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俳優・勝地涼くんのこと。

『カリギュラ』人物考(5)-3(注・ネタバレしてます)

2009-05-17 00:36:17 | カリギュラ
そんなカリギュラの狙い通り、第四幕に入るなりケレアはシピオンにカリギュラへの強い憎しみを訴え、カリギュラ暗殺計画に加わるよう熱烈に呼びかけるわけだが、しかしここまでケレアのシピオンに対する思い入れが特に描かれていないだけに、「あいつはきみを絶望させた。(中略)これまでにあいつが犯した全ての罪を超える罪だ」とまで言い出すのには、どうも唐突さを覚える。
カリギュラがこれまでに行った多くの殺人・横領・密通よりも、シピオンの心を苦しめた罪のほうがより重いというのだから相当なものだ。
ここに至ってケレアが突然シピオンへの強い執着を見せるのは、すぐ前の場面でのカリギュラとの会話が効いているのだろう。タブレットの焼却をめぐってケレアの中にはカリギュラに対する憎しみが生まれたが、彼はその憎しみがカリギュラに二重三重に誇りを傷つけられたことに由来しているのを認めたくないのではないか。

第四幕第十三場でカリギュラは、「おれの暗殺者は、息子や父親をおれに殺された連中ではない。(中略)だが、ほかの連中、おれに馬鹿にされこけにされたやつらには、虚栄心がある。その虚栄心を相手に、おれには身を守る術がない。」と吐露している。
さらに少し後には「正しい言い方をすれば、おれに敵対しているのは愚かな連中だけではない。幸福になりたいと思っている者たちの、誠意と勇気も、おれに刃向かっている。」と続ける。
後者は明らかにケレアを意識して口にされた言葉だ。カリギュラと「心の底から話を」した時のケレアなら確かにこれに該当しただろう。

しかしこれまで「誠意と勇気」によってクーデター計画を進めてきたケレアは、問題の対話を機にカリギュラに憎しみを抱くようになってしまった。身内を殺されたからではなく自尊心を傷つけられたゆえに彼を憎むことで、ケレアは「馬鹿にされこけにされた」「愚かな連中」の仲間入りをしてしまった。すなわち彼が日頃低く見ている貴族たちと同レベルということになってしまうのだ。
彼は個人的な憎しみや卑しい恐怖のゆえでなく、もっと実存的な「理由のある恐怖」を抱くゆえにカリギュラの理念に立ち向かってきたはずなのに、ケレアの中に生まれた憎しみが彼自身を貶めてしまう。ゆえに彼はカリギュラ殺害を正当化するための理由付けをシピオンに求めたのではないか。

父親の仇と言う、カリギュラを憎むこの上なく正当な理由を持っていて、その清らかな心をカリギュラに傷つけられた若者。貴族たちにも、そして自分にもできないカリギュラに恐れ気なく自分の意見を述べることのできる唯一の人間。
ケレアはシピオンに「傷ついた虚栄心と卑しい恐怖心の群れのなかで、動機が純粋なのはきみとわたしだ」と言う。
自分の動機がすでに純粋とは言えなくなったのをケレアは知っている。残るのはシピオンだけだ。だから彼はシピオンをカリギュラ殺害の「尊敬できる保証人」、一挙のシンボルとして欲したのである。

そしてもう一つ、「愛」の問題がある。セゾニアはケレアに「一度でも人を愛せたことがあるの」と尋ねる。
ケレアはカリギュラとの対話の中で「愛する者たちの死を望むことがあります。家族や友情の掟が禁じている女を欲望することもあります」と自分の内にも暴力的な「愛」が存在することを告白しているが、あくまでそれは理性でやすやすと押さえ込める程度のものだ。
カリギュラや彼を愛したセゾニア、エリコン、シピオンのようなパセティックな情熱は確かにケレアには感じられない。彼は情熱―激しい憎しみや愛のゆえにカリギュラを殺そうとするのではなく、理性に照らしてカリギュラが有害だから取り除こうとした。

