・「死」をテーマにした即興の詩作コンテストでの褒美と罰について、「それほどひどい罰ではありませんよ」と言いながらセゾニアはシピオンに近付き彼の前髪を軽くいじる。
なぜここでシピオンに触れる必要があったのだろう。彼が罰せられる―へぼ詩を作る―可能性は皆無だろうに(逆に優れているがうんと攻撃的な内容の詩でカリギュラを怒らせる可能性もなくはないが、その場合相手がシピオンだけに無罪放免か逆に厳罰かのどっちかになる気がする)。
むしろカリギュラがまた他人に死を与えること危惧するシピオンに「(敗者の命は)心配しなくても大丈夫」と暗に告げているのかなと思います。
・カリギュラが入ってくる。肩を落とし、ふらふらと歩く病人のような有様は、ドリュジラの死後三日して宮殿に戻ってきた初登場の時を思わせる。
憔悴の中で「月を手に入れる」野望を語った彼は、三年を経ても月が手に入らぬまま同じように憔悴しきっている。虚しさと哀しさが込み上げてくるシーンです。
・「このテーマの作品なら、ずっと前にもう作ってある。」「わたしなりのやり方で、毎日朗唱している。」とカリギュラは答える。
これは第二幕でセゾニアが言及していた「大論文」同様、日々処刑と言う形で実践しているということですね。してみるとやはり毎日のように無差別の処刑は行われてるのか。
このときケレアが「あなたも歌合わせに」とカリギュラを促すような台詞をいうのは、テーマが「死」であるだけに「死を語ることに参加しろ」=「死ね」という仄めかしなのかと思います。
・カリギュラはケレアに「おれの作品はこれひとつだ」と言うときに自分の胸を押さえる。
戯曲ではこの動作が指定されてないので「おれの作品」は上述の「無差別処刑を通して実現しようとしている不可能が可能になる世界」だけを指してるのでしょうが、蜷川舞台ではカリギュラ自身が「おれの作品」というように読み取れる。「不可能が可能になる世界」だけでなく「その世界を作る自分」をも「作品」に含んでいるわけですね。
「演技者」カリギュラの発言として、その方がより彼らしい気がします。手の位置一つで作品の深みが増す。お芝居の醍醐味ですね。
・次々失格の笛を鳴らされる詩人たち。
第四の詩人が「朗々と読もうとするポーズ」だけで笛を鳴らされるのは笑いどころですが(実際客席から笑いが起きている)、この一連のシーンにカリギュラとシピオンの死に対する見解が匂わされているわけで(※12)、そう思うと奥の深いシーンです。
・「まだ若いのに、きみは死のほんとうの教訓を知っている。」と褒めるカリギュラに、シピオンは「まだ若かったのに、わたしは父を亡くしました。」と答える。
直前の詩を詠むシーンでは、シピオンは一語一語ゆっくりと言葉を紡ぎだし、カリギュラは目を閉じてうっとりするような苦しいような表情でそれを聞いている。シピオンの詩を通してカリギュラがいつにない優しさでシピオンに接し二人の心が触れ合う(シピオンは他の詩人たちと違い、カリギュラのごく近くにまで寄って詩を詠んでいる。詩の朗読大会?の一参加者としての立場を逸脱した行動に、この詩がカリギュラに向けての「私信」だったのが表れています)というシチュエーションは第二幕の終盤を思わせますが、今回二人の穏やかな時間を破る言葉を発したのはシピオンの方だった。
上記のシピオンの台詞を聞いたカリギュラは、急に表情を変えて立ち上がると詩人たちに退場を命じる。このときカリギュラは「きみたちを同盟者にしておこうと考えてきた」「わたしを守護する最後の部隊になってくれるだろう、と思うことさえあった。」と口にするが、カリギュラが詩人たちになぜそこまで思い入れしているかの背景がとくに描写されていないので唐突の感を覚えます。
