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俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(3)-5(注・ネタバレしてます)

2016-11-28 19:53:58 | ムサシ
第一幕の間、宗矩によってたびたび演じられる新作能『孝行狸』。
二幕になってから続きが語られなくなってしまったこの作品は物語の終盤、正体を明らかにした幽霊たちが成仏する段になって、宗矩が「あの『孝行狸』という謡曲のことだが、おしまいまで仕上がっているんだよ」と唐突にそのオチを話しだす。
内容は「カチカチ山に帰った子狸は、仇のウサギをスパッと二つに切った。すると、ウサギの上半分が鵜になって、下半分は鷺になって、空高く飛び去っていった。めでたしめでたし」。
初見では幽霊たちが悲願叶って成仏するという神々しい場面の中に差し挟まれた突然のダジャレネタに笑ってしまったのだが、改めて見返してみて愕然とした。ウサギ→ウ+サギというダジャレのしょうもなさで誤魔化されていたが、子狸はウサギを真っ二つにして斬り殺している。つまり仇討ちは完遂しているのだ。
〈復讐の連鎖を断ち切れ〉〈命を大切にしろ〉という幽霊たちの訴えに剣客二人がついに刀を収めたその時になって、〈親の敵を見事に討ち果たしました〉という小話が得々と語られるとは。しかもダメ押しのように「めでたしめでたし」と締める。ここまでの物語はいったい何だったのか!?

(2)-7で書いた通り『孝行狸』の元ネタは朋誠堂喜三二の黄表紙『親敵討腹鼓』。井上さんにとっては若い頃に自分の心を救ってくれた思い出深い作品である(※49)
しかしだからといって「復讐の連鎖を断ち切る」がテーマ(であるはず)の『ムサシ』のまさにクライマックスに、仇討ちの成功を描いたこの話を引用するのはあまりに不似合いではないか。

しかも『親敵討腹鼓』は『孝行狸』のように単純に憎い親の敵を討ち果たしてハッピーエンドという話ではない。
『カチカチ山』でタヌキに殺された婆の息子・軽右衛門は主人のため兎の生き肝を欲していたが、母の仇討ちをしてくれた恩人だからとウサギを子狸の手から庇おうとする。
そうと知ったウサギは軽右衛門と子狸、二人の孝心に応え、加えて軽右衛門が出世できるようにと、自ら切腹して軽右衛門に生き肝を取らせたうえで子狸に討たれている。ウサギはむしろ善玉として描かれているのである。
かえって井上ひさし選『児童文学名作全集 1』の浜田義一郎氏による校注(挿絵の解説部分)では「悪い狸」「狸はいかにも敵役らしく」とすっかり子狸が悪者扱いになっている。

泣く泣く生き肝を得た軽右衛門は主人に重用されるようになって老父を引き取り幸せな生涯を送る。
一時ウサギをかくまった江戸の鰻屋「中田屋」は、日照りのため商売物の鰻も泥鰌も手に入らず困っているところへウとサギが飛んできて、大量の鰻と泥鰌を吐き出してくれたおかげで商売繁盛、吐いた鰻の蒲焼だからと当初は「へど前大蒲焼」と看板を出したが、名前が不潔っぽいからと「江戸前」に改名してさらに繁盛したというこれまたダジャレオチ。
この鰻屋の「へど前」→「江戸前」エピソードについては、井上さんも(2)-32であげたエッセイの多くで「ウサギ→ウ&サギ」と合わせて言及してます。

一方で管見の限りエッセイで言及されたことがないのが子狸のその後。
もともと子狸は仇討ちを志したさいに猟師の宇津兵衛を味方につけるべく、宇津兵衛を白狐・むじな・猫又ら化仲間の会合に密かに案内して、狐三匹を撃たせてやった経緯があった。それを恨んだ狐の子が子狸と宇津兵衛の両方を討ち果たすべくまず子狸を買収、子狸に宇津兵衛を穴に誘い込ませたうえでともどもに刺し殺すのである。
親の仇討ちのためとはいえ化仲間を犠牲にし、仇討ちの協力者だった恩人宇津兵衛を売った子狸は自身も親の敵として殺される。子狸の親も仇討ちで命を落としたことを思えば、これこそ「復讐の連鎖」ではないか。

ひるがえって恩あるウサギを庇った軽右衛門、義侠心からウサギを匿った鰻屋は繁栄する。
恩に報いようとする軽右衛門の心に感じ、軽右衛門と子狸の孝を重んじて自ら命を断ったウサギはウとサギに転生し、転生の後も鰻と泥鰌を鰻屋に届けることで「前生の恩」に報いている。
つまり『親敵討腹鼓』は恩を重んじる者は栄え、恩をないがしろにしたり仇討ちを志す者は滅びるという教訓話なのである。ウサギがウサギとしては死ななくてはならなかったのも、彼が人助けとはいえ仇討ちを行った報いであろう。

しかるになぜ『孝行狸』は原拠の〈復讐否定〉要素をすっぱり切ってしまって単純な復讐譚に仕立てられたのか。
あくまで『ムサシ』という芝居のごく一部にすぎない以上あまり複雑な筋立てにできないのは確かだが、「復讐の連鎖を断ち切る」というテーマをラストで粉砕するような、そんな物語を何のために入れ込んだのか。
──さんざん頭を悩ませてみたが、〈「復讐の連鎖を断ち切る」という表看板を素直に信じた観客をあざ笑うため〉以外の理由を思いつけなかった(・・・あとからもう一つ思いついたことがないでもない。これについては後述)。
そう考えると評論家の方々が『親敵討腹鼓』に(『孝行狸』のオチに、と言うべきか。『親敵討腹鼓』との関係に触れなくても復讐否定の物語の最後に復讐肯定の挿話が配置されている違和感は指摘できるはずだから)一言も触れなかったのも頷ける。
『ムサシ』は9.11以降の世界情勢を背景に血で血を洗う報復の連鎖を断ち切ることの重要性を説いた芝居である、として話を綺麗にまとめようとすれば『孝行狸』のオチは夾雑物でしかないだろうから。

(3)-4他で書いたように、井上さんは天皇の戦争責任を語るさいに必ずといっていいほど一般民衆の戦争責任についても言及している。
加えて井上さんは「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・」という座右の銘からも、誰にでもわかる平易な言葉で、つまりインテリではなく「フツー人」に向けて物語や思想を綴る(※50)(※51)、庶民の味方というイメージが強いと思うが、一方で民衆のしたたかさ・残酷さを繰り返し描いてきた。
そのキャリアの初期から中期に書かれた「江戸三部作」のうち『雨』(初演1976年)と『小林一茶』(初演1979年)はいずれも自分たちの安寧な暮らしを守るためによそ者をスケープゴートに仕立てて平然としている庶民の残酷さをまざまざと描いている。
「江戸三部作」の残るもう一作『藪原検校』(初演1973年)においては主人公をスケープゴートとして処刑するのは幕府であるが、そこには彼を見せしめとすることで民の綱紀粛正を図ると同時に人々の残酷趣味を満足させてガス抜きをしようとする計算が働いていた。
ほかにも特に初期の井上戯曲において主人公が一種のスケープゴートとして殺害されて終わる作品は『十一ぴきのネコ』(初演1971年)、『珍訳聖書』(初演1973年)など少なくない。
演劇評論家の扇田昭彦氏はこうした主人公たちに「反秩序、反常識の侵犯性のゆえに犠牲山羊として十字架に架けられたキリスト」の投影を見るが(※52)キリストが自らの意志で民を救済するための犠牲となることを選んだとされるのに対し、井上作品の主人公たちは一応は望まずしてスケープゴートの役を押しつけられる。
(一応としたのは、死が間近に迫ってきたときに自ら望んだわけではないが穏やかにその理不尽さを受け入れたキャラクターもいたからである)

こうした庶民の人間性に対する辛辣な評価は、終戦を境に態度が180度変わってしまった(※53)周囲の人間、とくに大人たちに対する不信感と、早くに亡くなった父親が左翼の活動家だったために幼少期に近隣から「アカの子」扱いされたり(※54)、中学三年から高校三年までカトリックの孤児院で育った井上さんの生育史に関わる部分が大きいと思われる。
「フツー人」を優しく啓蒙しようとする一方で滲み出してくる「フツー人」への悪意──それがフツー人を主とする観客に向けられるのはごく自然なことなのではないか(※Ⅱ)




※49-余談だが井上さんの直木賞受賞作『手鎖心中』(文春文庫(新装版)、2009年。初版1975年)には、ヘボ戯作者の栄次郎が書いたという設定で『吝嗇吝嗇山後日哀譚』なる『カチカチ山』の後日談が登場する。内容は悪狸を退治したウサギがカチカチ山一帯に善政を敷くが、節約好きが高じていろいろ下らないうえ有害なお触れを出す。ついに民衆の非難の声が殺到して兎を退位させるが、後を引き継いだ六人の老兎は凡愚でその隙にカチカチ山は悪狸の遺子たちに攻めとられるというもので、狸は田沼意次、兎は松平定信の見立てとなっている。『カチカチ山』の後日談を劇中劇めいた形ながら自身でも書いてみるあたり、『親敵討腹鼓』に対する井上さんの思い入れを改めて感じる。

※50-「戦後の新メディアであるテレビは「一億総白痴化」(大宅壮一)と非難されもしたが、しかし常に大衆と向き合っていたことだけは確かだ。放送界に身を置くことで、戦後本格化する大衆社会の進展を直に感じ取った井上ひさしは、観客に対して知的で開かれた演劇形式の必要性を強く意識したのだろう。」(中野正昭「日本人のへそ─放送作家から劇作家へ」、日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録)

※51-「「井上ひさしは、はるか遠くからもどかしげに手招きして導くたぐいの啓蒙家ではなかった。同じく社会変革の理想をかかげながらも、戦後的知識人の多くとことなるのはこの点である。保守革新、右派左派を問わず傲岸な権威はもちろん無意識の権力もからかい、笑いのめすと同時に、笑うみずからをも痛烈に笑った。困難な状況にあっては、安定した特権的なポジションは誰にも許されていないことを、井上ひさしはみずからを笑って示した。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)

※52-「反秩序、反常識の侵犯性のゆえに犠牲山羊として十字架に架けられたキリストこそ、ある意味ではもっとも典型的にして聖なる道化なのだ」(扇田昭彦「神ある道化──井上ひさし論」、『井上ひさしの劇世界』(国書刊行会、2012年)収録。初出は『國文学 解釈と教材の研究』1974年12月臨時増刊号「野坂昭如と井上ひさし」。その後改訂加筆して『書下し劇作家論集Ⅰ』(レクラム社、1975年)に収録。

※53-たとえば『夢の痂』(初演2006年)には「八月十五日を境に、わたしたちの考え方がすっかり変わってしまいましたね。(中略)百年戦争だ、最後の一人になるまで戦うぞ、みんなでそう絶叫していました。でも占領軍がやってくると、とたんにウエルカムでギブミーチョコレートでしょう。わたしたち、いったいどうしてしまったのだろう」「変わり方のうまいのが、たしかに、わたしのまわりにもいた。次の作戦でかならずマッカーサーを地獄に叩き落としてやる!作戦会議のたびにそう息巻いていた連中が、いまはそっくりマッカーサーに雇い上げられている。そればかりじゃありませんぞ。連中はマッカーサーに「ねえ、あいつは戦争犯罪人です」「あいつもそうですよ」と入れ知恵している。情けない話だ」という会話が出てくる。


