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俳優・勝地涼くんのこと。

『空中庭園』(2)-4(注・ネタバレしてます)

2007-09-27 01:25:52 | 空中庭園

・「ママにもアイス一口ちょうだい。」 後に紹介されるさと子とのエピソードをいい形に反復したようなこの場面は実際にあったことなのか、絵里子の後悔が生んだ偽の記憶なのか。

・画面の回転が観覧車の回転と相殺されるようにして止まる。回想から現実への転換としてわかりやすく、かつ画としても美しい。

・何も隠し事はないと言いながら、彼らの会話が秘密だらけの上っ調子なのは、彼らの「裏」を見てきた観客には明らか。
現にテーブルの下ではミーナが貴史の股間を足でさぐるという過激な隠し事が進行形で行われている。
その全てを空中庭園を描いたランプシェードが俯瞰する。

・階段で乳繰り合う貴史たちのすぐ上の廊下を走るマナ。以前のコウといい、子供たちは親の秘密の現場にたびたびニアミスする。
彼らの秘密が皮一枚のぎりぎりで保たれているという緊迫感。

・「野猿」の部屋に会するミーナ、コウ、さと子。あとでさと子がバースディベアを取り出すシーンからすれば、これはマナがモッキーと来たのと(おそらくテヅカと来たのとも)同じ部屋である。たぶん絵里子と貴史がマナを「仕込んだ」のもこの部屋だったんじゃ。

・「中学生こんなところに連れ込んで!この子の親が知ったらどう思うか考えてみな!」 
ここまでさんざん傍若無人な言動を見せてきたさと子が、こんなまともな事を言い出すのに驚く。

・「ラブホテルには窓がない」のを実地にみるために連れてきてもらったというコウ。お年頃の少年とも思えない淡白さにいささか背筋が寒くなった。
彼はミーナに多少ときめく部分はないのだろうか。ひょっとして父の愛人と勘付いているのだろうか。

・さと子がカーテンを開けると、「窓がない」という言葉に反して、黒く塗りつぶされているもののちゃんと窓は存在している。
窓を強引に開けると、西日が部屋に差し込んでくる。平穏に閉ざされた「子宮」に「外」の空気が入り込んでくる。
このシーンを皮切りに、ディスカバの閉鎖がモッキーから告げられ、絵里子の庭の花は枯れ(絵里子はその花を乱暴に抜き、ゴミ捨て場に乱暴に捨てる)、近所の人の会話を通して絵里子の夢だった団地は「こんなところ誰もくるわけない」と貶められる。
誕生日会の「崩壊」の前触れとして絵里子の安全な世界が徐々に揺るがされてゆく。

・引っ越したあとのがらんとした部屋で夕日を見つめる絵里子。この新興都市と団地の落日を象徴する場面。

・回転ベッドに心地好さそうに体を預けながら、さと子は「もう人間なんていらないね」とつぶやいたあと、「やだやだ」と続ける。
「なんかここずっといたい」とこの部屋への愛着を見せたマナとは対照的に、「外」から遮断された(=守られた)安楽な場所を、その安楽さゆえに気持ち悪いと感じる。
マナが引き出しにしまったバースディベアを取り出すのも子宮から赤子を取り出す暗喩でしょう。ここで夕日が差し込む窓(外界への扉)が強調されるのも。

・ベッドの回転を俯瞰で捉えたのちに、ディスカバの大観覧車を映す。「回転」のイメージによる映像の連鎖が心地好い。
そして一瞬の「夜の観覧車」の映像は、ディスカバの開発中止が告げられたあとだけに、楽園の終末を想像させる。

・コウがCGで「野猿」の部屋を再現。
「思い込んでると本当のものが見えない」と絵里子に告げたコウは、京橋家もディスカバも「野猿」もこの街自体も、「安心できる場所」「光輝く未来に満ちた場所」という思い込みから成り立っている幻にすぎないと感じている。
「野猿」や団地をモデルにした仮想現実は、そのわかりやすい象徴。

・「うち逆オートロックだからなあ」 映画だと補足説明がないので意味がとりにくいが、誰でもきわめてオープンに受け入れると見せつつ、本当に胸襟を開いてみせることは決してない、という意味。
京橋家のあり方を端的に示した名台詞。

・ミーナとさと子の誕生パーティ。この物語はマナの誕生日に始まり、絵里子の誕生日に終わる。
そして京橋家の女二人に挟まれる形で、「外」の女たちの誕生日がやってくる。
母との関係にトラウマを持つ絵里子と、母と同じ道を進もうとしているマナにとって、自分の誕生日が「生まれなおし、やりなおしの日」となったのに対し、さと子とミーナはすでに両親はなく、親とのトラウマも描かれない(原作に書かれていた彼女たちの(良好とはいえない)親子関係についての描写はすっぱり切られている)。彼女たちは誕生日に過分な思い入れを持たない。
マナの誕生日に京橋家の問題点が「あたしどこで仕込まれたの?」の台詞をきっかけに炙り出され、さと子とミーナの誕生日に決壊が起こり、絵里子の誕生日に再生が訪れる(ここでも「あたしどこで仕込まれたの?」の台詞が繰り返される)。

・トイレで吐くミーナを二つの穴を透かして見下ろすアングル。何の穴かと思えば、トイレの壁にかかった赤い顔のお面?の両目の部分であるらしい。
台本によれば「コウが幼稚園の頃に書いた、ママの似顔絵」だそう。
家中に絵里子の目が配られ、監視されているような圧迫感・緊張感を覚えるシーン。

・トイレにあったいかがわしい本にマナに似た写真が載ってるという。
テヅカがホテルの部屋で撮影した写真を投稿雑誌に送ったのがここからわかる。
この悪辣さからすると、やっぱりテヅカはサッチンたちと通じているのかな。

・自分がいない時に家に電話するなとさと子に言う絵里子。
自分の秘密をしゃべられたら困るから、というのもあるでしょうが、自分が検閲していない情報に子供をさらしたくないという、純粋培養主義がうかがえる。
この電話のエピソード以降、「外」の人間であるサッチンや飯塚からの電話が相次ぎ、絵里子の崩壊は加速してゆく。

・絵里子が学級委員ではなく、引き篭もりのいじめられっ子だったとばらすさと子。
秘密を喋ってしまうのを恐れて手術(術時に必要な麻酔)を拒絶までしたさと子が人の秘密をあっさりばらすのに何となく違和感。
あえて荒療治することで、この家庭のゆがみを正したかったのかもしれないが、誕生会の場面は少なからず絵里子の妄想が入り込んでるふしがあるので、これも母に自分の秘密を暴かれることを恐れる絵里子の心理が見せた悪夢だったのかも。

