about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『カリギュラ』人物考(2)-2(注・ネタバレしてます)

2009-03-29 01:16:30 | カリギュラ

エリコンに、カリギュラの気まぐれに合わせて貴族たちを無差別に処刑したり蹂躙したりすることに対する逡巡が全くなかったとは思わないが、第四幕第六場でケレアに、
「あんたたちは卑しい顔をしていて、においも貧相なにおいだってことがな。苦しんだことも、危険を冒したことも一度としてない人間に特有の、うすっぺらにおいだ。」
と吐き出すように、彼は元々貴族たちを憎み嫌ってきた。
(こうした台詞をぶつける分ケレアのことは、敵とみなしつつ人間性をある程度買ってたのだろう)

大切なカリギュラのためなら彼らを踏みにじることはエリコンにとっては大した問題ではない。カリギュラの行動にとりたてて正当性を感じなくとも、被害者である貴族たちもカリギュラを裁けるほどに立派な人間だとは思えない。
このケレアへの台詞を見ると、彼一流の皮肉でおどけたような態度を取っ払ってしまえば、エリコンが本来至って情の深い熱い人間であるのがわかる。
カリギュラやケレアが論理で武装するところを彼は皮肉と諧謔で武装する。

だがそれもケレアを筆頭とするクーデター計画の具体的証拠を押さえたあたりから次第に地金が見え始める。
悪意敵意を通り越した殺意からカリギュラを守ろうとするエリコンは明らかに余裕を失ってゆく。
カリギュラの月談義に相槌を打つのもそこそこに「いつになったら聞いてもらえるんでしょうか」「こんな芝居はやめましょう」(エリコンが本来カリギュラの幸福論に何ら共感をもっていないのが改めてよくわかる台詞である)というエリコンは、カリギュラの精神的苦痛をやわらげるための遊戯に付き合うよりも、差し迫った命の危険から彼を守ることに必死である。
ごく実際的な人間である彼は、カリギュラの絶対的味方ではあるが、理解者とはなりえなかったしなる必要もなかった。
(カリギュラの思想を理解できたシピオンにも結局カリギュラは救えなかったし、彼は味方にさえなることはできなかったのだから) 

しかしもしかしたら最期の瞬間、エリコンはカリギュラの魂を「救った」のかもしれない。
それまで自身の論理をひた走ってきたカリギュラは、セゾニアを手にかけ一人になったところで、はじめて「おれには月が手に入らない」「おれは行くべき道を行かなかった。おれは何物にも到達しない。おれの自由はよい自由ではない」とこれまでの行動を全て否定するような台詞を吐く。
死に行くセゾニアに彼は「法外な幸福を完成した」と語ったばかりだというのに。

そして繰り返しエリコンの名を叫ぶ。「エリコンはもう来ない。おれたちは永遠に罪人だ」。 
彼は「月をもってこないうちは、姿を見せるな」とエリコンに告げた。エリコンの帰還はすなわち月が手に入ったことを意味する。エリコンが来れば月が手に入る。カリギュラは彼が追い求めた幸福に到達できる。
そしてエリコンは戻ってきた。エリコンはカリギュラのロマンティシズムなど知ったことではない、ただ彼を物理的な死の危険から守るためにやって来たにすぎないが、エリコンを待ち望んだカリギュラには彼の思惑がどうだろうとエリコンが来たことが奇跡だったに違いない。
そして彼はこれまで不可能を求める自分の前に常に立ち塞がった影―鏡の中の自分の像を破壊する。ぎりぎりで不可能を手にしたカリギュラは「笑い、あえぎつつ」勝利の雄叫びを上げる。
「おれはまだ生きている!」。

エリコンは『カリギュラ』第一稿の時点では存在せず第二稿から追加されたキャラクターで(※3)、しかもラストでカリギュラを守ろうとするくだりは58年版で付け加えられたという(※4)
セゾニアともども変心したカリギュラをどこまでも支え、カリギュラが死の際でついに月を手にしたことを存在そのもので暗示するエリコン。彼の存在は、カミュが悲劇の青年カリギュラにかけた温情の象徴なのではないか。

 

※3-平田重和「カミュの「不条理戯曲」『カリギュラ』」(『文学論集』第56巻第3号、関西大学、2007年1月)。「解放奴隷のエリコンが現れるのは第二稿からである。」

※4-渡辺守章訳『カリギュラ』訳注(『カリギュラ・誤解』(新潮文庫、1971年)に収録)。「最終景におけるエリコンのくだりは、五八年晩で付け加えられた」。

 


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『カリギュラ』人物考(2)-1(注・ネタバレしてます)

2009-03-25 01:39:09 | カリギュラ


エリコン

解放奴隷の出で身分の低いエリコンはカリギュラを取り巻く人々の中でも異彩を放っている。玉葱を齧りながらの初登場シーンでわかるように、その態度は粗野で口も悪い。
ただしこれらは多分に露悪的なポーズであろう。おそらくはその身分の低さから彼を見下してかかる貴族たちに向けて、わざと彼らが望むような―いかにも奴隷あがり然とした無教養で下品な人格を演じてみせているのだ。そうすることで、彼は逆に貴族たちを侮蔑している。

彼はカリギュラやケレアのような意味での教養はないかもしれないが、苦労しているだけに生活の知恵と機知に富んでいる。
だからエリコンはカリギュラに最後まで従いながらも、不可能を求める彼の幸福論には全く共鳴していない。
カリギュラに「おれは考えたりなんかしません。頭がよすぎて、そんなことをする気にはならないんです」と言った通り、カリギュラやケレアの論理など、彼にはただ言葉を弄んでいるだけの机上の空論としか思えないだろう。
エリコンと同じ年のケレアは若いカリギュラよりはまだ実際的な頭を持っているが、エリコンよりはずっと空想的な世界に生きている(論理を愛する人間は総じてロマンティストだ)。
それは貴族階級であるケレアが本来「静かに書物にいそしんでいる」余裕のある環境にいるからだ。カリギュラを素直な若造と侮り軽んじる貴族たちから守ってやらねばならないエリコンには「論理的」である暇などないのである。そんなことを悩む間に飯を食え。これがエリコンの生活哲学である。

にもかかわらず、彼はカリギュラの、彼からは茶番劇としか思えないはずの愚行に延々と付き合ってやる。カリギュラに向けられる人々の憎悪をともに背負い、手を血に濡らしながら。
それはひとえに彼がカリギュラを深く愛していたゆえだ。第四幕第三場のケレアとの会話の中で彼は「あの人はおれを奴隷の身から解放してくれ、宮廷に迎えてくれた」と語っている。かつてカリギュラに救われたことが彼への献身的愛情の動機になったのだ。
(単純に助けられて感謝しているというだけでなく、彼が元奴隷で弱い立場であることが、彼を「子供たち」―カリギュラ、シピオン―と結び付けているとの説もある(※1)

カリギュラが奴隷時代のエリコンと(彼を解放しようと思うほど)親しかったということは、つまりエリコンはカリギュラの家の奴隷だったということか。
二人の関係性を見ていると何だか大人と子供のようだが、実は1~5歳程度しか離れていない。古代ローマでは奴隷が主人と一緒に育てられることが多かったそうだが(※2)、この二人も兄弟のように育てられたのかもしれない。
それだけの濃密な繋がりがあればこそ、三日間失踪していたカリギュラが戻ってきて、エリコンには狂気の沙汰しか思えない理論をぶち上げたとき、そして彼を変心させることは無理だと悟ったとき、エリコンは徹底してカリギュラの味方であることを決心したのだろう。

そしてこういうエリコンをカリギュラも誰より信頼し、無条件の甘えを見せていた。
放浪ののち都に戻ってきたカリギュラが真っ先に顔を合わせ、「月が欲しい」と打ち明けた相手はエリコンだった。そしてカリギュラの最期の場に駆けつけ、彼を守ろうとしてわずかに先立ったのもエリコンである。
さらに「今後は、おれを手伝ってほしい。」とカリギュラが自分から協力を求めたのはエリコンに対してだけだ(セゾニアにも協力を求めてはいるが、「おまえはおれに従え。いつでもおれを助けろ」とはるかに支配的な調子である)。

