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俳優・勝地涼くんのこと。

『カリギュラ』人物考(6)(注・ややネタバレしてます)

2009-05-25 02:23:23 | カリギュラ

ドリュジラ

カリギュラ最愛の妹にして愛人。その死によってカリギュラを「真理」に目覚めさせる。

結局作中人物のなかで、カリギュラに対して最大の影響力を振るったのは、人々の会話の中にしか登場しないこのドリュジラであろう。
繰り返し書くように、この戯曲においては「若さ」がそのまま周囲への影響力、人間関係の中で優位性に繋がっている。全キャラクターをその論理によって引き摺りまわし、物語全体を圧倒的存在感によって牽引しているカリギュラはその若さ、「子供」性にたびたび言及されているし、唯一そのカリギュラを一瞬でも「愛」に引き戻しかかったシピオンは、わざわざト書きで「若いシピオン」と言及される。
シピオンは登場人物の中でただ一人カリギュラより年下であり、彼がカリギュラにもたらす影響力の大きさはその点に由来していると考えられる。
そして「非」登場人物も加えるなら、シピオン以外でただ一人カリギュラより年下なのが、このドリュジラなのだ。

カミュがその創作ノートにはじめて『カリギュラ』のプロットを書き付けた時点では、ドリュジラは二幕の終わりまで生きていることになっていた。それをなぜ登場させないことにしたのかは不明だが、想像するに、ドリュジラにその影響力に見合うだけの個性を賦与しえなかったからではないか。

現行の戯曲において、ドリュジラはカリギュラとの関係性からしか語られない。物語の冒頭では彼女の死から三日しか経過していないにもかかわらず、皆が問題にしているのは彼女の死そのものではなく、そのためにカリギュラが失踪したという事実である。皇帝が行方不明となれば政治的に大問題ではあるが、それにしても、である。
最も政治的な視点から遠くにいそうなシピオンでさえ、ドリュジラの死の現場(少なくとも死んで間もないところ)に立ち会っていたというのに、そのときカリギュラがどれだけショックを受けたかしか語ろうとしない。
さらにはそのカリギュラも「あの死なら、なんでもない」「年老いたドリュジラは、死んだドリュジラよりも悪い」と彼女の死を、というより存在価値を貶めるような発言しかしない。ドリュジラ個人の死をまともに悼む者は誰一人出てこないのである。

そしてその人となりについても一切触れられていない。あえて言うなら、実兄と近親相姦のタブーを犯したという事実からして、性的に至って奔放な女性、あるいは兄の情熱に無理矢理押し切られて罪悪感に苦しんでいた気の弱い不幸な女性のどちらかだったろうと類推できるが。
カリギュラの変心の原因となったという意味では作品の要とも言えるキャラクターでありながら、ドリュジラについては本当に徹底して情報が伏せられているのだ。

それはおそらくドリュジラが作中で果たす役割の特殊性にあるのだろう。
カリギュラの変心はドリュジラの死を契機としてはいるが、彼女が死んだ事実そのものではなく「人は死ぬ。そして人は幸福ではない」という真理の発見が彼を変えた、という展開上、ドリュジラはカリギュラの回りの人間や読者が感情移入するような存在感・好感度をもっていてはむしろ邪魔になる。
けれどその一面でカリギュラが本当に彼女の死に無頓着だったのなら彼は残酷なこの世の真理に気づいたりはしなかったはずで、それだけカリギュラに愛されていた、というのが納得できるようなキャラでなければならない。
存在感があってはいけないし無くてもいけない。矛盾する二つのポイントを解決するための手段が、「ドリュジラを登場させず、どんな女性だったかは観客の想像に任せる」ことだったのではないか。

作品に一度も登場せぬまま全編に深い影を落とす彼女の存在は、カリギュラが求めつづける「月」の象徴と言ってよいだろう。概念のみで語られるごく曖昧な存在、それゆえに実像を捕まえようもない幻の月の。

 

 

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