久しぶりに劇場版に話を戻す。ここで登場するのが、刹那に続く世界で二番目に能力を発現させたイノベイター、デカルト・シャーマン大尉だ。「ピクシブ百科事典」(※1)によると「刹那がELSとコミュニケーションできたのは、イノベイターの能力を持っているだけではない」「本当に大切なのは分かり合える能力ではなく分かり合おうと努力する心」であることを示すために(水島監督が映画版DVDのブックレットで語っていたそう)、いわば刹那との対比として設定したキャラクターなのだとか。
彼がイノベイターとして目覚めたのはセカンドシーズンの終盤、刹那がトランザムバーストを発動させ自身もイノベイターとして覚醒した際にアロウズのパイロットとしてその場に居合わせたことによるとのことだが、正直イノベイターになってしまったのはこの人にとって不幸としか言いようがない。
ガデラーザでの戦闘など見るにイノベイターとしての能力を駆使して常人離れした戦闘を行うことに快感もあったようだが、連邦初のイノベイターであったゆえにほとんど実験動物扱いで自由を拘束され、本人も言う通り鬱憤を溜めまくっていた。彼が一般人を「劣等種」と見下すのもその鬱憤の裏返しで、非人道的扱いへのストレスを周囲の人間を蔑むことでかろうじて呑み込んでいたように思える。
何よりその脳量子波によって、上手く行けばELSとの対話を成立させるために、駄目でもELSを引き付ける囮になるために――主に後者の役割を期待されて火星調査隊に組み込まれたせいであんな死に方をするはめになった。
ひどい死に方をしたのは彼に限らず火星調査隊は皆そうなのだが、デカルトの悲劇は彼にはELSとわかりあおうとする意志が全くなかったにもかかわらずイノベイターであるゆえにELSから脳量子波と物理面の双方で攻撃を受けたことである(ELS的には攻撃だったのか曖昧なところだが)。
まさに「分かり合える能力」はあっても「分かり合おうと努力する心」がなかった。イノベイターになる以前のデカルトを知らないので断言はできないが、アロウズのMSパイロットだったということは志願したにせよ正規軍から引き抜かれたにせよ優秀な軍人だったのは間違いない。
アロウズはエリート集団にありがちなパターンとして次第に選民意識を強め、それが反連邦勢力への容赦なさすぎる弾圧を招くことにもなったのだが、鬱屈の表れにせよ人間を「劣等種」よばわりするデカルトには、もともとアロウズ的な優越感と排他的傾向があったのではないか。
排他的な、あるいは排他的まで行かずとも自分の内心を他人にオープンにする、他人と本心をさらけ出しての深い付き合いをすることを好まないタイプの人間にとっては、脳量子波を介して直接他人と心で繋がるというのは苦痛でしかないのではないのか。
こうしたデカルトと、刹那以上により対比的な立ち位置にいるのがマリナだ。脳量子波は使えても「分かり合おうと努力する心」がなかったデカルトと対照的に、マリナは脳量子波は使えないが誰かとわかりあおうと努力する心は誰より強かった。
地球外生物の来襲というテーマ上、劇場版では世界情勢についてはほとんど描かれず(主としてアロウズによってもたらされた軍事アレルギーと連邦の宥和政策のもと、比較的平穏に治まっていることがさっくり語られる)、したがって世界の主流から外れているために苦渋を嘗め続ける故国のために奮闘してきたマリナ姫の出番も少ない(王宮に避難してきた人々を世話する場面がほとんど)のだが、その少ない見せ場が序盤のコロニー公社にシーリンともども暗殺されかける一件である。
詳細は「マリナ・イスマイール」の項に譲るが、このエピソードには敵対する相手とさえ話し合いわかりあおうとするマリナの平和主義とそれを支える芯の強さが(かつ刹那とロックオンの助けがなければマリナたちは結局殺されていた可能性が高い=平和主義を貫くことの困難さも)端的に描かれている。
面白いのはELSとの交戦において、刹那はほとんど戦闘行為を行わない。最初は理由のわからないまま、ELSの脳量子波によってもたらされる頭痛とイノベイターとしての直感によって木星探査船「エウロパ」の姿を模したELSを攻撃できず、木星のワームホールから出現した大量のELSを迎え撃った際にはトランザムバーストで「対話」を行おうとするが、送り込まれる膨大な情報量に耐えきれず人事不省に陥り、機体がELSに侵食されるところをティエリアをはじめとするマイスターたちの命がけの救援によってかろうじて救われている。
