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俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(3)-1(注・ネタバレしてます)

2016-10-30 23:55:30 | ムサシ
高橋敏夫氏は『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・』の中で、「突飛にみえるかもしれない」と断りつつ、『ムサシ』という物語、武蔵が最後小次郎との戦いを放棄する展開に憲法第九条のあるべき姿を重ね合わせる(※1)
井上さん自身も〈『ムサシ』の結論は、これからの日本は平和憲法に則って戦いに拠らず話し合いでもめごとを解決すべきであるということ〉だと話している(※2)ことや、この物語の舞台となるのがいつなのかを考えれば、これは決して突飛な解釈ではない。
冒頭の舟島での決闘を除く、鎌倉の宝蓮寺で展開されるメインの物語について、脚本最初の「とき」には「元和四年(一六一八)夏の四日間。」とだけあって具体的な日付は書かれていない。ただ実際の日付がいつだったのかは、小次郎が武蔵に宛てた果たし状によって知ることができる。
そこには再決闘の時を「来る八月十六日朝、辰の正刻(午前八時ごろ)」と指定してあり、それを読んだ(宗矩たちが読み上げるのを聞いた)武蔵は「明々後日の朝か」と言っているので、参籠禅一日目が八月十三日なのがわかる。これはその晩、まいと「蛸」を舞う前の乙女の台詞(「さいわい今夜は十三夜」)でも裏付けられる。
そしてクライマックス、武蔵が予定を早めて小次郎と仕合うことで、自分たちの決闘をやめさせようとする何者かをあぶり出そうとするのは参籠禅三日目の真夜中。──つまりは八月十五日、終戦記念日である(※3)

初期からエッセイなどで終戦の日を境に世の中も人心も一変したことへの衝撃や違和感を綴ってきた、そして中期以降の多くの、21世紀に入ってからはほとんどの作品でいわゆる十五年戦争を取り上げてきた井上さんが、終戦の日を意識することなく八月十五日という日付を設定したとは思えない。「とき」では「夏の四日間」とぼかした書き方をして、作中でもはっきり八月十五日という日付を出さないのも、戯曲をよく読んで初めてわかるように仕向けてあるのではないか。
ちなみに旧暦の八月は秋なので「夏の四日間」というのは本当はおかしいのだが、小説・戯曲とも時代ものも手がけている井上さんがうっかり間違ったとは考えにくい(※4)。これも八月十五日という日付に昭和二十年の夏の日を意図的にだぶらせたための齟齬ではないか。
第二幕の序盤、「第二日・たそがれどき」の場面では沢庵の説法中に月の美しさがたびたび強調されているが、これらも中秋の名月、つまりは八月十五日が近いのを暗示した台詞だったのかもしれない。
要するに、武蔵と小次郎は終戦記念日に戦いを止め兵法者としてのこれまでの生き方を捨てて、安寧な暮らしを選び取った。そこには当然、終戦記念日を境に軍国主義を捨て平和憲法を掲げるに至った現代日本人の姿が投影されていると見るべきだろう。
もともと井上さんは、武蔵──吉川英治氏が描いた宮本武蔵像に典型的日本人のイメージを見出していた(※5)。『ムサシ』が史実の宮本武蔵ではなく吉川武蔵のその後を描くことを選んだのは、井上さんが子供の頃吉川氏の『宮本武蔵』を愛読していた、『ムサシ』の原点というべきブロードウェイでのミュージカル化企画が吉川英治原作でやる予定だった(※6)
ことと並んで、武蔵を日本人の代表として描く、武蔵の生き方に日本人の生き方を重ね合わせるためという要素も大きかったのではないか。

ただ個人的には、幽霊たちの懇願を入れて今回の決闘を取りやめるのはいいとして、刀まで捨てることはないのじゃないかとも感じる。確かにはっきり刀を捨てたとは書いてないものの、宝蓮寺を出立するにあたって、武蔵は「北の方のどこか、山間の荒地に鍬でも打ち込もうか」、小次郎は「越前あたりの寺の軒下でもかりて、境内の草むしりでもはじめるか」とおよそ兵法者とも思えぬ今後の予定を語っているところからすれば、彼らはこの先百姓として、寺男として生きていくつもりらしい。
いや、「鍬でも」「軒下でも」という曖昧な言い回しが示唆するように彼らはぜひ農作業がしたい草むしりがしたいと思っているわけではない。地味だが平穏な(武蔵の場合「山間の荒地」だから平穏とはいえないかもしれないが)暮らしの一イメージとしてこれらを挙げたに過ぎないだろう。
ただこれまでの生き方を捨てて、刀も捨てて生きていこうという意志は明確に感じられる。またそうであってこそ上で書いた〈戦後日本の投影〉も成り立つ。
しかし、「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り、すぐに死なねばならなくなるかもしれない、しかしこの瞬間だけは体全体を使っていきいきと生きている。あのときの沸き立つような命の瞬間がまた味わいたくて、おぬしに止めを刺さなかったのかもしれないな」という武蔵の台詞。これは冒険家やレーサー、格闘家といった命がけのスリルを伴う職業を選んだ人たちは大いに共感するところなのではないか。
これほどの充足感、幸福感を人生のうちで何度味わえることか。むしろ一度も味わうことなく一生を終える人間だって多くいることだろう。
命を失う危険を冒しても真に充実した生を得たいと願うことは頭から否定されるべきなのか。その人間の死によって精神面でも生活面でも直接の打撃を被る家族や恋人・親しい友人ならともかく、赤の他人が彼らの生き方にとやかく口出しする資格があるのか。
今作品の沢庵(幽霊)は、武蔵と小次郎のみならず二人の試合相手から観客まで全て「鈍の鈍の行き詰まり」だと決めつけたが、彼なら上掲のような広義のアスリートたち、鈴鹿や後楽園に詰めかける観客たちも「鈍の鈍」だと言うだろうか。

(『シャンハイムーン』(1991年初演)で井上さんは作中人物に「すぐ決闘をしたがるやつ、無謀な冒険家、能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂、無茶なスピード狂」などは「こころのどこかで自分を破滅させようと思っている」のだと言わせている(※6)ので、井上さん的には彼らも「鈍の鈍」のうちのようだ。
しかし「能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂」というのは、晩年まで年数本の新作戯曲を執筆し、さらに小説・エッセイ・対談・社会活動も手がけて絶えず締め切りに追われ破り続けていた自身への韜晦のようでもある。その一種命を削るような壮絶な執筆活動・創作意欲については『初日への手紙』(Ⅰ、Ⅱ)や「『ムサシ』──憎しみの連鎖を断ち切って」」(※7)、、井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記」(※8)などから窺い知ることができる。
つまるところ井上さん自身も「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」を実感をもって知っている、「間接自殺、あるいは慢性自殺」だと自嘲しながらそうした生き方を楽しんでいたんじゃないだろうか)

もちろん危険な仕事やスポーツに人生を賭けることと、真剣で斬り合うことは同質ではない。登山やレース、格闘技も自分のミスで己のみならず仲間や対戦相手まで殺傷してしまうことがあるが、決闘は基本的に仕合ったどちらかが死ぬ。万が一の時は死ぬ覚悟もしていることと死んで当然とすることとは大きく違う。
──だから何も刀、というか剣術を捨てずともよい。沢庵の言うように刀で立ち会えば死人が出ることが問題なのであって、つまるところ殺さないように戦えばいいわけである。
具体的には必ず寸止めにする、それが難しいなら刀の代わりに竹刀や木刀や某漫画の逆刃刀のような武器を用いる、さらには防御力もあげるため鎖帷子や防具を身につけるといったところか。要は死の危険を上掲のスポーツ程度にまで引き下げて、道場剣術に近づけばよいのだ。
命のやりとりを避けようとすれば「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」は大分目減りしてしまうだろうが、それは「またとない相手」と二度三度戦うことができる喜びと引き換えである。
負けた方はその口惜しさをバネにさらに修行を重ね、勝った方はパワーアップして再戦を挑んでくるはずの相手を迎え撃つべくこちらもさらに修練を積む。そうしてお互い同士より強く高めあっていける。あれだけ再び戦えることを喜んでいた武蔵と小次郎ならそういう関係になれたはずだと思うと、何だかもったいない気がしてしまうのである。

ついでに言えば、ラスト二人はそれぞれの道に分かれて旅立って行くが、二人で一緒に暮らすという選択肢もあったんじゃないか(ドラマ的にはあそこで二人が袂を分かたないと恰好がつかないのはわかっているのだが)。
日々一緒に荒れ地の開墾やら草むしりやらに精を出しつつ、相手のわずかな隙をついて、刀では剣呑なので、小次郎が皇位継承十八位で失神した後のように扇子で突然打ちかかる。いつ何どき相手が(扇子で)襲ってくるかわからない。そしてその日、より多く打たれた方が翌日の食事当番をやるとか(その食事もうっかり食べると唐辛子が山ほど盛られてたりするのだ)。まさに武蔵が目指す「毎日の暮らしの中に戦場をこしらえ、その中にわが身をおいて、心と技とをたえず鍛えて行く」環境ではないか。
「剣を唯一の友として己れの人格を築き上げて行く、それが武蔵の道です」と武蔵は言ったけれど、剣だけを友とする孤独な生き方でなく、これなら志を同じくする友・小次郎と一緒に人格を築き上げてゆけるんじゃないだろうか。何か書きながら楽しくなってきました(笑)。



※1-「(戦うことを避ける武蔵がイメージされていく過程に)日本国憲法とりわけ「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」を謳う第九条がつよく関係していたのはなんとも興味深い。 「武蔵と第九条」という組み合わせは、あるいは突飛にみえるかもしれない。しかし、戦後五十年を数え戦争体験者が激減しつつあるなか、かつては自明な「戦争と第九条」の組み合わせのリアリティは失われていく。それが第九条「改正」の声の高まりにつながっているとすれば、「戦争と第九条」の組み合わせを、新たな組み合わせによって生きいきと再提出しなければなるまい。(中略)『ムサシ』は、日本人がながらく保持してきた「戦う」武蔵像を、「新しい戦争」と関係づけることによって暴力と憎しみの連鎖の悲劇をはっきりさせると同時に、「戦う」武蔵像を維持しつづける日本人がそうした連鎖と無縁でないことを指し示した。 「戦う」武蔵像を、生きることに目覚めたフツーの人々が力をあわせて転倒し、ついに「戦わない」像をつくりだすという『ムサシ』の物語的展開──それは、かつてそうであるべきだった第九条づくりの理想であり、かつ今後の第九条堅持のためにたえず必要になるべき運動そのものである。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』、角川新書、2010年)

※2-「戦うための兵法や軍事的な備えをしておく必要があるかどうかは今は問いませんが、本当の剣の達人は、勝負するところへは持ち込まない。コツコツと外交的な努力を重ねること、それ自体が剣術そのものであって、戦うところには足を踏み込まない。それが剣の極意です。そしてわれわれは、すべてのもめごとを話し合いで解決するという日本国憲法を持っている。日本人としてはこれで生きるしかない。これがわたしの戯曲『ムサシ』の結論です。」(「井上ひさし「武蔵が悔いた兵法の病」、『東京人 no264』、都市出版、2009年)

※3-「真夜中」なのですでに深夜0時を回っていた可能性もあるが、明治五年に定時法(午前0時を一日の始点とする法則)が法制化されるまで、一般には不定時法(夜明けをもって一日の始点と考える)が普及していた。ト書きの「第三日・真夜中」という表記からしても、十五日のうちの出来事として描かれているのは間違いないだろう。

※4-たとえば1979年初演の『小林一茶』には「母が思いをおれに残しつつ世を去ったのは八月十七日、秋風が吹いていたにちがいない。」という台詞がある。この『小林一茶』で俳諧を5テーマにし、『芭蕉通夜舟』(初演1983年)も含めての俳諧師五部作を構想していた井上さんは季語にも精通していたはずで、まず旧暦八月を夏と間違えることはないだろう。

※5-「森羅万象からいつもなにかの教訓を引き出そうとしてやまない謙虚な強欲さ、たえず自らに戒律を課してそれをコツコツ守って行くことにささやかなよろこびを見出す貧乏性の求道精神、高みを仰ぎながらもその日その日を充実して生きることを至上とするその日暮しの理想主義、己が職業に徹することが治国に参加する捷径であるとするノンキ坊主な天下国家観、大自然との交感を大切にする汎心論的エコロジスト。以上をひっくるめて生真面目で勤勉な、明日を信じる楽天家。──これが教養小説の手法を援用しながら吉川英治がつくりだした武蔵像である。ところでこの像はだれかと似てやしないだろうか。問うまでもなく読み手であるわたしたちと瓜二つだ。吉川英治は『宮本武蔵』という小説の中にわたしたち普通の人間の原型を、その忠実な肖像画を描いたのである。こういう小説が読者に歓迎されるのは理の当然ではないだろうか。」(「宮本武蔵 昭和二十五年」、井上ひさし『ベストセラーの戦後史 1』、文藝春秋、1995年)

※6-「間接自殺、あるいは慢性自殺、もっとくわしく言うと、ゆっくりした自己破壊願望、これは意外に例が多いんです。まず、酒びたりがそうですな。それから、すぐ決闘をしたがるやつ、無謀な冒険家、能力以上の仕事を引き受けてむやみに忙しがっている働き蜂、無茶なスピード狂、そして勝ち目のない戦をいはじめてしまう将軍。みんな、こころのどこかで自分を破滅させようと思っているんです。」(『シャンハイムーン』、『井上ひさし全芝居 その5』(新潮社、1994年)収録)

※7-「芝居を一本書き上げると、必ずどこかガクーンと機能が落ちてくるんですよ。歯が抜けたり、手足がしびれるようになったり、確実に老化していく。その行き着く先は死です。」(「インタビュー 井上ひさし『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」、『すばる』、2009年6月号)

