高橋敏夫氏は『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・』の中で、「突飛にみえるかもしれない」と断りつつ、『ムサシ』という物語、武蔵が最後小次郎との戦いを放棄する展開に憲法第九条のあるべき姿を重ね合わせる(※1)。
井上さん自身も〈『ムサシ』の結論は、これからの日本は平和憲法に則って戦いに拠らず話し合いでもめごとを解決すべきであるということ〉だと話している(※2)ことや、この物語の舞台となるのがいつなのかを考えれば、これは決して突飛な解釈ではない。
冒頭の舟島での決闘を除く、鎌倉の宝蓮寺で展開されるメインの物語について、脚本最初の「とき」には「元和四年(一六一八)夏の四日間。」とだけあって具体的な日付は書かれていない。ただ実際の日付がいつだったのかは、小次郎が武蔵に宛てた果たし状によって知ることができる。
そこには再決闘の時を「来る八月十六日朝、辰の正刻(午前八時ごろ)」と指定してあり、それを読んだ(宗矩たちが読み上げるのを聞いた)武蔵は「明々後日の朝か」と言っているので、参籠禅一日目が八月十三日なのがわかる。これはその晩、まいと「蛸」を舞う前の乙女の台詞(「さいわい今夜は十三夜」)でも裏付けられる。
そしてクライマックス、武蔵が予定を早めて小次郎と仕合うことで、自分たちの決闘をやめさせようとする何者かをあぶり出そうとするのは参籠禅三日目の真夜中。──つまりは八月十五日、終戦記念日である(※3)。
初期からエッセイなどで終戦の日を境に世の中も人心も一変したことへの衝撃や違和感を綴ってきた、そして中期以降の多くの、21世紀に入ってからはほとんどの作品でいわゆる十五年戦争を取り上げてきた井上さんが、終戦の日を意識することなく八月十五日という日付を設定したとは思えない。「とき」では「夏の四日間」とぼかした書き方をして、作中でもはっきり八月十五日という日付を出さないのも、戯曲をよく読んで初めてわかるように仕向けてあるのではないか。
ちなみに旧暦の八月は秋なので「夏の四日間」というのは本当はおかしいのだが、小説・戯曲とも時代ものも手がけている井上さんがうっかり間違ったとは考えにくい(※4)。これも八月十五日という日付に昭和二十年の夏の日を意図的にだぶらせたための齟齬ではないか。
第二幕の序盤、「第二日・たそがれどき」の場面では沢庵の説法中に月の美しさがたびたび強調されているが、これらも中秋の名月、つまりは八月十五日が近いのを暗示した台詞だったのかもしれない。
要するに、武蔵と小次郎は終戦記念日に戦いを止め兵法者としてのこれまでの生き方を捨てて、安寧な暮らしを選び取った。そこには当然、終戦記念日を境に軍国主義を捨て平和憲法を掲げるに至った現代日本人の姿が投影されていると見るべきだろう。
もともと井上さんは、武蔵──吉川英治氏が描いた宮本武蔵像に典型的日本人のイメージを見出していた(※5)。『ムサシ』が史実の宮本武蔵ではなく吉川武蔵のその後を描くことを選んだのは、井上さんが子供の頃吉川氏の『宮本武蔵』を愛読していた、『ムサシ』の原点というべきブロードウェイでのミュージカル化企画が吉川英治原作でやる予定だった(※6)
ことと並んで、武蔵を日本人の代表として描く、武蔵の生き方に日本人の生き方を重ね合わせるためという要素も大きかったのではないか。
ただ個人的には、幽霊たちの懇願を入れて今回の決闘を取りやめるのはいいとして、刀まで捨てることはないのじゃないかとも感じる。確かにはっきり刀を捨てたとは書いてないものの、宝蓮寺を出立するにあたって、武蔵は「北の方のどこか、山間の荒地に鍬でも打ち込もうか」、小次郎は「越前あたりの寺の軒下でもかりて、境内の草むしりでもはじめるか」とおよそ兵法者とも思えぬ今後の予定を語っているところからすれば、彼らはこの先百姓として、寺男として生きていくつもりらしい。
いや、「鍬でも」「軒下でも」という曖昧な言い回しが示唆するように彼らはぜひ農作業がしたい草むしりがしたいと思っているわけではない。地味だが平穏な(武蔵の場合「山間の荒地」だから平穏とはいえないかもしれないが)暮らしの一イメージとしてこれらを挙げたに過ぎないだろう。
ただこれまでの生き方を捨てて、刀も捨てて生きていこうという意志は明確に感じられる。またそうであってこそ上で書いた〈戦後日本の投影〉も成り立つ。