意識を取り戻した後、完成したばかりの新型機ダブルオークアンタで出撃したさいも、人類の未来を賭けた「対話」を行うために、仲間たちの献身的援護のもとに新たに出現した超巨大ELSを目指す。
あくまで対話での相互理解を目指し、戦わない彼を守るために仲間たちが身体を張って戦うという構図はカタロンに保護されていた頃、そして劇場版冒頭でのマリナのごとくである。
自身はほとんど攻撃を行わなくても仲間が彼に代わって攻撃を行う状況はELSから見ればとても平和的話し合いを望んでいるとは映らないのではないか、劇場版感想の「(3)-9」で書いたように、あきらかに仲間とわかる連中がELSを撃ちまくってる状況で「戦うわけに来たわけではない」と言っても説得力がないのではとも思うのだが、マリナがそうであったように本人の手が汚れていなければ(コーラサワーを救った場面とか多少はELSを攻撃していたが)平和の使者、親善大使となる資格は十分なのかもしれない。
武力を行使してでも道を開かなければ交渉相手のもとに辿り着くことさえできない状況下では、どれほど攻撃されようと当人だけは攻撃し返さないことが和平交渉を行う意志があるという精一杯の表明であり、「対話」をもってELSにもそれが伝わったからこそ和平が成立したと見るべきなのだろう。
(上で「どれだけ攻撃されようと」と書いたが、ELSにとってMSや艦船に取りつき融合したり擬態してミサイルを放ったりするのは「攻撃」なのだろうか。水島精二監督はインタビュー(※2)で「(ELSは)接触して情報を与えることで相互理解をしようとしている。情報を与えるのが好意の証なんですよ。」「実は、エルスは人類に「愛」で接していた。でも、コミュニケーションの方法を1つしか知らなかったから、人類側に被害が及んだ。」と説明している。
この説明に則るなら“ELSに「攻撃」の意図はない、好意の証が裏目に出ただけ”が正解となる。それを承知のうえであえて異論を述べると、ELSは本当に自分たちの「好意」が人類を恐怖に陥れ、結果自分たちへの敵意を喚起していることに気づかなかったのだろうか?
膨張し、爆発した太陽に惑星ごと焼き尽くされそうになったELSが命からがら逃げる回想?場面があるが、そこにはELSの何とか生き延びたいという思いが感じ取れる。ELSの記憶に触れた刹那とティエリアの「みんな同じだ。生きている」「生きようとしている」という言葉通り、必死で生き延びようとしている(そのためにはるか遠い太陽系まで旅してきた)ELSが、同じように必死で生きようとしている、自分たちに命を脅かされている人類の思いを全く理解できないものなのだろうか?
精神構造の全く違う一般人類はともかく、話が通じそうだと彼らが目を付けたはずの脳量子波を使える人間、とりわけイノベイターとして覚醒している刹那やデカルトの感情でさえ察することはできないものなのか?
個人的にはデカルト・シャーマンとの不幸な接触が関係しているのではないかと考えている。デカルトは終始ELSと理解し合う意志はなく、彼らへの排他的敵意を剥き出しにしていた。そのデカルトの機体のみならず当人の精神・肉体にまで侵食を行った結果(デカルトの身体は最後には内側からELSの結晶に突き破られていた)、彼の敵意と憎しみの深さを“理解”し、全体で一つの意識を共有していると思しきELSは自分たち同様に、デカルト個人の感情を人類の総意と受け取ったのではないだろうか。
しかし種としての生存を賭けてここまで旅してきたELSとしても、生き延びるためにも引くことはできない。さらに、一瞬強い脳量子波を放って「対話」の意志を示す個体(=刹那)が現れたが、いざ話をしようとしたら唐突に沈黙してしまい回りの個体がなぜか攻撃を加えてきたりする。
ここで彼らは人類との「対話」を諦め、ようやく得られそうな安住の地を確保するために、自分たちを排除しようとする人類に対し敵意を持って立ち向かうことにしたのではないだろうか。超巨大ELSまで現れ本格的に地球に向かってきたのはこういう背景があったのではないかと想像するのである。
かくて超巨大ELSを中心とするELSの大群と地球を守るべく絶対防衛線を張り巡らせた連邦艦隊との戦いは熾烈を極めることとなる。そこに復活した刹那が彼のための機体・ダブルオークアンタで現れ、超巨大ELSに「対話」を試みるわけだが、ここで興味深い事態が起こっている。