詩人のシピオンと親しかったのだから他の詩人たちとも個人的付き合いがあったのかもしれないし、詩人たちの感性なら自分の苦しみを理解してくれるかもと期待する気持ちがあったとも考えられますが、やはりこれはレピデュスに語った「可哀想な皇帝」の話同様、詩人一般に仮託してシピオン個人に対する気持ちを述べているのでは。
「詩人はわたしの敵だ。もう会うことはない」。おまえは父の仇なのだと突きつけるようなシピオンの言葉を受けての、この台詞はカリギュラからの決別宣言だったのではないでしょうか。
それでも詩人たちにタブレットを舐めて文字を消すよう命じる、つまりタブレットを使わなかったシピオンには辱めが及ばないような罰を選んでいるところに、シピオンへの愛情がうかがえる気がします。
・詩人たちが退場したところで、ケレアは第一の貴族を引きとめ「時は来た」とカリギュラを討つ決意を告げる。
なぜこのタイミングなのか。確かにカリギュラのパフォーマンスに呼びつけられたとき、貴族一同も、ケレアでさえも一瞬処刑を覚悟したくらいなので、命を脅かされ神経をすり減らすのはもう限界と判断したのか。
しかしそれ以上に、カリギュラが詩人たち、正確にはシピオンと決別したのが直接のきっかけだったように思います。第二幕第二場で貴族たちの軽挙をたしなめた時ケレアは「やがてやって来るだろう、死人と、死人の縁者でいっぱいの帝国を前に、やつのたったひとりになる日が。」と言っていますが、シピオンを去らせた今がカリギュラの「たったひとりになる日」と判断したのでしょう。
エリコンやセゾニアはまだカリギュラの側にいますが、先に「この殺しには尊敬できる保証人が要る」とシピオンを求めたケレアは、シピオンの存在をカリギュラ殺しのシンボルと捉えていた節があるので、その彼がカリギュラの側を離れることをもって「カリギュラは天命を失った」と考えるに至ったのでは。カリギュラを討つさいにシピオンを巻き添えにする心配もなくなるわけですし。
・ケレアの意図を知ってカリギュラに何か言おうとするシピオンに、カリギュラは「そっとしておいてくれないか」「ほっといてくれ」と重ねて突き放す言葉を口にする。
彼はケレアがいよいよ計画を実行に移そうとしていることも、シピオンがそれに気づいて自分を案じていることもおそらく知っている。シピオンもカリギュラがそれを知っていることを知っている。
もしカリギュラが遮らなければシピオンはカリギュラに何を言ったのか。もしかするとそのままカリギュラのもとに留まったのだろうか。
あえて先にシピオンが口にした父親のことを持ち出してシピオンを遠ざけるのは、これから起こることにシピオンを巻き込まないため、そして「友情にかたをつける」―愛する者を切り離すことで来るべき死への準備、身辺整理を行うため。
カリギュラの言葉と行動の裏には自分への愛情がある。シピオンはそれを見抜いているから最後にカリギュラへの「愛」を口にする。多くの思いを胸に秘めたままの別れのシーンが実に切なく美しいです。
・「ぼくはあなたを理解したような気がするんです」。
第四幕の頭ではケレアと苦しい思いをぶつけあい、先の詩を詠む場面では疲れ果てた様子で詠み終えるなり膝から崩れおちたシピオンが、この時はごく少年らしい明朗な声音で笑顔さえ浮かべている。第一幕でセゾニアにカリギュラのことを「好きです」と言い切ったときのように。
「もう出口はありません」という絶望的な内容にもかかわらず彼の言葉が妙に明るく響くのは、カリギュラも自分自身も救えないと悟ったシピオンが全て吹っ切れてしまったからのように思えます。それゆえに澄んだ笑顔が、かえって哀しく感じられます。
・シピオンが出て行ったとき、カリギュラは思わず後を追おうとし、苦しみもがく。
