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about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『花よりもなほ』(2)-3(注・ネタバレしてます)

2007-10-30 01:44:30 | 花よりもなほ
・宗左とおさえの密談を覗き見すべく、切腹の傷も癒えない平野を乱暴に転がす貞四郎たちがひどい(笑)。
もっとも平野は平野で自分も覗き見しようとして、貞四郎たちが来るとことさら痛がって見せてたあたり、単に同情を引きたくて怪我人ぶってるぽいので、どっちもどっちというか。

・皆の予想(期待)に反しておさえの目的は「盲木の浮木、優曇華の花」の意味を確認することだった。そもそも宗左があのメイクをしてる時点でロマンスを期待したのが間違っている気もするんだが。
しかし「早く押し倒しちまえよ」って、皆が二人をくっつけたがってるようなのが意外。
おさえさんあんな美人なんだから長屋中が狙ってそうなのに。みんな若いおのぶちゃん狙いなのか?

・「盲木の浮木、優曇華の花」の意味を知らない宗左。武家の出で手習い師匠もやってるわりに物を知らないな(笑)。
そしてやはり武士の平野はともかくあの芝居の台本を書いた人間(ノベライズによれば重八)の意外な教養に驚く。さすが代書屋。

・いざ仇討ち芝居の本番。おさえの「盲木の浮木~」の台詞まわしが、いかにも「意味わかってないんだな」という感じなのが上手い。
しかし助太刀にやってきたお侍たち、あのメイクの宗左を見てよくお芝居と気づかないもんだ。美人の後家さんにいい格好見せたさで頭がいっぱいだからか?
(←ノベライズを読むとこの侍たちは鈴田ら赤穂浪士の変装。仇討ちを茶化すような芝居をする彼らが気に入らず、邪魔に入ったのだそうです。全然気づかなかった・・・)

・脱兎のごとくに逃げまくる宗左。軽快なテーマ音楽とあいまって実にテンポの良い楽しい場面。
孫三郎の今さらな「ちょっと待ったー!」や、宗左が駆け抜けていった側でどこ吹く風といった面持ちで団子を食べてる貞四郎がいい味。
宗左の長屋の戸の張り紙に「にげあし」の文字(+足型)が書き加えられるというオチまでが実に無駄のない見事さ。

・貞四郎は、宗左が首尾よく仇を討てる方法をあれこれ提案してみせるが、一見たきつけるような言葉とは裏腹に、彼は宗左が内心に抱いている仇討ちへの逡巡をよりはっきり自覚させることで遠まわしに仇討ちを止めようとしてるように思えます(ノベライズだといろいろ内心の計算があるんだそうですが)。
直後に「おまえさてはあの美人の後家さんに惚れたな?」とからかってみせるのも、軽くふざけたふりで上手く相手の心を掴む彼なりの手管なのでは。勝手に「この後家殺しが~」と盛り上がり、あまつさえ「ごけごろし」と紙に書こうとするのが笑えます。
結果的に、以前に宗左が貞四郎に関連して「ふみたおし」と進之助に文字を書いてみせたことへの「復讐」になってるし。

・縁日で金沢の一家を見かけた宗左は、ひょっとこの面で顔を隠してそっとやり過ごす。
本来追う立場の宗左の方が顔を隠すという逆転。すぐ前の場面で貞四郎に突っ込まれた「仇討ちできない本当の理由」の解答がここで再び描かれる。
この前後のシーンで一緒にいるおさえ・進之助はやはり夫・父を失くしており、宗左自身も父を失った息子である。それだけに父の仇を憎みながらも残される妻子の気持ちを思わずにいられない。そんな複雑な心情をあえて剽げた面で包んでみせる。
宗左の正面で回る風車、後ろをスローモーションで行き過ぎる金沢一家の見せ方、面を外した後金沢を見送る宗左の表情などなど、切々とした日本的情感に満ちた、この映画で一番好きな場面です。

・宗左の叔父・庄三郎(石橋蓮司さん)が進之助を宗左の隠し子だと誤解する展開。
年齢の矛盾などものともしない思い込みっぷりが笑えますが、確かに宗左を甘えるように見上げる進之助といい、当然のようにお茶を入れてくれるおさえといい、どう見ても夫婦親子だものなあ。

・庄三郎の登場を機に宗左は久々に里帰りすることに。庄三郎の一種武家らしからぬさばけた人柄は、郷里の生真面目な人々(宗左の母親・弟)といいかげんな長屋の住人のちょうど中間といった感じで、江戸編と松本編の橋渡し役にふさわしい。
しかし「なか」(=吉原)という言葉は若い観客に通じたろうかとちょい心配。

・おさえが「筆」の意味を勘違いしたことからどんどん広がってゆく誤解(笑)。おのぶちゃんの話が出たあたりで宗左が小刻みに首を横に振ってるのが可笑しいです。
この一連のシーンは宗左の表情の変化(最後は肩を落として諦めモード)が楽しい。岡田くんの力量を感じた箇所。

・父親の法事のため松本へ。宗左の月代姿は別人のようで、一瞬「誰?」と思ってしまった。
松本の景色は一面の緑といい、透き通る湖水といい実に色鮮やかもしくは透明感に満ちて美しく、薄汚い長屋の情景と見事なコントラスト。

・宗左のもう一人の叔父・庄二郎(南方英二さん)の大仰な喋り方や扇子で宗左の肩を打つ所作がいかにもな時代劇調。
現代劇とあまり言葉の変わらない江戸編とは雰囲気が全然違っていて、裃でしゃっちょこばってる宗左が実家でありながらいかにも居心地悪げなのが強調されている。

・道場で門弟たちに武士の心構えを説く宗右衛門(勝地くん)。発声にやや(時代劇としては)甘さがあるものの凛として通る声は堂々たる若武者にふさわしい。
出番が短いわりに長台詞が出てくるのは、勝地くんの声質を買ってのことかな、と欲目気味に思ったりします。

・父の墓へ向かう青木兄弟。この二人、並ぶと勝地くんがえらく背が高く見えて驚いた。「フレンドパーク」を見たときも「172cm(当時の公式データ)より高いんじゃ?」と思いましたが、それをここでほぼ確信。
ちなみに岡田くんはわりにバタ臭い顔立ちなので月代があまり似合わない。月代の伸びた、よれた着物姿はよく似合っているのに。
対する勝地くんは和風の顔立ちなので武士らしい装い(着崩さずにぴしっとした感じ)が様になる(まあ彼も前髪立ちもしくは『里見八犬伝』の時みたいな月代なしの方が似合いそうですが)。
岡田くんを宗左に起用したのはそのバタ臭さ―武士らしさが似合わない感じを狙ったんじゃないでしょうか。そして勝地くんを弟役にしたのは対照的に若武者らしい風貌でもって、宗左の武士らしくなさを際立たせるためだったんでは。

・金沢の一家に同情する発言をして宗右衛門の怒りをかってしまう宗左。
松本藩、武家社会という枠組みから離れて、長屋の人々と交流し、金沢親子の暮らしも垣間見た宗左は、武士としての視点からしか物を見られない(宗左もかつてはそうだったろうし、今でもその名残りを引きずっている)弟よりはるかに広い視野を持てるようになっている。
もし江戸に出てきたのが宗右衛門のほうだったら、石頭でなまじ腕にも覚えのある彼は長屋の住人や金沢親子にどう対処していた(するようになった)だろうか・・・。

