一言で言うならアイデンティティーを持たない男。「蜉蝣峠」(3)で書いたように、メインキャラの多くはジェンダーをはじめとするアイデンティティーの不安定さを抱えているのだが、記憶のない闇太郎においてそれはもっとも顕著である。
「闇太郎」と呼びかけられればそれが自分の名前だと信じ、「蜉蝣峠で待て」と言われれば愚直に待ち続ける。記憶のない、したがって何の目的も持たない彼にとって「蜉蝣峠で待つ」ことが唯一の目的であり精神の拠り所となったからだ。
とはいえ、そのまま何もせずに20年以上も一ヶ所で人を待ち続けるというのははっきりいって異常である。いかに記憶がないとはいえ、記憶喪失になった時点以降の記憶はあるわけで、生きていく中で自然と新たなアイデンティティーが生まれるのが普通だろう。そして果たされるあてのない約束にいつまでも囚われるのもバカバカしくなり、何もない峠での生活にあきあきして何処かへと旅立ってゆく。本物の闇太郎―やみ太郎が早々に江戸に出てしまったように。
しかし闇太郎は飽きることなく蜉蝣峠に留まりつづけた。誰と交わしたともわからぬ約束に操を立てているのではない。会ったばかりの銀之助に誘われればあっさりと彼について蜉蝣峠を後にしている。
下半身丸出しの姿や自分の大便まで食べたことについて闇太郎は「大衆とは勝手なものだ。次会うときはさらなるバカを期待する。おれは期待にこたえてバカになる」と答えている。期待されたからバカのように振る舞ううちそれがエスカレートするのは芸人にかぎらず三枚目キャラで通っている一般人にもありがちではあるが、なかなか露出・スカトロジーまでいけるものではない。それをつい「期待にこたえて」しまうところに、闇太郎の恐るべき主体性のなさが表れている。蜉蝣峠で待てと言われたから待ち、おれについてこいと言われたから銀之助についていき、バカを期待されたからバカを演じる。まるで書き込まれた命令通りに動くロボットのごとくである。
闇太郎は「バカではない。常識はある」というが、その言動を見る限り、常識はあっても上手く機能しているとは言い難い。「ただ記憶がない。思い出がない。だから蜉蝣の向こうに幻を見ることもない」と彼は続けるが、記憶を失ってから20年以上経っているのだから、その後の思い出も人間関係もあってしかるべきなのである。彼の精神機能は記憶を失った25年前の状態で停滞してしまっているように見える。
それは彼の記憶喪失が外傷によるものでなく精神的なもの―母が陵辱され自害したことに激昂した自身が行った大量虐殺に対するショックに由来していたことが原因ではないか。それに先立って沢谷村で百姓らを斬殺したことも影響していただろう。
想像になるが、母の悲劇そのものは彼の記憶喪失に直接関係ないのではないか。ショックだったのは間違いないだろうが、彼が自身の記憶を封印してしまったのは、自分が殺人鬼と化した事実を認めたくなかったというのがまず一番のように思える。
松枝久太郎は天晴をしのぐほどの腕前を持っているわけだが、太平の世ではその腕を発揮する機会などまず存在しない。それが家を再興するためにいやいや請け負ったのだろう沢谷村の一揆鎮圧で初めて人を斬る機会を得た。全く手ごたえのない相手ではあったろうが、初めての人斬りに久太郎は予想外の喜びを覚えてしまったのではないか。
しかし殺人を楽しむなどとは彼の道義心が許さず、あくまで任務で仕方なくやったことだと己を納得させたのだろうが、それが母の死を契機として弾けてしまった。仇の片割れであるうずらの親分は斬ったものの主犯である蟹衛門は取り逃がし、にもかかわらず蟹衛門をあくまで追いかけるかわりに関係ない街の人々を当たるを幸いに斬り殺した。その行動は復讐鬼というより快楽殺人者に近い。
そして我に返り自分のやったことに気づいた時、彼はそれを正視するに耐えなかったのだろう。結局蟹衛門を取り逃がしながら早々と記憶を失ってしまった―戦う意欲を失ったことが、彼にとって復讐がさほど大きなウェイトを持っていなかったことの証明に思える。さらに、家の再興を願う心にまんまと付け入られて、汚い仕事をやらされたあげくその間に母が攫われ陵辱され死ぬまでに追いつめられた事実に、自身の立身願望、ひいては武士とは何なのかに強い疑問を抱き、それまでの目標が崩れ落ちてしまったことで彼のアイデンティティーにも亀裂が入ってしまったのではないだろうか。