※54-「当時(注・戦時中)、子どもにとっての最高のおやつといえばアイスキャンディーでしたが、いつも僕はイチゴのキャンディーしか買えませんでした。まわりから「おまえはアカの子どもだから」と言われ、それしか買うことを許されなかったのです。「おまえはアカの子だから、赤いキャンディーでいいんだ、白いのとかあずきが入ったのはとんでもない」というのです。それは、いじめというより、当時の大人の常識で測ったものの見方でした。国の方針に従わないのは非国民と言われ、ちょっとでもずれると全部非国民として扱われるのが普通だったのです。」(井上ひさし『ふかいことをおもしろく 創作の原点』(PHP研究所、2011年)、「近所にアイスキャンディーを買いにいっても『お前は赤いの食ってればいいんだ』と言って、イチゴのアイスキャンディーしか売ってくれないんです。ぼくだって小豆やミルクのアイスキャンディーが食べたいのに、いつもイチゴですよ。」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年))。ただ『井上ひさし伝』は少し後で「アイスキャンディー?覚えないな。何から何まで物資がなかったときに、甘いもんなんかあったかね?ひさし君は、本当のことはいわないで、茶化してしまって書いていることが多いからね。茶化さないではいられない心の屈折したところを汲み取ってあげればいいのにな、と思いますね」という五つ上の兄・井上滋の発言を記している。この本は井上さんの生前に上梓された、事前に当人に許可を取りインタビューも行っているにもかかわらず、井上さんの発言の矛盾を明らかにするような箇所がたびたびあって(「一九四五(昭和二十)年八月十五日のことを、ひさしは自筆年譜にこう記している。 〈近くの山で、松根油にする松の根を掘っていると、老教師が泣きながら走ってきて、「日本は戦さに負けた」と告げた。それを聞いてわたしたちは思わず歓声をあげたが、これは松の根掘りが相当の重労働だったせいで、他意はない〉 川西町町民記念講演会では、同じ日のことをこう話した。 「八月十五日は、長井の軍需工場で淡谷のり子の慰問ショーがあるというので、なんとか見ようと朝から出かけてそこに潜り込んでいましたね。淡谷のり子は、音程がはずれていてうまくないと思いました。玉音放送も全然知らないで帰ってきたら、戦争に負けたらしい、と聞いたのです。(後略)」とか)著者の公正さを感じる。

※Ⅱ-「私は自分の忙しさを棚に上げ、世間が慌ただしく井上ひさしを「ヒューマニストの作家」のように乱暴に片づける姿が耐えられない。 井上さんは「悪意の作家」だ。それもやすっぽい偽悪作家ではなく、手間暇かけて磨き上げた「悪意」がいつも作品に込められていたように思う。それが私の誤読だというのであれば、恐らく私は、井上さんの本の「悪意」に見えるところが好きだった。そして、それを言葉だけで目の前に立ちあがらせる井上さんの劇作家としての腕力は、私のようにせっかちにモノを書く人間からすると、本当にうらやましい限りだった。」(野田秀樹「叶わなくなったコトバ」、『悲劇喜劇 2010年7月号』(早川書房、2010年)

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『ムサシ』(3)-4(注・ネタバレしてます)

2016-11-21 18:06:18 | ムサシ
(3)-1で井上さんが「初期からエッセイなどで終戦の日を境に世の中も人心も一変したことへの衝撃や違和感を綴ってきた」と書いたが、井上作品で八月十五日について語られるとき必ずと言ってよい割合で言及されるのが天皇および一般人の戦争責任の問題である。

一般人の戦争責任についてはひとまずおいて、天皇の戦争責任について言及した作品をあげるとすると、その筆頭はいわゆる「東京裁判三部作」(『夢の裂け目』『夢の泪』『夢の痂』)だろう。
『夢の裂け目』(初演2001年5月)は東京裁判が天皇を免責するためにアメリカと日本が共同演出した「仕掛け」であることを暴き、『夢の泪』(初演2003年10月~11月初演)では極東委員会が日本の占領方針として天皇の免責を決めたことが語られ、『夢の痂』(初演2006年6月~7月)では天皇の東北巡幸のさいの宿に決められた家の住人たちがもてなしの予行演習をするうちに熱が入りすぎて天皇役を務めた主人公が戦争責任について国民に詫びて退位を宣言してしまう。後へゆくほど天皇の戦争責任に対する追及がより鋭くなっている感がある。

(やや話が逸れるが、『井上ひさしの劇ことば』は、『夢の裂け目』は成功作だが、イラク戦争の頃に書かれた『夢の泪』とその後の『夢の痂』ではテーマが大きく観念的になりすぎて芝居としての面白みは減じてしまったと指摘している。アメリカ同時多発テロ以前に上演された『夢の裂け目』の時に比べて「あの裁判は一体、何だったのだろう」という問いかけが井上さんの中でより切実になったために、観客との向き合い方もより切迫した余裕のないものになってしまったんじゃないだろうか)(※33)

また『紙屋町さくらホテル』(初演1997年)と『箱根強羅ホテル』(初演2005年)はともに〈皇室の安泰と国体の護持にこだわって「ご聖断」が遅れたために多くの国民が命を落とした〉ことへの批判を強く打ち出している(※34)(※35)。両方とも新国立劇場中劇場、つまり国立の劇場のため(『紙屋町~』はこけら落とし公演)に書き下ろした作品だというのがまた挑発的ではある(※36)

それだけ天皇が戦争責任を取っていないことを繰り返し取り上げていながら、井上さんが2004年に文化功労者に選ばれた際にこれを辞退せず天皇主催のお茶会にも出席したこと、さらに2009年には反体制的文学者が多く辞退している芸術院会員にもなったことに対する批判もある(※37)
井上さんは2001年に上梓された『井上ひさし伝』のインタビューでは過去につい国の賞をもらってしまったことへの後悔を述べていたはずだが(※38)、数年のうちにどんな心境の変化があったものか。
ちなみに同じ2004年に文化功労者に選ばれた蜷川さんは、プロレタリア作家だった父親を戦争で亡くした奥さんに遠慮してお茶会には欠席したという(もっともその後文化勲章の時には行ったそうだ。どうも欠席したことでいろいろ煩わしいことがあったらしく、井上さんはそのへんを察して大人しくお茶会に出席したのかもしれない)(※39)。蜷川さんは「井上さんは、興味があったんじゃないの(笑)。」と書いているが、今上天皇が皇太子時代に現皇后と成婚した「世紀のご成婚」の際のパレードを見物した時のエピソードなど読むと〈要はミーハーなだけなんじゃないの〉という気もしてくる(笑)(※40)

あるいは戦争責任を問われるべきはあくまで昭和天皇であって今上には責めるべき理由がないと考えたからだろうか。
しかし「天皇に自由な人格があって、秩序をつくる者としての権力があればはっきり責任をとれたでしょうが、天皇のおやりになることは常に「神武創業の古」に拠っていました。(中略)いまさら神武天皇を裁くわけにも行きませんから、結局は不問ということになります。」(※41)「何百万の日本人に己が責任で死を与えておきながら、天皇制を維持すること(すなわち国体の護持)を絶対条件にして、体制側がポツダム宣言を受け入れたことを、わたしたちは忘れてはならない(中略)わたしたち国民は天皇制によってこけ(原文傍点)にされたのである。」。」(※42)といった発言からすれば、井上さんが批判するのは昭和天皇個人ばかりではなく─明らかに昭和天皇個人に向けた批判の言葉も少なからず(主として1989年の昭和天皇崩御直後にあちこちに寄せた文章の中に)ある(※43)には違いないが─天皇制というシステムだと見るべきだろう。
(女権拡張論者に噛みつかれて反論した際には、「女性差別の幹と根はどこにあるのか。おそらく、日本では天皇制にある」、天皇制は「日本人の根のところにある身分制的、家父長制的関係の源」とまで表現している)(※44)


(3)-1で書いたように、『ムサシ』には終戦を境に日本が軍国主義から民主主義へと転換した現代日本の姿が投影されている。ならば井上さんの多くの戯曲やエッセイで終戦とセットで語られる天皇の戦争責任はどのように扱われているだろうか。
もとより江戸初期を舞台とする『ムサシ』では正面から昭和天皇の戦争責任が取り上げられることはない。しかし物語の中で天皇についてはたびたび言及されている。
具体的には四ヶ所、寺開きの挨拶の中で平心が沢庵のプロフィールを説明しようとする場面、参籠禅二日目に大徳寺住持の選定に幕府が口出ししてきた件について沢庵が宗矩に相談する場面、沢庵が俗世間では三種の神器を持つ側は持たぬ側を殺してよいことになっているらしいと話す場面、そして小次郎が次仁親王のご落胤だったというエピソードである。

最初の沢庵プロフィールは、後に沢庵が大徳寺住持選定の問題を持ち出すにあたってのいわば仕込みだが、平心の挨拶が長くなりがちなのをたびたび「手短かに」と叱る沢庵が、平心が〈大徳寺は大きなお寺すぎて何から話していいか迷う〉と言ったのを受けて「帝じきじきの勅命によって開かれた臨済禅の大本山、というところから始めてはどうか。さもなくば、大徳寺住持を任命できるのは帝だけである、というところからかな。」「こう始めるのもいい。大徳寺とは、あの信長公の御葬儀をとりおこなった寺であるとな。」と自分の寺の自慢を(宗矩・まい・乙女も乗っかって大徳寺の特徴を次々並べ立てたせいもあるが)長々話すあたり、いかに彼が大徳寺とその寺の住持であることに強い自負心を抱いているかを感じさせる。
(平心が「お静かに!」「寺開きの挨拶が終わっておりませんが」と話をぶった切っているが、宝蓮寺に直接関係ない大徳寺褒めが延々続くのにさすがに苛立ったんだろう)

住持選定の件についても「長老たちが、これはと見込んだ僧を新しい住持として選び、それを帝にお認めいただく。これが、後醍醐帝の仰せによってつくられた勅願寺、大徳寺の寺作法」という表現に勅願寺─天皇の傘の下にあることを誇る気持ちがありありと現われている。
だからこそそこに幕府が口出ししてきたのが自分たちやその背後の天皇に対する挑戦と感じられて面白くない。ゆえに友人であり将軍に顔のきく宗矩を抱きこんで、口出しを封じ、これまで通りのスタイルを通そうと画策する。
しかし「大徳寺の寺作法」に差出口をしてきた幕閣内のある人々を「われら大徳寺禅の仏敵」と呼んで敵意を明らかにしている沢庵は、三毒のうち「怒ること」(「欲張ること」も?)を持っていることにならないか。翌晩まいの生んだ子供・蝉丸が現天皇のイトコチガイになるとわかったとき、まだ小次郎=蝉丸だと明かされていない(〈ご落胤〉が目の前にいるとは知らない)のにふらふらと倒れかかったりしているのも、いかに彼にとって天皇家が絶対的な権威であるかを示していて、三種の神器を持つ=天皇の権威を帯びているか否かで正義の行方が決まることを「滑稽な理屈」だと言っておきながらのその反応は、三毒のうちの「愚かなこと」に該当しそうだ。
名高い高僧沢庵からしてこうも三毒にまみれているとは。まあこの沢庵は本物ではないし、〈心に三毒を持たないものなど(自分自身を含めて)いない〉と言っているのだから矛盾してるわけではないんだが。

