about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『銀色の髪のアギト』(4)-2(注・ややネタバレ気味)

2007-06-30 02:35:20 | 銀色の髪のアギト

そしてもう一つ。何故まだほんの少年であるアギトの声に勝地くんが起用されたのか?
アギトは設定年齢は15歳ですが、外見的には10歳~12歳くらいなので普通なら女性の声優さんが演じそうなもの(よく『アギト』と比較される『天空の城ラピュタ』のパズーのように)。
それをすでに青年期に差し掛かっている勝地くんに振ったのは何故なのか。

考えられるのは(2)で書いたような「女性の声優さんの少年ボイスにはない」「伸びやかさと不安定さが混在する青少年の色気」が求められていたという可能性。
私の見るところアギトは精神的にまだまだ幼くて、トゥーラに対する感情も恋愛の域に達しているとは思えない。
「色気が求められるキャラかなあ?」と感じてたんですが、気になったのが『QRANK』vol.12(2005年11月発売号)での、『アギト』についての勝地くんの発言。

「いくら純粋でも大人にはなっていくじゃないですか。自分の力ではどうしようもなく。
それがすごく歯がゆくて、いろんなことに〝何でだよ!?〟って気持ちになる。
それは今の僕と似てる気がしました。同じようなジレンマをアギトも感じているんだろうなって」。

このインタビュー当時19歳の勝地くんが「大人になっていく上でのジレンマ」を抱えているのは年齢的に自然なことと思いますが、彼は15歳のアギトにも自分と同様の「大人へと脱皮してゆく時期特有の痛み」を見出している。

確かに『アギト』のストーリーをたどってみると、謎を秘めた美少女との出会い、父(権威者)の死とそれを契機とする旅立ち、強化体になる儀式(イニシエーション)による肉体的変化、戦いによる「女」の獲得、と、王道的ビルドゥングス・ロマンの構造を備えているのがわかります。
急激に変化した身体をもてあまし暴走するのも、その暴走が一人の少女に向かっていると見えるのも、思春期の少年の一面を象徴しているようにも思えます。
もしかすると強化体になったアギトの服の露出度が高いのも、イニシエーションを経て逞しく変化した身体、彼が「もはや子供ではなくなった」事を強調するためなのかもしれません。

そして最後には森との一時的融合を経て世界の中での自分の役割を見つけ、トゥーラを連れて故郷へと帰る。
森からの甦生後のアギトのトゥーラに対する表情や態度にはこれまでにない落ち着きと包容力さえ感じられる(二人の関係が本式な恋愛感情に育ってゆくにはまだ時間を必要とするでしょうが)。

してみればやはり作中でアギトが子供から大人(少年から青年というより、子供から少年)へと成長しているのは確かなようです。
中立都市に戻った後のアギトが以前のようにカインと悪さしてる姿はもはや想像できない。
その(子供から少年への)「過渡期」を表現するために、自身も(少年から青年への)過渡期にあった勝地くんを起用したんじゃないでしょうか。

リアルに思春期の、12歳~15歳くらいの男の子を起用する手もあったでしょうが、この時期は声が濁ってしまいがちなので、声だけで表現する声優には難しいかも。
勝地くんの声は決して高い方じゃないですが(むしろ地声はやや低め)、「少年らしい」(変声期中途のリアル少年ではかえって出せないような)透明感と、時に柔らかな時に凛とした響きを持っているので、良くも悪くも純粋な、情の深いアギトの人間性にはぴったりだったように思います。

7/28追記-文中の『QRANK』発売時期について「2005年11月号」と書いてましたが、月刊の雑誌ではないですね・・・。正確な表記に改めました。すみません。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『銀色の髪のアギト』(4)-1(注・ややネタバレ気味)

2007-06-27 00:59:12 | 銀色の髪のアギト

今回は声優としての勝地くんの評価について。
世間的には棒読みだ何だと不評のようですが、個人的には彼は充分上手に演じていたと思います。
とくに本人が『週刊なびTV』ほかで「難しかった」と語っていた、走るときの息遣いや「あっ」「わっ」と言った台詞未満の声を巧みに表現していたのには感心しました。
例の「トゥーラーー」の台詞はさすがにアレですが(なぜあれをCMで使ったかな)、ほとんど声優初挑戦にも関わらず「高めの声で」なんてオーダーをこなさねばならなかったことを思えば、上々の出来でした。

ただ作品と同様、彼が酷評されるのも無理ないなとも思います。声質・声のトーン・台詞まわしの全てにおいて、彼はアニメーションの様式から外れていた。
彼に限らず俳優さんをボイスキャストに起用するさいにしばしば問題にされることですが、声優の演技は日頃は表情や仕草でも演じているところを声だけで表現することになるので、普段に比べて表現力が弱まってしまう。
だからアニメの声をあてる時はやや大げさなほどの声の出し方、台詞まわしをする必要が出てくる。
プロの声優さんはそれをちゃんと実行しているのですが、俳優さんが演じるとそこの部分が淡白になってしまい、アニメ声に馴染んだ耳には「棒読み」と響いてしまう。
まして勝地くんは普段から癖のない、わずかな表情や声の変化で感情を表現する芝居をする人なので、もともと持ち味がアニメ的表現法とは対極にある。批判を受けるのは無理からぬところでしょう。

ただ私のようなアニメ声が苦手な観客にとっては彼の、大げさなところのない非アニメ的な声は非常に心地よかった。
勝地くんが声をあてているということはほとんど意識せずにアギトの声に聞き惚れていました。

とくにはっとさせられたのは上でもあげた台詞未満の声。
例えばアギトがトゥーラを抱えて逃げる途中、シュナックに追いつかれ蹴落とされる時の「うわあっ!」という叫び。
『週刊なびTV』で初めてこのシーンを見た時、「えっ?」と思いました。上手く表現できないんですが声優さんの演技と何かが違う。
「わ」のところで声が裏返り、「うわあっ!」というより「うわあっ!?」という感じ(正確には「うわあ」という発音じゃないんですが、多分これが一番近い。他に置き換えられる文字がない)。
一瞬違和感を覚えたものの、思えば何らおかしくはない。むしろ声優さんの出す叫び声よりリアルかもしれない。
この場面以外でも「一瞬の違和感→こういう発声もアリだなという新鮮な驚き」を全編にわたって何度となく感じました。とくにヘタレ声の見事だったこと(笑)。
彼は近年あまりアニメーション映画を見ていないそうなので(子供の頃はそれなりにアニメを見てたようで、アフレコには関心があったそうです)、アニメの様式に則った発声が耳に馴染んでない分、自身の皮膚感覚に照らして自然だと感じる発声を行ったのだろうと思います。

この「皮膚感覚に照らした発声法」を強く感じた場面をもう一つあげると、前掲の「うわあっ!?」の少し後、シュナックの肩に両手をかけて逆立ちした体勢から彼の頭に回し蹴りを入れるシーン。
この時の「やあっ!」という掛け声にもう一つ力が入ってなくて、そのため渾身の一撃がヒットしたという感じがしない。
ただこのときのアギトの体の動きを細かくイメージしてみると、一連の動きの間腹筋にぐっと力が入っているはず。
空中で体をひねって蹴りを繰り出すので足を支柱にできない分腹筋で全ての動きを支えないといけない。その間呼吸が阻害されるので、声に力が入らなくなるのが自然なのだと気づきました。
理屈で考えてそういう声を出したのではなく、自身の皮膚感覚をアギトにシンクロさせた結果自動的にそういう声になったのでしょう。
おそらくプロの声優さんならこうした「リアルさ」より迫力を重視して、あえて腹に力の入った格好いい声を出すところでしょうが、この「リアルさ」が個人的には好もしかったです。

