主人公でありながら、入ってきた時にはいつ現れたのかわからないほど影が薄いのに(憔悴しきっているのでそれで正しい)、観客に存在を気づかれてからエリコンがやってくるまでの間を一人で持たせなければならない。それも無言で。
そのためにはただ立っているだけ、ちょっとした仕草だけでも観客の目を引きつけるだけの存在感が必要となる。
難易度の高い場面ですが、小栗くんは十二分にそれをやり遂げていました。
・ほとんど狂人のような姿のカリギュラは鏡の中の自分をふと見つめる。この後繰り返し登場する「鏡の中の自分を見つめるカリギュラ」が初登場と同時にすでに示されています。
その外見や態度に反し、鏡の中の自分を意識する―自分を客観視する視点を持っているカリギュラが決して真の意味で狂ってはいないことの証明ともなっている。
・エリコンの登場とともにネオンが点灯する。皇帝の住まう宮殿が一気に裏町のような安っぽい空気を漂わせる。
貴族も神も、皇帝である自分自身も貶めようとする(神の権威を貶めるためのヴィーナスの真似事やミニスカートの踊りは、カリギュラを道化に見せる)カリギュラの再出発にはふさわしいといえるでしょう。
そのくせクラシック様の音楽は荘重で哀切な美しさがある。ネオンにしてもネオン管の光そのものはキッチュでも教会の窓を思わせるアーチの形をしている。
荘重さと安っぽさ、相反する二つのものが溶け合って不思議と静謐な空間を作り出しています。
・カリギュラはずっと俯いているため髪で隠れて顔がほとんど見えない。変貌したカリギュラの顔をなかなか見せずに引きを作っている。
・カリギュラが最初に「(欲しいものは)月だ。」と口にするとき、ト書きには「あいかわらず自然に」とある。
一見カリギュラは月を求めることを特殊なことと思っていない、普段の自分と地続きのこととしてに語っているようですが、数行前、「みつけるのが難しくてな」と月に関する話を始めるさいに一瞬「沈黙」が落ちている。
この自然な態度はそう振る舞っているに過ぎず、本心ではこれまでの自分の生き方から大きく逸脱してゆく、修羅の道へと踏み出していくことへの躊躇いがあったのがこの「沈黙」にうかがえます。
にもかかわらずあえて「自然」な振りをするところに、鏡の中の自分を繰り返し気にするところにも現れる彼の演技者的性格が滲み出ているように思えます。
・カリギュラが欲しいと言う「月」。これは不可能なものの例として持ち出されているわけですが、思えばカリギュラがここで月を出してきたのは実に順当。
もともと月は次第に欠けて完全に消えてはまた満ちてゆく性質のゆえに不死と再生の象徴とされている。その一方で『ロミオとジュリエット』の有名な台詞「不実な月は一月ごと満ちたり欠けたりするもの、あなたの愛もそのように変わりやすいものになります」(※4)に表れているように、移ろいやすいものの代表でもある。
このような月の両義性は、終盤で「本当の苦しみは、苦悩もまた永続しない、という事実に気づくことだ」と永遠性に関する矛盾した見解を示すカリギュラには真にふさわしい。
・「おれはあの人の相談相手じゃありません。見物人です。」 この言葉に反してエリコンはカリギュラにとってはもっとも信頼できる腹心であり、真っ先に「月を手に入れる」野望についても聞かされている。
この台詞のあとに「そのほうが賢明ですから」と続けるところからすると「見物人です」というのはそうありたかった、本当ならそうあるべきだ、というエリコンの願望じゃないでしょうか。
そのほうが賢明だとわかっていながら、本当にそうする気はさらさらない。これからカリギュラが乗り出そうとしている茨の道を共に歩こうと決めたエリコンの、「おれもバカだよなあ」という自嘲が感じ取れる言い回しです。
・「カリギュラは、ローマ中から見られているのよ。なのにあの人は、自分の考えしか目に入っていない。」 舞台全面の鏡が「ローマ中から見られている」というセゾニアの言葉を実感として伝えてくる。
しかし初登場シーンで鏡に目を留めるのを皮切りに、カリギュラの行動は常に鏡に映る自分や他人の目を意識したもののように思える。ここでセゾニアが言う「周囲の目を気にしないカリギュラ」はその後の彼とは別人のようです。