劇場版感想の「(3)-9」でも書いたが、超巨大ELSの内部に侵入するためクアンタが表面を切り裂いた際はすぐに切り口が塞がりかけたのに、閉じかけた亀裂にグラハムの機体が飛び込み疑似GNドライヴを暴走させることで大爆発を起こし開けた穴は刹那たちが通り抜けるまで塞がることはなかった。そして侵入してきたクアンタを超巨大ELSは攻撃するどころか迎え入れるような態度を示し、「我々を迎え入れるのか」とティエリアを驚かせている。
超巨大ELSの外部ではいまだ激戦が続いているとはいえ、超巨大ELSのこれまでが嘘のような平和的な姿勢には、デカルトの意識に触れた時とは逆の転換が起きたように思える。その転換点はどこだったか。
考えられるのはグラハム・エーカーの“死”である。“死”とカッコ付きにしたのは自爆の瞬間にグラハム自身が「これは死ではない!人類が生きるための・・・!」と叫んでいるからだ。この台詞に先立つ、超巨大ELSの亀裂に向かってゆく時の発言も「未来への水先案内人はこのグラハム・エーカーが引き受けた!」。
ELSへの怖れも憎しみもなく、人類の未来のために、刹那とELSの架け橋となるためにグラハムは特攻した。彼は脳量子波は使えないはずだが(刹那やデカルト、ティエリアたちのように脳量子波をぶつけられて苦しむ描写がない)、超巨大ELSの内側で爆散したことで彼の意思をELSは受け取ることができたのではないか。対話がしたい、今からそのための使者が来る、と。それならクアンタが表面を切り裂いた時は即座に修復にかかった超巨大ELSがグラハムの開けた穴は塞がず、かえって刹那たちを友好的に招き入れたことの辻褄が合う。そして刹那との対話によって、自分たちのコミュニケーション方法が地球人には害になると知ったELSは地球人への敵意を解いて和解へと至った。
この特攻以前でも、グラハム率いるソル・ブレイヴ隊の初登場シーンで、彼らの猛攻を喰らったELSはそれでも十分余力がありそうなのに、蚊柱のように球体状にまとまっての様子見に転じている。グラハムが「ええい、何を企んでいる!」と叫んでいるので、これは彼にとっても不可解な事態だったのがわかる。
結局この時なぜELSがいったん攻撃を止めたのかは最後まで明かされていないが、この時からグラハムに対して攻撃を躊躇うというか、何かしら好意的感情を抱く要因があったりしたのかも?それともこの小休止のあとに超巨大ELSが出現するので、「今から行くよ」という報告を受けて待ちの姿勢に入ったタイミングがたまたま合っただけなのか。
・・・などと思っているのだが、これだとデカルトの狭量のせいで人類が滅亡しかけたみたいで彼の立つ瀬がないのと、先に書いたように公式見解は“ELSは(終始)人類を攻撃する意図はなかった”なので、まあ単なるグラハム好きの妄想と思って読み流して頂ければ(苦笑)。)
ここまで見てきたように、劇場版の時点で世界が地球連邦という一つの形にまとまり、一昔前はその枠組みからはみ出し攻撃すらされていた中東諸国も新体制に移行した連邦の宥和政策のもと復興に向かっているのも、イオリア計画による“軌道エレベーター建設を機とする三国家群体制による冷戦時代”→ソレスタルビーイングの武力介入を機とする地球連邦の成立”→“地球連邦下での統一世界と恒久平和を確固たるものにするための独立治安維持部隊アロウズの台頭”→“アロウズの解体とアロウズを陰から操っていたイノベイドの一掃による、武力より相互理解を重んじる平和世界の実現”という過程を踏んだ上での成果である。
そこに至るまでには多くの非人道的弾圧と何百万もの人間の死があったのだ。それを鑑みれば、武力解決を拒否し、決して武器を手に取らないマリナのやり方はいかにも理想主義的と映るのは否めない。むしろマリナの戦い方に敬意を払いつつも、「話している間に人は死ぬ」と武力介入による紛争根絶を目指した刹那とソレスタルビーイングの方が正しかった、ように見える。
しかし劇場版のラスト、50年ぶりに地球に戻ってきて年老いたマリナと再会した刹那は「君が正しかった」と告げる。「君は」でなく「君が」という言い回しはこの後に続くべき言葉が「俺は間違っていた」であることを想起させる。この刹那の言葉を受けてのマリナの返しも「あなたも、間違ってはいなかった」であり「あなたも正しかった」とは言わない。間違ってはいないが正しくもない。