※8-「夏に上演予定の沖縄を舞台にした新作『木の上の軍隊』の執筆に、ひさしさんは最後まで意欲を燃やしていました。がんがわかった時は、「よい作品が最後に二つ書けたからもういい」と言っていたのに、資料を読めば読むほど新しい芝居を書きたくなるのです。沖縄についての資料を取り寄せて目の届くところに並べ、読み込んでいました。(中略)「やっぱり沖縄が書きたい。悔しい」と何度も口にしていました。」「何を見ても聞いても、ひさしさんは「芝居になる」と思ってしまう。病院でも壁越しに患者さんとお医者さんの会話が聞こえてくると、「これはおもしろい、芝居になる」と言います。もう、あと、七十五年生きても、まだまだ足りないぐらい、限りなく書きたいものが湧き出てくる人でした。」(井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記「ひさしさんが遺したことば」、『文藝春秋』2010年7月号)



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『ムサシ』(2)-7(注・ネタバレしてます)

2016-10-24 01:46:38 | ムサシ
・戦いに先立ち武蔵が下手ぎわの「大界外相」と書いてある石を持ちあげて動かし、「邪魔になるかもしれんなこれは」と向こうに放り出す。
この「大界外相」の意味がわからなかったので調べてみたら、お寺の中の清浄な世界と俗な人間界を分ける結界石のことだそう。そんな大切なものを「邪魔」扱いで崖下に捨てるなよ(笑)。あなた宝蓮寺の作事奉行なんだから、自分で設置したんでしょうに。
ともかくこれで結界が破れたせいで、幽霊たちが化けていられなくなったわけか──と思いかけたが、これはおかしい。結界が破れたせいでこれまで寺内部に入れなかった幽霊たちが力を得る、姿を現すというならわかるが、その逆で結界石が機能している間は幽霊たちは平気で人間に化けお堂の中まで入っていたのである。不浄なはずの幽霊たちが結界が機能してる時こそ力を発揮しているとは?
しかも(偽)沢庵の口ぶりだと自分たちが自由に活動できるように結界を張ったのは彼だという。本来の寺の結界とは別に彼が結界を張った?としても武蔵が石を落とすことで破れた結界は寺本来のものであって沢庵の結界ではないだろうに、なぜここで幽霊たちが弱体化するのか。
あるいは武蔵が落とした「大界外相」の石は沢庵がすり替えた別物だったのか。その場合寺の結界内(というか境界線)に立ち入って結界石に触ったことになるわけだが・・・。しょせん本性は人斬りの武蔵のしつらえた結界石など形ばかりで何の効力もなかったということだろうか?
あと考えられるのは、戯曲のト書きには武蔵の落とした石はただ「下手ぎわにあった沢庵石大の石」(「沢庵」石というあたり偽沢庵の結界との関連を示唆してるようでもある)としかないから、井上さんとしてはこの石に寺の結界石としての意味合いを持たせるつもりはなかった(たまたま武蔵がどかした石が沢庵の張った結界の石だったというつもりでいた)ものを、蜷川さんがお寺の結界石として演出してしまったために起こった齟齬という可能性だろうか。
脚本がギリギリで、なんと武蔵と小次郎以外のキャラクターがみな死人だと知らないまま稽古を進めていた(!)というくらいだから、(※28)蜷川さんの方で用意した大道具に井上さんのチェックが間に合わなかったというのはありえるかもしれないが、初日は仕方なかったとしても石の大道具くらいなら簡単に差し替えられそうだし、ましてこれは再演である。つまりもとの脚本にはなかった設定ながら、井上さんは武蔵がどかした石を宝蓮寺本来の結界石とすることを問題とはしなかったわけだ。
じゃあどうして、寺の結界が壊れると沢庵の結界まで壊れるのか。寺の結界が機能しているのに、むしろその間こそ幽霊たちが堂々人間に化けていられたのはどうしてなのか。・・・どうしてなんでしょうね(苦笑)。

・そのとき怪鳥の鳴くような声が背後から聞こえてくる。タイミング的には結界を壊され、人間の姿を保てなくなった亡霊たちの悲鳴だったんでしょうか。
この後も寺のあちこちや竹林が次々倒れていきますが、いかに雷が鳴るような悪天候とはいえ寺が壊れるほどではない。これも結界が壊されたために、これまで結界内部にあった一種の仮想空間(後でわかるようにこの中では時間が通常通り流れていないので、空間的に結界が張られてるだけでなく時間的にも周囲と切り離された世界だった)が崩壊しはじめたということなんでしょう。ラストではお寺も竹林も元通りでしたしね。

・小次郎が鞘を捨てたことについてやりとりをしつつ、互いににじり寄りいよいよ刀を交えようという瞬間に、背後から宗矩と沢庵の幽霊が現れて二人の刀を押さえる。「生きよ~」「死ぬな~」という二人の声に続いて、寺のセットが二つに割れて男女七人の幽霊がさらに現れる。
武蔵は二刀を抜いて、小次郎は太刀で幽霊たちを次々斬っていく。勝ち残った者が敵の正体を見やぶるはずが、結局相手のことはさておいて共に幽霊に立ち向かっている。
まあ敵の正体がなんと幽霊、超自然の存在だったとあっては(狐や狸に化かされるのだって十分超自然現象だけども)、しかも自分たちに向かってこられれば、まずはそちらを斬り捨てようとするのが自然ではありますが。

・幽霊たちは皆踊るようなゆっくりした動き。音楽に合わせて念仏が流れる。その音楽も教会音楽風のオルガンに和楽器の音を絡めた見事な和洋折衷。
斬られながら「殺すなァ~」「殺されるなァ~」と叫ぶ平心と忠助。端から出た乙女が「もったいないのにィ~」。反対からまいが「たいせつなのにぃ~」。さらには乙女の父の敵だったはずの三人組まで「わからずや~」「阿呆~」とつぎつぎ叫んでいる。
斬っても死なない幽霊たちを相手にいつしか背中合わせになる武蔵と小次郎。すっかり共同での戦闘態勢。幽霊たちが出てくるまでの幸せそうな様子を思えば、せっかくの勝負によくも水を差したと怒ってもいいくらいですが、さすがに幽霊相手に口論を挑みはしなかった。

・倒れた竹が持ち上がって元通りになり、二人を半円に囲むようにした幽霊九人はみな手を合わせてじっと立っている。一時の混乱が収まり、ちゃんと話しあえる状態に復したことがこの静かな様子でわかります。

・沢庵が「さきほど、武蔵どのは、そこの結界石を崖下にお落としになりましたな」「そのために結界が破れて、もはや沢庵さまに成り澄ますことができなくなりました」。
そのためこんな姿で失礼いたします、と手をぶらりとした幽霊定番のうらめしやポーズ。外見も経帷子に天冠のわかりやすい幽霊姿です。そしてもはや口調が沢庵ではない。
バックに幽霊たちのなんまんだぶの合唱。この合唱、ちょっと催眠効果でもあるんでは。小次郎が「第十八位」にやられた時も武蔵以外の全員が「なんまんだぶ」唱えてたし。

・沢庵を皮切りに幽霊たちが自分たちの死因について告白する。沢庵は、貧乏寺のため寄進を募ろうと二十一日間の断食に挑んだが十九日目で力尽きて死んだと語る。
ここでバックの「なんまんだぶ」の声が高くなる。「途中で止めていれば、その先、いささかでありましょうと世間さまのお役に立てたのに、お金欲しさに命をむだに捨ててしまいましたー」。と泣き声に。
「幽霊さえも寄りつかないような貧乏寺」という形容がすごい(笑)。しかしこれまでの堂々たる沢庵の物腰と全く別人。六平さんの演技が光っています。

・ついで宗矩が、自分は朝比奈切り通し下で畑を打っていたが、関ヶ原で戦があると聞いて血をたぎらせて先祖の鎧を引っ張り出し、立派な戦国武将になって帰ってくるぞと(このへんすごく声が涸れてますが、意識的に裏声なのかほんとに声涸れてるのか)、息子を二人、父方のおじ、それにはとこ(呼ばれると幽霊の群れから該当者が前へ出て一礼する)など「一族郎党引き連れて出かけて行き、着いたその日に鉄砲で打たれましたー!家名を上げようとして命を落とした粗忽者です~」。
先祖の鎧を引っ張り出し、というからには元々は武家の出身だったということか。他の幽霊が皆鎌倉近辺で死んでいて、地縛霊としてこの地に出てくる必然性があるのに対して、関ヶ原で命を落とした宗矩の一族はこれに当てはまらない。だから居住地を朝比奈切り通し下にすることで魂が生まれ故郷に戻ってきたことにしたんでしょうが、逆に言えばなぜ関ヶ原で死んだ設定にしたのだろう。
戦で亡くなった人間も幽霊のうちに加えたかったのか、史実でも吉川英治『宮本武蔵』でも武蔵は若い頃に関ヶ原で戦ってるので、彼らと武蔵に一応の因縁付けをしたかったものか。
そして「一族郎党引き連れて」出かけたという形で幽霊たちの告白数人分を一エピソードで片付けてしまう(笑)。はとこまで持ち出す無理矢理感で笑いを取りつつ、参籠禅のメンバー以外の、観客に馴染みの薄い面々の話をさらりと略してしまう。手練の技です。

・平心が出て「わたくしは逗子の山の中で、石を研ぎ鏡をこしらえていました」と告白。ここで武蔵がはっとしたように反対方向を見ている。おそらく鏡職人というところから、例の鏡が一つに合わさった謎に関わってると察したからでしょう。

・「女房どのが、毎日のように、「貧乏はもういや」とこぼしますので、いまに見てろよと、お供をして(ここで宗矩を差す)出かけましたが、着いたその日に鉄砲でやられました。こんな姿で迷っていますと女房どののあの小言も、天上の音楽のようであったなあと、なつかしく思い出されるのです~」と続ける平心。
先の説法の女房にせっつかれて強盗殺人を行なった男に重なるものがあります。きっとあの時説法しながら女房どのを思い出していたことでしょう。

・まいは、自分は八幡宮の白拍子だったが、静御前と舞の手を争って敗れ、悔しさのあまり弁天池に身を投げたという。「一つしかないいのちを~軽はずみでございました」。
静御前と同時代に生きたとなると400年以上も前の人間、沢庵は不明だが他の幽霊たちが皆ここ十数年の死者なのに比べて一人だけずいぶん古い。彼らと出会う前は何百年も一人でさまよっていたのかな・・・。

・乙女は「父の見せ物小屋で、女歌舞伎や若衆歌舞伎を観て育ちました。やがて筋書きを書くのが好きになり、ある若衆歌舞伎一座のために脚本を案じましたところ、座頭から「あんた下手ねー!」(この時の台詞回しが前後と全く声色が違ってユーモラスで良い)と突き返され、口惜し泣きしながら、月夜の由比ヶ浜を歩いているうちに、ふと気がつくと、もう海の底におりました~」と泣き崩れる。
「ふと気がつくと」というからまいのように明確な自殺ではなく、悔しさのあまり回りが見えてなさすぎて海に落ちた(それも死ぬまで落ちたことにも気づかなかった)という一応は事故死のようです。
若衆歌舞伎が流行ったのは女歌舞伎が禁止された寛永六年(1629年)からで、物語の主な舞台となる元和四年(1618年)よりも後なのだが、調べると慶長八年(1603年)に出雲のお国がかぶき踊りを創始した直後から存在はしていたようなので、乙女の死は慶長八年以降、「女歌舞伎や若衆歌舞伎を観て育った」というから慶長八年に十年前後プラスしたあたり─3、4年前に亡くなったといったところでしょうか。おそらく幽霊たちの中では一番の新参ですね。

・「生きていたらもっとたくさん書けたのにー!・・・でも、このたび、このお芝居の脚本を書くことができて、少しはホッとしております」と言う乙女。この「生きていたら~」という心の叫びは『ムサシ ロンドン・NYバージョン』上演時にすでに井上さんが故人になっていたことを思い合わせると、つい井上さん自身の叫びのように聞こえてしまう(同じような感想を記した劇評も見かけました)。
そして武蔵と小次郎が口々にあげていた〈宝蓮寺で起きた全ての事柄に自分たちに決闘をやめさせようとする意志が働いている〉その理由がここではっきりする。やはり具体的な筋書きを作った人間がいたわけですね。

・ここでぱっと画面が明るくなり武蔵と小次郎ははっと顔を見合わせる。そして後ろを振り向くと二人の前に幽霊たちが揃って土下座。
まいだけすぐ顔をあげ「生きていたころは、生きているということを、ずいぶん粗末に、乱暴に扱っておりました」。ついで宗矩が顔をあげて「しかしながら、いったん死んでみると、生きていたころの、どんなにつまらない一日でも」「どんなに辛い一日でも」(中略)「とにかくどんな一日でも」「まばゆく、まぶしく輝いて、見える~!」。
武蔵は小次郎からの決闘申し込みを受けたさいに「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り、すぐに死なねばならなくなるかもしれない、しかしこの瞬間だけは体全体を使っていきいきと生きている。あのときの沸き立つような命の瞬間がまた味わいたくて、おぬしに止めを刺さなかったのかもしれないな」と語っている。
死がすぐ傍らにあるからこそ、今生きているという生命の輝きをひしひしと感じることができる。それゆえ自ら望んで死地に立とうとする武蔵や小次郎の生き方に対して、すでに死んでいる自分たちから見れば、死と紙一重のスリルなど求めるまでもなく、ただごく当たり前に生きているだけで生命は輝いているのだと幽霊たちは主張する。
井上さんは、生ある者の輝きを描くため対比的に死者を頻繁に登場させるそうで(※29)、『イーハトーボの劇列車』(初演1980年)や『頭痛肩こり樋口一葉』(初演1984年)で幽霊を出したのもそれゆえなのだそう(※30)
この〈ただ生きているだけで人生は素晴らしい〉ことをもって、好んで生死の境に立ちたがる人間を否定するのには個人的に異論がありますが、それについては(3)で述べようと思います。

・「このまことを、生きている方々に伝えないうちは、とうてい成仏できません」「けれど、これまでどなたも、このまことに耳を傾けようとはなさらなかった」「それで、こんなふうに、迷ったままでおりますー!」と全員で頭を下げ、「うーらーめーしーやー」と体を起こしておなじみの幽霊ポーズ。
しかし「これまでどなたも(中略)耳を傾けようとなさらなかった」と言うが、すぐ後の「こんどこそはうらめしや、なんて古くさいやり方ではなく」という台詞からすると、今までは普通に幽霊らしく人前に出て「このまこと」を訴えようとしてきたっぽい。・・・耳を傾けようとしなかったのは話の内容どうこうではなく話聞く前に怖さで逃げ出したんじゃあ?