一方問題点もいくつか。1つは声の高さが不安定だったこと。つとめて高めの声を出してはいますが、ときどき声が低くなって(地声に戻って)しまっている(低いときの方がより好みの声だったりするんですが)。
もう1つは上でもちょっと書いた「トゥーラーー」の台詞。方々で言われていることですが、語尾が下がってそのまま声が消えていってしまうので、弱々しいというか気が抜けること甚だしい。
叫ぶシーンは(喉に負担がかかるため)最後にまとめて収録したそうなので、感情の流れが切れてしまったせいもあるかも。
まああちこちのインタビュー(「疲れてくると声がつい低くなってしまう」「ブースの中で動かずに声を出すので、遠くに向かって叫ぶというのがイメージし辛かった」「アニメは多少大げさに演じる部分があるので難しい」(すべて概要))を読んだ感じだと、本人も自分の問題点はわかっているので、またアニメ声優に挑戦する機会があったら、今度はもっとアニメファンの納得もいくものになるかもしれない。私個人としては、基本ラインはアニメの様式に沿わない彼のままでいてほしいですが。 

(つづく)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『銀色の髪のアギト』(3)-2(注・ややネタバレ気味)

2007-06-23 02:13:54 | 銀色の髪のアギト

そして作品に対する批判の主原因と思われるもう一つの要素、「ボーイミーツガール」(表テーマ)と「父と息子の物語」(裏テーマ)のずれについて。

これは(1)でも書いたように公式サイトや「Yahoo!ムービー 『銀色の髪のアギト』特集」で「ボーイミーツガール」を思わせる表現が多数なされていることからいって、宣伝の都合上、「少年と父との絆の物語」とするよりは「少年と少女の運命的絆の物語」(「異なる価値観の衝突と和解」というテーマをこの二人が負っているので、その意味では間違いではない)の方が冒険ジュブナイルとしてさまになるという事情があったのかなと思います。 

ところでこの「ボーイミーツガール」の問題について、勝地くんが興味深いコメントをしています。
『アギト』公開中に、アギト役の勝地くん、トゥーラ役のあおいちゃん、カイン役の濱口さんが作品のテーマについて述べるTVのスポットCM(『いま得!』)があったのですが、そこで勝地くんは、

「『アギト』はお父さんに対する想いだったりだとか親子愛だったりとか、人の生きる強さだったり、すごく壮大な物語になってると思いますし、その、人と人との繋がりをしっかりと描かれていた作品になっていると思います」(話言葉なので文法がちょっと変ですがそのまま書き写しました)

と話していました。

真っ先に「お父さんに対する想い」「親子愛」と言い、「恋愛」という言葉は全く使っていない。舞台挨拶(DVD特典ディスクに収録)でも作品のテーマについて「いろんな愛が入っているとすごく思います。家族愛だったり、人の、その、生きていく強さだったりだとか、そういうメッセージがあると思います」と話していました。
つまりはアギトを演じた役者自身がこの作品を「恋愛もの」として捉えていない。もし勝地くんに「アギトにとって一番大事な人は誰か」と質問したなら、きっと「お父さん」という答えが返ってきたでしょう。

杉山監督自身は、
「例えば男の子が女の子に一目惚れしたとします。(中略)一目惚れするのは楽だけど、その後、人としてどんな行動を取っていくのか。この映画ではアギトという少年がトゥーラという少女に出会います。アギトがそこでどう責任を果たし、自分の殻を破っていくのか。言い換えれば自分と身の回りにいる人との関係性、自分と家族、あるいは自分と国。(中略)僕が考えているテーマは、そこにありました。」(※5)

と語っているので、「ボーイミーツガール」もテーマに含んではいるけれど、恋愛という枠を超えたより広い「愛」がテーマ、という感じでしょうか。
DVD特典冊子のインタビューでは「テーマは人間関係ですよ。それも、基本的には親子の関係。」とはっきり答えていました。それも原案にはあまりそういうテーマがなかったのを杉山監督が付け足していったのだそうです。
実際作品を見るかぎりでは、アギトが行動する動機は第一に父および父の造った街にあるとしか思えなかったので、杉山監督の意図はちゃんと作品のカラーに反映していたんではないでしょうか

(ちなみに上記のTVスポットCMですが、あおいちゃんは「環境問題」、濱口さんは「音楽や絵の素晴らしさ」について触れていました。コメントが全員ばらけてるので「人」「森」「音楽など」でそれぞれ分担を決めたんでしょうね)。

 もう一つこの作品が「ボーイミーツガール」「環境問題」がメインテーマと見なされる理由として、『天空の城ラピュタ』『風の谷のナウシカ』などの宮崎駿監督作品にイメージが重なるため、というのもあるかと思います。
「ラピュタに似てる→ボーイミーツガール」「ナウシカに似てる→環境問題」という図式(まあ『ラピュタ』も『ナウシカ』も単純に「ボーイミーツガール」や環境問題テーマの作品とは言い切れないんですが)。

これについては杉山監督が「やはり宮崎作品の力は大きくて、アニメ界の隅々まで影響を及ぼしている。だから放っておくと寄っちゃうんです。(中略)よく見てもらえればわかると思うんですが、全然ジブリさんとは違う」とコメントしています(※4)。

この発言は「『アギト』は「ボーイミーツガール」「環境問題」の話じゃない」ことを主張するもののように思えます。
ただしこのあと「寄る」のを防ぐためにどうしてるかという流れで配色の話になってしまうので、「ジブリさんとは違う」のがストーリーの根幹なのか単に配色なのか、もひとつはっきりしない部分があるのですが。

※4・・・『銀色の髪のアギト コンプリート』(メディアファクトリー、2006年)のインタビュー

※5・・・『季刊DVDレビュー』85号

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『銀色の髪のアギト』(3)-1(注・ややネタバレ気味)

2007-06-20 02:01:16 | 銀色の髪のアギト

この作品が批判される点の一つに、森にまつわる設定(ゾルイドや双子)がほとんど説明されないことがあると思われます。
「森と人との共存」という「表」テーマより、「異なる価値観を持つ人間たちの衝突と和解」という「裏」テーマに力を入れたためでしょうが(それだけにキャラクターの感情、とくにアギトとトゥーラのそれは丹念に描かれていました)、だったらなぜ森に関して思わせぶりな設定を複数仕込んだのか。
森の方はもっと単純化して人間ドラマに集中すれば説明不足とは言われずにすんだのでは。

これはおそらくは途中で監督が交代したこと、そのさいにシナリオの大幅な見直しが行われた関係ではないかと思います。
最初の監督はスタッフロールに「原案」として名を連ねている飯田馬之介さんだったのですが、いろいろと事情があったものらしく、最初は演出として参加した杉山慶一監督が2003年以降後を引き継いだ。
この時点で、1999年から2000年にかけて製作されたパイロットフィルムの段階に比べて「暗く重いものに変質していた」作品を手直しし、パイロットに近いものに戻すことになったのだそうです(※3)。

ここからは類推になってしまうのですが、この時点で主たるテーマが「森と人との共存」から「人と人との共存」に移行したのではないでしょうか。
実際杉山監督は、
「一見、森や自然を中心に扱っているように見えますが、この話の帰結する先は自然ではなく人間です。(中略)もしこの『銀色の髪のアギト』という作品を誰かが違う演出をしたいっていい出したなら、森や自然を使わなくてもいいんです。」(※4)
語っているので、森や自然は杉山監督にあっては「人」の物語を描くうえでの媒介という位置付けなのだとわかります。

また同インタビューによれば、森の双子の設定については尺の都合で入らなかったとのこと(※4)。
他の箇所、たとえば人物描写を削ってでも森について説明を入れようとするのでなく、逆に森に関する説明の部分は切ってしまってでも「人と人」の方を優先した。
とはいっても予算と手間(+前任者への遠慮)を考えればそれまでに作り上げてきたシナリオやセル画をなるべく生かす形での変更を行ったのでしょうから、森について謎の問いかけ部分はそのまま入ってしまい、そのくせ解答は描かれない(観客の想像に任せる)結果となった、そういうことではないかと思うのです。
杉山監督自身も、
「オープニングと物語の前半は僕が作りました。ちょうど後半からは監督として携わったので、映画をトータルで観ると、そこに不自然さがあったり、自分自身納得していない点があることも確かです。でも、全体的な本編の質は悪くありません。(中略)演出として自分が作った部分が一番納得しているのは事実ですけどね。」(※5)
と話していました。

(つづく)

 