そして三種の神器の話。これは言うまでもなく神話の時代から天皇家に伝わる、いわば天皇の象徴である。「武蔵が三種の神器を持っているとせよ。そうすると、武蔵は官軍、賊軍の小次郎を殺してもよいという資格を備えることになる。」「では、小次郎どのが三種の神器を持っていなさると、あべこべに?」という沢庵とまいの会話は、この翌晩の小次郎ご落胤騒ぎへと繋がっていく。
思えば自分は皇位継承順位第十八位だと吹き込まれた小次郎は、〈自分はいわば官軍であり、武蔵を殺してもよいという資格を備えている〉と唱えてさらに居丈高に武蔵に挑んでもおかしくなかったのである。頭に血がのぼって気絶してくれたからよかったが、乙女たちの目論見は逆効果になりかねなかったわけだ。
ここで上でも書いた「三種の神器の行方によって、正義の行方が決まる」ことの馬鹿馬鹿しさを指摘しておいて、いよいよここまでの流れで強調してきた「天皇の権威」を、武蔵と小次郎の決闘をやめさせるための仕掛けとして投入してくる。曰く、小次郎と戦うことは帝に刃を向けることに等しいのだ、と。

これら天皇に関わる話題に共通するキーワードは「権威」ということである。勅願寺や親王のご落胤など天皇の権威を帯びたものに手をかけることがあってはならない、それは天皇自身を汚すことに通ずる、天皇の権威の象徴である三種の神器を持つものが官軍となるのもそれゆえであり・・・・・・それは滑稽な理屈であると。
要するにこれら一連のエピソードは天皇の権威を有難がる者、その威を借りて自身のために利用する者たちを揶揄しているのだ。

『しみじみ日本・乃木大将』(初演1979年)には明治期の陸軍参謀児玉源太郎が山県有朋中将に「(乃木が連隊旗を喪失した事件については)陛下から乃木連隊長に「決して自決はしてならぬ。乃木の命はしばらく朕が預かっておく」という御言葉を下しおかれるべきである、と。つまり、そうすることによって、陛下は将校ならびに兵隊の生命を自由になさることができるのだ、と国民に教え込むわけです。人間の生命を自由にお扱いになる・・・・・・、こんなことができるのは神だけです。ということは、天皇陛下は神になられる・・・・・・。」「天皇陛下をすべての拠り所として国民が打って一丸となる。そうでないとこの日本は列強の餌場になるのほかありませぬ。」(※45)と話す場面がある。
幕府が倒れ、日本が天皇家を頂点に戴く近代国家となったことで、近世以前から脈々と流れてきた天皇尊崇の念、天皇の権威に対する絶対的信仰をさらに強化すべきだと考えた者たちが、天皇を現人神に祭り上げるプロセスがここでは描かれている。そして神である天皇を奉じた官軍─皇軍として、日本は昭和二十年八月十五日まで軍国主義国家としての道をひた走ることになるのだ。
また『人間合格』(初演1989年)では津島修治(太宰治)が戦後実家の番頭格である中北を「あんたたちはみんな古狸だよ。(中略)まんまと化けやがって。それじゃああんまり天皇陛下が哀れじゃないか。(中略)天皇、天皇と、うるさく奉っておいて、マッカーサーが来りゃポイだ。あんまりかわいそうじゃないか。あれほど信じていたのなら、世の中が変ろうが変るまいが、あの御方を大切にしつづけろ。今こそ天皇陛下萬歳を三唱しろ」(※46)と激しく責めている。
さらに『太鼓たたいて笛ふいて』(初演2002年)では林芙美子が「こうなったのは軍部が悪い。天皇さまに責任がある。戦を煽った新聞とラジオがいけない。・・・・・・責任をほかへなすりつけようとする人たちが、この村にも大勢いるわ。(中略)でも、ウソッパチな物語を信じ込んでいたことではみんな同じ愚か者よ。そんな物語をつくりだしたやつ、そんな物語を読みたがったやつ、だれもかれもみんな救いようもない愚か者だったのよ」(※47)と訴える──。

冒頭で書いたように、井上さんが八月十五日について語るとき必ずと言ってよいほど言及するのが、天皇および一般人の戦争責任の問題である。上では「一般人の戦争責任についてはひとまずおいて」おくとしたが、実のところ井上作品では天皇より以上に一般人の戦争責任の方が大きく扱われているのである。
天皇の戦争責任を扱った作品の代表格である“東京裁判三部作”にしても一般人の戦争責任もセットで語られている。すぐ上で引いた『人間合格』など権威として担がれ放り出された天皇にむしろ同情し、担いだ側の民衆をなじっている(もっとも「今こそ天皇陛下萬歳を三唱しろ」という修治の台詞は井上さんの創作ではなく、本当に太宰がそう主張していたそうだが)(※48)
直接には十五年戦争を描かない『ムサシ』も、天皇の権威に対する揶揄的な態度を見るに、同様のスタンスなのではないだろうか。つまり『ムサシ』が示唆するものは、天皇自身の戦争責任ではなく、天皇を権威として祭り上げ利用した者たち─国の上層部の責任であり、その権威を素直に有難がり信じたフツー人たちの責任ではないだろうか。



※33-「『夢の泪』は、二〇〇三~〇四年にかけて上演されました。その当時、世界の動きで大きな出来事はイラク戦争の開戦でした。この問題はテーマのうえで重要なかかわりをもってきます。井上はこう述べています。 「ただひとつ確かなことは、アメリカがあの裁判で日本を裁いたことによって、逆にアメリカも、それを守らなければならなくなったことです。ところが、今度のイラク戦争を見ていますと、アメリカは国連の決議を得られないと単独でやる。イギリスと手を組み、イラクを攻撃し、日本もそのあとにくっつく。とすると、あの裁判は一体、何だったのだろうと。もっと厳しい言い方をすれば、アメリカはあの裁判を行ったことで、自分たちは絶対に「人道」と「平和」に対する、「罪」は犯さないと誓いをたてたのに、自分たちの作ったルールを自分で破っている。そんな無責任な行為は許されるものではない。 果たして、アメリカは「人道」と「平和」に対する「罪」を犯していないかどうか、あの東京裁判によって、世界の人たちがアメリカを裁くことができるようになった。そこが、書きたいんです」 井上の問題意識はよく分かります。が、芝居の具体的テーマが集中せずに、ことばもインテリ的、観念的になったきらいがあります。」「『夢の裂け目』は庶民の目ですが、『夢の泪』『夢の痂』の中心はインテリの議論になっています。そこでは、相手(観客)に東京裁判とはこうなんだと「教示する」演説ことばになっていて、「開示する」劇ことばになっていないと思います。そうなると芝居としては面白くなくなります。」「『夢の裂け目』が成功作であったのに、『夢の泪』『夢の痂』では芝居としての面白みが減じていったのは、やはりそのテーマが大きく観念的になっていき、観客の生活する世界との接点となる人物(たとえば紙芝居屋・田中留吉)が登場しなくなったからでしょう。田中留吉は、予行演習をやりながら東京裁判の実体について「発見」をしていきます。おそらく井上ひさしも発見していったでしょうし、観客も発見していくのです。だから劇的なのです。 ところが「痂」の場合「瑕」とよばれたテーマ(天皇の免罪と国民の(管理人注・国民による東京裁判の)無視)は最初から結論が分かっていて、新しい発見がない。だから観客にとっても教えられたことを受け止めるだけで、受け入れたものをふくらましてはいかない、劇的ではないのです。」(小田島雄志『井上ひさしの劇ことば』(新日本出版社、2014年)

※34-「大日本帝国憲法第一条にこだわっているあいだに、なにが起こったか。(中略)沖縄の守備隊が全滅した。連日の空襲と艦砲射撃によって、わが国の都会の三分の一が壊滅した。そして、広島があった・・・・・・。(中略)さらに長崎があった。その上、ソ連が攻めてきた。そのあいだに、いったい何百万の同胞の生が断ち切られたと思うのか。(中略)戦の本質は喧嘩である。喧嘩であるから、わが国にも、アメリカ、イギリスにも、それぞれ理があり、非がある。立場がちがうのだから、どちらが良くて、どちらが悪いということはできない。したがって、陛下は連合国にたいしてどんな責任もお持ちになる必要はない。(中略)しかし、和平を結ぶという基本方針をお決めになってからの陛下には、国民にたいして責任がある。御決断の、あのはなはだしい遅れはなにか。あれほど遅れて、なにが御聖断か。」(『紙屋町さくらホテル』、『井上ひさし全芝居 その六』、新潮社、2010年)

※35-ソ連を仲立ちとしてアメリカと和平を結ぶことを目指していた外務参事官の加藤は、箱根強羅ホテルでの二日間の体験を通してそれが甘い期待に過ぎないと悟り、局長に「最良の和平ルート」として「陛下が御自らラジオのマイクの前にお立ちになること」を進言する。「「陛下が全世界に向けてひとこと、『朕はやめたい。もう負けました』とおっしゃれば、和平はいますぐ成就いたします」・・・・・」「加藤さんの進言がもし容られていたら、オキナワ、ヒロシマ、ナガサキ、ソ連の満州侵攻・・・・・・どれも起きていませんでした。」(『箱根強羅ホテル』、『井上ひさし全芝居 その七』、新潮社、2010年) 

※36-『井上ひさし全芝居 その六』巻末の扇田昭彦「解説」は、「国が建設した新国立劇場」のこけら落としに新作(『紙屋町さくらホテル』)を書くにあたり井上さんが留意した点の一つとして、「戦前と戦時中に新劇を厳しく弾圧し、戦争で多くの国民を死に追いやった日本の国家指導者たちの責任を浮き彫りにすることを通して、これからの国と演劇の新しい関係を探ること。」を挙げている。

※37-「比較文学者の小谷野敦氏はこう言う。「彼の戯曲『化粧』(82年)と『紙屋町さくらホテル』(97年)は高く評価できます。特に『紙屋町さくらホテル』は、天皇の側近が戦争について詰られる場面があり、その展開はすばらしかった。しかし、その後、井上氏は天皇のお茶会に出たり、藝術院会員になったりしています」」(「追悼 井上ひさし氏が遺した「遅筆」の伝説」、『週刊新潮』2010年4月22日号)

※38-「ひさしが「うかうか三十、ちょろちょろ四十」で芸術祭脚本激励賞に入選したのは一九五八年十一月のことであった。ひさしは、直木賞受賞直前の一九七二年三月には「道元の冒険」で芸術選奨文部大臣新人賞を受賞している。 「お上からの賞はもらわないことに決めていたのに、あのころはついもらっちゃったんですね。新人賞も断わるべきでした。賞をもらってからしばらくは、新年の歌会始めとか園遊会とかの招待がきていた時期があったんですよ。モーニングか羽織袴でこい、と書いてあったからモーニングがないからなどと言って断わっていたんですが、だんだんと、こいつは含むところがあるのだろうということなのか、そのうちまったくこなくなりましたね。天皇の戦争責任のことを書いて、お上のやることに逆らうことばかり書いているのですから、本当はもらわなければよかったのですが・・・・・・」(桐原良光『井上ひさし伝』(白水社、2001年)