これまでは自分の世界の中で充足していた子供だったカリギュラが、他人の目を意識せざるを得ないだけ大人になったということでしょうか。少し後にセゾニアに「ひとりの男になるというのは、なんと苛酷で苦いことなのか!」と語っていますし。
・ドリュジラのことを素っ気無い口調で語るセゾニアに、シピオンが「(カリギュラは)あなたのことは(愛していたんですか)?」とたずねるが、ここのト書きに「おずおずと」とあるのが何だか可愛らしい。
続く「好きです。ぼくに優しくしてくれました~」のくだりも目をきらきらさせて嬉しげに語るさまが目に見えるようです。この時のシピオンはまだ醜い物など何も知らないような少年然とした輝きに満ちています。
・第一幕第六場のラスト、部屋に入ってきたカリギュラはセゾニアとシピオンを見ると、「ためらい、後ずさりする。」
先のエリコンとの会話の時の「沈黙」同様、親しい彼らに自分の変貌を見せ付ける、それによって彼らとこれまで通りの関係を保てなくなる―そしてもはや後戻りできなくなる―ことへの躊躇が感じ取れます。
・セゾニアの膝にごろっと横になってだらしなく足を投げ出すカリギュラ。はだけた上半身にセゾニアがそっと服を着せ掛けてやる。
このくつろいだ姿が言葉の内容―国庫充実のための無差別処刑計画―の無惨さをより一層際立たせる。
・カリギュラはローマ中の人間に国を相続者に指定させ被相続者を適当な順番で処刑する新たな法を発表する。この法は史実のカリギュラが行ったものを模しています。
この時彼は「みんなお互いにおなじように罪があるんだ」と言う。キリスト教でいう「原罪」を指すものとも考えられますが、むしろ、「人は必ず死ぬ=人は生まれながらの死刑囚である=生まれてきた事がすでに罪である」という理屈なのかと思います。
それは「彼らを罪から解き放ち自由の身とするにはこの世界のルールを変えるしかない」という理論につながる。彼はこれでも本心から人民の救済を目指しているのですね。
・上の台詞に続けて「市民にとって必要不可欠な日日の食料品に間接税をもぐりこませるなんていうやり方は、市民から直接盗むのと同じくらいに、不道徳ではないか。(中略)私はあけすけなかたちで盗むことにした。」
つまり消費税ですね(笑)。古代ローマにもあったんでしょうか。不道徳か、なるほど。
そして「あけすけなかたちで盗むことにした」。正々堂々としたやり方を好むという、カリギュラなりの正義感の表れですね。
・「今日を境に、わが自由にもはや限界はない。」 憑かれたようなカリギュラの目付き。暴君カリギュラの誕生宣言。
・「わが健康が、かたじけないと申しておる」と言いながら、カリギュラは投げ出した両足をばたつかせる。彼の駄々っ子のような幼児性を示す仕草。
・「おれは物書きは嫌いだ」とケレアに言うカリギュラ。
一つ前の「おまえの顔など見たくもない」と言う台詞、ケレアが第二場で「わたしはひとり静かに書物にいそしんでいるほうがいい」と言っていたことを考えればこれはケレアを名指したも同然の批判ですね。
同時にかつてクーデター論を書いたという第一の貴族に代表される貴族たちへの批判でもある。カリギュラが言葉、発話と書字の両方を執拗に攻撃しているとの指摘(※5)を踏まえると、彼の「物書き嫌い」は奥が深い。
史実のケレアは百人隊長→護衛隊副官という生粋の武人だったのを文人の設定に変えているのも、彼を「書字」の専門家として位置付けるためだったのかも。
・ケレアとシピオンに出て行くよう告げたあと、彼らが退場するときカリギュラはそっぽを向いている。
ここにも自分の計画を推し進めることへの、彼らと決別することに対しての、彼の躊躇いが見て取れる(※6)。椅子に座るときの背を丸めた姿にも。
・すがるようにしてセゾニアの腰に抱きついて悲痛な声で彼女を呼ぶカリギュラ。そんなカリギュラの頭を膝にのせ髪を撫でながら優しく語るセゾニア。聖母子像を思わせる切なく美しい二人の姿。