カリギュラは自分の論理をエリコンが理解できない―知性の問題ではなくその実際的な性格のゆえに―ことを知っている(だからこそ「この男は狂っている、そう考えているだろう」とエリコンが思っているだろうことを先取りする)。
そして、にもかかわらずエリコンは自分に無条件に助力してくれるに違いないことも知っている。
事実エリコンは「知ってるでしょう。おれは考えたりなんかしません。」「おれはものをたくさん知ってはいても、興味をもつことはほとんどありません。」と返事をする。
これはカリギュラが狂っていようといまいとどうでもいい、自分は無条件に彼の味方だ、というエリコンの意思表明だ。それも一応意思表明をしてるものの「知ってるでしょう」と切り出すように、改めて誓いを立てるまでもなくカリギュラが自分を無条件に味方と見なしていることを彼はわかっている。
二人が物語中で初めて会話する第一幕第四場には二人の揺ぎ無い信頼関係が短い中に徹底的に描きこまれている。

(カリギュラは第三幕第三場の時点で「月をもってこないうちは、姿を見せるなよ」と彼を遠ざけている。
この前後でエリコンがクーデターの計画をカリギュラに注進しているのを思えば、カリギュラはエリコンの命を救うために彼を突き放そうとしたのだろうか。あるいはエリコンに「高度な自殺」の邪魔をされることを恐れたのだろうか)

(つづく)

※1-内田樹「鏡像破壊―『カリギュラ』のラカン的読解」(『神戸女学院大学論集』第39巻第2号、神戸女学院大学研究所、1992年)。「興味深いのは、幼児性が一つの共通属性となって登場人物の類別を可能にするということである。」「エリコンは老獪な人物だが、奴隷の出身という弱さのゆえに「子供」たちに連帯を感じている。」「エリコンは奴隷であっただけに、暴力的な教化の経験を有している。」

※2-塩野七生『ローマ人の物語4 ユリウス・カエサル ルビコン以前』(新潮社、1995年)。「ローマの重要人物と最後まで運命をともにする者には奴隷が多いが、それも、幼少の頃よりともに学びともに育ち、生涯の苦楽もすべて共有してきた仲だからであろう。ローマ人は、ヒューマンな観点からではなく現実的な必要性から、自家の奴隷の子たちにも同等の教育を与えたのである。」

 


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『カリギュラ』人物考(1)-5(注・ネタバレしてます)

2009-03-21 02:02:15 | カリギュラ

ネットや雑誌でこの舞台の評を読むと、小栗くんの演技について辛口のものが少なくなかった(主役が舞台の一切を牽引していく物語だけに良くも悪くも彼に評が集中しがちだった)。
とくに台詞が聞き取りづらいという苦言はあちこちで見かけた覚えがあります。
長台詞を、それも激昂してまくしたてる場面が多いうえに日常生活でまず用いない単語・文法が多々出てくるのである程度仕方ない部分はあるんですが。
(勝地くんも多少台詞が聞き取りにくい場面がたびたびありました。このへんはやはり舞台出身の長谷川・横田・若村さんと歴然と差がついてましたね)

言葉を戦わせる場面の多い芝居なので、言葉の内容が分かりにくいのは難ありとすべきでしょうが、トータルで見れば、小栗くんのカリギュラが「未熟」という印象を与えるのは未熟さがカリギュラの抜きがたい特性である以上むしろ正しいのではないか、小栗くんは一個の悩める若者としてカリギュラを演じていた(それが蜷川さんの演出意図でもある)との評が一番正鵠を射ているように思います(※8)

蜷川さんはパンフレットのインタビューで、小栗くんには「(かつて彼が演じることが)できなかったハムレットの幻影を背負ってほしい」と話してましたが、確かに「世の中の外れた関節を直すために生まれついた」(※9)と叫ぶハムレットと神々に対抗することで世界を変革しようとするカリギュラは、そのヒロイズムとロマンティストぶり、行動の帰結として壮絶な死を遂げるところまでよく似ている。
ハムレットは苦悩する若者像の代表のように言われていますが、その形容をカリギュラもまぎれもなく背負っている。小栗くんのカリギュラは戯曲のカリギュラの苦悩をより鮮やかに体現して見せていたように思います。

というより、荒々しさ、露悪的な言動とそのくせ下品にならないところ、子供っぽい笑顔と愛嬌、過剰気味のスキンシップ(ト書きの指定よりずっと多い)――インタビューやラジオの語りから私がイメージしている小栗旬という人がそのままカリギュラとして舞台の上にいたような。
役になりきれてないという意味ではなく、もともと肉体的精神的にカリギュラ的特性を備えている彼が「この1年、絶望を乗り越えた瞬間とカリギュラを重ね合わせ」(※10)た結果、役を自分に引き寄せ完全にシンクロしてしまったような感じです。
たとえばカリギュラの台詞で「(絶望は)魂の病だとばかり思っていた。でもそうじゃない。苦しむのは肉体だ。(中略)いちばん恐ろしいのは、口の中のこの味だ。血でも、死でも、熱でもない。その全てだ」というのがありますが、小栗くんも公演中ずっとこの「口の中の嫌な味」を感じていたそう(※11)
彼は自身の体でもって、カリギュラの苦悩を我が物として感じ取ってさえいた。だから戯曲にあるのと違うことを(演出として)していても特に違和感を感じず「これがカリギュラという人なんだ」と自然と納得できてしまった。カリギュラを「演じている」のではなく彼がカリギュラなのだから。

ただ「非常に頭を使う舞台」(※12)とも語っているので、天然そのままのように見えて実は結構細かく計算された演技だったらしい。
確かに彼は驚くほど戯曲をよく咀嚼してカリギュラの言動の理由を丁寧に分析している。
それは初登場時のカリギュラがなにをつぶやいているのか訳者(岩切正一郎氏)に尋ねてきたというエピソード(※13)、「クライマックス「前方へ跳ねるふりをする」というト書きがありますが、カリギュラは自分の限界を越えたんだと思います。」(※14)とのコメントにも現れています。

そういえばカリギュラが初登場のシーンで、無表情に近い、わずかに戸惑いを宿した表情で頭を掻いたり口元に手をやったりする仕草は何だか自分の体の感触を確かめているみたいに見えますが、ひょっとすると小栗くんはカリギュラを一種の二重人格者として演じているのかとも思えます。
ドリュジラを失い絶望のうちに3日間さ迷い歩く内に真理にたどり着いたカリギュラを、新たに生まれた別人格として捉えているのかも。
もちろん記憶も連続しているし明確に人格が切り替わったというわけではないのですが、カリギュラが過去の自分と決別するために別人格を自分の中に作り出した―別人格然と振る舞うことを選んだ―という解釈のもとで演じているんじゃないでしょうか。
だから新たに生まれたばかりのもう一人のカリギュラはまだ自分の体に馴染んでないような身振りをするし、スプレーをかけた鏡を指差す場面で指が瘧のように震えるのは、今まさに完全に捨て去ろうとしているかつてのカリギュラと現在のカリギュラ二つの人格がせめぎあっているがゆえ。
メレイアを殺して間もなくシピオンに(メレイア殺害直前に会っているにもかかわらず)「久しぶりだな」と挨拶するのも昔のカリギュラの人格が表に出てきたからと解することができるので、戯曲を読んだとき以上に台詞の意味がスムーズに納得できる。

カリギュラとしての「特権的」肉体と精神、役を分析し膨らすことのできる想像力―小栗くんだからこそこれだけ魅力的なカリギュラが演じられたのだと思います。

 