・母親に「もう死ねば」と言い、サッチンの電話にも「死ねよ」と笑顔のまま答える絵里子。
サッチンの言う「完璧な笑顔」が表面は保たれつつ内側から狂ってゆきつつある。

・ケーキに大量の蝋燭を差す絵里子。その手付きはナイフでも突き立てるかのような憎悪に満ちている。
妄想の中でサッチンをフォークで襲ったときも、「生まなきゃよかった」と言ったさと子に飛びかかった時も、絵里子の殺意は「刺す」動作に表れているのを思うと・・・。

・「なんだかお線香みたい」「ご焼香をどうぞ」。 「死ねば」発言のあとだけに本気で怖い。
今まさに誕生日を祝っているその相手に「死ねば」というのは、矛盾する二つのメッセージを同時に投げかけているようなものだが、「今度は私が母親になってあなたを生んであげる」と続ける(この台詞は台本にはなく、小泉さんに自由に喋ってもらったのだそうです)ので、「死んで」=「生まれ直して」なんですね。

(つづく)


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『空中庭園』(2)-3(注・ネタバレしてます)

2007-09-23 02:39:20 | 空中庭園
・「家族はいるの?やり直したいとか思う?結婚して家を買って子供作って、自分の・・・」。
この「やり直したいとか思う?」はまだ年若いテヅカに発するには奇妙な問いのように思える。
彼の年齢なら「やり直」さなくても、結婚も家を買うことも子供を作ることもできるはずなのに。いかにも人生の落伍者っぽく見えたのか?
ここで「やり直したい」という言葉が出るあたりに、先に書いた彼女の胎児回帰願望が表れているように思える。
そしてこの「やり直し」という言葉は、のちにさと子が絵里子に人生指南を行う場面で印象的に再登場することになる。

・コートを脱ぎ上半身のタトゥーを晒すテヅカ。「バビロンへようこそ、王女」。
マナが子宮-回帰すべき安全な家として捉えているこの部屋は、安らぎの場などでなく背徳の地である、と宣言しているかのよう。
それはバビロンの空中庭園やバベルの塔を思わせる団地やディスカバもまた「家」ではないということを示唆していて、それが「おまえの家はもうねぇよ」という残酷な囁きにつながっているのでは。

・マナの服を脱がせにかかるテヅカは、マナの「自分でやります!」の言葉を聞くと、彼女から離れて「君は本当に可哀想な人間だ」と言い残し部屋を出て行く。
先にマナと「野猿」へやってきたモッキーも同じことを言われ、結局マナとは寝ずに終わった。「自分でやる」という言葉に表れる、性行為を自分の管理下に置こうとする姿勢が男たちを萎えさせてしまうのか。
モッキーにもテヅカにも「子作り、家庭作り」を口にしてることからすれば、むしろ「生殖」を管理下に置こうとしている、というべきか。かつての絵里子と同じように。
絵里子が母に愛されなかった(と思っている)痛みから逃れるために自分が理想の母たろうとしたように、胎児回帰願望をほの見せている(母親の無条件の愛情と庇護を求めている)マナも、それゆえに自分が母となることに強く惹かれている。
モッキーはマナと「野猿」行き以降疎遠になる(モッキーがマナを避けるようになる)が、マナの関心が自分自身でなく「新しい家庭を与えてくれる男」に向かっていると感じてしまったからじゃないか。

・テヅカはマナの服を脱がせようとする時、「俺のこと好きだよな?」と激しく繰り返す。さっき出会ったばかりの少女に対するには奇妙なまでの執着。
単にそういう粘着質な性格ってだけかもしれませんが、ここまでの展開の中で、彼とモッキーの行動や志向が重ね合わせて描かれていることからすると、この言葉は彼氏と初めて抱き合おうという時に「子供ができたら」という話ばかりするマナに対して、モッキーが叫びたかった言葉を代わりに吐露したものなのかもしれません。

・引き出しを開けると、バースデイベアの代わりに血まみれの胎児様の物が入っている。マナの胎児回帰願望を、グロテスクなものとして彼女自身に突きつけたシーン。
鏡?に血のような赤い文字で書かれた裏返しの「HAPPY BIRTHDAY」がまるで呪いの言葉のように見えてくる。
しかし「引き出しにしまったクマのぬいぐるみが血まみれの胎児に変わる」という超自然的なこの場面は、先の絵里子がサッチンをフォークで襲うシーン、ラストの血の雨のシーン同様にマナの妄想なのではないか。
「あの」絵里子の娘なのだから(とくにここの場面では「絵里子」の名を名乗るほどに母に同化している)。
謎めいた(作品のテーマにかかわるような)台詞ばかり吐く予言者のごときテヅカの存在も非現実的ともいえるし。
後でテヅカに撮られた写真が投稿雑誌に載るので彼の存在自体は幻じゃないんでしょうが、ここで起きたことはどこまで本当なのかわからない。眩暈に似た感覚が残ります。

・家に帰ってきたら愛人が息子の家庭教師として上がりこんでいた――これ相当怖いシチュエーションですね(笑)。
ビールをついでもらう手の震えに、貴史の脅えがわかりやすく表れています。
そして「外」の人間であるミーナを家の中に入れてしまったところから、急激に京橋家の虚構の幸せは崩壊に向かうことになる。

・絵里子が年頃の息子と若い女家庭教師が二人きりでいるのに抵抗を感じるのは理解できるんですが、なぜ彼女があっさりミーナを家庭教師として受け入れてしまったのか、それが不思議です。

・絵里子の実家は数時間で往復できる程度の距離にある。
あれだけ家を出て行きたいと願い、近所には自分をいじめた連中も住んでいる(だから当時のいじめっ子の娘であるサッチンとパート先で出会ったりもする)というのに、なぜか絵里子は実家から程遠からぬ距離に居を構えた。
結局彼女は母の影に囚われているのじゃあないか。

・絵里子の回想。階段の手すり?を爪で掻く動作、天井の隙間から漏る水滴、不安定に揺らぎながら階段の下へと向かってゆく(絵里子の)視界。
行き詰まるような演出に、外の嵐同様に、当時の彼女の心も荒れ狂っているのが伝わってくる。

・さと子の「産むんじゃなかった!」は直接本人に言ったのではないとはいえ、かなりの暴言。
ストーリーをたどってゆくと、さと子は決して絵里子を嫌っていないはずなのに、この発言はなんなのだろう。
先生の同情を引いて絵里子の出席日数に手心を加えてもらおうという算段だったのか(それにしてはやりすぎで却って先生に引かれている)、女手一つで子供を育て、その一人が登校拒否という状況に当時のさと子の精神も病みかけていたのか。
障子を開けたらさと子が哄笑した場面以降は、ぐるぐる回る視界(精神の不安定さ)からいっても絵里子の幻想だろうと思うので、さと子が心労から発した失言を、絵里子がショックのあまり実際より悪い方向に記憶を塗り替えてしまったというのが正解じゃないでしょうか。
まあ世間の親子の多くは、こうした決定的な失言に発するわだかまりを心の底に沈めて親子をやってるような気もしますが。