闇太郎についてもう一つ印象深いのは、彼が戦いのさい大きな傷を負うたびに「痛えー!」と絶叫していること。深手を負ったのだから痛くて当然なのだが、普通物語のヒーローというものはああも大っぴらに痛みを訴えたりしない。
物語の序盤、銀之助が自分の排泄物を食らう闇太郎を「これは新たなヒーローの誕生なのか?」と評しているが、「公然と痛がる」点においても闇太郎は新しいヒーロー像を築いたといえそうだ。
この「斬られて痛がる」ことは、ろまん街に入ってそうそうに天晴と戦ったときに見せた食べ物への執着と根は同じである。痛覚と空腹感――いずれも命に関わる切実な肉体的感覚だ。飢えが長く続けば人は死ぬし、激痛の原因を放置してもやはり死ぬのだから。それこそ記憶のあるなし、アイデンティティーがどうこうより余程生きるうえで重要な機能である。
アイデンティティーのあやふやな闇太郎にとって、自身の肉体の存在、生きている実感をはっきり示してくれるこうした生理的感覚がいわばアイデンティティーの代わりを果たしていたのではないか。
それはまるで赤ん坊を思わせる。赤ん坊には過去の記憶などろくにないし、おなかがすいた、暑い寒い、おむつが濡れて気持ち悪いといった生理的感覚ばかりで生きている。登場当初の闇太郎の下半身丸出しスタイルや自分の大便・銀之助の睾丸を食べたりかじったりする行動もまさに赤ん坊のものだ。
しかし赤ん坊なら経験を積み重ね日々成長してゆくところを、闇太郎は記憶を失ったあの日のまま成長を止めてしまった。蜉蝣峠を下りて時間が流れ出してからは記憶はなくとも比較的常識をもってふるまっているものの、再び蜉蝣峠に戻ってきたラスト、彼が最後に呼んだのは母親だった。
記憶がないがゆえに赤子同然となった男は、一度は新しい人生を歩き出しながら、記憶を取り戻したことであの日に返り母を慕う子供となって死んだ。結局彼は最後まであの一夜に囚われたままだったのだと思うと何ともやりきれない話である。
「闇太郎」と呼びかけられればそれが自分の名前だと信じ、「蜉蝣峠で待て」と言われれば愚直に待ち続ける。記憶のない、したがって何の目的も持たない彼にとって「蜉蝣峠で待つ」ことが唯一の目的であり精神の拠り所となったからだ。
とはいえ、そのまま何もせずに20年以上も一ヶ所で人を待ち続けるというのははっきりいって異常である。いかに記憶がないとはいえ、記憶喪失になった時点以降の記憶はあるわけで、生きていく中で自然と新たなアイデンティティーが生まれるのが普通だろう。そして果たされるあてのない約束にいつまでも囚われるのもバカバカしくなり、何もない峠での生活にあきあきして何処かへと旅立ってゆく。本物の闇太郎―やみ太郎が早々に江戸に出てしまったように。
しかし闇太郎は飽きることなく蜉蝣峠に留まりつづけた。誰と交わしたともわからぬ約束に操を立てているのではない。会ったばかりの銀之助に誘われればあっさりと彼について蜉蝣峠を後にしている。
下半身丸出しの姿や自分の大便まで食べたことについて闇太郎は「大衆とは勝手なものだ。次会うときはさらなるバカを期待する。おれは期待にこたえてバカになる」と答えている。期待されたからバカのように振る舞ううちそれがエスカレートするのは芸人にかぎらず三枚目キャラで通っている一般人にもありがちではあるが、なかなか露出・スカトロジーまでいけるものではない。それをつい「期待にこたえて」しまうところに、闇太郎の恐るべき主体性のなさが表れている。蜉蝣峠で待てと言われたから待ち、おれについてこいと言われたから銀之助についていき、バカを期待されたからバカを演じる。まるで書き込まれた命令通りに動くロボットのごとくである。
闇太郎は「バカではない。常識はある」というが、その言動を見る限り、常識はあっても上手く機能しているとは言い難い。「ただ記憶がない。思い出がない。だから蜉蝣の向こうに幻を見ることもない」と彼は続けるが、記憶を失ってから20年以上経っているのだから、その後の思い出も人間関係もあってしかるべきなのである。彼の精神機能は記憶を失った25年前の状態で停滞してしまっているように見える。
