また、権威や時代の風潮に対する反骨精神も両者に共通する要素だろう。井上さんの初期戯曲で、それまでと一変したダークな作風で人々を驚かせかつ高い評価を得た『藪原検校』(初演1973年)は、その年開場したばかりの西武劇場(後のパルコ劇場。2017年2月現在、建物の建て替え工事に伴い一時休館中)で上演されたが、当時ファッショナブルな若者文化の牽引役だった渋谷パルコのイメージにこの作品の泥臭さ・グロテスクさは何ともそぐわない。なぜそれまでのような、当然パルコ側もそうした作品を予想し期待していたであろう、言葉遊びに満ちた抱腹絶倒型の喜劇ではなく、あえてダークな芝居を書き下ろしたのか。
その理由を井上さんはパルコ劇場30周年を記念して2003年に出版された『プロデュース!』という本のインタビューで〈同じような作風の話ばかり書いていると飽きてくる、というより先がないんじゃないかと不安になってくる〉から、主人公が三段斬りという残酷な方法で処刑されるラストについては〈当時日本で流行りはじめたバフチンの「犠牲者がいないと祭りは成立しないという理論」の影響〉だと話している(※118)。
素直に受け取れば、これまでと違うテイストの作品を書きたいと思っていたタイミングでバフチンの本を読んだのでその理論を取り込んだ、となるのだろうが、パルコのコンセプトが「祝祭空間」だった(※119)ことを考え合わせると、パルコとパルコに代表されるお洒落で華やかな世界が成り立つ陰で犠牲になった者たちがいたはずだ、という一種のあてこすりがこの芝居の裏テーマだったんじゃないかと思えてくる。後に新国立劇場のこけら落としに書き下ろした『紙屋町さくらホテル』について「天皇の戦争責任を問うような芝居は上演できないと拒否されるような戯曲を書きたいと思った(笑)。」(※120)と語った井上さんならやりかねない。
上掲のインタビューの前文でインタビュアーの扇田昭彦さんが「渋谷を若者たちが集まる街に変えたこのファッショナブルな劇場のために、井上ひさしはあえてダークで残酷な味わいのある音楽劇の秀作を書いた。」(傍線引用者)(※121)と書いているのも、井上さんがたまたま目先を変えてダークな作品を書きたくなったわけではなく西武劇場を皮肉るためにわざとダークな作品をぶつけたのだと匂わせてるんじゃないか。
(ちなみに井上さんはつかこうへいさんとの対談の中で、当時花形職業だったコピーライターに代表される高度経済成長期の文化への違和感を語っている。西武百貨店の宣伝コピーとして一世を風靡した「おいしい生活」(1982年)につかさんが批判的に言及した際に積極的に乗っていかなかった(※122)のは、出世作というべき『藪原検校』と続く江戸三部作の二つ目『雨』を上演した(そして上演予定だった芝居『パズル』を台本が上がらず中止にしたことで多大な迷惑をかけた)パルコ─西武グループに遠慮があったものか。もっとも同じ西武系列でも西武ライオンズのオーナー堤義明氏のことは名指しで批判しているのだが(※123)。)
一方の蜷川さんも1981年に西武劇場で唐十郎さん作の『下谷万年町物語』を上演しているが、こちらは蜷川さん曰く「百人のおかまの話」(※124)。しかもパルコ入口に終戦直後の掘っ立て小屋を作るという、これまたパルコのイメージとは対極のような芝居で、「当時、スキャンダルな話題になった」というのも無理からぬところ。
なぜこんな「露悪的な」作品を作ったのかについて、蜷川さんは上でも取り上げた『プロデュース!』掲載のインタビューでは30周年記念の本だけに「(パルコの)格好良さと違う形で、僕たちの演劇を存在させたいな、と思いました。今でも時々あるんだけれど、ある状況に対して違和感やノイズを意図的に入れたくなることがある」(※125)と比較的穏当な表現を選んでいるが、※124の対談では「唐さんと二人で、パルコの建物を「このビルを包んじゃおうか?」「なんとかして壊す方法はないか」と話しました。高度成長期を経済発展してきた虚像のパルコが勢いを持ってた時代の建物に砂利をひいたり、砂の家をつくろうかと唐さんと話したわけです。」とより過激な発言をしている。
特にパルコを「虚像」と言い切り、その外観を損なうような道具立てや演出をことさら導入する挑戦的な姿勢には驚かされる。そこにはパルコ─西武グループが牽引していたファッショナブルで軽佻浮薄な生活スタイルに対する違和感と反感がはっきりと感じられる(扇田さんによれば、掘っ立て小屋を建てるなどの露悪的仕掛けは唐さんの主導だったようだが(※126))。
