about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(3)-13(注・ネタバレしてます)

2017-02-15 19:43:28 | ムサシ
また、権威や時代の風潮に対する反骨精神も両者に共通する要素だろう。井上さんの初期戯曲で、それまでと一変したダークな作風で人々を驚かせかつ高い評価を得た『藪原検校』(初演1973年)は、その年開場したばかりの西武劇場(後のパルコ劇場。2017年2月現在、建物の建て替え工事に伴い一時休館中)で上演されたが、当時ファッショナブルな若者文化の牽引役だった渋谷パルコのイメージにこの作品の泥臭さ・グロテスクさは何ともそぐわない。なぜそれまでのような、当然パルコ側もそうした作品を予想し期待していたであろう、言葉遊びに満ちた抱腹絶倒型の喜劇ではなく、あえてダークな芝居を書き下ろしたのか。

その理由を井上さんはパルコ劇場30周年を記念して2003年に出版された『プロデュース!』という本のインタビューで〈同じような作風の話ばかり書いていると飽きてくる、というより先がないんじゃないかと不安になってくる〉から、主人公が三段斬りという残酷な方法で処刑されるラストについては〈当時日本で流行りはじめたバフチンの「犠牲者がいないと祭りは成立しないという理論」の影響〉だと話している(※118)
素直に受け取れば、これまでと違うテイストの作品を書きたいと思っていたタイミングでバフチンの本を読んだのでその理論を取り込んだ、となるのだろうが、パルコのコンセプトが「祝祭空間」だった(※119)ことを考え合わせると、パルコとパルコに代表されるお洒落で華やかな世界が成り立つ陰で犠牲になった者たちがいたはずだ、という一種のあてこすりがこの芝居の裏テーマだったんじゃないかと思えてくる。後に新国立劇場のこけら落としに書き下ろした『紙屋町さくらホテル』について「天皇の戦争責任を問うような芝居は上演できないと拒否されるような戯曲を書きたいと思った(笑)。」(※120)と語った井上さんならやりかねない。
上掲のインタビューの前文でインタビュアーの扇田昭彦さんが「渋谷を若者たちが集まる街に変えたこのファッショナブルな劇場のために、井上ひさしはあえてダークで残酷な味わいのある音楽劇の秀作を書いた。」(傍線引用者)(※121)と書いているのも、井上さんがたまたま目先を変えてダークな作品を書きたくなったわけではなく西武劇場を皮肉るためにわざとダークな作品をぶつけたのだと匂わせてるんじゃないか。

(ちなみに井上さんはつかこうへいさんとの対談の中で、当時花形職業だったコピーライターに代表される高度経済成長期の文化への違和感を語っている。西武百貨店の宣伝コピーとして一世を風靡した「おいしい生活」(1982年)につかさんが批判的に言及した際に積極的に乗っていかなかった(※122)のは、出世作というべき『藪原検校』と続く江戸三部作の二つ目『雨』を上演した(そして上演予定だった芝居『パズル』を台本が上がらず中止にしたことで多大な迷惑をかけた)パルコ─西武グループに遠慮があったものか。もっとも同じ西武系列でも西武ライオンズのオーナー堤義明氏のことは名指しで批判しているのだが(※123)。

一方の蜷川さんも1981年に西武劇場で唐十郎さん作の『下谷万年町物語』を上演しているが、こちらは蜷川さん曰く「百人のおかまの話」(※124)。しかもパルコ入口に終戦直後の掘っ立て小屋を作るという、これまたパルコのイメージとは対極のような芝居で、「当時、スキャンダルな話題になった」というのも無理からぬところ。
なぜこんな「露悪的な」作品を作ったのかについて、蜷川さんは上でも取り上げた『プロデュース!』掲載のインタビューでは30周年記念の本だけに「(パルコの)格好良さと違う形で、僕たちの演劇を存在させたいな、と思いました。今でも時々あるんだけれど、ある状況に対して違和感やノイズを意図的に入れたくなることがある」(※125)と比較的穏当な表現を選んでいるが、※124の対談では「唐さんと二人で、パルコの建物を「このビルを包んじゃおうか?」「なんとかして壊す方法はないか」と話しました。高度成長期を経済発展してきた虚像のパルコが勢いを持ってた時代の建物に砂利をひいたり、砂の家をつくろうかと唐さんと話したわけです。」とより過激な発言をしている。
特にパルコを「虚像」と言い切り、その外観を損なうような道具立てや演出をことさら導入する挑戦的な姿勢には驚かされる。そこにはパルコ─西武グループが牽引していたファッショナブルで軽佻浮薄な生活スタイルに対する違和感と反感がはっきりと感じられる(扇田さんによれば、掘っ立て小屋を建てるなどの露悪的仕掛けは唐さんの主導だったようだが(※126))。
反感といってもオファーを受け入れたわけだから心底嫌がってるわけではなく、ちょっと混ぜっかえしてみたいという感覚─蜷川さん言うところの「違和感やノイズを意図的に入れたくなる」気分を刺激されたものだろう。

