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about him

俳優・勝地涼くんのこと。

結びのことば(2013年版)

2013-11-26 20:45:23 | その他
お誕生日記念の一時復活のはずが、いっこう書き終わらないために三ヶ月もだらだら続いてしまいました・・・。
復活時点ではまだ話題にのぼせてもいなかった出演舞台作品『高校中パニック!小激突!!』も一昨日開幕を迎えました。『蜉蝣峠』同様宮藤さんの脚本で、またまたおバカな役どころ(物語自体もおバカ路線らしい)です。
「ロックオペラ」なので大分歌うシーンもあるようですが、「歌が上手になっていてびっくりした」との宮藤さんのコメントに彼の進化のほどがうかがえます(昨年の『ポクの四谷怪談』で鍛えられたのもあるでしょうね)。

すでに演技力に高い評価を受けながら、決して現状に満足して歩みを止めようとはしない。雑誌のインタビューを読んでいても、二十歳前後の頃より柔軟になりながらもひたむきさも失わない、魅力ある大人の男性として成長しつつあることを感じます。さらに一年後には彼がどこまで進化しているのか、じっくり見守ってゆきたいです。

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『蜉蝣峠』キャラクター考(4)  お泪

2013-11-24 16:45:53 | 蜉蝣峠
いきなり「あんたやみちゃんなの」と闇太郎に抱きつく登場シーンから、少女のようなあどけなさを放射しているお泪。しかしその一方で年齢相応の、生活に疲れたような投げやりな、やや頽廃的な色気をも時に漂わせる。
この二面性は彼女のような立場の女性――“苦界”に生きる女にあってはそう珍しくないように思える。現在自分が置かれている境遇と自分自身を厭い、その結果として純粋で綺麗だった少女の頃を懐かしむ気持ちが少女めいた一面を彼女の中に生み出したのでは。
いやむしろ天晴の「もの」にされたのは闇太郎と別れて間もない本当に少女の頃だったのだろうから、否応なく大人の女性にならざるを得ない状況の中で、むりやり引き剥がされた少女の心がかえってもう一人の自分としてずっと温存されることになったのかもしれない。
 
そしてその少女時代に繋がる存在、初恋の人でもあった闇太郎と「再会」したことで、その少女の部分が前面に引き出されてくる。出会った当初、闇太郎といる時のお泪はこの少女の顔が全開になっている。
記憶のない彼とは思い出話ができないのに多少がっかりしたかもしれないが、それでも彼女の無邪気な態度が崩れることはなかった。思い出がないかわり25年分の―年齢相応の心の澱のない闇太郎は、多分にすれてしまったお泪から見れば少年のごとくに単純かつ純粋な男で、一緒にいることで心洗われる思いがあったのではないか。

そのお泪が闇太郎に投げやりな、人生を諦めたような女の顔を見せるのは、彼に街を出るよう勧めるとき―闇太郎との別れを覚悟したときだった。
天晴公認で堂々と彼と所帯が持てる、ある意味幼い頃からの夢が叶おうとしている(プラス天晴との泥沼な関係にもケリがつけられる)というときにお泪は別れの方を選択する。それは所帯を持つ交換条件が「領主を斬ること」だったから。
闇太郎にだけは人殺しをしてほしくない、たとえそのためにようやく出会えた彼と二度と会えなくなったとしても。無垢だった少女の頃に繋がる闇太郎の存在はお泪にとってはいわば聖域であり、自分が汚れてしまったと感じているだけに彼には汚れないままでいてほしかった。闇太郎が汚れてしまえば、彼女のよりどころともいうべき美しい思い出もまた汚れてしまう。それが何より嫌だったのだろう。

結局お泪のそんな想いに反して闇太郎は領主を斬ってお泪を娶ることになる。当初は表情の暗かったお泪がそれでも闇太郎との新生活を受け入れることにしたのは、大きな問題に目をつぶることで目の前のささやかな幸せを掬い取ろうとする、長く不幸な境遇にあった人間の本能のようなものかと思う。
そしてなにより天晴が決して言ってくれなかった「好きだ」という言葉を口にしてくれたことが大きかったのだろう。後に本物のやみ太郎が現れたとき、激しく動揺しながらも最終的にお泪が闇太郎を受け入れたのもこの台詞ゆえだったのではないか。
お泪の闇太郎に対する愛情はかつてのやみ太郎に対する愛情と混ざり合ってしまっていて(同一人物だと思っていたのだから当たり前だが)、自分が愛しているのが闇太郎とやみ太郎のどちらなのかと聞かれても応えようもない。しかし少なくとも現在進行形で自分を好きだと言ってくれたのはやみ太郎でも天晴でもなくて闇太郎だった。
記憶喪失ゆえにアイデンティティも欠落してしまっている彼は、精神の基盤としてお泪を求めた。切実に自分を必要としてくれている存在にお泪はほだされてしまった。彼が親の仇と知ってもなお。
お泪の両親や村人を殺めた記憶のない闇太郎を責めたところで彼は真の意味での罪悪感を持ちようもないし、憎んでみてもどうにもならない。そうわかっていても身内としては恨んで当然だし事実恨み言を言ってもいるのだが、「どうにもならない」という諦めがあるだけに最終的には現在の闇太郎への愛情が勝った。

そして再度蜉蝣峠で会う約束をするのだが、がめ吉に刺された闇太郎は途中で力尽き、ついにお泪のもとへ辿り着くことはなかった。
はたしてお泪はいつまで蜉蝣峠で闇太郎を待ち続けたのか。闇太郎もおそらくは天晴もついでに立派夫婦も死んでしまって、ろまん街には頭を張れる人間がいなくなってしまった(そう考えるとろまん街自体どうなってゆくのか。男たちは軒並み死んでしまったように見えるしやはり潰されるのか。新領主殺しの責任も下手人の天晴が死んでしまってるとはいえ何らかの形でかかってくるかもしれないし)。
現在の亭主もかつての主人もなく帰る家を失ってしまったお泪はこの先どこへ行くのか。一応は旅なれている銀之助以上に彼女の先行きは見えない。
あんな行動に出てまでお泪の幸せを願ってくれたがめ吉のためにも、何らかの形で幸せと思える新しい人生にめぐりあって欲しいものです。


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『蜉蝣峠』キャラクター考(3)  銀之助

2013-11-16 23:10:09 | 蜉蝣峠
最初に『蜉蝣峠』公式ページで銀之助のビジュアル―唇の片端を吊り上げた不敵な笑顔を見たとき、「おお悪っぽい!今回は色悪な役どころか!?」なんて期待をしたものでしたが、そこは宮藤さんのこと、勝地くんにシリアスな役を振ってくださるわけがなく(笑)、やはり銀之助は愛すべきキュートなおバカ男子でした。 

それにしても、である。オープニングテーマ曲の歌詞にもあるように、「キンタマ取られて笑ってる」彼はバカも度が過ぎやしないか。出血もいまだに止まりきっていないのにそれを「(暑いから)忘れてた」とあっさり言う。
さすがにこれは『蜉蝣峠』(2)でも書いたように空元気、悲惨すぎる現実から目を背けているゆえの態度なんではないだろうか。

銀之助は闇医者に一物を縫い合わせてもらう目的でろまん街を目指していると闇太郎に語っているが、おそらく本心では元通りの状態に復元することなど不可能だとわかっている。だから彼は治療に不可欠の睾丸を食ってしまった闇太郎を、大して怒りを感じることもなく旅の道連れにしているし、ろまん街に辿りついてからもダメモトで闇医者を捜そうとする様子もない。
無駄と知りつつなぜろまん街を目指したのか。一座を追い出されて帰る場所を失い、ほかに行くべき場所もなく、しかしどこかへ行かないわけにはいかない。この先の暮らしの目処、目標の一切を失った銀之助がひとまず見出し得た目的地が「アンパンの旦那」に教えられた〈この先の宿場にいる闇医者〉だったのではないか。
彼もまた蜉蝣峠に足を踏み入れる前から「男に戻れる」という蜉蝣にすすんで囚われていたのだ。そして(これ以上のバカを演じるのが限界になったために)蜉蝣峠にいられなくなった――自分同様に居場所を失った闇太郎に手を差し伸べ、蜉蝣を追ってろまん街へと向かうのである。

ろまん街へ着いてからの銀之助は、実際に医者を訪ねて引導を渡されることを回避したまま、いつしか自分が男性器を欠損したことを本当に忘れ果ててしまったように見える。相変わらずの女好きを発揮し、彼女たちと遊ぶことに何のためらいもない。
本来トイレにいくたび思い知らされざるを得ない事柄のはずなのに、銀之助は意識に蓋をして通常の男であるかのような幻想の中に生き続ける。
しかし“女とコトに及べない”という決定的事態にあってさすがに自分を騙しきれなくなり、「途中で」「ないなあって」現実に気付かざるを得なかった。それでも「あるテイで」、今度は女たちを騙そうとした銀之助はあっさりと失敗して袋叩きにあい、何もなかったように男として生きられるという幻想を木っ端微塵にされる。
さらにその幻想が元で、結果的に初代お菓子を死に追いやるようなことになってしまった。ここまでふらふらと現実から目を背けてきた銀之助も、そのために人死にを出したことで自分の処世術を見直さざるを得なくなった。


かくて初めて銀之助は「真剣に」「男としては生きられない」現実に向き合うことになったわけだが、正直途方にくれるしかなかったろう。
そこに二代目お菓子として、「女」≒ニューハーフとして生きる道が強引に提示されたのである。闇太郎に睾丸を食われたとき「それ食われたらおいら・・・女形になるしかねえやー」と言っていたのが現実になったというか現実はさらに過酷だったというか。
しかしお寸たちに脅されたとはいえ、いやいやながらも銀之助はお菓子を名乗って蟹衛門の相手役を務めている。ともかくも新たな生きる方向性が見つかったわけであるから。
もっとも酌婦ならまだしも、さすがに実事はどうあっても受けつけられなかった。この時点で女として生きる方向性も閉ざされたようなものだが、闇太郎が田丸善兵衛を斬った騒ぎでそのあたりがうやむやになったまま銀之助は「二代目お菓子」を継続している。
おそらく宴席に出るくらいで客との同衾―「女」になれないことを突きつけられる決定打―はその後は経験せずにすんだんじゃないか。そしてそんな状況の中サルキジと親しくなっていく。


銀之助が出会って早々にサルキジに惹かれた理由は何か。『蜉蝣峠』(2)では彼の〈男らしさ〉が眩しく感じられるのでは、と書いたが、第一幕であれだけ女好きが強調されていた銀之助があっさり女の心になって男を慕うようになるというのもやや腑に落ちない感がある。
思うにもう男としては生きられないことを突きつけられ(実際には生殖機能・男性器を失ったら男でなくなるというものではないが、ろまん街の女たちも銀之助自身も交合不能な男を男とは見なせないようだ)、かといって男の客を取ることもできずに、〈男でも女でもない〉アイデンティティーの喪失がもたらす不安に陥っていた銀之助は、サルキジならば男でも受け入れられるかもしれない、彼となら女として生きることもできるかもしれないと感じたのではないか。
そうなれれば銀之助は「女として」アイデンティティーを獲得し、「何者でもない」不安からは逃れることができる。その思いが銀之助を男とは知らない、ゆえに自分を女として見てくれるサルキジに彼を引き寄せたのではないか。本来女好きの銀之助だけに、無意識にサルキジに女の匂いを嗅ぎ付けていた部分もあるかもしれない。

けれども一度「あるテイで」通そうとして失敗した経験のある銀之助は、さすがに今度は完全に女で通せると楽観することはできなかった。絶対バレるに決まっている。サルキジにいつどうやって打ち明けるべきか、でも打ち明ければもう自分を女とは見てくれなくなる。
第一部では明るかった銀之助は「お菓子ちゃん」になってからどこか淋しげな笑顔を見せるようになった。サルキジと親しくなってからはまた明るさを取り戻したように見えたが、次第に悩みを深めていったのだろう。彼が闇太郎を助けるためとはいえサルキジを銃で撃つという思い切った行動に出たのは、(ガラにもなく)悩み続けることにいい加減煮詰まった結果だったのかもしれない。

そして知らされたサルキジが実は女だったという驚愕の事実。このときサルキジが、自分は身体は女だが男として生きたい、お菓子は身体は男(どうやらサルキジは彼が生殖器を欠損していることを知らない)だが女として生き、そのうえで付き合おう――そう提案していたなら、きっと銀之助はサルキジを殺さずに済んだ。それは男ではいられずしかし女の身体でもない銀之助をそのまま受け入れることを意味しているのだから。そうすればサルキジの隣りが銀之助の居場になったろうに。
しかしサルキジが提案したのはその逆だった。自分が女に戻るから銀之助にも男に戻れという。それは「男」に戻りたくても物理的に戻れない銀之助にとってはフラれたに等しい。
さらに悪かったのはサルキジが「女」に戻る、戻りたいと思っていたということ。サルキジが「男」でなくなれば「女」としての銀之助―お菓子としてのアイデンティーを保証してくれる存在がなくなってしまう。
一度はジェンダーの混乱による銀之助の不安を和らげておきながら、こんな形でそれを台無しにする。裏切られたような気がしてもおかしくない。
そして何より「お菓子は走ってるサルキジを追いかけるのが好きだから」という言葉通り、女になったサルキジなんて見たくなかったんでしょう。

サルキジを殺害してそれっきり作中から姿を消した銀之助は、ラスト蜉蝣峠の場面で再度登場する。このときの彼は髪型はお菓子の時のようなのに、化粧はなし、装束はサルキジのものと、あたかも鵺のような姿をしている。
しかしこの外観はむしろ「女か男かもわかんねえ」自分をそのまま肯定し受け入れた証のように思えます。もはや彼は蜉蝣峠で己の願望を投影した幻を見ることもなく、むりやり行き先を設定して〈どこへ行くのか自分でもわからない〉不安定さを誤魔化そうともしない。
この後銀之助がどうなったのかはわからないですが、「あるテイ」や「ないテイ」を装うことなく生きられる場所を見つけていればいいなと思います。

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『蜉蝣峠』キャラクター考(2)  天晴

2013-11-07 23:59:04 | 蜉蝣峠
初登場シーンからいきなり立派組の石松を刺し殺す、それも後ろからという卑怯なまでの容赦なさを見せ付けてくれる天晴。しかもここで暴れ出す理由が「シャモになる夢を見た」「だからすこぶる機嫌が悪い」といういたって身勝手なもの。鬱屈とその反動による狂暴さが背中合わせになった、机龍之介を思わせる破滅型のニヒルなヒーロー。
とにかく暇さえあれば酒を飲み続け、流石先生の見立てでは五臓が弱りきってる、三年五年のうちには死ぬ、とのこと。その生き方はあたかも緩慢な自殺といった風情がある。それは25年前の事件と無関係ではないだろう。


事件以前の天晴がどんな性格だったかはわからない。しかし沢谷村の一揆を鎮圧した後になってから闇太郎=久太郎に「可哀想だがおまえ仕官なんかできねえぞ。うそだと思うならろまん街へ行ってみな」と告げたこと――彼の母親がどんな目にあってるか知りながら、手遅れになってから久太郎にそれを知らせる、しかも挑発するような口調で―というあたり、とうてい性格がいいとはいいがたい。
しかしお泪の両親を手にかけながら知らん顔して彼女を女房にすることがどうしてもできなかったところに彼なりの倫理観が感じとれる。もちろんお泪に手をつけてなかったとは思えない、お泪の天晴に対する態度からも二人が過去形だとしても男女の関係だったことは間違いないだろうが、女房にまですることにはどうにも抵抗があった。
すぐ近くで姉が年がら年中結婚したり離婚したりするのを目の当たりにしているのに、存外お固い一面を持っているのだ。つまりはそれだけお泪に本気だったということではないか。
 
にもかかわらず、彼は闇太郎の正体を早々と察しながら、お泪と彼が一緒になるのを後押ししている。闇太郎―久太郎もまたお泪にとっては両親の仇である。幼馴染の男と信じて親の仇と一緒になる―極めて悲劇的な状況を、なぜか愛する女に背負わせようとした・・・その心理は屈折しすぎていてにわかには理解しがたい。しかし根底にあるのは第一に闇太郎―久太郎への憎しみのように思える。そしてお泪への、愛ゆえのサディスティックな衝動。
天晴も久太郎もともに沢谷村の一揆鎮圧に関わったお泪の仇でありながら、久太郎は一切の記憶を失ってしまった。天晴がずっとお泪に対して抱かざるをえなかった罪悪感(もしかすれば罪もない百姓たちを殺したことへの罪悪感もあったかもしれない)を久太郎は全く感じていない。素直に彼女が幼馴染の恋人と信じ素直に彼女を愛した。お泪の方も、天晴との不幸な結びつきに陥る前の、無邪気だった少女時代を懐かしむ気持ちを闇太郎への愛着に転化させていった。
自分同様の罪を犯しながら自分には叶わない暖かな愛情を彼女との間に通わせていること、それが天晴には許しがたかった。
ゆえに代官を斬ればお泪と添わせるという、闇太郎―久太郎とお泪双方にとっての残酷な提案を持ちかけてみれば、闇太郎はあっさりそれに乗っかってお泪と夫婦になった。最初は人殺しの上に成り立った結婚だけに釈然としない様子だったお泪も、しばらく闇太郎と暮らすうちに天晴に対しても平気でのろけるようになってしまう。
不毛な愛であろうと確かに自分を想っていたはずのお泪が、天晴がけしかけた結果とはいえ本気で闇太郎を愛するようになっている――その様子に天晴は憎しみと倒錯した喜びを同時に感じていたのではないか。