・早朝から藁人形を仇に見立てて稽古に精を出す宗右衛門と母親。とくに老母は気合からしてヒステリック。
武家の息子と女房のあるべき姿を体現したかのような二人を冷めた目で見つめる宗左は、すでに武士として生きることから心が離れているのがわかる。

・「仇討ちだけが親孝行ではないでな」と話す庄三郎。
実際、父親が不慮の死を遂げることがなければ、長男の宗左が道場を継ぎ、次男の宗右衛門は冷や飯食いだった可能性が高い。宗左の腕の立たなさと宗右衛門の腕の立ち方を思えば、宗右衛門が父の跡を継いで道場主になる方が明らかに本人たち及び門弟たちのためになる。
宗左が江戸に出たことである意味誰にとってもいい形になっているわけで、今さら宗左が故郷に帰っても迎える側も当惑するだけだろう。
ラストで宗左は表向き見事仇を討ち果たしたことになってしまったが、どうやって江戸に残る理由を作るのだろう。故郷に凱旋するのが当然だし、平野など彼にくっついての仕官をあてにしているし・・・。ちょっと心配。

・五代綱吉政権を象徴するようなお犬様の姿。
「俺だって立派な生き物だぜ。もうちっと優しくしてほしいもんだよな。」という台詞は笑いどころのようでいて、犬が(結果的に)人間より優遇される社会のいびつさを言い当てている。
時代の閉塞感を伝えるこの場面が挿入されたことで、以降の物語に微妙な陰影が加わったのでは。

・河原でのそで吉とおのぶ(田畑智子さん)の会話。ここでおのぶがそで吉にほのかな恋心を抱いていたことが明らかに。
思えば強気だけど初心なおのぶのような娘は、ちょっと悪くて影のあるそで吉みたいな男に惹かれるのは必然かも。
子供たちが流した葉っぱの舟が、一つは流れてゆき一つは石にぶつかって止まる。結局は擦れ違ってゆくのだろう二人の行く道を暗示する演出。
音楽も水の透明感もおのぶの淡い慕情に似合っていて、とても好きな場面の一つ。
このシーンに始まるそで吉をめぐる恋模様のサイドストーリーは、宗左を核に据えた本編からやや浮いてしまってる感は否めないのですが、宗左とおさえが天然同士だけに恋人未満のままエンドマークを迎えてしまうので(あの二人はそれでいい)、やさぐれたフェロモンをふりまいているそで吉を中心に、かたや初々しい少女の恋、かたや大人の男女の悲恋を描いたことで、作品全体に「艶」がもたらされたように思います。

・長屋の井戸替え。進之助に誘われて宗左も武士であるにもかかわらず参加する。
故郷に戻ったさいに剃った月代が半端に伸びてるのも合わせ、宗左が武士らしさから(嬉々として)逸脱してゆきつつあることが示されている。
故郷にいた間は重苦しい空気を漂わせてにこりともしなかった宗左の生き生きした笑顔が眩しい。

・大家の新しい女房おりょう(夏川結衣さん)登場。
そで吉と彼女のわけありげな様子を見て、勝手に二人の会話をアフレコする長屋の連中に笑う。思い切りふくれっつらのおのぶちゃんもキュート。

・そで吉とおりょうの会話。かつての恋の余焔をくすぶらせながら、相手への負い目や恨めしく思う気持ちもあるゆえに、つい毒を含んだ言葉ばかりを吐き出しつつ互いの心を探りあうような態度を取ってしまう。
二人が離れてから過ごしてきた時間の重みと苦味が濃厚に漂ってくる。

・朝っぱらから父親の「糞」の悩みを聞かされつつ食事を取るおのぶ。
彼女が不機嫌なのはもちろんそで吉とおりょうの仲が気になるからでしょうが、同時に、しどけない大人の女の色香に満ちたおりょうに比べて、ボロ長屋で下世話で猥雑な日常に浸かっている自分が虚しく思えたためでもあるのでしょう。
おりょうに言わせれば、そうやって子供らしい怒りや不満、憧れを持っていられるうちが華なんでしょうが。

(つづく)


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『花よりもなほ』(2)-2(注・ネタバレしてます)

2007-10-26 02:01:03 | 花よりもなほ
・子供たちにいじめられた進之助(田中祥平くん)に剣術を教える平野。
「はいー!」という尻上がりの掛け声の裏返りっぷりに、彼の情けないキャラクターが見事に表されている。香川さんさすがの名演技です。

・そで吉が進之助に喧嘩術を教える→宗左と勝負する場面は、形骸的な面子にこだわる侍二人(宗左・平野)の役に立たなさと実際的な庶民の対比として描かれている
(そで吉だけでなく「痛くない殴られ方」を習得してる乙吉のほうが宗左よりずっと実戦では有効だろう)。まあ宗左個人が弱いのも確かでしょうけど。
しかしそで吉はなぜああも宗左につっかかるのか。単に武士階級が嫌いというより、仇討ち、道場剣法といったいかにもな「武士らしさ」が嫌いなのかな。

・宗左を厠へ投げ込むそで吉を「卑怯者」と一言罵った平野がすぐ人垣の後ろに隠れてしまうのが(笑)。自分が卑怯なんじゃ。

・そで吉にこてんぱんにされた翌日?の朝、長屋を出た宗左が進之助と顔をあわせる。
お互い言葉が出ない様子に「進坊に不甲斐ないところを見せてしまった」「宗左にとって都合の悪い現場を目撃してしまった」ことによる気まずさが十二分に表れている。
戸に「暫く休みます」(そで吉に負わされた怪我のせい)の紙が貼ってあるあたりの芸が細かい。この後も「にげあし」の場面などで戸の貼り紙は小ネタとして活躍します。

・河原で人足として働く金沢(浅野忠信さん)を物陰からうかがう宗左。
いつになく殺気だった凶悪な顔つき(家を出る場面からだけど)は目の回りの痣と無精髭のせいばかりではないだろう。岡田くんグッジョブ。

・ついで家の前で遊ぶ仇の息子・吉坊(田中碧海くん)を蔭から見つめる宗左。
金沢の家に先回りしていることから、宗左が以前から仇の家を突き止めていたのがわかる。そして知りながら仇を討てなかった理由も・・・
(ここの場面で宗左が土をいじってるのは何故だろうと思ってたんですが、ノベライズによるとそで吉を見習って土での目潰しを考えていたとのこと)。
仇が帰ってきたと知って泡を食って隠れたのは、物陰から親子を見る表情からして斬りかかるタイミングをはかるためかと一瞬思ったが、根の優しい宗左はやはり(腕を抜きにしても)仇討ちを挑むことはできなかった。
落とした草履だけが仇の手にわたる場面には、日本映画ならではの澄んだ余韻を覚えた。

・ほぼ真っ暗な部屋の中、一人(仇を討てなかったことに)悩む宗左。
背後に子供たちのヘタクソな習字を映すアングルは、父の仇討ちという重責を背負った武士としての宗左の姿に、現在の手習い師匠として生きる(その方がよほど幸せそうな)宗左の日常をダブらせる効果をもたらしている。

