about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『カリギュラ』(2)-8(注・ネタバレしてます)

2009-02-25 02:05:30 | カリギュラ
・第四幕第四場。陰謀が露見したと言って脅える第一の貴族と老貴族。
対照的にケレアは落ち着き払ってますが、疑いようのない証拠を手にしてがら自分を見逃した、そうする理由をもっているカリギュラが、今さら自分たちを処刑することはまずないと踏んでいるからでしょう。
一方老貴族はもともと自分から密告しようとしたくせに(そしてやはりカリギュラに見逃してもらったのに)「陰謀が露見した」と慌てている。
ケレアと違ってカリギュラが彼を処罰しなかった意図を理解していない、単なる気まぐれ程度に思っているから今度は気まぐれで自分たちを殺すことにしたのだと判断したんでしょうね。

・奴隷が武器を持って入ってきたのを見たケレアの声が(戯曲のト書きによると)少し変わる。
さすがに自分たちを処刑しようとしてる状況証拠が揃いすぎて、自分の判断(カリギュラはむしろ討たれることを望んでいるゆえに自分たちを処罰しない)への自信がぐらついているのがわかります。
ところでこのシーンの流れなんですが、ケレアは奴隷が入ってきたのに気づかず「あの男は否定しがたい影響を及ぼしている」うんぬんと語り続ける→先に気づいた老貴族らがおろおろとそちらを指差す→気づかずなおも語りつづける→老貴族に「見ろ」と言われて初めてそちらに目をやりケレア焦る、という運び。
何かケレアがちょっと間抜けっぽいです。才に溺れて自分の足元が見えてない感じで。「ケレアー、うしろうしろ!」みたいな(笑)。
カリギュラがまともに自分の身を守る気になってたら、完全に理論倒れで終わってたろうなこの人。

・踊り子の衣装でパフォーマンスするカリギュラ。ごく短いシーンだけにいかにも唐突でカリギュラの道化っぷり、彼の頽廃ぶりもいよいよ末期にきていることを際立たせている。
ミニスカートとカラフルな鬘、花飾りという服装で足を上げたりする動きは背景のネオンとあいまって場末のキャバレーのショーのような、いかにも安手で俗悪な感じを醸し出している。
この衣装やパフォーマンスがほとんど原作戯曲のままだというのに驚きます。

・第六場。エリコンとケレアの会話。「あれはほんとに偉大な芸術だったのか」と聞かれて「ある意味では、そうだ」と答えるケレアにエリコンは「(ケレアは)誠実さの面ではニセモノだ。だが、強さは本物だ。」と返す。
「ある意味では」という表現は便利なもので、まさかと思うような内容の発言にももっともらしい響きを与え、また「偉大な芸術だ」と断言せずに一歩引いておくことで逃げ道を残し、全面的に迎合していない点でプライドを保つこともできる。
ある意味では、ストレートに追従する貴族たちより狡いとも言える。

・いつも飄々とふざけた態度のエリコンが初めて真っ直ぐにケレアに感情をぶつける。
自分は他の貴族たちとは違うと強く自負しているケレアですが、エリコンにとってはそんなのどうでもいい程度の差異でしかない。貴族階級、カリギュラの敵ということで所詮貴族たちと同列の存在なのですよね(他の貴族よりは多少話し甲斐があると思っているようではありますが)。
彼の余裕のなさ(ラストの「長く夫婦を~」のくだりはいつものエリコンらしいですが)とケレアの余裕とが巧みなコントラストになっている。大人の男同士の会話という感じで、思わずひきつけられる場面です。

・上記の場面でエリコンは再び玉葱を齧っている。蜷川さんいわく「玉葱を生で齧るのは下層階級のやること。エリコンは玉葱を齧ることで自分を見下す貴族たちを逆に皮肉ってみせてる」(こちら参照)なので、ケレアに正面から宣戦布告するに等しいこの場面にはふさわしいアイテム。
ことさら目の前で玉葱臭い息を吹きかけてますし。ケレア役長谷川さんは相当目にツンと来たらしいです。

・ケレアの襟をつかんで乱暴に引き寄せ、顔を至近距離に近づけて話すエリコン。
戯曲のイメージよりはるかに乱暴なエリコンの行動には、ケレアにに「良い召使い」と言われたのに対する反発、身分は低かろうとそんなことに関わりなく(実際カリギュラの恐怖政治が吹き荒れる現在、身分差など何ほどのものでもない)、カリギュラを守るため真正面からケレアに戦いを挑むという意志が感じられます。
そして「これであんたは、敵の顔を見た」と、さらに顔を近づけ、何とケレアの頬(唇の斜め下くらい)にキスをする。これは戯曲には指定のない、舞台独自の演出。
年若いシピオンがあれこれスキンシップされるのは違和感ないんですが、大人の男なこの二人の、実に大人の男らしい会話の締めくくりがこれというのがすごい。
もちろん親愛の情などではなく、直前にわざわざ玉葱を齧っていることからしても、宣戦布告―手袋を投げつける代わりのキスと言ったところでしょう(エリコンが去ったあとにケレアが険しい、ちょっとうんざりしたような表情でキスされた後を手で拭っているので、彼はエリコンの意図を正確に理解したものと思われます)。
ただ睨みつけるだけでなく、指を突きつけるとかでもなく、キスという形を取ったことで、エリコンの皮肉っぽい人柄を表し、かつこの二人の関係に存するエロティックなニュアンス(敵意とは相手に強く関わろうとする意志なわけで、それ自体エロス的)を表面化させる効果をあげています。

・第一の貴族はカリギュラのダンスを美しいと言ったことについて、ここは「嘘の臭い」がすると「悲しげに」言う。
カリギュラが、つい少し前にはエリコンが、平気で嘘を並べ立てる貴族たちへの反感を露にしていますが、この台詞を聞くと皆が嘘に不感症というわけでもないらしい。
しかしそれを受けて老貴族は「ある意味、美しかった。」とあの発言は満更嘘ではなかったと主張する。これはケレアのような心にもないレトリックではなく結構本気でそう思っているんでは。
ダンスを美しいと思ったか訊かれたときも第一の貴族は答えるのを(嘘をつくのを)しばしためらったのに、彼は「感謝にあふれ」第一の貴族の発言を肯定していた。口に出す事で自己暗示をかけてしまい、嘘が本当になってしまうタイプの人間のように思えます。ケレア言うところの「嘘といわれても、そうと知らずについている」状態なのではなかろうか。
これだと嘘をついたことへの良心の咎めもないわけで、第一の貴族やケレアの態度と比較すると、年を取っているほどによりたちの悪い嘘吐きに、より狡猾になっていってるということなのでは。