反感といってもオファーを受け入れたわけだから心底嫌がってるわけではなく、ちょっと混ぜっかえしてみたいという感覚─蜷川さん言うところの「違和感やノイズを意図的に入れたくなる」気分を刺激されたものだろう。
かたやこれまでのイメージに反するダークな芝居でパルコ文化を暗に皮肉り、かたやそのファッショナブルなイメージをわざと汚してみせる、そのうえでこの皮肉に相手(パルコ)が気づくか、どこまでこちらの無茶を相手が許容できるかを試していたようにも思える。
実際、こうしたエピソードを読んでいると、当時のパルコの上層部は大物だったんだなあと感じます。「とにかく君ら、ピストルだけはぶっ放さないでくれ」(※124参照)という言葉がその度外れの寛容さを象徴している。
井上さん没後の座談会で作家の辻井喬さん=元セゾングループ代表でパルコの生みの親である堤清二さんが「井上さんの作品は、時代や世の中に対して非常に鋭い批判・批評にあふれている。しかし不思議なことに、それは肩を怒らせての批判ではなく、井上さん生来の感性でもって受けとめたこと、それ自体が批判になっている。そういう批判のあり方というのはとても独特で、以前から井上ひさしという作家に興味をもっていたし、その実力を尊敬していたんです。」(※127)と語っているが、これはオープン間もないパルコ劇場で『藪原検校』が上演されたことについての発言なので、辻井喬としてより堤清二として、その「鋭い批判・批評」の矛を向けられているのが「時代や世の中」を動かしている自分たち自身であることを承知したうえで井上さんの起用を認めたという含みがうかがえる。
彼とその信任を受けたパルコ専務(のち社長)の増田通二さんがいればこそ、パルコのこの鷹揚さと大躍進があったのだろう(※128)(※129)(※130)。
ともあれこうした流行や権威に対し違和感を表明したくなる反骨精神も井上さんと蜷川さんに共通する要素といえる。そして井上さんの目には「世界のニナガワ」もまた違和感を表明し挑戦すべき権威として映っていたのではないかと思うのだ。
※118-「──グロテスクでダークな世界にびっくりしました。特に主人公が三段斬りという残酷な刑を受けるシーンは衝撃的でした。 井上「あの頃はバフチーン(思想家ミハイール・バフチーン)が日本ではやり始めた時期なんです。たまたま彼の著書で、犠牲者がいないと祭りは成立しないという理論を読んだばっかりだったんですね。劇中で塙保己市が主人公の藪原検校を極刑に処するよう進言するあたりはバフチーンですね。それから山口昌男さんを愛読、というより熱読してましたから、バフチーンと山口昌男さんの手の上で踊っていたようなものでした。」 ─それまでの抱腹絶倒型の喜劇とは異質の作品を書いたのはどうしてですか。 井上「劇作家、作家はみんな同じだと思いますけど、お客さんは面白いと言っているのに、作者はだんだん飽きてくるんです。というか、危険を感じるんです。ちょっと違う方向に抜け出さないと、先がないんじゃないか。僕の中には、東北と東京をどうつなぐかというテーマがいつもあるんですね。そこで、目が見えない東北出身の人間が生き馬の目を抜く江戸でどう生きていくかという物語が生まれた。」(インタビュー・構成 扇田昭彦「井上ひさしインタビュー 渋谷を変えた劇場でダークな喜劇の実験」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年))
※119-「商業スペースを祝祭空間としてみなすコンセプトをさらに押し進めて、人々をその空間の祭司のひとりとみなすPARCOは、最上階に君臨する劇場によってシンボライズされていた。」(長谷部浩「イメージ戦略としての劇場」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)
※120-「『紙屋町さくらホテル』の場合は、新国立劇場から、「天皇の戦争責任を問うような芝居は上演できないと拒否されるような戯曲を書きたいと思った(笑)。不純な動機です。不思議なもので、不純な動機のときには本が上がる(笑)。」(井上ひさし・平田オリザ『話し言葉の日本語』(新潮文庫、2014年)収録「戯曲の構造と言葉」、初出1998年)
※121-「1970年代、開場したばかりのパルコ劇場の評価を一気に高めたのは、『藪原検校』『雨』などの井上ひさしの戯曲だった。 渋谷を若者たちが集まる街に変えたこのファッショナブルな劇場のために、井上ひさしはあえてダークで残酷な味わいのある音楽劇の秀作を書いた。 その後の劇作術の変化にも触れながら、パルコ劇場とのかかわりを語る。」(インタビュー・構成 扇田昭彦「井上ひさしインタビュー 渋谷を変えた劇場でダークな喜劇の実験」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)
※122-「つか「あれはどういう人種なんですかね、コピーライターというのは。「おいしい生活」っていったって、スポンサーがデパートである必要はない。なんだっていいわけです。そのデパートの持つ構造から出たコピーじゃなく、コピーでそのデパートの構造をつくろうとしてると言ってるらしいんですけど。ヒットしたからつじつまが合っちゃう。」 井上 「やはり「逆立ち現象」のひとつだと思うんですけど・・・・・・。」(「広告に見る逆立ち現象」、井上ひさし・つかこうへい『国ゆたかにして義を忘れ』(角川書店、1985年)収録、初出1984年)
※123-「西武が嫌いな理由がやっと解った。わたしはどうもこの堤義明という人物が苦手なのだ。選手に高給を払うところは好きだが、税金を払わずにすませているところが気に入らないのである。 コクド(旧国土計画)という四〇兆円の資産を有する大企業がある。ところがこのコクドが八六年から八八年に支払った法人税はゼロだ。(中略)さてこのコクドの四〇パーセントを所有する大株主が西武のオーナーの堤氏である。べつに言えば、この国の税金を払わない人びとの御大将が堤氏なのだ。冗談ではない、そんな御仁の持つ球団にわたしたちの大事な夢を托すことができるものか。」(「胸のマークを読み替えて」、井上ひさし『文学強盗の最後の仕事』(中公文庫、1998年)収録、初出1992年)
※124-「渡辺「「下谷万年町物語」の話に行きますけど、八一年に、いまのパルコ劇場、当時は西武劇場だった、渋谷の最先端のファッションビルにある劇場で、「下谷万年町物語」があるって言うんで、当時、スキャンダルな話題になったんですね。」 蜷川「できたものもすごかった。百人のおかまの話ですから。全国から美少年、それからホモセクシュアルの人もたくさんくるわけです。いろんな人がいました。売れる前のアラーキーが写真を撮ってくれた。唐さんと二人で、パルコの建物を「このビルを包んじゃおうか?」「なんとかして壊す方法はないか」と話しました。高度成長期を経済発展してきた虚像のパルコが勢いを持ってた時代の建物に砂利をひいたり、砂の家をつくろうかと唐さんと話したわけです。パルコの社長に呼ばれて「とにかく君ら、ピストルだけはぶっ放さないでくれ」と言われました。」(唐十郎ラ蜷川幸雄(聞き手・渡辺弘)「劇場都市東京の行方」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年)収録、初出2011年)
※125-「唐さんとまた仕事したいね、と言っていたら、パルコから話がありました。当時、パルコは、石岡瑛子さんが広告戦略のアートディレクションを担当し、最新の文化メッセージを発信している場所というイメージが強かった。その格好良さと違う形で、僕たちの演劇を存在させたいな、と思いました。今でも時々あるんだけれど、ある状況に対して違和感やノイズを意図的に入れたくなることがある。唐さんと二人、道路を隔てた反対側で、ファッショナブルなパルコのビルを見ているうちに「オカマを登場させ、それを公募しよう。パルコ入口に終戦直後の掘っ立て小屋を作ろう」とか、露悪的な話になってね。60年代後半に始まった小劇場運動の僕たちに共通するのは、ある種の山師のような面白がり方で、スキャンダリズムを逆手にとりながら社会的な事件にしようとする。公募で選んだ彼らを公園通りに寝転がして、アラーキー(荒木経惟)に宣伝用の写真を撮ってもらった。」(インタビュー・構成 高橋豊「蜷川幸雄インタビュー ファッショナブルな街にノイズを」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)
※126-「反権力志向が強いアングラ演劇出身の唐としては、『下谷万年町物語』の上演に際しても、パルコにすんなり収まる印象は与えたくなかったのだろう。そこで唐は蜷川、朝倉摂らと話し合い、パルコ側の了解も得て、上演期間中、パルコのビルの前に長屋風の小屋を建て、汚れた洗濯ものなどをいっぱいぶらさげた。「六〇年代」の申し子の唐が新しい場に打って出るためには、そうした異物で「武装」することが必要だったのだ。」(扇田昭彦「西武劇場「下谷万年町物語」 1981」、『こんな舞台を観てきた 扇田昭彦の日本現代演劇五〇年史』(河出書房新社、2015年)収録、初出2000年)
※127-辻井喬+成田龍一+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学③ 自伝的作品とその時代」(『すばる 8月号』、集英社、2012年)
※128-「渋谷のパルコ劇場(一九七三年開場。八五年までは西武劇場)は、今はニール・サイモン、三谷幸喜をはじめとする都会的でおしゃれな喜劇を上演する劇場というイメージが強いが、以前はもっと破天荒な演目も登場する小屋だった。その代表的な例が、西武劇場プロデュースで一九八一年の二月から三月にかけて一カ月間上演された唐十郎作、蜷川幸雄演出の『下谷万年町物語』(朝倉摂美術、吉井澄雄照明、猪俣公章音楽)である。」(扇田昭彦「西武劇場「下谷万年町物語」 1981」、『こんな舞台を観てきた 扇田昭彦の日本現代演劇五〇年史』(河出書房新社、2015年)収録、初出2000年)
※129-「当時、パルコ専務だった増田通二さんから「砂だけは少なくしてくれ」と言われ、小屋を小さくしました。「パルコ文化」と呼ばれた、増田さんの文化戦略は、攻撃的な大胆さに魅力があり、製作を担当していた山田潤一さんらの支えで、僕たちは面白い仕事をさせてもらったと思ってます。」(インタビュー・構成 高橋豊「蜷川幸雄インタビュー ファッショナブルな街にノイズを」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)
※130-「文化的な話題性に富み、時代の動きを反映し、観客の入りがある程度見込めるものなら、何でも上演しよう、というのがパルコ劇場の基本姿勢であるように思われる。その柔軟性と幅の広さが結果としていくつの好企画を生んできた。(中略)パルコ劇場は新しいタイプの商業劇場だが、ここにあるのは「トレンド」や「情報発信」の包装紙にくるめばどんな実験劇でも上演してしまう融通のきく商業主義なのだ。」(扇田昭彦「あとがき」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)
その理由を井上さんはパルコ劇場30周年を記念して2003年に出版された『プロデュース!』という本のインタビューで〈同じような作風の話ばかり書いていると飽きてくる、というより先がないんじゃないかと不安になってくる〉から、主人公が三段斬りという残酷な方法で処刑されるラストについては〈当時日本で流行りはじめたバフチンの「犠牲者がいないと祭りは成立しないという理論」の影響〉だと話している(※118)。
素直に受け取れば、これまでと違うテイストの作品を書きたいと思っていたタイミングでバフチンの本を読んだのでその理論を取り込んだ、となるのだろうが、パルコのコンセプトが「祝祭空間」だった(※119)ことを考え合わせると、パルコとパルコに代表されるお洒落で華やかな世界が成り立つ陰で犠牲になった者たちがいたはずだ、という一種のあてこすりがこの芝居の裏テーマだったんじゃないかと思えてくる。後に新国立劇場のこけら落としに書き下ろした『紙屋町さくらホテル』について「天皇の戦争責任を問うような芝居は上演できないと拒否されるような戯曲を書きたいと思った(笑)。」(※120)と語った井上さんならやりかねない。
上掲のインタビューの前文でインタビュアーの扇田昭彦さんが「渋谷を若者たちが集まる街に変えたこのファッショナブルな劇場のために、井上ひさしはあえてダークで残酷な味わいのある音楽劇の秀作を書いた。」(傍線引用者)(※121)と書いているのも、井上さんがたまたま目先を変えてダークな作品を書きたくなったわけではなく西武劇場を皮肉るためにわざとダークな作品をぶつけたのだと匂わせてるんじゃないか。