※3・・・杉山慶一監督のブログ「my god!it’s full of stars!」(http://blogs.yahoo.co.jp/origin_spirit)2006年1月2日付の記事。

※4・・・『銀色の髪のアギト コンプリート』(メディアファクトリー、2006年)のインタビュー

※5・・・『季刊DVDレビュー』85号

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『銀色の髪のアギト』(2)-4(注・ネタバレしてます)

2007-06-17 01:51:21 | 銀色の髪のアギト
・トゥーラの夢に登場する街がすごく日本(東京)ぽい。トゥーラ日本人?
そして友達(マリア)は手首に羅盤をしている。シュナックの羅盤も右腕だった。トゥーラだけ首に羅盤を付けたキャラ設定になっているのは、首輪-「現代社会の観念による束縛」をイメージしたものだろうか。
まあそれだとシュナックも首にしてなきゃおかしいという話になるか。

・サクル博士のホログラフィーは「プロジェクトの中心メンバーで唯一生き残った私」と言っているので、シュナックは中心メンバーではなかった模様。
まあ現在28歳ということはステイフィールドに入った時点では23歳だったわけですから、ぺーぺーで当然ですが。
ところでシュナックはイストークの場所を知らなかった。イストーク建造計画は知らされていても実際の建造に携わる前にステイフィールドに入ったということだろう。300年後に目覚めてイストークを起動するか否かを選択する役割を負って。
自分の羅盤を失ったためにトゥーラの羅盤をあてにするはめになったが、本来ならトゥーラがいなくても彼一人でイストーク起動は成しえていたのだろう。
彼が羅盤を失ってなければ、とっくに森も中立都市もふっとんでいたのかも。それとも森の逆襲にあって人類社会が根こそぎ滅亡していただろうか。

・「動く火山兵器」って・・・。全体像が出てこないのは、絵にするとギャグにしかならないからだろうな。
そのために最後の戦いの緊迫感がもう二つくらい伝わらなかったような。

・「兵器ってどういうこと?」。世界を元に戻すには現行の世界を部分的にもせよ消滅させる必要があるとわかり、トゥーラは動揺する。
彼女が世界を元に戻そうとする動機のうちには「アギトたちを間違った世界と価値観から解放して正しい世界で生きられるようにしてあげたい」という気持ちが少なからずあった。
おそらくイストーク起動にあたってトゥーラが期待していたのは、森の形はそのまま残して「意志」だけを奪い、それにともないアギトたち強化体も普通の人間に戻ることだった。なのに世界を回復するためにアギトたちが街ごと滅んでしまうのでは犠牲が大きすぎる。
迷うところへ、森の暴走はもともと自分が引き起こした事故が原因だと言うシュナックの告白が重なる。
この「間違った世界」を作リ出したのは、現在自分が取り戻そうとしている「正しい世界」の技術だった。ならばそれは取り戻すに足る「正しい世界」なのか?また新しい「間違った世界」を生み出す種を蒔くだけなんじゃないのか?そもそもこの世界は本当に「間違って」いるのか?
ここでトゥーラの価値観は急激に突き崩された。300年前のような世界を取り戻そうという信念が揺らいでしまったトゥーラには、そのためにアギトたちを犠牲にするなど出来ようはずもない。そこでトゥーラはシュナックと袂を分かつ。
最初見たときは彼女の翻意が唐突に思えたが(「兵器って~」の台詞から「そんなことさせない!」まで2分程度なので)、DVDで見返して、心理的な裏づけがちゃんと描かれているのがわかって納得。

・「もう奴らに邪魔はさせない。そこ(注・中立都市)でこのイストークを作動させる」という時のシュナックの表情には一種の狂気がある。
そもそもイストークの起動場所が中立都市である必要性はとくにないはず。むしろ森そのものを攻撃すればよい(自動的に中立都市にも被害は出るだろうが)。
あえて中立都市を起動地点にしたがるのは、彼の価値観を受け入れなかったヨルダやアガシらへの恨みつらみのゆえではなかったか。
まあたとえシュナックが中立都市にできるかぎり被害を出さず森だけを焼こうとしたとしても、森と契約したヨルダとハジャン、そしてアギトは森ともども消滅してしまいそうなので、やはりトゥーラとしては森への攻撃を認めるわけにはいかなかったろうが。
そういえば、やはり強化体であるシュナックは、自分は無事で済むつもりでいるのだろうか。それとも我が身を犠牲にしても贖罪と人類の未来のために、「狂った」森とそれに迎合し半ば同化して生きる中立都市を「浄化」して逝くつもりだったのだろうか。

・イストーク中心部に駆けつけてくるアギト。ジェシカたちの軍用列車?に同乗する場面はあったものの、本筋にからむのはかなり久しぶりな感じ。
この物語、一応の主人公はアギトだが、トゥーラ登場以降はむしろ彼女視点でストーリーが進んでいる。観客(現代人)が一番感情移入しやすいキャラだからであろう。

・シュナックの動きを封じるため力をフルに解放し樹木化したアギトを見るトゥーラの顔にアガシを見たときのような恐怖はない。
もはや強化体もその「なれのはて」も以前のように「化け物」と見なすことがなくなった、彼女の価値観の変化がわかる。

・強制停止されたイストークは自動的に自爆システムが機能してしまう。
中盤でトゥーラがつぶやいていたように、サクル博士はなぜか自分でイストークを起動させようとしなかった。そしてステイフィールドから目覚めた「選良」たちにイストークを起動させるかどうか選択を委ねた。
おそらく緑化プロジェクト時の(シュナックがやらかした)事故の激烈な被害で、人が自然をコントロールしようとすることの困難と傲慢さを思い知った彼は、イストークを作りこそしたが実際にリスクを冒してその劇薬を用いるかどうかは、イストークなしでどの程度凶暴化した自然と折り合えるものか300年ほど試してみたうえで、その時代に目覚めた人間の判断に委ねた、というところだろうか。
本当なら300年ただ寝ていた連中ではなく数世代かけて自然と折り合ってきた当事者たちが判断するのが妥当だと思うのだが、そうしなかったのは非文明化してるであろう彼らにイストークを扱えまいと踏んだものか。
まあ実際の起動者は過去の人間であっても、イストークに辿りつくまでにこの時代の人間と没交渉ということはまずないわけで、彼らとのコミュニケーションの結果も判断に生かされるのを前提にしてるんでしょうね。
またイストークには強制停止すると「機密保持のため」自爆するシステムが組み込まれていた。
一度起動しておきながら数十分のちに停止するというのは、起動派と反対派が激しく対立していて、イストークのシステム操作権を奪いあっている状況がまず想定される。
一時的に反対派が優勢になっただけかもしれないのに、恒久的にイストークを使用不能にしちゃっていいのか?自爆すれば回りに被害が出るし。
起動停止をもって「300年後に生きる人間はイストークを拒否した」と判断することにしたのだろうが・・・傍迷惑なお人だ。

・自爆しかけているイストークによる(中立都市への)被害を食い止めるため、軍を指揮するジェシカ。
ここからするとジェシカ自身もラグナという国家も中立都市に害意はもってないようだ。まあ中立都市にはラグナ人も少なからず出入りしているわけだし。
シュナックは個人的に中立都市に含むところがあったが、ラグナ全体としては基本的に「あそこはあそこで好きにすればいい」という不干渉主義だったんでは。
そういやラグナは何のためにイストークを手に入れようとしてたのだろう。シュナックがジェシカたちをシャットアウトしてイストーク起動を行おうとしたことからすれば、シュナック同様に「中立都市もろとも森を焼き払う」のが目的ではなさそう。
トゥーラが願ってたように平和的に森の力を奪うため?それともその破壊力を承知のうえで敵国に対する兵器として利用するため?「軍事国家」ラグナとしては後者っぽい気が。まあシュナックがイストークをどういうものとして説明してたかによるわけですが。

・「私きっとあなたの街好きになれるよ。あなたが住んでる街だもの。あなたが命がけで守った街だもの。」 トゥーラ自身もアギトの戦いの動機が自分そのものでなく中立都市にあることを理解していたようだ。
そして中盤でアギトがトゥーラに言った「この街のことをよく知ればきっと好きになる」という台詞に対する理想的な返答がここで出てくる。
トゥーラが再度アギトたちの価値観を受け入れて生きる決心をした(イストークを止めてしまった以上、もはや受け入れるしかないともいえる)のを示すシーン。