しかし、「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り、すぐに死なねばならなくなるかもしれない、しかしこの瞬間だけは体全体を使っていきいきと生きている。あのときの沸き立つような命の瞬間がまた味わいたくて、おぬしに止めを刺さなかったのかもしれないな」という武蔵の台詞。これは冒険家やレーサー、格闘家といった命がけのスリルを伴う職業を選んだ人たちは大いに共感するところなのではないか。
これほどの充足感、幸福感を人生のうちで何度味わえることか。むしろ一度も味わうことなく一生を終える人間だって多くいることだろう。
命を失う危険を冒しても真に充実した生を得たいと願うことは頭から否定されるべきなのか。その人間の死によって精神面でも生活面でも直接の打撃を被る家族や恋人・親しい友人ならともかく、赤の他人が彼らの生き方にとやかく口出しする資格があるのか。
今作品の沢庵(幽霊)は、武蔵と小次郎のみならず二人の試合相手から観客まで全て「鈍の鈍の行き詰まり」だと決めつけたが、彼なら上掲のような広義のアスリートたち、鈴鹿や後楽園に詰めかける観客たちも「鈍の鈍」だと言うだろうか。
(『シャンハイムーン』(1991年初演)で井上さんは作中人物に「すぐ決闘をしたがるやつ、無謀な冒険家、能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂、無茶なスピード狂」などは「こころのどこかで自分を破滅させようと思っている」のだと言わせている(※6)ので、井上さん的には彼らも「鈍の鈍」のうちのようだ。
しかし「能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂」というのは、晩年まで年数本の新作戯曲を執筆し、さらに小説・エッセイ・対談・社会活動も手がけて絶えず締め切りに追われ破り続けていた自身への韜晦のようでもある。その一種命を削るような壮絶な執筆活動・創作意欲については『初日への手紙』(Ⅰ、Ⅱ)や「『ムサシ』──憎しみの連鎖を断ち切って」」(※7)、、井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記」(※8)などから窺い知ることができる。
つまるところ井上さん自身も「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」を実感をもって知っている、「間接自殺、あるいは慢性自殺」だと自嘲しながらそうした生き方を楽しんでいたんじゃないだろうか)
もちろん危険な仕事やスポーツに人生を賭けることと、真剣で斬り合うことは同質ではない。登山やレース、格闘技も自分のミスで己のみならず仲間や対戦相手まで殺傷してしまうことがあるが、決闘は基本的に仕合ったどちらかが死ぬ。万が一の時は死ぬ覚悟もしていることと死んで当然とすることとは大きく違う。
──だから何も刀、というか剣術を捨てずともよい。沢庵の言うように刀で立ち会えば死人が出ることが問題なのであって、つまるところ殺さないように戦えばいいわけである。
具体的には必ず寸止めにする、それが難しいなら刀の代わりに竹刀や木刀や某漫画の逆刃刀のような武器を用いる、さらには防御力もあげるため鎖帷子や防具を身につけるといったところか。要は死の危険を上掲のスポーツ程度にまで引き下げて、道場剣術に近づけばよいのだ。
命のやりとりを避けようとすれば「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」は大分目減りしてしまうだろうが、それは「またとない相手」と二度三度戦うことができる喜びと引き換えである。
負けた方はその口惜しさをバネにさらに修行を重ね、勝った方はパワーアップして再戦を挑んでくるはずの相手を迎え撃つべくこちらもさらに修練を積む。そうしてお互い同士より強く高めあっていける。あれだけ再び戦えることを喜んでいた武蔵と小次郎ならそういう関係になれたはずだと思うと、何だかもったいない気がしてしまうのである。
ついでに言えば、ラスト二人はそれぞれの道に分かれて旅立って行くが、二人で一緒に暮らすという選択肢もあったんじゃないか(ドラマ的にはあそこで二人が袂を分かたないと恰好がつかないのはわかっているのだが)。
