about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(3)-9(注・ネタバレしてます)

2016-12-30 02:49:59 | ムサシ
もちろん基本的には井上さんは笑いを肯定する立場に立っている(※56)(※57)(※58)。それはチェーホフを主人公にした芝居『ロマンス』(初演2007年)に強く表れている。
従来悲劇とみなされがちだったチェーホフの戯曲が喜劇として書かれていることとチェーホフが「笑い」をどう捉えていたかを描いたこの戯曲の精神は、第八場の「わらう わらい わらえ それが ひとを すくう」というストレートな歌詞の歌に象徴されている(※59)
『黙阿弥オペラ』(初演1995年)の中で夢破れて入水自殺しようとした四人組が、彼らを追い詰めた憎い相手の残した立て札も一緒に沈めようとして格闘する仲間の姿のおかしさにやがて笑いだしてしまい、「腹ァ抱えて笑いながら死ねるやつがいたら、こりゃよほどの達人だぜ」「笑っているうちにスーッと死ぬ気が失せてしまいましてね」と生き直す決意をするくだり(※60)は、まさに「それが ひとを すくう」の好例だろう。

一方で笑いの残酷さを描き出しているのが『シャンハイムーン』(初演1991年)のワンシーン。主人公の魯迅が知人の須藤医師と、学生時代に見て人生最大の衝撃を受けたニュースのスライド─ロシアのスパイだと疑われた中国人が斬首される場面─について語り合う場面がある。
魯迅「まわりをぐるりと見物の中国人が取りかこんでいたでしょう、みんな、薄ぼんやり笑って。同胞が殺されようとしているときに、笑うやつがあるもんか。」(中略)須藤「わたしのみたスライドでは、まわりを取りかこんでいたのは日本軍の将校だった。生命がひとつ、この世から消えようとしているのに笑いながら一升瓶のまわしのみをしていた。人間の死は酒の肴ではない。わが武士道はどこへ行った!?」(※61)
斬首そのものの残虐さもさることながら、ただまわりを取り囲んで見物していただけでなく「笑いながら」見ていた事実が、見物人の残酷さとこの映像に対する魯迅と須藤二人の衝撃を増幅させている。本来笑うべきないところで笑う─追従笑いにせよ嘲笑・哄笑にせよ─ことのグロテスクさをこの短いエピソードは端的に提示してみせているのだ。

そして井上さんにとって笑いとはまず身を守るためのものだった。井上さんは自身が吃音だった経験に基づき「たいていの吃音者は、この厄介な状況を抜け出すと、とたんにお道化者になるみたいなのだ。他人と自分との間にすぐに「笑い」の樋を渡してしまおうとする。」とエッセイで書いている(※62)
また中三から高三までを孤児院で過ごしたことも大きかった。孤児院時代を描いた半自伝小説集『四十一番の少年』(『四十一番の少年』『汚点』『あくる朝の蝉』収録)巻末に載る百目鬼恭三郎氏による「解説」は、「早くから他人の中で苦労すると、相手に気をつかい、自らを卑下してまで相手のごきげんをとり結ぶという姿勢は、第二の天性とでもいっていいほど身についてしまうものである。そして、こういう立場におかれた人間にとっては、自分を極端に卑小化し、滑稽化してみせることは、実は、優越感の裏返しなのであり、彼がこれを誇張すればするほど、優越感の満足度も大きくなるという利点もある。平たくいうと、相手に自分をバカと思わせるのに成功したということは、相手が自分よりバカになったということなのだ。」と書く(※63)。井上さんの三女・麻矢さんのエッセイの記述もこの洞察を裏付ける(※64)

一方孤児院時代には自身を滑稽化するのとは逆方向の〈演技〉も必要となった。上で名を挙げた小説『汚点』には〈恵まれない孤児〉を慰めようと善意を押し売りしてくる市井の人々を満足させるためにことさら〈不幸な子供〉らしく振る舞ってみせるくだりがある(※65)。『あくる朝の蝉』は夏休みの間、善意の市民たちによる孤児院収容児童との交流イベントに毎日のように駆り出されることを嫌った主人公が田舎の祖母の家で休みを過ごそうと企てるのが物語の発端となっている(※66)
あくまで小説なので書かれていることが皆事実とは限らないが(表題作『四十一番の少年』については孤児院での実体験に当時巷で起きた誘拐事件を接続したものでフィクションの度合いが大きい)、※65のエピソードについてはつかこうへいさんとの対談でも話しているので事実とみなしていいだろう(※67)
自身を滑稽に見せるか悲痛に見せるかの違いはあるが、自分を低く見せて相手の優越感を満たすという点では同じであろう。これとて他人をいい気分にしてやるわけだから〈笑いが人を救う〉一例と言えなくもないわけだが・・・。個人的にはどんな形にせよ他人を貶めることで喜びを得る、そんな〈笑い〉は不健全だと感じてしまう(この手の笑いを世の中からとっぱらったら、みんな人生で笑う回数が半分以下に激減するだろうけど)。

この孤児院時代の体験が示すように、他人を笑わせること、自分を低く見せることを処世術としながらも、それは井上さんにとって時に苦痛を伴うものだった。
中学三年の時と大学入学のための上京時に訛りをからかわれるのが苦で吃音になり(※Ⅲ)、さらに大学の時には吃音に悩むあまりノイローゼになった(※Ⅳ)のも、〈笑われる〉ことを逆に利用して積極的に〈笑わせる〉方向へすぐに転化できなかった、自分を低く見せて相手を喜ばせる戦法を徹底できなかったからだろう。
そう考えると井上さんが「ウサギ→ウ+サギ」に救われたのがよくわかる気がする。地口=駄洒落は誰も傷つけない笑いであるから(※68)。他人を貶めることも自分を低くすることもなく言葉それ自体を笑う──言葉のために傷つけられてきた井上さんが言葉に救われたのだ(※69)

ただ最初は「ウ+サギ」や「反吐前のかば焼」といった駄洒落の馬鹿馬鹿しさに笑わされ、救いをもたらしてくれた『親敵討腹鼓』に対する感情はその後いささか変化していったようである。
『笑談笑発 井上ひさし対談集』収録の「戯作の可能性」(国文学者・松田修氏との対談。初出1973年)の中で井上さんは「「ウサギ」をふたつに切ると「ウ」と「サギ」になるという一種の地口のようなものに寄りかかって話が作られているわけですね。書く、という作業が、一個のゴロ合せの上に辛うじて立っているというのは松田さんがおっしゃるように、かなりつらかったと思います。書いた人の心中を察すると他人事とはとても思えない。」(※70)と発言している。
一方で同書収録の「神とユーモア」(小説家・遠藤周作氏との対談。初出1974年)では「ウサギをパッと切ったら、ウとサギになって飛んでっちゃったというようなバカな話をえんえんと書いてる戯作者がいますけど、それを読むと、語呂合わせひとつのために、綱渡りしながら書いてる戯作者が、やはり金色にパッと輝くわけです。こういうバカな人間がいる限り、やっぱり人間はいいもんじゃないかという気がするわけです。」(※71)とほとんど逆のことを話しているのだが、対談相手を立てて話を合わせた結果の矛盾(井上さんは〈対談ではすぐ相手に迎合してしまう〉とエッセイに書いている(※72))というわけではなく、初めて読んだ時の晴れやかな感動を保ちつつも、自身が地口や語呂合わせを駆使して作品を書く立場になってみてわかる辛さもあるという──つまりはどちらも本音なのではないだろうか。

(余談ながら上掲「神とユーモア」の中で井上さんは「ウサギを二つに切ったら、ウとサギになっちゃったっていうのは翻訳できないですからね(笑)。」と話している。『ムサシ ロンドン・NYバージョン』はロンドンとニューヨークでの公演のさい台詞の英訳を電光掲示板で表示する方式を取ったというが、『孝行狸』のオチの場面をどんなふうに訳したんだろうか・・・)

