものがなくなってしまったのです。井上さんの笑いは、下位の者が上位の者をひっくり返す、権威をひっくり返すという面白さが笑いになる快感ですね。(中略)権威というものがすっかりなくなってしまって、いまは政府なんて批判の対象にすらもならないほどですから」(同上、長部日出雄インタビュー)。「(井上さんの芝居が最近になって真面目になったとは思わない、という。)世の中がハチャメチャになっているんですよ。ハチャメチャの上にハチャメチャをやるというのが井上さんではないと思うのです。世の中がハチャメチャになったのなら、ハチャメチャじゃない別の世界を求めているのが井上さんではないでしょうか」(同上、宇野誠一郎インタビュー)
※100-「近年の井上ひさしの劇作について懸念があるとすれば、それは二面性のうちの俗の部分、つまり悪ふざけやナンセンスな笑い、無償の遊びといった部分が縮小気味になり、その分だけ聖なる部分、ひたむきな警世の精神、つまり治癒をめざす使命感が突出してきたことだろう。なかでも目立つのは、「悪」の形象がしだいに少なくなったことで、『頭痛肩こり樋口一葉』(八四年)や『きらめく星座』(八五年)では、善なる被害者の心やさしい円環だけでドラマが構成されている。悪徳、流血の殺人、ぎらつく欲望が抑制を排除してあふれだし、人間の闇の世界を拡大してみせた『藪原検校』や『天保十二年のシェイクスピア』(七四年)の世界からは、かなり遠い地点である。 だが、ここで私たちは井上ひさしが「変質しない」果敢な喜劇作家として、困難な闘いを執拗に持続している努力をもう一度見直すべきかもしれない。(中略)対立しあう二つの面のバランスは絶えずどちらかに傾くかもしれない。しかし、彼がどちらの面にも決定的には加担せず、しかもどちらの面をも過激に冷徹に育てあげていく時、私たちはそこに、世界そのものにも似た大きな怪物的作家像を見ることになるかもしれない。」(扇田昭彦「世界救済のドンキ方程式に挑むハムレット」、『井上ひさしの劇世界』(国書刊行会、2012年)、初出1986年)。「「悪妻」といわれた好子さんが身近にいた時期は、井上氏がこの「二律背反」を作品の上でもっとも過激に生きた時代だったといえるだろう。シェイクスピアの『リチャード三世』を連想させる戯曲『藪原検校』(七三年)のような「悪の魅力」にあふれた傑作が生まれたのもこの時期だ。カオス的活力にあふれた血みどろの流血喜劇『天保十二年のシェイクスピア』(七四年)もこの時期の作品だ。 こうした作品に比べると、近年の井上戯曲は、「悪」の要素が際立たず、心優しい善人の登場人物が増えている。その点に不満を覚え、私はたびたび、「もっと『悪』を描いてほしい」と思った。」(同上、「複雑な喜劇的多面体」、初出2005年)。「『天保十二年のシェイクスピア』は、初期の井上ひさしの熱い過剰なエネルギーがまるで溶岩流のようにあふれ出た異様な傑作である。」(同上、「冒険する大人たちの演劇」、初出Bunkamura『道元の冒険』公演パンフレット、2008年)。「驚くほどの多面性と、人間を世界の中心とは見ない喜劇的視点を持ち、グロテスク趣味をもそなえた井上ひさしには、黒い笑いの秀作といえる作品がいくつかある。『藪原検校』(七三年)、数十人の登場人物が不条理に「みな殺し」になる『天保十二年のシェイクスピア』(七四年初演)といった作品である。ことに『藪原検校』では、井上ひさしのうちに確実にあるグロテスクな怪奇趣味が、ヒューマニズムの修正なしにあらわにほとばしり出ることによって、とりわけすぐれた作品となった。グロテスクな悪の化身である杉の市を主人公にすえることによってこの劇全体が、まるで遊園地のイルミネーションに輝く恐怖の館のように不気味にまばゆく放電しているのである。」(扇田昭彦「黒い笑いへの傾き」、『世界は喜劇に傾斜する』(沖積社、1985年)、初出1980年)。
※101-「二〇〇二年にこまつ座が初演した秀作劇『太鼓たたいて笛ふいて』(栗山民也演出)を観て、私の考えは変わった。」「(登場人物の三木孝について)こうした変節漢は普通、嫌味な悪役として描かれることが多いが、作者の井上氏は意表をついて、この男を気さくで明るい、人情味のある善人風の人物として設定した。つまり、三木は自分の変節に疑問も抵抗感も屈折も覚えない「いい人」なのだ。そして、自分の「悪」を自覚しないこういう普通の「いい人」こそが、実はもっともおそろしい「悪」であり、それは私たちの分身かもしれないことを、この作品は暗示している。(中略)つまり、いかにも悪漢風の「悪」ではなく、さりげない風貌をした新しい「悪」、より身近でよりおそろしい「悪」を、井上氏は鮮明に造形したのだ。 というわけで、私は「悪」の形象をめぐる注文をすぐに撤回した。そして井上氏の才能に対する賞賛の念をさらに強めたのである。(扇田昭彦「複雑な喜劇的多面体」、初出2005年)