※8-東浦弘樹「カミュの『カリギュラ』の演出をめぐって―アントニオ・ディアズ・フロリアンと蜷川幸雄―」(『人文論究』第五十八巻第一号、関西学院大学人文学会、2008年)。「(1987年パリ郊外で上演された『カリギュラ』の喜劇的演出と比較して)小栗=カリギュラは狂ってなどいない。ハムレット同様、周りの反応を試すため、あるいは現実から逃れるために、狂気を演じているだけであり、仮面の下にあるのは、自分に自信のない憂鬱な若者の姿なのである。セルジュ・ポンスレのカリギュラが、狂気の中に入り込み、自らに酔い、狂気を楽しむ人物であるのに対し、小栗のカリギュラは、自らの行動を醒めた眼でみつめ、狂気と正気のはざまで葛藤し苦悩する人物であったと言えよう。」

※9-シェイクスピア『ハムレット』(野島秀勝訳、岩波書店、2002年)。「世の中の関節は外れてしまった。ああ、なんと呪われた因果か、それを直すために生れついたとは!」

※10-シアターコクーン『カリギュラ』パンフレットより小栗旬インタビュー。

※11-『小栗旬のオールナイトニッポン』2007年12月12日放送分。「『カリギュラ』昨日終わって帰ってきたの俺大阪から。台詞である言葉ですけど、ほんっと口の中にあの嫌な血の味がしなくなったね。食べるものが何でも美味しいと今日から・・・昨日の夜から感じるようになりましたほんとに。」

※12-シアターコクーン『カリギュラ』パンフレットより小栗旬インタビュー。

※13-岩切前掲書「訳者あとがき」。「カリギュラが最初に登場するとき、ト書きには「不明瞭なことばをつぶやき」と書いてある。小栗さんに、「何をつぶやいているんでしょうか」とぼくはきかれた。正直な話、そこでなにをつぶやくかまで、ぼくは考えていなかった。思案するうちに、この問いはじつに重要なポイントを突いていると思えてきた。」

※14-シアターコクーン『カリギュラ』パンフレットより小栗旬インタビュー。ちなみに内田樹「鏡像破壊―『カリギュラ』のラカン的読解」(『神戸女学院大学論集』第39巻第2号、神戸女学院大学研究所、1992年)は、カリギュラがこの前方に跳ぶシーンについて「退行のプロセスを駆け下るカリギュラは、分身の対称的動作のうちに「私」の「私」への繋縛性のあかしを見て、憎悪の感情を覚える。彼は「前に一歩跳ぶふりをして」鏡像を出し抜こうとする。けれども、鏡像を出し抜くことは「私」にはできない。なぜなら、鏡像の方が「私」の起源であり、鏡像の呪縛から逃れるためには、「私」であることを止める他ないからだ。カリギュラに残された選択はもう一つしかない。鏡像を破壊し、「私」の機能を解体し、鏡像段階以前の原身体への退行を完了することである。」と分析する。「前に一歩跳ぶ」→「鏡を破壊する」ことでカリギュラは原身体への退行を完了、つまりは人であることを止めた=人間の限界を超えた。小栗くんの感性の鋭さに驚きます。これは炯眼だ。

 


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『カリギュラ』人物考(1)-4

2009-03-17 01:57:45 | カリギュラ

小栗くんのカリギュラ

 

公演パンフレットによれば、蜷川さんは「小栗君がやるのに何かないか」と考えて『カリギュラ』を選んだという。それも「わりと早い段階で「『カリギュラ』がある!」と思いついたんだよ」。
作品にあわせて役者を選んだのでなく、最初から小栗くんありきの企画だった。
それは蜷川さんがいかに小栗くんを買っているかということであり、同時にこのカリギュラという役が、戯曲が、小栗くんのためにあるかのように嵌っていると感じたということでもあります。

蜷川さんの初演出作『真情あふるる軽薄さ』は当時の学生運動・全共闘運動の闘争を背景に、行列に並ぶ人々を挑発する若者を描いた物語でした(※1)。必然性のわからない(世界の)ルールに諾々と従う人々への苛立ちと挑戦、暴力による挫折というテーマは、『カリギュラ』に共通するものがある。
その後も小劇団時代の蜷川さんの作品は多く当時の新左翼の運動をメタファーとするものがほとんどです(※2)。『カリギュラ』はそうした蜷川さんの原点に立ち返ったような作品である。

しかし現在の若者たちは70年前後の頃の若者のような、自らの政治的信念に則って日々抗争を繰り広げるような熱さはまず持ち合わせていない。観客の側も、俳優の側も。
蜷川さん曰く「今の若いやつの一番の問題は、恋愛しか事件がないところでしょう。それじゃあ、犬ですね」(※3)
蜷川さんの世代なら素直に納得できたのだろう、カリギュラの不条理に対する戦いが苛烈な暴力に結びつく必然性を、今の若い役者に実感として理解できるものなのか。
カリギュラを不可能へと駆り立てた情念・怒りを内面に持っていること、技術より何よりそれがカリギュラという役を演じるうえでの最大無二の適性なのではないか。

小栗くんはまさにこの「カリギュラ的怒り」を内に抱えた役者だった。
(2007年11月に放映された『情熱大陸・小栗旬』を見ると、近年自分を取り巻く環境への苛立ちを隠そうとしない彼が、間のいいことに?ちょうど『カリギュラ』公演の前後に苛立ちのピークを迎えていたのがわかります)
蜷川さんがカリギュラに小栗くんを選んだ、いや小栗くんの資質に適した役としてカリギュラを選んだのはまずこの点にあったのだと思います。

さらにもう一点。古代ローマの皇帝という役柄上、いかに「革命の闘士」とはいえ、かつてのアングラ演劇の役者さんのような泥臭さは似つかわしくない。
作品に時代を超えた普遍性を持たせるべく「舞台装置はローマ風であってはならない」旨をわざわざ記してある(※4)戯曲ではありますが、カリギュラとして説得力を持つだけの外見的な風格と華が必要となる。
長身で手足が長く綺麗に筋肉のついた小栗くんは、舞台の上で全身から人目を惹き付ける強いオーラを発していた。
手足を乱暴に投げ出してソファに座り込む自堕落な姿は実に絵になっていたし、ヴィーナスや踊り子のすさまじい衣装を身につけてさえ「ある意味」どころか本気で美しかった。
定説に反して、消極的表現ながらもカリギュラを美男子としたカミュの設定ほぼそのままである(※5)

蜷川さんは俳優としてスタートした自分が俳優をやめて演出一本になった理由として、自分が唐十郎さん言うところの「特権的肉体」を持っていないことを挙げている(※6)
そして俳優という職業は「初めから持って生まれた、肉体的な限界を持ってしまうもの」(※7)
舞台の上であれだけの吸引力を発揮しえた小栗くんは、いわばカリギュラとしての「特権的肉体」を持っていたのだと思います。

(つづく)

※1-高橋豊『人間ドキュメント 蜷川幸雄伝説』(河出書房新社、2001年)。「 「真情あふるる軽薄さ」 題名も、内容も、蜷川を興奮させる戯曲だった。 蜷川が大好きな映画アンジェイ・ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」(58年)やジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」(59年)に通じるものを感じたのだ。 いずれも、社会の体制に順応することを拒否して、主人公は殺されていく。鋭敏な心を持つ彼らの軌跡が、軽やかにかつ滑稽に描かれた。同世代の若者にとって新鮮で、共感を呼んだ。まさに「真情あふるる軽薄」な青春。」

※2-高橋前掲書より蜷川発言。「 「それ(注・浅間山荘事件)まで新左翼の運動にある種の共感をもって演劇に関わってきた。連合赤軍リンチ事件を、自分たちにもあり得たこととして、ちゃんと痛みを背負おうと思った。」

※3-蜷川幸雄+長谷部浩『演出術』(紀伊国屋書店、2002年)。「今の若いやつの一番の問題は、恋愛しか事件がないところでしょう。それじゃあ、犬ですね。つまり、戦争はないわ、極限状況に追い詰められる経済的な問題もなく、何もなかったら恋愛が一番大きな事件でしょう。だからといって恋愛も満足にできない。そういう人間は恋愛を極限まで追い詰めないで、つまみ食いにいって逃げるでしょう。」

※4-『ハヤカワ演劇文庫Ⅰ カリギュラ』(岩切正一郎訳、早川書房、2008年)「訳注」。「舞台装置 重要ではない。全てが許されている、ただし「ローマ風」であってはならない。」