・アギトの木にすがって「私をひとりにしないで」と泣くトゥーラ。目覚めたさいの第一声?も「私をひとりにしないで!」だった。
トゥーラが人一倍孤独に弱い質らしいこと、それだけに一人300年後の世界に放り込まれたことがどれほどの苦痛だったのかがわかる。
ノベライズでは研究一途の父親に放っておかれて寂しい子供時代を送った事情が書かれていました。

・森に同化して別人のように穏やかになったシュナック。
研究者時代は成果を出すことに、現在は地球の生態系を狂わせたことに対する贖罪意識に追い立てられて、なまじ能力があるだけにその「暴走」が周囲に及ぼす被害も大きかった彼は、自身を駆り立て続けた「我」を離れる(奪われる)ことで精神の安寧を得たわけだ。

・謎の双子が融合して一人になり、またアギトも木になった実から再び産まれる形で無事生き返る。
これはおそらく、森がイストークの永久停止を「人間は恒久的に森を破壊する意志はない」という表明だと解釈し(森にとって脅威になりうる存在だったシュナックも森に同化してしまったし)、それによって森と人との関係がより友好的な段階に入ったことを意味する。
だからアギトは力を集中させた時一瞬樹木化しかかったもののすぐに治まり、力を完全にコントロールできるようになったのだろう。

・「僕たちはこれから森と人とを結ぶんだ。一緒に街に戻ろう」というアギトの台詞。
アギト自身は確かに「森と人とを結ぶ」ために蘇らされたのだが、アギトは「僕たち」と、トゥーラも同志にカウントしている。
二人は運命共同体という・・・一種無意識のプロポーズかな。

・笑いながら山肌を駆け下りる二人。トゥーラが肩につっぷしてきたとき、アギトはちょっと心配そうな、「泣いてるのかな?」という表情をする。
やや間があってトゥーラが明るく笑い出したとき、アギトはほっとしたように面映げな笑顔で目を閉じ、それからやはり笑い出す。
思うにトゥーラは最初本当に泣きかけてたんではないでしょうか。彼女にとってイストークの自爆は、自身が選んだとはいえ、「故郷」との決別と「異郷」で一生を送ることを意味しているのだから。
けれど「私きっとあなたの街好きになれるよ」という台詞にも表れているように、前向きに生きてゆこうと決めた彼女は泣く代わりに笑うことを選んだ。アギトの笑顔は、トゥーラの笑い声に彼女の「生きる」意志を感じ取ったからだろう。
笑い声のユニゾンに、価値観の違いゆえに先には対立した二人の心が一つになったことが爽快感とともに示されている。

・戻ってきたアギトとトゥーラを見つけたカインはアギトの名前を呼びかける。「嫁さんにする」とまで言っていたトゥーラに声をかけないのはなんだろう。
一方ミンカはアギトとトゥーラを見て顔を曇らせ、兄に促されても弱弱しく笑って小さく手を振るのみ。
「らしくないな。アギトとトゥーラが二人で帰ってきたのにやきもち焼いてるのかな」と思ったら、トゥーラが笑顔で手を振ると、ホッとしたように笑って大きく手を振り返す。どうもトゥーラに罪悪感を覚えるところがあって、彼女が手を振ってくれた(笑って許してくれた)ことに安堵したようだ。
罪悪感を抱く理由として考えられるのは、彼女が不用意にラグナの人間にトゥーラの話をして、シュナックとトゥーラの出会いを促してしまったことくらい。
トゥーラはあくまで自由意志でついていったのだが、「自分のせいでシュナックに騙されて連れ去られた」とでも思ってたらしい。
ヨルダのような街の中心人物を除けば、一般人は皆トゥーラのラグナ行きをシュナックが一方的に悪いと思ってるのかも。あるいはいなくなったこと自体知らなかったか?

・ずっと水不足に悩まされてきた中立都市に雨が降る。
シュナックのもとに走り、イストークを起動しようとすることで中立都市をいろんな意味で危険にさらしたトゥーラだが、彼女とアギトがイストークを止めた=完全破壊したことによって街と森との関係は以前より良好になり、結果森の管理下にあった水が人々に開放される。
ある意味トゥーラは街の功労者とも言える。結果論だけど。

・トゥーラが羅盤を谷底へ捨てる。先の笑い声に続いて、アギトたちと価値観をともにして生きる決心をより強く見せた場面。
「異なる価値観の衝突と和解」が作品のテーマと書いたが、和解は全面的にトゥーラがアギトたちに歩み寄る形でなされている。
この世界ではトゥーラは圧倒的少数派(国周辺の森を焼いたラグナにしても「正しい世界」を復活させようなどと思ってるようではない。そもそも「正しい世界」がどんなものか知らない)だし、トゥーラの父たちのプロジェクトで疲弊しきった世界を苦心惨憺してここまでの環境に整えたのは、この世界の人たちの代々の先祖である。
望んだわけじゃないとはいえ、その間ただのうのうと寝ていただけのトゥーラの「世界とはかくあるべき」より、彼らの「かくあるべき」が優先されるのが正しいのだろうけど、せめてアギトにはいつか彼女の当時の気持ちをちゃんと理解してあげられるようになってほしい
(一度木に取り込まれて戻ってきたさい「わかったんだ。ぼくらはみんな、繋がっている」と言っているので、ともに木に飲み込まれたシュナックや、トゥーラの気持ちもいくらかはわかるようになっただろうか?)。
その時本当の「異なる価値観の和解」がなされるんじゃないか。容易に解決される問題ではないだけに、全面的なハッピーエンドにはせず、未来への課題を残すという形をとって物語は幕を閉じます。

 

今回DVDを見返して思ったのですが、この作品に「やはり自然は大切にしなくてはいけない!」という感想を持ったとしたら、それは鑑賞法として間違ってるんじゃないか。それもまた一つの価値観というにすぎないから(矛盾を承知であえてこういう書き方をします)。
「○○するのが正しい」と思ってしまったら、それに反する価値観を持つ人間が現れたとき、意見を受け入れられないどころか、相手が何を主張しているのかさえ理解できなくなってしまう。時には相手の「間違った」考えを力づくでも変えさせようとすらしてしまう。過去の文明を復活させようとするトゥーラの価値観をシュナックに洗脳された結果としか見られなかったアギトのように。自ら強化体になることを選んだアギトの自由意志を「間違った世界」に洗脳されたがゆえの悲劇としか理解できず、「正しい世界」を与えてやろうとしたトゥーラのように。
相手の主張するところが自分の考えとは全くかすらないとしても、そういう価値観も存在するのだということ、その人にはその人なりの思いがあるのだということを、理解できないまでも尊重する気持ちは持っていたい。そうすれば「和解」は無理だとしてもせめて不干渉並立は可能にできるかもしれない。実際軍事国家ラグナはそのあり方を悔い改めたりしていないし、工業都市トリアシティはこの先も大気を汚しながら工業製品を作り続けるのだろう。それも一つの価値観としてこの作品は否定せずに受け入れている。
「○○するのが自分にとっては正しいけれど、人にはそうじゃないかもしれない」。この当たり前のことを忘れないでいたいと思いました。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『銀色の髪のアギト』(2)-3(注・ネタバレしてます)

2007-06-13 01:03:34 | 銀色の髪のアギト
・軍事都市ラグナに着き列車を下りるなりトゥーラは激しく咳き込む。先にアギトに「ここ(注・中立都市)の空気も好き」だと語った場面と対比して、彼女がラグナに馴染めないだろうこと、最終的に中立都市を選ぶだろうことを暗示している。
しかしシュナックもジェシカも自分たちだけ汚れた空気を遮断するためのマスクをしている。トゥーラにもマスクやれよ。