・第三の貴族の処刑を命じたカリギュラは、「そなたが充分に人生を愛していたなら、これほど不用意にそれを賭けたりはしなかったであろうに」と言う。これはカリギュラが人生を愛していればこその台詞なんではないか。
この後まもなくカリギュラはケレアたちに討たれるので、第三の貴族は運が良ければ命拾いできたかも。

・セゾニアに自分が血を吐いたの死んだのと嘘を言わせて貴族たちの反応をうかがうカリギュラ。
第四幕に入ってからのカリギュラは、(ヴィーナスと比べても)安っぽいパフォーマンスといい、この貴族たちを試す態度といい、ささやかないたずらを仕掛けて喜ぶ子供のようです。「静かにしろ。ケレアが来た。」と言って姿を隠すあたりや「ふん!失敗だ!」という台詞などは特に。
論理の追求を目指したカリギュラの気力がここ最近で急激に崩れてきている。上でケレアを「理論倒れ」と書きましたが、カリギュラのやってる事も壮大な理論倒れですからねえ。

・「カリギュラが死んだわ!」とハンカチを顔にあて大げさに泣き崩れるセゾニア。
いかにもお芝居くさい仕草や声に逆に笑いを誘われてしまいます。いきなりすぎて説得力ないしなあ。

・カリギュラが死んだと聞いた第一の貴族は呆然と「あり得ない、さっきまで踊っていたのに」。それを受けたセゾニアが「そうなのよ。それが命取りだったの」。
踊りの内容がアレなだけに何だか笑ってしまいます。

・カリギュラが出て行ったあと、セゾニアはケレアや老貴族にカリギュラの苦しみを激しい口調で語る。さっきまでカリギュラに頼まれてしょうもない芝居を演じていただけに、この態度の変化は唐突に見える。
それは先に珍しく感情的にケレアに迫ったエリコン同様、カリギュラの死が着実に目の前に迫っていること、カリギュラ自身がケレアたちを煽ってその時期を早めているように見えることへの不安と苛立ちなんじゃないからくるものかと思います。

・「魂をこれっぱかりも持っていない連中はみんなそうだけど、あんたたちは、魂のありすぎる人に我慢できない。魂がありすぎる!それが厄介なのよ。」とセゾニアはケレアや貴族たちをなじる。
ここでいう「魂」とは傷つき悩み苦しみ続ける繊細さとその苦しみの源を憎み立ち向かおうとする情熱を合わせ持つ精神を意味している。
魂のある人間はその繊細さ純粋さのゆえにもろもろの不合理に「折り合いをつけ」ることができない。「折り合いをつける」とはよく言えば賢くなったということだが、悪く言うならそれだけ精神が鈍って不純になったということでもある。
貴族たちがカリギュラを抹殺しようとはかるのは、カリギュラが物理的に彼らの命を脅かすからばかりでなく、自分たちとは別の理に生きるカリギュラが異質であるゆえ―そして世の不条理に妥協した自分たちの卑小さを突きつけてくるがゆえ―である。
それがこのセゾニアの台詞から見て取れる。

 

(つづく)

 


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『カリギュラ』(2)-7(注・ネタバレしてます)

2009-02-21 02:56:32 | カリギュラ
・ケレアが現れた直後、カリギュラは衛兵に命じて松明に火をともさせる。
この炎によって舞台装置の雰囲気が代わり、実際の炎(のように見える)が赤々と燃えていることで、観客に新たに緊張感を抱かせる効果をあげている。

・「ぶしつけなことをしたな」とカリギュラはごくすなおにケレアに詫びる。これまで何かとケレアを侮辱するような態度を取ってきたカリギュラが、ここから始まる会話においてケレアを敬意を持って遇することの前振り。

・「少し話をしたい」といいながら、カリギュラはヴィーナスの鬘を取りスカートを脱ぐ。素のままにケレアと向き合おうとする気持ちを外見から示す。

・カリギュラはこれまでになくまともな態度でケレアに向かい、「同じ魂と誇り高さを持っているふたりの男が、生きているうちに少なくとも一度、心の底から話をするのは、可能だと思うか」と言う。
立場は敵対していても人間として尊敬している相手に言われたなら胸が震えるような名台詞ですが、カリギュラの態度にはケレアへの敬意が感じられるのに(衛兵に彼を呼ばせるにあたって「手荒な真似はするな」と注意を与えたところからしてすでにそう)、ケレアのカリギュラへの対応は率直ではあっても敬意は感じ取れない。
ケレアにしてみれば自分や多くの人間が割り切ってきた部分を割り切れず、割り切ろうともせずに抵抗を続け周囲に害を及ぼしているカリギュラは「手に負えない破れかぶれの子供」(※11)であり彼ら皆に恐怖を与えている暴君なのだから、尊敬の念は起こらなくて当然か。

・二人は階段の同じ段に腰掛けて話す。対等の目の高さで、でもはっきり正面から向きあうのでもない微妙な位置関係は、精神的に近しくも緊張感をはらんでいる二人の距離に似つかわしい。

・なぜ命を危険にさらすような発言をするのかと尋ねられたケレアは、「嘘がきらいなんです」と答える。
すでに反乱の証拠を握られたと気づいて覚悟を決めているとはいえ、実に率直な物言いは、第一幕第十場でのカリギュラの発言「おれは物書きは嫌いだ。連中の嘘にはがまんできん。」「偽りの認証をたてるやつらは嫌いだ。」への返答といえます。

・ケレアたちの反乱の証拠のタブレットを燃やすカリギュラ。それに先立って彼は「自己矛盾もしてみたい」「たまには矛盾するのも気持がいい」と言い、さらに「息抜きになる。おれには休息が必要なんだ、ケレア」と続ける。
この「自己矛盾」とはもちろん、その最高の権力をもって人の命を無差別に奪ってきたカリギュラが今さら反乱の証拠などを気にする、「おまえたちを証拠なしには殺せない、そう思ってみたい」などと言い出すことを指していますが、「どこまでも論理を追ってゆけ」と自らに言い聞かせたばかりのカリギュラがここでケレアを見逃し、さらには自分を殺すよう示唆さえすることをも意味しているように思えます。ここで殺されてしまえば結局月は手に入らぬままになってしまうのだから。
結局カリギュラは自分の論理に追いたてられて他人を傷つけ自分も傷つけ続けることにすっかり倦み疲れてしまったのでしょうね。三年前にはエリコンやセゾニアが休むように眠るようにと言うのを拒否したカリギュラが自ら「休息が必要なんだ」と言い出すのですから。