※5-岩切前掲書「訳注」。「カリギュラはとても若い男である。一般的にそう思われているほど醜くはない。背は高く、痩せていて、少し猫背ぎみ。顔立ちは子供っぽい」。ちなみに「一般的にそう思われている」外見はというと、「カリグラは背が目立って高く、肌は非常に白く、図体はばかに大きく、首と足は極めて細く、目とこみかめ(原文ママ)は落ちこみ、額は広く陰険で、髪は少なく頭のてっぺんに一本の毛もなく、体のその他の部分は毛深かった。そこで彼が前を横切るとき、高いところから見下したり、理由がどうであれ「牡山羊」の名をあげたりすることは、致命的な罪と考えられていた」(スエトニウス『ローマ皇帝伝(下)』(国原吉之助訳、岩波書店、1986年)。悪逆非道で知られる歴史上の人物がことさらグロテスクに描写されるのはよくあることなので、カミュの書くとおりそこまで「醜くはない」んではないか。個人的には、カリギュラの父であるゲルマニクスは端整な容姿で知られた人だったのでカリギュラもそこそこ美貌だったんじゃないかと思います。ちなみに塩野七生『ローマ人の物語Ⅶ 悪名高き皇帝たち』(新潮社、1998年)はカリギュラを「美しい若者」と書いてます。

※6-蜷川幸雄『蜷川幸雄・闘う劇場』(日本放送出版協会、1999年)。「俳優は、人々の隠された思いや意志までも背負っているかのように見える、普通の人々とは違う錯綜した複雑な身体を持っている必要がある。いわば、観客の記憶というものを喚起し、いくらでも交差させることができる肉体でなければならないのだ。唐の言う「特権的な肉体」である。(中略)「観客の記憶に交差する肉体」とは、その生活や個人史そのものが、見ている人間に強烈に想起できる肉体ということなのだ。」「僕には、唐の劇団にいる役者たちのような、明瞭にある種の痕跡を持っている肉体がない。サラリーマン的でもないし労働者的でもないし、肉体として、それこそ何でもない。言ってみれば、僕には唐の言う「特権的肉体」がない。」

※7-藤岡和賀夫『プロデューサーの前線』(実業之日本社、1998年)収録「蜷川幸雄」。「初めから持って生まれた、肉体的な限界を持ってしまうものを芸術なんて呼ぶな、こんなものはたかだか芸能だと言っているのです。(中略)芸術以外の、あるいは個人の才能以外の要素で成り立つものがたくさんあるわけですから、そんなものは卑しい職業だと言いなさいと私は言います。そういいながら、人をだまくらかして仕返しをすればいいだろうと言うのです。そういうさまざまな屈折というものが、自分たちの欲望をねじらせて舞台の上で輝きを飛ばすんだと思っています。」


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『カリギュラ』人物考(1)-3(注・ネタバレしてます)

2009-03-13 01:52:24 | カリギュラ

かくてカリギュラはその論理にのっとって暴政を振るう。財産の横領、貴族の妻をさらって売春宿で働かせるなどその数々の暴虐のうちで、最も大きな混乱と動揺を引き起こしたのが無差別の処刑である。

カリギュラが自分を遺産相続人に指名させた上で貴族たちを処刑したことについては史書にある通りだが(※4)、カミュの描くカリギュラは単に国庫を潤すためだけでなく、「貴族たちに不条理の原理を教える」という理念のためにそれを行う(※5)
ドリュジラの死とともに情を振り捨て論理の権化となったカリギュラは、死に行く者たちの苦しみを冷然と無視し、あるいはことさら残酷に振る舞って見せる。
理不尽な、そして残酷な死は常日頃神によってもたらされているもので、遅かれ早かれ誰もが死の運命に直面する。カリギュラの言うようにこの世界に生きる者は「全員前もって死刑」を宣告されているのである。彼は神になり代わり処刑を行っているだけだ。

こうした彼の考え方にセゾニアは「あなたは神々と肩を並べたいの。狂気の沙汰だわ。」と異を唱える。
これはカリギュラを除く全ての人々の思いであろう。しかしカリギュラは神の名においてなら皆が諾々と受け入れている死や残酷な運命を、なぜ自分が行ったら非難されねばならないのか理解できない。いや、感情においては理解できるのだろうが、論理に照らせば、執行者が神であろうとカリギュラであろうと死刑囚にとっては同じように悲惨なはずである以上、彼は論理の方に従ったのである。
ローマ皇帝である彼は地上で最高の、それこそ神に迫る権力を持っている。今一歩進んで神と肩を並べる、あるいは神を凌駕することの何が間違っているのか。
そして論理を推し進めてゆけば―自分が発見した真理を皆が理解するようになれば―世界は変わり「人はもう死ぬことはなく、幸福になる」、そうカリギュラは言う。
彼の言動はひたすら論理を追及し非情に徹しているが、その動機は過度なまでのロマンティシズムなのである。

そもそも人一倍のロマンティストでなければ、こんな途方もない企てを思いつきもしないし、よしんば思いついても実行に移したりはしない。
エリコンは言う。「カイユスは理想主義者だ。みんな知ってる。つまりあの人は、まだ何もお分かりじゃないってことだ。(中略)だけど、いったんカイユスが理解し始めたら、おれとは逆に、あの人はあの善良な可愛い心で、何にでも手を出すことができる。ひどく高くつくでしょうね」。
きわめて論理的であると同時にきわめて感傷的で、しかも行動力に満ちている―こうした人間が一番性質が悪いのである。もしこの三要素の一つでも欠けていれば、暴君カリギュラは誕生しなかっただろう。ケレアは言う。「あなたは全員の厄介者です。」 

しかしまさにこの厄介な性格のゆえにカリギュラは奇妙にカリスマ的な魅力を放っている。
シピオンもエリコンもセゾニアも、ケレアや貴族たちでさえ、カリギュラのために困惑し苦しみながら否応なく彼に惹き付けられている。
彼の行動はつまるところ自分にも他人にも妥協を許さない純粋さから出ているのであり、彼が周囲に死を撒き散らしながら疾走し続けるのは彼が真の意味で生きたいと熱望しているからにほかならない(※6)(※7)

それは一言で括るなら「若さ」であり、「あの人に似たものがぼくのなかにあるんです」と語るシピオンだけでなく、多くの若者やかつて若かった人たちには多少なりとも覚えのある感情だろう。
いわばカリギュラは若者の心象を極端化してみせた一種のヒーローなのである。
(ただしカミュはカリギュラ的人物にはむしろ否定的である。より正確には第二次大戦を経験したのち否定的になった(※8)(※9)


ラスト、クーデターに倒れたカリギュラは今際の際に叫ぶ。「おれはまだ生きている!」。
『カリギュラ』の初期構想では芝居の最後にカリギュラが幕を開けて現れ、「いや、カリグラは死んではいない。彼はここにも、あそこにもいる。彼は君たち一人一人の心のうちにいるのだ。もし君たちに力が授けられ、勇気をもち、生を愛するなら、君たちが心のうちに住まわせているその怪物が、あるいはその天使が荒れ狂うのを目にすることになろう。」と独白することになっていたという(※10)
カリギュラは死の瞬間までを力の限り生きぬき、肉体は滅んでもその精神は普遍性を持って現代に生き続けているのである。

 

※4-スエトニウス『ローマ皇帝伝(下)』(国原吉之助訳、岩波書店、1986年)。「首位百人隊長らの遺言状が、ティベリウスの元首政以後に書かれて、ティベリウスもカリグラも遺産相続人の一人に指名していないと、「恩知らず」として、当人の遺志は無効とされた。(中略)こうした処置により、世間は恐慌をきたし、一面識もない人もカリグラを親友とともに、親は子供とともにカリグラを、公然と相続人に指名するようになった。しかし相続人に指名して生き続けるとは、自分を愚弄するもはなはだしいと言って、たくさんの人に毒を盛った御馳走を送りつけた。」