井上さんは上掲「戯作の可能性」の頃、戯曲で言うと翌年初演の『天保十二年のシェイクスピア』あたりから次第にそれまでのような「地口のようなものに寄りかかって」話を作るスタイルを離れていく(※73)(※74)
それについては後ほど書くとして、この「戯作の可能性」の中で松田氏は戯作者十返舎一九について「見方によれば鋭く政治的であるような面を持っていて、しかもそれを「私のやっていることはばかばかしいことでござんすよ」という自虐でくるんでお客には出す。お客は笑いの中の毒には気がつかないで、ほとんと「ああ、おもしろい、おもしろい」ですんでしまう。「誰もおれの仕掛けたワナには気づかないで、おれの料理のほんとうのねらいはわからないで食べてんだな」という自己満足──もちろん通じれば通じた喜びはある。」(※75)と分析している。
これは単に一九個人についての評ではなく戯作者全般に共通する心性を述べたと考えてよい。ここから〈現代の戯作者〉と評され戯作者の心中に「他人事とはとても思えない」ほどの共感を寄せていた井上さんも、笑いの中に毒を混ぜて観客に供し、ワナに気づかない、本当の狙いを読み取れない彼ら─私たちを密かに笑っていたとしてもおかしくない・・・と考えるのは穿ちすぎだろうか。※63の指摘をより具体化したような井上さんの自己評価(※76)を読むと、満更考えすぎとは思えないのである。

「復讐の連鎖を断ち切る」という表看板も心にもない嘘というわけではなく、井上さんの真摯な願いには違いないだろう。しかし「フツー人」の味方でありつつ彼らの罪を繰り返し告発せずにいられないような二面性(※77)(※Ⅴ)が、笑いのオブラートで観客の目を欺きながら復讐肯定の挿話をクライマックスに配置するような意地の悪い仕掛けを行わせる。
そこにかつて自分を救ってくれた『親敵討腹鼓』を改変引用したのは、言葉のために悩んだのが言葉を武器とし、笑われることに苦しんだのが笑いを処世の道具とするようになった──いわば人生に180度の転換を促し、素直な感動と戯作者の悲しみへの共感という相反する感情を生起させるこの作品が、〈憎しみの連鎖は断ち切ることができる〉と信じると同時に〈いや無理でしょ〉と茶々を入れたくなる心情に嵌まったからではなかったろうか(※Ⅵ)(※Ⅶ)





※56-「僕の考えによると、怒りは人をキズつけますが、笑いはどんなあざとい嘲笑でも相手を生かしておくものだと思うのです。つまり共に生きる、共生という基盤はしっかり守ろう、相手を抹殺すまいというところがあって─いまはいじめとか排除する笑いもあるような気がしますが─そこが笑いの好きなところなんです。」(井上ひさし・大江健三郎・筒井康隆『ユートピア探し 物語探し』(岩波書店、1988年))

※57-「昔まだ世の中の大半の人が命と引き換えに働いていた時代の話、笑いとは大きな次の日を生きる糧だったという。「こまつ座の芝居にいらっしゃる人は気持ちよく笑ったり、泣いたりしたいのだ。その欲求を中途半端にしてしまうとお客様が気持ちよく帰れないのだよ」と常に心配し、「どうしたらお客様を快く裏切ることができるか、常にお客様は心地よく裏切られない(ママ)なのだよ」ということを考えて戯曲を考えていたのだなと思うと頭が下がる。」(井上麻矢『夜中の電話 父・井上ひさし最後の言葉』(集英社インターナショナル、2015年))

※58-「僕の芝居には必ずといっていいほどユーモアや笑いが入っています。それは、笑いは人間が作るしかないものだからです。 苦しみや悲しみ、恐怖や不安というのは、人間がそもそも生まれ持っているものです。人間は、生まれてから死へと向かって進んでいきます。それが生きるということです。途中に別れがあり、ささやかな喜びもありますが、結局は病気で死ぬか、長生きしてもやがては老衰で死んでいくことが決まっています。 この「生きていく」そのものの中に、苦しみや悲しみなどが全部詰まっているのですが、「笑い」は入っていないのです。なぜなら、笑いとは、人間が作るしかないものだからです。(中略)笑いは、人間の関係性の中で作っていくもので、僕はそこに重きを置きたいのです。人間の出来る最大の仕事は、人が行く悲しい運命を忘れせるような、その瞬間だけでも抵抗出来るようないい笑いをみんなで作り合っていくことだと思います。 人間が言葉を持っている限り、その言葉で笑いを作っていくのが、一番人間らしい仕事だと僕は思うのです。」(井上ひさし『ふかいことをおもしろく 創作の原点』(PHP研究所、2011年、NHKBSハイビジョンで2007年9月20日に放送された「100年インタビュー/作家・劇作家 井上ひさし」をもとに構成)

※59-「「笑い」についての井上ひさしの見解が鮮明に浮かび上がるのは、『ロマンス』の第七場「十四等官の感嘆符!」である。(中略)つまり、人生の至るところにある苦しみを描く悲劇を書くのはそれほど難しくないが、「ひとの内側に備わってはいない」笑いを作り出し、観客を実際に笑わせる喜劇を書くのは実に「たいへん」な作業だというのだ。 このせりふを語るのは劇中のチェーホフだが、ここからは明らかに、喜劇作家として生きてきた井上ひさし自身の切実な肉声が聞こえてくる。チェーホフと井上自身が「笑い」を介して、ぴったりと重ね合わされるのだ。 しかも、井上ひさしにとって「笑い」は、観客を喜ばせる娯楽であると同時に、たんなる消費を超えた、もっと大きなものでもある。それに続く第八場で六人の俳優全員が歌う「なぜか・・・・・・」の歌詞がそれを明らかにする。(中略)この歌詞が示すのは、笑いは娯楽であると同時に、苦しみの中で生きる「ひと」と「やるせない世界」を「すくう」とても大きなものでもある、ということだ。」(扇田昭彦「世界を救う「笑い」」、『井上ひさしの劇世界』(国書刊行会、2012年)収録)

※60-『黙阿弥オペラ』(『井上ひさし全芝居 その六』(新潮社、2010年)収録)

※61-『シャンハイムーン』(『井上ひさし全芝居 その五』(新潮社、1994年)収録)

※62-「たいていの吃音者は、この厄介な状況を抜け出すと、とたんにお道化者になるみたいなのだ。他人と自分との間にすぐに「笑い」の樋を渡してしまおうとする。一対一、五分と五分との関係をしまいまで保っていることが息苦しくて、悪ぶり、ふざけて、バランスを崩したくなる。いってみれば、まずこっちは地べたに這いつくばってそのことによって相手を高みへまつりあげ、こういう関係になった以上は自分がどのようなへま(原文傍点)を演じてももう下へおっこちようがないと安心して、それから相手と意志を疎通しはじめるのである。べつの型として、磊落ぶるとか、知識をべらべらと並べ立てたりするものもあるけれども、仕掛けそのものは前述のものと同巧で、とにかく相手とのハンディキャップなしの一騎打を最初から回避しようと心掛ける」(井上ひさし「お道化者殺し」、『ジャックの正体』(中公文庫、1982年)収録、初出1976年)

※63-百目鬼恭三郎「解説」(『四十一番の少年』(文春文庫、1974年、新装版2010年)収録)

※64-「男親が男の子に喧嘩を教えるように、私は父に戦い方を教わった。父は孤児院にいる頃、戦うことを強いられてきたせいかもしれない。というのは、孤児院では自らが道化になって、人を笑わせることで、身を守ってきたとある日の電話で話していた。父の幼い頃の苦労を彷彿とさせる話で切なくなってしまった。父は幼い頃から剽軽でユーモアの才野を持っていたから、笑いを手段にしたようである。作品にも笑いがちりばめられているのは、そのせいだと思う」(井上麻矢『夜中の電話 父・井上ひさし最後の言葉』(集英社インターナショナル、2015年)

※65-「ぼくらの孤児院に慰問バスや見学バスがやってくるのは珍しいことではなかった。特に頻繁に訪れるのは中年婦人の団体だった。彼女たちは乾パンか、せいぜい花林糖ぐらいを手土産にやってきて、ぼくらから不幸の匂いを嗅ぎ出すのを楽しみにしていた。(中略)彼女たちは何十万円もする着物の生地を眺めるときのような嘆声を洩らし、ぼくらの不幸を鑑賞して帰って行く。」(井上ひさし『汚点』(『四十一番の少年』(文春文庫、1974年、新装版2010年)収録)

※66-「孤児院の夏休みがなぜ重労働かというと、この期間に市民の善意や心づくしがどっと集中するからだった。(中略)なにしろこれらの善意の人たちは自分たちの施す心づくしがぼくらにどれだけ喜ばれているかをとても知りたがっていた。だからぼくらは心づくしへのお返しに必要以上に嬉しがり、はしゃぎ、甘えてみせなくてはならなかった。そうするよりお返しのしようがなかったわけだが、これはずいぶん芯の疲れることだった。」(井上ひさし『あくる朝の蝉』、同上)