かたやこれまでのイメージに反するダークな芝居でパルコ文化を暗に皮肉り、かたやそのファッショナブルなイメージをわざと汚してみせる、そのうえでこの皮肉に相手(パルコ)が気づくか、どこまでこちらの無茶を相手が許容できるかを試していたようにも思える。
実際、こうしたエピソードを読んでいると、当時のパルコの上層部は大物だったんだなあと感じます。「とにかく君ら、ピストルだけはぶっ放さないでくれ」(※124参照)という言葉がその度外れの寛容さを象徴している。
井上さん没後の座談会で作家の辻井喬さん=元セゾングループ代表でパルコの生みの親である堤清二さんが「井上さんの作品は、時代や世の中に対して非常に鋭い批判・批評にあふれている。しかし不思議なことに、それは肩を怒らせての批判ではなく、井上さん生来の感性でもって受けとめたこと、それ自体が批判になっている。そういう批判のあり方というのはとても独特で、以前から井上ひさしという作家に興味をもっていたし、その実力を尊敬していたんです。」(※127)と語っているが、これはオープン間もないパルコ劇場で『藪原検校』が上演されたことについての発言なので、辻井喬としてより堤清二として、その「鋭い批判・批評」の矛を向けられているのが「時代や世の中」を動かしている自分たち自身であることを承知したうえで井上さんの起用を認めたという含みがうかがえる。
彼とその信任を受けたパルコ専務(のち社長)の増田通二さんがいればこそ、パルコのこの鷹揚さと大躍進があったのだろう(※128)(※129)(※130)

ともあれこうした流行や権威に対し違和感を表明したくなる反骨精神も井上さんと蜷川さんに共通する要素といえる。そして井上さんの目には「世界のニナガワ」もまた違和感を表明し挑戦すべき権威として映っていたのではないかと思うのだ。




※118-「──グロテスクでダークな世界にびっくりしました。特に主人公が三段斬りという残酷な刑を受けるシーンは衝撃的でした。 井上「あの頃はバフチーン(思想家ミハイール・バフチーン)が日本ではやり始めた時期なんです。たまたま彼の著書で、犠牲者がいないと祭りは成立しないという理論を読んだばっかりだったんですね。劇中で塙保己市が主人公の藪原検校を極刑に処するよう進言するあたりはバフチーンですね。それから山口昌男さんを愛読、というより熱読してましたから、バフチーンと山口昌男さんの手の上で踊っていたようなものでした。」 ─それまでの抱腹絶倒型の喜劇とは異質の作品を書いたのはどうしてですか。 井上「劇作家、作家はみんな同じだと思いますけど、お客さんは面白いと言っているのに、作者はだんだん飽きてくるんです。というか、危険を感じるんです。ちょっと違う方向に抜け出さないと、先がないんじゃないか。僕の中には、東北と東京をどうつなぐかというテーマがいつもあるんですね。そこで、目が見えない東北出身の人間が生き馬の目を抜く江戸でどう生きていくかという物語が生まれた。」(インタビュー・構成 扇田昭彦「井上ひさしインタビュー 渋谷を変えた劇場でダークな喜劇の実験」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年))

※119-「商業スペースを祝祭空間としてみなすコンセプトをさらに押し進めて、人々をその空間の祭司のひとりとみなすPARCOは、最上階に君臨する劇場によってシンボライズされていた。」(長谷部浩「イメージ戦略としての劇場」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)

※120-「『紙屋町さくらホテル』の場合は、新国立劇場から、「天皇の戦争責任を問うような芝居は上演できないと拒否されるような戯曲を書きたいと思った(笑)。不純な動機です。不思議なもので、不純な動機のときには本が上がる(笑)。」(井上ひさし・平田オリザ『話し言葉の日本語』(新潮文庫、2014年)収録「戯曲の構造と言葉」、初出1998年)

※121-「1970年代、開場したばかりのパルコ劇場の評価を一気に高めたのは、『藪原検校』『雨』などの井上ひさしの戯曲だった。 渋谷を若者たちが集まる街に変えたこのファッショナブルな劇場のために、井上ひさしはあえてダークで残酷な味わいのある音楽劇の秀作を書いた。 その後の劇作術の変化にも触れながら、パルコ劇場とのかかわりを語る。」(インタビュー・構成 扇田昭彦「井上ひさしインタビュー 渋谷を変えた劇場でダークな喜劇の実験」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)

※122-「つか「あれはどういう人種なんですかね、コピーライターというのは。「おいしい生活」っていったって、スポンサーがデパートである必要はない。なんだっていいわけです。そのデパートの持つ構造から出たコピーじゃなく、コピーでそのデパートの構造をつくろうとしてると言ってるらしいんですけど。ヒットしたからつじつまが合っちゃう。」 井上 「やはり「逆立ち現象」のひとつだと思うんですけど・・・・・・。」(「広告に見る逆立ち現象」、井上ひさし・つかこうへい『国ゆたかにして義を忘れ』(角川書店、1985年)収録、初出1984年)