日々一緒に荒れ地の開墾やら草むしりやらに精を出しつつ、相手のわずかな隙をついて、刀では剣呑なので、小次郎が皇位継承十八位で失神した後のように扇子で突然打ちかかる。いつ何どき相手が(扇子で)襲ってくるかわからない。そしてその日、より多く打たれた方が翌日の食事当番をやるとか(その食事もうっかり食べると唐辛子が山ほど盛られてたりするのだ)。まさに武蔵が目指す「毎日の暮らしの中に戦場をこしらえ、その中にわが身をおいて、心と技とをたえず鍛えて行く」環境ではないか。
「剣を唯一の友として己れの人格を築き上げて行く、それが武蔵の道です」と武蔵は言ったけれど、剣だけを友とする孤独な生き方でなく、これなら志を同じくする友・小次郎と一緒に人格を築き上げてゆけるんじゃないだろうか。何か書きながら楽しくなってきました(笑)。
※1-「(戦うことを避ける武蔵がイメージされていく過程に)日本国憲法とりわけ「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」を謳う第九条がつよく関係していたのはなんとも興味深い。 「武蔵と第九条」という組み合わせは、あるいは突飛にみえるかもしれない。しかし、戦後五十年を数え戦争体験者が激減しつつあるなか、かつては自明な「戦争と第九条」の組み合わせのリアリティは失われていく。それが第九条「改正」の声の高まりにつながっているとすれば、「戦争と第九条」の組み合わせを、新たな組み合わせによって生きいきと再提出しなければなるまい。(中略)『ムサシ』は、日本人がながらく保持してきた「戦う」武蔵像を、「新しい戦争」と関係づけることによって暴力と憎しみの連鎖の悲劇をはっきりさせると同時に、「戦う」武蔵像を維持しつづける日本人がそうした連鎖と無縁でないことを指し示した。 「戦う」武蔵像を、生きることに目覚めたフツーの人々が力をあわせて転倒し、ついに「戦わない」像をつくりだすという『ムサシ』の物語的展開──それは、かつてそうであるべきだった第九条づくりの理想であり、かつ今後の第九条堅持のためにたえず必要になるべき運動そのものである。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』、角川新書、2010年)
※2-「戦うための兵法や軍事的な備えをしておく必要があるかどうかは今は問いませんが、本当の剣の達人は、勝負するところへは持ち込まない。コツコツと外交的な努力を重ねること、それ自体が剣術そのものであって、戦うところには足を踏み込まない。それが剣の極意です。そしてわれわれは、すべてのもめごとを話し合いで解決するという日本国憲法を持っている。日本人としてはこれで生きるしかない。これがわたしの戯曲『ムサシ』の結論です。」(「井上ひさし「武蔵が悔いた兵法の病」、『東京人 no264』、都市出版、2009年)
※3-「真夜中」なのですでに深夜0時を回っていた可能性もあるが、明治五年に定時法(午前0時を一日の始点とする法則)が法制化されるまで、一般には不定時法(夜明けをもって一日の始点と考える)が普及していた。ト書きの「第三日・真夜中」という表記からしても、十五日のうちの出来事として描かれているのは間違いないだろう。
※4-たとえば1979年初演の『小林一茶』には「母が思いをおれに残しつつ世を去ったのは八月十七日、秋風が吹いていたにちがいない。」という台詞がある。この『小林一茶』で俳諧を5テーマにし、『芭蕉通夜舟』(初演1983年)も含めての俳諧師五部作を構想していた井上さんは季語にも精通していたはずで、まず旧暦八月を夏と間違えることはないだろう。
※5-「森羅万象からいつもなにかの教訓を引き出そうとしてやまない謙虚な強欲さ、たえず自らに戒律を課してそれをコツコツ守って行くことにささやかなよろこびを見出す貧乏性の求道精神、高みを仰ぎながらもその日その日を充実して生きることを至上とするその日暮しの理想主義、己が職業に徹することが治国に参加する捷径であるとするノンキ坊主な天下国家観、大自然との交感を大切にする汎心論的エコロジスト。以上をひっくるめて生真面目で勤勉な、明日を信じる楽天家。──これが教養小説の手法を援用しながら吉川英治がつくりだした武蔵像である。ところでこの像はだれかと似てやしないだろうか。問うまでもなく読み手であるわたしたちと瓜二つだ。吉川英治は『宮本武蔵』という小説の中にわたしたち普通の人間の原型を、その忠実な肖像画を描いたのである。こういう小説が読者に歓迎されるのは理の当然ではないだろうか。」(「宮本武蔵 昭和二十五年」、井上ひさし『ベストセラーの戦後史 1』、文藝春秋、1995年)