・この鎌倉に日本一を競い合って著名な剣客が二人訪れたので、「こんどこそは、うらめしやなんて古くさい(「古くさい」という時のいかにもバカにしたような言い方が面白い)やり方でなく」「このまことを、生きている方々のお好きなお芝居仕立てにくるみ込み」「一生懸命、相勤めましたー」と全員で頭を下げる。
「一生懸命、相勤めました」という言葉といい動きといい、歌舞伎の口上のようです。

・沢庵が、「今朝早く」小次郎がこの佐助ヶ谷に足を踏み入れた瞬間に「わたしが」宝蓮寺一帯に結界を結んだと言う。
今朝早く?小次郎が現れてから三日経ってるはずなのに。最初は台詞の言い間違いかと思いかけましたが、このあとで本物の沢庵たちがやってくるので、つまりは本当はまだ参籠禅最初の朝、武蔵と小次郎は時間を超えた結界の中で数時間の間に三日分の夢を見せられてたということだろう。結界を張るのが沢庵を演じた幽霊の役回りだったのは、生前僧侶だっただけに他幽霊たちより法力のようなものが上回っていたのか。
不思議なのは小次郎が佐助稲荷に出かけたシーン。宝蓮寺と佐助稲荷は近所のはずではあるが、宝蓮寺一帯に張った結界は佐助稲荷までも含んでいるのか。結界石が寺の境内にあるあたり、宝蓮寺の敷地だけが結界内なのかと思ったのだが。
もっとも小次郎は「宵祭りでにぎやかだった」と語っていたが本来はまだ朝のはずなので佐助稲荷も時間の流れ方が違う、つまりは結界内ということになろう。ということは「宵祭りでにぎやかだった」というのも小次郎が幻を見てたわけか。そのわりには宵祭りで購入した(としか考えられない)狐のお面─実体のあるものを寺に持ち込んでいるのが謎。あのお面、その後出てこないからやっぱりあれも幻だったのだろうか?
この佐助稲荷に行ったエピソード、さして必要性がないにもかかわらず再演のために脚本が詰められたときもそのまま残ったから、なんかもっと裏の意味があったりするんじゃあ?と勘繰ったりしてます。

・幽霊たちは、これからここにくる予定の方々に化けてあの手この手で二人を戦わせまいとした、二人が戦わないでくれれば成仏がかないますとそろって頭を下げる。「お二人がお命を大切になさることで、わたしたちを成仏させてください~」「成仏を~成仏を~」。
結局最後は泣き落としじゃないか。しかも武蔵と小次郎の命を惜しんでいるようなことをさんざん言ってきたくせに、最終的には自分たちが成仏したいがために二人に決闘をやめさせようという・・・要は自分たちの都合に武蔵と小次郎を付き合わせようとしてるわけで(戯曲には、乙女が「このお芝居の脚本を書くことができて、少しはホッとしております」と語るシーンの後のト書きに、武蔵と小次郎が乙女の名乗りにギョッとした、「そこへ付け込み、亡霊九人、ここを先途と訴える」とある。つまりは彼らの動揺に付け込んで、ここぞとばかり泣き落としにかかったわけだ)。
・・・実はこの場面にこそこの作品の真のテーマがあるような気もしますが。

・ここで浅川甚兵衛が小次郎の鞘を拾って背後から差し出す。このときの捨て猫のような目が何とも(笑)。小次郎は鞘と武蔵の顔を見比べつつ鞘を受け取り、武蔵も刀をしまう。
そろって刀を納めた瞬間のちゃりんと鍔の鳴る音と同時に、幽霊たちが「ありがとうございます~」「なんまんだ~」と口々に唱える。刀を納めた時の二人の胸中はどんなものだったのだろう。

・他の幽霊たちがゆっくり立ち上がり後ろへ去ってゆく中、宗矩は一人近づいてきて、「あの『孝行狸』という謡曲のことだが、おしまいまで仕上がっているんだよ」と穏やかに切り出す。
本物の宗矩が将軍家の政治顧問という上流社会の人間だけに能に堪能なのはわかるとして(史実もそうだし)、生前一介の百姓だった偽宗矩が能に詳しいのはちょっと意外。幽霊になってからまいに教わったんだろうか。
何にせよ能にも『孝行狸』の筋にも興味なさげな武蔵と小次郎にしてみれば〈だからなに?〉という話である。戯曲でも宗矩の台詞に対する武蔵と小次郎の反応は「・・・・・・?」になってました(笑)。

・宗矩いわく、「カチカチ山に帰った子狸は、仇のウサギをスパッと二つに切った。すると、ウサギの上半分が鵜になって、下半分は(この時点で客席から笑いが起きている。先が読めたからだろう)鷺になって(ここでもっと笑い)、空高く飛び去っていった。めでたしめでたし」。客席上空を指して夢見るような調子で語る宗矩がいい味です。
ところでこのウサギがウとサギに分かれるオチですが、江戸後期の黄表紙あたりにでもありそう、いや実際こんな筋の話があったような?と調べてみたら、井上さんのエッセイの中に答えがありました。朋誠堂喜三二による黄表紙『親敵討腹鼓』(おやのかたきうつやはらつづみ)(※31)です。
内容は「カチカチ山」の後日談で、兎に親を殺された子狸が仇討ちのため兎を付け狙い、兎を斬ると上半身が鵜になり下半身が鷺になってどこかへ飛んでいく、というもので、これが『孝行狸』の元ネタなのは明らかです(もっとも『孝行狸』は大分『親敵討腹鼓』の内容を削ぎ落としていて、その落とし方がキモだったりするのですがそれは(3)で)。
若い頃吃音に悩んでいた井上さんは、『黄表紙百種』という本に収録されていたこの作品で初めて黄表紙というものに触れて、その言葉遊びの馬鹿馬鹿しさに衝撃を受け、「馬鹿なもの、ムダなことにも値打ちがあるのだ。だから、自分もそんなに立派な人間になろうとしなくてもいいのではないか」と気持ちがうんと楽になったといいます(※32)
これは井上さんについての伝記的研究本では必ずといっていいほど取り上げられる有名なエピソードであり、当然評論家の方々は『孝行狸』の元ネタが『親敵討腹鼓』なのに気づいていたはずですが、不思議と浅見の限り誰もこの事に言及していない(※33)。有名な話だからこそわざわざ取りあげるまでもないと思ったのか?・・・おそらくは扱いに困った結果として黙殺したんじゃないかと類推してるのですが、そのあたりも(3)で書こうと思います。

・語り終えた宗矩が、無言のままの(呆れてた?)二人にありがとうと手を合わせて去ったあと、今度は平心が近づいてきて、「二つに割れた鏡が、ぴったり一つになりましたよね」と小次郎に話しかける。
先に宗矩がウサギがウとサギの二つに分かれる話をした直後に、今度は二つに割れたものが一つになった話。もっとも平心が種明かししたように一つになったうちの半分は偽物だったわけですが。

・鏡は小次郎が水垢離をしてる間にこっそり寸法をとってまいが持ち出した方をこしらえたと聞いて胸を押さえる小次郎。「生きているころは、これでも腕のいい鏡職人だったんですよ」と平心。
彼も乙女同様に、今回生前鍛えた腕を振るう機会を得たことで、いくらか充足感を得られただろうか。無言で見つめる二人に「ありがとう」と手をあわせる場面の笑顔には心なし〈やりきった〉感がうかがえました。

・平心が去った後に小次郎の足下に鏡の半分が落ちる。さっき探したときは見つからなかったものが元々の姿に返って手元に戻ってきた。哀切なメインテーマが流れる中、無言で立ち尽くしたままの二人。小次郎の目の淵から伝ったのは汗なのか、それとも涙だろうか。
寺のセットも元通りになり、一種の異次元から本来あるべき場所へ戻ってきた、物語の環が閉じようとしているのを暗示しています。

・はっとしたように武蔵は寺を振り返り、小次郎も落とした鏡を拾い上げて大事にしまう。二人とも無言のまま襷を外し鉢巻きも外す。
寺の床に刀を置いて、そのまま旅支度を始める二人の動きがシンクロしていて、終始無言なのも合わせ、何も言わずとも通じ合える二人の絆を感じさせます。

・脚絆をつける途中で小次郎が、実は失神した時にどこかの勅願寺に迎えられてお飾りの住持にでもさせられるのかと思った、それならそれでのんびり暮らすのも悪くないとふと思ってしまったと打ち明ける。
巌流島の決闘のさいについ不戦勝を願ってしまったのもそうですが、強い敵と戦うこと、それによって自分を高めてゆくことに価値を置く武蔵に対して、小次郎の方は名誉を得るための道具として剣を用いている節がある。たまたま養父が小太刀の使い手だったために剣の道を選んだだけで、他のルートを使って名誉を得られるならそれでも構わなかったのでは。
お飾りに過ぎなくても退屈でも名誉ある立場に惹かれてしまったあたりが大分俗物ですが、死に近接したところに常に身を置こうとするより「のんびり暮らすのも悪くない」と考えるほうが人として健全なのかもしれません。

・「・・・しかし、いま何位くらいだろう?」「・・・なにが?」「皇位継承順位のことだ」。芝居だったのがわかってるのにまだ言うのか、どれだけ未練がましいのかとつい笑ってしまった。小次郎本人もちょっと照れくさそうにしてます。

・「そうだな、この国には三千万の人が住んでいるといわれているが、二人とも一千五百万位ぐらいではないのか。まあ、ごく当たり前の人、というところだ」。「そうだな・・・」と静かに納得した風の小次郎。
彼がおそらくは幼少期からずっと抱えてきた、そして剣士としてのモチベーションでもあった名誉欲を捨てた。彼が剣客ではなく普通の人として生きてゆくきっかけとなるやりとりです。

・これからどこへ行く?と聞かれた武蔵は「北の方のどこか、山間の荒地に鍬でも打ち込もうか。もう三十五だ、そろそろ人の役に立つようなことも考えないとな」と答える。おぬしはどこへゆくと聞かれた小次郎は「越前あたりの寺の軒下でもかりて、境内の草むしりでもはじめるか。雨の日は、武蔵にならって書を読もう」。
ただ「書を読もう」だけでなく「武蔵にならって」という言い回しに、小次郎の中で武蔵はもはや敵ではなく畏友というべきポジションにあるのが滲み出ていて、なんだかほっこりします。「武蔵にならって書を読もう」と言うときの小次郎の声もどこか優しい響き。
しかし一種難事業に挑もうとしてる武蔵はともかく、小次郎は余生のごとくである。武蔵に「まだ二十九ではないか。老け込むなよ」と言われるわけです。
ところでこの二人の年齢ですが、巌流島での決闘当時は武蔵が29歳、小次郎が23歳。つまり井上さんは二人の再会を六年後に持ってくることで、小次郎が当時の武蔵の年齢になるよう図った。今の小次郎が自分と同じ年だった頃の武蔵に追いつけたかを浮き彫りにするための工夫でしょう。
剣の腕的にはどうかわかりませんが、人間性については、当時の武蔵の方が大人だったんじゃないかという気がする。小次郎にとって武蔵はいつまでも追いつけない目標、かつて武蔵がいた地点にたどり着いたと思ったら武蔵はさらに前に進んでるという「アキレスと亀」的な関係なんじゃないですかね。

・蝉時雨の中、鐘の音とともに客席を通って本物の平心らが登場。浅川甚兵衛ら一味も茶の宗匠風の格好。
沢庵と平心が「これこれ、武蔵よ、どこへ行くのだ」「これから始まるのですよ、開山式が」と止めるが、「急に思い立ったことがあります」と武蔵はあっさりかわす。家光さまが一度おぬしと会いたがっている、終わったら江戸へゆかぬかと誘う宗矩にも「それはまた、別の機会に」と取り合わない。
一方まいは小次郎を側で眺めまわしてから「こちらのお方は?」と武蔵に尋ねる。本物のまいは小次郎に何の思い入れもないはずですが、一度は彼女(と同じ姿の幽霊)を母と呼んだ小次郎は居心地悪げ。まあそれ以前に「佐々木小次郎」と名乗るわけにもいかないだろうし(なぜ生きてるのか、宿敵武蔵となぜ一緒にいるのかなど説明が難しい)。

・少し間があって「友人です」と武蔵は答える。小次郎は驚いた顔で武蔵を見るが、正直武蔵から友人と呼ばれること、自分も彼を素直に友人と思えることが嬉しかったんじゃないかな。

・乙女が「ぶしつけながら、お名前は」と尋ねるのに応えず武蔵に近づいた小次郎は「からだをいとえ」と告げる。「おぬしも達者でな」。ごくシンプルな言葉の中に相手に対する万感の思いが籠もっている。
左右に分かれ客席へ降りて去る二人。「おい武蔵、将軍家指南役の口がかかっているのだぞ」と呼びかける宗矩の声にも振り返らない(※34)。武蔵に将軍家指南役の口がかかってる(宗矩が推挙した?)というと、宗矩はどうするつもりだろう。兵法指南役は武蔵に譲って自分は政治顧問に専念するつもりだろうか。
ところで、もし幽霊たちが介入せず〈幻の4日間〉を体験する前の武蔵だったならどう反応しただろうか。この芝居の武蔵は世俗的名誉には関心が薄そうに見えるが、史実の武蔵は大名家への仕官を望んで全国行脚していたようだし、将軍家指南役となれば喜んで(あるいは謹んで)受けたかもしれない。その場合、「争いごと無用」を標榜する宗矩から「ここに父親を騙し討ちにされた女がいる。それを見ないふりしなさいというのが、柳生新陰流ですか」の武蔵に指南役が変わることで※18にあるような幕府の政策にも影響が生じたかもしれない。自分たちが成仏したいがための幽霊たちの行動がなければ、歴史が大きく変わっていたのかも。

・「去るものは去り来るものは来る。これ人間世界の実相なり」。沢庵に言葉に周囲も一礼し、平心が冒頭部と全く同じ寺開きの挨拶を行うところで幕が閉じる。物語の円環が完全に閉じた充足感のようなものがあります。