そうした彼の態度をエリコンは「あんたは誰に仕えているんだ。美徳にか?」「奴隷をさげすめばいい、ケレア!この奴隷はな、あんたの美徳より上にいる、というのはな、こいつはあの哀れなご主人を今も愛することができるからだ」と罵倒した。
ケレアの美徳―理性的判断よりも自分のカリギュラへの愛情の方が尊いとエリコンは言っている。実際どちらの価値が上かはともかく、理性よりは情熱の方がモチベーションを高めるのは確かだろう。
カリギュラを倒す動機に不純な憎しみが混じりこんできたとき、ケレアはその憎しみの根拠、カリギュラとの戦いのモチベーションを「愛するものを傷つけられたこと」に置くべく、「愛」の対象となるものを探したのではないか。
「ことが済んだら、きみたちのだれとも関わるつもりはない」ような貴族たちは論外である。カリギュラ側の人間ではなく、かつケレアが愛しうる人間はシピオンしかいなかった。もともと好意と尊敬の念は抱いていただろうから、それが必要に迫られて急激に深まった感じだろうか。
愛する者を傷つけられた、「わたしが逆上してあいつを殺すには、それで充分だ」。ここで改めてケレアはカリギュラを倒すための大義名分を手に入れた。
たとえシピオン本人がカリギュラを倒すことに協力しなくても、たとえ止めようとしても、「あいつのせいできみはそうなった。そのためにわたしはあいつが一層憎い」のだから、モチベーションには影響しない。旗頭に担げれば一番いいがそうならなくても問題はない。
ケレアはシピオンに肩入れすることで絶好の動機を手に入れたのである。

結局、シピオンは叛乱者たちの旗印となることなく一人旅立つが、彼がカリギュラの元を離れたとき―より正確にはカリギュラがシピオンを決定的に突き放したとき―ケレアは叛乱実行を決定する。
それは『カリギュラ』(2)で書いたようにシピオンとの別離をもって「カリギュラが天命を失った」と判断したためであり、同時に彼もまたシピオン同様に、カリギュラが己の死に向けて最終準備の段階に入ったことを悟ったためだろう。
今叛乱を起こすなら死にたがっているカリギュラはそれを阻止することはしない。叛乱は成功を約束されたも同然だ。しかしそれはカリギュラの自殺を手助けする、いわばカリギュラの介錯役を自ら買って出るに等しい。
ケレアは第三幕ラストの時点ですでにそれに気づき強い屈辱感を抱いているが、「シピオンのため」という名目によってそれを捻じ伏せ、正義の使者として雄雄しく暴君に立ち向かう。

しかしシピオンが去り際にカリギュラに対して「ぼくはあなたを愛しました」という一言を残していったことを読者(観客)は知っている。シピオンの心はカリギュラの側にある。
ケレア不在の場でなされたシピオン最後の告白によって、ケレアの大義名分は本人の知らぬうちに効力を失わされているのだ。

ラストシーン、ケレアたちはカリギュラのもとへ雪崩れ込み、よってたかってカリギュラをなぶり殺しにする。この場面は、「謀反人たちが入ってくる」とのト書きが示すようにカリギュラの目線で描かれている。
ケレアはカリギュラの顔面に切りつけているものの、一言の台詞もなく、彼が皆を先導している様子も描かれない。単なる「謀反人」の一人という扱いなのである。
激しく苦悩し、笑い、あえぎ、「歴史のなかに入るんだ、カリギュラ。歴史のなかに。」「おれはまだ生きている!」とわめくカリギュラの鮮烈さに比して、ケレアの影はどうにも薄い。

常識人の―自らそうあることを選択した―ケレアが紙一重の狂人であるカリギュラにインパクトで劣るのは当然であって本来恥ずべきことでもなんでもないのだが、平穏無事な生活を望んでいたはずのケレアが、この異常な時代にあって(言うなればカリギュラに触発されて)英雄たらんとしてしまった。しかし彼は結局狂気のヒーロー・カリギュラに対抗するには「まとも」でありすぎたのである。

暴君を倒しローマに平和を取り戻すという当初の予定を達成し、表面的には勝利を収めたものの英雄にはなりそこなった、他の貴族たちほどすれていない、カリギュラ的なものを内に持ちながら凡夫である――つまりは観客に一番近いところにいるキャラクター、それがケレアという男なのではないだろうか。

 


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