・「おまえの皇帝は休息を待っている」と言われたケレアは、驚いた顔になるが、崩れるようにカリギュラの足元に跪く。まるで「拝命に従います」とでも言うように。
戯曲だと「なにか仕草をしかけ」とだけあるので、見逃してもらったことへの屈辱を強く感じたのですが、この舞台では屈辱を感じつつもカリギュラの「自殺」幇助をすることを受け入れているように思えました。

・「この殺しには尊敬できる保証人がいる」からと、カリギュラ暗殺計画に参加するようシピオンを口説くケレア。
「保証人」という言い方からすると、彼はシピオンを立会人として欲していて実際に手を下させはしないつもりなのかもしれない。年若く純粋なシピオンを大事にしているのが感じ取れます。

・「今度ばかりはきみが要るんだ!」「きみにとどまってほしい」といつになく激しい調子でシピオンに迫り、彼の両肩をつかむケレア。
誰に対しても一定の距離を置くケレアが唯一他人の身体に触れる場面で、シピオンへの思い入れの強さを感じさせる。

・「それがぼくの不幸です」とケレアに背を向け手で顔を覆うシピオン。後姿が少しよろめくのに、彼の精神的な憔悴がよく表れています。

・静かながら思いつめたようにケレアはシピオンを見つめ、「あいつのせいできみはそうなった」と言う。
この台詞、どことなくエロティックに響きます。彼は現在のシピオンの精神状態をいびつな、痛ましいものと感じている。
ケレアがシピオンを見つめる視線には労わりと(彼を変えたカリギュラに対する)怒りがある。あたかも羽根をもがれ飛べなくなった天使をでも見るような。彼の視線と「そうなった」という言葉が、シピオンが精神的に「陵辱された」ことを突きつけてくる。
しかもその天使は自分の羽根を奪った男を憎みながらも愛することを止められず、ためにケレアの元を去っていこうとしている。
ケレアはそのことに動揺し、カリギュラへの怒りと嫉妬を隠そうともせずシピオンを繋ぎとめようとする。いわば一種の三角関係。
この三角関係を捉えているのはこの第四幕第一場が唯一であり、それがこの場面に他にはない艶っぽさをもたらしています。

・「ええ、あの人から教わりました、なにもかも要求することを」。言いながらシピオンは嘲るような、挑発的な表情をする。
言葉の内容と表情が、彼の「堕ちた天使」感をより強める。

 

(つづく)

※11-岩切正一郎訳『ハヤカワ演劇文庫Ⅰ カリギュラ』(早川書房、2008年)「訳者あとがき」。

 


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『カリギュラ』(2)-6(注・ネタバレしてます)

2009-02-17 02:28:35 | カリギュラ
・第三幕。第二幕の地味なセットとは打ってかわって、ネオンを中心に派手派手しく軽佻浮薄なムードを醸し出す。
やがて登場するカリギュラヴィーナスとセゾニア・エリコンの香具師めいた口上を考えると、見世物小屋のイメージなのでしょうね。

・月川悠貴さん演じる歌手がBGM代わりにスキャット?を聞かせる。
カストラートを思わせる高く線の細い歌声と男装の麗人めいた外見が、倒錯的退廃的な雰囲気を煽っています。

・樽を転がした裏方の男に、エリコンが「えーっ!?」とツッコミを入れる。声の裏返し方がなんか可愛いですエリコン。

・銀髪の鬘と裾の広がったミニスカートでヴィーナスにふんしたカリギュラが登場。「ヴィーーーナスです」というここぞとばかり間延びした挨拶が面白い。
一人シピオンが心底あきれ果てたような顔をしてるのも笑える。

・セゾニアの口上が、貴族たちに復唱させながらどんどん早口になっていく。この舞台の中でわかりやすく観客の笑いを取っていた数少ない箇所。

・皆の前でヴィーナスを演じてみせるカリギュラ。
カミュが作家として沈黙していた時期も戯曲の翻案・上演に積極的だったのは、演劇は戯曲家だけでなく俳優や演出家のものでもあるので「戯曲家は孤独ではない」ゆえでないかと言われていますが(※10)、このヴィーナスも第四幕でのマイムも作・演出・主演すべてカリギュラ自身によるもの(明言されてないがそうとしか思えない)。
演劇に「同志的連帯」「友情」「集団的冒険」を求めたカミュが演技的人間であるカリギュラをこの3点をすべて否定した人物として設定した。そのことがカリギュラの孤独をより浮き彫りにしています。

・カリギュラが後ろ姿を客席に向けると、なんと衣装の尻の部分に二つ大きな穴が開けてあり、ほとんど丸見え状態になっている。
戯曲には「グロテスクなヴィーナスの扮装」とだけありますが、確かにこのうえなく戯曲の指定に叶った衣装ではある。
こんな衣装でも変に恥ずかしがったりせず、思い切りよく、というより当たり前のように演じている小栗くんは本当に適任ですね。

・「きみは神々を信じているのか」とカリギュラに問われ、「いや」と即答するシピオン。シピオンは普通に神々を信じてそうなイメージだったのでちょっと驚いた。
カリギュラのいう通り、神を信じないといいながら「冒涜」という表現を使うのには違和感があるが、神を冒涜しようとする一連の行為によってむしろ人間性を冒涜していることを責めているのでしょう。
そしてわざわざ神に対抗しようとすることで、逆説的にカリギュラは神をそれだけの値打ちのあるもの、本来不可侵なものと認めていることになる。神を否定したいならシピオンのように、無視するというのがもっとも効果的で誰も傷つけずに済む方法なのだが、カリギュラは「謙遜という感情」を持てないゆえにそうできない。
「権力と自由の道をまた少し前進した」と言いながら、彼は冒涜を働けるだけの権力があるために、軽やかな身の処し方が出来ずにかえって自身を不自由にしているように思えます。