※28-「新作だから、スタートから台本がすべてあるわけではない。やっていて結末は誰もわからなかった。稽古で誰も死んだ人間が劇をやっているとは思っていない。台本が届いて「えー!みんな死んでいたんだ!」ってびっくりした(笑)」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」、『悲劇喜劇』、2013年1月号)。何たる出たとこ任せ。新国立劇場で初演された“東京裁判三部作”や『紙屋町さくらホテル』『箱根強羅ホテル』の時は、井上さんは台本に先んじて詳細なプロットを書いた端から(こちらも相当締め切りに遅れながら)劇場担当者にFAXで送っていたのに(『初日への手紙 「東京裁判三部作」ができるまで』(白水社、2013年)『初日への手紙Ⅱ 『紙屋町さくらホテル』『箱根強羅ホテル』のできるまで』(白水社、2015年)参照)。井上戯曲の新作を上演するって、つくづく強心臓でなきゃ勤まりませんね。

※29-「扇田さんはご存じだと思いますけれども、ぼくは生命の輝きを死の世界にちょっと足を踏み入れたところから書くと成功するんです。照射し合う中からドラマを取り出すという方法論があると思います。一つだけではちょっと足りない。構造体としては危なっかしい。」(聞き手・扇田昭彦「物語と笑い・方法序説」、扇田昭彦責任編集『井上ひさし』、白水社、2011年)

※30-「いろいろやり残して途中で死んで行った人たちが、この世でまだ生きている人たちになんか言う、そういうスタイルに非常に凝り固まっているというところがぼくにはありまして、ですから宮沢賢治の生涯を扱った『イーハトーボの劇列車』も死んだ農民の話なんですが、こんどの『頭痛肩こり樋口一葉』もお化け。同じことなんです。 ここまで生きてきたが、自分にはできなかった、けれどもこれから生きる人たちに自分の失敗を語ろう、自分たちが消えて行くことで逆に生きている人たちに未来をつくっていく、消えて行くものがいるから生きているものがいる、そういう際立たせ方で生きている人たち、つまり観客に、「まだ未来はありますぞ」ということを訴えかけるのが、芝居の場合、非常に有効なんです。 それは日本の歌舞伎も、極言すれば半分くらいそれでできていますから──死んでまた生まれ変わって、死んでと、できていますから──それは演劇のもっている基本的な枠組みのひとつのような気がします。」(井上ひさし・大江健三郎・筒井康隆『ユートピア探し 物語探し』、岩波書店、1988年)

※31-日本ペンクラブ編・井上ひさし選『児童文学名作全集 1』(福武文庫、1987年)収録。

※32-「わたしのとっての戯作」(井上ひさし『パロディ志願』、中公文庫、1982年所収)、「恐怖症者の自己形成史」(井上ひさし『さまざまな自画像』、中公文庫、1982年)、「著者から読者へ わかれ道」(井上ひさし『京伝店の烟草入れ 井上ひさし江戸小説集』、講談社文芸文庫、2009年)ほか、様々なエッセイでこのエピソードは語られています。今回の引用は「わたしにとっての戯作」「わかれ道」の両方(引用部分は全く同文)から。

※33-唯一、今村忠純「最上は、井上ひさしの新作」(『悲劇喜劇 3月号』、早川書房、2010年)が「これが『黄表紙百種』からかりていたものだったこともやはり忘れてはならないだろう。仇討をギャグにしてみせる工夫こそ「ムサシ」のもう一つの大事だったのだから。」という言い方で元ネタの存在に触れている。


※34-武蔵に「将軍家指南役の口がかかっている」というのは『丹治峯均筆記』(正式名称は『武州傳来記』)中の「兵法大祖武州玄信公傳来」の記述が元ネタかと思われます(「武州兵法、将軍家達、上聞、可被召出御沙汰アリトイヘトモ、柳生但馬守殿、御師範トシテ常住御前ニ侍席セラル、武州、柳生カ下ニ立ンコトを忌テ、若年ヨリ仕官ノ望ナク、髪ソラス爪トラス、法外ノ有様ナリ、御免ヲ奉蒙度旨達而御断申上ラル、兵法御覧ノ御沙汰モコレアルトイヘトモ、柳生ヲ御尊敬被成カラハ、我兵法備台覧テモ益ナシトテ、コレモ御断被申上、但州モ曽テ吹挙ナキトカヤ、武州カ繪ヲ御覧被成度ヨシニテ、御屏風ノ繪ヲ被仰付、武蔵野ニ月出タル所ヲ御屏風一ハイニ書テ差上ラレシトイヘリ」)。『武州傳来記』は福田正秀『宮本武蔵研究第二集 武州傳来記』(星雲社、2005年)の「附録 『武州傳来記』原文翻刻(全)」で全文を読むことができる。同書は長らく内容の信憑性が疑われていたこともあり、ほとんど名のみ知られた存在だった『丹治峯均筆記』の正式名称や信頼性を明らかにした本であり、同エピソードはもっぱら宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂『宮本武蔵』を通じて知られていたらしい。この顕彰会本は1909年4月に初版発行(発行所は金港堂書籍株式会社)、当時巌流島の決闘で有名な剣客としてしか知られてなかった武蔵の実像を伝えようと、熊本の有志による遺蹟顕彰会が編纂し国文学者・池辺義象が調査執筆したもので、のちの武蔵研究の基礎資料となり、吉川英治『宮本武蔵』がこの本を多く参考にしたことでも有名。復刻版(原文と現代語訳版の両方)が熊日出版から2003年に刊行されているが、現代語訳版では上記エピソードについて「武蔵の兵法は将軍家の耳にも達し、召し抱えるという話もあったけれども、将軍家が(指南役の)柳生但馬殿を重く用いておられる以上、自分の兵法をご覧に入れても無益であると言って、武蔵は招きに応じなかった。それなら画を御覧になりたいとのことであったので、武蔵は、野原に太陽が出てきたところを屏風いっぱいにかいて献上したという。」(「第八章 逸事」)と記述している。


11/14追記-※34を追加しました。

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『ムサシ』(2)-6(注・ネタバレしてます)

2016-10-16 12:06:38 | ムサシ
・舞台下手の階段を降りて二人が去ったあと、そちらを窺いながら武蔵が両手に刀を持って登場。寝ている小次郎の部屋に入ると刀を部屋の隅に置き、胸から扇子を取り出して警戒しながらそっと突きを入れぱっと身を引く。
寝ているとはいえ、いや寝てるときだからこそ、天才剣士小次郎にうかつに近づけば一瞬で反撃をくらいかねない。それを警戒してるのはわかりますが、恐る恐る近づく→ぱっと突いてぱっと引く動きが何度も繰り返されるのでつい笑ってしまう。
同時に、素早く安定した動きに藤原くんの運動能力を感じてちょっと感心してしまいました。

・繰り返し突かれても無反応だった小次郎が、三度目に突かれる直前にがばと起き上がる。「第十八位」と低い声で一言告げる小次郎。なんか心なし威厳が備わってきたような(笑)。妙にいい声だしなあ。

・「おぬしには、そのようなもったいない血は流れておらぬ」と言っても、「鏡が合って第十八位」と動ぜずに無表情に言う小次郎。このとき鏡合わせるジェスチャーをしてるのがちょっと面白いです。

・鏡の謎はまだ解けていないが、自分たちは何か途方もないものの罠にはまっている、そいつらの正体をつきとめれば鏡の謎もおのずから解けると武蔵が懸命に説いても、「解けないうちは第十八位」と全く声の乱れない小次郎。腕も無防備に投げ出したまま。
何か巨大な敵が身に迫っているという話なのにこの無感動ぶり。それ以前に宿敵武蔵の前でこうも無防備でいるというのがありえない。そもそも自分に話しかけているのが武蔵だと言うことさえ認識できているのだろうか?
単に皇位継承権第十八位に目がくらんでるだけでなく、魂抜かれてでもいるんじゃないかと疑いたくなります。武蔵が脱力するのも無理からぬところ。

・「庫裡の唐櫃から太刀を持ってきてやったぞ」と両刀を小次郎のそばに置いて、いつでも抜けるように持っておけと言う武蔵。
剣客が明日の朝斬り合おうという相手に別の敵を倒すためとはいえ刀を渡してやるとは。自分たちの他は皆その「途方もない者」の一味らしい状況にあって、武蔵の中で小次郎が〈同志〉のポジションになっているのがわかります。
しかし「いつでも抜けるように」なんて言わでもがなの忠告までされてる小次郎が情けないったら。

・武蔵の言葉にまるで反応せず、小次郎は左右をゆったり見回し「母上は、いづこか」と惚けた顔でいう。何となく貴族的鷹揚さを思わせる雰囲気。
それにしても小次郎が母親のことに言及したのはここが初めてなのである。これまでずっと第十八位第十八位ばっかりで。一応「母上」「いづこにおわすか」と丁寧な言葉を使ってはいるけれど、母そのものへの敬意、恋しさより、自分の血筋を保証してくれる存在として大事に思ってるみたいに感じるんだよなあ。

・「すっかり魂を抜かれてしまったな」と言いつつ、武蔵は扇子をとって小次郎を叩き、ぱっと身構えるが小次郎は惚けたまま無抵抗。ふだんのおぬしであれば、こう打ち込まれれば素早く打ち返してくるはず、それがどうした隙だらけではないかと言いながら言葉の間で膝や肩や頭も打つ。
「母上はいづこにおわすか」と凛とした声で聞いてくる小次郎の頭をまた打つ。打たれ放題なのに妙に態度だけは堂々としてるんだよなあ。すっかり剣客じゃなくて第十八位の親王になりきっちゃってるような感じです。

・「あのまいという女はおぬしの母ではな・い!」。「な」の後と「い」の後で扇子で一度ずつばしばし叩く。
「まったく打ち放題、打たれ放題ではないか。かつての佐々木小次郎はどこへ行ってしまった」と叩きまくりながら言う武蔵。「かつての佐々木小次郎」の方はともかく、少し前の「ふだんのおぬしであれば~打ち返してくるはず」という台詞には〈普段の小次郎を語れるほど小次郎のこと知らないでしょうが〉とツッコんでみたくなる。
彼らは六年ぶりに再会したばかり、しかも3日ばかり一緒にいたに過ぎない。にもかかわらず〈普段はこう〉だと口にしてしまうところに、自分は小次郎のことを(そして小次郎も自分のことを)よく理解している、同じ剣客として通じ合っているという確信、親近感が窺えて、なんだか微笑ましくなります。

・胸をおさえて「あ、鏡がない」と緊迫感のない声で言う小次郎の頭をさらに打つ。「鏡のことは忘れろ」と、手さぐりで布団まわりを探そうとする小次郎を両脇に手を入れて引きずり起こすと、ついでに掛け布団もさっと畳んでスペースを開ける。
さらに小次郎の肩を後ろから引き寄せて半ば向かい合った体勢になると、ため息をつきながら緩んでいた懐を合わせてやる。もはや小次郎の保護者というより母親のよう(笑)。
もっとしゃきっとしろ、という意味合いなのはわかるんですが。武蔵を見つめる小次郎の目も子供のような無防備さです。

・「小次郎、よいか、よく聞くのだぞ。あの女に、さきほどこっちから罠をかけてやった」と言いながら扇子でばしっと背を打つ。
小次郎は気のない様子で視線を流してしまうが、やがてまたぼんやりと武蔵に視線を戻す。そうした仕草もどこか子供じみていて、ばしばし叩かれてるにもかかわらず、武蔵を自分の味方として認識してるように思えます。
懐を合わせてくれたのも抵抗せず受け入れていたし、むしろ敵として認識していないからこそ平気で叩かれるままにしているというか。武蔵の方も「よいか、よく聞くのだぞ」という口調がもう、子供に言い聞かせるような調子になっています。

・まいの芸名の変遷を具体的に上げる武蔵。一つ言うごとに小次郎の胸を扇子で打つが小次郎は無反応。しかし「仙台で笹阿弥」のくだりで、ふいに目に生気が戻り武蔵の顔を扇子で打ち返す。
いててと額を押さえて離れながらも「しかしうれしい。やっと、ふだんの小次郎に戻ってくれたな」と武蔵は言う。その言葉通り、いつもの顔に返った小次郎はいぶかしげな表情を浮かべている。
何がきっかけで正気に返ったのかはわかりませんが、まさに夢から醒めたがごとくで、自分が今どこで何をやってるんだかとっさに呑み込めてないんでしょうね。ともあれ小次郎の剣客の本能に賭けて攻撃しつづけた武蔵の粘りが報われました。

・続く「常陸で水戸阿弥」のくだりでは、小次郎の方から扇子で打ち込むのを武蔵が扇子でぱっと受ける。「銚子で沖阿弥」で武蔵は防戦の構えになるが小次郎は呆然とした表情で打ちこまず。武蔵が姿勢を戻しながら「九つ、浅草で海苔阿弥」と言うと、小次郎が「最後にこの鎌倉で舞阿弥」と引き取る。
小次郎が少しずついつもの自分を取り戻してゆくのをユーモラスに見せています。最後小次郎が心なし面映そうな表情になるのも、さっきまでの自分の体たらくを思い出して恥じ入ってる感があり、彼が本当に正気に返ったのだと感じさせます。
しかし小次郎が打ち返して以降の二人の攻防の何やら楽しげなこと。何だかじゃれあってるみたいにも見えます。

・「おぬしが皇位継承順位第十八位で逆上あがって失神したあと」、今の中の三つをわざと抜かしてあの女にこう聞いた、「「巡業先は七つで、名前の阿弥号も七つですね」とな」。
小次郎はっとした表情で「それで!母上の答えは!」。武蔵は小次郎の額を扇子で打って、「しっかりしろ。あの女はおぬしの母ではなく、ウソつき女なのだよ」「わしの、わざとまちがえた問いに、あの女は「うん」と大きくうなづいたのだ。どういうことかわかるな」「・・・・・・わが子と泣いて別れた、悲しい、つらい旅、その最初の巡業地を忘れるのはおかしい!」小次郎は最初は考え込みながら、最後には武蔵の方を振り向いて力強く言い切る。
途中ではまだまいを「母上」と呼ぶなど完全には幻惑から抜けていなかった小次郎が、武蔵に促されてとはいえ彼女の話がおかしいことをはっきりと指摘した。小次郎が自分の意志をはっきり取り戻したのがわかります。
しかし「皇位継承順位第十八位で逆上あがって失神した」って、改めて言われると何か情けないなあ・・・。

・「六つ目は仙台の笹阿弥。これはどうだ」「仙台は大当たりを出したところ。ひと月も日延べをしたと言っていたはず」「それほどありがたい土地を抜かしても、気がつかなかったのだぜ」「なるほど、少しは読めてきた」「あの女は、自分で云った旅はしていない、その場の思いつきを並べていただけだ」。
途中で庭に下りて稽古を始めたりしてたくせに、二人とも実によく話を記憶してるものだ。口にしたまい本人ですらちゃんと覚えてなかったというのに。
・・・幽霊になる前の本業も白拍子だったまいが本当に少し前に口にしたばかりの台詞を忘れるものだろうか?後に乙女が今回の芝居の筋書きを書いたのは自分だと明かしているし、小次郎との母子関係の証明となる鏡の残り半分を事前に(鏡の存在がわかった第一夜の時点から)あつらえてるくらいだから、「偽の母子ご体面」はその場の思いつきで仕組まれたものではない。
十分な練習時間があったとまではいえないし、巡業地と阿弥号だけまいのアドリブということも考えられはするが、もしかすると武蔵に罠を仕掛けられたとき、わざと嘘を見抜かれるように謀った可能性もあるのかも?