※5-モニック・クロッシュ『カミュと神話の哲学』(大久保敏彦訳、清水弘文堂、1978年)。「緻密な論理に基づく論証によって、カリギュラは貴族たちに不条理の原理を教えるのだが、とりわけ彼は死の等価性と不可避性、およびその任意性を強調している。人間を意識的な存在にするためには、彼らをその麻痺状態から引き出してやらなければならない。それこそ皇帝の能動的な教育が、死刑という否応なしの方法によって目指し、実現することなのだ。」

※6-クロッシュ前掲書。「このときから、この発見(注・「人間は死ぬ。だから人間は幸福でない」)はカリギュラに付き纏い、彼の運命の流れを変えてしまう。というのも、彼は無気力状態に落ち込むような人間ではないからだ。生によせる彼の情熱はことごとく、死と不幸と全宇宙の秩序にたいする反抗にと、彼を駆り立てる。(中略)つまり苦痛が減少し、人間がもはや死ぬことがなくなるような新しい事物の秩序にたいする激しい欲求を表明しているのである。」

※7-高畠正明『アルベール・カミュ』(講談社、1971年)。「月を手に入れようとし、そのために夜も休む間もないカリギュラの渇きには、ニヒリズムとは別な鮮烈な美しさがあります。それこそは《夢に生き、―夢を作用させよう―》とする青春の生きる意志であり、世界の不条理をものともしない純粋さへの渇望です。」

※8-アルベール・カミュ、ジャン・ポール・サルトル他著・佐藤朔訳『革命か反抗か―カミュ=サルトル論争―』(新潮社、1969年)の訳者あとがき。「この書(注・『反抗的人間』)では、マルキシズムの批判に多くのページを費やし、マルキシストたちの革命的手段を攻撃している。 それにはカミュがいつも考えている絶対者の否定と、人間の生命の尊重という観念が、根底にあることは疑えない。十九世紀以来、多くの思想家が行なってきたように、彼ははじめに神という絶対者を否定してその人生論と世界観をつくりあげたが、歴史的に見て神に代る絶対者の出現にも反抗し、これを否定する。そしてマルキシストはイデオロギーを絶対視して、唯物史観をまもって、歴史に奉仕していると見なしている。その結果、彼らは革命的手段を用いて恐怖政治を行い、地上に神の王国を建設しようと目ざし、そこに彼らのいう歴史の目的をおいている。そしてこの目的の達成のためにはどんな犠牲もいとわず、革命によるニヒリズムと恐怖政治を正当化する、といって非難する。(中略)カミュが革命的手段による恐怖政治を非難するのは、「反抗は原則的に死に反対する」(『反抗的人間』)という根本的な態度からきている。彼はいつも自殺、殺人、死刑などという人間を人為的に死にいたらしめるものを原則的に反対するので、戦争、内乱、革命のために、人間が多量に生命を失うことに、当然反対する。だから明日の人類や国家の幸福と平和のために、今日、何万、何十万の人たちの死の犠牲をやむをえないとする全体主義的思想に組することはできない。この点では、コミュニスムでもファシズムでも同じであると考えている。」

※9-高畠正明『若き日のカミュ』(サンリオ山梨シルクセンター出版部、1971年)。「だが、奇妙なことに、ここ(注・「はじめて、『カリギュラ』の構想を書きとめたノート」のこと)ではいかにも肯定的なカリギュラの評価が、のちになると、むしろ否定的な人間像に傾きはじめていたようだ。いまあげたノートから二十年たった一九五八年に、カミュは、この『カリギュラ』に、かなり重要な改訂を試みるとともに、このおなじ年、アメリカのクノップから出版された戯曲集の序文で、『カリギュラ』の最終的な評価を試みている。(中略)ここではカリギュラは、絶対をひたすら論理的に追求したため遂には死に到るあの自己破滅の人間像として評価され、一人の絶対的ニヒリストに列せられてしまっている。」「或る夜、遂に月を手に入れたとエリコンに語るカリギュラは、純潔の化身であり、壮絶なほどまで美しい。この壮絶なまでに美しいカリギュラを二十年後にカミュは、人間の名の下に否定しさっている。(中略)『反抗的人間』では、虚無と破壊と荒廃に落ち込むものとして形而上的反抗を排し、人間の条件や現実への反逆の理想的な在りかたとして芸術をとりあげ、反抗における中庸と節度を称揚している。そのいずれの場合にも、究極にあるのは人間であり、人間の幸福なのだ。」

※10-アルベール・カミュ『カミュの手帖 1935-1959(全)』の「第一ノート」(大久保敏彦訳、新潮社、1992年)


なお、カミュがエッセイ『反抗的人間』で「形而上的反抗者」「ニヒリスト」(文脈からすれば※7の「ニヒリズム」が指すようなすべてに虚無的・否定的な態度の人間ではなく、情熱を持って現状を否定する反抗者のこと)について語った記述は、多分にカリギュラに当てはまる。『カリギュラ』を理解するうえで参考になりそうな部分を以下に抜粋する。

「彼(注・形而上的反抗者)は世界の統一を要求するために、分裂した世界に反抗する。彼の裡にある正義の原則と、世界にはびこっている不正の原則とを対立させる。だから彼はもともと、この矛盾を解決し、できれば正義の一元的支配をうちたてるか、あるいはぎりぎりまで追いつめられて、不正の一元的支配をうちたてることしか望まない。それまでは、矛盾を告発しつづける。人間の条件の不完全な点に対しては、死によって抗議し、不統一な点に対しては、悪によって抗議する形而上的反抗は、生と死の苦悩に対して、幸福な統一を要求する。一般化された死刑が人間の条件を規定しているとすれば、反抗も、ある意味で、それと同時的役割を果す。反抗者は死の条件を拒否すると同時に、この条件で彼を生かしめる権力も認めない。だから形而上的反抗者は、一般に考えられているように、必ずしも無神論者ではなく、必然的に冒涜(原文旧字)者となる。ただ彼は、まず秩序の名において、神を冒涜し、死の父であり、最高の恥さらしであるとして神を告発する。

「善と悪において創造者たらんとする者は、ニーチェによれば、まず破壊者となり、諸価値を打ち破らなければならない。「かくて最高の悪は、最高の善の一部分となるが、最高の善こそ、創造的なのである」。

「法の上に止まっていられない者には、じっさい、他の法か、狂気を見つけなければならない。人間がもはや神も、永生も信じなくなってからは、「生きているすべてのもの、苦悩から生れ、生きる苦しみに捧げられたすべてのものに、責任を持つ」ようになる。結局、秩序と法を見つけるべくもどって行くのは、彼のもと、彼ひとりのもとにである。そのとき、神に見すてられた者の時代が、精根つきるまでの正当化の探索が、目的のない郷愁がはじまる。」

「反抗者から見ると、この世の幸福な瞬間にも、苦悩にも、説明の原理が欠けている。悪に対する反抗は、なによりもまず、統一の要求である。反抗者は、死を宣告された人々の世界に対し、死の条件の不透明性に対し、生と、決定的な透明性への欲求をあくまでも対立させる。彼はモラルか、聖なるものをそれとは知らずに,探し求めている。反抗は、盲目的にせよ、一つの苦行である。だから、反抗者が神聖を涜(注・原文旧字)すのは、新しい神の希望をもっているからである。彼は宗教的衝動の最初の、最も深刻な打撃をうけて動揺するが、それは裏切られた宗教的衝動である。尊いのは、反抗そのものではなくて、獲得されるものが依然として見苦しいものだとしても、反抗の目的なのである。」

「ニヒリストには二通りあるが、どちらも過度に絶対を求める。たしかに死を望む反抗者と、殺人を望む反抗者がある。だが、彼らは同じように、真の生への欲望に燃えながら、存在によって打ちのめされるので、不完全な正義より一般化された不正を好むのである。怒りがこの段階に達すると、理性は狂乱になる。人間感情の本能的反抗が、その最も偉大な意識へと数百年かかって少しずつ進むことがほんとうだとしても、反抗は前述のとおり,盲目的大胆さへと成長し、形而上的殺人によって宇宙的規模の殺人に応ずる決心をきめるほど途方もないことになった。」