この短い蜜月はカリギュラの「無理だ!」の叫びによって断ち切られる。カリギュラが自分から愛情に満ちた時間を断ち切るパターンはこの後も繰り返し表れてきます。
・「正しいものは別にある。国の財政だ!聞いただろう。すべてはそこから始まる」と叫んだあとの台詞は戯曲では「ああ」だが、「あーあーあー」とうなるように間延びした声をあげる。
その歌うような、けれど調子はずれの声が、彼の精神の(現世的な意味での)箍が外れかけているのを感じさせて背筋を寒くさせる。
こうした抑揚が、俄かに意味の取りにくい長台詞が連続するなかで観客の注意をそらさない効果をあげている(それも計算のうえで演じている)ように思います。
・カリギュラが銅鑼を打ち鳴らすのにあわせてネオンが点滅する。その不吉な感じが、いよいよ新生カリギュラの「はめをはずした祝宴」が始まることを予告する。
銅鑼を鳴らす合間で数回床を叩く仕草をするが、カリギュラ自身ももてあますほどの衝動が彼の体を突き動かしている、これからローマを恐怖に陥れることになる巨大なエネルギーが彼の体の底で荒れ狂っているのを感じさせます。
・戯曲には「(鏡の)表面に映る姿を狂ったように槌で消す」(「槌で消す」という行為は多分に不自然ではある(※7))と書いてある場面で槌を振るうかわりにピンクのスプレーで鏡を塗りつぶす。
時代考証をあえて無視してスプレー、それもいかにも派手でパンキッシュなショッキングピンクを用いることで、現代の暴走族、不良少年のイメージとカリギュラを接続している。
このあたりにネオン使用同様の蜷川さんのセンスとテーマ性を感じます。
・カリギュラが鏡を指差し「カリギュラ」と宣言したところで、空気を引き裂くような絶叫ではじまるプログレ風の音楽が鳴り響いて暗転。
全体に荘重な雰囲気のクラシック風BGMが多い中、一際耳に残るこの幕間の曲は、まさに「パンクの王」カリギュラを象徴しています。
(つづく)
※4-ウィリアム・シェイクスピア『ロミオとジュリエット』(小田島雄志訳『シェイクスピア全集 Ⅱ』、白水社、1985年)
※5-内田前掲論文。カリギュラの死刑論をエリコンが暗誦する、貴族たちに遺言を書かせる、詩人たちがタブレットの文字を舌で消す、シピオンはタブレットを使わない、といった描写について「カリギュラ、エリコン、シピオン、つまり「子供」たちは字を書かない(原文太字部分傍点)。そして「大人」たち(貴族たち、詩人たち)の書くものは(遺言、謀反の連判状、へぼ詩)いずれも書いた当の本人に災厄をもたらし、その取り消しを求めさせる。」「エクリチュールは全く書かれないか、書かれたあと否認されるか、いずれかの形でしか戯曲のうちに登場しないのである」と解析している。
※6-調佳智雄「カミュの初期作品に於ける〝繰り返し〟(2)-「死」「幸福」「男」と『カリギュラ』」(『人文社会科学研究』45号、早稲田大学創造理工学部知財・産業社会政策領域・国際文化領域人文社会科学研究会、2005年)。「(カリギュラ)は、今後ローマ帝国に自由を広めることを宣言する。そのとき彼は、ケレアとシピオンの両者に退場を命ずる。よき理解者であるこの両者を退けることは、まず彼が過去と決別することを意味している。またカリギュラが去り行く二人から顔をそむけるのは、自由とともに試練が始まることを彼が知っていること(中略)をも表している。」
※7-内田前掲論文。「巨大なハンマーで鏡の表面を「狂ったように」こするという動作は、どう考えても不自然である。鏡を割ることはまだためらわれている。鏡を割るときは、カリギュラの自我もまた解体するときだからだ。おそらくこのとき、鏡は象徴的に、擬装的に、半分だけ割られたのだ。父を表象する臣下たちと、母を表象するセゾニアの前でカリギュラは鏡像を消してみせたが、これは「私は、お前たちの世界の中にはもう位置づけられない」というアピールと解することができる。そしてセゾニアだけは、消去された鏡像のうちにさらにカリギュラを認め、恐怖する。おそらくセゾニアはひとり、カリギュラがやがて帰還する「寸断された身体」を予兆する何かを見たのだ。」
追記-前回更新分に若干の追加を加えました(赤字部分)。