・「この三日のうちにおきたことを、一つ一つ、思い返してみた。すると・・・・・・、」と話す武蔵を「待て!」と小次郎が遮ると刀を手に取り、一本は差し一本は手に掴む。そして「足を結び合っていれば、おのずと友情が芽生えるという柳生宗矩どののお策、あれはおかしい」と強い口調で言う。
武蔵も「あんな馬鹿げた策が柳生新陰流にあるはずがない」。乙女が父の仇討ちをやめたのも「ああ、(と思い当たった明るい表情で)あれはわしらにうらみの鎖を断ち切れと云っていたのだな」。沢庵の大構想も「わしら二人に、刀を抜くなと諭していたのさ」。平心坊の法話も「わしら二人に(中略)友達になれと、そう説いていたんだな」。「仕上げが偽の母子ご対面よ」。
口々に二人は参籠禅のメンバーの行動の裏を言い当てていく。宗矩の「柳生新陰流両固め」の奇妙さを武蔵をさえぎってまず小次郎が指摘するあたり、先に武蔵の示唆でまいの嘘を悟ったのを皮切りに、彼の頭が冷静に回転し出したのがわかる。同時に刀を手にして臨戦態勢を取ったことで、彼の内でこんな大がかりな罠を仕掛けた〈敵〉への警戒心が強まってるのも伝わってきます。
そして「あんな馬鹿げた策が柳生新陰流にあるはずがない」のくだりで客席から笑いが。改めて言われるとつくづく馬鹿げてますもんね。

・「おぬしを雲の上の、そのまた雲の上の貴い御方に仕立てあげて、わしに切らせぬよう企んだ」と武蔵が言うのを受けて「皇位継承順位第十八位か」と小次郎は憎々しげに言う。
見事に騙された、それも名誉欲─虚栄心の強さとその背後にある出自へのコンプレックスに付け込まれた結果ですからね。恥ずかしくもあり憎らしくもあって当然でしょう。

・これを企んだのは狐稲荷や狸のような、そんな一通りの代物ではないという武蔵に、しばし考えたのち小次郎は「わかった。これは大公儀の企みだ」「将軍家の政治顧問柳生宗矩とその禅の師沢庵が加わっているのが、なによりの証拠よ」と勢いづくが、武蔵は「わからぬ」と沈鬱に答える。「大公儀の企みだ」の後で小次郎が武蔵の方をぱっと見たのに武蔵は反対を向いてしまったのも、武蔵が小次郎説に納得してないからでしょう。
小次郎も「だが佐々木小次郎と宮本武蔵の試合を止めて、大公儀にどんな得がある!」と力強く続けてるくらいで、肝心の部分を説明できない大公儀犯人説に彼自身満足していない。武蔵は腕組みして「わからぬ」。
「いったいだれが、ぜんたいなんのために、われらに切り合いをやめさせようとしているのか」「わからぬ」。ただ「わからぬ」ばかり繰り返す武蔵に「・・・わからぬわからぬといっているばかりでは、なにもわからぬではないか」とついに小次郎が怒る。まあ、真面目に考えろと叱りつけたくなるような応えではあります。

・「だが、一つ、わかっていることがある。」「戦うのだよ小次郎」と武蔵は突然たすきをかけ始める。
「わからぬ」の連続からいきなり「戦うのだ」と続くこの急な態度の転換に小次郎のみならず観客も戸惑わされる。そうして一瞬戸惑わせてから、自分と小次郎が戦えば自分たちの戦いを止めようとしてきた連中の仕掛けを潰すことになるからだと武蔵に説明させて腑に落ちるよう仕向ける。ミステリー的な効果が効いています。
そしてあれこれ考えるより、実際に戦うことで敵をあぶり出そうとする武蔵は、知性派に見えても結局は脳筋というか根っからの剣客なんですねえ。
武蔵の真意がわからぬうちから「まず、わしとおぬしが戦うのよ。時刻は少し早いが、いま、果し合おう」と言われて「望むところだ」と受けてしまう小次郎も、謎の敵のことを一瞬忘れて武蔵と戦えることを喜んでしまってるあたり、これまた根っからの剣客っぷり。「いま、果し合おう」と言われた直後に「いま」と繰り返しつつ不敵な笑みを浮かべるあたり、本当に嬉しそうでしたし。

・自分たちが刃を交えたとたん、やつらの仕掛けは全て水の泡になる、「したがって、われらが戦うことがそのまま、やつらをやっつけることに通じる」と説明する武蔵に、鉢巻きをしながら小次郎は「あいかわらず戦略に長けているなあ」と応じる。
揶揄する感じでなく素直に称賛してるような声色。「そこだけは小次郎の及ばぬところよ」も本気で感心してるような響きです。

・「やつら、果たし合いの最中に現れて、止めに入るかもしれぬな。そのときこそ、やつらの正体がわかる!」と意気込んで武蔵を見る小次郎。こちらも鉢巻きをした武蔵は無言で受けて刀を取り、小次郎もまた刀を取る。
ここで武蔵が「われらの勝負は早い。おそらく一太刀で決まるだろう。勝ち残った者がやつらの正体を見破ることができよう」と驚くべきことを言う。予定を繰り上げて小次郎と戦おうと言い出したのは、〈敵〉の企みを潰すため、連中を引っ張りだすための方便で、いざ切り合うと見せて敵が現れたら二人してそちらに立ち向かうのかと思いきや、本気で小次郎と切り合うつもりらしい。
それも「勝ち残った者がやつらの正体を見破ることができる」、つまり負けた方はやつらの正体を見破れない(切られて死んでいるはずだから)ということで、真剣で勝負する以上当然とはいえ、どちらかが死ぬのを前提としているのだ。何だかんだ言ってもこれだけ仲良くなったのに、いまだ殺し合う気満々なのである。
しかも「だがそんなことはもはやどうでもよい。いまはおぬしと素晴らしい試合がしたいだけよ」。今この場で果し合う原因となった敵のことさえ、最高のライバル小次郎との試合の前には「そんなこと」扱い。本末転倒というべきか、もともと小次郎と仕合うつもりだったのだから初志貫徹というべきなのか。
先に敵をあぶり出す目的にもせよ武蔵と戦えるのをまず喜んだ小次郎の方も「おぬしと二度にわたって立ち合うことができるとは、この小次郎も仕合わせ者だな」。・・・なんかもう、二人ともこんなに幸せそうなんだから好きなように戦わせてやればいいじゃないかと言いたくなってきます。






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『ムサシ』(2)-5(注・ネタバレしてます)

2016-10-09 23:12:34 | ムサシ
・夜。月の下で平心が寓話を語る。ジェスチャー声色満載の楽しいお話。戯曲には「平心の(生まれてはじめての)説法」とト書きがある。
小さいとはいえ寺の住持になろうという人がこれまで説法の経験が全くないものなのか?と思いたくなるところですが、終盤明かされる彼の正体の前振りということでしょうね。

・妻のおねだりに負けて小袖を得るため行きずりの女性を殺し遁世した男が殺した相手の夫と知らず出会い、懺悔して彼の手にかかろうとするが許しを与えられる話。
中世の説話集にでもありそうな、と思ったら参考文献に上げられてる『沙石集』中の「悪を縁として発心したる事」という説話に基づいているそう(※26)。わかりやすい言葉で、心情描写が多く足されているものの内容はほぼ一緒です(※27)
説法に引き込まれている女性陣と対照的に無表情に足を組んでいる武蔵。自分と小次郎に当て擦ってるような内容が気に入らないんでしょうねえ。

・まいが伸びあがって平心のほうを見てから乙女に「小次郎どののお姿が見えませんね」とひそひそ話。
「明日に備えて、源氏山をひと回りしてくると、おっしゃっておいででしたが」と乙女が答えると、武蔵が「この武蔵がなにか罠でも仕掛けているのではないかと、心配になったのでしょう。疑り深い奴なんですよ」と続ける。
この言葉に女二人は呆れたような嘆くような顔をする。武蔵も小次郎も戦う気持ちが全然抜けてないのが明らかですからね。

・説法は男が熱心に行をおこなってる僧と親しくなるところへ差しかかる。そこへ小次郎が客席からなぜか狐の面をつけて登場。乙女が驚いたからか慌てて面を取り、その様子に乙女が吹き出す。
六年にわたって敵を追い求めてきた復讐者のはずなんですが、妙に可愛げというか稚気があるんですよね小次郎。乙女がなんとなく気安くなるのもわかろうものです。
「佐助稲荷へ明日の勝ちを祈ってきた。宵祭りでにぎやかだったぞ」という台詞も神頼みに行くのはいいとして、祭りの雰囲気にちょっと浮かれてしまったのが表れています。お面買ってきちゃうくらいだもんなあ。

・「とうとう神さまにすがったか」と武蔵に皮肉を言われて「うるさい!」と声を荒らげる小次郎を(喧嘩を売るようなことを言った武蔵もセットで)宗矩が「説法中説法中」と強い口調で叱る。なんか授業中に騒いでる男子生徒みたいで二人ともちょっと可愛いんだが。
小次郎は堂の端へ行き、一礼してから上がって座禅を組む。こういうところは基本礼儀正しい人です。

・許す心も許しを請う心も念仏が育てた、というオチを受けて沢庵や宗矩がなんまんだぶと唱える。すると俄かにまいが泣き崩れて「越前三国湊の越前国分寺。そこがわたくしの生まれ在所でございます」と言い出し唐突な故郷語りが始まる。
感情入りすぎて物狂いのような有様に左右から乙女と沢庵が支えようとする。顔が土気色なのに驚き、さては禅病かと慌てる一同に「気は確かでございます。わが子のことをみなさまに聞いていただきたいだけでございます」と泣きながら言う。
この一連の長い昔話を退屈させず持たせる台詞の緩急、思い入れたっぷりの身振り、本気で正気を疑いたくなるような狂おしさなど、白石さんの演技力あってこそ成り立つ場面だと思います。

・自身の出生について語るまい。母は都から来た能楽師にもてあそばれて自分を孕んだと苦笑しつつ穏やかに話す。
一同まいを見つめながら話を聞いているが、小次郎だけは「もてあそばれた」のくだりで向こうをむく。自分も孤児であるゆえに、父親の顔を知らないという話につまされるところがあったのか。武蔵も俯いて痛ましげな表情になっています。

・子供の頃の舞台での人気ぶりを楽しげに語るまいに皆も楽しげに笑う。しかし楽しかったのはほんの一時、都の戦が越前にも攻め上ってきて興行どころでなくなり荷物をまとめて皆退去したというくだりで武蔵が俄かに立ち上がり下へ降りる。
そのまま小次郎の前、石灯籠のそばまで歩いて来たのを小次郎が緊張した面持ちで見ている。小次郎も立ち上がって下へ降り宗矩の方へ一礼してから、そのまま武蔵と反対方向に歩いていき竹林の前で止まって竹を見上げる。
小次郎が下に降りたのは、武蔵が席を外したのに触発されてじっとしてるのが落ち着かなくなったんでしょうが(ちゃんと一礼するあたりが彼の礼儀正しさ)、武蔵が人が話してる最中に座を外したのは何だろう。おばさんの長話になんて付き合ってられないよ、と内心思ったとしてもそれをあからさまに出すほど子供じゃないだろうし、後でまいに質問をしてるくらいでちゃんと話に耳を澄ましてるし。
演出的にはほぼ一人語り状態が続く場面なので、観客を飽きさせない工夫としてメインの人気役者二人に動きをつけるのはわかるんですが。

・まいは旅先でいろんな名前で活躍した話をする。「行く先々で名前を変えられたのですね」と突然武蔵が質問する。後から思えばやや疑いの表情。この時点でもう何か怪しいものを鋭敏に感じてたんでしょうか。

・「・・・で、お子さんの話は」とじれたように宗矩が話の腰を折る。宗矩は少し前にも同様のツッコみを入れていて、一種観客の気持ちを代弁してくれています。
ここでやっと、まいが16の頃に「越前国分寺にさる高貴な御方がおみえになりました」とそれらしい話になってくれる。高貴な方と聞いたとき、小次郎が興味ありげに振り返るのですが、あからさまに食いつくのでなく、でも興味があるとわかる微妙な表情が上手いです。

・その人は戦乱を逃れて都から逃れてきたのだと、鴨川が死人で溢れたという伝聞を語るまい。再び小次郎は刀の練習を始め、武蔵も少ない動きながら型を工夫してるらしい。
そういえばお堂から下りて自主稽古のような動きを始めたのも、まいの話が戦乱に及んだときだった。戦の話になると自分たちが責められてる気にでもなるのか。あるいはそのたび稽古をしてるところからして逆に戦の話に血が騒いでいるのか。

・都の戦乱についての伝聞を「寝物語」に聞いたというのに沢庵らが食いつく。「いま、寝物語というように聞こえたが」と代表して質問するのが坊主の沢庵というのが面白いというか生臭というか。