※6-「間接自殺、あるいは慢性自殺、もっとくわしく言うと、ゆっくりした自己破壊願望、これは意外に例が多いんです。まず、酒びたりがそうですな。それから、すぐ決闘をしたがるやつ、無謀な冒険家、能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂、無茶なスピード狂、そして勝ち目のない戦をいはじめてしまう将軍。みんな、こころのどこかで自分を破滅させようと思っているんです。」(『シャンハイムーン』、『井上ひさし全芝居 その5』(新潮社、1994年)収録)
※7-「芝居を一本書き上げると、必ずどこかガクーンと機能が落ちてくるんですよ。歯が抜けたり、手足がしびれるようになったり、確実に老化していく。その行き着く先は死です。」(「インタビュー 井上ひさし『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」、『すばる』、2009年6月号)
※8-「夏に上演予定の沖縄を舞台にした新作『木の上の軍隊』の執筆に、ひさしさんは最後まで意欲を燃やしていました。がんがわかった時は、「よい作品が最後に二つ書けたからもういい」と言っていたのに、資料を読めば読むほど新しい芝居を書きたくなるのです。沖縄についての資料を取り寄せて目の届くところに並べ、読み込んでいました。(中略)「やっぱり沖縄が書きたい。悔しい」と何度も口にしていました。」「何を見ても聞いても、ひさしさんは「芝居になる」と思ってしまう。病院でも壁越しに患者さんとお医者さんの会話が聞こえてくると、「これはおもしろい、芝居になる」と言います。もう、あと、七十五年生きても、まだまだ足りないぐらい、限りなく書きたいものが湧き出てくる人でした。」(井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記「ひさしさんが遺したことば」、『文藝春秋』2010年7月号)
井上さん自身も〈『ムサシ』の結論は、これからの日本は平和憲法に則って戦いに拠らず話し合いでもめごとを解決すべきであるということ〉だと話している(※2)ことや、この物語の舞台となるのがいつなのかを考えれば、これは決して突飛な解釈ではない。
冒頭の舟島での決闘を除く、鎌倉の宝蓮寺で展開されるメインの物語について、脚本最初の「とき」には「元和四年(一六一八)夏の四日間。」とだけあって具体的な日付は書かれていない。ただ実際の日付がいつだったのかは、小次郎が武蔵に宛てた果たし状によって知ることができる。
そこには再決闘の時を「来る八月十六日朝、辰の正刻(午前八時ごろ)」と指定してあり、それを読んだ(宗矩たちが読み上げるのを聞いた)武蔵は「明々後日の朝か」と言っているので、参籠禅一日目が八月十三日なのがわかる。これはその晩、まいと「蛸」を舞う前の乙女の台詞(「さいわい今夜は十三夜」)でも裏付けられる。
そしてクライマックス、武蔵が予定を早めて小次郎と仕合うことで、自分たちの決闘をやめさせようとする何者かをあぶり出そうとするのは参籠禅三日目の真夜中。──つまりは八月十五日、終戦記念日である(※3)。
初期からエッセイなどで終戦の日を境に世の中も人心も一変したことへの衝撃や違和感を綴ってきた、そして中期以降の多くの、21世紀に入ってからはほとんどの作品でいわゆる十五年戦争を取り上げてきた井上さんが、終戦の日を意識することなく八月十五日という日付を設定したとは思えない。「とき」では「夏の四日間」とぼかした書き方をして、作中でもはっきり八月十五日という日付を出さないのも、戯曲をよく読んで初めてわかるように仕向けてあるのではないか。
ちなみに旧暦の八月は秋なので「夏の四日間」というのは本当はおかしいのだが、小説・戯曲とも時代ものも手がけている井上さんがうっかり間違ったとは考えにくい(※4)。これも八月十五日という日付に昭和二十年の夏の日を意図的にだぶらせたための齟齬ではないか。