・ラグナと中立都市の関係は『風の谷のナウシカ』の軍事国家トルメキアと風の谷のそれを思わせる。トルメキアにはペジテという敵国があったが、やはり軍事国家だというラグナはどこと戦っているのだろう。
設定資料によると「他の国とも戦闘状態にある」そうなので、ラグナと中立都市以外の国も存在しているらしい。本編ではそのあたりの設定が見えにくいのが世界観を弱めてしまったかも?
(ちなみに『ナウシカ』原作ではトルメキアの交戦国は土鬼(ドルク)諸侯国。映画版のペジテは原作の土鬼と平和な工房都市ペジテを合わせたものなので、以前からの敵対関係にあったと言えるかどうか、やはり設定が見えにくくなってる感はある。)

・空気を激しく汚染しつつ生産物を造りつづけることでかろうじて文明を保っているラグナの人々。
そこまでして保たれる文明のいびつさ、それは保持するに足るものなのか?と現代文明を想起させつつ観客に問い掛けている場面。
まあ「人を襲う森」もいびつじゃないとは言えないけれど。

・アギトが強化体になるべく森に行ったのを悟って止めに行こうとするミンカ。
彼女の父ハジャンも強化体なので強化体を恐れる気持ちはないだろうが、逆に強化体のリスクは人一倍わかっているはず。ゆえに彼を案じないではいられないのだろう。

・アギトは自分の意志で森へ行くと決めたのだからとミンカを諭すハジャン。
アギトの心がわかるのは彼自身も、そしてアギトが敬愛する父アガシも、そうやって自ら決心して強化体となったからだろう。出番は少ないもののその生き方の重みが感じられる台詞。

・森の双子に出会い強化体となるアギト。格別儀式らしいものも試練もないので、わかりやすい試練が描かれない分、絵的にもエピソード的にも盛り上がらない感はある。
まあ『アギト』の世界観で行くと、なかば森のコントロール下に置くことができるのだろう強化体志願者は、森にとって歓迎できる存在なのでは。もし力を使いすぎて樹木化しても森の方は痛くもかゆくもないので、ことさら試練を課す必要もないというか。
とくにこの時は「トゥーラをシュナックから引き離したい」という点でアギトと森の利害は一致していたのだから、アギトの志願は願ってもない話だったろう。
むしろアガシの樹木化を見るに、これからいかに力を運用してゆくかが「試練」だといえる
(シュナックが主人公の番外編小説によれば、森に気に入られないと森に取り込まれてしまうらしいので、気に入られることも試練なのかも)。

・強化体の力を試すアギト。DVD特典のパイロットフィルムではアギトの他にもう二人の強化体の人物が登場してました。
構想通りに作れば5時間をオーバーしたはずという作品を1時間半にまとめる中で二人の存在を削り落とし、物語の焦点をアギトの周囲に集中させたのでしょう。『スピリット』から『銀色の髪のアギト』にタイトルが変更されたところに、その圧縮過程が表れているように思えます。
またパイロットの強化体三人組の男二人女一人という編成はアギトの父アガシ、ハジャン、ヨルダを彷彿とさせる。削ったキャラが親の世代の設定に生かされたのかも。

・「父さんと最後に約束したんだ。過去の文明を復活させちゃいけない」。
トゥーラやシュナックが取り戻そうとする過去の文明=彼らにとっての「正しい世界」は、つまるところ「森が人を襲う世界」を生み出した原因である。
過去の文明を復活させればまた同じ過ちを繰り返すだけ。荒廃した世界に街を築くために生涯を捧げたアガシにはそれが身に沁みてわかっていたに違いない。
そしてトゥーラに「一緒に帰ろう」と告げたあとに続ける台詞がこれであることに、アギトの行動理由は第一に「父との約束」なのだとわかる。

・助けに来たばかりなのに催眠ガスでさっさと眠らされてしまうアギト。このへんはあっさりしすぎてちょっと拍子抜け。
一戦交えたあととかならもっと自然だったと思うんだけど。

・「森がすごく怒ってるんだ」とトゥーラに言うアギト。トゥーラが「森の敵対者」であるシュナックのもとに行くことは森を刺激し、小さな問題はあれど森との共存を保っている中立都市の存亡に関わる。
もともと共存関係といっても森の方が人より強いので、圧倒的に森優位、人は森のルールに従うことで生存を許されているような感じである。
とくに生贄を要求したりするでもなく、わりあい穏やかで扱いやすい相手なのだが、トゥーラやシュナックには、人が森の下位に置かれてそれを当然のようにしているというのが信じがたいし腹立たしい。
上記のアギトの台詞を聞いたときのトゥーラの見下したような憐れむような表情は「なによ森ごときにそんな卑屈になって!」と言いたげだった。
トゥーラ役宮あおいちゃんの声のトーンにもその憐れみと苛立ちがよく表れていた(彼女は声質もアニメ向きですね。トゥーラのキャラによく合ってました)。

・捕らえられたアギトとトゥーラの会話。
アギトも、そして今やシュナックという同意者を得たトゥーラも自分の価値観が全てになっていて、それに対立する相手の価値観は間違いだと決め付けてしまっている。
お互い相手を気遣う心はあるのに、それが「自分が彼(彼女)の間違った価値観を矯正してあげなくては」という方向に向かってしまう。
トゥーラはアギトが強化体になったことを、「間違った価値観に洗脳されているせいで自ら化け物になってしまった悲劇」と捉えているが、アギトにとっては、それは自身の意志で父と同じ「英雄の肉体」を手に入れたという、リスクはあれども誇るべき出来事なのだ。
そうしてお互いに「なんでわかってくれないんだ!」と、相手を思うゆえに苛立つ(トゥーラの方などアギトの「頑迷さ」を憐れむあまりに別れ際に涙ぐんでさえいる)。
この場面に至るまでに、エピソードの積み重ねの中で二人の考え方がしっかり描かれているので、トゥーラの言葉にアギトがどう返すか、それにトゥーラがどう反応するかが全部読めて、両方に感情移入してしまった。全編で一番好きなシーンです。

・アギトが手枷を外そうと暴れるさいの「あああああ!!」という叫び声が妙に色っぽい。男の色気ではなくて、伸びやかさと不安定さが混在する青少年の色気。
アギトは15歳とはいえ外見的には10~12歳くらい(背もトゥーラより小さい)。普通なら女性の声優さんがやるような役なのになぜ当時19歳前後(収録が誕生日の前か後かわからないのでこう書きます)の勝地くんが?と思ってたんですが、この色気は確かに女性の声優さんの少年ボイスにはないものかもしれない。
ただアギトが色気の求められるキャラかというと・・・?(『銀色の髪のアギト コンプリート』のイラストでも銀髪のアギトは妙に色っぽかったりするので、求められてるのかも。このへんについては(4)で)。

・列車のあとを追おうとするアギトが「トゥーラー!」と繰り返し叫ぶ。こういうシーンがあるからトゥーラに惚れ切ってるように見えてしまう。
「トゥーラを取り戻して街を救わなきゃ!」の省略形としての「トゥーラ!」なんでしょうけど。無言で走ってるだけだと絵にならないというのもあったかも(だったら絵で出さなきゃいいわけだが)。
あとシチュエーション的にどうしても『ラピュタ』のパズーが「シーター!」と叫ぶ有名なシーン(公開当時CMでも流してた)を思い出させる。
ゆえに観客が自動的にパズーとシータの関係をアギトとトゥーラに当てはめてしまい、結果上手くはまらない(『ラピュタ』では二人の価値観は常に一致していたので、はまらなくて当然)→出来が悪い、という評価に繋がってしまったように思われて、とても残念です。

・「ちょっとした癖の一つまで父親ゆずりね、アガシ」。どことなく色香を漂わせるヨルダの台詞に、彼女とアガシの間に男女関係があったことが匂わされている。
その少し前の、ヨルダがアギトの額に手を当て暴走を止めるシーンで、目を閉じた二人の横顔がことのほかよく似ているのも、彼らに血の繋がりがあるのを暗示しているよう。
ノベライズでははっきりヨルダがアギトの母親だと書いてました。なぜそれがアギトに秘密にされてるのかは不明ですが。

(つづく)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『銀色の髪のアギト』(2)-2(注・ネタバレしてます)

2007-06-10 01:53:50 | 銀色の髪のアギト
・廃墟となったビルから使えそうな物資をサルベージする。『アギト』の世界観の中で一番面白かった部分かも。