・隣家の平野が切腹未遂を。宗左が自分本来の性格に反して武士道を貫くべきか迷うところに、武士らしさの戯画化というべき(武士らしくあろうとするほどに情けなさが露呈する)平野が切腹=いかにも武士らしい行為を結果的に地に堕としめる。
宗左の心が次第に「武士らしくあること」から離れてゆくきっかけであり、この映画の全編に流れる武士道批判を象徴するイベント。

・平野の切腹事件に宗左は腰も抜けそうな勢いで動揺する。
この手の騒ぎに慣れてる長屋の連中とは気の持ちようが違うとはいえ、武士のくせに血に弱いというか急場に弱いというか。
このへんの情けなさが宗左の可愛さなのだけど。

・すでに仇を突き止めていたことを貞四郎に語る宗左。今まで黙ってきたことをこのタイミングで打ち明けたのは、先の平野事件の際に武士としての矜持が揺らいだ結果なのかなと思います。
そして貞四郎がもう少し様子を見るよう宗左を諭すのは、金沢の命と残される家族を案じた以上に、宗左が仇討ちなどするには気が優しすぎるのを慮ってのことだったんじゃないでしょうか。

・「何か見えんのかい」と聞かれて、屋根の上の孫三郎は「夜だよ」と答える。冒頭の「朝だ朝だ~」と対になる台詞。
単に長屋の皆に朝夜の訪れを知らせているというより、孫三郎が長屋に昼夜を手招いている、この映画の中の時間の流れを掌っているような印象を受けました。

・小鳥の死を契機に進之助が父親の死を知っていたことが語られる。
母を悲しませたくないからとそれを黙っている、利発で大人びたこの少年の健気さがかえって哀れを感じさせる。
一方おさえの方もあえて夫の死を進之助に隠している。母と子の互いを思い合う気持ちが暖かくも切ない。

・仇討ちしようとする動機は武士の面子よりも、純粋に父への愛情に基づいているのだと話す宗左。
おさえは「お父上が残してくれたものが憎しみだけだったとしたら悲しすぎる」と反駁するが、後に彼女も仇持ち(夫が殺されたらしい)であると明かされるのを思うと、おさえ自身が何年間も自分に言い聞かせてきた言葉なのだろう。

・代書屋の軒先の明かりがちらちらと揺れている。いかにも本物感があって、演出の細やかさに驚いた。
この代書屋の名前が重八なのはやはり赤穂不義士の鈴田重八(郎)を思わせます。
ちなみに、医者(というふれこみ)の小野寺(中村嘉葎雄さん)の家に集う赤穂浪人の一人が鈴田という設定である。
鈴田の下の名前が出てこないのは代書屋の重八とややこしくなるからでしょうが、貞四郎といい、あえて忠臣蔵好きならすぐピンとくる不義士の名前を長屋の住人に用いているのは、長屋の連中と赤穂浪士を対比して描く(長屋の面子の中ではっきり武士道を批判するような発言をしているのは学のある貞四郎と重八の二人)ためなのでしょう。

・昔の手紙を何度も読んでもらいにやってくる男。今の彼には手紙をくれる家族も友人もすでにないことが婉曲に示されている。宗左にことさら悪態をつくのにも男のやりきれなさ、孤独感が滲み出ている。
そして「商売あがったり」にもかかわらず、苦笑しながら繰り返し男の「芝居」に付き合ってやる重八の優しさが、ほんのりした温かみを醸し出す。


前回のおまけクイズ、正解は、『六番目の小夜子』(NHK教育、2000年)、『藤沢周平の人情しぐれ町』(NHK総合、2001年)、『盲導犬クイールの一生』(NHK総合、2003年)、『ちょっと待って、神様』(NHK総合、2004年)、『forget me not-忘れな草-』(NHK-FM、2004年)でした。
『篤姫』と答えられた方、まだ放送されていません(笑)。『フレンドパーク』出演時の勝地くんのように、「あーもうー!!」と叫んでくださいませ♪

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『花よりもなほ』(2)-1(注・ネタバレしてます)

2007-10-23 01:36:13 | 花よりもなほ
・黒い画面にマンガみたいなフキダシの形でサクッと状況説明。
いかにも瓦版調の文面と陽気なメインテーマが、作品のカラーを象徴しているかのようでワクワク感をあおる。

・立ち並ぶ長屋は今にも崩れそう+匂ってきそう。
大半の長屋の住人の衣装(屑屋の乙吉(上島竜兵さん)などそのままゴミに同化しちゃいそう)も含め、雑誌やメイキングでも言及されていた美術さんの「汚し」技術に感服。

・たてつけの悪い障子の開け閉めに難儀する宗左衛門(岡田准一くん)。
話が進むにつれこの障子は滑らかに開くようになってゆきますが、それは宗左の精神状態に呼応してるのだそう。同時に彼が次第にオンボロ長屋の生活に馴染んでゆく過程を表してるようにも思えます。
ちなみに貞四郎(古田新太さん)に仇の所在を知っていると打ち明けた直後の場面で、障子に刀が引っ掛かる演出は岡田くんのアイディアなのだそう。
「あれがあることで宗左自身、自分が刀を差している意味がわからなくなっている状況が見事に伝わりました。」(是枝監督談)。
岡田くんの役柄及び作品に対する理解の深さが感じられます。

・「仇を残して亡くなるなんて本当にいい父上を持たれましたなあ」。酷い言い草だが、宗左は特に怒らない。
仕官の当てもないまま虚勢を張り続ける平野(香川照之さん)を哀れむ気持ちがあるからだろう。宗左の人の良さがわかる場面。

・飯屋での宗左と貞四郎のすっとぼけた会話。
仇らしい男が見つかったといわれては体よくたかられてる宗左が、すでに貞四郎を信用していないのが目付きと冷め切った口調から伝わってくる。
ところでこの貞四郎という男だが、ストーリーに赤穂浪士の仇討ちが絡むと聞いていたので、てっきり赤穂不義士の田中貞四郎かと思っていた。
実際は全然違ってたわけですが、貞四郎の口から赤穂浪士を批判するような言葉がたびたび出てくるので、田中貞四郎にちなんでのネーミングだったのかな、と思ったりもします。

・作品の要ともいうべき「糞を餅に変える」の台詞が孫三郎(木村祐一さん)の口から出る。
難しい会話の流れが理解できない分原因と結果をストレートに結び付けてしまう彼の台詞は、それゆえにしばしば本質をつく。

・貞四郎と大家(國村隼さん)の会話。相手への反感を隠そうともしない皮肉を含んだ、そのくせ軽口めいた口調の応酬は、大人の男の洒落っ気を感じさせる。

・宗左の元に故郷からの手紙が届く。文体からするに書いたのは母親(女性)ではなく弟ですね。
「送るべき金子がない」という内容が嘘だったことは後の里帰りの場面で明らかになるんですが、あの弟がそういう姑息なやり方をするのはちょっと意外。
「いつまでも仇を討てん、不甲斐ない兄上に送る金なぞない」とかきっぱり言ってよこしそうな感じなのに。