第二幕の序盤、「第二日・たそがれどき」の場面では沢庵の説法中に月の美しさがたびたび強調されているが、これらも中秋の名月、つまりは八月十五日が近いのを暗示した台詞だったのかもしれない。
要するに、武蔵と小次郎は終戦記念日に戦いを止め兵法者としてのこれまでの生き方を捨てて、安寧な暮らしを選び取った。そこには当然、終戦記念日を境に軍国主義を捨て平和憲法を掲げるに至った現代日本人の姿が投影されていると見るべきだろう。
もともと井上さんは、武蔵──吉川英治氏が描いた宮本武蔵像に典型的日本人のイメージを見出していた(※5)。『ムサシ』が史実の宮本武蔵ではなく吉川武蔵のその後を描くことを選んだのは、井上さんが子供の頃吉川氏の『宮本武蔵』を愛読していた、『ムサシ』の原点というべきブロードウェイでのミュージカル化企画が吉川英治原作でやる予定だった(※6)
ことと並んで、武蔵を日本人の代表として描く、武蔵の生き方に日本人の生き方を重ね合わせるためという要素も大きかったのではないか。
ただ個人的には、幽霊たちの懇願を入れて今回の決闘を取りやめるのはいいとして、刀まで捨てることはないのじゃないかとも感じる。確かにはっきり刀を捨てたとは書いてないものの、宝蓮寺を出立するにあたって、武蔵は「北の方のどこか、山間の荒地に鍬でも打ち込もうか」、小次郎は「越前あたりの寺の軒下でもかりて、境内の草むしりでもはじめるか」とおよそ兵法者とも思えぬ今後の予定を語っているところからすれば、彼らはこの先百姓として、寺男として生きていくつもりらしい。
いや、「鍬でも」「軒下でも」という曖昧な言い回しが示唆するように彼らはぜひ農作業がしたい草むしりがしたいと思っているわけではない。地味だが平穏な(武蔵の場合「山間の荒地」だから平穏とはいえないかもしれないが)暮らしの一イメージとしてこれらを挙げたに過ぎないだろう。
ただこれまでの生き方を捨てて、刀も捨てて生きていこうという意志は明確に感じられる。またそうであってこそ上で書いた〈戦後日本の投影〉も成り立つ。
しかし、「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り、すぐに死なねばならなくなるかもしれない、しかしこの瞬間だけは体全体を使っていきいきと生きている。あのときの沸き立つような命の瞬間がまた味わいたくて、おぬしに止めを刺さなかったのかもしれないな」という武蔵の台詞。これは冒険家やレーサー、格闘家といった命がけのスリルを伴う職業を選んだ人たちは大いに共感するところなのではないか。
これほどの充足感、幸福感を人生のうちで何度味わえることか。むしろ一度も味わうことなく一生を終える人間だって多くいることだろう。
命を失う危険を冒しても真に充実した生を得たいと願うことは頭から否定されるべきなのか。その人間の死によって精神面でも生活面でも直接の打撃を被る家族や恋人・親しい友人ならともかく、赤の他人が彼らの生き方にとやかく口出しする資格があるのか。
今作品の沢庵(幽霊)は、武蔵と小次郎のみならず二人の試合相手から観客まで全て「鈍の鈍の行き詰まり」だと決めつけたが、彼なら上掲のような広義のアスリートたち、鈴鹿や後楽園に詰めかける観客たちも「鈍の鈍」だと言うだろうか。
(『シャンハイムーン』(1991年初演)で井上さんは作中人物に「すぐ決闘をしたがるやつ、無謀な冒険家、能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂、無茶なスピード狂」などは「こころのどこかで自分を破滅させようと思っている」のだと言わせている(※6)ので、井上さん的には彼らも「鈍の鈍」のうちのようだ。
しかし「能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂」というのは、晩年まで年数本の新作戯曲を執筆し、さらに小説・エッセイ・対談・社会活動も手がけて絶えず締め切りに追われ破り続けていた自身への韜晦のようでもある。その一種命を削るような壮絶な執筆活動・創作意欲については『初日への手紙』(Ⅰ、Ⅱ)や「『ムサシ』──憎しみの連鎖を断ち切って」」(※7)、、井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記」(※8)などから窺い知ることができる。