・赤い薔薇が散っている嵐の庭の光景は、ラスト近くの団地の庭と対比的に描かれる。
前者はいわば絵里子の心とさと子との母子関係が壊れた場所であり、後者はその両方が再生する場所という意味合いなのでは。

・再び絵里子の回想。ぐるぐる回転する画面は絵里子にとって当時の記憶がどれだけ不安感をもたらすものなのかを示している。
団地への引越し以降も画面の回転が続くのは、それが結局虚偽の幸せだと絵里子が心の底では思っているゆえなのでしょう。

・憎んでるはずの母と映した幼い頃の写真を持ち帰ってきてしまう絵里子。
ラスト付近でこの写真が家族写真と並んで飾られていたのを思うと、絵里子が心の奥底で母を求めていることを示しているのでしょう。

・貴史の人柄について、「そういう男なんだろうと思ったけど、そんなことは私の計算にあまり関係なかった。」。
絵里子は最初から自分の望む家庭を作るための「種馬」としてしか彼を見ていない。その愛のなさには慄然とする。
貴史の浮気癖は、基本的には生来のものなんでしょうが、妻の冷たさに起因してる部分も多少あるのかも。
けれど家庭の形を保つことだけが大事なら、浮気に気づいても何食わぬ顔で夫婦を続けていられるはずなのに、5年前に彼の浮気を知って以来セックスを拒絶している(セックス拒否の理由が彼の浮気にあったことは映画では匂わす程度)のは、彼を男として愛する気持ちが多少はある証のようにも思えます。

(つづく)

P.S. 余談ですが、9月21日発売の『Kindai』11月号に、「かっち&ジョーのクロスロード番外編」として勝地くんと北条隆博くんの対談が(なぜか目次には出ていませんが120ページあたりに)載っています。内容は二人が初共演した映画『阿波DANCE』について。フォスターさん公式の情報が更新されてないので、一応お知らせをば。


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『空中庭園』(2)-2(注・ネタバレしてます)

2007-09-20 00:44:37 | 空中庭園
・ホテルの部屋を歩く場面でマナの鞄のクマが大写しになる。後の伏線。

・回転ベッドにダイブするシーン。「撮影日誌」によると、目測を誤ってガラステーブルを割ってNGになったのだとか。
パンツ一丁シーンがあるのは知ってたので、てっきりパンツ一枚でガラスに突っ込んだのかと思って「よく無事だったなあ」と驚きかつホッとしてたんですが、実際の映像を見たら制服のままダイブしてたので、だから怪我がなかったのかと納得。
ちなみにこの撮影日誌ですが、「勝地君が、勢いあまってガラスのテーブルを派手に割るというアクシデントがあったが、撮影は順調に進む。」という淡々とした書きぶりに笑ってしまいました。もうちょっと安否を気遣ってやって下さい(笑)。
ついでに「回転ベッドじゃね?」のイントネーションがなんか訛ってるのにも笑ってしまった。

・問題の(?)パンツ(トランクス)一丁シーン。
よく言われることですが、『1980』の全裸シーンに比べてずいぶん痩せましたね。特別筋肉質ではないけれど無駄なく締まった体型は、「それなりに鍛えてる高校生男子」という感じ。
2年近く後、19歳当時に撮影した『里見八犬伝』よりガタイいいかも(『里見八犬伝』ではその幼い体つきに驚いたので)。

・「ここでも暮らせるかも」「なんかここずっといたい」。
ここが彼女の「仕込まれた場所」であること、そこへ無性に行きたがったことを思えば、これらの台詞は胎児回帰願望を表しているのでは。
ゆえに彼女は大切にしてたバースディベア=自分の分身を引き出しに残していったのでしょう。

・モッキーのカラオケが(出だしだけだけど)下手すぎて笑えます。わざと下手に歌ってるのか、勝地くんの実力なのか(笑)。

・飯塚(永作博美さん)のキャラがすごい。台詞とか大体原作どおりなんですが、服装のせいか話し方のせいかさらに異常度合いが増している。
「野猿」での「行為」も凄まじい。永作さんと板尾さんの怪演が効いている。娘たちと鉢合わせしなくて何よりでした(笑)。

・「禁煙のバスで煙草を吸わないのはなに。若い子の素足にいきなりしゃぶりついたりしないのは何で?恥ずかしいからでしょ。」 
「素足にしゃぶりつ」くのは後に貴史が、「禁煙のバスで煙草」はさと子がやってます。
飯塚基準だとさと子も「チョロけた奴」に入るのかな。

・「誕生日も覚えてくれてない」親に育てられた飯塚。同じく母親にいつも誕生日を忘れられることを根に持っていた絵里子。
その結果としてメモリアルデーを大事にする点も二人は共通している。
両親はいないというミーナも合わせると、貴史に引っ掛かる、というか引っ掛ける女は、親との関係に恵まれない人間が多いのか。
来る者拒まずという感じで誰でも軽く受け入れちゃうからか。

・部屋を出るときのマナとモッキーはそれぞれに無言。バスを降りて別れるときもモッキーの反応はちょっと薄い感じ。
原作での「モッキーの一方的な無視」によって二人が疎遠になってゆく感じをはっきりとでなくちょっと匂わせている。

・マナに不意に肩を叩かれ振り返った絵里子は、一瞬物を見るような冷たい表情をし、それからいつもの「完璧な笑み」を浮かべてみせる。
マナは気づかないふりをしてお菓子を買いにゆくが、絵里子の方をさぐるように窺う彼女の表情に、自分が知らない母の顔を見てしまった動揺・怯えが見て取れる。

・飯塚の車が出てくるたび流れる妙に音程の狂った歌は何だろう。飯塚のちょっととっぱずれた性格を象徴させてるのかな。

・貴史にもろに迫られても、関係ない普通の会話を続けながら全く相手にしない絵里子。
このへん5年間セックスレスであるにもかかわらず、仲良し夫婦・仲良し家族であろうとする、旦那に触れられるのが嫌なのにそれを認めたうえで関係を構築しようとしない絵里子の現実逃避ぶりがわかる。貴史の「たまってんだろ」にちょっとウケた。

・コウが作っているゲーム。原作以上に周辺部分まで緻密に作られ、音楽もいかにも安手のコンピューターミュージックぽいのが、彼らの住む街の「作り物感」を際立たせる。

・ミーナに迫る最中で息子の姿を発見。先の「野猿」といい、ヤバいところで子供たちとたびたび鉢合わせしそうになる。
ひょっとするとこれも行動半径の狭さ=街の箱庭感を出す演出だったりして?