※123-「西武が嫌いな理由がやっと解った。わたしはどうもこの堤義明という人物が苦手なのだ。選手に高給を払うところは好きだが、税金を払わずにすませているところが気に入らないのである。 コクド(旧国土計画)という四〇兆円の資産を有する大企業がある。ところがこのコクドが八六年から八八年に支払った法人税はゼロだ。(中略)さてこのコクドの四〇パーセントを所有する大株主が西武のオーナーの堤氏である。べつに言えば、この国の税金を払わない人びとの御大将が堤氏なのだ。冗談ではない、そんな御仁の持つ球団にわたしたちの大事な夢を托すことができるものか。」(「胸のマークを読み替えて」、井上ひさし『文学強盗の最後の仕事』(中公文庫、1998年)収録、初出1992年)

※124-「渡辺「「下谷万年町物語」の話に行きますけど、八一年に、いまのパルコ劇場、当時は西武劇場だった、渋谷の最先端のファッションビルにある劇場で、「下谷万年町物語」があるって言うんで、当時、スキャンダルな話題になったんですね。」 蜷川「できたものもすごかった。百人のおかまの話ですから。全国から美少年、それからホモセクシュアルの人もたくさんくるわけです。いろんな人がいました。売れる前のアラーキーが写真を撮ってくれた。唐さんと二人で、パルコの建物を「このビルを包んじゃおうか?」「なんとかして壊す方法はないか」と話しました。高度成長期を経済発展してきた虚像のパルコが勢いを持ってた時代の建物に砂利をひいたり、砂の家をつくろうかと唐さんと話したわけです。パルコの社長に呼ばれて「とにかく君ら、ピストルだけはぶっ放さないでくれ」と言われました。」(唐十郎ラ蜷川幸雄(聞き手・渡辺弘)「劇場都市東京の行方」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年)収録、初出2011年)

※125-「唐さんとまた仕事したいね、と言っていたら、パルコから話がありました。当時、パルコは、石岡瑛子さんが広告戦略のアートディレクションを担当し、最新の文化メッセージを発信している場所というイメージが強かった。その格好良さと違う形で、僕たちの演劇を存在させたいな、と思いました。今でも時々あるんだけれど、ある状況に対して違和感やノイズを意図的に入れたくなることがある。唐さんと二人、道路を隔てた反対側で、ファッショナブルなパルコのビルを見ているうちに「オカマを登場させ、それを公募しよう。パルコ入口に終戦直後の掘っ立て小屋を作ろう」とか、露悪的な話になってね。60年代後半に始まった小劇場運動の僕たちに共通するのは、ある種の山師のような面白がり方で、スキャンダリズムを逆手にとりながら社会的な事件にしようとする。公募で選んだ彼らを公園通りに寝転がして、アラーキー(荒木経惟)に宣伝用の写真を撮ってもらった。」(インタビュー・構成 高橋豊「蜷川幸雄インタビュー ファッショナブルな街にノイズを」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)

※126-「反権力志向が強いアングラ演劇出身の唐としては、『下谷万年町物語』の上演に際しても、パルコにすんなり収まる印象は与えたくなかったのだろう。そこで唐は蜷川、朝倉摂らと話し合い、パルコ側の了解も得て、上演期間中、パルコのビルの前に長屋風の小屋を建て、汚れた洗濯ものなどをいっぱいぶらさげた。「六〇年代」の申し子の唐が新しい場に打って出るためには、そうした異物で「武装」することが必要だったのだ。」(扇田昭彦「西武劇場「下谷万年町物語」 1981」、『こんな舞台を観てきた 扇田昭彦の日本現代演劇五〇年史』(河出書房新社、2015年)収録、初出2000年)

※127-辻井喬+成田龍一+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学③ 自伝的作品とその時代」(『すばる 8月号』、集英社、2012年)

※128-「渋谷のパルコ劇場(一九七三年開場。八五年までは西武劇場)は、今はニール・サイモン、三谷幸喜をはじめとする都会的でおしゃれな喜劇を上演する劇場というイメージが強いが、以前はもっと破天荒な演目も登場する小屋だった。その代表的な例が、西武劇場プロデュースで一九八一年の二月から三月にかけて一カ月間上演された唐十郎作、蜷川幸雄演出の『下谷万年町物語』(朝倉摂美術、吉井澄雄照明、猪俣公章音楽)である。」(扇田昭彦「西武劇場「下谷万年町物語」 1981」、『こんな舞台を観てきた 扇田昭彦の日本現代演劇五〇年史』(河出書房新社、2015年)収録、初出2000年)

※129-「当時、パルコ専務だった増田通二さんから「砂だけは少なくしてくれ」と言われ、小屋を小さくしました。「パルコ文化」と呼ばれた、増田さんの文化戦略は、攻撃的な大胆さに魅力があり、製作を担当していた山田潤一さんらの支えで、僕たちは面白い仕事をさせてもらったと思ってます。」(インタビュー・構成 高橋豊「蜷川幸雄インタビュー ファッショナブルな街にノイズを」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)