・「世の中の敵意のバランスをとる(唯一の)方法は」「貧しさです」とシピオンは言う。この貧しさとは単純に貧乏を指すのでなく、訳注によれば「キリスト教における「清貧」」を意味するとのこと。
後にシピオンがケレアに「あの人から教わりました、なにもかも要求することを」と語ったのがこの「貧しさ」との対比になっていると考えれば、彼の言う貧しさとは無闇と求めないこと、いわゆる「足るを知る」ことなんではないかと思います。皆が今あるものをそこそこ満足して受け入れられれば、心の平安を保つことができる。
しかしカリギュラが「じゃあ、それも試してみようか」というのにシピオンはいい顔をしない。カリギュラが皆からさまざまの物を根こそぎ取り上げたうえで、「現状に満足しろ」と言い出すのは目に見えていたからでしょう。
そういえば3年前にカリギュラが制定した法律によってシピオンの父の遺産(シピオンが貴族階級なのか詩の才によってカリギュラに取り立てられた市井の青年なのかははっきり書かれてませんが、普通に貴族たちと同席していること、第一の貴族がシピオンに「きみの御父上」と父親にも敬意を払った表現を用いていることからして、詩才のある貴族の子弟なんでしょう)は全部カリギュラのものになっているはず。単純な意味でもシピオン貧乏かも。

・自分は「人の命を尊ぶから」三つもの戦争を断り、「理性的な暴君がおこすどんな小さな戦争でも、おれの酔狂な気まぐれより千倍も高くつくことが分かるだろう」と言うカリギュラ。
確かにどんな大義名分があろうと戦争による被害(とくに人的被害)は、カリギュラの虐殺の比ではない。カリギュラが時々口にする完全に反論の余地のない論理の一つ。
そういえば実際にカリギュラが殺した人間はどれほどいるのだろうか。確実なのは作中で手にかけているメレイアと第二幕第一場で言及されているシピオンの父とレピデュスの息子くらいか。
少なくともあのときケレア邸に集まった貴族たちの中で身内を殺されたことが話題に上るのがシピオンとレピデュスだけなので、実はカリギュラの言うとおり「ごく僅か」なのかも。
人数の多寡ではなく意味なく殺されることが問題なのだ、というなら戦争だってあれこれ理由をつけてはいるが大して意味のあるものじゃない(意味のある死なんてない)というのがカリギュラの言いたいところでしょう。

・カリギュラと二人になったエリコンは、しばし周囲をうろうろしてからカリギュラに声をかける。
いつも飄々としてさっきも香具師の真似事などしてたエリコンらしからぬ暗い態度は、カリギュラに対する陰謀の証拠を押さえたため。なのに内心死を望んでるかのようなカリギュラはまともに話を聞こうとしない。
「月を探しに」と一言言って部屋を出てゆくエリコンの声と表情に形容したがい悲しさが表れている。

・保身のため仲間を密告に来た老貴族を、三段論法めいた理屈を並べてカリギュラは退ける。
「裏切り者を生かしておくなど我慢できない」カリギュラが結局老貴族を無罪放免にしているのに驚いた。カリギュラの理屈に照らせば陰謀はなくしたがって彼は裏切り者ではない=殺す理由がない、という事になるのは確かだが、そもそも神に代わって理由なく人を殺すのがカリギュラのやり方ではないのか。
そういえばメレイアの時も冤罪で殺してしまったことに動揺していた。処刑を行うにはカリギュラなりの理由づけが必要なものらしい。このカリギュラ流の筋の通し方は続くシーンでケレアを処刑しなかったことでより強く表れてきます。

・衛兵にケレアを呼ぶよう命じたあとで、一人になったカリギュラは鏡の前で不安な内心を吐露する。
先にシピオンに「多くの人があなたのまわりで死んでいきます」と言われて「ごく僅かだ」と返していたのが「死人が多すぎる、死人が多すぎる」と憑かれたようにつぶやいている。自分の暗殺計画が進んでいる、自分に向けられた人々の憎悪をはっきり感じて弱気になったものか。
初めてエリコンに月の話をした時は「もしおれが眠ったら、誰がおれに月をくれる?」と自分自身の手で月を手に入れるつもりだったのが、少し前ではエリコンに「月を持ってくるまでは~」と言い、ここでも「だれかがおまえ(注・鏡の中のカリギュラ自身のこと)に月をもってきてくれたら~」と他力本願になっていますし。

(つづく)

 

※10-内田樹「アルベール・カミュと演劇」(岩切正一郎訳『ハヤカワ演劇文庫Ⅰ カリギュラ』(早川書房、2008年)の解説)。「アルベール・カミュは一九五八年のインタビューで、彼がどうして演劇にこだわるのか、その理由についてこう語っている。 『私にとって忘れがたいものがいくつか存在します。例えば、レジスタンスや〈コンパ〉に見られた同志的連帯がそうです。それはもうずいぶん昔の話になってしまいました。けれども、演劇にはその友情と、集団的な冒険がいまだに残っています。私はそれが必要です。それが、人が孤独ではなく生きることのできるもっとも心暖まる方法の一つだからです。』 」


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『カリギュラ』(2)-5(注・ネタバレしてます)

2009-02-13 01:47:08 | カリギュラ
・セゾニアの問いに対して三回「ええ」とだけ答えるシピオン。これは非常に難しい場面。ほんの一言だけの台詞を、三回全部ニュアンスを違えて発声しなくてはならないし(そうしないとごく単調になってしまう)。
勝地くんは問われてから答えるまでの間のとり方で、そのニュアンスの違いを何とか工夫していたように思います。

・セゾニアに対して「それにあなたはぼくを裏切らないし」というシピオン。
何をもって「裏切」ったことになるのかはっきりしないが(状況からすればカリギュラへの殺意をセゾニアが告げ口することのように聞こえるが、彼は「誰もこわくない」と言い切っているし事実カリギュラ本人に「おまえが憎い!」と叫んだりしてるので、告げ口されても平気なはずである)、セゾニアに対するシピオンのこの自信は何だろう。
セゾニアは今や父の仇であるカリギュラの従順な愛人であり、彼にはいわば敵方の人間だ。しかもセゾニアは言動のはしばしに、シピオンの若さやカリギュラと詩情を介して理解し合えることに嫉妬を抱いているのが感じられるし。彼女が自分の肩を持つだろうと何を根拠に思えるのか。
セゾニアがシピオンを側近くに呼びつけ、彼の顎をつかんで持ち上げ目を覗き込む場面があるだけに、ともすればこの二人の関係を邪推してしまいそうです(「いらっしゃい、ここに。」「どうして」「そばに来て」なんて会話もなにやら艶っぽい)。
たぶんシピオンのこの態度は、カリギュラやエリコンにも無意識に見せている、「回りから当然のように愛されることに慣れている者の驕慢さ」ゆえかと思いますが。