(引用はすべて、佐藤朔・白井浩司訳『カミュ全集6 反抗的人間』(新潮社、1973年)

 


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『カリギュラ』人物考(1)-2(注・ネタバレしてます)

2009-03-09 01:09:52 | カリギュラ

しかしドリュジラの死に対する悲しみゆえにカリギュラが狂気に陥ったとするのは当たらない。
カリギュラは「何日か前、愛していた女が死んだのは覚えている。だが、愛とは何だ?取るに足りないものだ。」「誰がドリュジラといった。男は愛とは別の理由で泣く。(中略)ものごとがあるべき姿ではないから、泣くんだ。」と、ドリュジラの死そのものは大した問題ではないのだと繰り返す。
(本当は大した問題であったはずだが、カリギュラは認めようとしないだろう。論理の信奉者であるカリギュラにとって、自分が世俗的な愛に精神の在り様を左右されるなどという非論理的なことは受け入れ難い。繰り返し彼女の死は取るに足らないことと強調するところにそれがうかがえる)
問題はドリュジラの死をきっかけに発見してしまった真理にある。「人は死ぬ、そして人は幸福ではない」(※1)(※2)

どんな幸せも死によって瞬時に断ち切られる。それは死んでゆく者にとっても残される者にとっても耐え難い不幸である。
しかしカリギュラを激昂させるのはおそらく人が必ず死ぬという事実そのものではない。死に代表されるいわゆる運命というやつ、生殺与奪の権利が神に委ねられていて人間自身にはどうにもならないことに対して彼は苛立っているのである。
カリギュラは「人は死ぬ~」と言った後にこう続ける。「おれは人が真実のなかで生きることを望む!」「みんなは知識を奪われている。」 
自分の命が自分の思い通りにならないという理不尽さ―不条理を、世の常として平然と受け入れて暮らす人々の無神経さ・愚かしさが彼には我慢ならない。彼は世界の真実を見出した先駆者として、彼らの上に立つ皇帝として、人々を啓蒙しようとする。
彼は言う。「おれがおまえたちを憎むのは、お前たちが自由ではないからだ。よろこべ。ついにおまえたちのもとに、自由を教えてくれる皇帝がやってきた」。
やり方こそ非情かつ残酷だが、その裏には彼なりの正義感と責任感があったのである(※3)

カリギュラは不可能を可能にすることで人々を啓蒙し救済しようと試み、非情かつ残酷にその計画を推し進めてゆく。
問題はこの「非情」という部分にある。肝心の救済すべき対象―(無差別に処刑される)貴族たちや(食糧保管庫の閉鎖によって人工的飢饉に見舞われた)ローマ市民に対する「愛」がないのだ。

ドリュジラの死後、彼は意識的に愛を否定する。「愛だと、セゾニア!愛などとるにたりない。(中略)生きるとはな、セゾニア、愛することの対極だ。」「愛があるだけでは充分ではない。当時おれが理解したのはそのこと。」 
しかし愛を否定する人間に他人が救えるものなのか。たしかに非情に徹しなければ彼の不可能への挑戦、神に対する革命は行えなかったろう。けれど大目的のために他人を―救う対象であるべき相手を―容赦なく切り捨ててゆくのでは本末転倒ではないのか。

その意味で彼の試みは最初から破綻していた。かつて彼はドリュジラを愛し、ケレアの言うように「文学を愛しすぎ」ていた。シピオンと詠みあった詩に表れるような、ローマの自然を愛していた。エリコンやセゾニアやシピオンのこともそれぞれに愛していたはずである。
しかし彼は愛に対する失望(自分には生涯かけて一人の人間を愛することはできない)からそれらの愛を切り捨ててしまった。
カリギュラは最後になって言う。「もし愛だけで充分だったら、すべては変わっているだろう」。結局彼が求めるべきは愛だったのではないか。

(つづく)

※1-東浦弘樹「カミュの『カリギュラ』の演出をめぐって―アントニオ・ディアズ・フロリアンと蜷川幸雄―」(『人文論究』第五十八巻第一号、関西学院大学人文学会、2008年5月)。「カリギュラは(中略)二度にわたって、ドリュジラの死の重要性を否定している。彼を絶望に陥れたのは、ひとりの女の死ではなく、人はみな死すべき存在であるという人間の条件なのであり、以降、第4幕第13場のカエゾニア(注・セゾニアのこと。彼女の名は「カエゾニア」「カエソニア」と訳されることが多い)殺害の場面まで、ドリュジラの名が口にされることは一度もない。」

※2-白井浩司『アルベール・カミュ その光と影』(講談社、1977年)。「ドルーシルラ(注・ドリュジラのこと)を彼は愛してはいたのだが、愛も、ドルーシルラの死もいまは取るに足りなく、ただその死が、一つの真理のしるしとなったことを彼は認めるのである。その真理となにか。カリグラは(中略)いう、「人間はすべて死ぬ、だから人間は幸福でない」と。」

※3-P.H.シモン著、調佳智雄訳『カミュ論』(冬樹社、1969年)。「彼は決して理性を失った人間ではなく、それどころか、世界の不条理性を認めることができたほど理性的で明晰な人間なのだ。「人間たちはすべて死ぬ、だから彼らは幸福ではない。(中略)人間たちは物事があるべき状態ではないということで涙を流すのだ。」このような問題提起と運命に服従することの拒否によって、彼は英知に至る戸口に到達し、蝿を追い払うオレストのように人間たちに奉仕する。」

 


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『カリギュラ』人物考(1)-1(注・ネタバレしてます)

2009-03-05 01:50:02 | カリギュラ
カリギュラ(カイユス)

 

暴君として歴史上に名を残すローマの若き皇帝。

カリギュラの心理というのは実は結構掴みやすいのではないかと思う。
論理を信奉し、物事は全て論理的合理的に動くべきだと思っている。それこそが正しい世界の形であると考える。
ゆえに非論理的・非合理的な世の中や人間のあり方に絶えず苛立つ。白黒で割り切れぬ曖昧な物事の在り様を許すことができない(彼が「善の中で純粋な」全き〝白〟であるシピオンを気に入っているのはそのためだ)。
これは理屈っぽく一種正義感の強い若者が抱きがちな、国や時代を越えた普遍的な心情ではないか。

ただ多くの若者と違いカリギュラがローマ中を恐怖に陥れる暴君と化したのは、ひとえに彼が絶大な権力を有していたことにある。加えて、愛する者を失ったこと、その別離が彼がまだ青臭い若者であるうちに起こったこと。
世界が自分の望む姿と掛け離れているという認識は、必然的にその人間に周囲からの孤立感・疎外感を与える。そうした時、彼と世界を繋ぐのは愛する者(もしくは物)の存在であろう。
純粋論理の世界を夢見るカリギュラとしてはごく世俗的な感情が、彼をこの世界に引き留める役割を果たしていた。ドリュジラの生前は、彼はシピオンに向かって「人生は楽ではない」が「人には宗教や、芸術や、愛がある」などと語りさえしていたのだ。ドリュジラの存在が、彼が不合理な世界を直視せずに済むよう覆いをかけていた。

そのドリュジラの死によってカリギュラにとって現世は「たえられない代物」と変じた。普通なら愛する者を失って世界が精彩を失ったと解するだろうこの現象を、彼はむしろ些細な愛情によって曇らされていた視界が晴れた、「蒙を啓かれた」と受け止めた。三日の放浪の末帰還したカリギュラがエリコンに「今までになく頭がはっきりしているくらいだ」と語るのはそういう意味であろう。
もしドリュジラの死が数年先のことであれば状況はまた違っていたかもしれない。
一般的に見て、青年期に抱いていた社会への憤懣は、年を重ね経験を積むことで次第に薄らぎ、かつては軽蔑していたはずの大人たちとも普通に付き合えるようになってゆく。それを「堕落」と感じる尖った感性もまた磨耗してゆく。エリコン風に言えば「折り合いをつけ」るのだ。
そして身内の死という悲劇に対しても、当初は身も世もなく嘆きに沈んだとしても、第一の貴族のようにやがては「忘れる」ことができるようになる。
しかしそうした処世術、図太さを持つにはカリギュラはまだ若く、純粋でありすぎた。
かくてドリュジラの死はカリギュラの行動を一変させる。人が変わったのではなく、カリギュラがもともと内包していた物が抑えを失って外面に出てきたのである。