※130-「文化的な話題性に富み、時代の動きを反映し、観客の入りがある程度見込めるものなら、何でも上演しよう、というのがパルコ劇場の基本姿勢であるように思われる。その柔軟性と幅の広さが結果としていくつの好企画を生んできた。(中略)パルコ劇場は新しいタイプの商業劇場だが、ここにあるのは「トレンド」や「情報発信」の包装紙にくるめばどんな実験劇でも上演してしまう融通のきく商業主義なのだ。」(扇田昭彦「あとがき」、扇田昭彦ラ長谷部浩ラパルコ劇場『パルコ劇場30周年記念の本 プロデュース!』(株式会社パルコエンタテインメント事業局、2003年)


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『ムサシ』(3)-12(注・ネタバレしてます)

2017-02-02 20:10:51 | ムサシ
ところで(3)-11で取り上げた井上さん没後の座談会「井上ひさしの文学」の2回目で、作家の大江健三郎さんが「ぼくの友達のエドワード・サイードが、『晩年のスタイル』という本を最後に書きました。これは芸術家の晩年の仕事を考察したもので、大作曲家、大映画作家といわれる人たちが、晩年にどうしてもカタストロフィーに陥ってしまうということを、サイードは書いています。 (中略)あの井上ひさしが、かれらしい大きいカタストロフィーに陥らざるを得ないような、しかもついには破綻しながら、人物の一人、一人、科白の一行、一行がじつにおもしろいというものをつくって、それを天才的な演出家が演出すればかつてない大演劇ができるだろうという手紙を書いたことがありますけれど、出せませんでした(笑)。『ムサシ』こそ、それだったという、大方の演劇批評家が正しいのかもしれませんが。」(※103)と話している。
『ムサシ』の劇評というと〈報復の連鎖を断ち切ることの大切さを笑いの内に描き出した〉といった内容のものがもっぱらで、〈破綻している〉と指摘した評は寡聞にして知らなかった。しかもそれが「大方の演劇批評家」の意見とは。井上さん存命中は大っぴらに言えなかっただけで、実はみんな陰ではそういう話をしていたのか。
またこの場合の「破綻」とは何を指しているのだろう。復讐否定の物語の締めに復讐肯定の『孝行狸』のオチが語られること?父を殺された少女が途中で仇討ちを放棄したり、将軍家の政治顧問と朝廷に近い高名な禅僧がこれからの時代は侍に刀を抜かせない工夫が必要だと語りあったり、それぞれ社会的立場・置かれた状況を前提に平和主義を説いていたのが〈自分たちの身の上は全部嘘でした〉と告白してその前提を引っ繰り返してしまったこと?

いろいろ謎はあるが蜷川さんを「天才的演出家」とした部分については同意である。蜷川さんが井上戯曲を初めて手がけた2005年の『天保十二年のシェイクスピア』が「それまで井上劇を上演してきたさまざまな劇団や劇場の舞台とは明らかにスケール感と質感の違う刺激的な舞台が生まれていた」(※104)と評されたように、井上さんと蜷川さんがタッグを組んだことで「かつてない大演劇ができる」可能性が開かれた。
そして再演ではなく初めて井上さんが蜷川演出に向けて書き下ろした(※105)『ムサシ』がその大演劇足りうるかもしれないと周囲の期待を集めたというなら話がわかる。実際蜷川さんが初めて井上さんの新作を演出するというので結構話題になっていたような記憶がある。

ちなみに※105でも引用した扇田昭彦「井上ひさしと蜷川幸雄の共通項」は両者の共通項として「世代」(一歳差)、〈新劇畑(ただし大手劇団ではない)の出身〉〈作品数の多さと大衆性〉「作風を固定せず、絶えず新しい領域に挑戦し続けてきた」ことを挙げ、「二人に目立つのは、七十代半ばという年齢を忘れさせるほどの枯れないエネルギー、言い換えれば、絶えず新しい作品と舞台を創ろうとする過剰な熱い情熱である。それは年下の同業者たちに負けまいとする強い対抗意識、ライバル意識を伴ってもいる。私はかつてこうした最近の蜷川氏を「過激な晩年」と呼んだことがあるが、それは井上氏についても当てはまる。」としている。
これらに加えて〈批判的な劇評に対し強く反論する姿勢〉も二人に共通するところだろう。

井上さんの最初期の戯曲である『日本人のへそ』『表裏源内蛙合戦』は観客には大受けしたものの、評論家には「大変面白いが、思想がない」などと書かれて、井上さんは新聞紙上で反論したり〈思想とは何ぞや〉ということで思想関係の本を片っ端から買ったりしたと言う(※106)
この「面白いが、思想がない」という評を書いたのは英文学者・演劇評論家の小田島雄志さんで、井上さんの反論を受けて別の雑誌の舞台評で言葉が足りなかった点を釈明、その後直接会って話して和解し、以後は親しく付き合うようになったそうだ(※107)

蜷川さんの場合1988年に演出した『ハムレット』に対する批判的劇評に激怒して劇場ロビーに壁新聞を貼り出して反論した件が有名だが(※108)、上で名を挙げた扇田昭彦さんも1978年版の『ハムレット』に批判的劇評を書いたところ、その後どこかの劇場ロビーで蜷川さんと顔を合わせたさいに怒りもあらわに詰め寄られたことを上述の「蜷川氏を「過激な晩年」と呼んだことがある」評論で述べている(※109)
近年でも2015年公演の『ハムレット』について扇田さんが朝日新聞に劇評を書いたのに対し、翌日(ちょうど蜷川さんの連載コラムの掲載日に当たっていた)の朝日新聞で「きのう、朝日の夕刊に演劇評論家・扇田昭彦氏の「ハムレット」の最低の劇評が出た。」と即座に反論する〈事件〉があった(※110)
しかしまたしても『ハムレット』。内田洋一氏が書くとおり「『ハムレット』は演出家にとっても劇評をものするものにとっても鬼門」(※111)としか言いようがない。
とはいえ蜷川さんは扇田さんを嫌ってるわけではなく、渡辺弘氏(蜷川さんが芸術監督を務めた埼玉県芸術文化振興財団の理事)がフォローするように「同時代を共に生きてこられた長年の「戦友」同士」(※112)という意識に裏打ちされた信頼と親しみが根底にあればこそかえって強いことも言えたと見るほうが正解だろう。実際2015年5月に扇田さんが急逝された際には例の朝日新聞の連載で「なんという大事な友人を失ったのか」(※113)とその死を惜しんでいる。
この〈追悼文〉の中で「彼の意見に同調できる時もあれば、相反することもたくさんありました」と述べている通り、結構あちこちで扇田評を否定する発言(※114)(※115)をしながらも、陰口ではなく本人にも直接同じことを話していたりして(※116)、まさに「良いけんか相手」と言える関係だったのだと思う。
扇田さんの方もそう感じていただろうことは、『才能の森』あとがきの「この本に登場した人たちの敬称について」書いたくだりで、「私より上の世代の人たちには原則として敬称を付けましたが、蜷川幸雄氏のように、私より五歳年上でも同世代感覚が強い人については、あえて敬称抜きとしました。」(※117)とあることから窺える。
批判的劇評に対し仲がいいからこそ強く反論したり、強く反論したところからかえって仲良くなったり──そうした点において蜷川さんと井上さんは似ているように思います。


※103-「ぼくの友達のエドワード・サイードが、『晩年のスタイル』という本を最後に書きました。これは芸術家の晩年の仕事を考察したもので、大作曲家、大映画作家といわれる人たちが、晩年にどうしてもカタストロフィーに陥ってしまうということを、サイードは書いています。 ぼくは、井上さんも自分の晩年のスタイルとしてカタストロフィーになるような、それこそ収拾がつかないような大きいものをやってほしかったんです。そんな気持ちがあるものだから、舞台のすそのピアニストがピアノを弾いて、歌を歌って話がまとまるというようなことはやめようじゃないかと、いつか言ってやろうと思っていた(笑)。(中略)あの井上ひさしが、かれらしい大きいカタストロフィーに陥らざるを得ないような、しかもついには破綻しながら、人物の一人、一人、科白の一行、一行がじつにおもしろいというものをつくって、それを天才的な演出家が演出すればかつてない大演劇ができるだろうという手紙を書いたことがありますけれど、出せませんでした(笑)。『ムサシ』こそ、それだったという、大方の演劇批評家が正しいのかもしれませんが。」(大江健三郎+成田龍一+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学② “夢三部作”から読みとく戦後の日本」、『すばる 2月号』(集英社、2012年)より大江発言。

※104-「『天保十二年のシェイクスピア』は、初期の井上ひさしの熱い過剰なエネルギーがまるで溶岩流のようにあふれ出た異様な傑作である。シェイクスピアの全戯曲三十七本の要素をすべて織り込むという趣向で書かれたこの不条理劇風の音楽劇は、作品が破天荒で長大すぎたせいもあって、一九七四年の西武劇場(現・パルコ劇場)での初演はうまく行かなかった。 だが、二〇〇五年、蜷川はこの難しい大作を実にうまく、躍動感と笑いのある舞台に仕立てた。何よりも、蜷川の舞台の特色である過剰に沸き立つエネルギーが、井上の初期作品の演出にぴったりだった。底辺の人々の視点からものを見るという井上作品の基本姿勢も蜷川演出と重なるものだった。それに蜷川はすでに数多くのシェイクスピア劇を演出して成果を上げていたから、『天保十二年のシェイクスピア』を深いレベルで、趣向豊かに演出する術を知っていた。さらに一九九四年に初めて手がけた『夏の夜の夢』以降、得意分野ではなかった喜劇でも、蜷川は経験を積んできた。(中略)そして作者の井上は、『天保十二年のシェイクスピア』の舞台成果を観て、蜷川演出への信頼を強めた。そこには、それまで井上劇を上演してきたさまざまな劇団や劇場の舞台とは明らかにスケール感と質感の違う刺激的な舞台が生まれていた。」(扇田昭彦「冒険する大人たちの演劇」(扇田昭彦『井上ひさしの劇世界』、国書刊行会、2012年)収録、初出2008年)。
ちなみに「初演はうまく行かなかった」状況を、井上さんは丸谷才一さんとの対談の中で「上演時間が長すぎてだめだったんです。」「七時に始まって、終ったのが十二時過ぎなんですね、初日が。それで次の日に半分ぐらいにカットしたら、パロディにならなくなっちゃったんです。」「幕間が二回あったんですが、そのたびにお客がいなくなっちゃうんですね。もう終ったと思って(笑)」(井上ひさし・丸谷才一「パロディ精神ってなんだろう」、『笑談笑発 井上ひさし対談集』(講談社文庫、1978年)収録、初出1978年)と話している。

※105-蜷川さんは「作家が新作を書き下ろしても、ちゃんと演出してもらえるなあという思いを持ってもらえた」((3)-※87参照)と語り、『ムサシ ロンドン・NYバージョン』のパンフレットにも「井上氏が蜷川演出のために初めて書き下ろした新作が前述の『ムサシ』だった」(扇田昭彦「井上ひさしと蜷川幸雄の共通項」)とあるが、ホリプロ最高顧問で『ムサシ』の原型となった企画から深く関わっている堀威夫氏はインタビューで〈『ムサシ』の構想がある程度まとまってきたと井上さんが言ってきたのをホリプロのプロデューサーが蜷川さんに話したら、ぜひ自分が演出をやりたいと手をあげた〉と語っている(堀威夫「演劇『ムサシ』の奇跡」(東洋経済オンライン、2011年9月14日号、http://toyokeizai.net/articles/-/7714)。この話だと井上さんが自分から蜷川さんに『ムサシ』を演出してほしいと思ったわけではなく蜷川さんの方からアプローチしたような感じである。実際書く時点ではもう蜷川さんが手がけることが決まっていたわけで、蜷川演出に向けて書いたことに違いはないが。ちなみにこの堀氏インタビューは『ムサシ』キャスト陣による井上さん宅訪問にも触れているが、「ひげぼうぼうでやせ衰えた井上さんが出てきた。命を削って書いていることがわかって、台本が遅れていることへのみんなの不満が一挙に消えた」というくだりは(3)-※97の栗山さんの感慨を思い出させる。

※106-井上「僕も「日本人のへそ」という芝居で、「大変面白いけど、思想がない」と書かれました(笑)。」 蜷川「本当? それ、すごく失礼ですね。」 井上「それで、思想、思想ってなんだと思って、いろいろ思想関係の本を買いました(笑)。僕が芝居の世界に入ったのは、明日、食えるようにしたいというそれだけの理由でしたから、思想なんて関係なかった。今日、自分の力の中で一番いいものを出さないと、明日、食えないんじゃないかという強迫観念。それは僕の生い立ちや、僕らの世代とも関係があると思いますが。」(「演劇界の両雄、初顔合わせ 「リア王」よりも「怒れるジジイ」でいたい 井上ひさしラ蜷川幸雄」、http://hon.bunshun.jp/articles/-/4861、初出『オール讀物』2006年1月号)

※107-「『悲劇喜劇』(一九七〇年八月号)での私の軽率な発言から、井上ひさしとのお付き合い(最初はお突きあい?)(管理人注・原文傍点)が始まりました。対談「演劇時評」の『表裏源内蛙合戦』の戯曲評で、私は「こんなにおもしろくていいのか不安になったほど」とほめたあと、「哲学がない、というのはいやな言い方だけど・・・・・・」となんの説明もなしに余計なひとことを付け加えたのでした。 それに対し、井上ひさしからはこんな“反論”がありました。 「この作品を面白いといってくださる方は多い。でも“思想・哲学がない”という新劇の諸先生の評価は一番アタマにくるんです。(中略)」 この「新劇の諸先生」とは私もそのひとりです。さらに『悲劇喜劇』同年十月号、同じ作品のテアトル・エコー初演の舞台評で、再びふれました。 「エコー・ひいき」になるけれど、とさんざん笑ったことを語ったあとで、「戯曲評のときに、いやな言い方だけど哲学がない、と言いましたが、そういう評言に対して、パンフレットや朝日新聞で井上ひさしが反駁している」が、と懸命に、しどろもどろに、私の真意を伝え、シェイクスピアにも私にも哲学がない、ことを述べました。やがて初めて会って話をして、本人に了解を得たように思います。その証拠に、翌年一月に刊行された『表裏源内蛙合戦』(新潮社)に、几帳面な字で「小田島雄志様、井上ひさし」と署名して贈ってくれました。 その後、私がシェイクスピア三十七本の芝居の完訳『シェイクスピア全集』全七巻(一九八〇年、白水社)を刊行したときに、井上ひさしから次のような推薦文「教養から娯楽へ」をもらいました。(中略)彼が一九八三年にこまつ座を創設し活動し始めると、初日乾杯の席で毎回私がスピーチに指名され、駄洒落落ちをつけて喜ばれました。もう二十数年前になりますが、私が入院して初日に行けなかったとき、井上が、「今日は小田島さんがいらっしゃらないからスピーチはなしです」と言われた、と聞いて以後初日は休めなくなりました。」(小田島雄志『井上ひさしの劇ことば』(新日本出版社、2014年)

※108-「一九八八年、蜷川は東京・青山のスパイラルホールで渡辺謙主演の『ハムレット』を演出したが、この舞台に対する朝日新聞の批判的な劇評(私の先輩の編集委員が書いた)に蜷川は「激怒」し、劇場ロビーに「ニナガワ新聞」という壁新聞を張り出して反論しただけでなく、雑誌『文藝春秋』に「朝日新聞よ、目には目をだ」という文章を発表した。当時、演劇界で大きな話題になった「事件」である。」(扇田昭彦「過激な晩年へ─蜷川幸雄」、扇田昭彦『才能の森 現代演劇の創り手たち』(朝日新聞社、2005年)収録、初出1999年)

※109-「私自身も蜷川の怒りを買った劇評を書いたことがある。一九七八年八月、帝国劇場で蜷川演出、平幹二朗主演の『ハムレット』が上演された。これは劇中劇に日本のひな祭りの趣向を導入した点で記憶される舞台だが、辻村ジュサブローがアートディレクターを務めた無国籍風の装飾過多の衣裳とどぎつい仮面のようなメーキャップが私は気に入らず、雑誌『創』に批判的な「演劇時評」を書いた。しかも見出しは「悪趣味の王国」という刺激的なものだった。 やがて、どこかの劇場のロビーで顔を合わせた蜷川は、怒りもあらわに詰めより、私の劇評を激しく批判した。そのとき、狼狽した私がどう答えたかは忘れてしまったが、きまずい関係が何カ月も続いたのは間違いない。 だが、翌七九年二月、蜷川演出を代表する傑作の一つ、『近松心中物語』(秋元松代脚本)が帝国劇場で初演され、感銘を受けた私はかなり熱の入った長文の劇評を雑誌『新劇』(白水社)に書いた(拙著『現代演劇の航海』リブロポート、八八年に収録)。そのあたりから蜷川との関係は徐々に修復に向かったのである。」(扇田昭彦「過激な晩年へ─蜷川幸雄」、扇田昭彦『才能の森 現代演劇の創り手たち』(朝日新聞社、2005年)収録、初出1999年)

※110-「きのう、朝日の夕刊に演劇評論家・扇田昭彦氏の「ハムレット」の最低の劇評が出た。」(「やっぱりいいよな 芝居の稽古は」『演出家の独り言』(朝日新聞金曜夕刊に連載、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年)収録、初出2015年1月30日)

※111-「内なる自己は手がつけられないほど暴れる。自己を賛美する一方で激しく嫌悪する。世の中と折り合えず、怒りを爆発させ、際限なく衝突を引き起こす。蜷川幸雄という演出家にとって、この自己という魔を制することができた稀有な場が演劇だったのではないか。(中略)なぜ、あんなに劇評に怒ったのか。むろん、ほとんどの演出家は劇評の悪口に憤りを隠さないものだ。が、蜷川は桁違いだった。ふつうの読者がほめていると感じる文章にも怒りを炸裂させる。最後の『ハムレット』に対する扇田昭彦評は半世紀におよぶ観劇歴に裏づけられた周到な文章だったが、罵詈雑言を楽屋口の壁に殴り書きした。その前、七度目の『ハムレット』評についていえば、私の原稿に憤激し、かなりの間、話すことも会うことも拒んだものである。古くは宮下展夫評に激昂、壁新聞を劇場にはりだした例もあって、ことに『ハムレット』は演出家にとっても劇評をものするものにとっても鬼門であった。 そんなとき蜷川幸雄を突き動かしていたのは、恥ずかしいという感情であった気がする。人を責める常套句は「恥ずかしくないのか」であった。七十歳を過ぎてからはこれ以上ないほどの賛辞に包まれたが、本人の意識の中では劇評で恥をかかされつづける人生をなお送っていたと思う。 今はこう考える。劇評を酷評とみるまなざしは、あの自己処断の衝動からきていたもので、そのとき生じる怒りが次の飛翔に必要だったのだ、と。なんという演劇の修羅。」(内田洋一「逆説を生きた自己処断の人」、『悲劇喜劇』(早川書房、2016年9月号)