・「こんどはカリギュラを思い浮かべて」と言われて再び「ええ」と答えるシピオンの目に憎しみの炎が浮かぶが、「あの人を理解しようとしてほしいの」と言われると、それが悲しげな光に転じる。ここの箇所の目のお芝居はさすがの上手さ。

・シピオンに「カリギュラがお戻りだ。食事にでも行ったらどうだ」と声をかけるエリコン。
これはカリギュラと顔をあわせるとお互いきつい思いをするだろうと思ってシピオンをこの場から遠ざけようとしたんでしょう。その口実に「食事」を持ち出すのがエリコンらしい。シピオンは一応ついさっきカリギュラと一緒に食事を取っているのだが。

・いきなり何の前置きもなく「エリコン!助けてくれ。」「助けてくれるだろう。なんでも知ってるじゃないか」と言い出すシピオン。セゾニアとの会話の内容を知らないエリコンにしてみれば何のことやらさっぱりのはず。
思うにシピオン自身も自分が何に悩んでいるのかわかっていないのでは。セゾニアの言葉にすっかり混乱してしまい、わけもわからず胸に渦巻く情念をその場に現れたエリコンにぶつけてしまったというか。
多分普段からその時々の感情を何の計算もなしに口に出しまくってるんじゃないでしょうか。そうした素直な感情の吐露をレトリックで飾ればそのまま一片の詩が完成する。だからこそシピオンは詩人と呼ばれているのでは。
こういうシピオンの態度にエリコンも慣れているので、何から助けてほしいのか尋ねるでもなく「あぶないね、小鳩ちゃん(考えなしにぱっと頭に浮かんだことを口にするのやめとけよ)」「おれには詩のことはわからん(また詩人さんの詩作本能が暴走しちゃったよ)」と答えてるように思えます。

・カリギュラが入ってくるのと入れ替わりにエリコンは退場する。
最初はカリギュラとシピオンを二人きりにしないためにシピオンを追いやろうとしていたようなのに。しかもカリギュラを恨んでいるシピオンにカリギュラ殺害を唆すような台詞まで口にした上で。
彼の態度が変化した原因は状況からしてシピオンの混乱ぶりを見たことにあるとしか思えませんが、具体的にはシピオンの何がエリコンの気を変えさせたのだろう。
もしこの三年、シピオンが父の仇となったカリギュラの腹心であるエリコンにも憎しみを見せるか距離を置くかしてたとすれば、その彼が以前のように(このシーンの様子から見てかつては親しかったのでしょう)すがってきたことに、カリギュラに対する憎しみが揺らぎつつあると感じて、「カリギュラを殺せる」ほどカリギュラに対して影響力を持つシピオンがカリギュラを救ってくれることを(セゾニア同様に)期待したのだろうか。

・なぜか急ぎ足で部屋に入ってくるカリギュラ。何も急ぐ用事はないだろうと思うのだが。
その後の台詞が間のつまった早口なのもあわせて、彼の余裕のなさ、気持ちの落ち着かなさがうかがえる。原因はやはりメレイアを死なせてしまったこと、でしょうね。

・カリギュラは登場そうそうにシピオンに向かって、「やあ!きみか」「久しぶりだな」と挨拶する。ついさっき食事の席にシピオンはいたというのに。
この時のカリギュラの態度はさっきとは打って変わって、ドリュジラ生前のカリギュラはこうだったのでは、と思われる優しさをもってシピオンに対している。普段は心の底に封じ込められている繊細で詩人肌のカリギュラがメレイアの死に関するショックで蘇ってきたかのような(ゆえに「この」カリギュラからシピオンへの挨拶が「久しぶりだな」になる)台詞は、このあとの情感ある会話の伏線となっている。

・カリギュラとシピオンの会話は最初ぎこちなく、特にシピオンの言葉には毒が含まれているだけに静かな緊迫感がつのる。
二人の会話からカリギュラが椅子を二つ用意するあたりまではゆっくりした動きだったのが、二つめの椅子を投げ出すように置いたかと思うとにわかにシピオンの目前に迫り強引に手を引いて床に放り出すように座らせる。
静から動へのダイナミックな動きの転換が観客の注意をそらさない。このあたりの緩急のつけ方は見事だと思います。

・「きみの詩を聞かせてくれ」と言われたシピオンは「持ち合わせていません」と返事する。急に言われても携行していないのは当然ですが、※5(こちら参照)の指摘を思うと、これも「字を書かない」一貫なのではと思えてきます。

・唇が触れそうなほど顔を近づけ、一語一語をいとおしむようにして詩を詠みあううちに自然に寄り添い固く抱き合う二人。
パンフレットや観劇した方の感想を読むほどに、一番見るのを楽しみにしていたシーンがここでした。二人の身長差といい、カリギュラもシピオンも柔らかなウェーブのかかった髪形で、カリギュラの髪は黒、シピオンの髪は茶というコントラストといい、実に絵になる。
抱擁のシーンはカリギュラがシピオンの服の中に手を入れるバージョン、服の外から抱きしめるバージョンがあったそうで、WOWOWでの放映分(11月21日の舞台)は前者でした。カリギュラはシピオンの頭を抱き寄せ、シピオンはカリギュラの肩口に頬を擦り付ける。ラブシーンのように濃厚に触れあっていながら、ホモくさくならない清潔感と透明感が感じられたのはこの二人ならではでしょうか。
よく男同士、というか友達同士(もともと草野球のチームメイトなので、役者仲間というより地元の友達という感覚の方が強そう)でこんな場面を照れずに演じられるなあと最初は思いましたが、逆に同性でかつ気心が知れているからこそ、遠慮なくこうも密着できるのでしょう。小栗くんもセゾニア若村さんとのラブシーンにはやはりちょっと遠慮してるように感じられましたから。
ちなみに小栗くんと勝地くんは、毎年恒例の野球チームの忘年会2007年版で、この一連のシーンを演じてみせたらしい。舞台衣装もなしにそれこそ地元の友達の前(勝地くんの場合お兄さんもチームの一員なので家族の前でもある)でこれを演じるというのはかなりな度胸がいるかも。さぞ大うけだったでしょうけど。