暴力を否定するマリナの理想を最善と認めながらも、目の前の紛争を止めるために妥協案として暴力を用いることを是としてきた刹那が、ここで明確に暴力による解決を否定した。マリナも妥協案を選ばざるを得なかった刹那の気持ちを汲み取ったうえで、それでも非暴力―「わかりあう」ことによる解決こそが正しいと認めた刹那の言葉を肯定している。
刹那の心境の変化は何によるものなのか。上で書いたようにセカンドシーズンラストまでの流れは武力なくして平和は訪れなかったことを示しているかに見える。つまりその先で起こったこと、ELSとの接近遭遇から和解に至る過程にその答えがあるのではないか。
テレビシリーズで刹那はほとんど毎回、名のあるキャラとMS同士の戦いを繰り広げるさいには相手と言葉を交わしてきた。会話の中で想いをぶつけ合い、決裂し、剣をふるって相手を倒してきた。
しかし異星体であるELSとは言葉が通じずコミュニケ―ションが全く成り立たない。それでいながらイノベイターである刹那は脳量子波を通して、相手に敵意とは別の強い想い、デカルト言うところの「叫び」を感じていた。
仲間たちのサポートのもとで刹那はついに超巨大ELSとの対話とそれによる停戦に成功するが、もう一歩遅れていればガンダムマイスターを含むプトレマイオスクルーも、地球軍の艦隊も全滅を免れなかった。ELSは地球に到達し地上を覆いつくして、人類もELSとの融合に成功した一部を除いて死に絶えていただろう。
この“言葉の通じない脅威”に対して、普段は穏健派といっていい人々さえも、ELSを武力で排除することに決する。宥和政策を掲げ、常に話し合いによる問題解決を唱えてきた連邦大統領は全現有戦力によるELS迎撃案を承認し、現在は連邦議員として活動、かつて反政府ゲリラだった頃も極力戦闘を避けようとする姿勢を見せていたクラウスも「私たちの望む平和は、人類が存続してこそ得られるのだから」「そのためなら、私は銃を手にする」とシーリンに宣言し、リント少佐の掃討作戦を嫌ってきたマネキンがELSに対しては掃討作戦を指示する。
かかっているものが地球の命運、全人類の命なのだから普段は穏健派・人道派の人々も強硬派に転じるのも無理のないところだ。ELSの破片(?)が地上に落ちた時の混乱を考えれば、一個体たりとも残せないと考えるのもまた理解できてしまう。
大統領など「たとえ他者を傷つける結果になったとしても」という発言からは、ELSの“攻撃”はコミュニケーションの方法が人類と違うがゆえの不幸な齟齬でELSには害意がない可能性も想定しているようなのだが、たとえ害意がなかったとしても現実に人類側に甚大な被害が出ており、さらに被害が致命的に増大することが予測され、かつコミュニケーションの手段も見いだせるあてがないとすれば力で絶滅させるほかないという、彼女本来の宥和主義に反する苦渋の決断をせざるを得なかったのがうかがえる。
こうして軒並み誰もが徹底抗戦論に傾く中、唯一話し合いでの解決に挑み続けたのがソレスタルビーイングだった。彼らはELSと意思を疎通できる可能性があるイノベイター刹那と、“対話”の主に発信面を仲介する機体ダブルオークアンタと、対話の受信面をサポートする量子コンピューター・ヴェーダ、ヴェーダと刹那の間を繋ぐイノベイド・ティエリアを擁していた。
200年前から「来たるべき対話」を見越して準備してきた組織だけに、そのアドバンテージは地球連邦に遥かに勝る(連邦軍もイノベイターであるデカルトも参加した火星調査隊派遣の段階では、ごくごくわずかながらデカルトを介しての「対話」の可能性も考えてはいた)。
ソレスタルビーイングの構成メンバーはイオリア計画の第一段階である“武力介入による紛争根絶”に共感して組織に加わったのであり、その時点では第三段階の「来たるべき対話」は存在すら知らなかった。彼らが異星人とコミュニケートすることに積極的な関心を持っていたとは思えないが(イオリアにしても特別異星人と仲良くなりたかったわけではなく、科学の発達に従い人類が外宇宙へ進出するのは必然であり、そうなれば外宇宙に住む知的生命体と接触することも必然、ゆえにいつか確実に来る異星人との遭遇に備えなくてはならない、といういわば危機管理的観点から「来たるべき対話」を提唱したものだろう)、イオリア計画を進める中で自然とイノベイター、クアンタ、ヴェーダ、イノベイドと「対話」に必要な備えが揃ってしまった。