・喫茶店でサッチンと男に金を無心される絵里子。サッチンがクラミジアのことを口にした(絵里子が店長にチクッたせいでクビになったことを暗にとがめた)とき、その完璧な笑顔がわずかに歪む。
ほとんど表情が変わらないのに気持ちの強張りがはっきり感じ取れる。小泉さんの表現力に驚かされた箇所。
ちなみに原作では絵里子とサッチンの力関係がよくわからない(この喫茶店の場面がマナ視点で描かれるため)のだが、映画で見て納得がいった。なんか普通と逆みたいですが。

・フォークを取り上げた絵里子が妄想の世界へと入ってゆく。
この時の画面の切り替わり方、絵里子の顔が笑顔のまま崩れてゆくのがホラーのようで恐ろしい。
美人女優さんがよくこんな演出をOKしたなあと、小泉さんの役者魂を感じました。

・妄想から現実に戻ったところで、絵里子はフォークをサッチンならぬケーキの苺に突き刺す。
苺の赤い色が妄想の中で流した血の色に対応している。
そして妄想から覚めたとき、なぜかサッチンと彼氏はそこから消えている。
単に金をせしめて用事が片付いたから出て行っただけなんでしょうが、絵里子の妄想が現実世界に染み出して、彼らの存在をこの世から消し去ってしまったかのような恐怖感を覚えました。

・テヅカ(瑛太くん)とともに「野猿」へやってきたマナは母の名前「絵里子」を名乗る。
そこで彼女が語る虚偽のプロフィール(ずいぶん長いこと学校には行ってない、行ってもいじめられるだけだから)は絵里子が隠している彼女の過去を偶然にも言い当てている。
ところで先にサッチンの彼氏がマナを襲う(襲わせる)意思があることをほのめかしているが、テヅカは彼らとグルなのだろうか。
マナが喫茶店を覗いているところにやってきたあたり、その可能性が高そう。

・マナが持ち込んだジャンクフードを一口頬張ったテヅカは、「人間の食い物じゃない」と吐き出す。
ディスカバを憎悪するモッキー同様、彼も「人工物」への嫌悪を露にしている。
その前の「人間なんて一皮剥けばみんな髑髏さ」の台詞も、虚飾に対する冷ややかな視線を感じさせます。

・「産まれてくるときはみんな泣きながら生まれてくるんだよね。血まみれでね」。ラストの絵里子の咆哮の伏線。

(つづく)


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『空中庭園』(2)-1(注・ネタバレしてます)

2007-09-17 00:09:05 | 空中庭園
・ヒロイン・絵里子(小泉今日子さん)によるナレーション。
一見普通な、その実いびつな家族のあり方についての原作の描写の中から、根幹の部分をしごくシンプルに切り取っている。
黒塗りの背景も含めて無駄のないシャープな作り。

・世界七不思議の一つ「バビロンの空中庭園」をモチーフとした柔らかなタッチの絵(背景にはバベルの塔も聳えている)のアップを、カメラが舐めるようにして映してゆき、それが実はランプシェードの模様だった、という形で京橋家のダイニングの情景へと移る。
『空中庭園』というタイトルからの連想であろうが、映画では原作がとりたてて描写していない「背徳の都市・バビロン」のイメージをくり返し強調している。
冒頭から「空中庭園」の絵が出てくること、それが京橋ファミリーの団欒を見下ろす位置にあるランプシェードの模様だというのが象徴的。

・テーブルの中央にぽつんと置かれた一輪挿しの赤い花。これから絵里子が妄想の世界で流し浴びることになる大量の血のイメージ。
ラストで登場する白い花との対比にもなっている。

・「あたし、どこで仕込まれたの?」 朝の食卓に似つかわしからぬ赤裸々な会話で、この友達家族のいびつさがわかりやすく提示されている。

・マナ(鈴木杏ちゃん)とボーイフレンドの森崎くん=モッキーの会話。
「そのクマ、クマって(困って)ねえ?」というモッキーの台詞は勝地くんのアドリブ、というか「アドリブでなんかダジャレを言ってくれ」と監督に言われて、焦りつつとっさに捻り出した台詞なのだそう。
たしかに「は?」という感じの唐突な台詞ですが、このキーホルダーのクマがのちのち結構なキーアイテムになってくることを思えば、伏線としての役割を果たしているかも。

・ベランダ一面の庭に水をやる絵里子がふと空を見上げる。冒頭のシェードの場面以来、「見下ろす」構図が多かったのが、初めて「見上げる」構図が登場する。
そしてカメラはそのまま空の大写しから次第に下へ向かい、赤い紐で吊り下げた植木鉢がゆらゆらと揺れる。
軽い失墜感と眩暈をもたらす動きは、絵里子の精神の不安定さをそのまま示している。

・家族三人、みんな同じバスに乗っているのに、ボーイフレンドが一緒のマナはともかく、父の貴史(板尾創路さん)も弟のコウ(広田雅裕くん)もばらばらに座っている。
マナも含め三人ともが不機嫌と無気力を思わせる無表情。家を一歩出た途端に「幸せ家族」の虚構は崩れている。

・振り子のように大きく揺れ続ける画面。
この「揺らぎ」が京橋家内部の描写のみならず、バスが走ってゆく街中の風景にまで及んでいるのが、絵里子が造り上げた(と後に明かされる)人工の楽園・京橋家だけでなく、少年による凶悪犯罪などに際してしばしば問題にされる「特有の人工性とそれにともなう密閉感」に満ちたニュータウンの不安定さをも表しているように思いました
(このやたら揺れる画面はなかなかに評判が悪かったようです。たしかに演出意図はよくわかるものの、劇場の大画面で見ていたら酔っちゃったかも)。
美しいけれど単調なメロディーをひたすら繰り返し続けるBGMも、いつ果てるとも知れず淡々と続いてゆく生活が孕んでいる閉塞感と一種病的な雰囲気をより強めています。

・京橋家の庭に「ERIKO’S GARDEN」のプレート。
「KYOBASHI’S」でなく「ERIKO’S」であるところに、この庭もこの家庭も自分が作ったものなのだ、という絵里子の強烈な自負心が伺える気がします。

・次第に寄ってくるカメラに気づいたかのように強張った顔を向ける絵里子。自分を見つめる外(観客)からの視線を認識してしまったかのような印象があります。
のちに彼女が造り上げた幸せ家族の虚構が家庭外の人間であるミーナ(ソニンさん)によって「学芸会」と喝破されたことでもわかるように、「外からの視線」は絵里子にとっては自分の幻想を破りにくる敵のようなもの。
顔を振り向けたときの絵里子の表情には「外」に対する不安と敵意の兆しがあった気がします。
そこで一気にカメラが引くのも、彼女の幻想が外からの視線に晒された一瞬に色褪せたことを思わせる。