・トゥーラは何のために一人森へ向かったのだろう。
「ずっと眠っていればよかった」という台詞からすると、ステイフィールドに戻るまではしないでも、少しでもこの世界から遠い、故郷に近いところに行きたかったのだろうか。

・この街になじめないことに悩むトゥーラに「この街をよく知れば絶対好きになるはず」と励ますアギト。
ここの場面はアギトの思いやりと真っ直ぐな性格、それを受けてのトゥーラの心の和らぎを示している(杉山監督は二人の心が近付くイベントとして挿入したここのシーンが一番のお気に入りだそう)。
が、それと同時に、アギトにはトゥーラが街のことをよく知ってなおそれを嫌う可能性ははなから頭にないこと、「中立都市を嫌う」という価値観は全く理解の外という彼の一種の視野の狭さ、独善性(中立都市しか知らないのだから仕方のないことだが)もうかがわせる。これが後のトゥーラとの「対立」につながっていく。

・「中でも僕の父さんが一番頑張ったんだ」。銀色の髪の三人の中でアガシだけが樹木化してるあたりからして事実なのだろうが、アギトの父親自慢がわかりやすく出ている。

・「この街を造った」アギトのお父さんに会ってみたいというトゥーラ。
タイムスリップとか異世界に飛ばされたとかなら元の世界に戻れる可能性もある(時間なり空間なりの復元作用によって元に戻れるのがSFのお約束)のかもしれないが、寝ている間に300年経ったというのでは過去に戻ることはまず不可能。
この世界で生きるしかないのだから、腹をくくって前向きに行こう、というトゥーラの心境の変化が、積極的に人、それも街の象徴ともいうべき人物と交わろうとする態度に表れている。

・アギトやカインが軽々渡る玄関前の梯子を四苦八苦してようやく渡るトゥーラ。
アガシとの衝撃的な出会いに先立って、この世界で生きようという決心が揺らぎかかるようなイベントを入れてある(カインによるとミンカは毎日アギトに野菜を届けてるそうなので、彼女も軽々渡るのだろう)。

・木と同化したアガシとの出会い。この世界で生きようと思いなおしたところだったのに、彼との出会いがとどめを刺してしまう。
アギトにとって父はこんな体になるまで街のために尽くした英雄であり、今の彼の姿を誇りとさえ思っている。だからこそ堂々とトゥーラに引き合わせたのだが、トゥーラの目にアガシは「化け物」としか映らない。
そして人を化け物にしてしまう世界、それを疑問にも思わないアギトたちとの価値観の相違にトゥーラは打ちのめされる。

・シュナックという「現代人」を知っているアガシはアギトと違い、この世界に対するトゥーラの困惑や反発をおおよそ理解し思いやっている。
同時に森と共生する街の人間として、トゥーラが来たことで森と街のバランスが崩れてはいけないとも思っている。
両方を考え合わせたうえで「(この街を)受け入れられなければ、もう一度眠ったほうがいい」と忠告する。それがトゥーラにとっては「この世界から拒絶された」と響くことを承知した上で。
このタイミングでシュナックがこなければ、トゥーラはアガシの言葉を熟考し、迷いつつもこの街で生きるかフィールドに戻るかを決めて、どちらにせよ街の平和は守られた(あえてきつい忠告をしただけの甲斐はあった)だろうに。

・街の食堂で働くミンカ。恒常的な水不足にさらされつつも、今のところ外食産業は無事繁盛している模様。
物がなきゃないなりに工夫して生活を成り立たせてゆく人間の明るさ逞しさを感じさせる描写で、短いながらも好きな場面の一つ。
ところで13歳のミンカはこうやって働いているが、15歳のアギトと16歳のカインも働いたり学生やったりしてるのだろうか。廃ビルからのサルベージは「奉仕活動」(それも「悪さ」の罰で与えられた臨時の仕事)だしなあ。

・トゥーラとシュナックの出会い。
アガシとの出会いを通し、この世界の人たちとのどうしようもない感覚の断絶を覚えているところへ現れた同じ過去から来た人間。同じ価値観を共有する「話のできる」人間。
しかも父を知っているという。彼と話してトゥーラは元の世界を取り戻す方法があると知る。
もちろん元の世界といっても、「森が人を襲わない世界」というだけで300年前の家族や友人を取り戻せるわけじゃないから本当に彼女の「ホームシック」が癒されるかは疑問だが、他の選択肢がなかったゆえに当初はこの世界の価値観を受け入れようとしたトゥーラは、自分本来の価値観が通用する相手を見つけ、その価値観に従った世界を甦らせたいと願ってしまう。トゥーラがシュナックについて行くのは自然な流れである。
この場面以降トゥーラのアギトに対する態度は「間違った世界に生まれたために間違った価値観に洗脳されてしまった可哀想な子」という哀れみに満ちたものになる。

・トゥーラがシュナックについていったのは父の意志を継ぐという意味も多分にある。たびたび提示されてきたアギトの父への思いと対になる設定。

・サクル博士(トゥーラの父)の「緑化プロジェクト」は博士の死後中断され、「(中断したために)ここまでの事態(注・森が人を襲うような事態)を引き起こした」とシュナックは説明する。
しかし「緑化プロジェクト」なんだから中断された結果緑が枯渇するならわかるが、逆に人間を襲うまでに繁殖しているのは理屈に合わない。
この時点でシュナックが「ここまでの事態」が起こった真相を隠していることの伏線。

・「私には時間がない」というシュナックの台詞にあわせて彼の左腕に草の蔓が蠢く。
このまま行けばシュナックも遠からず樹木化する運命にあること(一切強化体の力を使わなければ大丈夫なのかもしれないが、今回がそうであったように使わざるを得ない事態がしばしば起こってるんだろう)、本人もそれを知っているからこそ一刻も早くイストークを起動して森を滅ぼしたいのだろう(後で列車の中でトゥーラに改めて説明してもいる)。

・トゥーラはシュナックの右腕を見て「羅盤!」と言い、彼が自分同様過去の人間であることを知るが、シュナックは羅盤をなくしたと後で語っている。
シュナックの右腕の羅盤?はトゥーラが首にしている羅盤とは形状が違うので判断がしにくいが、あれは羅盤の一部が失われた状態で、そのため機能をなさないということなのか?

・襲ってきた森からトゥーラをかばうシュナックのマスクが外れて初めて素顔(美形)が明かされる。ベタだが魅せる演出。
少し後にアギトが兵士の体を乗り越えたさいマスクが落ちて、女(ジェシカ)だと発覚するシーンも同様。

・アギトにとっては、シュナックはともに街造りに尽力した父たちを裏切った男である。父を裏切った男など彼にしてみれば問答無用で大悪人と決まっている。
「だからトゥーラは悪くない。シュナックがトゥーラの不安につけこんで彼女を連れ去ったのだ。」とアギトは考える。
トゥーラの行動が彼には理解不能であるゆえに、シュナックについていったのはトゥーラの自由意志だということ、その裏にどんな思いがあったかということを忖度せず、「シュナックに洗脳されたんだ」と考えてしまう
(ある意味「トゥーラを悪く思いたくない」という彼女に対する優しさの表れでもあるのだが)。
トゥーラはシュナックに出会ってアギト(たち)の価値観をはっきり拒絶するようになったが、アギトは最初からトゥーラの価値観を(異なる価値観の存在自体を)認めていない。周囲の価値観も自分のそれと同じであるゆえに、それ以外の価値観というものが想像もできない。
「アギトがストーカーみたいで気持ち悪い」という批判を何度か目にしましたが、彼女の意志を全く無視して自分の価値観を押し付けているという点では的を射ていると思います
(DVD特典などで杉山監督が語っていたところによると、女性スタッフからも同様の意見が出たため、「ストーカーみたい」な描写には多少修正を加えたそうです)。