つまるところ井上さん自身も「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」を実感をもって知っている、「間接自殺、あるいは慢性自殺」だと自嘲しながらそうした生き方を楽しんでいたんじゃないだろうか)
もちろん危険な仕事やスポーツに人生を賭けることと、真剣で斬り合うことは同質ではない。登山やレース、格闘技も自分のミスで己のみならず仲間や対戦相手まで殺傷してしまうことがあるが、決闘は基本的に仕合ったどちらかが死ぬ。万が一の時は死ぬ覚悟もしていることと死んで当然とすることとは大きく違う。
──だから何も刀、というか剣術を捨てずともよい。沢庵の言うように刀で立ち会えば死人が出ることが問題なのであって、つまるところ殺さないように戦えばいいわけである。
具体的には必ず寸止めにする、それが難しいなら刀の代わりに竹刀や木刀や某漫画の逆刃刀のような武器を用いる、さらには防御力もあげるため鎖帷子や防具を身につけるといったところか。要は死の危険を上掲のスポーツ程度にまで引き下げて、道場剣術に近づけばよいのだ。
命のやりとりを避けようとすれば「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」は大分目減りしてしまうだろうが、それは「またとない相手」と二度三度戦うことができる喜びと引き換えである。
負けた方はその口惜しさをバネにさらに修行を重ね、勝った方はパワーアップして再戦を挑んでくるはずの相手を迎え撃つべくこちらもさらに修練を積む。そうしてお互い同士より強く高めあっていける。あれだけ再び戦えることを喜んでいた武蔵と小次郎ならそういう関係になれたはずだと思うと、何だかもったいない気がしてしまうのである。
ついでに言えば、ラスト二人はそれぞれの道に分かれて旅立って行くが、二人で一緒に暮らすという選択肢もあったんじゃないか(ドラマ的にはあそこで二人が袂を分かたないと恰好がつかないのはわかっているのだが)。
日々一緒に荒れ地の開墾やら草むしりやらに精を出しつつ、相手のわずかな隙をついて、刀では剣呑なので、小次郎が皇位継承十八位で失神した後のように扇子で突然打ちかかる。いつ何どき相手が(扇子で)襲ってくるかわからない。そしてその日、より多く打たれた方が翌日の食事当番をやるとか(その食事もうっかり食べると唐辛子が山ほど盛られてたりするのだ)。まさに武蔵が目指す「毎日の暮らしの中に戦場をこしらえ、その中にわが身をおいて、心と技とをたえず鍛えて行く」環境ではないか。
「剣を唯一の友として己れの人格を築き上げて行く、それが武蔵の道です」と武蔵は言ったけれど、剣だけを友とする孤独な生き方でなく、これなら志を同じくする友・小次郎と一緒に人格を築き上げてゆけるんじゃないだろうか。何か書きながら楽しくなってきました(笑)。
※1-「(戦うことを避ける武蔵がイメージされていく過程に)日本国憲法とりわけ「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」を謳う第九条がつよく関係していたのはなんとも興味深い。 「武蔵と第九条」という組み合わせは、あるいは突飛にみえるかもしれない。しかし、戦後五十年を数え戦争体験者が激減しつつあるなか、かつては自明な「戦争と第九条」の組み合わせのリアリティは失われていく。それが第九条「改正」の声の高まりにつながっているとすれば、「戦争と第九条」の組み合わせを、新たな組み合わせによって生きいきと再提出しなければなるまい。(中略)『ムサシ』は、日本人がながらく保持してきた「戦う」武蔵像を、「新しい戦争」と関係づけることによって暴力と憎しみの連鎖の悲劇をはっきりさせると同時に、「戦う」武蔵像を維持しつづける日本人がそうした連鎖と無縁でないことを指し示した。 「戦う」武蔵像を、生きることに目覚めたフツーの人々が力をあわせて転倒し、ついに「戦わない」像をつくりだすという『ムサシ』の物語的展開──それは、かつてそうであるべきだった第九条づくりの理想であり、かつ今後の第九条堅持のためにたえず必要になるべき運動そのものである。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』、角川新書、2010年)