・「国分寺へお見えになる高貴な方々を、ねんごろにお慰めいたしますのも、女猿楽の舞い手の大事なおつとめなのです」とまいはあっさり「高貴な方」との関係を認め、一年後男の子を授かった、その高貴なお方はその子には蝉丸と名付けよと言ったことを話し、国分寺の住持に子供を預けて旅に出てしまったことを苦悩して泣く。
少し後に天皇の血筋だと明かされる赤ん坊の名が蝉丸なのは、能の「蝉丸」などで有名な、盲目の歌人・蝉丸が醍醐天皇の皇子だったとの伝承を踏まえてのことでしょうね。

・鎌倉から越前へ蝉丸を引き取ると書状を送ったが、その返事が、と返書を胸から取り出して沢庵に渡す。前の住持の大往生と子供の行方不明を知らせる内容を口々に読む一同。
武蔵と小次郎は我関せずと刀の稽古に戻っているので返書を自分の目で読んでいないが、果たして本当に返書にはこの通りの内容が書いてあったのかどうか。武蔵と小次郎以外は全員グルなわけだし。

・高貴な方とはどの程度高貴なのかと皆が口々に公家の家名をあげるのを一つ一つ否定するまい。ついに武蔵と小次郎まで「算術の小槻ですか」「暦の土御門でしょう」と話に参加する。何だかんだいって興味津々なのね。

・ここでまいが体を起こし妙な迫力で小次郎を見据えつつ「お父上は、もっと高貴な御方ですよ」。明らかに高貴な方=小次郎の父というニュアンス。この時点で次の展開を予想した人も結構いたことだろう。

・ついに「蝉丸どのの御父君は次仁親王さまにございます」と大仰に宣言。「親王といえば帝のご兄弟ということになるが」と驚きおののく面々。つまり蝉丸は今の帝のいとこちがいに当たるのだそう。
驚きにのけぞり倒れかかる沢庵。別にまいの隠し子が何者だろうと沢庵の身に何の関わりもないだろうに。大徳寺が帝の勅命によって開かれたことを誇る場面があったが、それだけに天皇の血筋というのは彼にとって絶対的権威ということなのか。

・いつのまにか下に下りたまいは刀の稽古に戻っていた小次郎を示して、こちらにおいでの佐々木小次郎どのが(ここで小次郎がさすがに手をとめ驚きの目でまいを見る)そのいとこちがいだと宣言する。
皆が驚くのと対照的に小次郎は無表情になってしまう。驚きが大きすぎて受け止められないのがよくわかる表情です。

・さらに小次郎の皇位継承順位は現在十八位だと大仰な声で宣言するに至って、小次郎は「そんなばかな」と冷静ながら怒りをこめた声で反論する。
その言い方や顔つきが父親そっくりだとまいは感涙にむせぶが、小次郎はそっぽをむいて取り合おうとしない。体をべたべた触りながら旅に連れていかなかったことを詫びるまいに当惑し、ついに手を払いのけて「そんなばかな」ともう一度言って距離をとる。
このくだりはやわやわと押していくまいと反発しながら実質防戦一方の小次郎の攻防が、白石さんの静かながら不気味な迫力を感じさせる演技と強がりつつも脅えたような勝地くんの演技が相俟って、ぐっと引き込まれます。

・「そんなことは絶対におかしい!」と言いつのる小次郎を、後ろからゆったり近づいた武蔵が肩をつかんで後ろへ乱暴に引き寄せると、代わって前に出て「お気は確かか!いったいどうなさったのか!」とまいを一喝する。
小次郎が当惑しきっていて、実質完全に押されているのを見て助けに入った格好ですが、あなたは小次郎の保護者ですか(笑)。

・まいは座った目で武蔵を睨みあげ、小次郎はやんごとなき身分なのだから決闘などしてはいけないと居丈高に言う。小次郎の出自を明かした後に真っ先に決闘するなと言い出すあたり、皇位継承十八位を持ち出したのが何のためなのか語るに落ちた感がなくもない。
武蔵もこの時点でまいの、まいのみならずまわり中全員の目的が自分たちの決闘を止めることにあると気づいたのかも。

・まいの剣幕に呆れ顔の小次郎が少し前に出るがそれ以上は近づかない。なんかすでにもうまいに呑まれてしまってるような感じです。
一方の武蔵も、もし17位までの方々に何かあれば武蔵どのは帝と刃を交えているのと同じになるのですよと大げさなジェスチャーで語るまいに、呆れた顔で額に手をやっている。
17人もの皇位継承者が全員バタバタ死ぬとはさすがに思えないので、小次郎に帝位が回ってくる可能性はゼロに等しいですが、そう切り捨てられないだけの権威がやはり天皇の血にはあるということですね。

・いきなり宗矩が、理屈からいけばその通り、帝に剣を向けるならおまえは賊軍の中の賊軍、史上最悪の大悪人だと興奮して罵倒する。
先には沢庵の、三種の神器の行方によって正義の行方が決まるなど滑稽─天皇を担ぎ出しその権威を借りた者が正義となるのはおかしいという言葉に賛同していた宗矩が、舌の根も乾かぬうちに小次郎は親王のご落胤だから剣を向ければ武蔵は極悪人だと言い立てる。さっきも今も小次郎は小次郎なのに、天皇の血筋だとなったとたん彼の命の値打ちが一気に何十倍にも膨れ上がってしまった。
たしかにこれは滑稽であり、二人の決闘を止めようとしていたまいと乙女が乙女の父の死の顛末が知れたとたん仇討ちには走ったのと同様の見事な変わり身の早さ。
小次郎の出自など関係なく、「天才佐々木小次郎の剣が上か、それがしの努力の剣が上か、この決着はつけなければならぬ」と相変わらず戦う気まんまんの武蔵の方が、目の前の佐々木小次郎という人間をまっすぐに見つめその能力を最大限に評価している点で、真の意味で小次郎を大切にしている。思わず小次郎に〈いい友達を持ったねえ〉と声をかけたくなってしまった(笑)。

・十八位の証拠があるのかと口々に詰め寄る武蔵と小次郎。「思い付きのデタラメを云うでないぞ」と言いながら、小次郎は手を伸ばして近寄ってくるまいから後ずさりして「おぬしからも云ってやってくれ」と武蔵の後ろに隠れて武蔵の背をまいの方へ押し出す。武蔵はあなたの保護者ですか(笑)。
まいは目の前に押されてきた武蔵を横に払う。押されたり払われたり物のように扱われる武蔵が気の毒だ。

・「このおばさんは、なにか企んでいる」と太い声でゆっくりと語る小次郎。「おばさん」のところで客席から笑いが。
「この女」と言わず「おばさん」という言い回しが品がいいような失礼なような。確かに29歳の小次郎から見ればまいはおばさんなんだろうけど。

・まいは笑顔で恥じらいながら、お腹に子供ができたと打ち明けたときお父さまも「なにを企んでいる」とおっしゃいましたと幸せそう。
それ喜ぶところか?いくら身分が高かろうが、やることやっときながら最低な男じゃないか。さっきから小次郎が何か言うたびに「お父さまと生写し」と喜ぶ、反復による笑いが生きた場面。
少女のような恥じらい笑顔と親王の声真似のときの仁王のような顔のコントラストが、見事な顔芸っぷりです。

・小次郎は一昨日からいるのになぜ今頃彼を息子だと言い出したかとツッコむ武蔵にまいは走り寄り、くるりと小次郎の方を振り返って、最初に会ったときからもしやと一挙一動に胸ときめかしていた、さっき平心から小次郎が欠けた手鏡をお守りにしているという話を聞いて確証を得た、自分も欠けた手鏡を肌身離さず持っている、と何か布のようなものを胸から取り出す。
皇位継承第十八位ネタを出すのがこの日になった本当の理由は、小次郎の手鏡のことがわかってから急遽まいの分の鏡をつくるのに今までかかったということでしょう。

・さすがにはっとして自分の胸元を押さえる小次郎に、まいは自分の鏡を取り出すと「さあ、鏡をお出しなさい」と迫る。雷に打たれたように鏡を取り出す小次郎。
「蝉丸お渡し!」と命じるまい。「小次郎渡すな」と叫ぶ武蔵。三者の攻防が緊迫感を生む、この場のクライマックスですが、ついついまいの言いなりになってしまうあたり小次郎はまるでヘビににらまれたカエル状態。
それだけ迫力が半端ないからですが、日本でも一、二を競う剣客、それも復讐一途で修行を重ねてきたはずの男に迫力勝ちするってすごい。

・小次郎は守り袋から手鏡を出し驚きの目で見つめると、鏡を持ったまま呆然ととりつかれたようにまいに近寄る。まいは鏡をかざしながらなんまんだぶを唱え宗矩らも後ろでいっせいに念仏を唱える。
なんだか親子再会の場が宗教的儀式の会場になってしまったかのよう。そもそもなぜここで「なんまんだぶ」なのだ。
小次郎の手から取った鏡をまいは自分の鏡と合わせる。ぴたりとあった瞬間みな口を開けて絶句。ここまで来たら合わないということはないと思うんだが、やっぱり驚くのね。

・小次郎は目を見開いたまま数歩後ろによろめく。武蔵はどこか痛ましげな顔でじっと黙っている。
つまり武蔵はまいの話が嘘であること、小次郎がまんまと術中に嵌まってしまったことをすでに確信してるわけですね。先に「小次郎渡すな」と叫んだのもそれでしょう。

・泣き笑いのような声をあげるまいの後ろでまた皆が念仏。「合いましたよ小次郎どの」と得意げににんまり笑うまい。体を傾げて立ち尽くしたままの小次郎。
「蝉丸やー、母さんと呼んでおくれー!」と叫ぶまいは小次郎の胸に取りすがり、武蔵も呆然と見つめている。まいに構わず手を延ばしたまま数歩前によろめき出た小次郎は「第・・・十八位」と呟き、そのままばったり倒れる。
・・・これひどくないか?三歳の時に別れた、死んだはずの母親に実に二十六年ぶりにめぐりあったというのに、真っ先に出てくる言葉が「お母さん!」じゃなくて「第十八位」とは。名誉欲の強い小次郎にとって瞼の母の存在など、突然降って涌いたご落胤話に比べればごくごく軽いものに過ぎないのがよくわかる(実際小次郎が母のことに言及するのは大分先である)。
まいたちの側も武蔵との決闘を阻止する目的の狂言なのだから、普通なら皇位継承権など持ち出さずとも生き別れの母を名乗って〈どうか親子水入らずの日々をお恵みください〉と言うだけで済んだはずなのだ(実際小次郎が倒れたあと、武蔵にこういった内容の台詞を言っている)。
それをご落胤話まで捏造したのは、要は名誉に弱い小次郎には母子の情より高貴な家柄の方が効くと思ったからだろう。そもそも小次郎の方を標的にしたのだって彼の出自がはっきりしないために偽の母子話を捏造しやすいというばかりではなく、剣を究めることで自らの人間性を研ぎ澄まそうとしている、現世的利得に関心の薄い求道者武蔵に比べて俗っ気の多い小次郎の方が付け入りやすかったからだろうし。
いわば自業自得とはいえ舐められてるなあ小次郎。

・倒れた小次郎を宗矩と平心がとっさに抱きとめ、平心が小次郎を背負って寺へ運びお堂に寝かせる。
この子をここへ導いてくれたのはあなたです、とまいは武蔵に礼を述べ、二十六年ぶりの親子水入らずの時間を恵んでくれと泣き落としする。名誉欲の薄い武蔵に対しては、皇位継承十八位を振りかざすよりも母子の情で押したほうが有効と見たのでしょう。
「ご苦労をなさいましたな」と武蔵も一応同情的な声を出しつつ、彼女のこれまでの長い旅を芸名を次々列挙することで示す。芸名が芸名なので、武蔵が真面目な、同情的な声音で語るほどにおかしみが出る。これも上手い緩急。
そして「わたくしの願いを聞き入れてくださいますね」と泣きながら胸にとりすがるまいを「ご苦労がむくわれて、ほんとうによかった」と願いを聞くかどうかについてはそれとなくはぐらかす。武蔵がまいに静かな戦いを仕掛けているのがわかる場面です。

・この会話の最後に「ねえ、小次郎どのの、かあさん」と武蔵が呼びかける。このときわざわざちょっと間を置いて「かあさん」と呼びかけるので、武蔵が自分の母親に呼びかけたみたいに響く。
観客の多くが感じたでしょうが、これは藤原くんが人生初の舞台『身毒丸』で白石さんの息子役だったのを反映しての遊びじゃないですかね。井上さんは役者にあて書きする人で、『ムサシ』もあて書きだそうですし。

・「ありがとうございます」と声を振るわせて泣くまい。そこへいきなり小次郎ががばと起き上がって「第十八位!」と叫ぶ。目も口も見開いたまま。どれだけ名誉に弱いんだか。
その表情といきなりの「第十八位」で客席に笑いが起こるのを見届けたかのように、またばったりと倒れる。その思い切りいい倒れ方は、効果音ともあいまって本当に頭打ったんじゃないかと心配になってしまいました。

・「昔から寝付きの悪い子なんですよ。ちょっと寝かしつけてまいります」とまいは小次郎のもとへ。それを感情をじっとおさえてるような顔で見送る武蔵。
コントラバスの音とまいの歌う子守歌をバックに暗転したのちに、寺の室内に寝ている小次郎とそばに付き添うまいの姿。子守歌を歌いながら小次郎の顔を手拭いで拭いてやる。
これらの愛情深い態度を(誰か見てるでもないのに)示している様子は本当に小次郎の母のようにも見えてくる。もしかすればこのまい(を演じる幽霊)にも生き別れた子供がいたりしたのかも。

・乙女が現れ、静かにしかし大股に近付いて段下からまいさま、と呼ぶ。「そろそろ、丑三時です。みなさんもお揃いですよ」と声をひそめつつ言う。「武蔵どのは?」と問われたまいはジェスチャーでそこで寝ていると示すまい。
段を降りてきたまいに「いよいよ総仕上げですね」と乙女が言うのに、まいは無言で答える。さっきまでの〈蝉丸の母〉の顔から本来の顔に戻ったように雰囲気も変わっています。
この「総仕上げ」本来は何をするつもりだったのだろう?たまたま武蔵に結界を壊されて人間に化けていられなくなったためにああいう形で決闘を止めに入ることになったけれど、本当は何か別の計画があったらしいのがこの台詞からわかります。
もし無事に「総仕上げ」を実行できていたら、それでも二人に刀を捨てさせることができていただろうか。