戯曲には「とある身振り」とだけあってどうにでも解釈できるシーンですが、小栗くんは半身を引き裂かれるような苦しみを表現した。
エリコンやセゾニアのような「身内」ではなく、カリギュラに異を唱え続けながらもカリギュラを愛した、限りなく自分に近しい「他人」であるシピオンの存在を切り離すことは、カリギュラにとっては彼が否定しつづけながら未練を引きずってきたこの世界への最後通牒のようなものであり、その事態の大きさに懊悩せざるをえない。
そんなカリギュラの心がこの一連の動作によって突きつけられます。
・シピオンが去ったのちセゾニアへの殺意をほのめかしながら「それがわが生涯の仕上げかもしれないな」と笑うカリギュラ。黒目がほとんど消えた目の表情が恐ろしい。
・「おれはおれが殺した死者たちのあいだでしか安らげない!」
背中を丸めて歩くカリギュラ。その老人のような動作に彼が心身とも疲れ切っているのが体現されている。
・自分への殺意を語るカリギュラに「横になって、頭を膝にのせて」と大きく手を広げて待つセゾニア。殺すといいながら大人しくそれに従うカリギュラ。
この二人の関係はまさに甘えん坊の駄々っ子とそれを包み込む母親のごとくです。
・うっとりと我が身を抱きしめるセゾニアを後ろから抱きしめるカリギュラ。
「肉の快楽は鋭く、心の悦びはなかった」などと、彼女を愛してなかったというに等しいひどい発言をしながらなのに、その仕草は嘘のように優しい。この後絞め殺したセゾニアをソファに横たえる仕草も優しい。
カリギュラの愛妾として彼の悪事をともにしたセゾニアはカリギュラが討たれたさいに助命されるとは思えないから(実際史実では幼い娘ともども殺されている(※13)(※14))、ここで彼女を手にかけるのが彼の優しさだったともいえる(※15)。
・鏡を前に一人独白を続けるカリギュラ。「ちくしょう」と絞りだす声はかすれ、「まあいい」と調子を立て直す。
感情の激しい揺らぎは鏡の中の自分を前にしているだけに複数のカリギュラがせめぎあっているように見える。
・「エリコン!エリコン!」と叫ぶ声の悲痛さ。
激しい孤独と不安の中でただエリコンその人を求めているのではなく、「月を持ってきてくれるエリコン」、不可能の克服を象徴する存在を切望しているように響きます。
・そのエリコンが表れ、死の淵で「用心してください」と繰り返し告げるのに、カリギュラは床にうずくまったまま。
一度顔をあげようとするもののまた力なく丸くなってしまう。その表情が頑是無い子供のようです。
・怒号がせまる中やっとカリギュラは起き上がる。そして鏡の前で何度も強く何かを振り払うような仕草をする。
彼には外から聞こえる声が自分につきまとう死者たちの声のように聞こえているのか。それとも武器を携えた「罪なき者たち」の声を恐れているのか。
・カリギュラが椅子を投げて鏡―自分自身の鏡像を砕くとざわめきが一瞬途絶え、貴族たちがいっせいに押し寄せてくる。
ここのシーンからラストまで奏でられる荘重なBGMはカリギュラの台詞「歴史のなかに入るんだ、カリギュラ、歴史のなかに」の通りに、彼の生き様が一つの神話になろうとしているのを示しているかのよう。
・カリギュラがケレアたち叛徒に四方八方から斬りつけられるさまを長々と見せる。
このシーンの不自然なまでの長さが、ここに至るまでにカリギュラが負ってきた憎しみ、それほどまでにカリギュラが大勢の人を傷つけてきたその過程の重みを感じさせる。
・カリギュラにとどめの一撃を加えたのはやはり彼と一番関わりの深いケレアだった。
戯曲同様台詞はないものの、カリギュラをどこか痛ましげに見つめる表情が戯曲にはない強い印象を与え、今も彼がカリギュラを憎むだけでなく同情してもいることを示している。