・そで吉(加瀬亮さん)にどうやって仇に勝てるつもりかと嫌味を言われた宗左は、「かなわなければその時は潔く桜の花のように散るだけです」と答える。
それに対するそで吉の反論は、宗左を批判しているのみならず、死を観念的に捉え美化する武士道そのものを批判してるのでしょう。

・「ツケって何?」「ごはんが食べたいんだけど今お金がないから支払いは今度にしてください、って意味だよ」「貞さんのは(中略)どっちかっていうと踏み倒しかしら」 
子供の疑問に大真面目に解答する(「踏み倒し」の書き方まで教えてる)大人たちがどこかトボけていていい味。
このへんの天然ぷりを見るに宗左とおさえ(宮沢りえさん)は結構お似合いなんでは。

・「踏み倒し」の字を教える場面から、宗左が子供たちに手習いを教える場面に転換。その流れのスムーズさが心地好い。

・子供たちに丁寧に文字を教え、口の汚れまでぬぐってやる世話焼き宗左の表情はとても優しい。
到底仇持ちの男の身過ぎ世過ぎとは思えない。侍より手習い師匠の方が天職だよなあ、と一分たらずで納得させられてしまう名シーン。

・宗左が吉良方の間者ではないかと疑って、あれこれ探りを入れる赤穂浪人たち。
「青木さま、趣味は何かおありか」がいきなりすぎて怪しくなってるのが笑える。
赤穂浪人たちの口から出てくる大石や同志についてのあれこれが、ちゃんと史実(として伝わっている出来事)に基づいているのが『忠臣蔵』もの好きとしてはちょっと嬉しかったり。

・宗左と寺坂(寺島進さん)が碁を打つシーンでやっと明かされる宗左の父の死の経緯。
いさかいの馬鹿馬鹿しいきっかけをぽつぽつと話す宗左の姿は、そんなくだらないことで命を落とした父とそのために仇討ちしなくてはならない自分の両方を少し嘲っているように見えた。

・長屋の連中は基本的に宗左にタメ口。
身分制度のかっちりしていた当時、浪人同然とはいえ武士階級の宗左は本来こんな口を聞かれる立場ではないのだが、それを当然のように許している(逆に自分の方が敬語だったりする)あたりに宗左のなめられがちな人の良さがよく出ている(平野も相当ないがしろにされてるけども)。宗右衛門だったら青筋立てて怒鳴るところだろう。


♪おまけ♪

『東京フレンドパーク2』のコーナー「ボディ&ブレイン」風お題を一つ。
「NHKで放送された勝地くん出演のドラマを5つ挙げよ」。正解は次回で。

 


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『花よりもなほ』(1)

2007-10-19 01:44:53 | 花よりもなほ
元々ドキュメンタリー製作からキャリアをスタートさせ、実際に起きた事件を元にした『誰も知らない』で一気に世界的評価を受けた是枝裕和監督初の時代劇。しかもコメディ。

『誰も知らない』が至極重苦しい内容(当時は未見だったので、あらすじや世間の評判からそう類推していました。実際に観てみたら悲痛なうちにもほんのりした暖かさと微かな希望の光が感じられる、それゆえになおさら悲痛さがつのるような透明な美しさに溢れた作品でした)であり、浅野内匠頭の辞世の句から取ったタイトルも武士道の美学を想像させただけに、どんな作品に仕上がってるのだろうと思っていたら、実に軽快で小気味良い、それでいて時に哀切な、日本的な情緒に満ちた傑作でした
(会話の流れやエピソードの組み立て方が落語っぽいなと思ってたら、やはり是枝監督は落語を意識してストーリーを練ったそうです)。

主人公・宗左衛門(岡田准一くん)が暮らす長屋の住人は、貧乏という共通点こそあれ、浪人あり遊び人あり、掃き溜めにツル的な美人の後家さんありの雑多な面子(赤穂浪士までまぎれていたりする)。
それがみんな仲良しというでもなく、時には対立もしながら、何となく認め合って暮らしている。その懐の深さに何だかほっとするものを覚えます。

長屋の住人や周辺のキャラクターはわかりやすい個性付けがしてあるわけではなく、むしろそで吉(加瀬亮さん)を中心とするサイドエピソードを除いてほぼ完全に宗左メインでストーリーが進んでゆくため、彼らのバックボーンも個々の性格もほとんどわからない。
にもかかわらず一人一人が生気に満ちているのは、その台詞や表情、間の取り方の中に彼らの考え方・生き方が凝縮されているからなのでしょう。
それはお笑いの人を多く起用したキャスティングの絶妙さ(お笑いの人ではないけれどコメディからシリアスまで幅広くこなす貞四郎役古田新太さんの飄々たる存在感はさすが)、狡さも弱さも含めた人間の在り方に対する監督の愛があればこそだったと思います。

この作品では終始「糞」の話題が繰り返されてますが、化学肥料と水洗トイレの普及にともなって現代社会では単なる汚物扱いにされがちな糞を、排泄と摂食(堆肥として農作物の栄養源になるという意味で)という人間の営みの根源として捉え直しているのも、上述の「愛」ゆえなのでしょう。

さて勝地くんについてですが、本人の近作情報には大分前からこの作品が載っているにもかかわらず、映画のメイキングでも関係者のインタビューなどでも一切勝地くんのことに触れてないので、
「思いきりチョイ役なのか、あるいはひょっとすると影の重要人物なのであえて伏せてあったりするのか」
とかあれこれ想像してたんですが、まあチョイ役のほうでしたね(笑)。
とはいえ主人公の弟なので出番が少ない(それでも想像よりは多かった)わりには大事な、それも彼の個性を活かした役柄だったのでファンとしては嬉しかったです。

2006年1月放映の『里見八犬伝』同様、やや台詞回しがぎこちない部分はありましたが(収録は『花よりもなほ』が先)、衣装の着こなしや顔の造作、声質自体は時代物によく似合っていました。
2007年夏の舞台『犬顔家の一族の陰謀』の劇中劇?パートでは時代調の台詞回しも自然にこなしていたので(ただしときどき台詞が若干聞き取りにくくなる傾向あり)、来年大河ドラマでその成長ぶりを見るのが今から楽しみです。

ところで映画の公開にあわせて是枝監督自らの手になるノベライズが出版されています。撮影よりも後に書かれたもので、映画ではわかりにくかった演出の意味やキャラクターの心情を知ることができました。
その代わり映画では全編通して感じられた、多くを語らず行間を読ませる手法によって生じていた情緒がすっかり薄らいでしまっていた。
当然ながら一作品としての魅力は完全に映画に軍配。ノベライズはあくまで映画を補完する副読本として楽しむのがおすすめです。

 


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『盲導犬クイールの一生』(2)