・笛の音をバックに二人は距離を保ったまま舞台下手にすっすっと歩いていく。光にはっと立ちすくむ乙女にまいが早足になって近づき体に触れる。
「どうしました」「遠くで稲光が」脅えた顔の乙女。「生きていた頃から、雷が嫌いなんです」と空を睨んで言う乙女の背中をまいがさする。
ここで初めて彼らが幽霊であることを示す明らかな伏線が登場。いよいよクライマックスが近いのがわかります。



※26-「平心の説法は鎌倉時代の説話集『沙石集』巻第十本ノ七「悪を縁として発心したる事」に基づく。 『沙石集』は『ムサシ』の「主要参考文献」に挙がっている。」(坂本麻実子『井上ひさしと能の関係 -『ムサシ』の演能から読み解く-』(https://toyama.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=938&item_no=1&page_id=32&block_id=36)
※27-無住『沙石集 10巻』(西村九郎衛門、1897年)。国会図書館のデジタルライブラリー(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992811、546p)で閲覧可能。



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『ムサシ』(2)-4(注・ネタバレしてます)

2016-10-02 10:30:45 | ムサシ
・第二幕、黄昏時のシーン。寺の庭を皆でゆっくり勝手な方向にゆっくり歩いている(そういう行?と思ったらあとで「歩行禅」だと明かされた)。
うろうろ移動するなかで、それぞれの形で二人が組になって(沢庵と宗矩、武蔵と乙女、小次郎とまい)会話を交わすあたり、先にタンゴを見たばかりなのでソシアルダンス─ホール内を移動しながらパートナーを選びダンスを申し込む姿を連想してしまいました。

・足下がよく見えないために沢庵が宗矩の足を踏む。この痛みで心が決まったと宗矩は声をひそめて内緒話を始める。
「世の中の枠組みを決める話」だといって秀吉の刀狩りによって民はもはや一揆を起こせなくなった、しかし全国の武士たちがそろって刀を抜き将軍に逆らえば大問題なので、侍どもに刀を抜かせぬ工夫はないかと尋ねる。やはり能狂いを装って油断させるだけじゃ心もとなかったわけだ。
この「侍どもに刀を抜かせぬ工夫」は実際家光の将軍時代にさまざま行なわれています(※18)

・武蔵は乙女にあの時なぜ自分自身に刃を向けたのかと尋ねる。探るような不安そうな様子ながら優しげな声で武蔵は話す。自分の常識を超えた行動を取った彼女に対する関心と一種の畏敬の念を感じます。

・恨みの鎖を切ったからとてもすっきりしたいい気分だと幸せそうに笑う乙女はこの気分を「武蔵さまにも分けてさしあげたい」と言う。「小次郎さまとの恨みの鎖、思い切って断っておしまいになっては」と乙女は提案するが、「試合は明後日の朝、それが終われば、わたしも今の乙女どののように、すっきりしているはずです」と武蔵はぼそぼそ言い捨てる。
乙女が再度自分たちの勝負を止めようとしている、しかも今度は自ら恨みを断ち切る経験を経たうえでのことだから当事者としての重みが一応はある、自分を曲げるつもりはないが彼女の善意を否定することに対してすまなさも感じる、そんな思いがこの態度に表れています。しかし死んだらすっきりできないわけだから、当然ながら勝つ気満々ですね。

・沢庵が宗矩に打ち明け話。江戸の幕閣に自分たち大徳寺を目の敵にする者がいる。これまで大徳寺の住持はかつて住持をつとめた長老たちが決めて帝の許しを得てきた。それが後醍醐天皇によって作られた大徳寺の伝統なのに、江戸に許可なく決めるのはけしからんと横槍を入れてきたという。
これは慶長十八年(1613年)制定の「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」および慶長二十年(=元和元年、1615年)の「禁中並公家諸法度」のことですね(※19)
『ムサシ』の主な時間軸が元和四年(1618年)なのは巌流島の決闘の六年後を舞台にしたかったのが一番でしょうが(その理由については後述)、沢庵や宗矩をめぐる歴史的事件や伝聞を物語世界に生かすためという部分もあったのかもしれません。

・「その差出口にペタッと膏薬を貼りたい?」と沢庵の言葉を先取りする宗矩。巧みかつユーモラスな比喩表現で、固い台詞が続くところに話の流れを切ることなく上手く笑いを差し挟んで観客をリラックスさせている。
加えて「ペタッ」と言う前後で宗矩が後ろから沢庵の禿頭を手のひらでぺちっと叩くと沢庵が恨めしそうに舌を出した顔で振り向く。これは蜷川さんの演出なのか吉田さんと六平さんのアドリブか。表情の面白さといい間の取り方といい、さすがの手練れっぷりです。

・ふたたび真顔に戻った沢庵が歩きながら、その差出口を止めるために秀忠と家光にとりなしてほしい、そうすれば武士に刀を抜かせぬ工夫を考えてみようと持ちかける。
この陰謀話の最初の方で小次郎が、中盤で武蔵が彼らの近くを歩いている。距離的に内緒話が耳に入っているだろう。彼らに聴かせるための会話だったとすれば納得できる、というか彼らが聞いてないところで沢庵と宗矩らしい会話を装う必要はないわけだからそうでしかありえないはずだが、このお芝居〈幽霊たちが本物らしすぎる〉場面がてんこ盛りだからなあ。

・小次郎がまいに突き当たる。武蔵の無策の策にどう立ち向かうか考えてたせいだといい、考え事に気を取られて回りが見えなくなっていた自分を「甘いぞ、小次郎!」とつい大声で叱咤してしまう。そして回りを驚かせたことにまた慌てて一礼したり。
反省したそばから今度は反省に気を取られてまた回りが見えないという・・・。ちょっと間抜けなところが小次郎の可愛気ですね。

・明後日はやはり刀を交えるのかと問われた小次郎は、武蔵の無策の策を見たとき心底嬉しかった、この敵とまた戦えると思うと剣客冥利に尽きると思ったと語る。
このとき彼は血に飢えた獣のような危険な笑顔を浮かべているが、しかしもうこれは憎しみとは呼べないんじゃないのかなあ。武蔵憎しで凝り固まっているなら「小次郎はつくづく幸せ者です」なんて感慨は出てこないだろうし。

・小次郎の言葉にまいは悲しげに首を横に振って、「恨みを断ち切ったときの乙女どののあの清々しい姿に、なにかお感じになりませんでしたか」と呆れたような試すような上から目線な声色で横目で見つつ語る。その様子に「なにがいいたいのです?」と小次郎も緊張感をもって答える。
それに対してまいは、乙女の姿を見ていたら「ささいな事を悪く育てて、鉢巻きしめて醜く意気込んでいた自分が、いまは恥ずかしくてなりませぬ」と至近距離で見上げながら話す。この距離感と口調が母が息子を諭すがごとくで、後の展開の伏線になっています。
しかし乙女の父親であり自分にとっても恩人である人が殺されたことが「ささいな事」なのか。これは彼女の本当の過去─静御前と舞の手を競って敗れた悔しさで身を投げたことを指してるんじゃないかとも思えます。

・参籠禅も半ば、疲れが出る頃だから月を見ながら雑談でもしようと沢庵が穏やかに話しだす。このうえ禅を強いて禅病にでもなられたら困るという言葉に乙女たちは「禅病?」と聞き返す。
禅病とは禅に打ち込むものがかかる、心をひたすら見つめるうちに何が何だかわからなくなるという恐ろしい病だと説明する沢庵。具体的には頭の中がカッカと燃えて、手足や腰は凍るように冷え、耳鳴り、悪夢、食欲不振、口が渇き、そして周りのことが見えなくなる、と締めくくられる。
てっきり井上さんの創作した病気かと思ったら、調べてみると実在する病(一種のノイローゼらしい)だった。臨済宗の高僧・白隠の例が有名なようです(※20)

・沢庵は武蔵と小次郎に初試合時の年齢や勝ち数を聞く。小次郎が「九十九連勝中」と答えたのに武蔵が反論し口喧嘩に。最終的には「・・・口達者なやつよ」と呆れたような武蔵に小次郎が「きさまに学んだのよ」と答えて終わる。
つい前日に言葉に関しては「おのれ」と「だまれ」しかない、三歳の子供にも劣ると揶揄された小次郎が一日にして腕を上げたものです(笑)。しかし禅病を避けるための月を愛でての雑談のはずが、いつのまにか武蔵と小次郎へのお説教に発展してしまうんだよなあ。

・「そこまで剣にこだわる、そのわけはなにか」と沢庵は二人に問いただす。 だいぶ間があってから小次郎が「・・・・・・隠すことなく正直に申し上げる」と前置きしたうえで、諸国の強者と試合をして腕をみがき、「そのすべてに打ち勝ち、天下一を誇ること。次に、その天下一の功名手柄によって百姓、町人の上に立つ栄誉を受けること」、その栄誉を手がかりに巌流を天下に広めること、以上が自分の道であり、そのために死ぬことは覚悟のうえという。
天下一、誇る、栄誉といった言葉が繰り返し出てくるところに小次郎の名誉欲の強い(名誉に弱い)性格があらわで、少し後で「皇位継承権第十八位」にころっとやられる布石になっています。
この名誉に弱い性格はおそらく、孤児だったために自分の出自がわからないという、いわばアイデンティティの不安定さの裏返しなんじゃないか。「・・・・・・隠すことなく正直に申し上げる」という言い回しも、剣にこだわる理由を話すことに内心恥ずかしさがある─それが自身の出自にまつわるコンプレックスゆえだとわかっている─のを示しているのでは。
井上さんはかつて武蔵について集めた資料から、武蔵を「母の愛が薄く、父を憎んでもいた」「他人と共感できない出世主義者の体力だけが頼りの青年・・・・・・これはもう武芸者として生きるしかないだろう」と分析したそう(※21)ですが、親の愛に薄い「出世主義者」という部分は今回むしろ小次郎の設定に生かされたように思えます。

・武蔵はどうかとの問いに武蔵は「武士の一人としてつい先ごろまでの大乱を忘れず、この先の戦乱に常に備える、これがわが志です。」「常に生死の間に身をおくこと。いまそれがしは佐々木小次郎というすぐれた剣客と膝を接して向き合っております。するともう、生きるか、死ぬかしかない。(ここで小次郎がうなずいている)このように毎日の暮らしの中に戦場をこしらえ、その中にわが身をおいて、心と技とをたえず鍛えて行くならば、やがて人格そのものも磨き上げられて、ついには全き人間になることができるでしょう。剣を唯一の友として己れの人格を築き上げて行く、それが武蔵の道です」。
この武蔵の言葉を沢庵は愚かだと一蹴するが、この考え方はそれほど間違っているだろうか。「先ごろまでの大乱を忘れず、この先の戦乱に常に備える」とは要は危機管理の心構えであって、過去の悲劇に学んで新たな悲劇を回避しようということだ。後半も常に自分を厳しく律していこうという生き方の姿勢であって、正直凛と背筋が伸びていて立派だなあと感服してしまう。
剣一筋に凝り固まって人生の他の可能性を切り捨てている、視野が極端に狭いかというとそうでもなくて、導入部で述べられているように武蔵は宝蓮寺の作事奉行をつとめ、「剣術を究め、茶の湯を、仏像彫りを、水墨画を究め、そしてこんどは寺の作事まで究めおったか」と評されている。剣術以外の芸術の分野にも彼の視野は広がっている。
そしてそれらを気楽な趣味としてでなく「究める」ことで、「心と技をたえず鍛えて行く」手段としている。「剣を唯一の友」とすると言うが、彼は剣以外のものも己の人格を築き上げて行くために利用している。むしろ彼自身がさまざまな技術を「究める」ことで磨かれてゆく剣であると言っていいだろう。
自身を剣になぞらえ日々の修練を通じて人格を陶冶し全き人間として完成させる─それが自分の生き方だと自負している(「全き人間」というのがどんな状態を指すのか明確なイメージは掴めないが。おそらく武蔵自身にも本当はわかってないのではあるまいか。ただ常により正しいと思える方向に向けて前進し続ける、そのモチベーションとして漠とした幻想を設えたというだけで)。つまりは根っからの求道者なのである。
武蔵の書き遺した『五輪書』が刀を持たない現代の人間にも広く読まれているのは、ひたすら自己の研鑽に励んだ武蔵の生き様が現代人にとっても理解可能な、むしろ人生の指針となりうるものと捉えられているからだろう。
そんな彼の生き方に問題があるならそれは2点、一つは沢庵が彼を「馬鹿」扱いしたように、武蔵の得物が剣であるゆえに剣の道を究めることが必然的に人殺しに繋がってしまうこと。これについては後ほど詳述する予定です。問題点のもう一つについてもラストで武蔵がそれを解消した(するつもりになった)場面と合わせて改めて取り上げたいと思います。

・二人の「剣にこだわる、そのわけ」を聞いた沢庵は、「おろか」「馬鹿」「阿呆」とこれを強く批判する。「人を殺しても出世したいというところが、まことにおろかじゃ。人の命を踏みつけにした出世にどんな値打ちがあるのか、ましてや、人を殺して築き上げた人格などというものには三文の値打ちもあるまい。」
これはたしかに正論である。特に後者については、井上さんは明確に否定を表明しています(※22)

・武蔵と小次郎のみならず、二人の試合相手から観客まで全てが「鈍」だと決めつける沢庵に武蔵と小次郎が揃って反発。「これがあの大徳寺の長老か」と小次郎が叫ぶ時の語尾の「か」の音の響きと消え方が綺麗です。
ちなみに「あの大徳寺」の「あの」とは帝じきじきの勅命で開かれた寺で由緒正しい寺であることを指している。ここでいちいち寺の名前を持ち出してくるあたりに権威に弱い小次郎の性格が表れている気がします。「全発言の撤回を求める」という言い回しもなんか現代の社会活動家みたいで笑ってしまう。