イオリア計画が想定していた“人類の外宇宙進出に伴う接触”のためではなく、戦争を無くしたい、命を守りたいがゆえに危険な戦いに身を投じた彼らは、その勇気と正義感をここでも発揮してELSとの対話の最前線に立った。結局それが大正解だったのは結果が証明している。
人類は総力を振るっても、おそらくはこの時点で人類が所有する兵器の内で最大の破壊力を持っていただろう外宇宙航行母艦「ソレスタルビーイング」の主砲でさえ超巨大ELSに全く歯が立たなかった。コミュニケーションの手段がなかったため武力行使一択しかなかったとはいえ、武力でELSに対抗しようとする限り、地球軍にも人類にも絶滅する未来しかなかったのだ。
幸いにしてELSは積極的に人類を滅ぼそうとか支配しようという目的意識を持ってはいなかった。母星の周辺環境が生存に適しなくなったために新しい住処(新しい太陽?)を求めて旅をしてきただけで、自分たちの居場所さえ確保できれば殊更人類と対立する意図はなかったろう。
刹那がELSとの対話時に見た記憶の中に、ELSが取りついた惑星が彼らの荷重を支え切れずに滅んでしまった光景が出てくるが、この時の二の轍を踏みたくないという思いもあったと思われる(人類もELSも誰の得にならない)。そうでなければ、デカルトに破壊された「エウロパ」の破片だけでなく、とっくにELS総出で直接地球来訪→地球滅亡となっていたのではないか。
刹那との対話によって自分たちとは全く異なる人間の生体を知り、彼らと共存するための妥協点を探った結果があの、“月の軌道の向こう側で金色の巨大な花の形に固定”だったようだ。
あんな宇宙空間でじっと固まってて人生の喜びとかあるのかなあ、人間には身体の上に“外宇宙進出の橋頭堡”とか作られちゃうし(さすがにイノベイターを通訳にお伺いは立てたものと思うが)、とか考えてしまうが、劇場版感想の「(3)-11」で書いたように、ELSはものすごく寛容なのか鈍いのか、そうした人間的尺度を超越してるかしていて、とにかく“気にしていない”のだろう。
この並外れた“寛容さ”があればこそ、戦闘においては圧倒的に勝っていたにもかかわらず、そして少なからぬ同胞を殺されたにもかかわらず、人類を滅ぼしも奴隷化もせず、それどころか人類の外宇宙進出に一応の(身体の上に橋頭堡を築かせてくれるという意味において)協力すらしてくれるのだろう。
この「同胞を殺された」件だが、進化過程の初期から脳量子波で意識を共有している、個が全であるようなELSにとって個体の死というのはどの程度の意味を持つのだろう。人間にとっての人体を構成する細胞の一つが消滅したようなものと同じで気にもならないのか、逆に死に瀕した個体の痛みや恐怖、恨みを全体で共有するのか。後者だったなら、さすがに人類は赦してもらえなかったろうから前者だろうか。
それにしても人類も及ばずながら奮戦した結果かなりの数のELSを消滅させているので、人間でいうなら指の一本くらいは失った状態なのではないか。指先の皮が剥けたくらいなら気に留めなくても、指一本無くして再生の目途もないとしたらさすがに相手を恨みたくなるだろう。
戦闘状況がほぼ引き分けなら恨みを呑んで和平も結べるが、圧倒的に勝っていたのに矛を収め、大した見返りも求めない(近所に住み着くのを認めさせた程度)のには驚く。
ただ一つ言えるのはELSの記憶を見た刹那とティエリアが口にした「みんな同じだ。生きている」「生きようとしている」という言葉が示すように、身体の形状も生活様式も考え方も何から何まで違う彼らとわかりあうための手がかりが、両者に共通する「生きようとしている」点だったろうことだ。
死にたくない、生きたいからこそELSは地球圏に襲来(訪問)したし、人類はELSを迎え撃った。不幸な出会い方になってしまったが、どちらの行為も「生きたい」という共通の願いの現れであるとわかれば理解はしあえるし、どちらも“生きる”ためには戦いよりも平和共存が最適、ではそのためにはどのような方法がよいか(住み分け方など)という次の段階の話し合いに移ることができる。刹那たちがELSと行った対話の骨格はここにあったと思う。
とはいえ、人類が金属異星体などという従来の常識を超越した生き物と一応の共存を了承したのは、まさに圧倒的に負けたからであったと思う。もし多少の犠牲は出ても戦闘状況が人類優勢であったなら、必ずや人類はELSを殲滅するまで戦い続けただろう。