※39-「井上さんと一緒に文化功労者になった。授与式のあとに、宮中でお茶の会があった。それで、ぼくは行かないで、女房と一緒に帰ってきた。「井上さん、じゃあ失礼しまーす」と言ったら、井上さんは「え、蜷川さん行かないんですか?あの、ぼくはちょっと中が見たいんで行ってきます」って、井上さんは興味があったんじゃないの(笑)。ぼくは行かなかった。(中略)うちの女房のお父さんは『文藝春秋』の記者で、プロレタリア小説を書くようになった生江健次という作家だったんです。軍報道班員としてフィリピンへ赴き、女房が一歳か二歳ぐらいのときに戦死している。(中略)ぼくの家族には戦死者はいないんですけども、女房にはそういうことがあったから、女房を連れて天皇陛下とお茶なんか飲めないなあと思って。それで「帰ろう帰ろう」って。(中略)「お前の気持ち、そうだよね、そんな赤紙一枚で命を落としたのでしょう」そう思って、行かなかった。(中略)そのあと文化勲章で行きましたけどね(笑)。それはもういいやと思った。来ない、来たっていうのは、あっちではたいへんな話なんだよね。そしたら、文化勲章のとき、天皇は覚えてるんだよ。文化功労者のときはいらっしゃっていただけなかったんですけど、お会いできてよかったですって。すごいよね。」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」(『悲劇喜劇』、2013年1月号)

※40-「見物人がどっと歓声をあげたのは六頭立ての馬車が目の前を通りすぎてからである。目の底に丸顔の美人と顎骨の張った青年の笑顔が残った。馬車の後部に向って見物人が手を振ってバンザイを叫び、それに釣られて、日頃は天皇制がどうのこうのとナマな口を叩いていた筆者も、思わず右手を二度三度と振っていた。そしてその日一日、手を振ってよかったのかどうか、かなり深刻に思い悩んだことを憶えている。」(井上ひさし「論文の書き方 昭和三十四年」、『ベストセラーの戦後史 1』、文藝春秋、1995年)。もっとも井上さんは読者を楽しませるために露悪的偽悪的な方向に話を盛ることが多いので鵜呑みにはできないが。

※41-「天皇の戦争責任もあります。がしかし、天皇に自由な人格があって、秩序をつくる者としての権力があればはっきり責任をとれたでしょうが、天皇のおやりになることは常に「神武創業の古」に拠っていました。つまり万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治するのですから、つまり「過去」が天皇の拠りどころ、権威伝統の源であるわけで、天皇の責任を裁くことは「過去」を裁くということになる。いまさら神武天皇を裁くわけにも行きませんから、結局は不問ということになります。ひっくるめていえば、日本人が開発してきた政治システムは、「責任の所在を明らかに示さない制度」だったのです。変な云い方ですが、これはじつに巧妙なシステムですね。」(井上ひさし「昭和庶民三部作を書き終えて」、『悪党と幽霊』(中公文庫、1994年)収録。初出1988年)

※42-「(尊皇攘夷を掲げていた薩摩侍が体制側に立つや鹿鳴館文化に狂い、西洋人を手本としていたはずが突然「鬼畜米英」を叫んだかと思えば終戦を境に彼らを民主主義の手本と仰ぐようになった)体制側のやり口のこの脈絡のなさ、支離滅裂ぶりを支えているのは「悠々不変の天皇制」であることは言うまでもないが、何百万の日本人に己が責任で死を与えておきながら、天皇制を維持すること(すなわち国体の護持)を絶対条件にして、体制側がポツダム宣言を受け入れたことを、わたしたちは忘れてはならない。体制は国民の生命と国体の護持をはかりにかけ、結局連中は国体の護持のほうを撰択したのだ。下卑た言い方をすれば、わたしたち国民は天皇制によってこけ(原文傍点)にされたのである。」(井上ひさし「われわれの専売特許はいつまでも「呆然自失」か」、『パロディ志願』(中公文庫、1982年)収録、初出1975年)

※43-「一人の人間の生死によって、時間に「明治」だの、「大正」だの、「昭和」だのといった枠をはめられるのはいやだ。そんなものでわれわれのかけがえのない時間を勝手に区切られたくない。そう考えているので、昭和が終ろうが、平成が始まろうが、なにひとつ特別な感慨がない。」(井上ひさし「作曲家ハッター氏のこと」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『テアトロ』1989年5月)、「昭和天皇がこの世から身を退かれたことをロンドンの宿のテレビで知って、覚えず、しまったと呟いた。昭和を五十四年間も生きてきたのに、昭和最後の日に立ち会うことができないとは、まったくドジな話ではないか。」(井上ひさし「ロンドンの二日間」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『世界』1989年3月)、「天皇にも戦争責任があるというのが筆者の基本的態度である。むろん重臣たちにも責任があり、さらに丸山真男氏の指摘する第一類型の中間層(筆者流にいえば、在郷軍人会や愛国婦人会や国防婦人会の、各地の中核部分)には多大の責任がある。そしてこれら第一類中間層の燃料になったきは当時のマスコミだったから、そのあたりの方々にも責任を痛感してもらわなければならない。がしかし何にもまして天皇は「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」(大日本帝国憲法第四条)「陸海軍を総帥」(同第一一条)し給うておられたお方である。大元帥陛下として「総帥の頂点に立ち、すべての命令を裁可してきた天皇」(藤原彰氏)に責任がないなどと、どうしていえようか。たしかに私人としては誠実で、真面目な方であったろう。天皇の記者会見をすべて読む機会があったが、その印象を一言にしてつくせば「邪気なきお人柄」と拝察される。私的には「よき人」であられたようだ。しかし天皇は公人の中の公人でもあった。(中略)物事の進行や集団などを一定の方向に導くリーダーとして、天皇にも責任があったといっているつもりだ。」(井上ひさし「ロンドンの二日間」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『世界』1989年3月)、「開戦前の御前会議で天皇が、明治天皇の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を引用されたり、近衛首相や杉山参謀総長に、戦争準備よりも平和的な外交を先行させるようにと仰せ出されたことを知ってい。しかし同時に私たちは帝国憲法の第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」や第十三条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」を暗誦したし、「統帥系統がかかわる軍のすべての行動は、天皇の裁可した大命によるものであった」(藤原彰)ことも知っている。 私人としてはよいお人柄のお方だろうと拝察申し上げるが、公人としてはどうか。はっきりと責任をお認めになれば、それこそ内に醇風を育て、外に信頼をかちとられたのではないか。かつて少年飛行兵になって大君の辺にこそ死なめと決意したこともあった私としてはそれが口惜しくてならぬ。この口惜しさがおさまらぬうちは私の昭和は決して終わらない。」(井上ひさし「心の内 昭和は続く」、『餓鬼大将の論理』(中公文庫、1998年)収録、初出『読売新聞』1989年1月13日)、「大人になってあのころのことを調べたり先学の書物に学んだりして改めて振り返れば、昭和時代の病患は、せいぜい餓鬼大将の論理をふりかざすのが関の山の、大義名分の欠落にあったのではないかと思い当る。米英との開戦を決定した御前会議の三日前、すなわち昭和十六年十一月二日、東条首相は天皇から、「(開戦の)大義名分を如何に考うるや」と問われた。そのときの東条首相の返答は、あの大戦争の空しさあやしさをみごとに浮き彫りにしているのではないだろうか。東条首相はこう答えたのだ。 「目下研究中でありまして何れ奏上致します」 三日後の御前会議で開戦が決定した。しかし戦争をなぜ仕掛けなければならないのか、その名目(口実でもいいのだが)が決まらない。決まったのは、さらに六日後の連絡会議においてである。「自存自衛」が開戦の名目だった。 当時の支配層の考え方の筋目のなさは、これより少しさかのぼって、同年夏、対米英との戦争の第一原因となった南部仏印進駐の際の、天皇御裁可のお言葉にさえうかがわれる。 「国際信義上ドウカト思フガマア宣イ」 宣くないのです、陛下。筋目を立て、それを堂々と世界に問うて、それから行動をとるべきでありました。」(井上ひさし「餓鬼大将の論理」、『餓鬼大将の論理』、(中公文庫、1998年)収録、初出『文藝春秋』1989年3月)。読み比べるとあっちとこっちで言ってることが違ってたりするが、媒体に合わせて表現を変えた+全く同じ内容を繰り返すのがためらわれたという、よく言えばサービス精神の表れなのだろう。そのまま一冊のエッセイ集に(読み比べるとあちらとこちらで矛盾してるのがあらわなのに)収録したあたり潔いというべきか。

※44-「女性差別の幹と根はどこにあるのか。おそらく、日本では天皇制にある。(中略)天皇は自分から「わたしは神ではない。人間である」と宣言された。したがって、『人間天皇』という位を「男系の男子が、これを継承する」のは、重大な女性差別ではないのか。(中略)「天皇は別よ」と、おっしゃるなら、それはすでにあなたがたが、天皇を人間として認めていないということであり、これまた天皇を差別することになるのではないか。(中略)天皇はなぜ天皇だろう。むろん、天皇だからである。そこに特別の理由はない。すくなくとも日本人には答えられない。この考え方の極にあるのは、に対する差別、女性に対する差別だろう。民は、そしてなぜ女性はなぜ普通人や男性より劣った、低いものと見なされなければならないのか。むろんこの理由もない。つまり、天皇を天皇である、とあがめたてまつる気持と、「民は」、「女性というものは」、と見下す気持とは、見事な対になっているのだ。したがって『女たちの会』の世話人方や『中ピ連』の幹部連が、本気で女性差別と闘うつもりがおありなら、その闘いは、まず、この日本人の根のところにある身分制的、家父長制的関係の源へ向わねばならない。」(「怪電話の怪婦人に与う」、『ブラウン監獄の四季』(講談社、1977年)収録。初出1976年頃)

※45-『しみじみ日本・乃木大将』(『井上ひさし全芝居 その三』(新潮社、1984年)収録)

※46-『人間合格』(『井上ひさし全芝居 その五』(新潮社、1994年)収録)

※47-『太鼓たたいて笛ふいて』(『井上ひさし全芝居 その六』(新潮社、2010年)収録)

※48-「若い頃の彼がなぜ社会主義運動にのめり込んで行ったか、そして敗戦直後、人びとが天皇を「天ちゃん」などと言い始めたまさにそのときに、なぜ「いまこそ天皇陛下バンザイ!ぶべきだと息まいたのか、この劇はその謎を解くためのものでもありました。」(井上ひさし「人間合格──再演にあたって」、『演劇ノート』(白水社、1997年)収録、初出1992年)。この「天皇陛下バンザイ!」という主張は1946年に発表された回想記『十五年間』(青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card1570.html)、2009年)の終盤に登場する。正確には当時仙台新聞に連載中だった長篇小説『パンドラの匣』の一節を引用した中に登場するのであって、小説中のキャラクターの主張が作家本人の主張とイコールとは限らないが、あえて回想記のラストにこの箇所を引用したことと『十五年間』全編に横溢する一種の潔癖さからいって、「闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔が出来ません。(中略)日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒してみたって、それはもう自由思想ではない。それこそ真空管の中の鳩である。真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。」という台詞は太宰本人の思いであると見ていいだろう。

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『ムサシ』(3)-3(注・ネタバレしてます)