(つづく)

 


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『カリギュラ』(2)-9(注・ネタバレしてます)

2009-03-01 01:46:49 | カリギュラ
・「死」をテーマにした即興の詩作コンテストでの褒美と罰について、「それほどひどい罰ではありませんよ」と言いながらセゾニアはシピオンに近付き彼の前髪を軽くいじる。
なぜここでシピオンに触れる必要があったのだろう。彼が罰せられる―へぼ詩を作る―可能性は皆無だろうに(逆に優れているがうんと攻撃的な内容の詩でカリギュラを怒らせる可能性もなくはないが、その場合相手がシピオンだけに無罪放免か逆に厳罰かのどっちかになる気がする)。
むしろカリギュラがまた他人に死を与えること危惧するシピオンに「(敗者の命は)心配しなくても大丈夫」と暗に告げているのかなと思います。

・カリギュラが入ってくる。肩を落とし、ふらふらと歩く病人のような有様は、ドリュジラの死後三日して宮殿に戻ってきた初登場の時を思わせる。
憔悴の中で「月を手に入れる」野望を語った彼は、三年を経ても月が手に入らぬまま同じように憔悴しきっている。虚しさと哀しさが込み上げてくるシーンです。

・「このテーマの作品なら、ずっと前にもう作ってある。」「わたしなりのやり方で、毎日朗唱している。」とカリギュラは答える。
これは第二幕でセゾニアが言及していた「大論文」同様、日々処刑と言う形で実践しているということですね。してみるとやはり毎日のように無差別の処刑は行われてるのか。
このときケレアが「あなたも歌合わせに」とカリギュラを促すような台詞をいうのは、テーマが「死」であるだけに「死を語ることに参加しろ」=「死ね」という仄めかしなのかと思います。

・カリギュラはケレアに「おれの作品はこれひとつだ」と言うときに自分の胸を押さえる。
戯曲ではこの動作が指定されてないので「おれの作品」は上述の「無差別処刑を通して実現しようとしている不可能が可能になる世界」だけを指してるのでしょうが、蜷川舞台ではカリギュラ自身が「おれの作品」というように読み取れる。「不可能が可能になる世界」だけでなく「その世界を作る自分」をも「作品」に含んでいるわけですね。
「演技者」カリギュラの発言として、その方がより彼らしい気がします。手の位置一つで作品の深みが増す。お芝居の醍醐味ですね。

・次々失格の笛を鳴らされる詩人たち。
第四の詩人が「朗々と読もうとするポーズ」だけで笛を鳴らされるのは笑いどころですが(実際客席から笑いが起きている)、この一連のシーンにカリギュラとシピオンの死に対する見解が匂わされているわけで(※12)、そう思うと奥の深いシーンです。

・「まだ若いのに、きみは死のほんとうの教訓を知っている。」と褒めるカリギュラに、シピオンは「まだ若かったのに、わたしは父を亡くしました。」と答える。
直前の詩を詠むシーンでは、シピオンは一語一語ゆっくりと言葉を紡ぎだし、カリギュラは目を閉じてうっとりするような苦しいような表情でそれを聞いている。シピオンの詩を通してカリギュラがいつにない優しさでシピオンに接し二人の心が触れ合う(シピオンは他の詩人たちと違い、カリギュラのごく近くにまで寄って詩を詠んでいる。詩の朗読大会?の一参加者としての立場を逸脱した行動に、この詩がカリギュラに向けての「私信」だったのが表れています)というシチュエーションは第二幕の終盤を思わせますが、今回二人の穏やかな時間を破る言葉を発したのはシピオンの方だった。
上記のシピオンの台詞を聞いたカリギュラは、急に表情を変えて立ち上がると詩人たちに退場を命じる。このときカリギュラは「きみたちを同盟者にしておこうと考えてきた」「わたしを守護する最後の部隊になってくれるだろう、と思うことさえあった。」と口にするが、カリギュラが詩人たちになぜそこまで思い入れしているかの背景がとくに描写されていないので唐突の感を覚えます。
詩人のシピオンと親しかったのだから他の詩人たちとも個人的付き合いがあったのかもしれないし、詩人たちの感性なら自分の苦しみを理解してくれるかもと期待する気持ちがあったとも考えられますが、やはりこれはレピデュスに語った「可哀想な皇帝」の話同様、詩人一般に仮託してシピオン個人に対する気持ちを述べているのでは。
「詩人はわたしの敵だ。もう会うことはない」。おまえは父の仇なのだと突きつけるようなシピオンの言葉を受けての、この台詞はカリギュラからの決別宣言だったのではないでしょうか。
それでも詩人たちにタブレットを舐めて文字を消すよう命じる、つまりタブレットを使わなかったシピオンには辱めが及ばないような罰を選んでいるところに、シピオンへの愛情がうかがえる気がします。

・詩人たちが退場したところで、ケレアは第一の貴族を引きとめ「時は来た」とカリギュラを討つ決意を告げる。
なぜこのタイミングなのか。確かにカリギュラのパフォーマンスに呼びつけられたとき、貴族一同も、ケレアでさえも一瞬処刑を覚悟したくらいなので、命を脅かされ神経をすり減らすのはもう限界と判断したのか。
しかしそれ以上に、カリギュラが詩人たち、正確にはシピオンと決別したのが直接のきっかけだったように思います。第二幕第二場で貴族たちの軽挙をたしなめた時ケレアは「やがてやって来るだろう、死人と、死人の縁者でいっぱいの帝国を前に、やつのたったひとりになる日が。」と言っていますが、シピオンを去らせた今がカリギュラの「たったひとりになる日」と判断したのでしょう。
エリコンやセゾニアはまだカリギュラの側にいますが、先に「この殺しには尊敬できる保証人が要る」とシピオンを求めたケレアは、シピオンの存在をカリギュラ殺しのシンボルと捉えていた節があるので、その彼がカリギュラの側を離れることをもって「カリギュラは天命を失った」と考えるに至ったのでは。カリギュラを討つさいにシピオンを巻き添えにする心配もなくなるわけですし。

・ケレアの意図を知ってカリギュラに何か言おうとするシピオンに、カリギュラは「そっとしておいてくれないか」「ほっといてくれ」と重ねて突き放す言葉を口にする。
彼はケレアがいよいよ計画を実行に移そうとしていることも、シピオンがそれに気づいて自分を案じていることもおそらく知っている。シピオンもカリギュラがそれを知っていることを知っている。
もしカリギュラが遮らなければシピオンはカリギュラに何を言ったのか。もしかするとそのままカリギュラのもとに留まったのだろうか。
あえて先にシピオンが口にした父親のことを持ち出してシピオンを遠ざけるのは、これから起こることにシピオンを巻き込まないため、そして「友情にかたをつける」―愛する者を切り離すことで来るべき死への準備、身辺整理を行うため。
カリギュラの言葉と行動の裏には自分への愛情がある。シピオンはそれを見抜いているから最後にカリギュラへの「愛」を口にする。多くの思いを胸に秘めたままの別れのシーンが実に切なく美しいです。

・「ぼくはあなたを理解したような気がするんです」。
第四幕の頭ではケレアと苦しい思いをぶつけあい、先の詩を詠む場面では疲れ果てた様子で詠み終えるなり膝から崩れおちたシピオンが、この時はごく少年らしい明朗な声音で笑顔さえ浮かべている。第一幕でセゾニアにカリギュラのことを「好きです」と言い切ったときのように。
「もう出口はありません」という絶望的な内容にもかかわらず彼の言葉が妙に明るく響くのは、カリギュラも自分自身も救えないと悟ったシピオンが全て吹っ切れてしまったからのように思えます。それゆえに澄んだ笑顔が、かえって哀しく感じられます。