・絵里子の不安のピークを示すように団地の遠景が(もはや揺れるなんてもんじゃなく)一回転する。
この団地の外見はブリューゲルが描いた「バベルの塔」によく似ている。冒頭のシェードの絵にバベルの塔が登場している(バビロンの空中庭園からはバベルの塔が望めたと言われている)ことからしても、この団地はバベルの塔に見立てられてるのではないか
(パンフレット収録の映画評(「エクソダスの物語」は「この団地はバビロンの空中庭園を模している」(概要)と指摘している)。
「バベルの塔」からは、「言葉が通じなくなる=コミュニケーション不全」や「崩壊」(バベルの塔に関する伝承の出典である『旧約聖書』では建設途中で放棄されただけだが、絵画のモチーフとしては崩壊の姿が描かれることもある)といったイメージが喚起され、京橋家の今後に不安を投げかける。
しかし一回転して元の位置に戻るという動きは、激しい動揺を経たのちにこの一家がしかるべき位置に収まることを表しているようでもあります。

・ディスカバリーセンター(ディスカバ)は階段に水を流してある。
その光景は冒頭のダイニングのランプシェードに描かれた空中庭園を思わせる。団地がバベルの塔の見立てであると同様、ディスカバは空中庭園の見立てなのだろう。
バベルの塔も空中庭園も「背徳の都市」バビロンの中心であり、自然-重力に反して垂直に伸びる人工物の極みである。
モッキーは「ここ爆破してえ」とディスカバへの嫌悪感を露にしていますが、それは「浮ついてない」「地に足がついてる」農家の少年・モッキーがディスカバとそれに代表されるニュータウンの人工性・虚構性を本能的に感じ取っているがゆえなのでしょう。
対するマナは「ディスカバリーセンターなしじゃ死ぬね」。「野猿」行きの後二人が疎遠になってゆく根がここにあります。

・ポケットから取り出した煙草を吸うモッキー。
服装なども特別不良っぽいわけじゃないのだけど適度にだらしなくて、その口調なども合わせ「ちょいワル」な印象。未成年のくせに煙草を吸う仕草が堂に入ってます。
勝地くんはデビュー直後(『永遠の仔』)から、喫煙シーンのある役が妙に多いような。

・煙草つながりでスムーズにさと子(大楠道代さん)のストーリーへと場面転換。
病院のベッドの上で煙草を吸っているというシチュエーション、ハの字に開いた足を脛まで出しているあたり、原作以上にファンキーで傍若無人なさと子のキャラが数秒で観客に伝わるよう配慮されている。

・さと子がベッドの下に置いていた5円玉入りの缶を蹴倒してしまった絵里子は、床に這いつくばるようにして5円玉を拾い集める。
見舞いの青年?の差し入れに無邪気に喜ぶさと子とのコントラストに、絵里子が母親の前で常に感じている圧迫感、みじめさが凝縮されている。

・絵里子を「ナヨコ」と呼ぶサッチン(今宿麻美さん)。
絵里子の隠している過去を(間接的に)知っていて、彼女を嘘つき呼ばわりするサッチンは、絵里子の世界を揺るがす最初の「他人」である。
いやむしろ、サッチンに先立って登場する母こそが最初の他人だろうか。この段階ではまだ匂わされてるだけだが、今後さと子は絵里子にとって最大の「敵」としての姿を露にしてゆくことになるのだから。
中盤の「野猿」の場面で、コウがさと子を「さっちゃん」と呼んでいますが、この映画独自の愛称も、絵里子に忘れたい過去を突きつけてくる存在としてのサッチンとさと子の共通性を示唆するもののように思えます。

・店長にサッチンがクラミジアを患ってると告げ口をする絵里子。「クラミ・・・アジ?」などと笑顔でカマトトぶってみせるのも含めなかなかにタチが悪い。
にっこり笑いながら邪魔者を排除しようとする絵里子の怖さがわかりやすく出ている。

・マナに「野猿」に連れ込まれるモッキーの腰の引けっぷり、声の裏がえりっぷりが見事。
勝地くんいわく「彼女とエッチすることばかり考えてる普通の男の子」なモッキーは、悪ぶってる一面結構ウブな部分もあって、本当等身大の男の子な感じ。
部屋に入ってからも、妙に躁状態だったかと思えば、いきなり真顔で彼女に迫ったり、性急に押し倒して服を脱がせにかかったり、「自分で脱ぐよ」と言われるとあっさり「ごめん」と引っ込んじゃったり・・・。
初心な男の子の感情の流れがリアルに伝わってきて、勝地くんの力量を感じたものです。

(つづく)


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『空中庭園』(1)

2007-09-13 01:26:56 | 空中庭園
2005年秋公開。2005年夏公開の『亡国のイージス』以降、勝地くんの出演作品は全部(舞台と一部のバラエティー除く)リアルタイムで見ているんですが、唯一見逃したのがこの映画。見逃してしまった理由というのが二つあって、

1 どうやら出番が少ないらしい。
2 パンツ一丁シーンがある。

・・・これ、1と2のどちらかだけだったら迷わず見に行ってたと思うんですよ。けれど「出番が少なくてパンツ一丁シーンがある」となると、なんだかパンツを見に行くみたいで(笑)「こんな不純な動機でいいのか」とかあれこれ思い悩んでいるうちに、公開が終わってしまったのでした・・・。
(まだファンになったばかりの時期でウブだったわけですねー。今なら躊躇わず見に行きます)

――というわけでレンタル開始を待ってようやく見ました。勝地くんの役は、鈴木杏ちゃん演じるマナの彼氏・モッキーこと森崎くん。
髪型をはじめとするビジュアルは数ヶ月前に演じた『ちょっと待って、神様』の茂多くんとさして変わらないのに、茂多くんが見るからに真面目で圧倒的に爽やかな少年だったのに対し、モッキーは制服もちょっと着崩した感じで、煙草吸っちゃったりもする、気だるげでちょこっと悪ぶってる感じの男の子。
自堕落ぽいところも存外純情なところも含めて等身大の男子を、勝地くんはごくナチュラルに表現していました。

さて映画の方はというと、現実と妄想の境目が曖昧であったり、やたら画面が揺れたり血が流れたりという前衛的な演出が目につく、本来なら苦手な部類の作品でした。
「本来なら」というのは、今回感想を書くために映画を細かく見返したり人様のレビュー(とくに「ランプシェードの柄がバビロンの空中庭園」「京橋家と「野猿」のクッションの模様が同じ」「繰り返される円環運動」などについて指摘された方の文章には学ぶところが多かった)を読んだりする中で、この映画の凄みがだんだんに理解できてきたため。
とくにその映像的な完成度の高さには圧倒されました。

原作のエピソードを取捨するだけでなく映像ならではのオリジナル要素(「バビロン」や回転運動のモチーフ)を付け加え、それでいて原作を壊すことなく、むしろ原作の持つメッセージをより強化する効果をあげている。
オープニング他の揺れる画面やラストの血の雨を浴びながらの咆哮など、「撮りたい絵が先にあったんだろうな」という場面でも、それがストーリーから浮くことなく重要な伏線や心理描写としてきっちり機能している。
素人目にも、シーンの組み立てやカメラワークが緻密な計算の上になされているのが伝わってきました。

(2007年1月公開の映画『幸福な食卓』について、『空中庭園』と比較言及する文章(ブログ)をいくつか見かけましたが、「母親が決めた家庭のルールを厳守する、表面は穏やかな一家の抱える闇」というテーマ以上に、上で書いたような「原作のメッセージをより強化」「撮りたい絵とストーリーの見事な融和」という点で、確かにこの二作品は共通するものを持っているように思います。・・・そういや「どちらの作品も娘の彼氏役が勝地涼」という点に触れてる文章は見かけなかったな。

もう一つ驚いたのがパンフレット。普通なら役者さんたちのコメントなどが大きく載りそうなところを顔写真つきプロフィール紹介にとどめ、スタッフのインタビューが半ばを占めている。
俳優陣は主演の小泉さん、母親役の大楠さんをはじめ皆さんハズレなしの名演だったのですが、個人的には映像・演出の妙により惹きつけられたので、映画作りの過程や裏話の一端を知ることができたのが嬉しかった。
役者さんの人気に乗っかるのではなく、才能あるスタッフの能力を結集して映画を作り上げたという自負心が感じられる構成に思わず拍手したくなりました。


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『父帰る/屋上の狂人』(2)

2007-09-10 00:50:47 | 他作品
また公演の前から公演終了後まで大いに楽しませていただいたのが、出演者の一人・キムラ緑子さん(ドリさん)のブログ。
稽古の様子や舞台の裏話などをあれこれ書いてくれていて、勝地くんも時々登場。
役のヘアスタイルを相談されて「9・1分けでポマードで固めるといい」と適当に答えたら、本当にその通りにしてヘアメイクさんに叱られてた天然っぷりや、本番中に勢いあまってセットから転落した話(これは勝地くん本人も後に雑誌で話してました。他にもよくあちこちぶつけたり足の爪割ったりしてたそう・・・落ち着きたまえ)、
ドリさんが退場時にうっかり壁にぶつかってもがいてたら、勝地くんが(ドリさん演じる巫女を睨みつける場面なので懸命に笑いをこらえたために)凄い形相になってた件など、笑ったり心配したりしたものでした。

とりわけ印象的だったのは千秋楽の日に勝地くんが「最後の気合入れをさせて下さい!」と俳優陣みんなにリポビタンDを差し入れしたエピソード。
その気遣いもさることながら、日頃遠慮深そうな勝地くんが、カンパニー最年少にもかかわらず音頭取りめいた行動を取ったことに驚きました。
きっと一ヶ月の公演の間に本当の家族のような親近感と結束の固さが生まれていればこそだったのだろうな、となんだか胸が熱くなってしまいました。

実際『ポポロ』6月号で草くんが話していた「最近のマイブームは勝地くんの背中をつねること」「若いくせにかっこよくて演技が上手いから、ムカついてつねっちゃいました(笑)」(ともに概要)なんて稽古場の一コマや、下男役の富川一人さんがよくドリさんの肩を揉んであげてたとか、打ち上げの時に草くんが愛用の帽子をお父さん役の沢竜二さんにプレゼントしたとかの話を読むにつけ、カンパニーの仲の良さが伝わってきます。
ドリさんのブログが公演終了後まもなくリニューアルした関係で、当時のログがなくなってしまったのが残念です
(よってドリさんブログの内容は記憶で書いてますので、細部が違っているかもしれません。間違いに気づかれた方はご一報を)。

ちなみに上述のリポビタンDで乾杯したときの掛け声は「ていやー!」。
作中での末次郎の台詞というか掛け声なんですが、草くんはこの「ていやー!」がお気に入りで、TVのバラエティーなどでもしばらく「ていやー!」を使ってたらしいです。
草くんのこのお芝居&カンパニーへの思い入れがうかがえて嬉しくなったものでした。


P.S. 上で「彼(注・草くん)の圧倒的集客力があればこそ、派手な宣伝も演出も必要なかった。」と書きましたが、『GOETHE』2006年8月号によると、このあたりのバランスはキャストから劇場の選定までいっさいのプロデュースを手がけたシス・カンパニー代表・北村明子さんの豪腕に由来しているようです。
もともとSMAPのマネージャーさんから草くんの舞台企画を依頼された彼女が、
「草剛を当たり前の使い方はしたくなかった。(中略)あえて赤字かもしれないというような小劇場を選び、そこで近代演劇をやろうと」決めたとのこと。
ちなみに北村さんは「公演で赤字を出したことは一度もありません。百発百中黒字。どのターゲットに向け、どういう役者がどういう劇場でどういう芝居をすれば儲けが出るか、目算は立ちます。」のだそうです。かっこいい・・・。
8・9月号に分けて収録された北村さんインタビューからは自分にも他人にも厳しく、かつ真の意味で役者を大切にする彼女の人間性が強烈に伝わってきて、この人がキャストの一人として勝地くんを起用してくれたことが何だか誇らしかったりして。


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『父帰る/屋上の狂人』(1)

2007-09-07 02:08:50 | 他作品

2006年4月1日から30日まで、東京・三軒茶屋のシアタートラムにて上演された菊池寛原作の戯曲二本立て。
勝地くんは二作品とも主人公の弟役で出演してます。

公演情報を最初に知ったとき、「ずいぶん地味な作品をやるんだなあ」と真っ先に思ったものでした。
戯曲の知名度は高いものの、明治時代の庶民の一家をしっとりと描いた物語と演技派で固めた重厚なキャスティングは、スター役者を前面に出し、絢爛な衣装や舞台装置を駆使した大掛かりな作品の多い昨今じゃインパクトが弱いんじゃないか。
おそらく普通なら、チケット購入の列が延々続いたり連日立ち見が出たりするようなことはまずなかったたぐいの作品でしょう。
しかし「主人公を演じるのがSMAPの草剛くん」という一点のゆえに、実際には壮絶なチケット争奪戦が繰り広げられることに。
劇場のキャパシティの小ささもあいまって、観劇がかなわなかった人もさぞたくさんいたことと思います。

私自身も舞台そのものは見ていないのですが、パンフレットと、NHKの『いっと六県』という番組での紹介映像と草くんインタビュー、人様のブログや雑誌のレビューで舞台の雰囲気の一端に触れることができました。
以下、原作と出演者インタビュー、レビューなどからの伝聞ないし推測によるこの作品の魅力を少々あげてみます。 

演出の河原雅彦さんは、前衛的な劇団(パフォーマンス集団?)の総代だった方というので(プラス『Look at star』誌の連載コラムからうかがえる人柄からしても)、結構ケレン味のある演出をしてくるのではないかと想像(危惧)してたんですが、実際には原作の味わいをそのまま再現した手堅い演出がなされていたと聞いてホッとしました。
パンフレットや当時のインタビュー記事を読むと、河原さんの原作と役者陣に対する信頼のほどがうかがえます。
だからといって役者に丸投げしたわけではなく、毎日舞台を客席で観劇しては日々細かな変更を積み重ねていったのだそうで、この舞台が稀にみるほどの大絶賛を受けたのはこうした河原さんのきめ細かな演出に拠る部分が大きかったのではないでしょうか。

また「父帰る」は舞台を茶の間(屋内)に限定して玄関へ向かう廊下を舞台奥に設定している(舞台の奥行きを利用している)のに対し、「屋上の狂人」は屋外、主人公がほぼずっと屋根に上がっているため舞台装置が上へ伸びる形になっているのも見事なコントラスト。
囲炉裏にかけた鉄瓶が湯気を吐き出す音までこだわるなど、美術面のクオリティも相当なものだったようです。
出演者の写真を使わない公演ポスター(「父帰る」は茶の間の風景、「屋上の狂人」は夕焼け空)も役者人気におぶさらない、作品そのものの質で勝負していることを象徴してるように思えます。 

そうした重厚な質の高さを可能にしたのは、矛盾するようですがまさに役者人気、主演の草くんにあったと思います。彼の圧倒的集客力があればこそ、派手な宣伝も演出も必要なかった。
もちろん草くんが客寄せのために起用されたということではないです。「父帰る」では幼い頃から家長を務めてきた威厳ある青年、「屋上の狂人」では知恵遅れの若者という、全く正反対の役を見事に演じ分けたその実力は、作品そのもの同様に各方面からの大絶賛を浴びていました
(草くんはこの両作品の演技で2006年の読売演劇大賞・杉村春子賞を受賞。また「屋上の狂人」も優秀作品賞に選ばれました。ソースこちら)。

対照的に二作品で同じような役柄―真面目で優秀な、家族思い・兄思いの弟―を演じたのが勝地くん。
といっても「父帰る」では23歳の社会人、「屋上の狂人」では17歳の旧制中学生、かたや大人しめの兄に甘える部分のある青年、かたや障害者の兄を守ろうとする強気な少年・・・というキャラクターの違いをきちんと演じ分けていたようです。
そして(他のキャストの方にも言えることですが)台詞の内容に頼ることなく、表情や声のトーンで役の心情を巧みに伝えていたらしい。
『演劇ぶっく』2006年6月号の勝地くんインタビューを読むと、彼が河原さんの細かい演出指導をきっちりと咀嚼し、作品の中での自分の立ち位置を把握してそこからブレないように心がけて演じていたのがよくわかります
(「本当は僕的には、お兄さんに「末やあ!」って言われるだけで泣きそうになるんですけど(笑)、でも僕がそこで感動してしまうと、観ているお客様からするとただの悲しい話になってしまう。」というコメントに、勝地涼個人の感情は感情として切り離したうえで、「末次郎(注・「屋上の狂人」での役名)ならどう感じるか、どう動くべきか」を理解し表現しようとしていたのを感じました)。

人様の感想など見るに、勝地くんや河原さんの意図は十二分に観客に届いていたようです。
上演当時、ブログで「屋上の狂人」のラストシーンの末次郎の兄に向ける心情(口先だけで兄に話を合わせてるのではなく、兄と同じ物を本心から「見たい」と願っている)を詳しく考察されていた方がいらしたのですが、その少し後に発売された前掲『演劇ぶっく』のインタビューを読んだら、そのシーンの演技の意図(演出意図)がまさにその方の読み取った通りだったのに驚きました。
表情や目線、声の調子から末次郎の心中を正確に把握したその方も、それを可能にした勝地くんの表現力もどちらも凄い。
原作のト書きにはただ「やや不狂人の悲哀を感ずる如く」とあるのが、優れた演出家と演者を得たことでより細やかに描き出された
(この号の『演劇ぶっく』には河原さんのインタビューも載っていて、両舞台の演出について話されてるんですが、その着眼点の確かさと気構えには改めて感銘を受けました。とくに明治期の日常生活での所作に関するくだり)。
演劇というものの醍醐味を思い知らされた気がしました。見てもないくせに。

(つづく)


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『恋するハニカミ!』(2)-2

2007-09-03 01:31:53 | 恋するハニカミ!
・ワンちゃんをレンタル。お店に入るとき勝地くんがドアを支えてしずちゃんを先に通してあげる。紳士だなあ♪
かと思えば「おじいちゃんみたい」とチワワの顔真似をしてみせるお茶目な一面も。こんな男の子とデートしたらさぞ楽しそうです。

・チワワのチロリ君(ちゃん?)を二人の真ん中に置いて、どちらの方に走ってくるかというゲーム。負けた方が甘えた感じに「ワンワン」てやる、という・・・。
誰が考えたのだこのお題。「甘えた感じ」というのがまた(笑)。
しずちゃんの「ワンワン」、すっごく可愛かったです。勝地くんバージョンの「ワンワン」も見たかった気がしますが、番組構成的にはNGでしょうねえ。
チロリを抱き上げる時、しずちゃんをカメラで映す時の勝地くんのあけっぴろげな全開の笑顔が眩しいです。

・ピンクとハートだらけの可愛らしいお店でのロマンティック・ディナー。本当にほのぼのと可愛らしい路線で各イベントが統一されている。
まあ確かに「ホテルの最上階のバーで夜景を見下ろしながらグラスを傾ける」なんてシチュエーションはこの二人には似合わない気がします。勝地くん未成年だからジュースになっちゃうし。

・互いの結婚観を語る。しずちゃんの「一度は結婚したい。子供もほしい」というのはごく平均的な女性の願望ですね。驚いたのは勝地くんの方。
「僕は(結婚は)40までにできればいい」「彼女ってものに 責任を負えるなって思ったら結婚すると思うんで、たぶんそう思えるのは20代のうちにはないんだろうなと思って」。
単に「相手を好きだから結婚する」のではなく「結婚するからには相手の人生を丸ごと背負う覚悟があってしかるべき」という古風かつ一本筋の通った考え方
(「責任を取れる」じゃなくて「負える」という表現もちょっと古風です)。
そこには19歳とも思えない大人びた結婚観と19歳らしい理想主義の両方がうかがえて、思わず衿を正したくなりました
(デートの間中基本的に少女の風情だったしずちゃんが、彼の話を聞きながら「男の子をなんか見守ってあげている感じがすごく」する母性的な笑顔を見せるのは、「19歳らしい理想主義」の方をより強く感じて「可愛いなあ」と思ってたんじゃないかな?)。
そしてここの場面で、この日唯一の「僕」という言葉が出てくる。聞きなれたいつもの一人称のせいか、この発言がこの日一番の、彼の「肉声」のように思えました。
その後も「結婚は40歳くらいで」ってあちこちで言っているし。実は18歳の頃(たぶん。出典を忘れちゃったため確認できません・・・)のインタビューですでに「(結婚は)30歳か40歳くらいでできたらいいな」と語ってるんですけどね。