2016-11-14 00:54:28 | ムサシ
ここでまた蒸し返すのだが、自己本位の生き方をやめて他人のために働こうとすることと、剣客として生きることとは並び立たないものだろうか。
武蔵と小次郎、日本一を競いあうほどの剣の技量の持ち主がその腕を腐らせるのはいかにももったいない。むしろその腕を弱い人々のために用いることの方が、慣れない農作業よりもよほど人の役に立てるのではないか。たとえば人々の生活と命を脅かす無道な盗賊を叩き斬るとか。
つまりは〈一人を殺すことによって万人を救う〉、柳生新陰流の活人剣の思想である。

(3)-2で述べたように、彼らはもともと剣を持つ者はその腕を弱い者のために役立てるべきだという思想を持っていた。二人に責められた宗矩は「目の前の事実を振りかざして膝詰めでこられると、ちょっと弱いのです。つまり、「争いごと無用」は、いわば追い求めるべき理想であって、天下万民の法としてはまだ完成の途上にあるのでな・・・・・・」と尻すぼみにならざるを得なかった。
その宗矩が、乙女が「恨みを断ち切っ」て父親の仇討ちを放棄した後に、沢庵の話を受ける形で「争いごと無用」の唯一の例外として「一人を殺すことで万人が救われるときは、殺すのが正義としている」と活人剣について説明する。

この「一人を殺すことで万人が救われる」ことを正義とする思想は、『イーハトーボの劇列車』(初演1980年)にもキャラクターの台詞のうちに登場してくる。
「ぼくはこれでも三菱商事の切れ者で通っているんだ。来月からは満鉄へ出向することにもなっている。ここだけの話だけれども、関東軍の石原莞爾作戦主任参謀と組んで満州に一大ユートピアをつくろうというわけだ。ちかぢか満州はわが帝国の手引きで独立するんじゃないかな。(中略)立正護国会の指導者のあの井上日召も、それからいま、陸軍の青年将校たちに圧倒的な人気のある北一輝という思想家も、ともに日蓮宗なんだ。(中略)両先生は、「いま、国は、財閥や政府高官のよこしまな私利私欲によって、誤った方向へ流されつつある」という答をお出しになっている。さて、この誤りを、どう正すのか。両先生曰く、「それは法剣によってのみ可能である」。わかるかい、法の剣だぜ。仏法の剣によって私利私欲をむさぼる奴等を倒す。一殺多生。一個の悪を殺して大勢を生かす」(※20)
日蓮宗の僧侶だった井上日召は「血盟団」を結成し、「一殺多生」「一人一殺」を唱えて〈私利私欲のために国と民を軽んじる極悪人〉と見なした政財界の要人たちの連続暗殺(血盟団事件)を企てた人物である。北一輝は国家社会主義(社会主義と国家主義の両面を併せ持つ)的思想家で、「昭和維新」「尊皇討奸」を掲げて二・二六事件を起こした将校たちの思想的基盤となった人物。つまり両者ともテロリストの思想的主導者といってよい。
そして日蓮宗の一派である国柱会(宮沢賢治も会員だった)に所属していた石原莞爾は台詞のとおりに「満州に一大ユートピア」、王道楽土を建設すべく満州事変を引き起こした。
彼らは─少なくともその思想を奉じて実際に「一殺」を実行した末端の人間の多くは、本気で自分は世直しのため正義の剣を振るっているのだと信じていただろう。しかしそれは視点を替えれば狂信に基づく殺人であり侵略行為となる。「一殺多生」の理念は容易にテロリズムに結びついてしまうのだ(※Ⅰ)

ならば視点を替えることで善悪の立場がひっくり返る可能性のある案件は避け、上であげたような無道な盗賊の退治、乙女のように親を闇討ちされた非力な女性の仇討ちへの助力など、国や時代を問わず万人が善と見做すようなケースにおいてのみ「一殺多生」を認めるべきか。
ただこれだって完全な加害者と思われた側にも相応の事情があるかもしれず、完全な被害者と思われた側にも恨まれる理由があったり、被害の申し立てに誤解や虚偽があったりするかもしれない。
実際乙女の話は全くの嘘だった。正義の剣を振るったつもりで、かえって悪を助ける可能性もあるわけである。

だからこそ柳生新陰流では「活人剣をふるうときは、まず己れの心の中にある三つの毒を殺す」という制約を設けることで、「一殺多生」が濫用されることを避けようとしている(これは実際には(2)の※24で書いたように柳生新陰流の教えというわけではないようだが)。
三毒のうちには「愚かなこと」も含まれているから、〈被害者〉の虚偽の訴えに動かされるような愚か者は理屈からいけばここではねられるわけである。武蔵などお通たち彼を慕う女を受け入れなかったから愚かだと、ごくプライベートな問題を三毒を断ってない証拠として小次郎にあげつらわれていたのは※13で述べたとおりだ。
しかし本当に〈三毒を殺した〉かどうかを客観的に判断するすべはなく、結局は活人剣を振るおうとする者たちの自己申告に委ねられるというのでは何の抑止力にもなるまい。
己の内の三毒を殺さない限り正義の剣といえど振るってはダメだと言われて素直に三毒を殺すべく禅病─ノイローゼになるまで思い詰めるような人間がいたなら、その人物はその時点ですでに十分聖人君子=剣を抜く資格があると思うが、ノイローゼにかかった彼らには本来の目的だった正義の剣をふるうことはもはや叶うまい。
皮肉にも真面目に三毒を断とうとした人間ほど刀を抜けず、端から自分の正義を信じて疑わない(内なる三毒の存在を自覚していない)、あるいは正義を信じているふりして私欲のために乱を起こそうとする人間は変わらずテロに走るわけである。
ならばもう刀を抜くことを法で制限するか、活人剣の思想を幼時から徹底的に刷り込むか(要はマインドコントロール)、いっそのこと刀自体取り上げるかした方が有効だろう。

(3)-1で書いたように『ムサシ』には日本国憲法第九条の精神が読み込まれている。
「ここに父親を騙し討ちにされた女がいる」「困っている人に、ささやかにであっても手をかす。それが剣を持つ者のつとめでないか」に先立って武蔵と小次郎が口にする「なぜ、武士に太刀を帯びることを許しておいでなのですか」「それはつまり、万一の場合には、抜いてもよいということではありませんか」という言葉はしたがって、〈日本には自衛隊があるのだから、有事の際には軍事行動を行ってもよい〉という主張に容易に変換しうる。
以降の武蔵と小次郎の主張も、『ムサシ』を語るうえでよく引き合いに出される9.11以降の世界情勢(※21)(※22)(※23)になぞらえるなら、〈同時多発テロによって国民を殺傷されたアメリカがその恨みを晴らそうとするのに、自衛隊が協力するのは武力を持つものの努めである〉という話になるだろう。暴虐なテロリストを叩き潰すのは国際的正義であり、まさに一殺多生、活人剣の趣旨に叶っていると。
そうしてアメリカが中心となって〈正義〉を実践した結果が※21~23の文章が指摘するところの「世界を覆う暴力の連鎖」「暴力的報復の連鎖」である。
「一殺多生」の理念はテロリストにもテロリストを討伐する側にも利用され、「憎しみの連鎖」を生み出してしまう、ゆえに否定されるべきだ、というのが『ムサシ』の意図するところである(ように見える)。
活人剣を振るうか否かが活人剣を使用しようとする者一人一人の良心、彼らが自ら三毒を断つことに委ねられるのに対し、現代日本においては自発的良心に代わって憲法第九条が活人剣を振るう上での抑止力となるわけだ。そうなると、〈困ってる人、苦しんでる人を見ないふりしなさいというのが日本国憲法ですか〉という話になるわけだが・・・。
(〈活人剣を振るうためにはまず己の三毒を斬る〉はさしずめ〈自衛隊が軍事行動を行うに際しては、隊員一人一人から防衛省長官、総理大臣に至るまで全員が、この派兵・この作戦行動が妥当かどうか心の奥底をとことん見つめ問い直す〉といったところか。そして全員ノイローゼに陥る・・・・・・国が崩壊するわな)

井上さんは、「まずテロリストたちを地球上から消すには、遠い道を行くようだが、アラーの神を信じる人びとに、イスラム世界といえど、その他の世界に背を向けては生きて行けないことを知ってもらうのが第一。これをその他の世界から云えば、彼らの暮らしを豊かにしてあげて、国際社会の中でみんなと一緒に生きることの愉快さを知らしめる努力をすること、それがなによりも大事だ。第二にアメリカにはその独歩主義を改めてもらうこと。平和ボケの理想論を云ってやがるという批判は甘んじて受けよう。しかし、この小さな水惑星の上では、おたがいに折り合いをつけていくしか生き方はないのだ。そのことを両者によく知ってもらいたい。」と書いている(※24)
本人もいうように甚だ迂遠な話であり、現に目の前で起きている殺戮にどう対処するというのか。これはあくまで武蔵と小次郎に責められて「「争いごと無用」は、いわば追い求めるべき理想であって、天下万民の法としてはまだ完成の途上にあるのでな・・・・・・」と小さくならざるを得なかった宗矩と同じ「追い求めるべき理想」の域であろう。
しかしいかに「平和ボケの理想論」と思えても、それを実現することでしか人類が生き延びる道がないのだとすると(自分たちさえよければ他の国は全部滅んでも構わないという立場を取るならまた別だろうが)、どれほど遠い道であろうとも歩いていくしかない。
そのためにはどうすればいいのか。そのための思考実験として、日本人にとって兵法家の代表であり、日本人の代表でもある(※5参照)武蔵にあの手この手を尽くして剣を捨てさせる顛末を描こうとしたのではないだろうか。
※15で引いたように製作発表記者会見の時点でさえ構想がまるでできていなかったにもかかわらず、武蔵と小次郎を「戦わせちゃだめだということだけはわかっていた」。
最初の企画から長い時間が経つ中で、井上さんの中でも書こうとする話の筋が二転三転したらしい(※25)のに、作品を通じて「戦わない武蔵」像を生み出すという一点はぶれることがなかった(※26)

井上さんが『ムサシ』に次いで書いた、結果的に遺作となった戯曲『組曲虐殺』は昭和初期に活躍したプロレタリア作家・小林多喜二を主人公とした物語である。
井上さんが、獄中で苛烈な拷問によって命を落とした多喜二にやはり労働運動の活動家で特高による拷問が原因で亡くなった父親を重ねていたことは、井上さん自身を含め方々で言及されている(※27)(※28)(※29)
この戯曲の中に、多喜二を捕らえにきた特高警察の二人組にピストルを向けた内妻・ふじ子を多喜二が諭す場面がある。
「ふじ子、ピストルはいけないよ。(中略)たがいの生命を大事にしない思想など、思想と呼ぶに価いしません。」「ぼくたち人間はだれでもみんな生まれながらにパンに対する権利を持っている。けれどもぼくたちが現にパンを持っていないのは、だれかがパンをくすねているからだ。それでは、そのくすねている連中の手口を、言葉の力ではっきりさせよう・・・・・・ぼくもきみも、そして心ある同志たちも、ただそれだけでがんばっているのじゃなかったか。ふじ子、ぼくの思想に、人殺し道具の出る幕はありません。」(※30)
特高警察に逮捕されようとしているのに、逮捕されれば今度こそ生きて戻れるかもわからないのに(事実獄死することとなった)、暴力で対抗することをせずあくまで言葉の力で戦おうとした。この多喜二の在り様を通して、武力を用いずに敵を消滅させる─敵対関係を解消して仲間とすることが可能かどうかを、井上さんは『ムサシ』につづく思考実験として描き出したのだと思う。
そして父を拷問して死に至らしめた特高警察は井上さんにとっては親の仇といっていい存在のはずだが、この作品に登場する特高二人、古橋と山本は決して悪人ではなくむしろ人情味ある人物として描き出されている。
年少で自らも小説を書く山本など、多喜二に感化されてその遺志を継ぐかのように全国交番巡査組合を作るための運動を起こすに至る。特高を〈いい人〉として描いた井上さんはこの時点で親の仇に対する恨みは捨てているのだ。
古橋が「このまま行くと、地獄へ行くことになるぞォー。」と叫ぶように山本の前途は実に危うい。おそらく彼の運動は実ることなく、今度は彼が投獄され獄死することになったかもしれない。しかし彼の志もまた誰かが(古橋が?)きっと引き継いでいく(※31)(※32)
武器を取らずして皆が豊かに共に生きられる世界を作る─理想の実現は甚だしく困難である。もとより十年二十年で叶うことではない、何百年かかっても達成できないかもしれない、それでも「あとにつづくものを 信じて走れ」(※19参照)。それが井上さん晩年のメッセージだったんじゃないだろうか。



