・「ママにもアイス一口ちょうだい。」 後に紹介されるさと子とのエピソードをいい形に反復したようなこの場面は実際にあったことなのか、絵里子の後悔が生んだ偽の記憶なのか。
・画面の回転が観覧車の回転と相殺されるようにして止まる。回想から現実への転換としてわかりやすく、かつ画としても美しい。
・何も隠し事はないと言いながら、彼らの会話が秘密だらけの上っ調子なのは、彼らの「裏」を見てきた観客には明らか。
現にテーブルの下ではミーナが貴史の股間を足でさぐるという過激な隠し事が進行形で行われている。
その全てを空中庭園を描いたランプシェードが俯瞰する。
・階段で乳繰り合う貴史たちのすぐ上の廊下を走るマナ。以前のコウといい、子供たちは親の秘密の現場にたびたびニアミスする。
彼らの秘密が皮一枚のぎりぎりで保たれているという緊迫感。
・「野猿」の部屋に会するミーナ、コウ、さと子。あとでさと子がバースディベアを取り出すシーンからすれば、これはマナがモッキーと来たのと(おそらくテヅカと来たのとも)同じ部屋である。たぶん絵里子と貴史がマナを「仕込んだ」のもこの部屋だったんじゃ。
・「中学生こんなところに連れ込んで!この子の親が知ったらどう思うか考えてみな!」
ここまでさんざん傍若無人な言動を見せてきたさと子が、こんなまともな事を言い出すのに驚く。
・「ラブホテルには窓がない」のを実地にみるために連れてきてもらったというコウ。お年頃の少年とも思えない淡白さにいささか背筋が寒くなった。
彼はミーナに多少ときめく部分はないのだろうか。ひょっとして父の愛人と勘付いているのだろうか。
・さと子がカーテンを開けると、「窓がない」という言葉に反して、黒く塗りつぶされているもののちゃんと窓は存在している。
窓を強引に開けると、西日が部屋に差し込んでくる。平穏に閉ざされた「子宮」に「外」の空気が入り込んでくる。
このシーンを皮切りに、ディスカバの閉鎖がモッキーから告げられ、絵里子の庭の花は枯れ(絵里子はその花を乱暴に抜き、ゴミ捨て場に乱暴に捨てる)、近所の人の会話を通して絵里子の夢だった団地は「こんなところ誰もくるわけない」と貶められる。
誕生日会の「崩壊」の前触れとして絵里子の安全な世界が徐々に揺るがされてゆく。
・引っ越したあとのがらんとした部屋で夕日を見つめる絵里子。この新興都市と団地の落日を象徴する場面。
・回転ベッドに心地好さそうに体を預けながら、さと子は「もう人間なんていらないね」とつぶやいたあと、「やだやだ」と続ける。
「なんかここずっといたい」とこの部屋への愛着を見せたマナとは対照的に、「外」から遮断された(=守られた)安楽な場所を、その安楽さゆえに気持ち悪いと感じる。
マナが引き出しにしまったバースディベアを取り出すのも子宮から赤子を取り出す暗喩でしょう。ここで夕日が差し込む窓(外界への扉)が強調されるのも。
・ベッドの回転を俯瞰で捉えたのちに、ディスカバの大観覧車を映す。「回転」のイメージによる映像の連鎖が心地好い。
そして一瞬の「夜の観覧車」の映像は、ディスカバの開発中止が告げられたあとだけに、楽園の終末を想像させる。
・コウがCGで「野猿」の部屋を再現。
「思い込んでると本当のものが見えない」と絵里子に告げたコウは、京橋家もディスカバも「野猿」もこの街自体も、「安心できる場所」「光輝く未来に満ちた場所」という思い込みから成り立っている幻にすぎないと感じている。
「野猿」や団地をモデルにした仮想現実は、そのわかりやすい象徴。
・「うち逆オートロックだからなあ」 映画だと補足説明がないので意味がとりにくいが、誰でもきわめてオープンに受け入れると見せつつ、本当に胸襟を開いてみせることは決してない、という意味。
京橋家のあり方を端的に示した名台詞。
・ミーナとさと子の誕生パーティ。この物語はマナの誕生日に始まり、絵里子の誕生日に終わる。
そして京橋家の女二人に挟まれる形で、「外」の女たちの誕生日がやってくる。
母との関係にトラウマを持つ絵里子と、母と同じ道を進もうとしているマナにとって、自分の誕生日が「生まれなおし、やりなおしの日」となったのに対し、さと子とミーナはすでに両親はなく、親とのトラウマも描かれない(原作に書かれていた彼女たちの(良好とはいえない)親子関係についての描写はすっぱり切られている)。彼女たちは誕生日に過分な思い入れを持たない。
マナの誕生日に京橋家の問題点が「あたしどこで仕込まれたの?」の台詞をきっかけに炙り出され、さと子とミーナの誕生日に決壊が起こり、絵里子の誕生日に再生が訪れる(ここでも「あたしどこで仕込まれたの?」の台詞が繰り返される)。
・トイレで吐くミーナを二つの穴を透かして見下ろすアングル。何の穴かと思えば、トイレの壁にかかった赤い顔のお面?の両目の部分であるらしい。
台本によれば「コウが幼稚園の頃に書いた、ママの似顔絵」だそう。
家中に絵里子の目が配られ、監視されているような圧迫感・緊張感を覚えるシーン。
・トイレにあったいかがわしい本にマナに似た写真が載ってるという。
テヅカがホテルの部屋で撮影した写真を投稿雑誌に送ったのがここからわかる。
この悪辣さからすると、やっぱりテヅカはサッチンたちと通じているのかな。
・自分がいない時に家に電話するなとさと子に言う絵里子。
自分の秘密をしゃべられたら困るから、というのもあるでしょうが、自分が検閲していない情報に子供をさらしたくないという、純粋培養主義がうかがえる。
この電話のエピソード以降、「外」の人間であるサッチンや飯塚からの電話が相次ぎ、絵里子の崩壊は加速してゆく。
・絵里子が学級委員ではなく、引き篭もりのいじめられっ子だったとばらすさと子。
秘密を喋ってしまうのを恐れて手術(術時に必要な麻酔)を拒絶までしたさと子が人の秘密をあっさりばらすのに何となく違和感。
あえて荒療治することで、この家庭のゆがみを正したかったのかもしれないが、誕生会の場面は少なからず絵里子の妄想が入り込んでるふしがあるので、これも母に自分の秘密を暴かれることを恐れる絵里子の心理が見せた悪夢だったのかも。
・母親に「もう死ねば」と言い、サッチンの電話にも「死ねよ」と笑顔のまま答える絵里子。
サッチンの言う「完璧な笑顔」が表面は保たれつつ内側から狂ってゆきつつある。
・ケーキに大量の蝋燭を差す絵里子。その手付きはナイフでも突き立てるかのような憎悪に満ちている。
妄想の中でサッチンをフォークで襲ったときも、「生まなきゃよかった」と言ったさと子に飛びかかった時も、絵里子の殺意は「刺す」動作に表れているのを思うと・・・。
・「なんだかお線香みたい」「ご焼香をどうぞ」。 「死ねば」発言のあとだけに本気で怖い。
今まさに誕生日を祝っているその相手に「死ねば」というのは、矛盾する二つのメッセージを同時に投げかけているようなものだが、「今度は私が母親になってあなたを生んであげる」と続ける(この台詞は台本にはなく、小泉さんに自由に喋ってもらったのだそうです)ので、「死んで」=「生まれ直して」なんですね。
(つづく)