・シピオンが出て行ったとき、カリギュラは思わず後を追おうとし、苦しみもがく。
戯曲には「とある身振り」とだけあってどうにでも解釈できるシーンですが、小栗くんは半身を引き裂かれるような苦しみを表現した。
エリコンやセゾニアのような「身内」ではなく、カリギュラに異を唱え続けながらもカリギュラを愛した、限りなく自分に近しい「他人」であるシピオンの存在を切り離すことは、カリギュラにとっては彼が否定しつづけながら未練を引きずってきたこの世界への最後通牒のようなものであり、その事態の大きさに懊悩せざるをえない。
そんなカリギュラの心がこの一連の動作によって突きつけられます。

・シピオンが去ったのちセゾニアへの殺意をほのめかしながら「それがわが生涯の仕上げかもしれないな」と笑うカリギュラ。黒目がほとんど消えた目の表情が恐ろしい。

・「おれはおれが殺した死者たちのあいだでしか安らげない!」
背中を丸めて歩くカリギュラ。その老人のような動作に彼が心身とも疲れ切っているのが体現されている。

・自分への殺意を語るカリギュラに「横になって、頭を膝にのせて」と大きく手を広げて待つセゾニア。殺すといいながら大人しくそれに従うカリギュラ。
この二人の関係はまさに甘えん坊の駄々っ子とそれを包み込む母親のごとくです。

・うっとりと我が身を抱きしめるセゾニアを後ろから抱きしめるカリギュラ。
「肉の快楽は鋭く、心の悦びはなかった」などと、彼女を愛してなかったというに等しいひどい発言をしながらなのに、その仕草は嘘のように優しい。この後絞め殺したセゾニアをソファに横たえる仕草も優しい。
カリギュラの愛妾として彼の悪事をともにしたセゾニアはカリギュラが討たれたさいに助命されるとは思えないから(実際史実では幼い娘ともども殺されている(※13)(※14))、ここで彼女を手にかけるのが彼の優しさだったともいえる(※15)

・鏡を前に一人独白を続けるカリギュラ。「ちくしょう」と絞りだす声はかすれ、「まあいい」と調子を立て直す。
感情の激しい揺らぎは鏡の中の自分を前にしているだけに複数のカリギュラがせめぎあっているように見える。

・「エリコン!エリコン!」と叫ぶ声の悲痛さ。
激しい孤独と不安の中でただエリコンその人を求めているのではなく、「月を持ってきてくれるエリコン」、不可能の克服を象徴する存在を切望しているように響きます。

・そのエリコンが表れ、死の淵で「用心してください」と繰り返し告げるのに、カリギュラは床にうずくまったまま。
一度顔をあげようとするもののまた力なく丸くなってしまう。その表情が頑是無い子供のようです。

・怒号がせまる中やっとカリギュラは起き上がる。そして鏡の前で何度も強く何かを振り払うような仕草をする。
彼には外から聞こえる声が自分につきまとう死者たちの声のように聞こえているのか。それとも武器を携えた「罪なき者たち」の声を恐れているのか。

・カリギュラが椅子を投げて鏡―自分自身の鏡像を砕くとざわめきが一瞬途絶え、貴族たちがいっせいに押し寄せてくる。
ここのシーンからラストまで奏でられる荘重なBGMはカリギュラの台詞「歴史のなかに入るんだ、カリギュラ、歴史のなかに」の通りに、彼の生き様が一つの神話になろうとしているのを示しているかのよう。

・カリギュラがケレアたち叛徒に四方八方から斬りつけられるさまを長々と見せる。
このシーンの不自然なまでの長さが、ここに至るまでにカリギュラが負ってきた憎しみ、それほどまでにカリギュラが大勢の人を傷つけてきたその過程の重みを感じさせる。

・カリギュラにとどめの一撃を加えたのはやはり彼と一番関わりの深いケレアだった。
戯曲同様台詞はないものの、カリギュラをどこか痛ましげに見つめる表情が戯曲にはない強い印象を与え、今も彼がカリギュラを憎むだけでなく同情してもいることを示している。
対するカリギュラも不敵な笑いを浮かべながらケレアの頬に自分の血をなすりつける。ケレアの手もカリギュラ同様血に汚れたのだと知らしめるように。
ケレアの肩に頭をもたせかけるような立ち位置からくる唇が触れそうなほどの顔の近さとケレアの頬に触れる動作が何だか艶めいて見えますが、血をなすりつける事で殺し殺される二人の関係性を強くアピールしている点では、一種のラブシーンと言ってもよいのかも。

・「おれはまだ生きている!」と力強く叫んだ後、カリギュラはすがるように、そして泣き出しそうな(狂気を滲ませた)笑顔を浮かべ上方に手を伸ばす。
最期の瞬間に彼の目は捜し求めた月を見つけたのだ。力尽き床に倒れたカリギュラの顔に丸いライトの光―満月の明かりが静かに落ちる。
戯曲よりもカリギュラが月を見つけたことがよりわかりやすくなっていて、救いを感じさせるラストシーンになっています。

 

※12-調前掲論文。「詩人たちはなぜ呼び子に中断されることになったのか。彼らに共通することはいずれも、「直接的」な死を歌っていることだ。しかも、死をまるで特別なものであるかのごとく、美辞麗句を並べ立てている。はなはだしきは、思い入れよろしく、おおげさに身構える。カリギュラにとって、死はそんなおおげさなものではない。もっとありふれた、どこにでも転がっているようなものなのだ。(中略)若くして父を失ったシピオン少年は日常的な幸福の情景を歌ってカリギュラの心を捉えている。両者とも死が身近なところに、幸福のすぐ傍に、あるいは幸福そのもののなかに巣くっていることを知っているからだ。」

※13-スエトニウス前掲書。「妻カエソニア(注・セゾニア)も娘もいっしょに死ぬ、妻は百人隊長に剣で突かれ、娘は壁にむかって投げつけられて。」

※14-フラウィウス・ヨセフス著、秦剛平訳『ユダヤ古代誌 6』(筑摩書房、2000年)。「カイソニア(注・セゾニア)はルフェスが近づいて来るのを見ると、涙を浮かべて嘆きながらも、もっと近よるようにと言ってガイオス(注・カリギュラ)の死体を彼に指し示した。そして、ルフォスが固く決意を定め、不快な行為をしようとしている素振りはつゆ見せずに、自分に向かって来るのを見ると、彼女はようやく彼のやって来た目的を悟った。すると彼女は首を差し出し、生きる望みが断たれることが明白となったときにはだれもが発すると思われる恐怖の叫び声を上げ、ついで、王家滅亡のために書かれた芝居の幕引きを引き延ばしたりはせず即刻、斬首してくれるよう彼に懇願した。 こうして、彼女はルフェスの手の中で勇気に満ちたその最期を迎え、彼女の年若い娘がそれにつづいた。」

※15-内田前掲論文はこの一連の場面についてセゾニアとカリギュラの間の擬似母子関係を指摘し、「天からなにか降ってきます。あの人たちは、あなたに手をかける前に、焼け死んでしまいます」「わたしはあなたが治るのを見たいだけ。あなたはまだ子供だもの」というセゾニアの二つの発言を取り上げて、「セゾニアは最後になって母と子以外の第三者(それは父以外の何ものでもない)の介入を訴求する。」「天(ciel)からの介入による子の救い。セゾニアは土壇場になって双数関係から三項関係への事態の「正常化」による収拾を企てる。」「このとき、カリギュラはセゾニアの眼には「治癒されるべき」異型、「成熟すべき」幼児として映っている。「まだ」(encore)という副詞一つの挿入によって彼女は父と通じ、子供を去勢することに同意を与えてしまう。この言葉を耳にしたカリギュラが「お前は私のそばに長くいすぎた。」と呟いてセゾニアの殺害を決意するのは、この裏切りに対する当然の応報なのだ。」との解釈を加えている。

 


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