おそらく天晴は25年の間、ずっと自分を熱くしてくれるものを求めていた。故郷の街は死に体で、愛しても自身の罪悪感ゆえ結ばれえないお泪との関係に疲弊し、しかし自ら死を選ぶだけのきっかけもなく・・・憂さを酒でまぎらわしながらだらだらと生き続ける日々。
そこに松枝久太郎が現れた。自分を超えるほどの剣の技量を持ち、父親の仇でもある男。しかも記憶を一切―都合の悪い思い出を全て―忘れ果てているという。どれをとっても天晴の神経を逆撫でせずにはいない存在。久太郎―闇太郎を利用して、彼を踏み台に今度こそ武士に成り上がってやろう。その思いつきは天晴をさぞ喜ばせただろう。
今さら武士階級に執着しているというよりあの久太郎を踏み台にするということが(25年前にも踏み台にしようとしてとんでもないしっぺ返しを食っただけに)天晴には痛快に思えたのではないか。闇太郎への憎しみ、彼を苦しめることが長く人生に倦んでいた天晴にとっての生き甲斐になったかのごとくである。
本物のやみ太郎の闖入によって闇太郎が偽者だと発覚し計画は頓挫したものの、天晴としては闇太郎を苦しめられれば正直何だってよかったのでは。松枝久太郎が何をしたか、彼の身に何が起こったかをなるべく劇的に闇太郎に暴露し、最終的に彼との死闘を演じるに至った。
闇太郎となら本気で力を尽くして戦うことができる。天晴は自分を熱くしてくれる男・闇太郎との戦いを自らの死に所に定めたのだ。おそらく闇太郎が久太郎だと気付いた時点でいずれこうなると悟っていたのかもしれない。
お泪を闇太郎に彼の素性を知らせぬまま自分の持ち物のごとく(実際お泪は天晴に金で買われた身であるが)投げ与えるように添わせたのも、闇太郎を愛しつつあるお泪への一種の復讐というだけでなく、闇太郎との対決・自分の死を前に彼女との関係にケリをつけておきたかった心理もあったのではないか。
もちろん天晴とて腕には覚えがあり闇太郎に負ける、死ぬと決まったわけではないのだが、25年の倦怠の末に訪れた大イベント―闇太郎を利用しての謀略、その果てにある闇太郎との死闘に嬉々として臨む天晴を見ていると、彼が生き残ってふたたび以前にも勝る倦怠に沈んでゆく姿が想像できない。
おそらく天晴自身も生き残った自分を想像できないし想像する必要も感じてなかった、そこから先の人生はもうないものと思い切っていたように見えるのである。それが彼にとってはもっとも幸福な幕切れであるのかもしれない。
何ともデスペレートな人間ではあるが、その生き方が天晴に倒錯的な、妖しいほどの男の色気を与えている。お泪が天晴を怖れながら彼を愛さずにいられなかったのも頷ける。ひとえに演じ手である堤さんの技量と資質あってのことだろう。ほれぼれ。

ところで天晴について気になるのは例の「シャモリ」である。『蜉蝣峠』(3)で書いたように、あの軍鶏は天晴の抑圧された一面、密かな願望が具現化した姿であると思われる。
鳥というと空を自在に翔ける自由の象徴のように感じるが、軍鶏は鳥といっても飛べない鳥である。闘鶏に使われる好戦的な鳥という点で天晴にはふさわしいともいえるが、飛べない鳥を夢想したということは天晴が軍鶏の姿に仮託したものは「自由」ではない。
ほかにこの軍鶏の特徴といえば、産卵シーンで明らかになったように意外にもメスだということだ。こう言うと銀之助やサルキジなどジェンダーの不安定なキャラクターも多い作品だけに、天晴が密かに女性化願望を抱いているように思ってしまいそうだが、おそらく肝は「産卵」の方にある。新しい命を産み落とす、またその卵を与えることで飢えた人の命を救うという行為。
日頃「虫の居所が悪い」というだけの理由で刀を振り回し平気で他人を殺す天晴だが、心のどこかで命を奪うばかりの自分に鬱屈していて、命を生み出す・救う側になりたいと願っていたのではないか。そう考えると死神のような、歪んだ生き方を貫いて死んでいった天晴が、何とも哀れに思えるのである。

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