※2-「戦うための兵法や軍事的な備えをしておく必要があるかどうかは今は問いませんが、本当の剣の達人は、勝負するところへは持ち込まない。コツコツと外交的な努力を重ねること、それ自体が剣術そのものであって、戦うところには足を踏み込まない。それが剣の極意です。そしてわれわれは、すべてのもめごとを話し合いで解決するという日本国憲法を持っている。日本人としてはこれで生きるしかない。これがわたしの戯曲『ムサシ』の結論です。」(「井上ひさし「武蔵が悔いた兵法の病」、『東京人 no264』、都市出版、2009年)
※3-「真夜中」なのですでに深夜0時を回っていた可能性もあるが、明治五年に定時法(午前0時を一日の始点とする法則)が法制化されるまで、一般には不定時法(夜明けをもって一日の始点と考える)が普及していた。ト書きの「第三日・真夜中」という表記からしても、十五日のうちの出来事として描かれているのは間違いないだろう。
※4-たとえば1979年初演の『小林一茶』には「母が思いをおれに残しつつ世を去ったのは八月十七日、秋風が吹いていたにちがいない。」という台詞がある。この『小林一茶』で俳諧を5テーマにし、『芭蕉通夜舟』(初演1983年)も含めての俳諧師五部作を構想していた井上さんは季語にも精通していたはずで、まず旧暦八月を夏と間違えることはないだろう。
※5-「森羅万象からいつもなにかの教訓を引き出そうとしてやまない謙虚な強欲さ、たえず自らに戒律を課してそれをコツコツ守って行くことにささやかなよろこびを見出す貧乏性の求道精神、高みを仰ぎながらもその日その日を充実して生きることを至上とするその日暮しの理想主義、己が職業に徹することが治国に参加する捷径であるとするノンキ坊主な天下国家観、大自然との交感を大切にする汎心論的エコロジスト。以上をひっくるめて生真面目で勤勉な、明日を信じる楽天家。──これが教養小説の手法を援用しながら吉川英治がつくりだした武蔵像である。ところでこの像はだれかと似てやしないだろうか。問うまでもなく読み手であるわたしたちと瓜二つだ。吉川英治は『宮本武蔵』という小説の中にわたしたち普通の人間の原型を、その忠実な肖像画を描いたのである。こういう小説が読者に歓迎されるのは理の当然ではないだろうか。」(「宮本武蔵 昭和二十五年」、井上ひさし『ベストセラーの戦後史 1』、文藝春秋、1995年)
※6-「間接自殺、あるいは慢性自殺、もっとくわしく言うと、ゆっくりした自己破壊願望、これは意外に例が多いんです。まず、酒びたりがそうですな。それから、すぐ決闘をしたがるやつ、無謀な冒険家、能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂、無茶なスピード狂、そして勝ち目のない戦をいはじめてしまう将軍。みんな、こころのどこかで自分を破滅させようと思っているんです。」(『シャンハイムーン』、『井上ひさし全芝居 その5』(新潮社、1994年)収録)
※7-「芝居を一本書き上げると、必ずどこかガクーンと機能が落ちてくるんですよ。歯が抜けたり、手足がしびれるようになったり、確実に老化していく。その行き着く先は死です。」(「インタビュー 井上ひさし『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」、『すばる』、2009年6月号)
※8-「夏に上演予定の沖縄を舞台にした新作『木の上の軍隊』の執筆に、ひさしさんは最後まで意欲を燃やしていました。がんがわかった時は、「よい作品が最後に二つ書けたからもういい」と言っていたのに、資料を読めば読むほど新しい芝居を書きたくなるのです。沖縄についての資料を取り寄せて目の届くところに並べ、読み込んでいました。(中略)「やっぱり沖縄が書きたい。悔しい」と何度も口にしていました。」「何を見ても聞いても、ひさしさんは「芝居になる」と思ってしまう。病院でも壁越しに患者さんとお医者さんの会話が聞こえてくると、「これはおもしろい、芝居になる」と言います。もう、あと、七十五年生きても、まだまだ足りないぐらい、限りなく書きたいものが湧き出てくる人でした。」(井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記「ひさしさんが遺したことば」、『文藝春秋』2010年7月号)