※20-『イーハトーボの劇列車』(『井上ひさし全芝居 その三』、新潮社、1984年)

※Ⅰ-「東北は飢饉で、兵隊さんたちの故郷はひどい状態になっている。やっぱり資本家が悪い、財閥が悪いというので、昭和一けた代にはいろんなテロ、クーデターが起こりますが、その中には国柱会の会員が多いのです。つまり人が一人死ぬことによって、ほかの人が助かるというのが、国柱会の根本思想の一つです。暗殺事件は一殺多生というのを拡大解釈したものです。」(井上ひさし『講演 賢治の世界』、井上ひさし・こまつ座編著『宮澤賢治に聞く』(文春文庫、2002年))

※21-「フツーの人々のかけがえのない生を言祝ぐことが、恨みの鎖につながれた者の決闘を阻むのだとしたら、『ムサシ』は戦争小説『宮本武蔵』を深くくぐりぬけ集団の戦いのみならず個人の戦い、その精神主義的な戦いの境地(「精神の剣」)までも不可能ならしめた。 恨みと恨みが連鎖し、暴力と暴力とが連鎖して、九・一一事件以後、アフガン戦争、イラク戦争をへたのちも、各地でつづく「新しい戦争」。 この忌まわしい時代に、『ムサシ』は、おなじみの時代ものをステージとして「日本人」の薄暗い伝統にまでさかのぼり、「戦さと恨みの鎖」を断つ亡霊たちの生の賛歌と「ありがとう」の言葉を響かせた。『ムサシ』はいままでにない、そして、いまこそ求められる戦争時代ものの傑作といってよい。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)

※22-「現に世界を覆う暴力の連鎖が、ニューヨークの9・11に始まりました。そこから始まったブッシュの復讐、これは復讐ですから、戦争ですらないのです。戦争ならば、戦時国際法、国際人道法 humanitarian lawをお互いに、厳密に守ったことは今まで例がないにしても、とにかく守ろうとしなければいけません。しかしビン・ラーディンの殺害に、アメリカの善良な市民たちが一斉に喝采しました。これは、9・11のときに、パレスチナやアラブの諸国で人々が喝采したのと同じことを、一〇年後のアメリカの善良な市民たちがしているということです。そういうふうに現に世界を覆い続けている暴力の連鎖を、どうやって止められるか。いや、止めなくてはいけないということが『ムサシ』の主題です。これは憲法で言えば、もちろん第九条の問題です。」(樋口陽一「ある劇作家・小説作家と共に〈憲法〉を考える─井上ひさし『吉里吉里人』から『ムサシ』まで─」(井上ひさし・樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』(岩波現代文庫、2014年)収録、初出2013年)

※23-「「ムサシ」が登場するのは、9・11以後「新しい戦争」という暴力的報復の連鎖が世界にひろがり、憲法第九条を「改正」し戦争のできる国家へと押しあげようとする勢力が跳梁する時代である。これはまぎれもなく「現在」の状況だが、ただ「現在」(ママ)おいてのみあらわれた状況ではなく、「決闘好き」「戦好き」「武力での決着好き」としてずっと「日本人」に保持されてきた傾向でもあり、戦後は「日本人」の薄暗い領域で保持されてきた傾向の顕在化といってよい。 井上ひさしは、そんな「日本人」の「決闘好き」「戦好き」を象徴する人物として武人宮本武蔵をとりだし、宮本武蔵から刀と戦をすてさせようと試みたのである。」(高橋敏夫「「日本人」を永く深くとらえる薄暗い領域へ─「ムサシ」、報復の鎖を断つ反暴力の物語」『国文学 解釈と鑑賞957 特集 井上ひさしと世界』(至文堂、2011年2月号)

※24-「あてになる国のつくり方 二」(井上ひさし・生活者大学校講師陣『あてになる国のつくり方 フツー人の誇りと責任』(光文社文庫、2008年)収録。初出は『オール讀物』二〇〇一年十一月号)。なお同書籍収録のコラムと締めの文章を見るかぎり、井上さんは(思想的立場からいって不思議ではないが)同時多発テロでアメリカが受けた打撃について大分冷やかです。(「胸の内では、「一晩で市民を十万人も焼死させ(東京下町大空襲)、一瞬のうちに九万人(ヒロシマ)、七万人(ナガサキ)を生きながら焦熱地獄に突き落としておきながら、なにをバタバタ騒いでいるのだろう。原爆死没者は今年の八月で三十六万人にも達して、来年もまた原爆死没者が数千をかぞえるはず。つまりあの二発の原子爆弾はいまも静かに爆発を続けている。けれども、日本人はあなた方のそういう非人道的行為に報復しようとしただろうか。報復など考えずに、二度とそういうことが起こらないようにただただ静かに祈り続けている。少しは日本人を見習ったらどうか。思うに米国人は、『こんなひどいことが米国で起こってはならない。米国以外の国で起こるのはちっとも構わないが・・・・・・』と金切り声をあげているようにも見えるが、ちょっと手前勝手ではないのか」と切なく叫んでいるのですが、これを云ってはおしまいです。なによりも三千余人の犠牲者の方々に申しわけがないし、だいたいが人間にとってなによりも大切な生存権を侵すような手段にはぜったいに賛成できない。(中略)ちなみに、米軍の誤爆でアフガニスタンの市民が何人犠牲になったか、それをマーク・ヘロルド教授(米ニューハンプシャー大)が試算していて、その報告書によれば昨年十二月六日の時点で、少なくとも三千七百六十七人が誤爆で亡くなっているということです。」(「あてになる国のつくり方 一」(初出は『オール讀物』二〇〇二年十月号)、「アメリカは今、ミサイル防衛システムの早期配備構想を打ち出しています。そういうこともあって、国連人権委員会は、アメリカをならず者国家というふうに判断しています。ですから、二〇〇一年の五月三日に開かれた国連人権委員会では、強大国のアメリカが人権委員会に選ばれていません。「ならず者国家は、国連人権委員会に入る資格はない」という思い切った決定をして、アメリカを人権委員会から外したのですね。国連分担金の払いも悪い。わたしはそういう状況をみて、アメリカというのは悪い国だと言ってきました。そういう折りも折りの、九月十一日です。 日本の過去にさかのぼっても、五七年前の三月十日の東京下町大空襲では、一晩で一〇万人もの一般人が焼き殺されています。(中略)それから、八月六日の広島、八月九日の長崎への原爆投下です。その日のうちに広島で九万人、長崎で七万人の方が殺されています。同時多発テロをはるかに上回る同じ人間が殺されています。わたしはこのことを忘れていません。やはり驕りたかぶった国というのは罰を受ける。」(「終章 競争か、共生か」)

※25-「次は剣豪の宮本武蔵をやります。以前からやりたかった題材です。武蔵と言うと吉川英治さんの名作のイメージが強いですが、私のは少し違う方向になる予定です。焦点は剣が強い、弱いじゃなくて、隠居した武蔵の穏やかな日々の暮しの中で剣の道の思想を描こうと構想していることころ(ママ)です。」(「アーティストインタビュー 世界8カ国語に翻訳された『父と暮せば』に込める国民作家・井上ひさしの平和への祈り」、http://performingarts.jp/J/art_interview/0710/1.html、2007年)。・・・まあ、『ムサシ』でも決闘三昧の時代を卒業しているという意味で隠居してると言えば言えるか。

※26-「(ミュージカルの『ムサシ』について)この計画は頓挫しているのかに見えたが、二〇〇一年になってからもひさしは「また続けてやります」と話している。ひさしがなぜ「ムサシ」(この主人公はもちろん宮本武蔵である)にこだわるかといえば、どうしたら人間は闘わないですませられるか、というひさしがこれまで延々と考えてきたテーマとまさに通底するものがあるからである。(中略)「剣豪の盛りは三十代前半までといわれています。野球選手でも同じで、どんなすぐれた選手でもいつか若い選手にやられてしまうのです。剣豪は、自らの盛りを過ぎたときから、どうしたら試合をしないですませられるかを考えるようになります。 アメリカで武蔵がなぜ売れたのかということを分析してみると、デカルト風の二者択一の分析主義に手詰まりが生じてきたからなんですね。二十一世紀を考える上で、強いものがいつも強いわけではない、それを上回るものが出てきてひどくやられることもあるだろう。それならば、どうしたら闘わないでコトを収めることができるのか、ということです。今年一杯でもう一度検討し直してみるつもりです」」(桐原良光『井上ひさし伝』、白水社、2001年。カギカッコ内は井上さんの発言)

※27-「小林多喜二と、井上さんが四歳のときに亡くなったお父さんがまったく同世代だったということです。井上さんにとって小林多喜二の死は、父・井上修吉の死と同列のものとして受け止められていたんですね。井上修吉は左翼運動にかかわり、前後三回、検挙され、最後は背中を拷問されて脊髄をやられて死んでしまう。(中略)二人は「戦旗」の読者であるばかりでなく、シンパとして配布もしていた。そしてまた、井上修吉は投稿者でもあったということを初めて知りました。それまで小林多喜二・井上修吉・井上ひさしという三者のフォーカスがうまく結ばなかったのですが、その話を聞いて、ピシャッと結びついたことに、一瞬言葉をなくしました。」(今村忠純+島村輝+成田龍二+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学① 言葉に託された歴史感覚」、『すばる 5月号』(集英社、2011年)より今村発言)

※28-「井上ひさしの父・井上修吉氏は、最初に書いたように小林多喜二と同時代に、小説投稿者として何度か入選した人で、特高警察に拷問されて、それが原因で亡くなったそうです。井上は、父の志を受け継いで作家になったと言います。(中略)『組曲虐殺』には、井上ひさしの“父の志と、小林多喜二の仕事を、次の時代に受け渡したい”という想いが、あふれんばかりに詰まっています。」(小田島雄志『井上ひさしの劇ことば』(新日本出版社、2014年)

※29-「小林多喜二には、井上ひさしが幼少のころ亡くなった父、小説を書き戯曲を書きそして青年共産同盟の活動家であった井上修吉がかさねられていること。これは同時期に書き継がれていた未完の長篇小説『一週間』(死後刊行、二〇一〇)の主人公小松修吉からも、明らかである。井上ひさしみずから『組曲虐殺』を「父への鎮魂歌」と語っていたという(NHK教育テレビ「ETV特集 井上ひさしさんが残したメッセージ」)。」「小林多喜二と同世代の左翼活動家で、小説や戯曲も書いた井上修吉、そして多喜二と同じく拷問をうけ、じわじわと「虐殺」されていった修吉、「働く者が主人公の世の中が必ず実現する。そうかたく信じていた」修吉。この井上修吉が、『組曲虐殺』の多喜二にかさねられていたのはたしかだろう。」(高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)

※30-『組曲虐殺』(『井上ひさし全芝居 その七』、新潮社、2010年)

※31-「最後の「ヤーマーモートー! このまま行くと、地獄へ行くことになるぞォー」という呼びかけがあります。地獄だけれども、そこに向かってあえて進んで行く人たちが存在したこと、そのことを考えさせる芝居として、井上さんの『組曲虐殺』はあると思うのです。」(今村忠純+島村輝+成田龍二+小森陽一「座談会 井上ひさしの文学① 言葉に託された歴史感覚」、『すばる 5月号』(集英社、2011年)より成田発言)

※32-「考えてみれば、社会変革の希望は多喜二にだけあったのではない。人々がそれぞれの苦しい体験のなかでそだてながらも、はっきりとした言葉にできなかった希望を、多喜二が言葉にかえたのである。そして、絶望におちこもうとする多喜二をふたたび、みたび、希望へとさしむけたのはそんな人々の思いだった。人々のやむにやまれぬ希望は、多喜二に受け渡され、そしてつよい言葉によってきたえあげられた希望は、多喜二から人々へと受け渡される。そんな受け渡しの具体的なあらわれが、「九 唄にはさまれたエピローグ」での、山本と古橋の叫びとなった。(中略)二人の二つの絶叫は、多喜二から受け渡された、絶望をくぐりなお捨てない希望の炸裂である。多喜二と接することで、特高もそれぞれのやり方で変化した。」



11/14追記-(2)-7に※34を追加しました。

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『ムサシ』(3)-2(注・ネタバレしてます)

2016-11-06 23:50:17 | ムサシ
・・・などと願望を書きつらねてみたが、実際には二人は別々の道を行き、どうやら剣術自体を封印してしまった。そのきっかけはもちろん幽霊たちに懇願されて刀を収めたことにあるわけだが、そもそもなぜここで彼らは刀を引いたのだろうか。
(2)の※8で引いたように『ムサシ』は「成仏できないで迷っている誰かの言うことを聞いてあげたら、その誰かは成仏でき」るという能の基本形式を根本に持っている。
『井上ひさしと能の関係』は〈生死の境に命の高鳴りを見出すような剣客に正面から人が人を殺すのは許されるかを問いかけても相手は面食らうだけ、その点夢幻能には源平合戦で戦死した武将の亡霊が修羅道に落ちた苦しみを語り回向を頼む「修羅物」というジャンルがある〉と書く(※9)。『ムサシ』が修羅能の形式を取り入れているのは「最上は、井上ひさしの新作」も指摘するところだ(※10)
つまり修羅道に落ちた亡霊たちがその苦しみを語り救済を求めるという話型を井上さんが利用して、武蔵と小次郎がこのまま行けば我が身に降りかかるはずの修羅道の苦しみに思いを致して生き方を改めた、刀を捨てたという筋を作ったと示唆しているわけだが、『ムサシ』に登場する幽霊たちに武士は一人もいない。
偽宗矩の一族は関ヶ原で戦死しているものの、流れ弾にあたって早々に命を落としたという説明からすれば彼ら自身は一人も殺してはいないはずだ。戦場とは無縁の場所で死んだ沢庵、まい、乙女は言うまでもなく、この幽霊たちのうち一人でも修羅道に落ちたものはいないだろう。
成仏できずに苦しんでいるには違いないが、それは当人たちの言う通り、自分の命を軽く扱い、下らないと言っていい死に方をしたために成仏できないのである。
そんな彼らの〈命を大切に〉というメッセージが、周囲には命を無駄にしていると見えても当人視点では命ぎりぎりのところで限りなく充実した生を噛みしめている、ある意味極めて〈命を大切に〉使っている武蔵や小次郎の心を動かすものだろうか?そして修羅能の形式を利用しつつあえてずらしてみせた井上さんの意図したところは何なのか。

おそらく二人は幽霊たちの語るメッセージに胸を打たれたわけではないのだ。(2)-7でも書いたが、はっきり言ってしまえば「成仏を~成仏を~」と懇願する彼らの泣き落としに負けた。死力を尽くして最高のライバルと戦いたいという自分たちの欲望を(小次郎などは六年越しの悲願を)、幽霊たちの願いを叶えてやるために諦めた。
自分たちの都合(成仏)のために他人の命がけの悲願を邪魔したのだからエゴイズム丸出しだが、武蔵も小次郎も〈聞いてやる義理はない〉と突っぱねたりはしなかった。苦しみを訴える幽霊たちを見捨ててライバルと戦いたいという望みを果たすこともまたエゴイズムであるからだ。
(2)-4でちょっと触れた武蔵の求道的生き方の問題点の二つ目がこれである。日々の生活の中で自身を鍛えるのも剣術のみならず茶の湯や仏像彫りや水墨画を究めたのもみんな〈己の人格を磨き上げて全き人間となるため〉。武蔵の脳裏にあるのは常に自分を鍛えること、自分のことだけなのだ。
寺の作事など本来なら至って利他的な行動だと思うのだが、おそらくそれも武蔵にとっては己を鍛える一環として行ったに過ぎないだろう。他人のために何かをしようという視点が武蔵には見事に欠けているのである。

そして武蔵もそのことにまんざら無自覚ではなかった。旅立ちに際し、これからどうするのかと問われて「北の方のどこか、山間の荒地に鍬でも打ち込もうか」と答えた武蔵は「もう三十五だ、そろそろ人の役に立つようなことも考えないとな」と続ける。
自己完結した世界から出て他人、それも権力者などではない普通の人々のために何かをするべきではないのか。いつからか武蔵の中にそうした思いが生まれはじめていた。その思い─求道者としては迷い─が心の底にわだかまっていたからこそ、自分のエゴと他人のエゴがぶつかった時に自分の方が引いたのではないか。
その瞬間、武蔵はもはや「剣を唯一の友として己れの人格を築き上げて行く」自己本位の世界に留まることができなくなってしまった。結果、武蔵はこれまでの求道者としての生き方を、ひいては剣術を捨てざるを得なくなったのではなかったか。

井上さんはエッセイで、少年時代一時期カトリックの孤児院で過ごしたさいに洗礼を受けようと思ったのは聖書やキリストを信じたからではなく、泥まみれになりながら孤児たちのために尽くす神父や修道士を信じたからであり、その後上京して出会った大都会の聖職者の学者然とした在り方と清潔な手に失望したことをたびたび述べている(※11)
己を高めるべく日々研鑽を積むことよりも、その時間と労力を他人、弱者や市井の人々のために捧げることこそ尊い。自身の経験を通じて井上さんは切にそう感じていたのではないか。
それは『泣き虫なまいき石川啄木』(初演1986年)でキャラクターの一人に「ほんたうにアチラのお坊さまは大したものよねえ。見ず知らずの国へやつてきなさつて、見ず知らずの人たちのために親身になつて尽しておいでだもの。そこへ行くと日本のお坊さまは何を考へてござるのやら。やれ悟つたたの、やれこの世は無常だだのと、わけのわからないことを云つて乙に澄してゐるだけでせうが」という台詞を言わせていることからも察せられる(※12)
「人を殺して築き上げた人格などというものには三文の値打ちも」ないという理由ばかりでなく、他人を自分の生活から締め出して自己本位に生きていることにおいても武蔵は批判されているのだ。(※13)
井上さんによれば、史実の武蔵は最晩年、剣一筋だった自身の生き方を間違いだったと感じていたという(※14)。武蔵は刀を捨てることを通して自己本位の生き方をも捨てて他人のために生きることを選んだ。
そして武蔵(と小次郎)を相手に泣き落としを武器に自分のエゴを押し通すのは、ドラマティックな死を遂げた英雄ではなく平凡かつしょうもない死に方をした普通の人間(井上さん流に書くと「フツー人」)の亡霊であってこそできることだった。修羅能の型を用いつつ、幽霊たちを武士でなく庶民にしたのはそのためだろう(※15)
人は他人のために、他人との関係性の中で生きるべき──これが、〈現代日本人は平和憲法を遵守して(刀を捨てて)生きていくべき〉と並ぶ『ムサシ』のテーマだったのではないだろうか。


そして修羅能の形式をあえてずらして見せたのにはもう一つ理由があったと思われる。
引っかかってるのは「こんどこそは、うらめしやなんて古くさいやり方でなく」「このまことを、生きている方々のお好きなお芝居仕立てにくるみ込み」「一生懸命、相勤めましたー」という、乙女をはじめとする幽霊たちの言葉だ。
これまでは「まこと」─ただ〈生きている〉ということがどれほど素晴らしいことか─をごくストレートなやり方で伝えようとしてきたが、今回彼女らはそのような「古くさいやり方」はやめて「お芝居仕立て」で、手を替え品を替え武蔵と小次郎に戦いを放棄させようと謀った。しかし結果はどうだったか。
彼女たちの筋書きはことごとく不発に終わり、「皇位継承順位第十八位」でやっと小次郎を引っかけたものの武蔵にあっさりからくりを見抜かれてしまった。結局二人に刀を引かせたのは戦いをやめることで自分たちを成仏させてくれという哀訴─彼女らがいったんは拒絶したはずのどストレートな「古くさいやり方」だったのだ。
武蔵に結界を破られたために予定していた「総仕上げ」が使えなくなった節はあるものの、最終的には一切の計略を捨てて真っ正面から窮状を訴え懇願したことで彼女らは長年の悲願を叶えることができた。
変に小細工などせず、まっすぐ正直に相手にぶつかっていってこそ思いは届く、という教訓なのだろうか。しかしそれでは、物語を通してより鮮明にメッセージを伝えることを旨とする(※16)」作家として、敗北宣言に等しいではないか。
「虚構は現実を救うというのは、わたしのたった一つの主題(※17)と書いていた井上さんが晩年に至って辿りついた結論がそれだとは、「今年書いた『ムサシ』も『組曲虐殺』も、よい出来だった。この二つが最後なら満足だよ。」(※18)と語っていたほどの作品(※19)に秘められたものが〈作り物の無力さ〉だったとは考えたくない。

そこで思い出されるのが(2)-6で書いた、まいが武蔵の仕掛けた罠にあっさり嵌まったことへの疑問である。
幽霊になる前も白拍子だった、台詞を覚えるのは大得意であろうまいが少し前に口にしたばかりの台詞を本当に忘れるものなのか?実は彼女はわざと罠に嵌まってみせたのではないか。
武蔵が小次郎が貴種だと信じて、あるいは信じずとも小次郎の方に戦意がなくなった以上もはや戦いは無意味と決闘を諦めてくれればそれでよし、しかし乙女の筋書きを見破ったうえでそれを引っくり返してなおも小次郎と戦おうとするようなら、その次の計画を発動させる。その計画が彼女たちの最終行動─幽霊の正体を明らかにしての泣き落としだったのではないか。
沢庵はたまたま結界が破られたために沢庵たちに化けていられなくなり本性をさらすしかなかったように説明しているが、これは正体を明かしたうえでの〈説得〉に移行するための名目に過ぎなかったのだとすれば、「大界外相」の石─寺本来の結界が破れるとなぜ偽沢庵による結界まで破れるのかの疑問も説明がつく。
幽霊による結界が破れたというのは自然な形で正体を明かすための嘘で、小次郎がこの地に足を踏み入れた時からラスト、成仏した幽霊たちが去ってゆくまで結界は健在のままだった(大界外相の石による寺本来の結界は最初から幽霊たちには無効だった)のだ。
となれば結界が破れたために「総仕上げ」のプランが台無しになったというのも当たらない。むしろ結界が破れたことにして本来の(幽霊の)姿に戻って泣き落としにかかるというのが「総仕上げ」のプランだったのではないのか。
そう考えると修羅能の形式を用いながら、幽霊たちをあえて武士や戦没者にしなかったのも納得できる。幽霊の正体を明かした後の彼らは修羅能、「修羅道に落ちた亡霊たちがその苦しみを語り救済を求めるという話型」を演じているのだ。

あの泣き落としは芝居を放棄した結果ではなく、芝居は依然として続いていた。小次郎の名誉欲に弱い性格を見抜いて出自に関する詐欺を仕掛けたように、自己完結してるがゆえに世俗的な欲では動かせない、けれどそうした〈自己完結している自分〉の在り方に疑問を抱きつつあった武蔵の心を乙女たちは見事に突いてきた。
乙女の仇討ち騒ぎの時に「ここに父親を騙し討ちにされた女がいる。それを見ないふりしなさいというのが、柳生新陰流ですか」と〈苦しんでいる人、弱い者を見捨てるべきではない〉という考えを武蔵は口にしている。これは武蔵の心が自己完結した世界から外の人間に向かいはじめていた証拠であろう。
小次郎もまた「困っている人に、ささやかにであっても手をかす。それが剣を持つ者のつとめでないか」と武蔵と同意見だった。
困っている人を放っておけない、放っておいてはいけない。そう言い切った彼らであれば「剣を持つ者」の誇りにかけて、成仏を願いすがりつく自分たちを無視することはできない。そう踏んでの最後の大芝居によってついに彼女たちは本願を達したのである。



">※9-「剣客とは「どっちが上か,おのれか,それとも相手か…ただそれだけをたしかめようと,二つとない命をすてたがる者」(井上2010: 583)である。剣客は試合で相手と向き合うと一瞬のうちに身体が動いて刀を抜き,武蔵に言わせると 「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り」(井上2010:582)を味わいたくて「五分と五分との 命のやりとり」(井上2010:614)を続けている。 己が倒すか倒されるかは結果でしかない。このような剣客に向かって,人が人を殺すのは許されるのかと真正面から問うても当人は面食らうだけあろう(ママ)。 剣客に自らの意志で剣を抜かないことを選択させるには何か特別な手法がいる。その点,夢幻能には源平合戦で戦死した武将の亡霊が人間界にあらわれて 修羅道に堕ちた苦しみを語り,回向を頼むという内容の「修羅物」というジャンルがある。内乱が続く中世日本で生まれた能では殺生を生業とする武芸者の生と死は重要な関心事の一つなので,井上も注目したであろう。『ムサシ』では亡霊たちが武蔵と小次郎の前にあらわれ,人を殺すなと必死で伝えるだけでなく謡や舞まで演じて,一見,夢幻能に倣って書かれているように見える理由はここにある。」(坂本麻実子『井上ひさしと能の関係 -『ムサシ』の演能から読み解く-』(https://toyama.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=938&item_no=1&page_id=32&block_id=36)
※10-「例えば三修羅と呼ばれ広く知られる重い曲も思い出せる。戦い明け暮れた罪によって死後は修羅道に堕ちて苦しむというそれらに代表される修羅物のパターンが「ムサシ」にも活かされていた。」「(まいと乙女が演じる舞狂言「蛸」は)能の修羅物に通じており、またこの場面からは老女が月明りに舞う「姥捨」も想起することができるはずである。「ムサシ」という劇の仕掛けがあらかじめ舞狂言「蛸」に準備されていたことは、井上ひさし自身の解説がある。」(今村忠純「最上は、井上ひさしの新作」、『悲劇喜劇』、2010年3月号)。ちなみに「井上ひさし自身の解説がある」とは「『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」のことだろう((2)の※8参照)。


※11-「わたしが信じたのは、遥かな東方の異郷へやって来て、孤児たちの夕餉を少しでも豊かにしようと、荒地を耕し人糞を撒き、手を汚し爪の先に土と糞をこびりつかせ、野菜を作る外国の師父たちであり、母国の修道会本部から修道服を新調するようにと送られてくる羅紗の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは、手垢と脂汗と摩擦でてかてかに光り、継ぎの当った修道服で通した修道士たちだった。(中略)三年後、わたしは大学に入るために、これらの師父たちに別れを告げ、大都会へ旅立ったが、大都会の聖職者たちはわたしを微かに失望させた。聖職者たちは高級な学問でポケットをふくらませ、とっかえひっかえそれらを〓(掴)み出し、魔術師よろしく、あの説とこの説をつなぎ合せたり、甲論と乙論をかけ合せたりして、天主の存在を証明する公理を立ちどころに十も二十もひねりだしてくれたが、その手は気味の悪いほど白く清潔で、それがわたしをすこしずつ白けさせ、そのうちにわたしはキリスト教団の脱走兵になってしまっていた。」「大都会の聖職者たちは学問をする宗教者、あるいは布教をする宗教者のように身受けられたが、あの師父たちは生活をする宗教者、一挙一動が愛の実践だったように思われる。」(「道元の洗面」、井上ひさし『さまざまな自画像』、中公文庫、1982年)

※12-『泣き虫なまいき石川啄木』(『井上ひさし全芝居 その4』、新潮社、1994年)

※13-『ロンドン・NYバージョン』では削られたが、戯曲には武蔵がお通をはじめお甲・朱實・吉野太夫ら彼に想いを寄せた女性を拒んだことを小次郎が「愚かな冷血漢」と詰る場面がある。

※14-「武蔵には剣の限界がわかっていたと思います。剣で得た人間観や世界観を、政治に生かしたかった。だから法典ヶ原を開拓した。(中略)最晩年の武蔵は、「自分は骨皮髄まで兵法の病にかかっていた」と言っています。敵に勝とうとか、強くなろうという病気にかかっていた。わたしの人生は虚しい燃焼だった。これが武蔵自身による生涯の総括です。 「真の兵法の病に成申候」 とても深い言葉です。百姓の子から太閤関白にまでなった秀吉を目の前に見ていた武蔵が、その出世に憧れて修行に修行を重ねて、人生の終局で、自分の生き方が間違いであったと総括する。 昭和の日本の歴史がそっくり、宮本武蔵という一人の人間の中に入っているような感慨を覚えます。」(「井上ひさし「武蔵が悔いた兵法の病」、『東京人 no264』、都市出版、2009年)、「(柳生宗矩はじめ名だたる剣客が剣を抜くことをできるだけ避けようとしているなかで)宮本武蔵の『五輪書』はいささか異色である。そこにはどうしたら敵を倒せるか、そのときの構え、目の付けどころ、足の運び、呼吸の仕方、刀の振り下ろし方、決闘の場からの立ち去り方などが克明に、それこそ微に入り細にわたって書いてある。 だが、その武蔵にしても、生涯最後の手紙に〈真の兵法の病になり申し候〉、つまりわたしの一生は剣術病にかかっていたようなものだと書いているのには胸を打たれた。」(井上ひさし「無刀流について」、『ふふふふ』、講談社文庫、2013年)。ちなみにこの武蔵最後の手紙は、武蔵の死後に二天一流を学んだ豊田景英が祖父・正剛、父・正修の残した資料を元に著した武蔵の伝記『二天記』(『二刀一流剣道秘要』(武徳誌発行所、1909年)収録)で読むことができる。個人的には本気で自分の生き方を後悔してるのではなく、〈オレってバカだよなあ〉と自嘲しつつもまんざら悪い人生じゃなかったと思っているようなニュアンスを受けました。

※15-井上さんは二人の勝負を止めるのを亡霊にした理由を、「宮沢賢治みたいに「つまらないからやめなさい」という説得では武蔵も小次郎も耳を傾けようとしないでしょうし、だいたい観客席が納得しない。もっと違うレベルで戦いをやめさせないといけないと考えていた時に、ああ、これは亡霊に説得させるしかないなと思いました。すばらしいことに、亡霊役にぴったりの大女優にして怪女優の白石加代子さんもおいでになる(笑)。それで、成仏できない亡霊たちが、再決闘しようとする二人を止めるという筋書きになりました。」「ユンケルの箱でつくった三角錐に役者さんの顔写真を貼った紙人形を、毎日、朝から晩まで眺めて、ああでもない、こうでもないとやっているうちに、自然に、ああ、決闘を止めるには超自然の力でないとダメだなとアイデアが出てくるわけです。」と語っている(「インタビュー 井上ひさし『ムサシ』─憎しみの連鎖を断ち切って」、『すばる』、2009年6月号)。制作発表記者会見の段階ではまだ構想がまるでできてなかった(「戦わせちゃだめだということだけはわかっていた」)とも話していて、昔〈テーマより趣向がまず大事〉だと書いていた井上さんですが、その趣向(亡霊が決闘の止め役を努める)が記者会見の時点でまだ決まってなかったというのに驚きます。

※16-『キネマの天地』(初演1986年)に「お題目をただ正面から堂々と、そして素直に云っただけではだれも感動しないのだよ。そのお題目をひとの心に刻みつけ、ひとを感動させるには、心中物語というウソッパチを仕掛けなきゃならない。」という映画監督の言葉が出てくる。これは井上さん自身の思いでもあると見てよかろう。

※17-井上ひさし「「時間」は作者」(『ふふふふ』、講談社文庫、2013年)

※18-井上ユリ「夫の肺がん173日闘病記「ひさしさんが遺したことば」(『文藝春秋』2010年7月号)

※19-「死を覚悟した井上ひさしが、『ムサシ』と『組曲虐殺』という戯曲をならべて、「この二つが最後なら満足」と語るのは、いったいなぜか。 『ムサシ』と『組曲虐殺』には、井上ひさしの作品に最初期からずっと見え隠れしていた「希望」が─社会と人間関係の現況に苦しみ絶望する者の、その絶望ゆえに新たな社会と人間関係の変更をねがう「希望」が、あざやかにあらわれているからだと、わたしは思う。 しかも「希望」はここで、一人の「希望」から、つぎの人へ、つぎの多くの人々へと手渡される「希望」へと転じている。 『ムサシ』では、フツーの亡霊たちの「生きたい」という「希望」が、「戦う」ことを捨てフツーの人にもどった武蔵と小次郎に手渡される。『組曲虐殺』でそれは、わずか五カ月後に「虐殺」という悲劇的な死をむかえる小林多喜二が歌う「信じて走れ」に、はっきりとよみこまれている。(中略)井上ひさしは、厖大な数の歌をつくったが、「あとにつづくものを 信じて走れ」のくりかえされるこの歌ほど、ヒロイックなまでに苛烈な希望の歌は、ほかにない。」 (高橋敏夫『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・・・・・ 井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書、2010年)





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