いきなり「あんたやみちゃんなの」と闇太郎に抱きつく登場シーンから、少女のようなあどけなさを放射しているお泪。しかしその一方で年齢相応の、生活に疲れたような投げやりな、やや頽廃的な色気をも時に漂わせる。
この二面性は彼女のような立場の女性――“苦界”に生きる女にあってはそう珍しくないように思える。現在自分が置かれている境遇と自分自身を厭い、その結果として純粋で綺麗だった少女の頃を懐かしむ気持ちが少女めいた一面を彼女の中に生み出したのでは。
いやむしろ天晴の「もの」にされたのは闇太郎と別れて間もない本当に少女の頃だったのだろうから、否応なく大人の女性にならざるを得ない状況の中で、むりやり引き剥がされた少女の心がかえってもう一人の自分としてずっと温存されることになったのかもしれない。
そしてその少女時代に繋がる存在、初恋の人でもあった闇太郎と「再会」したことで、その少女の部分が前面に引き出されてくる。出会った当初、闇太郎といる時のお泪はこの少女の顔が全開になっている。
記憶のない彼とは思い出話ができないのに多少がっかりしたかもしれないが、それでも彼女の無邪気な態度が崩れることはなかった。思い出がないかわり25年分の―年齢相応の心の澱のない闇太郎は、多分にすれてしまったお泪から見れば少年のごとくに単純かつ純粋な男で、一緒にいることで心洗われる思いがあったのではないか。
そのお泪が闇太郎に投げやりな、人生を諦めたような女の顔を見せるのは、彼に街を出るよう勧めるとき―闇太郎との別れを覚悟したときだった。
天晴公認で堂々と彼と所帯が持てる、ある意味幼い頃からの夢が叶おうとしている(プラス天晴との泥沼な関係にもケリがつけられる)というときにお泪は別れの方を選択する。それは所帯を持つ交換条件が「領主を斬ること」だったから。
闇太郎にだけは人殺しをしてほしくない、たとえそのためにようやく出会えた彼と二度と会えなくなったとしても。無垢だった少女の頃に繋がる闇太郎の存在はお泪にとってはいわば聖域であり、自分が汚れてしまったと感じているだけに彼には汚れないままでいてほしかった。闇太郎が汚れてしまえば、彼女のよりどころともいうべき美しい思い出もまた汚れてしまう。それが何より嫌だったのだろう。
結局お泪のそんな想いに反して闇太郎は領主を斬ってお泪を娶ることになる。当初は表情の暗かったお泪がそれでも闇太郎との新生活を受け入れることにしたのは、大きな問題に目をつぶることで目の前のささやかな幸せを掬い取ろうとする、長く不幸な境遇にあった人間の本能のようなものかと思う。
そしてなにより天晴が決して言ってくれなかった「好きだ」という言葉を口にしてくれたことが大きかったのだろう。後に本物のやみ太郎が現れたとき、激しく動揺しながらも最終的にお泪が闇太郎を受け入れたのもこの台詞ゆえだったのではないか。
お泪の闇太郎に対する愛情はかつてのやみ太郎に対する愛情と混ざり合ってしまっていて(同一人物だと思っていたのだから当たり前だが)、自分が愛しているのが闇太郎とやみ太郎のどちらなのかと聞かれても応えようもない。しかし少なくとも現在進行形で自分を好きだと言ってくれたのはやみ太郎でも天晴でもなくて闇太郎だった。
記憶喪失ゆえにアイデンティティも欠落してしまっている彼は、精神の基盤としてお泪を求めた。切実に自分を必要としてくれている存在にお泪はほだされてしまった。彼が親の仇と知ってもなお。
お泪の両親や村人を殺めた記憶のない闇太郎を責めたところで彼は真の意味での罪悪感を持ちようもないし、憎んでみてもどうにもならない。そうわかっていても身内としては恨んで当然だし事実恨み言を言ってもいるのだが、「どうにもならない」という諦めがあるだけに最終的には現在の闇太郎への愛情が勝った。
そして再度蜉蝣峠で会う約束をするのだが、がめ吉に刺された闇太郎は途中で力尽き、ついにお泪のもとへ辿り着くことはなかった。
はたしてお泪はいつまで蜉蝣峠で闇太郎を待ち続けたのか。闇太郎もおそらくは天晴もついでに立派夫婦も死んでしまって、ろまん街には頭を張れる人間がいなくなってしまった(そう考えるとろまん街自体どうなってゆくのか。男たちは軒並み死んでしまったように見えるしやはり潰されるのか。新領主殺しの責任も下手人の天晴が死んでしまってるとはいえ何らかの形でかかってくるかもしれないし)。
現在の亭主もかつての主人もなく帰る家を失ってしまったお泪はこの先どこへ行くのか。一応は旅なれている銀之助以上に彼女の先行きは見えない。