・激しく反論する武蔵と小次郎を平心が「お年寄りの言葉に耳を傾けておあげなさい。お年寄りはみなさん冥土に近いところにおいでです。(中略)お年寄りはまさに冥土からの智慧を伝えようとなさっているのかもしれませんよ」と腰が引けがちながらも取りなす。
高僧の有難い言葉だから聞くべきだというのでなく、老い先短い老人呼ばわり。ここで沢庵がギロッと平心をにらむのも無理からぬところ。緊迫した、そして平和思想について語る大事なだけに固くなりがちなくだりに笑いをはさむ、上手い緩急の付け方です。

・「それがしの三十五年間の努力はむだですか。そんなばかな・・・・・・」という武蔵。武蔵が長らく敬愛してきた師である沢庵に否定されてショックを受けているのがわかります。本物の沢庵なら武蔵が己の人格を陶冶するために他人を斬ることをどう評したでしょうか。

・続いて「小次郎の二十九年間には、血と汗と涙が詰まっている。むだではない!」と叫ぶ。本当に武蔵と気が合ってるんですよねえ。真に尊敬できる剣客と命を賭して戦いたいという点において気が合ってるからこそ沢庵に責められてるわけですが。

・激昂する武蔵と小次郎を「落ち着いて、これもお説法なのですよ」となだめる平心。月を眺めながら雑談する予定はどこへ行ってしまったんだ。

・沢庵は、自分としては〈衆生はみんな仏であり仏が仏を殺すことがありえない〉と信じているが、俗世間では二つの場合人殺しが許されるとしているという。
うちの一つ「三種の神器を持つ側は持たぬ側を殺してもよい」を沢庵が認めていないのは「滑稽な理屈」という表現からも明らかですが、もう一つの「悪人を一人切れば、千人、万人が救われるときは、その悪人は殺すべし」に対する見解は宗矩が活人剣の話を始めたためにそちらへ会話が流れてしまい、はっきり示されることはなかった。
ただ「俗世間では様子が違う」という言い回しからして、どんな理屈にもせよ人が人を殺すことは肯定されるべきではないという信念に照らして当然否定しているのが分かります。これも本物の沢庵だったら何と言っただろうかと考えてしまうところ。

・沢庵が三種の神器の話を始めたのを受けて、まいが「三種の神器といいますものは・・・・・・あの鏡と剣と曲玉のことでございますね」と具体的説明を加える。沢庵の言う三種の神器が何かの比喩ではなく天皇家の宝である「三種の神器」そのものであることを念押しした格好です。
武蔵が三種の神器を持っていたなら官軍となり賊軍の小次郎を殺してもよい、小次郎が三種の神器を持てばそれが逆転するという例え話は、小次郎が天皇の血筋だという(虚偽の)事実が明かされる場面に繋がっていきます。

・ここで宗矩が、柳生新陰流は「争いごと無用」を金看板にしているがただ一つ例外があって、まさに一人を殺すことによって万人が助かる場合のことであり、それを活人剣と呼んでいると語り出す(※23)
そして活人剣はなにか奥義のようなものがあるかと聞かれて「秘伝中の秘伝、柳生新陰流の当主であるわしにも、口には出せぬ」と一度は断ったものの沢庵に「そこをあえて」と強く言われるとあっさり〈三毒を殺すこと〉だと口を割ってしまう(※24)
さらには「いったん口に出してしまったのだ、このさい、なにもかもいってしまおうか」と聞かれないうちから全部べらべら喋ってしまう。喋りたくてたまらないんじゃないか(笑)。

・三毒とは「欲ばること、怒ること、おろかなこと」だと説明する宗矩に、仏教でもそれを三毒というぞ、と話す沢庵。
いにしえの剣豪は人を斬る前にまず自分の中の三毒を斬ろうと努めたと語る宗矩は「しかしおのれの心をどうやって斬るのですか」という沢庵の問いに咳払いし、閉じた扇子を体の前で構えてからさっと向きを返してみせる。
乙女がいまやっと朝の仇討ちのとき自分が自分に刃を向けた意味がわかったという。知らずして三毒を克服してしまったらしい乙女。新陰流の奥義を究めたと宗矩が称賛するのもわかります。刀の持ち方はまるでなっちゃいなかったけど。
もっとも実際に彼女が〈殺した〉のは復讐心だけで「欲ばること、怒ること、おろかなこと」まで切り捨てたかどうかはわからない。確かにこれ以降、乙女が欲張ったり怒ったり愚かだったりする場面ってないけれども。

・宗矩と乙女のやりとりを聞くうちに、沢庵は侍に刀を抜かせぬ工夫ができたという。刀を抜いていいのは自分の中に三毒のない人間だけ、しかしそんな人間はそういない、だから結局刀を抜けないとなる。平心も加わりなるほどと喜ぶ面々。
しかし「刀を抜かせぬ工夫」というが、結局〈自分は三毒がありません〉と自己申告すれば刀を抜いてもOK、逆にそうした図々しい人間を処罰できなくなるわけで、抑止力にならないどころか彼らに刀を抜く口実を与えることにならないか。そうやって刀を抜かせたうえで、〈刀を抜くこと自体が三毒のある証〉とこじつけて処罰する腹づもりならまだわかるが、沢庵はこれを「刀を抜かせぬ工夫」として提案している。
つまりはいつ刀を振り回すかもしれぬ(と宗矩が警戒してきた)血の気の多い侍たちが、自分は三毒があるからとバカ正直に刀を抜くのを自主規制する、刀を抜く資格を得るために大真面目に自分の中の三毒を絶とうと格闘するものと信じているらしい。そんなお人好しな。
宗教や道徳教育としてならよいが、こんな侍たちの良心頼みの計画が「徳川幕藩体勢の基礎」を固めるための政策たりうるのか?史実においても幕府が全国の武士たちに刀を抜かせないために行った政策は※18のようなものだったわけで、まあ普通そうするでしょう。武蔵と小次郎が納得できない顔でうろうろしてるのも当然です。

・三毒を斬ろうと己の心を見つめに見つめればいずれ禅病にかかる、そうして皆禅坊主になればよいと盛り上がる宗矩と沢庵。
〈刀を抜く資格を得ようと自分の心を見つめているうちに回りのことが見えなくなる、まつりごとに異を唱えるどころではなくなる〉と沢庵が言えば〈これで徳川幕藩体制の基礎が定まったぞ〉と宗矩が答え、そこへ「大徳寺の件なにとぞよろしく」と沢庵が耳打ちする。
この人たちは何を言い出すのか。ここまでは理想論すぎるなりにあらゆる形の殺人を否定し、そのために武士に刀を抜かせず平和な社会を作りあげようとしているかのような流れだったのに、結局は自分たちが所属している組織の権益を守りたいだけじゃないか。しかもそのために日本中の武士をノイローゼに陥れようとは何たる恐怖政治。耳打ちする沢庵の声もいかにも悪巧みしてる感じだしなあ。
まあこれはあくまでも幽霊たちの勝手な妄想にすぎないわけで、実際幕府が取った政策は上で書いた通り、大徳寺の住持決定に幕閣が横槍を入れてくる件が秀忠家光に取りなされることもなく、この件の延長線上で起きた「紫衣事件」によって沢庵は出羽国への流罪となります。
もっとも実際には権力や富貴に関心のない人であったらしい沢庵は、出羽で厚遇されて悠々と生活を楽しんでいたらしい。復権後に宗矩たちの後押しで将軍家光に謁見し、すっかり気に入られてたびたび江戸城に召されるようになった。山で静かに暮らしたい沢庵にとっては有難迷惑だったそうだが、おかげで寛永十八年に大徳寺の住持は以前通り帝の綸旨によって幕府の介入なく決めてよいことになり、こればかりは心底喜んだそうです(※25)



※18-「徳川将軍家は、侍たちが勝手に刀を振り回すことを抑え込もうとしていた。別の言い方をすれば、関ヶ原や大坂の戦いを境に、刀を抜かない主義が時流になりつつあった。上下とも長い戦乱に閉口していたのだ。 たとえば、島原の乱がおさまった後の正保二年(一六四五)、三代将軍家光は、刀身の長さを決めた。大刀の刃渡りは二尺八寸(約八五センチ)、小刀(脇差)のそれは一尺七寸(約五十二センチ)と、それ以上長くしてはいけないと制限したのである。仇討ちも免許制になった。 〈侍たちにできるだけ刀を抜かせないようにする。それが新しい体制の基礎になる〉 三代将軍のこの考え方のうしろには、おそらく彼の兵法指南役柳生宗矩をはじめとする柳生新陰流の思想があったはずである。」「戦わずに勝つことが最高の兵法であるという考え方は、西国外様大名の反乱をいつもおそれていた将軍家にとってはまことにありがたいものであったから、柳生家の思想がそのまま幕府の思想となった。 しかしながら、戦わずに勝つには情報収集やその分析、そしてそれにもとづいた謀略が必要になる。それがたとえば武家諸法度であり、参勤交代制だった。軍役や改易なども謀略の一つ。寛永十年(一六三三)には諸大名を監視、監督する目付や巡見使の制度が始まるが、宗矩はその総監ともいうべき総目付に任じられている。こうして柳生新陰流の思想が幕藩体制の骨組みの一部になった。」(井上ひさし「無刀流について」、『ふふふふ』(講談社文庫、2013年)所収)

※19-「初め徳川家康は、元和元年七月各宗の法度を制定した時に、大徳寺妙心寺両派の法度の中に於て、その寺の住持となる為めには、参禅修行三十年綿密の工夫を積み(中略)幕府に言上するに於ては、入院開堂を許可すべし、近年猥りに綸旨を申降し、僧臘高からず、或は修行未熟の者が出世するに依り、啻に官寺を汚すのみならず、衆人の嘲を蒙る、今後かくの如きの輩あらば、其身を追却すべしといふ箇條を載せておいた。」(「書簡によつて見たる沢庵和尚」、辻善之助編註『沢庵和尚書簡集』、岩波文庫、1942年。原文旧字)

※20-「「白隠年譜」(「滝沢開祖神機独〓(玄に少)禅師年譜」)によると、その症状は十二種の凶相を示したという。第一に、頭が火のように熱い(頭脳暖如レ火)。第二に、足腰が氷のようにひえる(腰脚冷如レ水)。第三に、涙が出てとまらない(両眼常帯レ涙)。第四に、耳鳴りがする(双耳交作レ声)。第五に、明るさに恐怖する(向レ陽自然生レ怖)。第六に、暗がりに接するとますます憂鬱になる(向レ陰不レ覚生レ鬱)。第七に、いろいろなことを考えすぎて疲れる(労二思想一)。第八に、悪夢にうなされる(疲二悪夢一)。第九に、夢精する(睡則漏精)。第十に、眠るとますます気力がなくなる(寤則気耗)。第十一に、消化不良(食不二消化一)。第十二に、寒気がする(衣無二暖気一)。以上が「白陰年譜」にみられる禅病の症状である。」(船岡誠「禅病について」、大隅和雄編『中世の仏教と社会』、吉川弘文館、2000年)

※21-井上ひさし「武蔵考」、『ふふふふ』(講談社文庫、2013年)所収。

※22-(「記者会見で、「人を斬って自己成長していくなんて、間違っている」と言われたのが、目から鱗でした。」というインタビュアーの言葉を受けて)小さい頃から吉川さんの『宮本武蔵』が大好きで、何回読んだかわからない。(笑)でも、武蔵が人を斬りながら人格を磨くというところだけは理解できなかった。殺人鬼をそんなに尊敬していいのか。なぜ人を殺せば殺すほど人格を磨くことになるのか。」(「インタビュー 井上ひさし『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」(『すばる』2009年6月号)

※23-「一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に、人をころす刀は、人をいかすつるぎなるべきにや。」(『兵法家伝書』、柳生宗矩著・渡辺一郎校注『兵法家伝書 付・新陰流兵法目録事』、岩波文庫、1985年)。ちなみにこの文が出てくるのは「殺人刀 上」の章。『兵法家伝書』には「活人剣 下」という章もあるが、こちらには「一人の悪をころして万人をいかす」ことについての話はない。

※24-実際にはこれは柳生新陰流ではなく別の流派の教えらしい。「天明元年(1781)に示現流の久保七兵衛紀之英が著した『示現流聞書喫緊録』には、「太刀は敵を斬り殺すものであるが、敵を殺すより先に自分の心の中にある三毒を殺して、心を強明正光にしてから太刀をとり、敵を殺しなさい」といった内容の記述がされています。この場合の「三毒」というのは、仏教でいう煩悩のことで、具体的には貪(むさぼること、欲深いこと)・嗔(怒り)・痴(おろかなこと)のことですが、一般的には邪念・雑念といった程度に理解してよいでしょう。つまり、刀(太刀)をもって斬るべき対象は、もちろん対峙する敵ですが、それ以前に自分の内面にある邪念であり、これを斬らなくてはならないということです。同様の意味をもつものとして、新当流の所作で「冤剣」というものがあります。具体的には、構えた状態から太刀を胸の前に立て、右手首を返して刃を自分の方に向ける動作をいい、自己の内にある穢れを斬るという意味があるようです。自分の中をきれいにしてから敵に向かうのだといいます。」(『武道ワールドへようこそ』内「身体・心・剣 精神文化の入口」(http://www.budo-world.org/japanese/high_level_info/token_no_shiso/index_03.html)

※25-「土岐山城守頼行は和尚を厚遇し、注意周到に至れり盡せりの款待振りであった。」「自分は枯木の様にして居るものであるから、たべものにも着物にもかまひ無いのであるから、何の苦もない。」「今の世間にかやうに身を捨てたものが公方様などへ召出されるべきものではない。自分の事を御存知なくて、長老といへば誰でも同じもののやうに思はれるのが迷惑である。」「近年入院の儀は押へてあつたが、仏法興隆の為めを思ふに依つて、今後は修行全備し、年齢恰合の時分に入院すべし、尚一々江戸へ言上の儀は遠路でもあり、幕府に於ても御用繁きことであるから、京の所司代に相談して綸旨を申し降し、先規の如く入院すべしとの事であつた。和尚の喜びは察するに余ある。」(「書簡によつて見たる沢庵和尚」、辻善之助編註『沢庵和尚書簡集』、岩波文庫、1942年。原文旧字)



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