・「(シピオンの詩には)血が欠けている」と言われたとき、はっと顔を上げたシピオンは、カリギュラを突きのける前の数瞬間、とても傷ついた目をしている。
泣き出す直前の子供のような寄る辺なさを感じさせる表情に、思わず胸が痛くなります。

・悲痛なカリギュラの告白を聞いたシピオンは、自分の方が泣きそうな顔をしながら、ゆっくりカリギュラに近付きためらいながらもそっとその肩に手をかけ、カリギュラはその手に自分の手を乗せる。二人の和解を手の触れあいを通じて視覚的に示している。
第二幕のラスト「軽蔑だ」と言われたシピオンがはっと手を引くという演出は戯曲にはないですが、せっかく和解しかかった二人の距離がまた開いてしまったような切なさを覚えます。
例の幕間の曲の引き裂かれるようなシャウト?も、シピオンが受けた衝撃を暗示しているように思えてしまう。

 

(つづく)


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『カリギュラ』(2)-4(注・ネタバレしてます)

2009-02-09 00:45:53 | カリギュラ
・カリギュラ登場。貴族たちに次々ちょっかいを出してまわる。
皆が緊張して声も立てずなされるままになっているその重い沈黙を、貴族の一人が一瞬脅えた声を上げることで破る。この一声がだんまりの続く場面にメリハリをつけつつ、さらなる緊迫感をもたらしている。

・テーブルに飛び乗って額に手を当て、遠い前方を見つめてみせるカリギュラ。おどけたようなパフォーマンスが、彼の子供っぽい演技者ぶりを示しています。

・周囲の惨状を指してセゾニアが「喧嘩?」と尋ねる声が、第一幕とは別人のようにドスが効いている。
カリギュラに付き従い悪女として生きることを決めた彼女の三年間での変化、覚悟のほどがこの声音に滲み出ている。

・倒れたテーブルを直す貴族たちを壁ぎわに立って眺めるカリギュラとセゾニア。
カリギュラの立ち姿も二人の表情も実に悪そう。悪の華と言いたい美しさを持ったカップルです。

・奴隷の一部を解放し、自分の世話は貴族たちに頼むと言い出すカリギュラ。
テーブルの準備にもたつく貴族たちを、エリコンは「叩いたり指図したりする以外の腕は持っていないんです」「元老院議員をひとりつくるには一日で足ります。けれど、労働者をひとり仕込むには、十年かかるんです」と評する。
生来の既得権によって当たり前のように人の上に立っている連中の無能さをあばく痛烈な言葉は、解放奴隷であるエリコンの台詞だけに重みがある。
先にケレアに行動を止められた第一の貴族が「今はまだ、民衆もわれわれの味方ではないだろう」と言ってましたが、日頃ふんぞり返っている貴族たちを虚仮にして平民と同じ地平にまで引きずり降ろすカリギュラのやり方に、一般民衆はむしろ快哉を叫んでいるのかも。
売春宿に通うと勲章がもらえる=勲章という権威あるものを侮辱する新法律もウケが良さそうだし、奴隷を解放するというのもポイント高い(解放される=「路頭に迷う」な可能性もありますが)。
ただそれもこのあと食糧庫を封鎖して人工的に飢饉を作り出したりした時点で、決定的に民衆の支持を失ったものと思われる。ケレアは「悪意に行くところまで行かせ、論理が錯乱するのを待とう」としばしカリギュラを泳がせる作戦を打ち出しますが、さっそくに自分から(全てわかったうえで)首を締めるような真似をはじめています。

・「怠け者の罰は」と言いながら、カリギュラはケレアの肩に肘をつく。プライドの高いケレアに対するあからさまな挑発ですが、ケレアは顔をそむけて無視。
カリギュラの行動は相手を辱めているというより構ってほしがっている子供のようでもあります。

・「実を言うと、もともと腕がありません」とやや引っくり返り気味の声で語るエリコン。
第一幕でも貴族たちの前では多分に露悪的(つまり演技的)だったエリコンですが、第二幕以降の台詞は一段と芝居がかっている。
セゾニアともどもカリギュラの行動―神々と人民とに対するパフォーマンス―にとことんまで付き合おうと決めたがゆえでしょう。

・黙々と食事を取る一同。ただ食器のかちゃかちゃいう音だけが響いているのと、静かだけど緊迫感のあるBGMがかえって沈黙の重さを強めています。
カリギュラの席がシピオンのちょうど向かいなのは、シピオンへの親しみゆえでしょうかね。

・ことさら行儀悪い食べ方をするカリギュラ。しかし歩きながら口に詰め込んだパンをポロポロこぼしたりしているのに、不思議と汚い下品な印象にならないのは皇帝であるカリギュラの育ちの良さのせいでしょう。
その育ちの良さをごく自然に出せる小栗くんも大したもの。あと自由自在にげっぷを出してみせるのにもびっくりしました。

・カリギュラは自分が息子を殺したレピデュスを相手に、童話めいた口調で「昔々、誰にも愛してもらえない可哀想な皇帝がおりました。」と語りだす。
目を閉じてうっとりしたような口調で、かと思えば最後「殺しましたー!」のくだりではフォークとナイフでけたたましく皿を突き刺す。このあたりの行動は今でいうサイコパスめいています。
この時の皿がシピオンのもののように見えるんですが、この物語が暗に(自分が父親を殺した)シピオンを意識して語っていることを暗示しているのかも。

・カリギュラに笑うよう命じられていっせいに大笑いする一同。シピオンとケレアの目が笑ってなくて怖い。
この時点ではシピオンもまだ唯々諾々とカリギュラに従ってますね。

・「やむにやまれぬ自然の欲望~」と話しながら股間に手をやるカリギュラ。さらにミュシュスの妻の首すじを舐めあげる。
嫌らしさ全開の行動ですが、それだけ色悪的魅力を強烈に放っています。

・ミュシュスの妻を隣室へ連れ込むカリギュラ。思わず立ち上がろうとするミュシュスにセゾニアが「愛想良く」お酌を頼んで彼を引き止める。
ミュシュスは妻を寝取られようとしているわけですが、思えばセゾニアも彼と同じ立場である。
同じ立場の者としてミュシュスの身を案じて止めたのか、カリギュラの行動がどんな残酷なものであれ付いていくと決めた自分を鼓舞するために、あえてカリギュラの不倫を援護したのか。