あんな行動に出てまでお泪の幸せを願ってくれたがめ吉のためにも、何らかの形で幸せと思える新しい人生にめぐりあって欲しいものです。
この二面性は彼女のような立場の女性――“苦界”に生きる女にあってはそう珍しくないように思える。現在自分が置かれている境遇と自分自身を厭い、その結果として純粋で綺麗だった少女の頃を懐かしむ気持ちが少女めいた一面を彼女の中に生み出したのでは。
いやむしろ天晴の「もの」にされたのは闇太郎と別れて間もない本当に少女の頃だったのだろうから、否応なく大人の女性にならざるを得ない状況の中で、むりやり引き剥がされた少女の心がかえってもう一人の自分としてずっと温存されることになったのかもしれない。
そしてその少女時代に繋がる存在、初恋の人でもあった闇太郎と「再会」したことで、その少女の部分が前面に引き出されてくる。出会った当初、闇太郎といる時のお泪はこの少女の顔が全開になっている。
記憶のない彼とは思い出話ができないのに多少がっかりしたかもしれないが、それでも彼女の無邪気な態度が崩れることはなかった。思い出がないかわり25年分の―年齢相応の心の澱のない闇太郎は、多分にすれてしまったお泪から見れば少年のごとくに単純かつ純粋な男で、一緒にいることで心洗われる思いがあったのではないか。
そのお泪が闇太郎に投げやりな、人生を諦めたような女の顔を見せるのは、彼に街を出るよう勧めるとき―闇太郎との別れを覚悟したときだった。
天晴公認で堂々と彼と所帯が持てる、ある意味幼い頃からの夢が叶おうとしている(プラス天晴との泥沼な関係にもケリがつけられる)というときにお泪は別れの方を選択する。それは所帯を持つ交換条件が「領主を斬ること」だったから。
闇太郎にだけは人殺しをしてほしくない、たとえそのためにようやく出会えた彼と二度と会えなくなったとしても。無垢だった少女の頃に繋がる闇太郎の存在はお泪にとってはいわば聖域であり、自分が汚れてしまったと感じているだけに彼には汚れないままでいてほしかった。闇太郎が汚れてしまえば、彼女のよりどころともいうべき美しい思い出もまた汚れてしまう。それが何より嫌だったのだろう。
結局お泪のそんな想いに反して闇太郎は領主を斬ってお泪を娶ることになる。当初は表情の暗かったお泪がそれでも闇太郎との新生活を受け入れることにしたのは、大きな問題に目をつぶることで目の前のささやかな幸せを掬い取ろうとする、長く不幸な境遇にあった人間の本能のようなものかと思う。
そしてなにより天晴が決して言ってくれなかった「好きだ」という言葉を口にしてくれたことが大きかったのだろう。後に本物のやみ太郎が現れたとき、激しく動揺しながらも最終的にお泪が闇太郎を受け入れたのもこの台詞ゆえだったのではないか。
お泪の闇太郎に対する愛情はかつてのやみ太郎に対する愛情と混ざり合ってしまっていて(同一人物だと思っていたのだから当たり前だが)、自分が愛しているのが闇太郎とやみ太郎のどちらなのかと聞かれても応えようもない。しかし少なくとも現在進行形で自分を好きだと言ってくれたのはやみ太郎でも天晴でもなくて闇太郎だった。
記憶喪失ゆえにアイデンティティも欠落してしまっている彼は、精神の基盤としてお泪を求めた。切実に自分を必要としてくれている存在にお泪はほだされてしまった。彼が親の仇と知ってもなお。
お泪の両親や村人を殺めた記憶のない闇太郎を責めたところで彼は真の意味での罪悪感を持ちようもないし、憎んでみてもどうにもならない。そうわかっていても身内としては恨んで当然だし事実恨み言を言ってもいるのだが、「どうにもならない」という諦めがあるだけに最終的には現在の闇太郎への愛情が勝った。
そして再度蜉蝣峠で会う約束をするのだが、がめ吉に刺された闇太郎は途中で力尽き、ついにお泪のもとへ辿り着くことはなかった。
はたしてお泪はいつまで蜉蝣峠で闇太郎を待ち続けたのか。闇太郎もおそらくは天晴もついでに立派夫婦も死んでしまって、ろまん街には頭を張れる人間がいなくなってしまった(そう考えるとろまん街自体どうなってゆくのか。男たちは軒並み死んでしまったように見えるしやはり潰されるのか。新領主殺しの責任も下手人の天晴が死んでしまってるとはいえ何らかの形でかかってくるかもしれないし)。
現在の亭主もかつての主人もなく帰る家を失ってしまったお泪はこの先どこへ行くのか。一応は旅なれている銀之助以上に彼女の先行きは見えない。
あんな行動に出てまでお泪の幸せを願ってくれたがめ吉のためにも、何らかの形で幸せと思える新しい人生にめぐりあって欲しいものです。