2007-10-15 00:32:23 | 他作品
とりわけ印象深かったのは政晴が盲導犬を否定する発言をした両親に怒鳴る場面。
TBSの単発ドラマ『さとうきび畑の唄』で昇(勝地くん)が友人をかばって上官に怒りをぶつけるシーンを彷彿とさせますが、昇の声が語尾まで発声が明瞭なのに対し、政晴の声はもっとざらついた、感情をそのままぶつけた風情の乱暴な響き。
どちらも怒りのあまり声が詰まり気味で泣きそうにまでなっているのは共通なのに、戦前の教育を受けた少年の背筋の伸びた感じ、現代っ子らしいちょっと甘ったれた感じがちゃんと演じわけられているのに驚きました。
撮影時期は数ヶ月しか違わないはず(『さとうきび畑の唄』は2003年7月~9月収録、『クイール~』は2003年6月~7月放映なので4、5月頃の撮影?)なのに。たいしたものです。

そして終盤、学校に戻ると宣言し歩き去ってゆく政晴の後ろ姿は、先に三都子に頭を下げて歩き去るときとは対照的に背筋が伸び、しっかりした足取りには進んで困難に立ち向かってゆこうとする決意が滲み出ていました。
その後政晴がどうなったのか、はっきりした説明はなされていませんが、仁井家のテーブルに飾られた写真の中、野球のユニフォームを着てチームメイトに囲まれた彼の笑顔だけで、宣言どおり野球部に復帰した彼が充実した日々を送っていることが察せられます。
クーちゃんと遊んでいる時、すでに柔らかな笑顔を見せるようになっていた彼ですが、バットを手にグラウンドに片膝をついた写真の彼はさらに生き生きした、これまでで最高の笑顔を見せているから。

原作に政晴にあたる人物は登場せず(彼に限らず第一回のゲスト・亜弓ちゃんも渡辺さんの娘や息子など少年少女キャラはほぼ全員ドラマ独自の設定)、「盲導犬は人間社会の犠牲者」という偏見に対する回答とアニマルセラピーの効能を合わせて描いたようなストーリーはやや強引な感もあり(お父さんの転勤はどうするのだろう?)、とくに盲導犬に対する無理解の象徴というべき政晴の両親の性格付けはかなり表面的なものになってましたが、政晴のキャラクターは極端に少ない台詞にもかかわらずしっかりと造型がなされていた。
最低限の台詞と動き、小道具でそれを表現した脚本・演出の巧みさと、その演出プランを見事に具体化した勝地涼という年若い俳優の実力を、大いに(改めて)思い知らされたものでした。


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『盲導犬クイールの一生』(1)

2007-10-12 00:54:53 | 他作品
2003年にNHK総合で放映(全七回)。クイールという名の盲導犬の生後間もない時期から永眠までを、人々との関わりを重視して描いた半ノンフィクションドラマ。
のちに『クイール』のタイトルで映画化もされ、盲導犬に対する世間の知名度・理解度を上げるのに大いに貢献したものと思われます。

勝地くんは不登校の少年・政晴役で第三話にゲスト出演(第二話にも顔見せ程度にちょこっと出てきます)。
この作品の彼(当時16歳)は実に可愛いとの評判を方々で見かけていたので、出番はほぼ一話のみということもあり、演技やストーリー上の役割よりむしろビジュアル要素に期待しながら視聴したのですが――。

・・・・・・すごい。

正直ビジュアルに目がいったのは3回以上見返してからで(確かに可愛かった)、もっぱら彼の演技に目が釘付けでした。
もともと大げさな芝居をする人ではないけれど、演出家の意図なのか、いつも以上に表情も声音も抑え気味。
前半は自室のベランダや河川敷?などで台詞もなくただ佇んでいるシーンばかりなのに、あるかなしかの表情が政晴の内面の鬱屈した思いを伝えてくる。
下手すれば単にぼーっとしてるようにしか見えなくなってしまうだろうに、まだ16歳の俳優にこんな難易度の高い演技を要求した演出の思い切りに驚かされました。

バットダコは次第に薄くなり、少し本気で走っただけで息が上がってしまう。
日々脆弱になってゆく自身の身体と一人向き合いながら、今の自分の弱さを知ればこそ何を始めることもできずにいる。
そんな不安や苛立ちを諦めで包んで皮膚の一枚下に抑え込んでいる緊迫感と苦しさが、一見静かな彼の佇まいから存分に伝わってきました。

クイールにボールをぶつけようとしたと誤解されても、ちゃんと釈明せずに「すみませんでした」と頭を下げて話を打ち切ってしまう。
全てに自信を失い、人と関わることさえ億劫になってしまっているのが、力なく歩き去る後ろ姿に集約されているようでした。

(彼が外に心を開いてゆくのは三都子(沢口靖子さん)に追いかけられたこと、ついでクイールと駆け回って遊んだことがきっかけになっている。
本来野球少年の政晴は日常的にかなりの運動量をこなしていたはずなので、運動しない=不自然な状態はそれ自体かなりのストレスだったと思われます。
体を動かすことが心を開いてゆくのに繋がる流れはとても自然)。

そしてこの前半部の無表情に近い表情があればこそ、中盤以降、クイールと遊ぶときの笑顔や交通事故で野球をあきらめた事情を語るときの涙(これらの表情の動きもかなり控えめです)が活きる。
彼が少しずつ表情を取り戻してゆくのに(それが涙であってさえ)なんだか嬉しい心地になります。
夏祭りの帰り、両親に三都子と勇(勝村政信さん)とクーちゃんを紹介する場面などごく自然に明るい笑顔を見せてますし。
(なのに政晴の両親は、長らく引き篭もりがちで表情も失っていた息子がああやって笑えるようになったことに全然反応しないのですよね。あの親じゃ無理もない、という感じですが)

(つづく)


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『末っ子長男姉三人』

2007-10-08 02:00:35 | 他作品
2003年TBS系列で放映。優しい年下の夫・柏倉一郎(岡田准一くん)と結婚した春子(深津絵里さん)が、姑のみならず思いがけず実家に戻ってきたアクの強い小姑三人と同居するはめになって悪戦苦闘するさまを描くホームコメディ。

多分に我が儘な柏倉家の面々(たいていは姉たち)が毎回のように衝突を繰り返し派手な罵りあいなども繰り広げながら、物語全体はどこかほわんと暖かで品のある雰囲気をもっているのは、勝地くんのおすすめ本である『寺内貫太郎一家』(もともとはドラマだったものを脚本家の向田邦子さんがノベライズしたものと思われます)に共通するものがあるかも。
おばあちゃんがある歌手の熱狂的ファンだったり(『末っ子~』ではさだまさしさん、『寺内~』では沢田研二さん)、その歌手の方が最終回にゲスト出演したりするあたりが特に。

勝地くんの役どころは賀来千香子さん演じる柏倉家の長姉・節子の息子・米山健一。
勝地くんいわく「自分とは似ていない」(でも知り合いには似てると言われたそうな)ちょっと、というかかなりドライな高校生男子を、さらっと演じていました(実際は豪華共演者の方々を前に緊張の極地だったらしいですが)。
公式サイトのフォト日記(なぜかレギュラー出演者ではない(第2話、第3話、第8話、第10話に登場)勝地くんによる舞台裏の写真つき日記が当時不定期連載されていました。「撮影日記」の10月13日、10月26日、11月9日、11月19日、12月5日、12月19日が勝地くんの担当です。なお12月17日分のスタッフ日記にもフォト日記についての補足あり)で、
「台本を読んだ時は、可愛くない奴だな~と思ったけど、最終回までには愛されるキャラクターにしたいな」と話していた通り、一見クールな言葉の端に家族への愛情を上手く表していたと思います。
「息子の声くらい分かれよ」と言うときの声が存外優しい響きだったこととか。
最終話の号泣シーンは健一のキャラからするとちょっと意外でしたが、お父さんの台詞をまんまなぞったような「何時何分?」に笑いました。大泣きしてるわりに妙に言うことが事務的というか。