・セゾニアの質問をケレアは「われわれはね、詩歌というものは殺人的であるべきか否か、それを議論していたんです。」と「冷たく」はぐらかす。
この台詞はカリギュラの暴虐-不可能への挑戦が彼の詩的ロマンティシズムに基づいていることを皮肉るもの(それはカリギュラの「大論文」に関して「詩歌の殺人的な力をあつかったもの」と推測を述べる場面にも表れている)。
同時にカリギュラがシピオンに言う「(君の詩には)血が欠けている」という言葉、詩歌には血の匂いが感じられるべきという主張をあらかじめ否定するものでもある。
「女のわたしにはさっぱりわからないわ」と返すセゾニアは、具体的な意味までは捉えてないとしても、それが皮肉であることは抜け目なく勘付いていることでしょう。

・カリギュラが現在執筆中の大論文のタイトルは「剣」だという。訳注によればこの「剣」という名前は、史実のカリギュラ帝が亡くなった後に発見された帳面(殺される予定の人々のリスト)の一つに冠せられた表題だと言う。
しかしおそらく戯曲中のカリギュラは本当に論文を執筆しているわけではない。その生きざま、彼の神への反抗それ自体を「論文」と暗喩したのではないか。
セゾニアが一言「剣」と言った瞬間にガタンと大きな効果音が鳴るのも、この「剣」が戯曲全体に持つ大きな影響力を指しているのでは。

・食糧保管庫の閉鎖を指示するカリギュラは「自分は自由だと証明する手段をわたしはそれほど持っていない」と言う。
指示の内容はまぎれもなく無惨で、それを「強くきっぱりと」宣言しているのにもかかわらず、結局神に戦いを挑むにあたってこのような手段しか取ることのできない自分の無力さを彼が嘆いているように響く台詞です。

・「さあ、諸君、さがってよい。ケレアはもうきみたちに用はない。」と貴族たちに命ずるカリギュラ。
ケレアの気持ちを勝手に代弁してるのも可笑しいが、家主であるケレアの方に「どこかへ行ってくれ」とか言ってた貴族たちよりは一応正しいような気がしてこれまた笑える。

・公営売春宿の運営について、売春宿に通うと勲章が授与され、一年後に勲章をもらっていない市民は国外追放または死刑にするあらたな財政プランがセゾニアから発表される。そうするとケレアやシピオンもせっせと通うことになるのかなあ・・・。

・メレイアが激しく咳き込み、薬の瓶を口にあてがう。この咳き込む様子と瓶の見せ方が上手い。

・カリギュラは食器を蹴倒しながらテーブルの上を歩いてメレイアの元へゆく。この食器の薙ぎ倒し方に見事にためらいがなくて、いかにも金を湯水のごとくに使える身分らしい一種の傲慢さを示している。
このときメレイアを言葉で追いつめる一方で頭を撫でたりさらには抱きしめたりと友好的スキンシップを連発しているのが、そのギャップゆえにかえって恐ろしい。

・カリギュラは、メレイアが絶命してからセゾニアに薬が解毒剤かを確かめ、喘息の薬だと言われて動揺する。次の台詞を口にするまでのいささか長い間の取り方に、彼の動揺の深さが表れています。
自分でも言う通り死ぬのが「少し早いか、少し遅いか」だけの話なのに今さら動揺するのは、そして手遅れになってから本当は何の薬だったのかを確認しようとするのは(セゾニアは見ただけで何の薬かわかるほど薬物に詳しいんだろうか?)、自らの手にかけて惨い死に様をもろに目の当たりにしたゆえか。あるいは冤罪で死なせた(つまりカリギュラの失態ということになる)がゆえか。
そして今さら薬の種類を確かめようとする態度にカリギュラの動揺を察していただろうセゾニアは、ごくあっさりと「喘息の薬」だと断言する。
あれが喘息の薬なら、メレイアには何の罪もなかったことになり、さらにメレイアを責め立てたカリギュラの論理は所詮穴だらけのものに過ぎなかったことになる。事実はどうあろうと解毒剤だと言うか誤魔化すかした方がカリギュラを傷つけなかったのでは?
この時セゾニアはどうも意地悪な気分になっていたように思う。すぐ後に「無様もいいとこ!」と吐き捨てた調子からしても。原因は・・・カリギュラがミュシュスの妻を抱いたため。平静を装っていてもセゾニアは内心嫉妬に苛まれていて、それがこの場面で噴き出したんではないだろうか。

(つづく)


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『カリギュラ』(2)-3(注・ネタバレしてます)

2009-02-04 00:38:04 | カリギュラ
・けたたましく鳴り渡る音楽が鐘のような音で断ち切られて第二幕が始まる。鐘?の重々しい、荘厳ともいえる響きが再び本編が開始したことを観客に示す。
鏡が全て取り去られ、ただ生成り色の壁の部屋にテーブルと椅子だけが置かれたセットは妙に狭苦しく(これまでは鏡に映る風景の分、実際より舞台に奥行きがあるように見えていた)、これまでにない圧迫感と味気なさを感じさせます。
これがケレアの屋敷だということを考えると、無謀な理想を追求するカリギュラに比して、彼の「まともさ」、その一面の面白みのなさを示したものかもしれません。

・ケレア宅でクーデター計画を語り合う面々。彼らがカリギュラに受けた苦痛がつぎつぎ紹介されるが、最初の方はなんかユーモラス。
とくに老貴族の「あたしのことを、かわいいお嬢さん、などと呼ぶ!ばかにしておる!死んでしまえ!」と言うのが、財産を横領されたの身内を殺されたのに比べると、えらく内容が軽くて笑えます。「死んでしまえ!」の妙に引っくり返った声のトーンがさらに笑いを誘う。
ミュシュスが(最後は第四の貴族が)いちいち「もう三年も!」と合いの手を入れるのも可笑しい。「三年」という数字がそこまで重要ですか。これらの短い合いの手の入り方がこの場面の会話をリズミカルに、深刻な場面のはずなのにコミカルに見せているのが見事。
ちなみにこの「女扱いにされてカリギュラに恨みを含む」というエピソードは史実においてはなんとケレア(カエレア)のもの(※8)。女呼ばわりされるケレア・・・。戯曲の彼に馴染んでいると衝撃的な事実です。

・この場面以降のシピオンは第一幕(三年前)ではボタンを留めていたシャツの前をはだけている。
これは体型的にはすでに青年である21歳の勝地くんの身体を第一幕では隠すことでシピオンの少年性を出し、第二幕以降は逆に見せることで三年間で彼が少年から青年へ成長していることを示そうとしたものかと思います。
このシピオンの衣装の問題については、半裸のカリギュラ・エリコンが秩序を乱す人間、服をきっちり着ているケレアが秩序側の人間であるのに対し、その中間の位置に立っていることを示したものである、との説を見かけました(※9)(ほかにセゾニアの衣装の色の変化などにも触れています)。なるほど。

・興奮のままに(カリギュラを倒しに)宮殿へ急ごうとする貴族たちをケレアが止める。「そんなに走って、どこへ?」「ここはわたしの家でもある」。
・・・『オールナイトニッポン』(こちら参照)のせいで真面目くさったケレアについ笑ってしまう。主人不在の間に家を荒らして詫びもしない貴族たちの態度も笑える。怒れよケレア。カミュはケレアの行動をツッコミどころとして描いてるんでしょうか。
ところでこの場面、宮殿に押しかけカリギュラを討とうとしたメンバーの中にシピオンも入っている。もしここでケレアが止めていなければ、彼は剣をもってカリギュラと戦っていたんでしょうか。
そうしたら案外この時点でカリギュラ殺害は成功していた気もします。エリコン曰く「おまえさんならカリギュラを殺せるとかな・・・・・・。奴さん、それを悪くは思わんだろう」ですから。

・「仲間になる気がないんなら、どこかへ行ってくれ。」と言われて「ところが仲間だと思っている。」と返し、「おしゃべりはたくさんだ!」と言われて「そのとおり、おしゃべりはたくさんだ」と返すケレア。
相手の言葉を繰り返すようにして技巧的に否定や肯定を行うケレアの話し方は「陛下におかれましては、すえながきご健康を」→「わが健康が、かたじけないと申しておる」、「これは驚きました。」→「驚くな」、「いつでも話せます」→「そうか。では黙っていろ」式のカリギュラの話し方とよく似ている。
論理的かつ修辞的なもってまわった、御託はいい、と言いたくなるような話し方(第四幕第四場では老貴族から「そんな風にしかつめらしく哲学しないでくれないかね、嫌いなんだ、そういうの」とついに言われてしまってます)。
他の貴族たちと比べると、彼の発言のやたらな長さが際立つ。立場を異にしながらもこの二人が多分に似通っているのがこれら台詞回しから浮かび上がってきます。
しかし「どこかへ行ってくれ」って、ここはケレアの家だ。

・右手を大きく動かしながら貴族たちを説得にかかるケレア。その語調も身振りもなかなかにアジテーター然としていて、クーデターの首謀者にふさわしい。
しかし彼が動かすのは右手だけで左手は下ろしたまま。このへんに、カリギュラを倒したのちは「首尾一貫した世界のなかでふたたび平安を見出したい」、静かに執筆に勤しむのが本分だと思っているケレアのスタンスが表れている気がします。

・貴族たちを説得する中でごくあっさりと、「きみたちの小さな屈辱に味方するわけではない」「ことが済んだら、きみたちのだれとも関わるつもりはない」など失礼な台詞を口にするケレア。
初期設定によれば彼は30歳のはずなので、貴族たちのほとんどより年下なんじゃないかと思うんですが。
失礼発言に先立って「けれど分かって欲しい」「念のために言うと」などと前振りするのも嫌味っぽいけれど、天然なんでしょうねきっと。

・老貴族いわく「許せますか、私のことを「可愛いお前」と呼ぶなんて」。
ケレアの小難しい長台詞が連続するくだりなので、こうしたちょっと間の抜けた発言がいい意味で緊張に風穴を開けてくれる。このへんのバランス感覚は実に優れた戯曲だと思います。

・ケレアが入ってきてからのやりとりの間、シピオンは一語も発しない。
そもそも第九場で部屋を出されるまでに彼が喋るのはケレアがやってくる前の一言、自分の名前が出た直後だけである。
このあたりは一人跳びぬけて若い(のだろう)シピオンの遠慮が見えるような気がします。まあカリギュラがやってきてからは、可能な限り目立ちたくなかったってのもあるでしょうが。

(つづく)

 

※8-スエトニウス『ローマ皇帝伝(下)』(国原吉之助訳、岩波書店、1986年)。「カリグラが正午に劇場からでてくるところを襲いかかることに決まったとき、護衛隊副官カッシウス・カエレアが主役を買って出た。この者はふだんから、カリグラに「耄碌、柔弱者、女々しい奴」と烙印をおされ、あらゆる罵詈雑言を投げつけられていた。それでこの者が合い言葉を求めたときはいつでも、カリグラは「生殖神プリアプス」とか「愛の女神ウェヌス」とかを与えていたし、あるときは、何かの理由で感謝の言葉を述べると、接吻をさせようと手を差しのべ,指を動かして淫らな真似もしていた。」

※9-東浦弘樹「カミュの『カリギュラ』の演出をめぐって―アントニオ・ディアズ・フロリアンと蜷川幸雄―」(『人文論究』第五十八巻第一号、関西学院大学人文学会、2008年5月)。「第1幕で、カエゾニアが黒いドレスを着ているのは、喪をあらわしているのだろうか。だとすれば、カエゾニアだけが、ドリュジラの喪に服している―彼女以外はだれも、カリギュラさえも、ドリュジラの喪に服していない―ということになるだろうか。その意味では、第2幕以降、カエゾニアが白のドレスに着替えるのは、なかなか興味深い。カリギュラは(中略)二度にわたって、ドリュジラの死の重要性を否定している。彼を絶望に陥れたのは、ひとりの女の死ではなく、人はみな死すべき存在であるという人間の条件なのであり、以降、第4幕第13場のカエゾニア殺害の場面まで、ドリュジラの名が口にされることは一度もない。カエゾニアが黒い衣裳から白い衣裳に着替えるのは、ドリュジラの死が忘れられ、なかったことにされていることをあらわしているのではないだろうか」「半裸のカリギュラとエリコンが社会の秩序を乱す側の人間であるのに対し、ケレアが秩序を守る側の人間であること、ケレアと同じくワイシャツを着ているが、胸をはだけているシピオンは、カリギュラ、エリコンとケレアの中間に位置する人間-破壊者であり冒涜(注・原文は旧字)者であるカリギュラを憎もうとしながら、憎めない人間-であることを示していると考えられるのである。」

 

2/4追記-前々回更新分の赤字部分の誤字(雑誌の号数を間違えてました。申し訳ありません)を修正しました。


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