※112-「蜷川さんは、常に支えてくれるスタッフ・キャストは自分が守るという姿勢を貫いてきました。ですから劇評に対しても同様で、キャスト等が批判されると「蜷川新聞」と称する壁新聞をロビーに出すなど果敢に反論を行ってきました。 この冒頭の二行、「きのう、朝日の夕刊に演劇評論家・扇田昭彦氏の「ハムレット」の最低な劇評が出た」は、印刷ギリギリのタイミングで付け足されました。蜷川さんの意を受けた私と朝日新聞の連載担当者が、載せるべきか否か、その切羽詰まった状況で協議をしたことが昨日のように思い出されます。そして、このコラムは蜷川さん自身の執筆であること、同時代を共に生きてこられた長年の「戦友」同士という関係を充分意識してのことなのではないかとの結論となり、掲載の運びとなりました。 掲載後、二人の仲はどうなったのか、扇田さんは怒っていないのかなど、演劇界に小さな波紋を投げかけたのは確かです。その数ヶ月後、4月14日の彩の国さいたま芸術劇場での「リチャード二世」(シェイクスピア作、蜷川幸雄演出)マチネ公演後の楽屋ロビーで、観劇された扇田さんと蜷川さんは顔を合わせました。二人は、やや照れながら10分ほど作品についてのことや演劇界の四方山話をされ、「じゃ、また」とにこやかに扇田さんは帰られた。蜷川さんもとても穏やかな表情で見送っていた記憶があります。その約一ヶ月後の5月22日に扇田さんは突然亡くなられたため、これが「戦友」二人の最後の会話となりました。」(渡辺弘「「演出家の独り言」補足エッセイ 戦友だからこそ、投げかけた二行」、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年))

※113-「扇田さんと僕は良いけんか相手でした。彼の意見に同調できる時もあれば、相反することもたくさんありました。でも、それはお互いの友情の上に成り立つ言い合いだったと思います。(中略)もちろん、扇田さんと僕は立場が違います。扇田さんは、ものごとを論理的に理解し、怜悧に伝える仕事。僕は、内面の衝動を大事にしながら、例えば観念的に語られ過ぎているシェークスピアを、もうちょっと民衆の魂の方向に持って行きたいと考えてきたと思います。 そんな大きな違いも、戦友である僕らの友情を傷つけることはありませんでした。 なんという大事な友人を失ったのか、という悔しい思いでいっぱいです。もう少し、僕らは共に切磋琢磨する論陣をはって、この時代を共有したかった。」(「僕より先に逝ってしまうなんて」、『演出家の独り言』(朝日新聞金曜夕刊に連載、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 蜷川幸雄 世界で闘い続けた演出家』(河出書房新社、2016年)収録、、初出2015年5月29日)

※114-「メッセージをいう気は全然ないのだけれど、そういうものが自然に映し出されるようにしたい。日本では、たとえば扇田昭彦なんかが、「世界は喜劇に傾斜する」という言い方をするけれど、それはすごく受けるわけなんだよね。で、そうはなりたくないと俺はつむじが曲がるわけ。別に喜劇に傾斜することはないじゃないかって。扇田さんはそういう本を出しているんだから。そしてそれが受け入れられるわけだから。別に喜劇に傾斜してねえよ、っていいたくなるわけだよ。つまり、俺はブレヒト主義者ではないから、啓蒙する気なんて全然ないわけ。だけどそのままやれば、喜劇も入るし、いってみればトラジ・コメディ(悲喜劇)になるでしょう。ってことをただやればいいと思っているんですよ。」(「蜷川幸雄インタビュー 「ああ面白かった」と言われたい」、秋島百合子『蜷川幸雄とシェークスピア』(角川書店、2015年)収録)

※115-「「岩松さんの作品を『静かな演劇』と言う奴がいるけど、全然静かじゃない。登場人物みんなが狂っている」とよくおっしゃっていました。僕の作品にあるアナーキーな要素が蜷川さんの演劇心をくすぐったのではと思います」(岩松了「蜷川さんから学んだ「ものづくりの原点」」、『悲劇喜劇』(早川書房、2016年9月号)。
岩松作品を最初に(たぶん)「静かな劇」と評したのは扇田さんである(「バブルの祭りのあとの九〇年代には、当然、その反作用が生まれた。(中略)第三の変化は、小劇場でよく見られる絶叫型の発声法やおおげさな芝居がかった演技を排し、日常を抑制したタッチでリアルに描く「静かな劇」の系譜である。劇作家の岩松了(中略)らの劇は、にぎやかな笑いとスピードで彩られた八〇年代の小劇場とは違う世界を作り出した。それはバブル崩壊後の不況でだれもが足もとをみつめざるをえなくなった等身大の生活感覚に対応している。」、扇田昭彦『日本の現代演劇』(岩波新書、1995年))。

※116-扇田「今までの蜷川さんは、悲劇の演出家でしたよね。それが『夏の夜の夢』という喜劇を成功させた。喜劇はある種の成熟度がないと、成立しない。成熟を嫌っても、蜷川さんもやはり、その成熟を確実に備えてきたんじゃないかと思いますが。 蜷川  自分じゃ成熟だとは思ってなかったですねえ。冒険だと思ってる。よく扇田さんに、世界は喜劇だけじゃない、俺は喜劇には傾斜しないなんて言ってたでしょう。でも、てめえが喜劇をやり始めると、それはそれなりに面白いわけだ(笑)。」(蜷川幸雄インタビュー「芝居は血湧き肉踊る身体ゲームの方がいい」、扇田昭彦編『劇談 現代演劇の潮流』(小学館、2001年)収録)

※117-扇田昭彦『才能の森 現代演劇の創り手たち』(朝日新聞社、2005年)

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