対するカリギュラも不敵な笑いを浮かべながらケレアの頬に自分の血をなすりつける。ケレアの手もカリギュラ同様血に汚れたのだと知らしめるように。
ケレアの肩に頭をもたせかけるような立ち位置からくる唇が触れそうなほどの顔の近さとケレアの頬に触れる動作が何だか艶めいて見えますが、血をなすりつける事で殺し殺される二人の関係性を強くアピールしている点では、一種のラブシーンと言ってもよいのかも。
・「おれはまだ生きている!」と力強く叫んだ後、カリギュラはすがるように、そして泣き出しそうな(狂気を滲ませた)笑顔を浮かべ上方に手を伸ばす。
最期の瞬間に彼の目は捜し求めた月を見つけたのだ。力尽き床に倒れたカリギュラの顔に丸いライトの光―満月の明かりが静かに落ちる。
戯曲よりもカリギュラが月を見つけたことがよりわかりやすくなっていて、救いを感じさせるラストシーンになっています。
※12-調前掲論文。「詩人たちはなぜ呼び子に中断されることになったのか。彼らに共通することはいずれも、「直接的」な死を歌っていることだ。しかも、死をまるで特別なものであるかのごとく、美辞麗句を並べ立てている。はなはだしきは、思い入れよろしく、おおげさに身構える。カリギュラにとって、死はそんなおおげさなものではない。もっとありふれた、どこにでも転がっているようなものなのだ。(中略)若くして父を失ったシピオン少年は日常的な幸福の情景を歌ってカリギュラの心を捉えている。両者とも死が身近なところに、幸福のすぐ傍に、あるいは幸福そのもののなかに巣くっていることを知っているからだ。」
※13-スエトニウス前掲書。「妻カエソニア(注・セゾニア)も娘もいっしょに死ぬ、妻は百人隊長に剣で突かれ、娘は壁にむかって投げつけられて。」
※14-フラウィウス・ヨセフス著、秦剛平訳『ユダヤ古代誌 6』(筑摩書房、2000年)。「カイソニア(注・セゾニア)はルフェスが近づいて来るのを見ると、涙を浮かべて嘆きながらも、もっと近よるようにと言ってガイオス(注・カリギュラ)の死体を彼に指し示した。そして、ルフォスが固く決意を定め、不快な行為をしようとしている素振りはつゆ見せずに、自分に向かって来るのを見ると、彼女はようやく彼のやって来た目的を悟った。すると彼女は首を差し出し、生きる望みが断たれることが明白となったときにはだれもが発すると思われる恐怖の叫び声を上げ、ついで、王家滅亡のために書かれた芝居の幕引きを引き延ばしたりはせず即刻、斬首してくれるよう彼に懇願した。 こうして、彼女はルフェスの手の中で勇気に満ちたその最期を迎え、彼女の年若い娘がそれにつづいた。」
※15-内田前掲論文はこの一連の場面についてセゾニアとカリギュラの間の擬似母子関係を指摘し、「天からなにか降ってきます。あの人たちは、あなたに手をかける前に、焼け死んでしまいます」「わたしはあなたが治るのを見たいだけ。あなたはまだ子供だもの」というセゾニアの二つの発言を取り上げて、「セゾニアは最後になって母と子以外の第三者(それは父以外の何ものでもない)の介入を訴求する。」「天(ciel)からの介入による子の救い。セゾニアは土壇場になって双数関係から三項関係への事態の「正常化」による収拾を企てる。」「このとき、カリギュラはセゾニアの眼には「治癒されるべき」異型、「成熟すべき」幼児として映っている。「まだ」(encore)という副詞一つの挿入によって彼女は父と通じ、子供を去勢することに同意を与えてしまう。この言葉を耳にしたカリギュラが「お前は私のそばに長くいすぎた。」と呟いてセゾニアの殺害を決意するのは、この裏切りに対する当然の応報なのだ。」との解釈を加えている。