それは彼の記憶喪失が外傷によるものでなく精神的なもの―母が陵辱され自害したことに激昂した自身が行った大量虐殺に対するショックに由来していたことが原因ではないか。それに先立って沢谷村で百姓らを斬殺したことも影響していただろう。
想像になるが、母の悲劇そのものは彼の記憶喪失に直接関係ないのではないか。ショックだったのは間違いないだろうが、彼が自身の記憶を封印してしまったのは、自分が殺人鬼と化した事実を認めたくなかったというのがまず一番のように思える。
松枝久太郎は天晴をしのぐほどの腕前を持っているわけだが、太平の世ではその腕を発揮する機会などまず存在しない。それが家を再興するためにいやいや請け負ったのだろう沢谷村の一揆鎮圧で初めて人を斬る機会を得た。全く手ごたえのない相手ではあったろうが、初めての人斬りに久太郎は予想外の喜びを覚えてしまったのではないか。
しかし殺人を楽しむなどとは彼の道義心が許さず、あくまで任務で仕方なくやったことだと己を納得させたのだろうが、それが母の死を契機として弾けてしまった。仇の片割れであるうずらの親分は斬ったものの主犯である蟹衛門は取り逃がし、にもかかわらず蟹衛門をあくまで追いかけるかわりに関係ない街の人々を当たるを幸いに斬り殺した。その行動は復讐鬼というより快楽殺人者に近い。
そして我に返り自分のやったことに気づいた時、彼はそれを正視するに耐えなかったのだろう。結局蟹衛門を取り逃がしながら早々と記憶を失ってしまった―戦う意欲を失ったことが、彼にとって復讐がさほど大きなウェイトを持っていなかったことの証明に思える。さらに、家の再興を願う心にまんまと付け入られて、汚い仕事をやらされたあげくその間に母が攫われ陵辱され死ぬまでに追いつめられた事実に、自身の立身願望、ひいては武士とは何なのかに強い疑問を抱き、それまでの目標が崩れ落ちてしまったことで彼のアイデンティティーにも亀裂が入ってしまったのではないだろうか。
闇太郎についてもう一つ印象深いのは、彼が戦いのさい大きな傷を負うたびに「痛えー!」と絶叫していること。深手を負ったのだから痛くて当然なのだが、普通物語のヒーローというものはああも大っぴらに痛みを訴えたりしない。
物語の序盤、銀之助が自分の排泄物を食らう闇太郎を「これは新たなヒーローの誕生なのか?」と評しているが、「公然と痛がる」点においても闇太郎は新しいヒーロー像を築いたといえそうだ。
この「斬られて痛がる」ことは、ろまん街に入ってそうそうに天晴と戦ったときに見せた食べ物への執着と根は同じである。痛覚と空腹感――いずれも命に関わる切実な肉体的感覚だ。飢えが長く続けば人は死ぬし、激痛の原因を放置してもやはり死ぬのだから。それこそ記憶のあるなし、アイデンティティーがどうこうより余程生きるうえで重要な機能である。
アイデンティティーのあやふやな闇太郎にとって、自身の肉体の存在、生きている実感をはっきり示してくれるこうした生理的感覚がいわばアイデンティティーの代わりを果たしていたのではないか。
それはまるで赤ん坊を思わせる。赤ん坊には過去の記憶などろくにないし、おなかがすいた、暑い寒い、おむつが濡れて気持ち悪いといった生理的感覚ばかりで生きている。登場当初の闇太郎の下半身丸出しスタイルや自分の大便・銀之助の睾丸を食べたりかじったりする行動もまさに赤ん坊のものだ。
しかし赤ん坊なら経験を積み重ね日々成長してゆくところを、闇太郎は記憶を失ったあの日のまま成長を止めてしまった。蜉蝣峠を下りて時間が流れ出してからは記憶はなくとも比較的常識をもってふるまっているものの、再び蜉蝣峠に戻ってきたラスト、彼が最後に呼んだのは母親だった。
記憶がないがゆえに赤子同然となった男は、一度は新しい人生を歩き出しながら、記憶を取り戻したことであの日に返り母を慕う子供となって死んだ。結局彼は最後まであの一夜に囚われたままだったのだと思うと何ともやりきれない話である。