ところで、このフォト日記で勝地くんは「相変わらず健一はクールすぎ!(中略)自分で演じながら、こんな健一はみなさんから愛されてんのかな~??と不安になってしまう」と書いてるんですが、自分のイメージが悪くなることでなく「健一」が視聴者に悪く思われることを恐れているかのような表現が、親しい友達のことを「あいつ誤解されやすいけど、本当はいい奴なんだよ」と周囲にアピールしてまわってるみたいで、微笑ましいなあと思ったものでした。

個人的見解ですが、彼は役そのものになりきるというより、その役の最大の理解者としてその魅力を余すところなく観客に届ける媒介を務めようとしているように感じます。
インタビューなどで役柄について語っているのを読むと、あくまで自分自身とは別個に存在するキャラクターの性格を懸命に理解し、自身の感情を擦り合わせるようにして表現しようとする彼の努力が伝わってくる気がするので。
『CREA』2007年7月号で鈴木杏ちゃんがコメントしていたように「役を心から愛し、そして心で演じる役者」なんですよね。

余談ですが、初めて勝地くんの書く字を見たのがこのフォト日記でした。「文字には書いた人の人間性が表れる」というのが持論の私は、当時いささかショックを受けたものでした(笑)。
もっともヘタなりに雑に書き流していないきっちりした文字は読みやすくて、他の字と混同することはまずない。そんなところに彼の真面目さや飾り気のないさっぱりした気性が表れているように思えるのは・・・欲目ですかね(笑)。


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5月の沈黙

2007-10-04 01:15:03 | その他
2005年12月から2006年4月にかけて、珍しくテレビで彼を見る機会が多かった。
2月はテレビには出なかったものの映画やドラマの撮影の様子が聞こえてきたし、4月は『恋するハニカミ!』のみだったけれど(あとNHKの『いっと六県』で上演中の舞台『父帰る/屋上の狂人』の映像を一部流した)、『父帰る~』のレポをネットでたくさん読めたので情報不足は感じませんでした。 

次の仕事についても舞台が終わる頃には告知されるだろうと思ってたんですが、予想に反して5月に入っても何も情報が聞こえてこない。
そればかりか事務所公式のメッセージも全然更新されないまま。約一ヶ月に及ぶ舞台が終了して時間的にはいくらか余裕ができたと思われるにもかかわらず。 

ひょっとして仕事で海外行ってるのか、あるいは千秋楽を迎えたら疲れが一気に出て寝込んじゃったのかとも思ったんですが、東京近辺でたびたび観劇中のところを目撃されているのでそのどちらでもない。
となるとあと考えられるのは・・・・・・心の問題。  

4月の舞台は見ていないのですが、観劇レポはほとんどが絶賛状態、彼に対する評価もすごく高い。
カンパニーのチームワークも最強で、日々進化し続けるとんでもなくクオリティの高い舞台だったのがひしひしと伝わってきました。 
そんな充実した日々が突然なくなって、そこに長いオフが重なったとしたら(長丁場のあとだし新作情報がないことからして十分ありうる)虚脱状態に陥ってもおかしくない。 

さらに彼が前年から時折口にしていた「漠然とした不安」。
その不安が大学に行くという保険をかけず不安定な専業俳優の道を選んだこと(その選択を決して後悔はしてないでしょうが)に由来する以上、これはもう耐えてゆくしかないわけですが、舞台が終わって気が抜けた時にこれまでは漠然としていたものが一気に形になって噴き出してしまったんじゃないかと思えるのです。 

学生がたとえ学校にろくに行かなくても学費さえ払っていれば学生なのと違って、事務所に所属しているとはいってもやはり俳優は演じることによって俳優たりうる部分がある。
まして「『職業は俳優』とそんな大きなことはまだ言えない」(18歳当時のインタビュー。2007年6月の
escala café」のインタビューでも同様の発言をしていました)と考えている彼であってみれば、仕事をしていない状態が続くと、自分が何者なのか、その足元さえ覚束なくなるような不安を感じるんじゃないか、と。  

頻繁に観劇に通っていたのも、「時間的余裕ができたから」「知り合いが出演してるから」という以上に、少しでもお芝居に近いところにいないと不安で居たたまれなかったのでは。
けれど見に行ったら行ったで、きっとまた「なぜ自分は客席の側にいるのか」と考え込んでしまったり・・・。
そんな悪循環を一ヶ月近く繰り返してたんじゃないでしょうか。勝手な想像ですけれども。
 
 

思うんですが、彼ってファンに愚痴らないですよね。甘えないし、媚びない(ファンに愚痴りまくる芸能人もそういないでしょうが)。
ちゃんと友達とお客さんの線引きができている。
撮影の苦労話を書くときも「大変でしたあ~!」「涙です。」などあくまで軽い調子で、「でも楽しかったです。」「やり甲斐がありました。」といったフォローの言葉も忘れない。
メッセージを読むといつも自然と彼の笑顔が浮かんできます。だからこそ、どうしても笑えない気分の時は更新できなくなってしまうのかもしれません。 
『Kindai』7月号(同じ事務所の北条くんとやっていた連載の最終回が載った号)の発売日(5月23日)にメッセージを更新してくれたのは、突然の連載終了にファンが動揺しないようにとの本人なり事務所の人なりの気遣いだったんでしょうね。
頑張って長文を書いてくれたその気持ちが嬉しいです。

正直、このメッセージが明るい調子だったので、無駄に心配しすぎたかなとも思ったんですが、6月7日発売の『POTATO』7月号の記事を読んだら、舞台が終わった後いつになく役を引きずった、高校卒業以来の長いオフに「休みがつくづく性に合わないと思い知らされた」「休んでていいのかな?」と不安になったと話していて、「ああやっぱり」という感じでした。
8月発売の『俳優になる』でも「何もしていない自分が、まわりに置いて行かれちゃう気がした」と言っていたし・・・・・・一ヶ月さぞ悶々と苦しんでたんだろうなあ。
ただファンに愚痴らない代わり友達にはたくさん甘えたり弱音を吐いたりできてるようなので、そこの部分は安心してるんですが(悩みを吹っ飛ばしてくれた二宮くんに感謝!)。 
このさいぜひフォスターさんには倒れない範囲内で彼をガンガン働かせて頂きたいです。
その方がファンも本人も(たぶん)喜びます。あくまでも「倒れない範囲」で。 

――そういえば8月もやはりメッセージの更新が滞りましたが・・・こちらはあまり心配にならなかった。
『さよなら』PVのインタビューや『Cool Trans』で最高の笑顔を見せてくれてたからかな?