※Ⅷ-「以前は、善玉と悪玉がいて、対立が大事だ、セリフ自体も対立していかなきゃいけない、対立がドラマツルギーだと思っていた時期があるんですね。自分の頭の中に善玉と悪玉を作って、善玉に勝たせるために悪玉を武装させて、悪玉が勝ちそうになる最後の時にかろうじて善玉が勝利をおさめるというスタイルが多かったと思うんです。でも、これは劇作家の頭の中で処理したことをただ観てるだけで、お客さんはいやな感じがするんじゃないかと思いまして。全員が悪玉と善玉を兼ねていて、それが時間と共にどういう風に変わっていくか、自然に「生まれて成る」、生成ドラマツルギーと言うんですかね。そっちへ移ってきた。つまり、善玉と悪玉が対立しているようでいて、実はその悪こそが自分自身だったという、そういうドラマの作り方に変わってきたんですね。」(インタビュー・構成 扇田昭彦「井上ひさしインタビュー 渋谷を変えた劇場でダークな喜劇の実験」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)
※102-「たとえば教科書的な学者先生のシェイクスピアについての高説を解体してみせたのが『天保十二年のシェイクスピア』です。井上さんは芝居においては、一に趣向、二も趣向、そして思想も趣向のうちといっていた。その趣向で、リア王の家督相続はたちまち侠客の跡目相続になってしまう。聖なるものはすなわち俗なのものであるというバフチンのカーニバル論に通じている。『藪原検校』『日の浦姫物語』『雨』などもそれです。またこまつ座以前の井上さんの芝居は、一通りでは語れない複雑な仕掛けを次々とつくり出していったんですね。『しみじみ日本・乃木大将』という作品では、人格ではなく「馬格」、馬の前脚と後脚によって乃木大将の生涯が演じられる。あるいは『小林一茶』では、寸劇仕立ての劇中劇の構造を持っている。つまり、仕掛けをどこまでも探求していくというところに重点がおかれていたのですが、それを、こまつ座のために「平明な前衛」へシフトしていったということです。」(今村忠純+島村輝+成田龍二+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学① 言葉に託された歴史感覚」、『すばる 5月号』(集英社、2011年)より今村発言)。「永井「(『頭痛肩こり樋口一葉』について)不思議なのは、あの難解な『漱石』(管理人注・1982年初演の『吾輩は漱石である』のこと)の後なのに、こちらは非常にわかりやすい。しゃべる言葉はすべて現代風だし、子供が見ても観てもわかる。それはなぜかと推測すると、井上さんにはとうしても伝えたいことがあったからではないかと思うんです。その頃の井上さんは、押しも押されもせぬ中央の人。今までは少し中心から外れていたところにいたはずなのに、いつの間にか真ん中に来てしまったという意識もあったと思います。 そうしたときに、昔のようなナンセンスやあからさまな毒気より、中央にいる者の責任が芽生えたのではないか・・・・・。難しいことを易しく、面白く、深く、というまさにお手本のような本です。(中略)この後に書かれた『泣き虫なまいき石川啄木』や『太鼓たたいて笛ふいて』も読みやすい。でも、『しみじみ日本』と『小林一茶』は上演時間内になんか読めません(笑)。(中略)上演時間はどんなに長くても三時間くらいですから、読むならもっと早いはずです。ところが、それまでの井上さんの戯曲は読むのに倍くらい時間がかかる。それが後年になると、どんどんシンプルになっている。(中略)複雑なことは伝えにくい。だからどうしても簡略化し、わかりやすい形で伝えることになる。でも、そのことによって失われるものもある。それが何なのか。井上さんのように大きな問題を書こうとしてきた人には、永遠について回るのだと思います。 知的な表現者たちの背負った問題を、数時間の芝居で観客に伝えていかなくてはいけない。それにはなるべく単純化しなければならない。難解なところがない台詞で、人間世界の複雑さを描く。この非常に難しいバランスを、井上さんは強いられ続けていたのだと思う。 複雑な人ほど単純に見えるという宿命を、井上戯曲は負い続けている。」成田「井上さんの後期の作品に対する、とても共感あふれる批判だと思います。」永井「批判でありません。ただ、井上さんに直接こういうことをお聞きする勇気が出なかったのが最大の後悔です。」」(永井愛+成田龍一+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学④ 評伝劇の可能性」、『すばる 7月号』、集英社、2013年)
※Ⅸ-今井克佳「少年口伝隊一九四五─記録と記憶の間で」(日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録)は「死んだ兵隊が残した手榴弾を用いてテロリズムを起こそうと決心していた少年、勝利を台風による洪水が飲み込んでしまう。少年の死はやるせないが、テロリズムは実行されなかった。復讐の連鎖を起こすテロリズムを井上はこのような表現で否定したのではないだろうか。」と指摘する。なおこの論文は、この作品に頻出する具体的な数字データ(特に被害者数)や事実と相違する描写(「原子爆弾がパラシュート付きで投下されたという俗説」など)について「実際、公表されている記録データと付き合わせてみると、これらの数値はあまり正確とはいえないものであることがわかってくる。」「いかにも「記録」を装いながら、客観性に欠ける誤解や俗説をそのまま、当時の人々の「記憶」がそうであるから、といって上演を続けることは間違った「史実」を伝えることになってしまい、むしろこの作品に傷がつくのではないか。」との危惧を示している。