完膚なきまでに敗北したからこそ、巨大な花と化したELSが地上からもはっきり見えるような近距離にいる、喉元に剣を突きつけられているとも感じられる状態を受け入れることができたのである(ともかくも彼らの存在を受け入れられたのは、民間人の犠牲がほぼ出ていないことも一因だろう。ELSが軍人以外を“襲った”のは初期に「エウロパ」の破片として地上に降り注いだ一部の個体だけで、大惨事と見えたELSに取りつかれた地下鉄の暴走・衝突事故でさえ小説版によると「数十名の重軽傷者を出していた」とあり死者はいなかったらしいので、もしかするとELSによる民間人の死者はゼロかもしれない)。
ELSはある意味先に書いた「相手より圧倒的に、抵抗する気力を根こそぎ奪うほどの差をつけて強くある」存在であり、出始めのソレスタルビーイングのような人類間の強者と違い、どう精進しても叶う気がしない。永遠の強者かつアロウズやイノベイドたちのように強権的弾圧や殺戮を行うこともない、しかし『幼年期の終わり』のオーバーロードのように人類に規制を課しているとも思えない(ゆえになのか、ELSとの平和共存が成立したのちも世界から争いの火は消えなかったことが小説版のラストで語られる)ELSの静かな見守り(無関心?)のもと、ELSがいなかった時代を知る者が過半数を切ったろう頃に人類はついに本来のイオリア計画の最終段階、外宇宙へ進出するまでに成長を遂げた。そして人類初の外宇宙航行艦「スメラギ」が最初の航海に向かうその日、刹那は50年ぶりに地球に戻ってくる。
先に挙げた「君が正しかった」「あなたも、間違ってはいなかった」を挟んで、前には「こんなにも長く、時間がかかってしまった」「すれちがってばかりいたから」「だが求めていたものは同じだ」、後ろには「俺たちは」「私たちは」「分かり合うことができた」、というやりとりがある。
マリナが「すれちがってばかりいたから」と受けているので、刹那の言う「時間がかかってしまった」は地球に帰ってくるまでかかった時間ではなく、マリナと「分かり合う」ために要した時間のことだろう。
初対面からお互いに強く相手を意識し、ミレイナに「お二人は恋人同士なのですか?」と問われたり、フェルトが刹那に花をあげるさい「マリナさんに怒られるかな」と呟き刹那が「彼女とはそんな関係じゃない」と否定したりと周囲からも恋愛関係かと疑われるほど近しさを感じさせていた二人だが、「求めていたものは同じ」でありながら、刹那は武器をとってそれを目指し、マリナは武器を取らずに目指すという方法論が違っていた。互いの考えを理解し敬意を払いつつも、共に歩むことはできなかった。
それがようやく出会ってから50年以上を経て、互いの歩む道が一つとなった。脳量子波によってELSとは数時間で和平に至った刹那が、長旅で留守にしていたとはいえマリナとわかりあうには、わかりあえたと伝え合うには50年の時を要したのである。
ただ時間はかかろうとも、考え方が違っていても相手を頭から否定せずになぜそう考えそう感じそう行動するのかを理解しようとする気持ちがあれば、今日は無理でも明日には分かり合えるかもしれない。だから相手と戦うという選択は可能なかぎり避けなければならない。
それがELSとの和平という大仕事、初めてスクラップではなくビルドを成し遂げた刹那の辿り着いた境地であり、『ガンダム00』という作品の結論だったのではないかと思う次第である。
※1ー「ピクシブ百科事典 デカルト・シャーマン」(https://dic.pixiv.net/a/デカルト・シャーマン)
※2ー「機動戦士ガンダム00と、2つの「対話」前編」(https://ascii.jp/elem/000/000/574/574526/))
今回で『ガンダム00』感想は最終回になります。去年の誕生日企画が丸一年続くという醜態をさらしてしまい、しかも途中から勝地くんに関係ない内容という・・・お恥ずかしいかぎりです。
さて、先日来gooブログが10月1日でサービス終了する旨ずっと表示されていると思いますが、考えたすえ今年の誕生日メッセージを最後にブログを完全に閉鎖することにしました。過去ログは閲覧できるように他のサービスを探して引っ越しする予定です。明日(もう今日になってしまいましたが)改めて最後のご挨拶をさせて頂く予定です。