P.S. 上記の文章を書いたのはブログ開設前、去年の12月頃でした。その後まもなく事務所のメッセージコーナーはなくなってしまったので、いまや遠い昔の話題という感じですね。
メッセージに代わる個人ブログの開設については長らく「Coming Soon」状態になってますが、ずっとこのままでもいいんじゃないかという気もします。
たぶん短い文章一つ書くのにも、読者であるファンや関係各方面に相当気を使ってしまうタイプだと思うので、負担になるのなら無理にやらなくても、と。
メッセージ中の何気ない文章にしばしば胸打たれてきた身としては結構残念ではありますけど。

話は変わりますが、最近はオフの過ごし方として、トレーニングジムやウェイクボードの話をよくしていますね。
「根は結構家にいちゃう、何もなかったら夕方まで寝ちゃったりとかするから、なるべく、こう、出ていくようにしてる」という、『月光音楽団♪』ほかでの発言を聞くと、休みを「何もしていない」時間にせず有効活用してゆこう、(とくにジム通いはもともと舞台『犬顔家の一族の陰謀』に向けての体力作りだったようなので)役者としてのレベルアップのための充電期間にしようと積極的に動いているようです。

不安をまぎらわすのでなく、不安を感じる必要がないほどに日々を充実させてゆこうとする――。
あれから一年を経て、より前向きに逞しく歩んでいる彼の姿が何だか眩しく思われるのでした。


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『空中庭園』(2)-5(注・ネタバレしてます)

2007-10-01 00:51:50 | 空中庭園
・さと子は絵里子が小さいころよく一緒に食事に行ったといい、絵里子はそんな事実はないという。
観覧車の思い出について「自分の記憶を夢の中で書き替えてるのよ、いい方へ」とさと子が話したことからすると、「よく食事に行った」のもさと子の美化された記憶だろうか。
さと子と絵里子の周りをカメラがずっと回りながら撮ってゆく円形運動に、「やり直し、くり返し」というさと子の言葉がかぶさる。
蝋燭の炎が一つ消えるたび暗く沈んでゆく部屋。外には雷鳴が聞こえるのも静かな緊迫感をあおる。

・最後の蝋燭を吹き消し暗転したあとに、病室で眠るさと子の映像に切り替わる。
台本では蝋燭を吹き消したところで倒れたと書かれている。本当に命の炎を吹き消していたかのよう。実際には命に別状はないんですが。

・兄(國村隼さん)からさと子が自分の話ばかりしてると聞かされ、言葉を失う絵里子。
彼女のさと子に対する反発は詰まるところ、「自分は母に愛されていない」と思っていた(思い込んでいた)ところにあったので、その思い込みと対立する情報にとっさに対応できなくなってしまう。
さと子からの電話を契機に「生まれ変わる」ための下地がここで作られている。

・コウとすれちがった女性が子供二人の腰に紐を結わえてその先を握っている・・・。
まるで犬のお散歩状態。小さい子はあちこち動き回るし、いきなり車道に飛び出したりもするから、二人連れてれば大変なのはわかるが。
彼らを振り返るコウは、この子供をペットのように扱う母親と、子供たち(姉と弟)という組み合わせに自分たち母子を重ね合わせているのだろうな。

・絵里子が通りすがりにたんぽほの花を摘み、綿帽子をふーっと吹くシーン。
先の蝋燭を吹き消すシーンに対応しつつ、ラストの白い花の登場を準備する。

・サッチンとその彼が逮捕されたとのニュース(具体的内容はよく聞き取れないがパンフレット収録の台本によれば罪名は強盗殺人)。
「以前同店で~」というアナウンサーの言葉からすると、例のおそば屋さんへ押し入ったようだ(殺されたのは店長?)。先に絵里子に電話で頼もうとした「ロッカーに忘れたピアス」を取りに行こうとしたのがきっかけか。
この後絵里子はさと子から「お誕生日おめでとう」の電話をもらって、彼女への憎しみに繋がる過去の記憶を良い方向へと修正してゆきますが、それに先立って絵里子の本当の過去を知る唯一の登場人物(本来ならさと子も知ってるはずだが、彼女の記憶は本人が語る通り多分に「書き替え」が行われているので)サッチンは、もはや絵里子を脅かさない場所へと「排除」される。

・コウの部屋のカレンダーに大きく花のマークがついてる日付がある(後の展開からすれば今日この日)。
花模様というところに彼が母の誕生日を、ひいては母を、大切にしてる気持ちが滲んでいる気がする。

・コウは団地の窓の構造を「太陽が平等に差し込んでみんな幸せになれる」ためじゃないかと言うが、ミーナは「洗濯物が乾くため」だと一蹴する
(とはいえその少し後で「ほなね」と別れを告げる声の優しさからすれば、決してコウをバカにしてるわけじゃないだろう)。
思春期の少年少女の、物事を妙に形而上的に捉えたがる理屈っぽさとロマンティシズムを、合理的・世俗的な大人の視点であっさり無効化する。
絵里子に「思い込んでると本当の物が見えなくなる」と言ったコウもまた思い込みに囚われていた。そんな彼の思い込みに風穴を開け、世の中はもっと単純で適当なものだと教えてくれる。
コウはミーナに勉強を教わるようになって、自分の弱点は思い込みの激しいところだとわかったと語っていたが、このバスのシーンはミーナの「最後の授業」だったのかもしれない(原作ではミーナはこの後少しして遠くへ転居する)。

・いつ動き出すかわからないバスを捨てて、窓から脱出するミーナ。
雨に濡れるのも水溜りに足を突っ込むのも構わずに、軽やかに彼女は走り去る。安全な場所を出て、リスクを恐れずに自分の足で、外へ向かって
(この作品に繰り返し表れる「生まれ直し」のモチーフからして、このトンネルは産道の見立てなのではないか)。
そしてコウはミーナを見送るだけで、彼女に続いて脱出しようとはしない。彼は母が作った京橋家の嘘臭さを知りつつ、結局そこへ帰り、明日からも「学芸会」を繰り返すのだろう。
けれどそれは無気力に周囲に合わせているのではなく、カレンダーの花マークが示すように、家族とりわけ母親に対する愛情があればこそだろう。
彼は自分の意志で、幸せ家族の幻想に囚われない自由な視点を保ちながら同時に京橋家の良き息子であることを選択した。
それがミーナが開けた窓からの外気に触れつつ、外へは出てゆかない彼の行動に現れているのでは。

・自分の分身というべきバースディベアを引き出しにしまう行動に「子宮への自閉」をうかがわせていたマナが、引き出しからクマを取り出す。彼女の「誕生」-生まれ直しの瞬間。
そしてこれまではモッキーやテヅカが一緒だったマナが一人でホテルへやってきている。
場所がラブホテルだから男性同伴が当然ではあるのだが、(家庭を与えてくれる存在としての)男性に依存する傾向のあった彼女が一人で行動できるようになったのも彼女の成長を思わせる。
クマを手にしたときのマナの明るい笑顔がまぶしい。

・マナがバスに乗り込んできたとき貴史は携帯の画面を見ているが、絵里子との電話を切った直後だろうか。
電話であれだけ罵られた直後にもかかわらず、マナに「愛してなければできない」と答えたのだから、これは確かに「愛」なのだろう。

・「ママなんかやばいかもよ。(中略)最近独り言多いんだよね。ぶつぶつぶつぶつ。「バカ」とか、「死ね」とか、「殺す」とか」。
独り言というが、マナは絵里子がさと子に「もう死ねば」と言うのを聞いているはず。独り言よりもっと「やばい」状況に陥ってると思うのだが、それには触れない。
・・・ひょっとすると、あの誕生パーティの場面で絵里子が口にした罵倒は全て彼女の妄想であり、実際は独り言をぶつぶつ言っていただけだったのだろうか?
(マナは父に「エロ本隠してないでさ」とも言ってるから、あの場で起きたこと全てが妄想ではないはずだが)
だとすれば絵里子はいよいよ現実と妄想の区別がつかなくなっているわけで、本当に「やばい」。

・「あのしょーもない団地の家守るなんて地味なこと、愛がなかったらできるかい!」 
貴史は絵里子のように、あの団地になんら幻想を見てはいない。
団地のみならず自分の現在や未来にも別段夢を抱くでもなく、場当たり的に「チョロ助みたいにヘラヘラと」その場その場の快楽を求めている感じ。
それは飯塚やミーナとのつき合い方や職を点々としてることに表れている。
けれどそういう男だからこそ北海道自転車一周旅行という「夢」を捨てて、絵里子の妊娠という現実を受け入れることができた。
いや、むしろここで夢を捨てたことで、もともとあった傾向が増幅されて、現在の至極現実的な貴史が出来上がったのだろう。
自分にも他人にも過分な幻想を抱くことなく、目の前の現実に彼なりのベストを尽くして対処し続けている貴史は、絵里子のような「思い込み」とは無縁である。
職を頻繁に替えるのも彼に言わせれば「ちょっとでもええ仕事があったらそれに飛びつい」た結果。
自分は幻想の外にいながら妻の家族幻想に付き合ってあげている彼は、(それがいい加減な性格ゆえの行動としても)結構いい旦那さんなんじゃないかと思います。

・タイトル前の場面では朝バスに乗ったらばらばらの席に座り、口も聞かなかった彼らが、この帰りのバスでは(やっぱり席は離れてるけど)ごく家族らしい会話をしている。
貴史とマナの会話は相変わらず赤裸々ではあるが、普段の京橋家のような「本来伏せておくようなことをわざわざ白日の下に晒している」うそ寒さはなく、ごく自然に家族への思いを口にしているのが伝わってくる。

・家族を待ちながら、花模様を描いた玩具?をいじる絵里子。花が崩れては元に戻るその仕組みは「やり直し、くり返し」の象徴。

・さと子が(自分の留守中に)家に電話してくることを激しく嫌がっていた絵里子が、その電話によって救われ、生まれ直す。
兄から自分の思い込みとは正反対の事実=「さと子は絵里子を深く愛している」ことを知らされ、心揺らいでいたところに母の愛情を示す「お誕生日おめでとう」の言葉。
母を憎悪し、反面教師として京橋家を作った絵里子は、母へのわだかまりを解いたことで、表面的な平和をヒステリックに守ろうとする態度を少しずつ改めていけるのだろう。

・「本当に大切なことは墓まで持ってゆくもんだよ」と言われて、絵里子は大人しく「そうね」と答える。
「何事も包み隠さず」という京橋家のルールに反するさと子の言葉を自然に受け入れている。
上の場面に続いて、絵里子と京橋家が今後変化していくだろうことを示唆する場面。

・絵里子の記憶の中で、「生まなければよかった」と言った後のさと子の表情が、哄笑から「聞かれちゃいけない事を聞かれてしまった」ショックの表情に代わり、あげなかったはずのアイスは親子仲良く分け合ったことに代わる。パーティの時にさと子が言っていた「記憶の書き替え」。
ただしこれは、よい方へ記憶が書き換えられたのか、母への憎しみゆえに歪められていた記憶が本来の形を取り戻したのか。先のさと子の台詞とあわせれば、前者の「いい方への書き換え」が正解であろうか。
とすれば、結局それは真実から目を背けて、自分に都合のいい偽の記憶に逃げ込んだだけと言えはしないか。
処世術としては有効だろうが、一つの「思い込み」から別の「思い込み」に視点が切り替わっただけ、というなら、彼女は相変わらず自閉してるわけだ。

・血の雨を浴びながらくりかえし絶叫する絵里子。一声叫ぶたびに表情も声もどんどん幼く、赤ん坊に近付いてゆくようなのに驚愕。
この映画、とくにこの大詰のシーンでの小泉さんの演技が絶賛されたのも無理からぬところ。
(『キネマ旬報』2005年10月下旬号掲載の小泉さんロングインタビューによると、「目にも口にも血糊が大量に入って、半日くらいは視界にモヤがかかってたし、3日間、声が出なかった」そうです。お疲れさまでした!)

・帰宅した貴史たちがチャイムをたびたび鳴らしても、ベランダにいるはずの絵里子は無反応。カメラの視界にも一向に絵里子の姿が入らない。
あのまま赤ん坊から胎児へとどんどん退行して消滅してしまったんじゃないかと思わず恐怖を覚えた。

・絵里子へのバースディプレゼントをそれぞれに抱えて帰ってきた京橋ファミリー。
この「サプライズパーティ」は原作(絵里子視点の「空中庭園」の章)では絵里子の想像(願望)にすぎず、実際の彼らは待っても待っても帰ってこない、という場面で終わっているが、映画ではサプライズパーティが現実のこととして描かれており、後味のよいハッピーエンドになっている
・・・といいたいのだが、気になるのはドアを開けたシーンで貴史、コウ、マナの顔が映らないこと(正確には、マナは顔の下半分がちょっと映る)。
単に彼らが抱えたプレゼントをクローズアップするためなのかもしれないが、絵里子が求めているのは個々の顔を持つ生身の彼らではなく、自分のためにパーティを企画し、こっそりプレゼントを抱えて帰ってくるような心優しい(彼女にとって都合のよい)「家族」なのではないか、という疑念が湧きあがってくる。
先のバスでの会話シーンがあるので、さすがに玄関前に立つ彼らの存在までもが絵里子の妄想ということはないんだろうが・・・。

・夫は白い箱を、息子は白い花を、娘は白いクマをそれぞれ抱えている。
絵里子の絶叫シーン初め繰り返し表れる血のモチーフ-赤い色に対して、「まっさらからやり直す」イメージの白がここで登場し、生まれ直した絵里子の新しい人生を寿いでいる。
その中からさらに白い花がクローズアップされ、冒頭部と最後の場面の食卓に飾られた赤い花に代わって、これからの京橋家を彩るだろうことを暗示する。

 

この作品、とりわけ導入部の揺れる街並みや観覧車、「野猿」のベッドなどの回転(円環)運動を、繰り返し見るうちに感じたのが一種の「癒し」。
心の凝りがほぐれて外へ解き放たれて行くたぐいの癒しではなく、安全な繭の中で体を丸めているような自閉的な居心地の良さ。
「野猿」で「ここずっといたい」とつぶやいたマナにうっかりと共感してしまいそう。
そしてさと子のように「やだやだ」と付け加えてみたりしたくなるのです。


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