(ちなみに井上さんはつかこうへいさんとの対談の中で、当時花形職業だったコピーライターに代表される高度経済成長期の文化への違和感を語っている。西武百貨店の宣伝コピーとして一世を風靡した「おいしい生活」(1982年)につかさんが批判的に言及した際に積極的に乗っていかなかった(※122)のは、出世作というべき『藪原検校』と続く江戸三部作の二つ目『雨』を上演した(そして上演予定だった芝居『パズル』を台本が上がらず中止にしたことで多大な迷惑をかけた)パルコ─西武グループに遠慮があったものか。もっとも同じ西武系列でも西武ライオンズのオーナー堤義明氏のことは名指しで批判しているのだが(※123)。)
一方の蜷川さんも1981年に西武劇場で唐十郎さん作の『下谷万年町物語』を上演しているが、こちらは蜷川さん曰く「百人のおかまの話」(※124)。しかもパルコ入口に終戦直後の掘っ立て小屋を作るという、これまたパルコのイメージとは対極のような芝居で、「当時、スキャンダルな話題になった」というのも無理からぬところ。
なぜこんな「露悪的な」作品を作ったのかについて、蜷川さんは上でも取り上げた『プロデュース!』掲載のインタビューでは30周年記念の本だけに「(パルコの)格好良さと違う形で、僕たちの演劇を存在させたいな、と思いました。今でも時々あるんだけれど、ある状況に対して違和感やノイズを意図的に入れたくなることがある」(※125)と比較的穏当な表現を選んでいるが、※124の対談では「唐さんと二人で、パルコの建物を「このビルを包んじゃおうか?」「なんとかして壊す方法はないか」と話しました。高度成長期を経済発展してきた虚像のパルコが勢いを持ってた時代の建物に砂利をひいたり、砂の家をつくろうかと唐さんと話したわけです。」とより過激な発言をしている。
特にパルコを「虚像」と言い切り、その外観を損なうような道具立てや演出をことさら導入する挑戦的な姿勢には驚かされる。そこにはパルコ─西武グループが牽引していたファッショナブルで軽佻浮薄な生活スタイルに対する違和感と反感がはっきりと感じられる(扇田さんによれば、掘っ立て小屋を建てるなどの露悪的仕掛けは唐さんの主導だったようだが(※126))。
反感といってもオファーを受け入れたわけだから心底嫌がってるわけではなく、ちょっと混ぜっかえしてみたいという感覚─蜷川さん言うところの「違和感やノイズを意図的に入れたくなる」気分を刺激されたものだろう。
かたやこれまでのイメージに反するダークな芝居でパルコ文化を暗に皮肉り、かたやそのファッショナブルなイメージをわざと汚してみせる、そのうえでこの皮肉に相手(パルコ)が気づくか、どこまでこちらの無茶を相手が許容できるかを試していたようにも思える。
実際、こうしたエピソードを読んでいると、当時のパルコの上層部は大物だったんだなあと感じます。「とにかく君ら、ピストルだけはぶっ放さないでくれ」(※124参照)という言葉がその度外れの寛容さを象徴している。
井上さん没後の座談会で作家の辻井喬さん=元セゾングループ代表でパルコの生みの親である堤清二さんが「井上さんの作品は、時代や世の中に対して非常に鋭い批判・批評にあふれている。しかし不思議なことに、それは肩を怒らせての批判ではなく、井上さん生来の感性でもって受けとめたこと、それ自体が批判になっている。そういう批判のあり方というのはとても独特で、以前から井上ひさしという作家に興味をもっていたし、その実力を尊敬していたんです。」(※127)と語っているが、これはオープン間もないパルコ劇場で『藪原検校』が上演されたことについての発言なので、辻井喬としてより堤清二として、その「鋭い批判・批評」の矛を向けられているのが「時代や世の中」を動かしている自分たち自身であることを承知したうえで井上さんの起用を認めたという含みがうかがえる。
彼とその信任を受けたパルコ専務(のち社長)の増田通二さんがいればこそ、パルコのこの鷹揚さと大躍進があったのだろう(※128)(※129)(※130)。
ともあれこうした流行や権威に対し違和感を表明したくなる反骨精神も井上さんと蜷川さんに共通する要素といえる。そして井上さんの目には「世界のニナガワ」もまた違和感を表明し挑戦すべき権威として映っていたのではないかと思うのだ。