・ラストは教会へ。勝地くんはタキシードに、しずちゃんはウエディングドレスにお着替え。そのせいで体格差が一気に目立つように。
階段の下でしずちゃんを待つ勝地くんが「早く来て~」ってつぶやくように言ってるのが可愛い。しずちゃんが螺旋階段を降りてきたのを振り返る時、本当に嬉しそうな顔をしてます。
しかしドレスアップした女の子を見て真っ先に爆笑するってどーなのよ(笑)。第一声が「すげ~!」って(笑)。
まあ確かにしずちゃん大柄なので肩や腕を露出したドレスを着るとかなり迫力ありますからね。そのあたり変に取り繕わずにからっとストレートに驚きを出してる彼の嘘のなさはむしろ好感が持てます。
ちゃんと「可愛い」ってフォローもしてるし、何より嫌そうな顔は全然してないですしね。

・しずちゃんがハニカミプラン(シンデレラデートなので12時になったら勝地くんのもとを去らなくてはいけない)を読み上げるのを聞きながら、勝地くんが口をへの字にしてる。
アカデミー賞授賞式(BS日テレ3時間バージョン)で真田さんのコメントを聞いている時にも、やはりこんな口になっていた。つまり「泣きそうになるのをこらえている顔」なんですよね?
この場面以降の彼は笑顔も真剣な顔もどこか憂いを帯びてゆきます。

・チャペルの椅子に腰掛け、傍らのしずちゃんに静かに想いを語る勝地くん。
今までラフな服装と豪快な笑い顔にまぎれていたけど、正装して別れを前にしみじみした表情になっている彼を見て、改めて綺麗な子なんだなあと再認識。
久本さんが「このまま映画出れそう」と言ってましたが、本当にタキシードが良く似合ってました。格好良く着こなすというにはちょっと初々しすぎる(袖長いし)ところもむしろ可愛い。前髪を下ろしたせいか私服の時より幼い雰囲気になってます。

・「(しずちゃんは)愛想笑いとかする子じゃないから、すごく安心できる」という勝地くんの言葉。彼女の「嘘のなさ」が彼には好もしかったんですね。
そして三つ上で書いたようにその「嘘のなさ」は勝地くんにも共通してる。勝地くんもしずちゃんも決して能弁じゃない、むしろ訥々と、一生懸命に言葉を紡いでいたのですが、それがかえって二人の言動に信頼感を持たせていました。
何より二人がそれぞれに最高の笑顔を見せていたので、「本当にこのデートを楽しんでるんだな」と感じることができた。
そして「(勝地くんが)女性として扱ってくれたことが嬉しかった」というしずちゃんの言葉に、何らかの(とくに外見に)コンプレックスを抱えていて、ために恋愛に消極的になっている女性は深い共感を覚えたんじゃないかと思います。
鐘が鳴る直前、勝地くんは何を言いかけてたのかな。

・うっすら涙ぐみながら、しずちゃんを優しく抱きしめる勝地くん。
抱きしめること自体はお題でしょうが(その日初めて会った女性を、それもカメラの前で、アドリブで抱きしめられるとは思えない)、この時の涙は彼の「素」だと思います。
抱きしめる少し前にちょっとカメラと逆を向いて右目を押さえる仕草をしてるのにきゅんとします。最後立ち去るしずちゃんを言葉もなく見送る、今にも呼び止めたそうな表情にも。

 

『ハニカミ』公式の掲示板を見ても個人ブログを見ても大好評だったこの日のデート。
「無邪気でやんちゃな少年の心を持った男性」と「誠実かつ包容力のある紳士」は、ともに多くの女性の好みど真ん中かと思いますが、勝地くんはこの両方を一人で体現してたわけで、彼に瞬間最大風速的にメロメロになった女性が続出したのも無理からぬところ。
番組の性質上結構細かいところまで台本はあるんでしょうが、卵焼きを切ってあげるような気遣いや、言葉の選び方、優しい眼差しなんかはまぎれもなく彼の内面から発せられたものだと思います。

この日の彼を評した言葉のうちでも特に多かったのは「男前」という表現(次点は「さわやか」かな)。
これは単に外見だけでなく性格、しずちゃんに対する態度を評しての言葉かと思います(後述の黄川田くんの『ハニカミ』の時に久本さんも「顔もそうだけど心が男前」と言ってました)。
相手を女の子として大切に扱ってくれるのだけど、ホスト的な如才なさではなく、「男は女を守るもの」という騎士道精神が根底にあるような感じ。でもその一方で「甘えるのが好き」なんてこともさらっと言ってしまったりする。
19歳という大人と子供の狭間の年齢が、結婚観や何気ない気遣いに表れる大人びた部分も、別れに際して涙ぐんでしまうような幼い部分も、嫌味なく自然に、魅力的に見せていました。
そしてこのデート及び勝地くんがこれだけ支持されたのは、彼がしずちゃんに優しかったからというより、彼の前でなら容姿も年齢も関係なく誰でもヒロインになれる、そんな夢を見せてくれたところにあるんじゃないでしょうか。

また、勝地くんがしずちゃんの可愛らしさを際立たせていたように、しずちゃんの少女のような初々しさと母性的な暖かさが勝地くんの魅力を引き出していた。
彼の「パートナー」が他ならぬ彼女だったことに心から感謝します。

ちなみに(1)で当初「緊張モードでおろおろしている勝地くん」を想像していたと書いたんですが、2007年1月19日放映分の黄川田将也くん&和希沙也さんの『ハニカミ』にスタジオゲストで出演したさいに、この「おろおろ状態」を見ることができました。
久本さんとゲストのヘリョンさんのペースにいいように振り回される勝地くん。
彼の出演回以外の『ハニカミ』を知らないのですが、男性ゲストがああいう目(微妙な逆セクハラ)に合うのはよくあることなんでしょうか(笑)。
しずちゃんとのデートで久本さんを泣かせちゃった→気に入られてるからですかねー。

しかし『ソウルトレイン』で共演してる黄川田くんの『ハニカミ』にゲストで来たわりに、間もなくDVD発売の『ソウルトレイン』の話がかけらも出なかったなあ(紹介された近作映像は『幸福な食卓』)。
てっきり宣伝がらみの出演だと思ってたんですが。


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