・トゥーラがシュナックについていったことにより森と中立都市のバランスが崩れ、それを少しでも緩和する仲介役となるためにアガシは「森に沈む」。
その決意を聞いたとき、アギトは一瞬泣きそうな顔をするがすぐに顔を引き締め(でも目は悲しげなまま)「はい」と答える。
どのみち父の死は時間の問題であり、以前からその日のための覚悟はしてたのだし、父は自分の意志で死ぬべき時を決めたのだとわかっているから、父を敬愛すればこそその決定に異を唱えたり取り乱したりしてはいけないと思っている。そういうアギトの「男気」が光る場面。
とはいえ「自分がトゥーラを止め切れれば父の死をもう少し先に延ばすことができたのに」という後悔はあっただろう。
自分の非力が父の死期を早めた、「もっと自分に力があれば」、その思いが彼が強化体になる直接の契機となったように思えます。

・「風も雨もお日さまも入るようにしたよ」。
今までアギトが、父の体に障らぬよう外の光を遮断した薄暗い部屋で文句も言わず生活してきたのは父への愛情ゆえ。家の被いを外して、父が生前長らく触れることができなかった外の空気を存分に味わえるようにしてあげようとする哀しい心遣いも父への愛情ゆえ。
「太陽」でなく「お日さま」という柔らかな表現も含め、『アギト』の中で一番好きな台詞です。
その後の「父さん、僕・・・」と湿りかかった声を引き締めるように「森へ行きます」と静かに、しかし決然と続けるのも(その声のトーンが)好きです。
恋愛ものより親子ものを多く演じてきた勝地くんには、「トゥーラへのほのかな憧れ」より「父との絆」の方がより思い入れしやすかったんじゃないでしょうか。

(つづく)



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『銀色の髪のアギト』(2)-1(注・ネタバレしてます)

2007-06-07 01:44:22 | 銀色の髪のアギト
改めてDVDで見たうえで心に残った箇所の感想。

・月から伸びた木々が、大気圏に突入し燃え上がってもなお原型(葉の部分をも)保っている。そこまで生命力に満ち満ちた植物を生み出してしまった、ということか?
科学的には無理がある設定を、理論武装や映像ないし文章の力でいかにもそれらしく見せかけた刺激的な嘘をつくのはSFの本領だと思いますが、ビジュアル的には成功してるんでは。
KOKIAさんが歌うオープニング曲「調和」の、何語ともつかない歌詞(実は日本語の歌詞をローマ字化して逆から読んだもの)の祝詞めいた響きが、このシーンに神話的な厳かさと迫力を付与していて、人の身にして自然をコントロールしようとした傲慢さに対する「神による断罪」をイメージしてしまいました。

・アギトの実年齢は15歳、カインは16歳だそうですが、テクノロジーの恩恵を受けない素朴で野性的な環境に生きる彼らの精神・外見の年齢は10~12歳くらいのもの。
物語の初期、水場まで競争する二人の無邪気で冒険好きな言動にそれが表れている。

・お尻に小石がささった時のアギトのコミカルな表情と動き。全体のストーリー展開ばかりでなくこうした細部の演出も『未来少年コナン』『天空の城ラピュタ』など宮崎アニメを彷彿とさせる。
まああれらはジュブナイル冒険物語の王道なので、良い物を作ろうとするほどにどうしても似てしまうのは仕方ないかも。
『銀色の髪のアギト コンプリート』収録の杉山慶一監督インタビューによれば、監督はなるべくジブリ路線に寄るのを避けよう避けようとしていたそうですが。

・「これで父さんの乾きが癒せる」。ただ無茶な冒険を楽しんでるように見えたアギトの優しさ、家庭に事情があるらしいのにそれにめげていない心の強さが初めて示されるシーン。
この場面の勝地くんの声も落ち着いた優しい声音で、全体に無邪気で幼いのに一面すごくしっかりしたアギトの性格を体現している。

・「親父さんがいなくなったらどうするんだ?」とアギトに尋ねるカイン。アギトの父が病気らしいことは先の「乾きが癒せる」発言に表れていたが、それが死病であることが続いて匂わされる。
ごくあっさりとそれを口にするカインの姿に、悲しい事実も事実として素直に受け入れる彼やアギト、おそらくはこの街の人々にも共通する気質が見える。
厳しい環境の中で生活する人間には過剰に悲しんだり同情したりする余裕はない。けれどそこにはベタつかない優しさも同時に存在している。
「死んだら」でなく「いなくなったら」と表現するカインの気遣いがそれだろう。カイン役濱口さんの声のトーンにもさらっとした思いやりが滲んでいた。

・父の死後はこの街を出て、かつての父のようによその街を切り開きたいと夢を語るアギト。
後にトゥーラに語るように、彼は中立都市に強い愛着を抱いているのだが、だからこそ「ずっとこの街にいたい」ではなく「父がしたように第二の中立都市を自分の手で作りたい」という発想になる。
父アガシと同レベルの偉業を行おうというのだから、おそらくトゥーラの件がなくてもアギトはいずれ強化体になっていただろう。
強化体にならなければ到底都市建設などできそうもないし、ましてアガシにはヨルダとハジャンという同志がいたがアギトは一人でそれをしようというのだから(カインに一緒に行く意志はなさそうだ)。

・「おまえがいなくなったらミンカが寂しがるよ」というカインの台詞に、アギトは顔を赤らめるでも困った顔をするでもない。きょとんとしたような表情のまま。
アギトがミンカに格別の興味を持ってないことが示されているように思える。

・「ガキどもがまた悪さしよったんじゃー!」という見張りの老人の言葉に、ミンカが一瞬「あちゃー」という表情をする。
アギトとカインがしょっちゅうこの手の騒ぎを起こしているのがわかる(ヨルダもあとで「またあなたたちなのね」と言っているし)。
今回はいささか規模が大きかったようだが、「所詮は子供のいたずら」と思い捨てているので本当の緊迫感はない。
だからこそあとで水を抜かれたときに、「なんでこんな程度のことで?」とばかりに皆驚いているわけだ。

・水路を流されつつ泳ぐアギト。なんかもうすっかりジブリフィルターがかかっているので、つい『カリオストロの城』を思い出してしまう。
ジブリの影響を感じさせないジュブナイル冒険アニメを作るのはほとんど不可能事だなこりゃ。

・トゥーラを発見するアギト。
ノベライズでは中立都市の人間とは体型からして違うトゥーラにつくづくと見惚れる描写があるが、映画のほうでも、水を飲むさいに水滴が喉を伝い落ちる(このとき首の羅盤を自然な流れとしてアップで見せ、後の伏線とする)とか、壁?を伝い登るのに膝上20センチ以上と思われるワンピース?姿でアギトのすぐ上を進むとか(パンチラ必至)、アギトの体を踏み台に上に登るとか、濡れた服が体に張り付く(しかも肩が見える)とか、地上に脱出するまでのトゥーラの描写は繰り返しエロティシズムが強調されている。
出会ったばかりのトゥーラにアギトがほのかな憧れ(アギトのメンタリティはまだ恋を知るには幼すぎる)を抱く理由付けだろう。

・急流の中をアギトともども泳ぐトゥーラ。アギトを踏み台に上に這い登る場面といい、この時はこの世界の人間にそう劣らず身体能力高そうに見えるのだが。火事場のバカ力?