※118-「──グロテスクでダークな世界にびっくりしました。特に主人公が三段斬りという残酷な刑を受けるシーンは衝撃的でした。 井上「あの頃はバフチーン(思想家ミハイール・バフチーン)が日本ではやり始めた時期なんです。たまたま彼の著書で、犠牲者がいないと祭りは成立しないという理論を読んだばっかりだったんですね。劇中で塙保己市が主人公の藪原検校を極刑に処するよう進言するあたりはバフチーンですね。それから山口昌男さんを愛読、というより熱読してましたから、バフチーンと山口昌男さんの手の上で踊っていたようなものでした。」 ─それまでの抱腹絶倒型の喜劇とは異質の作品を書いたのはどうしてですか。 井上「劇作家、作家はみんな同じだと思いますけど、お客さんは面白いと言っているのに、作者はだんだん飽きてくるんです。というか、危険を感じるんです。ちょっと違う方向に抜け出さないと、先がないんじゃないか。僕の中には、東北と東京をどうつなぐかというテーマがいつもあるんですね。そこで、目が見えない東北出身の人間が生き馬の目を抜く江戸でどう生きていくかという物語が生まれた。」(インタビュー・構成 扇田昭彦「井上ひさしインタビュー 渋谷を変えた劇場でダークな喜劇の実験」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年))
※119-「商業スペースを祝祭空間としてみなすコンセプトをさらに押し進めて、人々をその空間の祭司のひとりとみなすPARCOは、最上階に君臨する劇場によってシンボライズされていた。」(長谷部浩「イメージ戦略としての劇場」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)
※120-「『紙屋町さくらホテル』の場合は、新国立劇場から、「天皇の戦争責任を問うような芝居は上演できないと拒否されるような戯曲を書きたいと思った(笑)。不純な動機です。不思議なもので、不純な動機のときには本が上がる(笑)。」(井上ひさし・平田オリザ『話し言葉の日本語』(新潮文庫、2014年)収録「戯曲の構造と言葉」、初出1998年)
※121-「1970年代、開場したばかりのパルコ劇場の評価を一気に高めたのは、『藪原検校』『雨』などの井上ひさしの戯曲だった。 渋谷を若者たちが集まる街に変えたこのファッショナブルな劇場のために、井上ひさしはあえてダークで残酷な味わいのある音楽劇の秀作を書いた。 その後の劇作術の変化にも触れながら、パルコ劇場とのかかわりを語る。」(インタビュー・構成 扇田昭彦「井上ひさしインタビュー 渋谷を変えた劇場でダークな喜劇の実験」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)
※122-「つか「あれはどういう人種なんですかね、コピーライターというのは。「おいしい生活」っていったって、スポンサーがデパートである必要はない。なんだっていいわけです。そのデパートの持つ構造から出たコピーじゃなく、コピーでそのデパートの構造をつくろうとしてると言ってるらしいんですけど。ヒットしたからつじつまが合っちゃう。」 井上 「やはり「逆立ち現象」のひとつだと思うんですけど・・・・・・。」(「広告に見る逆立ち現象」、井上ひさし・つかこうへい『国ゆたかにして義を忘れ』(角川書店、1985年)収録、初出1984年)
※123-「西武が嫌いな理由がやっと解った。わたしはどうもこの堤義明という人物が苦手なのだ。選手に高給を払うところは好きだが、税金を払わずにすませているところが気に入らないのである。 コクド(旧国土計画)という四〇兆円の資産を有する大企業がある。ところがこのコクドが八六年から八八年に支払った法人税はゼロだ。(中略)さてこのコクドの四〇パーセントを所有する大株主が西武のオーナーの堤氏である。べつに言えば、この国の税金を払わない人びとの御大将が堤氏なのだ。冗談ではない、そんな御仁の持つ球団にわたしたちの大事な夢を托すことができるものか。」(「胸のマークを読み替えて」、井上ひさし『文学強盗の最後の仕事』(中公文庫、1998年)収録、初出1992年)
※124-「渡辺「「下谷万年町物語」の話に行きますけど、八一年に、いまのパルコ劇場、当時は西武劇場だった、渋谷の最先端のファッションビルにある劇場で、「下谷万年町物語」があるって言うんで、当時、スキャンダルな話題になったんですね。」 蜷川「できたものもすごかった。百人のおかまの話ですから。全国から美少年、それからホモセクシュアルの人もたくさんくるわけです。いろんな人がいました。売れる前のアラーキーが写真を撮ってくれた。唐さんと二人で、パルコの建物を「このビルを包んじゃおうか?」「なんとかして壊す方法はないか」と話しました。高度成長期を経済発展してきた虚像のパルコが勢いを持ってた時代の建物に砂利をひいたり、砂の家をつくろうかと唐さんと話したわけです。パルコの社長に呼ばれて「とにかく君ら、ピストルだけはぶっ放さないでくれ」と言われました。」(唐十郎ラ蜷川幸雄(聞き手・渡辺弘)「劇場都市東京の行方」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年)収録、初出2011年)
※125-「唐さんとまた仕事したいね、と言っていたら、パルコから話がありました。当時、パルコは、石岡瑛子さんが広告戦略のアートディレクションを担当し、最新の文化メッセージを発信している場所というイメージが強かった。その格好良さと違う形で、僕たちの演劇を存在させたいな、と思いました。今でも時々あるんだけれど、ある状況に対して違和感やノイズを意図的に入れたくなることがある。唐さんと二人、道路を隔てた反対側で、ファッショナブルなパルコのビルを見ているうちに「オカマを登場させ、それを公募しよう。パルコ入口に終戦直後の掘っ立て小屋を作ろう」とか、露悪的な話になってね。60年代後半に始まった小劇場運動の僕たちに共通するのは、ある種の山師のような面白がり方で、スキャンダリズムを逆手にとりながら社会的な事件にしようとする。公募で選んだ彼らを公園通りに寝転がして、アラーキー(荒木経惟)に宣伝用の写真を撮ってもらった。」(インタビュー・構成 高橋豊「蜷川幸雄インタビュー ファッショナブルな街にノイズを」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)
※126-「反権力志向が強いアングラ演劇出身の唐としては、『下谷万年町物語』の上演に際しても、パルコにすんなり収まる印象は与えたくなかったのだろう。そこで唐は蜷川、朝倉摂らと話し合い、パルコ側の了解も得て、上演期間中、パルコのビルの前に長屋風の小屋を建て、汚れた洗濯ものなどをいっぱいぶらさげた。「六〇年代」の申し子の唐が新しい場に打って出るためには、そうした異物で「武装」することが必要だったのだ。」(扇田昭彦「西武劇場「下谷万年町物語」 1981」、『こんな舞台を観てきた 扇田昭彦の日本現代演劇五〇年史』(河出書房新社、2015年)収録、初出2000年)
※127-辻井喬+成田龍一+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学③ 自伝的作品とその時代」(『すばる 8月号』、集英社、2012年)
※128-「渋谷のパルコ劇場(一九七三年開場。八五年までは西武劇場)は、今はニール・サイモン、三谷幸喜をはじめとする都会的でおしゃれな喜劇を上演する劇場というイメージが強いが、以前はもっと破天荒な演目も登場する小屋だった。その代表的な例が、西武劇場プロデュースで一九八一年の二月から三月にかけて一カ月間上演された唐十郎作、蜷川幸雄演出の『下谷万年町物語』(朝倉摂美術、吉井澄雄照明、猪俣公章音楽)である。」(扇田昭彦「西武劇場「下谷万年町物語」 1981」、『こんな舞台を観てきた 扇田昭彦の日本現代演劇五〇年史』(河出書房新社、2015年)収録、初出2000年)
※129-「当時、パルコ専務だった増田通二さんから「砂だけは少なくしてくれ」と言われ、小屋を小さくしました。「パルコ文化」と呼ばれた、増田さんの文化戦略は、攻撃的な大胆さに魅力があり、製作を担当していた山田潤一さんらの支えで、僕たちは面白い仕事をさせてもらったと思ってます。」(インタビュー・構成 高橋豊「蜷川幸雄インタビュー ファッショナブルな街にノイズを」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)
※130-「文化的な話題性に富み、時代の動きを反映し、観客の入りがある程度見込めるものなら、何でも上演しよう、というのがパルコ劇場の基本姿勢であるように思われる。その柔軟性と幅の広さが結果としていくつの好企画を生んできた。(中略)パルコ劇場は新しいタイプの商業劇場だが、ここにあるのは「トレンド」や「情報発信」の包装紙にくるめばどんな実験劇でも上演してしまう融通のきく商業主義なのだ。」(扇田昭彦「あとがき」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)