※67-「われわれ孤児院収容児童がもっとも苦手としたのは、日曜日なんです。日曜になると、市内のおばさんたちがバスを仕立てて、慰問にくるのです。このおばさんたちを気持ちよく帰すのがひと苦労でしたね。というのは、われわれの施設には進駐軍がパトロンについていたのです。ですから野球のグローブは本皮製です。ローラースケートは全員もっている。トランプは新品。それから全員、皮製の編上げ靴をはいている。さらに建物が新築したてで立派。さあ、おばさんたちはだんだん滅入ってくる。「ここの子どもは、自分の子どもが持っていないようなものを全部持っている。・・・・・・ひょっとすると、自分が死んで、子どもが孤児になって、ここへ収容されるほうが、子ども自身にとって幸せなのではあるまいか」と考えだして不機嫌になる。そこで僕らは、このまま帰したんじゃまずい、なんて思うわけです。そこで、チョロッと、「自分たちは物質的には恵まれているけれど、やはり夕方になるとさびしくなる。親のことを思い出したりして・・・・・・」としめっぽい顔をする。するとにわかにおばさんたちが元気づく。「やっぱり、子どもには親がいるのが一番なのだ」。そういう自信を得てにこにこして帰っていく。(中略)「不幸な施設児童」が陽気じゃいけないんですよ。そこで陰気に振舞う。ところがそのうち本当に陰気になってしまう。これが困る。」(「情報整理とカタルシス」、井上ひさし・つかこうへい『国ゆたかにして義を忘れ』(角川書店、1985年)収録、初出1984年)

※Ⅲ-「中学三年の秋、ぼくは軽度の吃音症患者になったが、これは半ば作為的なものだった。この年の春から秋にかけて、山形南部の山村から八戸、八戸から一関、そして一関から仙台へと、言葉来まるでちがう四つの地方を転々と渡り歩いたのだが、この矢継ぎ早の移動が、ぼくの唇を引きつらせ、その地方にそぐわない言葉をもつれつつ、しどろもどろでしゃべって他人に笑われるよりは、吃音症を装った方が、より安全、より気楽だと思ったからである。」「吃音者は滅多に笑われないのにくらべ、ぼくは嘲笑の的になる。同じように辛いのなら、笑われないで暮らした方がよかろう。そこで、ぼくはある夜、つくづく吃音者になりたいと願ったのだが、不思議なことに、翌朝から、ぼくは願いどおりにどもるようになっていた。それに気づいたとき、すこしあわて、そして、大いに安堵したことをおぼえている。 ぼくが吃音症と縁を切ったのは世の中に「紋切り型」のコトバというものがあることを知り、それを使いこなすことを覚えたときだった。(中略)そのとき「アジャパー」というコトバが全国を席巻していたが、あるとき,教室で何の気なしにこのコトバが口をついて出、数人が笑った。途端に、ぼくは他人を笑わせることの快感にしびれてしまい、それからは、はやりコトバをいちはやく蒐集し、それを連発するおどけもの(原文傍点)に転向していた。」(「わが言語世界の旅」、『パロディ志願』(中公文庫、1982年)、初出1972年)

※Ⅳ-「状況との齟齬感は、駅の階段に落ちている新聞紙を踏むとそこに載っている人に不幸が起る、手紙の宛名を何度たしかめても正確であるという自信が持てない、歩くときは電柱の本数をかぞえないと不安で前へ進めない、学校の図書館への煉瓦道のきまった煉瓦石を踏まぬと異常が起るような気がする、カトリック学生寮の小聖堂のマリア像がゆっくり動き、御自分から着衣を剥ぎ出すというイメエジがくりかえしくりかえし能裡に泛びあがるなとの強迫症状をぼくに植えつけた。もっとも手古擦った症状はそばを一本一本数えることで、数えないでたべると自分になにか不幸が訪れてくるような気がしてならない。(中略)吃音症がぶり返し、かつ悪化したことは、これまでに何度も書き、戯曲にもしたのでここでは省くが、七月初旬、夏休み前にはぼくはフォビアに対するフォビアという奇妙なところまで追いつめられていた。これは高所や閉所や広場や群衆や女性を怖がるだけでは足りず、さまざまな状況に恐怖を抱く自分に対して恐怖するという念の入った恐怖症である。自分で自分の視線がコントロールできなくなるのではないか、自分はひょっとしたら人前で性器を引っぱり出したりするのではなんか、味噌汁の入ったお椀を見ているうちにそのお椀が湖のように広く思われて来て自分はそこに飛び込んだりしないかなどなど、自分をおそれはじめたら恐怖の種は無尽蔵だ。」(「恐怖症者の自己形成史」、『さまざまな自画像』(中央公論社、1979年))


※68-「よく出来たコトバ遊びは、人をずいぶんしあわせにすることは確か」(井上ひさし「喜劇は権威を笑う」、『パロディ志願』(中公文庫、1982)収録、初出1971年)

※69-「この作品のおかしさと、自分の心のこわばりの滑稽さ、それが笑えて笑えて仕方がないのです。笑いがとまったとき、ぼくは自分の身体が軽く、やわらかくなっているのに気づきました。コトバで他人に笑われるのが恥かしい、屋台の息子だから肩身がせまい。他人の目にはつまらない男に見えるだろうけど、それが辛い。そういう屈託がいっぺんで吹っ飛んでしまったみたいでした。ここに馬鹿々々しいムダな作品がある。しかし、その馬鹿馬鹿しい作品が、自分の心と身体のこわばりを、ちょうど臓物をほぐすお湯のように、やわらかくしてくれた。とすれば、馬鹿なもの、ムダなことにも値打ちがあるのだ。だから、自分もそんなに立派な人間になろうとしなくてもいいのではないか。」(「わたしのとっての戯作」、『パロディ志願』(中公文庫、1982)収録)、「言葉に縛られて万事内向きになっている自分とは、なんてケチでアホでつまらない存在なのだろう。ここに言葉を自在に使いこなして笑いを爆発させた人たちがいるではないか。言葉に縛られていてはだめだ。この人たちに倣おう。 このときの私は、自分を圧し潰そうとする言葉を、逆にこちらから迎え撃つ視座を手に入れて、言葉を使いこなす物書きへの第一歩を踏み出していたのではないかとおもいます。」(井上ひさし「著者から読者へ わかれ道」、『京伝店の烟草入れ 井上ひさし江戸小説集』(講談社文芸文庫、2009年)所収)

※70-井上「何でしたかぼく忘れましたが、「ウサギ」を二つに切ったら「ウ」と「サギ」になったという黄表紙がありますね。」松田「ええ、『親敵討也腹鼓』(管理人注・原文ママ)でしたか。」井上「ああいう黄表紙は、「ウサギ」をふたつに切ると「ウ」と「サギ」になるという一種の地口のようなものに寄りかかって話が作られているわけですね。書く、という作業が、一個のゴロ合せの上に辛うじて立っているというのは松田さんがおっしゃるように、かなりつらかったと思います。書いた人の心中を察すると他人事とはとても思えない。」松田「ストーリーはなんら本質的ではない。「ウ」と「サギ」だけで──。」井上「ええ、それだけが最後のねらいどころでずうっと書いていくというのはずいぶんつらかったろうと思います。 戯作というのは言葉をよりどころにせざるをえなくなって追い詰められていくとかなりわびしいものだろうという気がするのですけどね。」(井上ひさし・松田修「戯作の可能性」、『笑談笑発 井上ひさし対談集』(講談社文庫、1978年)、初出1973年)

※71-井上ひさし・遠藤周作「神とユーモア」、『笑談笑発 井上ひさし対談集』(講談社文庫、1978年)、初出1974年)

※72-「わたしは、自分で言うのもおかしいが、気が弱く臆病である。いつも、他人の顔色を窺って汲汲としている。それは対談のときなどに恥しいぐらいよく出る。他人の意見に対して反駁できない。すぐ「なるほど」と迎合してしまう。したがってわたしの出席した対談は例外なくいわゆる《異議なし対談》になってしまうのだ。おもしろくもなんともない。」(井上ひさし「さよならとグッドバイ」、『続家庭口論』(中公文庫、1976年)収録)

※73-「この『天保十二年のシェイクスピア』あたりを境に、以後、作者はこうした破目をはずしたことば遊びの奔流を次第に抑制し、主題と表現の釣り合いのとれた成熟した作風へと移行していったということである。作者がそのように作風を変化させていった事情については、たとえば『天保十二年・・・・』の執筆時に近い時点でおこなわれた国文学者松田修との対談での発言がひとつのヒントを与えるかもしれない(学燈社刊『國文学』一九七三年十二月号。講談社文庫『笑談笑発──井上ひさし対談集』所収)。 この対談で作者は、音の組み合わせに狂奔する戯作者のことば遊びに触れ、「せんじ詰めていくと戯作というのは音の問題になっていく」が、そこに今はどうしようもなく「わびしさ」を感じるとして、次のように語る。「戯作者の哀しさというのは、たったひとりで必死になってこんな役にも立たぬことをしているけれども、はたしてこんなことをしていていいだろうかという問いかけがどっかでいつも聞こえてくる。(中略)世の中に背を向けて頭の中を言葉でいっぱいにして、それをつかんだり、ひっくり返したり、ねじまげたりしながら、飯にありつくことに対するうしろめたさ。辞書をたくさん買い込んで、朝から夜中までパラパラッとやっていることのむなしさ。」「(『ノンセンス大全』書評での発言を引いて)つまり、作者は「観客の反感を買うか」、「狂人世界」に突入するかのどちらかに収斂するしかないことば遊びの果てを見越して、その手前で立ち止まり、徐々に作風を変化させていったのだと言えるだろう。以後、井上戯曲には社会的なひろがりのある主題が多く登場するようになり、元来この作家にそなわっていた警世家の面がさらにはっきりと打ち出されてくる。」(扇田昭彦「解説」、『井上ひさし全芝居 その二』(新潮社、1984年)所収)。

※74-「浅草には〈コトバによる笑いを武器としたコメディアンはけっして大成することはない〉というテーゼがある。事実そのとおりで、このことはコトバ遊びを飯の種にするわたしなどにも当てはまるように思われるのだが、それはなぜか。便宜上、コトバ遊びを地口、語呂合わせ、駄洒落などに限定すると、これらの〈笑わせるための工夫〉は、いつにかかって「意味ではなく音が似通った単語への置きかえ」(本書三三頁)にある。したがって、コトバ遊びを職業としている者たちはコトバを音だけで考えるようになっていく。ちがう言い方をすれば、社会的に合意された記号の体系としてのラングへ果敢な反抗を続けるわけである。この反抗は当初のうちはたいそう効果的でお客は手もなく笑い転げてくれるが、そのうちコトバの遊び人たちが個人的運用としてのパロールに至上権を与えすぎると、反感を抱きはじめる。コトバの遊び人たちがここで立ち止まれば救われるのだが、職業としている以上はそうはいかぬ。どんどん先へ進む。かくして彼らの、意味を失ったコトバは「秘教的な念誦言語、あるいはいわゆる《グロッソラリー》(異言伝授、霊媒や意味不明者が発する言葉)」(三二頁)へと限りなく接近していき、ついには狂人言語に衝突し、そこに吸収されてしまう。つまり職業的コトバ遊び人の精進は、やがて観客の反感を買うか、狂人世界への通行券を手に入れるか、このどちらかにしか行き先がない」(井上ひさし「高橋康也『ノンセンス大全』」、『風景はなみだにゆすれ』(中央公論社、1989年(初版1979年))収録。初出1977年)

※75-井上ひさし・松田修「戯作の可能性」(『笑談笑発 井上ひさし対談集』(講談社文庫、1978年)、初出1973年)

※76-「まずできうるかぎり頭を低くし、潮垂れた格好で新しい世界へ入って行き、明かな落伍者、異分子として振る舞いながらそこの人たちを安心させておく。それから慎重にその世界のここかしこに当りをつけておき、足がかりを得たらそろそろと頭を擡げ、「おや、あいつはなにものかだね」と認めさせる。もっと簡単にいえば、哀れっぽくはじめて途中で居直る。これは国民学校の、冬の体操時間におぼえた手口だが、それが敗戦のときの「世の中に絶対はない、世界はすべての両極を含む。つまり世の中ってわからないものなんだなあ」という感想で磨かれて、わたしの、世界への対処法となった。世の中はどうなるかわからない、だから低い姿勢でいよう。安心だと見究めがついたら、その分だけ頭を擡げよう、というわけだ。これに鷹山公の遺した倹約を加えると、もうそっくりいまのわたしができあがる。天皇の日本語に衝撃を受け、すぐその後の、ことばを貯め込む時期に各地を転々としたせいもあって、ことばを客体として扱う術も知らないうちに身についた。さらに詐話癖もある。哀れな恰好で新しい世界に入って行くためには自分をより貧しく、より可哀想に身づくろいしなければならず、そこで小さな嘘を並べて鎧う。それがわたしの詐話癖の中味なのであるが、それはとにかく、「ひろがる世界、さまざまな言葉」などと鹿爪らしい題のもとに、鹿爪らしくあれこれ書き綴ってきたものの、自己形成(自己発達)の跡などどこにもない。見えるのは自己防衛(自己虚飾)の跡ばかりではないか。」(井上ひさし「ひろがる世界、さまざまな言葉」、『聖母の道化師』(中公文庫、1984年)収録)

※77-「井上ひさしの劇世界は、根本的には、ブラック・ユーモアの世界と大きく重なりあわない。黒い笑いを心から楽しむには、この劇作家はあまりに人間を愛しすぎ、心配しすぎているところがある。(中略)にもかかわらず、驚くほどの多面性と、人間を世界の中心とは見ない喜劇的視点を持ち、グロテスク趣味をもそなえた井上ひさしには、黒い笑いの秀作といえる作品がいくつかある。」(扇田昭彦「黒い笑いへの傾き」、『世界は喜劇に傾斜する』(沖積社、1985年)収録、初出1980年)


※Ⅴ-「井上ひさしは、この『藪原検校』において突然変異したのだろうか。人々をかろやかで上機嫌な笑いに誘った抱腹絶倒喜劇の才人作家、心やさしいほのぼの『ムーミン』の作詞者、「武器をとりなさい/明日を美しくしたいなら」(『表裏源内蛙合戦』)と歌った反体制的アジテーターは突如、ペシミストに変貌したのだろうか。 そうではあるまいと私は思う。井上ひさしは一貫して井上ひさしでありつづけてきた。ただし彼は、これまで作中においてはほとんど全面的な自己表白をしないまれな作家の一人だったのだ。なぜなら、その道化的資質からいって、井上ひさしは多極的に分裂した作家だからであり、これまで彼の劇中にあらわれた「思想」的部分も、たいていは彼の一面をあらわすにすぎない。『表裏源内蛙合戦』で「美しい明日を/みんなは持っているか」と歌いながら、その半面で、「美しい明日」の到来に人一倍疑問を持っていたのは作者だったはずである。(中略)心の底には神による救済をひそませつつも、井上ひさしの内部には、同時に、空漠感がひろがり、黒い炎が燃えあがる。 だからこそ、彼は駄洒落・地口・語呂合わせで埋めつくした一種華麗な文体の鎧をまとった。極度に肥大した細部で全体をおおいつくすマニエリスムの演劇を書きつづけた。」(扇田昭彦「黒い志向見せた凄惨な傑作」、『現代演劇の航海』(リブロポート、1988年)収録、初出1973年)

※Ⅵ-「かつて、「井上ひさしにおける「暗さ」」と題する一文において、川本三郎が次のように評したことがある。 井上ひさしといえば通常、その「笑い」「軽み」「喜劇的精神」あるいは「肯定性」「ヒューマニズム」といった、要するに井上ひさしにおける「明」の部分において語られることが多い。(中略)しかし、この作家には実はそうした明るい一面とまったく逆な「暗」の側面がある。性善説を信じている井上ひさしのすぐ裏にはしたたかに性悪説を主張している井上ひさしがいる。ヒューマンな協調・連帯を描く井上ひさしのすぐ隣りでは、出し抜け、密告の現実を冷徹に見ている険しい顔の井上ひさしがいる。幇間よろしく世間様のあちこちにサービスにつとめている井上ひさしのすぐ横には世間に対して反吐を吐いているもうひとりの井上ひさしがいる。それは「面白い」井上ひさしに対して「怖い」井上ひさしである。「やさしい」井上ひさしに対して「きびしい」井上ひさしである。 (中略)井上のひょうきんやおどけ(原文傍点)は東北各地を転々とした他所者の自己防衛の策、ときに養護施設に受け入れられるための保身の術であったのかもしれない。道化の顔の背後には、置かれた境遇への反発や上昇志向、社会への批判を通り越して、復讐を夢想する少年が棲んでいる。(中略)「ヒューマンな協調・連帯」を説きつつ、エゴイズムで支配されつくされた現実を見ている作家。その「笑い」の背後には、世間に向けた険しい視線が隠れている。将来に希望を持ちたいが、世間を決して信用はしない姿である。」(秋葉裕一「藪原検校─ブレヒト受容の視点から」、日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録。太線部分は引用箇所) ちなみにその「井上ひさしにおける「暗さ」」は「井上ひさしの「暗」は、結局のところ、“業”として「言葉」に憑かれてしまった人間が、まっとうな人間たちのあいだを生きるときにすれちがいざまにきしむ(原文傍点)、その、負い目と矜持が両極端にひっぱり合うアンバランスなうめき声が生むものである。「言葉」に憑かれてしまった“極道者”には、血の匂いと死臭しか行手にないのである。」(川本三郎「井上ひさしにおける「暗さ」」、『同時代を生きる「気分」』(講談社、1986年)収録)と評している。

※Ⅶ-井上さんは『宮澤賢治に聞く』の中で、詩人で宮澤賢治研究家の天沢退二郎の「少年時代から早くもしのび寄っていた“人間嫌い”が、《宮澤賢治》のあの伝説的な愛情深さと表裏をなしていたのではないか・・・・・・ そう考えると、賢治の書きのこしたものにみなぎる深さとユーモアの共存の源も、わかるような気がしてこないだろうか?」という言葉を引きつつ「天沢さんは、人間嫌いのあなただったからこそ、あれほど深く人間を愛することもできたのだとおっしゃっているわけです。」と賢治に問いかけている。(『宮澤賢治に聞く』(宮澤賢治への架空インタビュー)、井上ひさし・こまつ座編著『宮澤賢治に聞く』(文春文庫、2002年)収録)この〈人間嫌いだからこそかえって深く人間を愛することができた〉という賢治評は井上さん自身にも多分にあてはまるのではないか。




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『ムサシ』(3)-8(注・ネタバレしてます)

2016-12-21 08:48:02 | ムサシ
次に幽霊たちが仕掛けてきたのが平心坊による説法。妻に唆された結果金品目当てで通りすがりの女子供を殺してしまった男が前非を悔いて出家したのち、自分が殺した女の夫が同じく僧侶となっていたのと出会って罪を告白、彼の手にかかろうとするが〈一つの寺で巡り会ったのも仏のお導き〉だと許される──というのがその内容である。
後に小次郎が「平心坊は、ひたすら仲直りを押し売りしていたが、あれもわしら二人に、誠心坊と五輪坊のようになれ、許し合って友達になれと、そう説いていたんだな。」とまとめているが、正直このエピソードの扱いは妙に軽い。平心の説法が終わってから一分と置かず、それこそ「許し合って友達になれ」という平心坊の「押し売り」が武蔵と小次郎の心に届く間もないうちに、まいが別れた子供についての告白を早々と始めてしまうのである。

(余談だが「ひたすら仲直りを押し売り」という表現がなんか面白い。先入観なしに聞くかぎりでは仲直りより念仏の有難さを押し売りしてる感じだが。そして「ときに、この誠心坊どのは、いまも高野山で念仏を唱えながら貯え漬を漬けておられます」というオチがまた(笑)。
現在も息災で修行に励んでいると言いたいのはわかるが、なぜわざわざ貯え漬に言及するのか。寺開きの挨拶の時にも乙女の紹介のところで貯え漬の話が出てきてるし・・・まあ貯え漬=沢庵漬の名の語源と言われる沢庵和尚がメインキャラで出張ってるのに掛けてるんでしょうが)

幽霊たちが武蔵と小次郎を変心させるべく様々の手を繰り出したうちでも、その仕掛けの手の込み方からいって乙女の仇討ちとここでのまいの〈皇位継承順位第十八位騒動〉が本命だったのだろうが、平心の説法には全く期待をかけてないかのごとくである。
そもそもこの説教、前半部分を小次郎は聞いていない。乙女によると翌日の決闘に向けて源氏山を下見に行ったとのことだが、翌日までに武蔵と小次郎の双方、とりわけ決闘を申し込んだ側である小次郎をなんとか改心させなければならないというのに、そのために仕込んだ説法を聞かずに出かけようとするのを引き止めなかったのか。いくらでも理由の付けようはあったろうに。
さらに小次郎はどうしたのかというまいの問いに乙女が答えるところへ武蔵が「この武蔵がなにか罠でも仕掛けているのではないかと、心配になったのでしょう」と話に加わってきたりして、この間三人とも説法の方はすっかりお留守になっている。さらに小次郎が帰ってきてからは武蔵と口喧嘩になってしまって宗矩がたしなめるまですっかり説法そっちのけ。
後半部だけでも話の意味は取れるし、上で引いた台詞からしても小次郎はこの説法のテーマ─説法に事寄せて平心が言いたかったこと─をちゃんと理解していたが、小次郎の帰りがもっと遅ければ説法は全部終わってしまって、小次郎に対しては全くの無意味になったことだろう。
なぜ幽霊たちはこの平心の説法に重きを置かないのか。というかこのエピソードはそもそも必要だろうか。

これは実のところ〈役者一人一人に見せ場を作るために、ストーリー的には特に必要性のない場面が設けられた〉というのが正解なんじゃないか。といってもこの場合の〈作者〉とは井上さんではなく、武蔵と小次郎に刀を捨てさせるべく一連の筋書きを作った乙女のことである。
自分も含めた幽霊たち全員出番があるように、特に参籠禅に参加しているメインの役者五人(宗矩、沢庵、平心、まい、乙女)にはそれぞれ彼らが主人公となるような見せ場を作らねばならない。
平心はこの後のまいの芝居(小次郎とは生き別れの母子だった)のために生前の技術を活かして証拠品の鏡を偽造するという大事な仕事をこなしているが、あくまで裏方の仕事なので、本来の目的にはあまり貢献しないが(一応〈恨みを捨てて仲良くなれ〉という内容にはなってはいる)彼にスポットライトの当たる、長台詞を滔々と喋れるような場面を用意したのだろう。
そう考えると、もし武蔵と小次郎が乙女の仇討ちのあたりで早々と刀を捨ててしまったなら沢庵以下の出番はなくなってしまったわけだ。それでも二人に戦いを止めさせるという目的を果たせたからと心置きなく成仏できたろうか。・・・なんかできなさそう(笑)。
宗矩の見せ場も五人六脚だけじゃ微妙だから、能を舞わせたり〈三毒を断った者しか刀を抜けないことにする〉沢庵の「大構想」のくだりにも関わらせてるのだろうし。

この平心メインの箸休め的場面から間をおかず、いよいよ本命というべきまいの大芝居が始まる。小次郎が持つ母の形見と対になる鏡を偽造して、小次郎を自分の生き別れの息子=親王のご落胤と言い立てたのである。
最初は頑強に信じまいとした小次郎も証拠品の鏡を前に陥落、以降しばらく熱にうかされたようになった彼が第十八位第十八位言うたびに客席に笑いが起こっていたが、(2)-5でもツッこんだように本来これはひどい話なんじゃないだろうか。
二十六年ぶりに思いがけず再会した死んだはずの母親が「母さんと呼んでおくれ」と叫び取りすがっているのに、父方の高貴な血のことしか息子の頭にはない。全てが芝居でまいが小次郎の実母などでなかったからいいようなものの、小次郎のこの反応は母親に対して残酷極まりない。本人に悪気などまるでない、自然な感情の発露であるだけになおさら。
さらに先には三種の神器の行方によって正義の行方が決まる滑稽さを沢庵が指摘したのに同調していた宗矩が「理屈から云えば」と前置きしてはいるものの〈帝(になる可能性のある人物)に刃を向けようとする武蔵は史上最悪の大悪人〉だと言い出すのもひどい。
この「皇位継承順位第十八位」騒動だけでなく、先から見てきたように乙女作の一連の芝居は〈ひどい〉場面だらけだ。とどめが正体を明かした亡霊たちの〈自分たちを成仏させるために戦いを止めてくれ〉という身勝手な言い分である。

これだけ図々しかったり残酷だったり変わり身が早すぎたり平和主義の顔して要は自分たちの都合だったりする台詞と行動が頻出しているのに、観客はさほど気に留めず笑って流してしまう。
理由の一つは上でも引いた武蔵と小次郎による「この三日のうちにおきたこと」の総括である。乙女が刀を投げ捨てたことを「わしらに、うらみの鎖を断ち切れと云っていたのだな」、沢庵の大構想は「わしら二人に、刀を抜くなと諭していたのさ」、偽の母子ご対面は「おぬしを雲の上の、そのまた雲の上の貴いお方に仕立てあげて、わしに切らせぬよう企んだ」と簡単にまとめて説明してくれるために、観客はこれが各エピソードを通じて井上さんが言いたかったことだと思い込まされ、この解釈からはみ出す上述の〈ひどい〉部分を見逃してしまうのだ。当然井上さんはわざとそう仕向けているのであろう。
もう一つの理由は「笑い」である。五人六脚や剣術の稽古がいつのまにか踊りになってしまうという役者の身体を使った滑稽な芝居、要所要所に差し挟まれる笑える台詞や顔芸・言い回しの面白さが〈ひどさ〉を覆い隠してしまう。
いい例が『孝行狸』のオチで、実態は胴体を真っ二つにされているスプラッタシーンであるのに、ウサギ→ウ+サギという地口オチの馬鹿馬鹿しさで誤魔化されてしまう。
(これは地口オチのせいだけでなく真っ二つにされるのがウサギ─動物だというのもあるだろう。前半でまいと乙女が踊る『蛸』もそうだが、これが人間だったらエグいだけである。乙女に切られた浅川甚兵衛の腕とそれ以外の体がそれぞれ別の生き物になって飛んでいくのを想像すると・・・)
加えて復讐を完遂して「めでたしめでたし」で終わる『孝行狸』は『ムサシ』の「復讐の連鎖を断ち切る」というテーマと真っ向から対立してるにもかかわらず、ウ+サギに笑わされて、つい気づかずに通りすぎてしまう。
笑いが「否定的状態から人を引き離す」「常識やきまりきった言葉や思考のパターンに囚われ眠りこんでいたわたしたちの感情と思考を目覚めさせる」(※55)効能を持つのは確かだろう。だが一方で「笑い」が残酷さ、否定的状態を覆い隠してしまう場合もしばしばあるのではないか。
そして自身を喜劇作家と位置づけ、笑いにこだわり続けてきた井上さんが、笑いの持つマイナスの側面に気づいていないはずはない。



※55-「笑いは、肯定的な状態をもたらすわけではない。肯定的状態がすぐそばに見わたせる場所に人を連れ出すのでもない。そんな便利なものではない。 しかし、笑いは、人間的かつ社会的歪みからくる孤独、逃避、苦しさ、死への傾斜など否定的な状態に、一瞬、休止符をうつ。そのような重苦しい否定的状態をいきどまりにせず、そこからわずかに人を離れさせる。  たいして、悲しみや怒りは、否定的状態につよく密着する力をもつものの、否定的状態から人を離れさせない。(中略)あまりに巨大でうごかすことなど考えもしなかった状態の、意外な小ささや弱さを明るく元気な笑いとともに発見した人は、勇気をもって肯定的状態をめざしはじめる。 あるいは逆に、すこし離れて見ることで人は、否定的状態の広がりと深さにあらためて直面する場合もあるだろう。このとき笑いは明るい笑いではなく、暗く残酷な笑い(ブラックユーモア)にかたむく。しかし、暗く残酷な笑いも、否定的状態に人が囚われたままでないことを告げる。だからそれは、人に否定的状態をくぐりぬけるのを大胆にうながす笑い、すなわちロシアの思想家ミハイル・バフチンの提起したグロテスクで解放的な哄笑ともなりうる。 こうして、否定的状態から人を引き離す笑いは、肯定的状態へとむかう可能性、あるいは否定的状態を深くくぐり変更する可能性を人にもたらす。」「意表をつく展開と笑いは、常識やきまりきった言葉や思考のパターンに囚われ眠りこんでいたわたしたちの感情と思考を目覚めさせる。そのとき、常識や言葉や思考の型がいささかも普遍的なものでなく、同時代の権威や権力によってつくりあげられ、強調されたものであることに気づけば、この困難も変更可能と思えるにちがいない。 人間がつくりだしたものは、人間によってつくりかえられる。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』、角川新書、2010年)

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『ムサシ』(3)-7(注・ネタバレしてます)

2016-12-13 20:30:41 | ムサシ
ついで宗矩と沢庵による「侍どもに刀を抜かせない妙案」。
先に乙女の仇討ちを止めようとした際に沢庵は「殺生はいかん」、宗矩は「争いごとはいけませんよ」という言い方で反対を唱えているので、つい彼らが平和主義、ヒューマニズムから刀を抜かせまいとしているかに思ってしまうが、(2)-4で突っ込んだように、彼らが、というか将軍家の兵法指南役兼政治顧問である宗矩が侍に刀を抜かせまいとするのは幕府を安泰に保つため、要は自分が所属している組織の権益を守りたいがゆえなのである。
当然それは将軍家、秀忠と家光の切望するところでもある。むしろ能を隠れ蓑に家光と政治についての相談をしているのだという宗矩の言葉からすれば、沢庵に「侍に刀を抜かせない妙案」を尋ねること自体家光の依頼かもしれない。
自身が地方の一領主から国の頂点に成り上がるまでは武力を存分に用いておきながら、いざトップに立つと真逆のことを始める。宗矩が最初に「侍どもに刀を抜かせない妙案」を沢庵に相談したさいに太閤秀吉の刀狩り令に触れているが、自分の地位を脅かしかねない他人に武力を持たせておくのは脅威であるという心情が最高権力者に共通のものであることを端的に表している。

しかしこの「侍どもに刀を抜かせない妙案」に比べて、妙案を提供する交換条件のはずの〈大徳寺住持選定に対する幕閣の差出口を封じる〉についてはあまりクローズアップされない。宗矩による活人剣の何たるかの説明のあとにそれを応用しての「侍に刀を抜かせぬ策」を沢庵が披露したさいに「大徳寺の件、なにとぞよろしく」「心得た」という会話が交わされるのみである。
この一連の流れについて、武蔵は翌日「侍に刀を抜かせてはならぬという沢庵大和尚の大構想も、わしら二人に、刀を抜くなと諭していたのさ」と総括しているが、それを言いたいだけなら宗矩が沢庵に一方的に「刀を抜かせぬ策」を相談した設定でもよかったのである。なぜわざわざ大徳寺の件などに言及する必要があったのか。
(3)-4で書いたように天皇家の権威をかさにきる滑稽さを表したかったというのもあるかもしれないが、沢庵の方も交換条件を持ちかけている設定によって、将軍家と天皇家にそれぞれ近しく発言力も大きい二人がこっそり幕府と禁中の先行きに関わる取引を行っているという秘密会合の雰囲気が醸しだされている。
実際宗矩は「その妙案を聞き出そうとおもって、この参籠禅に加わっている」と言い、沢庵も「(大徳寺の件について)秀忠さまや家光さまに、さようお取りなしいただきたいのだよ。宗矩どのをこの宝蓮寺にお誘いしたのも、それがあってのこと」と話している。
上で引いたように宗矩と家光は「お能を政治の隠れ蓑」にしているそうだが、ここでは参籠禅もまた政治の隠れ蓑として利用されている。参籠禅の最中にもかかわらず仇討ちの相談を始める乙女たちを「これが座禅か!」と叱りつけた沢庵だが、自分だって禅を政治に利用しておいて言えた立場かというものだ。こんなところで密やかに国の行く末は決定されているわけである。

ところでこの「能を隠れ蓑に政治に相談をしている」という話のすぐ前で、宗矩は『孝行狸』の筋は家光の発案によるものだと明かしている。
具体的に引用すると「泥舟で沈められたあの古狸に、親に煮似ぬ孝行息子があったとせよ。その孝行子狸の仇討が舞狂言にならないだろうか。宗矩、考えてまいれ」。
なぜ家光はこんな題材で狂言を作ることを宗矩に命じたのか。普通に考えればこれは儒教的な孝の精神を、新作能を通して鼓舞しようとしたものだろう。つまり家光は、子が親の仇を討つことは孝心の証として推奨されるべき事柄だと捉えているのである。
江戸時代は仇討ちが公式に認められていて(武家の場合だが)、むしろ親を殺された犯人が逃亡した場合それを見つけ出して仇を討たなければならない社会的圧力さえあった。
幕府としては別段仇討ちを奨励していたわけではなく、仇討ちを免許制にしたのも逆恨みなどによる不当な復讐を防ぐためだったと思われるが((2)-※18で井上さんも幕府の〈できるだけ刀を抜かせないようにする〉政策の一つとして「仇討ちが免許制になった」ことを挙げている)、一方で乙女のように子が親の、忠助のように家来が主人の仇を討つのは正義の行いであるとする庶民感情は強く、幕府もこれを無視できなかった。というより次代の将軍自身も(朱子学を通して?)忠孝の精神の発露である仇討ちを〈正義が悪をくじく〉勧善懲悪のドラマと見なしていたんじゃないか。
その家光の意を受けて仇討ちがテーマの能を製作中の宗矩が「争いごとはいけませんよ」と乙女の仇討ちを止めようとするのだから、いわば二枚舌である。

二枚舌といえば活人剣自体もそうである。「一人を殺すことで万人が救われるときは、殺すのが正義としている」というのが活人剣の定義であり、活人剣を振るうときは己の内の「三毒」を断つことが必須だと宗矩は説明するが、(3)-3で書いたように本気で三毒を断とうとすればノイローゼに陥るわけで、そうなれば結局活人剣を行使することはできない。
万人を救おうと志を立てても剣を抜く前の段階で躓いてしまい、結局万人を見殺しにするほかはない。柳生新陰流の秘伝中の秘伝と言いつつ、つまるところ活人剣とは幻にすぎないのではないか。
宗矩の話を聞いた沢庵が「侍に刀を抜かせぬ策」として「刀を抜くことができるのは、心に三毒を持たない者だけ」とすればいいと提案したさいに「しかし、そんな完璧な人間は、だれ一人としておらぬぞ」と答えたのなどまさに語るに落ちたというべきか、活人剣の奥義に従うのなら「だれ一人として」─つまりは宗矩であってさえ刀を抜くことはできない、それでは活人剣とは存在しないも同然であろう。
要するに『ムサシ』を見るかぎり「活人剣」は存在そのものに無理があるのである。

(ちなみに「そんな完璧な人間は、だれ一人としておらぬぞ」発言のほんの直前では、この朝の仇討ちのさい自分自身に刀を向けた乙女に向かって「そのうちに柳生新陰流のうちの活人剣の免状を贈ろう」などと言っている。
乙女を〈三毒を断った〉と認めたそばから三毒を持たない、断つことのできる人間は「だれ一人としておらぬぞ」とは矛盾も甚だしい。(3)-6で書いたように刀を振るった後になって三毒を断った乙女が活人剣の免状に値するとは思えないので、リップサービスと思って流しておくのが妥当なんだろか)

刀剣はいまや美術品のカテゴリーだが、もともとは人切り包丁である。殺人兵器を携行することは認めておいてしかし使用することは認めないというのは筋が通らない。
「なぜ、武士に太刀を帯びることを許しておいでなのですか」「それはつまり、万一の場合には、抜いてもよいということではありませんか」という武蔵と小次郎の言い分の方がよほど筋が通っている。
それこそ(3)-3でも書いたように刀そのものを取り上げてしまった方がよほどすっきりするし、〈全国諸藩三百万の侍どもが江戸城に押し寄せてくる〉心配などしなくて済むようになるだろう。
秀吉時代に刀狩り例によって民百姓から刀を取り上げ、彼らが一揆や謀叛を企てることができなくした(実際にはそれほど徹底したものではなかったらしいが)事に言及しておきながら、宗矩は武士階級に対して同じことをしようとはしない。あくまで刀を抜かせぬ工夫、武士に刀を帯びさせたままそれを実戦に使わせない形にこだわるのは何故なのか。

その理由は「四海波静かにて・・・・・・という新しいご時勢が、わが柳生新陰流の「争いごと無用」を選んだわけだ。」「その名、天下に隠れもなき二大剣客のご両人、剣を振り回せばことがすむ時代は終わりました」という言葉に総括されているように思える。
戦乱の世が終われば刀の出番はなくなる。のみならず既得権益を維持したい支配階級にとって刀、剣術は自分の足下を脅かしかねない存在として弾圧の対象にすらなりかねない。
宗矩は将軍家の政治顧問であり、大名の国替えなどにも関わっていると自ら明かしていたくらいで辣腕の政治家としての側面を持っていたが、やはり第一に彼は剣客であって、親から受け継いだ柳生新陰流を守っていこうとする立場にあった。
泰平の世で新陰流が、剣術が生き残っていくにはどうすればいいのか。その手段として彼は新陰流がもともと持っていた「争いごと無用」の精神をなお押し進め、活人剣は人を救うための剣、新陰流は泰平の世を治めるための思想と位置づけることによって、新陰流、ひいては剣そのものの生き残りを謀ったのではないだろうか。
本来人を殺すための道具を人を救うための道具だと言い立てるのだから無理矛盾が生じるのは当然のことだ。それを何とか力業でごまかし将軍家を丸めこむことで、泰平の世に剣術を残すことに成功した。
諸般三百万の侍から刀そのものを取り上げなかったのも、宗矩が新陰流だけでなく剣術全般を守ろうと考えていたからだろう。新陰流の安泰を願うだけなら、現代において基本警官と自衛隊員にのみ武器の携行が許されているのと同様に〈旗本御家人など幕臣のみ帯刀を許可する〉という形にしてもよかったはずだ。将軍家に剣術指南役として仕えつつ、こうした幕臣たちを門下生とすれば柳生新陰流の繁栄は約束されそうなものだ。
そうすれば諸般三百万の侍の反乱を気にしなくてもよくなっただろうに。そうしなかったのは、他の流派も含めて剣術そのものが生き残れるよう配慮していたからではないかと思うのである。
もっともその場合新陰流を学んだところで刀の腕を活かした就職口は激減するわけだから、結局は門下生が減ることになってしまうか・・・そういう計算もあったのかもしれない。
ともあれ人切り包丁を人助けの道具と無理やりこじつけて、平和な世の中に剣術を残そうと奮闘している宗矩から見れば、剣術の将来などまるで念頭になく、昔ながらの流儀で刀を振り回し勝敗優劣を競うことしか頭にない武蔵と小次郎は、年下ながら考えの古い、頭の固い人間と思えたことだろう。

つまるところ、「活人剣」──振るい所のない人を活かす剣とは、『ムサシ』の世界においては宗矩本人も実用性を信じていない、〈平和な時代に適した剣法〉の看板を掲げるための方便だった。
そして活人剣を振るうに足る聖人君子が存在しないように、あらゆる侍が処罰怖さではなく良心のゆえに自主的に刀を抜くことを放棄することも──それこそ日本中の侍がノイローゼに陥りでもしない限り─起こり得ない。
これは「アラーの神を信じる人びとに、イスラム世界といえど、その他の世界に背を向けては生きて行けないことを知ってもらう」「アメリカにはその独歩主義を改めてもらう」((3)-※24参照)より以上の難題、というか完全に不可能だろう。人は正気のままでは争いを起こさずにいることができない、という実に悲観的な結論がここには表れている。
そもそも争いごとを起こすまいと思う動機が将軍家においては自身の地位を安泰に保つため、宗矩においてはそんな将軍家の方針下で「争いごと無用」の看板を武器に生き残るためであり、その一方で孝行のための仇討ちはむしろ美談として歓迎する有様である(この点においては宗矩は微妙だが)。子が親の仇討ちを行う分には幕府の足下が脅かされることがないからだろう。
脅威となりうる侍たちをこぞって禅病─ノイローゼにしてしまおうというのも幕府の(つまりは自分たちの)安寧のため──。一見平和主義、ヒューマニズムと見えるものが、実際には多くの場合において権力者の都合でしかないという身もフタもない事実がこのエピソードには読み込まれているのである。

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『ムサシ』(3)-6(注・ネタバレしてます)

2016-12-06 07:09:02 | ムサシ
こうした〈悪意〉を踏まえて『ムサシ』を見直してみると、『孝行狸』のほかにも表面通りではない、裏の意味合いがうかがえるエピソードが散見される。

たとえば乙女の仇討ち放棄。武蔵に教わった「無策の策」を実行し見事に父の仇である浅川甚兵衛の片腕を切り落とした乙女は、しかしとどめを差しにいくかわりに「この恨み・・・・・・いまわたくしが断ち切ります」と刀を捨てて甚兵衛の手当てを始める。
この作品のテーマとされる「復讐の連鎖を断ち切る」を体現したシーンであり、そもそも「復讐の連鎖を断ち切る」という言い回し自体がここと次のシーンでの乙女の台詞「恨みの鎖を断」つに由来している。
この乙女の仇討ち放棄を受けて、先まで自身も復讐心に燃えていたはずのまいは「ひとという生きものが美しく見えるのは、こんなときではないでしょうか。」「恨みを断ち切ったときの乙女どののあの清々しい姿に、なにかお感じになりませんでしたか。」と小次郎に語りかけ、乙女自身も武蔵に向かって「とても気分がいいんです」「恨みの鎖を断ったせいですわ。すがすがしくてさっぱりとしたこの気分、武蔵さまに分けてさしあげたい」などと言うのだが、ちょっと待てよと思う。
「恨みの鎖を断った」と言うが、乙女はともかくも甚兵衛の腕を切り落としているのである。命に別状はなくとも日常の挙措に不自由するようになるのは明らかだし、茶人として剣客・道場主としての生命は断たれたに等しい。先に宗矩が武蔵と小次郎に道場破りをしてもらって甚兵衛の評判を落とし干乾しにする案を出しているが、小娘に敗れたうえ片腕を失った甚兵衛が干乾し─生活に事欠くようになるのはまず間違いないだろう。

つまり乙女はしっかり復讐を果たしているのである。武蔵に剣術指南を乞うた時の「父の恨みをこの刃に込めて、せめて一ト太刀でも、あの浅川甚兵衛に浴びせてやりとうぞんじます」という目標を彼女は実現させているのだから。
本来甚兵衛に一太刀も浴びせることなく一切の報復行動を断念してこそ、初めて「恨みの鎖を断った」と宣言する資格があるんじゃないのか。
乙女に「小次郎さまとの恨みの鎖、思い切って断っておしまいになったら、きっと、すっきりなさるでしょうに」と言われた武蔵が「試合は明後日の朝、それが終われば、わたしも今の乙女どののように、すっきりしているはずです」と答えて乙女をがっくりさせているが、要は〈あなたがすっきりした気分になれたのは決闘を敢行したからこそなんだから自分もそうするよ〉と言っているわけで、これは明らかに武蔵に理がある。

父親を殺されたにもかかわらず腕一本で済ませたのだから十分立派ではないかと言われそうだが、『ムサシ』を語るうえでよく引き合いに出される〈アメリカ同時多発テロ以降の世界情勢〉にたとえるなら、アメリカが〈飛行機を三機ハイジャックされ、うち二機を世界貿易センターに突っ込まされたにもかかわらず、報復のアフガニスタン空爆を一回実施しただけで止めにした、空爆による死傷者の数も同時多発テロによる死傷者より少ない〉と誇るようなものである。
(もちろん実際には空爆は一度で終わらず、井上さんによれば誤爆によって亡くなったアフガニスタン市民の数は同時多発テロの犠牲者を優に超えている。(3)-※24参照)
やられっぱなしになれということではない。ただ一度でも多少なりとも報復を行った以上、相手に与えた被害が自分が受けた被害より小さいからと平和主義者のような顔をする資格があるのか。
それで「とても気分がいいんです」だの「すがすがしくてさっぱりとしたこの気分」だのと言い出された日には(さらにそれを同盟国が「ひとという生きものが美しく見えるのは、こんなとき」などと褒めそやしたなら)ふざけるなとしか言いようがない。乙女の行動はこれと同じことである。

そして命は取らず傷も手当てしてやったとはいえ、生涯不自由な体にされた甚兵衛が、この先生活が苦しくなるにつれて乙女を逆恨みして何らかの報復行動に出ないとは言い切れない。「恨みの鎖を断」つどころか、腕を切り落としたことで新たな恨みの芽を残してしまったのである。
それももともと腕一本で勘弁してやるつもりで決闘に臨んだのではなく、殺す気満々だったのがいざ事に及んだらにわかに日和ったという、要はその場の思いつきで行動した結果なのだ。その程度の覚悟なら最初から復讐など企てるんじゃない。
確かにやってみなくてはわからない事、実際やってみて初めて身に沁みてその重大性に気づくという事だって世の中にはあるだろう。乙女も相手に重傷を負わせて初めて血で血を洗う復讐の無残さを実感した。
しかし実際のところやってみなければわからなかった、不可抗力だったで済ませている物事の多くは、想像力不足や怠慢、他人の意見に耳を貸さなかったことによって引き起こされたのではないか。乙女のケースでも沢庵や宗矩が口々に復讐を止めたのに彼らの話を全く聞こうとしなかった。復讐を思い止まる機会は十分あったはずなのに頭に血が上ったためにその機会を見逃してしまったのだ。

あげくにまいや忠助をも巻き込み(彼らが積極的に巻き込まれたとはいえ)彼らをも死地に立たせておきながら、勝手にもう復讐は止めると宣言して〈いち抜け〉してしまう。
普通ならまいや忠助、僧侶のくせに自分も仇討ちに参加しようとまでしていた平心から〈今さら何を言ってるんだ〉と抗議の声が上がってもおかしくない。
彼らだけでなく仇討ちのため是非にと乞うて剣術を指南してもらった武蔵に対しても大概失礼である。いきなり仇討ちを途中で(半端に)止めたあげく上から目線で「すがすがしくてさっぱりとしたこの気分、武蔵さまに分けてさしあげたい」とはどの口が言うのか。今度は〈さっきまでのわたしは燃えたぎる日輪でしたが、今はお月さまのように大人しく光っているのです〉とでも言うつもりか。
宗矩は「この恨み・・・・・・いまわたくしが断ち切ります」と言って自分自身に刃を向けてから刀を捨てた乙女を、自身の心の三毒を斬った、無自覚のうちに活人剣の奥義を究めたものとして「乙女どのには、そのうちに柳生新陰流のうちの活人剣の免許状を贈ろう」と賞賛したが、すぐ前で宗矩自身が語っているように、活人剣はあくまで「己れの心のうちの三つの毒を切り捨ててから、相手に刃を向け」るのが肝要。まず刀を向け、相手の片腕を切り落としてから三毒を断ったのではまるで手遅れである。
そりゃ全く反省しないよりは反省した方が、殺すよりは半殺しで思い留まる方がまだしもではあろうが、到底活人剣の免許皆伝には当たるまい。そもそも腕を切り落としたこと自体は、後悔してる気配が全くないしなあ。

もっともこれらは全て乙女が書いた芝居だとわかってみれば一応は理解できる。もともと馴れ合いの芝居だったからこそ、平心もまいも乙女の突然の変心に驚きも怒りもせずに彼女の決意を褒めそやす─褒めそやすのにかこつけて、ここぞとばかり武蔵と小次郎に恨みの鎖を切ることの素晴らしさを説こうとする。
二人とも乙女の決意に感銘を受けそれを支持するというのなら、まず乙女に倣って甚兵衛たちの手当てに向かって当然の状況である。まいなど自身の手で敵の額に傷を負わせているのにまるで他人事のような顔をしているが、一連の騒動が武蔵と小次郎を教化する目的で仕掛けられたものであるゆえに、本当の意味で怪我をしたわけでもない斬られ役の介抱などより二人の説得の方が優先するのだ。
沢庵や宗矩が乙女らの仇討ちを止めようとするさいに「殺生はいかん、命あるものを殺めてはいかん」「争いごとはいけませんよ。つまらんことだ」と言うばかりで〈返り討ちにあって命を無駄に捨てるだけだから止めなさい〉とは言わない、多くの弟子を抱えるほどの剣客に素人が挑もうというのだから逆に殺される可能性が高いのに彼女たちの命を気遣う様子が見られない不自然さも、この決闘が狂言とわかってみれば納得できる。乙女(たち)の命を慮る発言をしたのはこれが芝居だとは知らない武蔵の「切ると同時に、あなたも切られるよ」くらいなものだ。
戯曲のト書きには乙女が刀を捨てて甚兵衛の血止めに行った直後に「まだ茫然としている武蔵に平心が、小次郎に、まいが寄り添って」、恨みの鎖を切るのがうんぬんの話を聞かされた二人が「なにか怪しいものを感じて、顔を見合わせる」「二人の様子を、一同がひそかに窺っている気配がある」とあって、乙女仇討ちエピソードの不自然さ、武蔵と小次郎を除く一同が二人に何かを仕掛けている気配を観客に対して匂わせているのだが、実際の舞台ではそれがあまり感じられなかったのは少し残念なところだ。

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