・羅盤の感知装置?に砂がこびりついてるのを拳で叩き落として無事作動させるトゥーラ。
シュナックに逆らう場面以降彼女が示す思い切った行動力を暗示するシーン。

・羅盤によって通路の扉が開いたとき、水が迫ってきているにも関わらず、アギトは自分がまず中に飛び込むのでなくトゥーラを先に通している。
自分が盾になることも覚悟のうえで、一瞬でも早く彼女を安全な場所へ逃がしてやろうという男気(悲壮な決意などというものではなく、当たり前のこととしてそうしている)を感じます。

・「あれが中立都市、僕らの街さ」。明るく誇らしげに指さすアギトに対し、トゥーラは自分の知る世界との変わりようの凄まじさに愕然とする。
この作品の核心である「異なる価値観の相克」が最初に描かれる場面。
勝地くんは『QRANK』2005年12月号のインタビューで、この場面が一番印象的だったとして、
「もし、僕が今、300年前の日本人を連れて東京を案内したら、もしかしたらトゥーラと同じ反応をされるんじゃないかって思ったんです」
「今、置かれている現状に慣れてしまっているから普通にしていられるだけで、本当はもうよくない状態に陥っているのかもしれない」
と語っている。
彼がこの作品に「環境問題」(これもテーマの一つとして『シネマ・シネマ』2006年1月号などで言及している)だけでなく「自分の価値観を絶対的なものだと信じることの怖さ」を見ていたのがうかがえます。

・トゥーラが目覚めたときにはシュナックという前例があったためまだしも対応できたが、シュナックの時は右往左往だったろう。
シュナックとしても自分の当惑を理解してくれる人間は誰もいなかったわけで、その点トゥーラより気の毒である。
もっともラグナの兵士?がトゥーラの「目覚め」を「シュナック大佐以来か?」と表現してたので、シュナック以前に目覚めた人間がいる可能性も。

・アギトが「トゥーラ」と呼ぶ発声がときどき「テューラ」に聞こえる。「トゥ」の発音苦手なんだろか。評判の悪い「トゥーラーー」の叫び声はそのへんも関係しているような。

・ハジャンの家の一家団欒を見せた直後にアギトの個食かつ内容の侘しい食事シーンを描く。
対比的に描かれた場面だが、「あち、あち」と呟くときのコミカルな動きと、父に語りかける明るい笑顔のせいかアギトは寂しげには見えない。
その芯の強さと、一緒に食事は取れなくともそばにいる父の存在が、彼に寂しさを感じさせないのだろう。
暖炉の火の赤々とした色がそんな彼の家庭の暖かさを象徴している。

・水を入れたバケツを二つ平気で持ち運ぶミンカと、一つでも足元のおぼつかないトゥーラ。
この水運びの場面を長々と(トゥーラの頭上から太陽が燦燦と照りつけるカットまで入れて)描写することで、年下の小柄なミンカより力がないトゥーラの現代人らしいひよわさと、そんな彼女がこの世界で生きていくことの困難、それに対するトゥーラの不安をきっちり描いている。

・羅盤をめぐるトゥーラとミンカの問答。
自分の他愛ない冗談がトゥーラにとってどれだけの痛恨事を引き起こしたかまるで理解していないミンカと、自分はよそ者だという意識があるだけに強く出られないトゥーラ。
ミンカの無神経さが幼さや彼女個人の性格の問題というだけではなく、ある程度この街の人の共通傾向だと感じ取れるだけに(アギトだって、中立都市を初めて見たときのトゥーラの驚愕を全然理解してるふうではない)、彼らに比して繊細すぎるトゥーラが孤独感を深めてゆくのがわかる。
ところで羅盤に連絡してきたのは誰だったのか。シュナックの羅盤は失われているはずだし?

                                             (つづく)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『銀色の髪のアギト』(1)(注・ネタバレしてます)

2007-06-04 01:18:45 | 銀色の髪のアギト

2006年1月公開のアニメーション映画。勝地くんは主人公アギトの声で出演。

勝地くんが出てるとはいえ声だけだし、原則的に近年のアニメは苦手だし、どうしようかなと思ってたんですが、あまりの評判の悪さ(最近ぼちぼちプラスの評価も見かけるようになってきましたが)にかえって気にかかり、結局見に行ってきました。
傑作というにはいろいろと問題点があるものの、個人的には十分良作の範疇に入る作品でした。


もっとも、これは評価が低いのも無理はないな、とも感じた。
どうやらこの映画は「主人公の少年アギトが過去からやってきた少女トゥーラと運命的な恋に落ち(ボーイミーツガール)、彼女のために戦う中で、森と人とが共存して生きる道を模索する(環境問題)様を描いた物語」だと理解されているようだし、私も実物を見るまでそういう作品なんだと思っていた。
映画の宣伝の仕方も(特に「ボーイミーツガール」について)そうした「誤解」を積極的に促進しているかのようだ(※1)。 
だから「アギトが出会って間もないトゥーラのためになぜそこまで必死になるのかわからない」(※2)、「肝心の森にまつわる設定がろくに説明されない」という批判が出ることになる。

けれど実際に鑑賞してみると、どうもこれは「ボーイミーツガール」や「環境問題」が本質的なテーマではないんじゃないか。
それらも作品の構成要素の一つではあるが、あくまでもサブテーマ。

アギトがトゥーラを取り戻すべく死力をつくすのは、トゥーラ本人のためというより、彼女の身柄を確保できるかどうかにアギトが暮らす都市の存亡がかかっているがゆえである。
アギトがトゥーラに語った街への愛着、死にゆく父に「街を守る」と約束したことを踏まえれば、アギトが戦う主たる動機は父親と彼が作った街にあるのがわかる。
トゥーラに一応の好意を抱いてはいるだろうが、それは恋というより年上の美少女へのほのかな憧れと、いきなり知らない世界へやってきて不安がってる女の子の「力になってあげなくちゃ」という素朴な義侠心の域を出ていないように思える。

また、環境問題が主要テーマであるなら、アギトたちが暮らす300年後の世界の荒廃は人類の自然破壊がもたらしたもの、という設定にしたであろう。
しかしこの作品はその原因を一人の科学者の功名心が引き起こした「事故」であるとした
(「地球緑化プロジェクト」が行われたゆえに事故が起きたという意味では自然破壊が間接原因と言えなくはない。また「人間が生態系をコントロールしようとすること自体が傲慢」という思想も背景にあるだろう)。
思うに環境問題-「森と人との共存」については実はさほど重きを置かれていないのではないか。ゆえに描写が薄くなる。

物語の焦点はむしろ「人と人との共存」、異なる価値観を持つ人間たちの衝突と和解にある
(公式サイトの宣伝文も実はちゃんとこのテーマを前面に出したものになっている。環境問題がテーマという先入観があったんで最初は見逃してしまっていた)。

これはトゥーラの視点から見るとわかりやすい。
突然一人300年後の世界で目覚めたトゥーラ。しかもそこは「森が人を襲う」という彼女の常識を凌駕する場所だった。
元の世界に帰るすべがない以上、何とかこの街でやってゆくしかないが、アギトの父との出会いを経てこの世界で生きることにほとんど絶望する。
そこへ同じ過去の人間シュナックが現れ、昔のような世界を取り戻す方法があると知って彼に従う。
アギトは彼女を連れ戻そうとするが、過去の世界こそ良しとするトゥーラと今の世界を良しとするアギトの主張は全くの平行線。
しかしイストーク発動直後のシュナックの告白によりこれまでの価値観が崩れたトゥーラはアギトと「和解」して街を救う。

それがこの物語の基本構造なのではないか。
物語の「実質」と「これは〝ボーイミーツガール〟と〝環境問題〟がテーマである」という先入観のギャップが、作品の評価を不当に下げてしまっているように思われるのが残念である。


(上記は初見時の見解であり、のちに杉山慶一監督のインタビューなど読む中で若干の修正を迫られました。それについては(3)で。)
次回以降、箇条書き感想とともに、私が感じたトゥーラとアギトの心理の流れを詳しく書いてみます。


※1・・・「Yahoo!ムービー 『銀色の髪のアギト』特集」(http://gin-iro.yahoo.co.jp/)の「瓦礫の中でもたくましく生きる少年と文明社会で生きてきた少女との運命的な出会いが生み出す、新しい未来とは?」というアオリ、「銀色の髪のアギト 公式サイト」(http://www.gin-iro.jp/)「CAST&CHARACTERS」の「アギト」の項のアギトが「トゥーラに一目惚れをし」たという説明など。また「Yahoo!ムービー」のスペシャルページからは「Yahoo!ボランティア」の「子供の森」計画への募金募集ページにリンクが張ってある。

※2・・・よく『アギト』の比較対象(もしくはネタ元扱い)にされる宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』では、主人公パズーがヒロイン・シータと出会ってから、シータが連れ去られるまで1日と経っていない。しかも出会ったときシータは意識がなかったので、別離前の二人のコミュニケーションは翌朝シータが目覚めてからの半日そこらである。一応出会いから別離まで一日半以上経過している『アギト』よりずっと短いのに、同じような批判が出ないのはストーリーテリングの巧みさゆえか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする