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俳優・勝地涼くんのこと。

『空中庭園』(2)-5(注・ネタバレしてます)

2007-10-01 00:51:50 | 空中庭園
・さと子は絵里子が小さいころよく一緒に食事に行ったといい、絵里子はそんな事実はないという。
観覧車の思い出について「自分の記憶を夢の中で書き替えてるのよ、いい方へ」とさと子が話したことからすると、「よく食事に行った」のもさと子の美化された記憶だろうか。
さと子と絵里子の周りをカメラがずっと回りながら撮ってゆく円形運動に、「やり直し、くり返し」というさと子の言葉がかぶさる。
蝋燭の炎が一つ消えるたび暗く沈んでゆく部屋。外には雷鳴が聞こえるのも静かな緊迫感をあおる。

・最後の蝋燭を吹き消し暗転したあとに、病室で眠るさと子の映像に切り替わる。
台本では蝋燭を吹き消したところで倒れたと書かれている。本当に命の炎を吹き消していたかのよう。実際には命に別状はないんですが。

・兄(國村隼さん)からさと子が自分の話ばかりしてると聞かされ、言葉を失う絵里子。
彼女のさと子に対する反発は詰まるところ、「自分は母に愛されていない」と思っていた(思い込んでいた)ところにあったので、その思い込みと対立する情報にとっさに対応できなくなってしまう。
さと子からの電話を契機に「生まれ変わる」ための下地がここで作られている。

・コウとすれちがった女性が子供二人の腰に紐を結わえてその先を握っている・・・。
まるで犬のお散歩状態。小さい子はあちこち動き回るし、いきなり車道に飛び出したりもするから、二人連れてれば大変なのはわかるが。
彼らを振り返るコウは、この子供をペットのように扱う母親と、子供たち(姉と弟)という組み合わせに自分たち母子を重ね合わせているのだろうな。

・絵里子が通りすがりにたんぽほの花を摘み、綿帽子をふーっと吹くシーン。
先の蝋燭を吹き消すシーンに対応しつつ、ラストの白い花の登場を準備する。

・サッチンとその彼が逮捕されたとのニュース(具体的内容はよく聞き取れないがパンフレット収録の台本によれば罪名は強盗殺人)。
「以前同店で~」というアナウンサーの言葉からすると、例のおそば屋さんへ押し入ったようだ(殺されたのは店長?)。先に絵里子に電話で頼もうとした「ロッカーに忘れたピアス」を取りに行こうとしたのがきっかけか。
この後絵里子はさと子から「お誕生日おめでとう」の電話をもらって、彼女への憎しみに繋がる過去の記憶を良い方向へと修正してゆきますが、それに先立って絵里子の本当の過去を知る唯一の登場人物(本来ならさと子も知ってるはずだが、彼女の記憶は本人が語る通り多分に「書き替え」が行われているので)サッチンは、もはや絵里子を脅かさない場所へと「排除」される。

・コウの部屋のカレンダーに大きく花のマークがついてる日付がある(後の展開からすれば今日この日)。
花模様というところに彼が母の誕生日を、ひいては母を、大切にしてる気持ちが滲んでいる気がする。

・コウは団地の窓の構造を「太陽が平等に差し込んでみんな幸せになれる」ためじゃないかと言うが、ミーナは「洗濯物が乾くため」だと一蹴する
(とはいえその少し後で「ほなね」と別れを告げる声の優しさからすれば、決してコウをバカにしてるわけじゃないだろう)。
思春期の少年少女の、物事を妙に形而上的に捉えたがる理屈っぽさとロマンティシズムを、合理的・世俗的な大人の視点であっさり無効化する。
絵里子に「思い込んでると本当の物が見えなくなる」と言ったコウもまた思い込みに囚われていた。そんな彼の思い込みに風穴を開け、世の中はもっと単純で適当なものだと教えてくれる。
コウはミーナに勉強を教わるようになって、自分の弱点は思い込みの激しいところだとわかったと語っていたが、このバスのシーンはミーナの「最後の授業」だったのかもしれない(原作ではミーナはこの後少しして遠くへ転居する)。

・いつ動き出すかわからないバスを捨てて、窓から脱出するミーナ。
雨に濡れるのも水溜りに足を突っ込むのも構わずに、軽やかに彼女は走り去る。安全な場所を出て、リスクを恐れずに自分の足で、外へ向かって
(この作品に繰り返し表れる「生まれ直し」のモチーフからして、このトンネルは産道の見立てなのではないか)。
そしてコウはミーナを見送るだけで、彼女に続いて脱出しようとはしない。彼は母が作った京橋家の嘘臭さを知りつつ、結局そこへ帰り、明日からも「学芸会」を繰り返すのだろう。
けれどそれは無気力に周囲に合わせているのではなく、カレンダーの花マークが示すように、家族とりわけ母親に対する愛情があればこそだろう。
彼は自分の意志で、幸せ家族の幻想に囚われない自由な視点を保ちながら同時に京橋家の良き息子であることを選択した。
それがミーナが開けた窓からの外気に触れつつ、外へは出てゆかない彼の行動に現れているのでは。

・自分の分身というべきバースディベアを引き出しにしまう行動に「子宮への自閉」をうかがわせていたマナが、引き出しからクマを取り出す。彼女の「誕生」-生まれ直しの瞬間。
そしてこれまではモッキーやテヅカが一緒だったマナが一人でホテルへやってきている。
場所がラブホテルだから男性同伴が当然ではあるのだが、(家庭を与えてくれる存在としての)男性に依存する傾向のあった彼女が一人で行動できるようになったのも彼女の成長を思わせる。
クマを手にしたときのマナの明るい笑顔がまぶしい。

・マナがバスに乗り込んできたとき貴史は携帯の画面を見ているが、絵里子との電話を切った直後だろうか。
電話であれだけ罵られた直後にもかかわらず、マナに「愛してなければできない」と答えたのだから、これは確かに「愛」なのだろう。

・「ママなんかやばいかもよ。(中略)最近独り言多いんだよね。ぶつぶつぶつぶつ。「バカ」とか、「死ね」とか、「殺す」とか」。
独り言というが、マナは絵里子がさと子に「もう死ねば」と言うのを聞いているはず。独り言よりもっと「やばい」状況に陥ってると思うのだが、それには触れない。
・・・ひょっとすると、あの誕生パーティの場面で絵里子が口にした罵倒は全て彼女の妄想であり、実際は独り言をぶつぶつ言っていただけだったのだろうか?
(マナは父に「エロ本隠してないでさ」とも言ってるから、あの場で起きたこと全てが妄想ではないはずだが)
だとすれば絵里子はいよいよ現実と妄想の区別がつかなくなっているわけで、本当に「やばい」。

・「あのしょーもない団地の家守るなんて地味なこと、愛がなかったらできるかい!」 
貴史は絵里子のように、あの団地になんら幻想を見てはいない。
団地のみならず自分の現在や未来にも別段夢を抱くでもなく、場当たり的に「チョロ助みたいにヘラヘラと」その場その場の快楽を求めている感じ。
それは飯塚やミーナとのつき合い方や職を点々としてることに表れている。
けれどそういう男だからこそ北海道自転車一周旅行という「夢」を捨てて、絵里子の妊娠という現実を受け入れることができた。
いや、むしろここで夢を捨てたことで、もともとあった傾向が増幅されて、現在の至極現実的な貴史が出来上がったのだろう。
自分にも他人にも過分な幻想を抱くことなく、目の前の現実に彼なりのベストを尽くして対処し続けている貴史は、絵里子のような「思い込み」とは無縁である。
職を頻繁に替えるのも彼に言わせれば「ちょっとでもええ仕事があったらそれに飛びつい」た結果。
自分は幻想の外にいながら妻の家族幻想に付き合ってあげている彼は、(それがいい加減な性格ゆえの行動としても)結構いい旦那さんなんじゃないかと思います。

・タイトル前の場面では朝バスに乗ったらばらばらの席に座り、口も聞かなかった彼らが、この帰りのバスでは(やっぱり席は離れてるけど)ごく家族らしい会話をしている。
貴史とマナの会話は相変わらず赤裸々ではあるが、普段の京橋家のような「本来伏せておくようなことをわざわざ白日の下に晒している」うそ寒さはなく、ごく自然に家族への思いを口にしているのが伝わってくる。

・家族を待ちながら、花模様を描いた玩具?をいじる絵里子。花が崩れては元に戻るその仕組みは「やり直し、くり返し」の象徴。

・さと子が(自分の留守中に)家に電話してくることを激しく嫌がっていた絵里子が、その電話によって救われ、生まれ直す。
兄から自分の思い込みとは正反対の事実=「さと子は絵里子を深く愛している」ことを知らされ、心揺らいでいたところに母の愛情を示す「お誕生日おめでとう」の言葉。
母を憎悪し、反面教師として京橋家を作った絵里子は、母へのわだかまりを解いたことで、表面的な平和をヒステリックに守ろうとする態度を少しずつ改めていけるのだろう。

・「本当に大切なことは墓まで持ってゆくもんだよ」と言われて、絵里子は大人しく「そうね」と答える。
「何事も包み隠さず」という京橋家のルールに反するさと子の言葉を自然に受け入れている。
上の場面に続いて、絵里子と京橋家が今後変化していくだろうことを示唆する場面。

・絵里子の記憶の中で、「生まなければよかった」と言った後のさと子の表情が、哄笑から「聞かれちゃいけない事を聞かれてしまった」ショックの表情に代わり、あげなかったはずのアイスは親子仲良く分け合ったことに代わる。パーティの時にさと子が言っていた「記憶の書き替え」。
ただしこれは、よい方へ記憶が書き換えられたのか、母への憎しみゆえに歪められていた記憶が本来の形を取り戻したのか。先のさと子の台詞とあわせれば、前者の「いい方への書き換え」が正解であろうか。
とすれば、結局それは真実から目を背けて、自分に都合のいい偽の記憶に逃げ込んだだけと言えはしないか。
処世術としては有効だろうが、一つの「思い込み」から別の「思い込み」に視点が切り替わっただけ、というなら、彼女は相変わらず自閉してるわけだ。

・血の雨を浴びながらくりかえし絶叫する絵里子。一声叫ぶたびに表情も声もどんどん幼く、赤ん坊に近付いてゆくようなのに驚愕。
この映画、とくにこの大詰のシーンでの小泉さんの演技が絶賛されたのも無理からぬところ。
(『キネマ旬報』2005年10月下旬号掲載の小泉さんロングインタビューによると、「目にも口にも血糊が大量に入って、半日くらいは視界にモヤがかかってたし、3日間、声が出なかった」そうです。お疲れさまでした!)

・帰宅した貴史たちがチャイムをたびたび鳴らしても、ベランダにいるはずの絵里子は無反応。カメラの視界にも一向に絵里子の姿が入らない。
あのまま赤ん坊から胎児へとどんどん退行して消滅してしまったんじゃないかと思わず恐怖を覚えた。

・絵里子へのバースディプレゼントをそれぞれに抱えて帰ってきた京橋ファミリー。
この「サプライズパーティ」は原作(絵里子視点の「空中庭園」の章)では絵里子の想像(願望)にすぎず、実際の彼らは待っても待っても帰ってこない、という場面で終わっているが、映画ではサプライズパーティが現実のこととして描かれており、後味のよいハッピーエンドになっている
・・・といいたいのだが、気になるのはドアを開けたシーンで貴史、コウ、マナの顔が映らないこと(正確には、マナは顔の下半分がちょっと映る)。
単に彼らが抱えたプレゼントをクローズアップするためなのかもしれないが、絵里子が求めているのは個々の顔を持つ生身の彼らではなく、自分のためにパーティを企画し、こっそりプレゼントを抱えて帰ってくるような心優しい(彼女にとって都合のよい)「家族」なのではないか、という疑念が湧きあがってくる。
先のバスでの会話シーンがあるので、さすがに玄関前に立つ彼らの存在までもが絵里子の妄想ということはないんだろうが・・・。

・夫は白い箱を、息子は白い花を、娘は白いクマをそれぞれ抱えている。
絵里子の絶叫シーン初め繰り返し表れる血のモチーフ-赤い色に対して、「まっさらからやり直す」イメージの白がここで登場し、生まれ直した絵里子の新しい人生を寿いでいる。
その中からさらに白い花がクローズアップされ、冒頭部と最後の場面の食卓に飾られた赤い花に代わって、これからの京橋家を彩るだろうことを暗示する。

 

この作品、とりわけ導入部の揺れる街並みや観覧車、「野猿」のベッドなどの回転(円環)運動を、繰り返し見るうちに感じたのが一種の「癒し」。
心の凝りがほぐれて外へ解き放たれて行くたぐいの癒しではなく、安全な繭の中で体を丸めているような自閉的な居心地の良さ。
「野猿」で「ここずっといたい」とつぶやいたマナにうっかりと共感してしまいそう。
そしてさと子のように「やだやだ」と付け加えてみたりしたくなるのです。


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『空中庭園』(2)-4(注・ネタバレしてます)

2007-09-27 01:25:52 | 空中庭園

・「ママにもアイス一口ちょうだい。」 後に紹介されるさと子とのエピソードをいい形に反復したようなこの場面は実際にあったことなのか、絵里子の後悔が生んだ偽の記憶なのか。

・画面の回転が観覧車の回転と相殺されるようにして止まる。回想から現実への転換としてわかりやすく、かつ画としても美しい。

・何も隠し事はないと言いながら、彼らの会話が秘密だらけの上っ調子なのは、彼らの「裏」を見てきた観客には明らか。
現にテーブルの下ではミーナが貴史の股間を足でさぐるという過激な隠し事が進行形で行われている。
その全てを空中庭園を描いたランプシェードが俯瞰する。

・階段で乳繰り合う貴史たちのすぐ上の廊下を走るマナ。以前のコウといい、子供たちは親の秘密の現場にたびたびニアミスする。
彼らの秘密が皮一枚のぎりぎりで保たれているという緊迫感。

・「野猿」の部屋に会するミーナ、コウ、さと子。あとでさと子がバースディベアを取り出すシーンからすれば、これはマナがモッキーと来たのと(おそらくテヅカと来たのとも)同じ部屋である。たぶん絵里子と貴史がマナを「仕込んだ」のもこの部屋だったんじゃ。

・「中学生こんなところに連れ込んで!この子の親が知ったらどう思うか考えてみな!」 
ここまでさんざん傍若無人な言動を見せてきたさと子が、こんなまともな事を言い出すのに驚く。

・「ラブホテルには窓がない」のを実地にみるために連れてきてもらったというコウ。お年頃の少年とも思えない淡白さにいささか背筋が寒くなった。
彼はミーナに多少ときめく部分はないのだろうか。ひょっとして父の愛人と勘付いているのだろうか。

・さと子がカーテンを開けると、「窓がない」という言葉に反して、黒く塗りつぶされているもののちゃんと窓は存在している。
窓を強引に開けると、西日が部屋に差し込んでくる。平穏に閉ざされた「子宮」に「外」の空気が入り込んでくる。
このシーンを皮切りに、ディスカバの閉鎖がモッキーから告げられ、絵里子の庭の花は枯れ(絵里子はその花を乱暴に抜き、ゴミ捨て場に乱暴に捨てる)、近所の人の会話を通して絵里子の夢だった団地は「こんなところ誰もくるわけない」と貶められる。
誕生日会の「崩壊」の前触れとして絵里子の安全な世界が徐々に揺るがされてゆく。

・引っ越したあとのがらんとした部屋で夕日を見つめる絵里子。この新興都市と団地の落日を象徴する場面。

・回転ベッドに心地好さそうに体を預けながら、さと子は「もう人間なんていらないね」とつぶやいたあと、「やだやだ」と続ける。
「なんかここずっといたい」とこの部屋への愛着を見せたマナとは対照的に、「外」から遮断された(=守られた)安楽な場所を、その安楽さゆえに気持ち悪いと感じる。
マナが引き出しにしまったバースディベアを取り出すのも子宮から赤子を取り出す暗喩でしょう。ここで夕日が差し込む窓(外界への扉)が強調されるのも。

・ベッドの回転を俯瞰で捉えたのちに、ディスカバの大観覧車を映す。「回転」のイメージによる映像の連鎖が心地好い。
そして一瞬の「夜の観覧車」の映像は、ディスカバの開発中止が告げられたあとだけに、楽園の終末を想像させる。

・コウがCGで「野猿」の部屋を再現。
「思い込んでると本当のものが見えない」と絵里子に告げたコウは、京橋家もディスカバも「野猿」もこの街自体も、「安心できる場所」「光輝く未来に満ちた場所」という思い込みから成り立っている幻にすぎないと感じている。
「野猿」や団地をモデルにした仮想現実は、そのわかりやすい象徴。

・「うち逆オートロックだからなあ」 映画だと補足説明がないので意味がとりにくいが、誰でもきわめてオープンに受け入れると見せつつ、本当に胸襟を開いてみせることは決してない、という意味。
京橋家のあり方を端的に示した名台詞。

・ミーナとさと子の誕生パーティ。この物語はマナの誕生日に始まり、絵里子の誕生日に終わる。
そして京橋家の女二人に挟まれる形で、「外」の女たちの誕生日がやってくる。
母との関係にトラウマを持つ絵里子と、母と同じ道を進もうとしているマナにとって、自分の誕生日が「生まれなおし、やりなおしの日」となったのに対し、さと子とミーナはすでに両親はなく、親とのトラウマも描かれない(原作に書かれていた彼女たちの(良好とはいえない)親子関係についての描写はすっぱり切られている)。彼女たちは誕生日に過分な思い入れを持たない。
マナの誕生日に京橋家の問題点が「あたしどこで仕込まれたの?」の台詞をきっかけに炙り出され、さと子とミーナの誕生日に決壊が起こり、絵里子の誕生日に再生が訪れる(ここでも「あたしどこで仕込まれたの?」の台詞が繰り返される)。

・トイレで吐くミーナを二つの穴を透かして見下ろすアングル。何の穴かと思えば、トイレの壁にかかった赤い顔のお面?の両目の部分であるらしい。
台本によれば「コウが幼稚園の頃に書いた、ママの似顔絵」だそう。
家中に絵里子の目が配られ、監視されているような圧迫感・緊張感を覚えるシーン。

・トイレにあったいかがわしい本にマナに似た写真が載ってるという。
テヅカがホテルの部屋で撮影した写真を投稿雑誌に送ったのがここからわかる。
この悪辣さからすると、やっぱりテヅカはサッチンたちと通じているのかな。

・自分がいない時に家に電話するなとさと子に言う絵里子。
自分の秘密をしゃべられたら困るから、というのもあるでしょうが、自分が検閲していない情報に子供をさらしたくないという、純粋培養主義がうかがえる。
この電話のエピソード以降、「外」の人間であるサッチンや飯塚からの電話が相次ぎ、絵里子の崩壊は加速してゆく。

・絵里子が学級委員ではなく、引き篭もりのいじめられっ子だったとばらすさと子。
秘密を喋ってしまうのを恐れて手術(術時に必要な麻酔)を拒絶までしたさと子が人の秘密をあっさりばらすのに何となく違和感。
あえて荒療治することで、この家庭のゆがみを正したかったのかもしれないが、誕生会の場面は少なからず絵里子の妄想が入り込んでるふしがあるので、これも母に自分の秘密を暴かれることを恐れる絵里子の心理が見せた悪夢だったのかも。

・母親に「もう死ねば」と言い、サッチンの電話にも「死ねよ」と笑顔のまま答える絵里子。
サッチンの言う「完璧な笑顔」が表面は保たれつつ内側から狂ってゆきつつある。

・ケーキに大量の蝋燭を差す絵里子。その手付きはナイフでも突き立てるかのような憎悪に満ちている。
妄想の中でサッチンをフォークで襲ったときも、「生まなきゃよかった」と言ったさと子に飛びかかった時も、絵里子の殺意は「刺す」動作に表れているのを思うと・・・。

・「なんだかお線香みたい」「ご焼香をどうぞ」。 「死ねば」発言のあとだけに本気で怖い。
今まさに誕生日を祝っているその相手に「死ねば」というのは、矛盾する二つのメッセージを同時に投げかけているようなものだが、「今度は私が母親になってあなたを生んであげる」と続ける(この台詞は台本にはなく、小泉さんに自由に喋ってもらったのだそうです)ので、「死んで」=「生まれ直して」なんですね。

(つづく)


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『空中庭園』(2)-3(注・ネタバレしてます)

2007-09-23 02:39:20 | 空中庭園
・「家族はいるの?やり直したいとか思う?結婚して家を買って子供作って、自分の・・・」。
この「やり直したいとか思う?」はまだ年若いテヅカに発するには奇妙な問いのように思える。
彼の年齢なら「やり直」さなくても、結婚も家を買うことも子供を作ることもできるはずなのに。いかにも人生の落伍者っぽく見えたのか?
ここで「やり直したい」という言葉が出るあたりに、先に書いた彼女の胎児回帰願望が表れているように思える。
そしてこの「やり直し」という言葉は、のちにさと子が絵里子に人生指南を行う場面で印象的に再登場することになる。

・コートを脱ぎ上半身のタトゥーを晒すテヅカ。「バビロンへようこそ、王女」。
マナが子宮-回帰すべき安全な家として捉えているこの部屋は、安らぎの場などでなく背徳の地である、と宣言しているかのよう。
それはバビロンの空中庭園やバベルの塔を思わせる団地やディスカバもまた「家」ではないということを示唆していて、それが「おまえの家はもうねぇよ」という残酷な囁きにつながっているのでは。

・マナの服を脱がせにかかるテヅカは、マナの「自分でやります!」の言葉を聞くと、彼女から離れて「君は本当に可哀想な人間だ」と言い残し部屋を出て行く。
先にマナと「野猿」へやってきたモッキーも同じことを言われ、結局マナとは寝ずに終わった。「自分でやる」という言葉に表れる、性行為を自分の管理下に置こうとする姿勢が男たちを萎えさせてしまうのか。
モッキーにもテヅカにも「子作り、家庭作り」を口にしてることからすれば、むしろ「生殖」を管理下に置こうとしている、というべきか。かつての絵里子と同じように。
絵里子が母に愛されなかった(と思っている)痛みから逃れるために自分が理想の母たろうとしたように、胎児回帰願望をほの見せている(母親の無条件の愛情と庇護を求めている)マナも、それゆえに自分が母となることに強く惹かれている。
モッキーはマナと「野猿」行き以降疎遠になる(モッキーがマナを避けるようになる)が、マナの関心が自分自身でなく「新しい家庭を与えてくれる男」に向かっていると感じてしまったからじゃないか。

・テヅカはマナの服を脱がせようとする時、「俺のこと好きだよな?」と激しく繰り返す。さっき出会ったばかりの少女に対するには奇妙なまでの執着。
単にそういう粘着質な性格ってだけかもしれませんが、ここまでの展開の中で、彼とモッキーの行動や志向が重ね合わせて描かれていることからすると、この言葉は彼氏と初めて抱き合おうという時に「子供ができたら」という話ばかりするマナに対して、モッキーが叫びたかった言葉を代わりに吐露したものなのかもしれません。

・引き出しを開けると、バースデイベアの代わりに血まみれの胎児様の物が入っている。マナの胎児回帰願望を、グロテスクなものとして彼女自身に突きつけたシーン。
鏡?に血のような赤い文字で書かれた裏返しの「HAPPY BIRTHDAY」がまるで呪いの言葉のように見えてくる。
しかし「引き出しにしまったクマのぬいぐるみが血まみれの胎児に変わる」という超自然的なこの場面は、先の絵里子がサッチンをフォークで襲うシーン、ラストの血の雨のシーン同様にマナの妄想なのではないか。
「あの」絵里子の娘なのだから(とくにここの場面では「絵里子」の名を名乗るほどに母に同化している)。
謎めいた(作品のテーマにかかわるような)台詞ばかり吐く予言者のごときテヅカの存在も非現実的ともいえるし。
後でテヅカに撮られた写真が投稿雑誌に載るので彼の存在自体は幻じゃないんでしょうが、ここで起きたことはどこまで本当なのかわからない。眩暈に似た感覚が残ります。

・家に帰ってきたら愛人が息子の家庭教師として上がりこんでいた――これ相当怖いシチュエーションですね(笑)。
ビールをついでもらう手の震えに、貴史の脅えがわかりやすく表れています。
そして「外」の人間であるミーナを家の中に入れてしまったところから、急激に京橋家の虚構の幸せは崩壊に向かうことになる。

・絵里子が年頃の息子と若い女家庭教師が二人きりでいるのに抵抗を感じるのは理解できるんですが、なぜ彼女があっさりミーナを家庭教師として受け入れてしまったのか、それが不思議です。

・絵里子の実家は数時間で往復できる程度の距離にある。
あれだけ家を出て行きたいと願い、近所には自分をいじめた連中も住んでいる(だから当時のいじめっ子の娘であるサッチンとパート先で出会ったりもする)というのに、なぜか絵里子は実家から程遠からぬ距離に居を構えた。
結局彼女は母の影に囚われているのじゃあないか。

・絵里子の回想。階段の手すり?を爪で掻く動作、天井の隙間から漏る水滴、不安定に揺らぎながら階段の下へと向かってゆく(絵里子の)視界。
行き詰まるような演出に、外の嵐同様に、当時の彼女の心も荒れ狂っているのが伝わってくる。

・さと子の「産むんじゃなかった!」は直接本人に言ったのではないとはいえ、かなりの暴言。
ストーリーをたどってゆくと、さと子は決して絵里子を嫌っていないはずなのに、この発言はなんなのだろう。
先生の同情を引いて絵里子の出席日数に手心を加えてもらおうという算段だったのか(それにしてはやりすぎで却って先生に引かれている)、女手一つで子供を育て、その一人が登校拒否という状況に当時のさと子の精神も病みかけていたのか。
障子を開けたらさと子が哄笑した場面以降は、ぐるぐる回る視界(精神の不安定さ)からいっても絵里子の幻想だろうと思うので、さと子が心労から発した失言を、絵里子がショックのあまり実際より悪い方向に記憶を塗り替えてしまったというのが正解じゃないでしょうか。
まあ世間の親子の多くは、こうした決定的な失言に発するわだかまりを心の底に沈めて親子をやってるような気もしますが。

・赤い薔薇が散っている嵐の庭の光景は、ラスト近くの団地の庭と対比的に描かれる。
前者はいわば絵里子の心とさと子との母子関係が壊れた場所であり、後者はその両方が再生する場所という意味合いなのでは。

・再び絵里子の回想。ぐるぐる回転する画面は絵里子にとって当時の記憶がどれだけ不安感をもたらすものなのかを示している。
団地への引越し以降も画面の回転が続くのは、それが結局虚偽の幸せだと絵里子が心の底では思っているゆえなのでしょう。

・憎んでるはずの母と映した幼い頃の写真を持ち帰ってきてしまう絵里子。
ラスト付近でこの写真が家族写真と並んで飾られていたのを思うと、絵里子が心の奥底で母を求めていることを示しているのでしょう。

・貴史の人柄について、「そういう男なんだろうと思ったけど、そんなことは私の計算にあまり関係なかった。」。
絵里子は最初から自分の望む家庭を作るための「種馬」としてしか彼を見ていない。その愛のなさには慄然とする。
貴史の浮気癖は、基本的には生来のものなんでしょうが、妻の冷たさに起因してる部分も多少あるのかも。
けれど家庭の形を保つことだけが大事なら、浮気に気づいても何食わぬ顔で夫婦を続けていられるはずなのに、5年前に彼の浮気を知って以来セックスを拒絶している(セックス拒否の理由が彼の浮気にあったことは映画では匂わす程度)のは、彼を男として愛する気持ちが多少はある証のようにも思えます。

(つづく)

P.S. 余談ですが、9月21日発売の『Kindai』11月号に、「かっち&ジョーのクロスロード番外編」として勝地くんと北条隆博くんの対談が(なぜか目次には出ていませんが120ページあたりに)載っています。内容は二人が初共演した映画『阿波DANCE』について。フォスターさん公式の情報が更新されてないので、一応お知らせをば。


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『空中庭園』(2)-2(注・ネタバレしてます)

2007-09-20 00:44:37 | 空中庭園
・ホテルの部屋を歩く場面でマナの鞄のクマが大写しになる。後の伏線。

・回転ベッドにダイブするシーン。「撮影日誌」によると、目測を誤ってガラステーブルを割ってNGになったのだとか。
パンツ一丁シーンがあるのは知ってたので、てっきりパンツ一枚でガラスに突っ込んだのかと思って「よく無事だったなあ」と驚きかつホッとしてたんですが、実際の映像を見たら制服のままダイブしてたので、だから怪我がなかったのかと納得。
ちなみにこの撮影日誌ですが、「勝地君が、勢いあまってガラスのテーブルを派手に割るというアクシデントがあったが、撮影は順調に進む。」という淡々とした書きぶりに笑ってしまいました。もうちょっと安否を気遣ってやって下さい(笑)。
ついでに「回転ベッドじゃね?」のイントネーションがなんか訛ってるのにも笑ってしまった。

・問題の(?)パンツ(トランクス)一丁シーン。
よく言われることですが、『1980』の全裸シーンに比べてずいぶん痩せましたね。特別筋肉質ではないけれど無駄なく締まった体型は、「それなりに鍛えてる高校生男子」という感じ。
2年近く後、19歳当時に撮影した『里見八犬伝』よりガタイいいかも(『里見八犬伝』ではその幼い体つきに驚いたので)。

・「ここでも暮らせるかも」「なんかここずっといたい」。
ここが彼女の「仕込まれた場所」であること、そこへ無性に行きたがったことを思えば、これらの台詞は胎児回帰願望を表しているのでは。
ゆえに彼女は大切にしてたバースディベア=自分の分身を引き出しに残していったのでしょう。

・モッキーのカラオケが(出だしだけだけど)下手すぎて笑えます。わざと下手に歌ってるのか、勝地くんの実力なのか(笑)。

・飯塚(永作博美さん)のキャラがすごい。台詞とか大体原作どおりなんですが、服装のせいか話し方のせいかさらに異常度合いが増している。
「野猿」での「行為」も凄まじい。永作さんと板尾さんの怪演が効いている。娘たちと鉢合わせしなくて何よりでした(笑)。

・「禁煙のバスで煙草を吸わないのはなに。若い子の素足にいきなりしゃぶりついたりしないのは何で?恥ずかしいからでしょ。」 
「素足にしゃぶりつ」くのは後に貴史が、「禁煙のバスで煙草」はさと子がやってます。
飯塚基準だとさと子も「チョロけた奴」に入るのかな。

・「誕生日も覚えてくれてない」親に育てられた飯塚。同じく母親にいつも誕生日を忘れられることを根に持っていた絵里子。
その結果としてメモリアルデーを大事にする点も二人は共通している。
両親はいないというミーナも合わせると、貴史に引っ掛かる、というか引っ掛ける女は、親との関係に恵まれない人間が多いのか。
来る者拒まずという感じで誰でも軽く受け入れちゃうからか。

・部屋を出るときのマナとモッキーはそれぞれに無言。バスを降りて別れるときもモッキーの反応はちょっと薄い感じ。
原作での「モッキーの一方的な無視」によって二人が疎遠になってゆく感じをはっきりとでなくちょっと匂わせている。

・マナに不意に肩を叩かれ振り返った絵里子は、一瞬物を見るような冷たい表情をし、それからいつもの「完璧な笑み」を浮かべてみせる。
マナは気づかないふりをしてお菓子を買いにゆくが、絵里子の方をさぐるように窺う彼女の表情に、自分が知らない母の顔を見てしまった動揺・怯えが見て取れる。

・飯塚の車が出てくるたび流れる妙に音程の狂った歌は何だろう。飯塚のちょっととっぱずれた性格を象徴させてるのかな。

・貴史にもろに迫られても、関係ない普通の会話を続けながら全く相手にしない絵里子。
このへん5年間セックスレスであるにもかかわらず、仲良し夫婦・仲良し家族であろうとする、旦那に触れられるのが嫌なのにそれを認めたうえで関係を構築しようとしない絵里子の現実逃避ぶりがわかる。貴史の「たまってんだろ」にちょっとウケた。

・コウが作っているゲーム。原作以上に周辺部分まで緻密に作られ、音楽もいかにも安手のコンピューターミュージックぽいのが、彼らの住む街の「作り物感」を際立たせる。

・ミーナに迫る最中で息子の姿を発見。先の「野猿」といい、ヤバいところで子供たちとたびたび鉢合わせしそうになる。
ひょっとするとこれも行動半径の狭さ=街の箱庭感を出す演出だったりして?

・喫茶店でサッチンと男に金を無心される絵里子。サッチンがクラミジアのことを口にした(絵里子が店長にチクッたせいでクビになったことを暗にとがめた)とき、その完璧な笑顔がわずかに歪む。
ほとんど表情が変わらないのに気持ちの強張りがはっきり感じ取れる。小泉さんの表現力に驚かされた箇所。
ちなみに原作では絵里子とサッチンの力関係がよくわからない(この喫茶店の場面がマナ視点で描かれるため)のだが、映画で見て納得がいった。なんか普通と逆みたいですが。

・フォークを取り上げた絵里子が妄想の世界へと入ってゆく。
この時の画面の切り替わり方、絵里子の顔が笑顔のまま崩れてゆくのがホラーのようで恐ろしい。
美人女優さんがよくこんな演出をOKしたなあと、小泉さんの役者魂を感じました。

・妄想から現実に戻ったところで、絵里子はフォークをサッチンならぬケーキの苺に突き刺す。
苺の赤い色が妄想の中で流した血の色に対応している。
そして妄想から覚めたとき、なぜかサッチンと彼氏はそこから消えている。
単に金をせしめて用事が片付いたから出て行っただけなんでしょうが、絵里子の妄想が現実世界に染み出して、彼らの存在をこの世から消し去ってしまったかのような恐怖感を覚えました。

・テヅカ(瑛太くん)とともに「野猿」へやってきたマナは母の名前「絵里子」を名乗る。
そこで彼女が語る虚偽のプロフィール(ずいぶん長いこと学校には行ってない、行ってもいじめられるだけだから)は絵里子が隠している彼女の過去を偶然にも言い当てている。
ところで先にサッチンの彼氏がマナを襲う(襲わせる)意思があることをほのめかしているが、テヅカは彼らとグルなのだろうか。
マナが喫茶店を覗いているところにやってきたあたり、その可能性が高そう。

・マナが持ち込んだジャンクフードを一口頬張ったテヅカは、「人間の食い物じゃない」と吐き出す。
ディスカバを憎悪するモッキー同様、彼も「人工物」への嫌悪を露にしている。
その前の「人間なんて一皮剥けばみんな髑髏さ」の台詞も、虚飾に対する冷ややかな視線を感じさせます。

・「産まれてくるときはみんな泣きながら生まれてくるんだよね。血まみれでね」。ラストの絵里子の咆哮の伏線。

(つづく)


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『空中庭園』(2)-1(注・ネタバレしてます)

2007-09-17 00:09:05 | 空中庭園
・ヒロイン・絵里子(小泉今日子さん)によるナレーション。
一見普通な、その実いびつな家族のあり方についての原作の描写の中から、根幹の部分をしごくシンプルに切り取っている。
黒塗りの背景も含めて無駄のないシャープな作り。

・世界七不思議の一つ「バビロンの空中庭園」をモチーフとした柔らかなタッチの絵(背景にはバベルの塔も聳えている)のアップを、カメラが舐めるようにして映してゆき、それが実はランプシェードの模様だった、という形で京橋家のダイニングの情景へと移る。
『空中庭園』というタイトルからの連想であろうが、映画では原作がとりたてて描写していない「背徳の都市・バビロン」のイメージをくり返し強調している。
冒頭から「空中庭園」の絵が出てくること、それが京橋ファミリーの団欒を見下ろす位置にあるランプシェードの模様だというのが象徴的。

・テーブルの中央にぽつんと置かれた一輪挿しの赤い花。これから絵里子が妄想の世界で流し浴びることになる大量の血のイメージ。
ラストで登場する白い花との対比にもなっている。

・「あたし、どこで仕込まれたの?」 朝の食卓に似つかわしからぬ赤裸々な会話で、この友達家族のいびつさがわかりやすく提示されている。

・マナ(鈴木杏ちゃん)とボーイフレンドの森崎くん=モッキーの会話。
「そのクマ、クマって(困って)ねえ?」というモッキーの台詞は勝地くんのアドリブ、というか「アドリブでなんかダジャレを言ってくれ」と監督に言われて、焦りつつとっさに捻り出した台詞なのだそう。
たしかに「は?」という感じの唐突な台詞ですが、このキーホルダーのクマがのちのち結構なキーアイテムになってくることを思えば、伏線としての役割を果たしているかも。

・ベランダ一面の庭に水をやる絵里子がふと空を見上げる。冒頭のシェードの場面以来、「見下ろす」構図が多かったのが、初めて「見上げる」構図が登場する。
そしてカメラはそのまま空の大写しから次第に下へ向かい、赤い紐で吊り下げた植木鉢がゆらゆらと揺れる。
軽い失墜感と眩暈をもたらす動きは、絵里子の精神の不安定さをそのまま示している。

・家族三人、みんな同じバスに乗っているのに、ボーイフレンドが一緒のマナはともかく、父の貴史(板尾創路さん)も弟のコウ(広田雅裕くん)もばらばらに座っている。
マナも含め三人ともが不機嫌と無気力を思わせる無表情。家を一歩出た途端に「幸せ家族」の虚構は崩れている。

・振り子のように大きく揺れ続ける画面。
この「揺らぎ」が京橋家内部の描写のみならず、バスが走ってゆく街中の風景にまで及んでいるのが、絵里子が造り上げた(と後に明かされる)人工の楽園・京橋家だけでなく、少年による凶悪犯罪などに際してしばしば問題にされる「特有の人工性とそれにともなう密閉感」に満ちたニュータウンの不安定さをも表しているように思いました
(このやたら揺れる画面はなかなかに評判が悪かったようです。たしかに演出意図はよくわかるものの、劇場の大画面で見ていたら酔っちゃったかも)。
美しいけれど単調なメロディーをひたすら繰り返し続けるBGMも、いつ果てるとも知れず淡々と続いてゆく生活が孕んでいる閉塞感と一種病的な雰囲気をより強めています。

・京橋家の庭に「ERIKO’S GARDEN」のプレート。
「KYOBASHI’S」でなく「ERIKO’S」であるところに、この庭もこの家庭も自分が作ったものなのだ、という絵里子の強烈な自負心が伺える気がします。

・次第に寄ってくるカメラに気づいたかのように強張った顔を向ける絵里子。自分を見つめる外(観客)からの視線を認識してしまったかのような印象があります。
のちに彼女が造り上げた幸せ家族の虚構が家庭外の人間であるミーナ(ソニンさん)によって「学芸会」と喝破されたことでもわかるように、「外からの視線」は絵里子にとっては自分の幻想を破りにくる敵のようなもの。
顔を振り向けたときの絵里子の表情には「外」に対する不安と敵意の兆しがあった気がします。
そこで一気にカメラが引くのも、彼女の幻想が外からの視線に晒された一瞬に色褪せたことを思わせる。

・絵里子の不安のピークを示すように団地の遠景が(もはや揺れるなんてもんじゃなく)一回転する。
この団地の外見はブリューゲルが描いた「バベルの塔」によく似ている。冒頭のシェードの絵にバベルの塔が登場している(バビロンの空中庭園からはバベルの塔が望めたと言われている)ことからしても、この団地はバベルの塔に見立てられてるのではないか
(パンフレット収録の映画評(「エクソダスの物語」は「この団地はバビロンの空中庭園を模している」(概要)と指摘している)。
「バベルの塔」からは、「言葉が通じなくなる=コミュニケーション不全」や「崩壊」(バベルの塔に関する伝承の出典である『旧約聖書』では建設途中で放棄されただけだが、絵画のモチーフとしては崩壊の姿が描かれることもある)といったイメージが喚起され、京橋家の今後に不安を投げかける。
しかし一回転して元の位置に戻るという動きは、激しい動揺を経たのちにこの一家がしかるべき位置に収まることを表しているようでもあります。

・ディスカバリーセンター(ディスカバ)は階段に水を流してある。
その光景は冒頭のダイニングのランプシェードに描かれた空中庭園を思わせる。団地がバベルの塔の見立てであると同様、ディスカバは空中庭園の見立てなのだろう。
バベルの塔も空中庭園も「背徳の都市」バビロンの中心であり、自然-重力に反して垂直に伸びる人工物の極みである。
モッキーは「ここ爆破してえ」とディスカバへの嫌悪感を露にしていますが、それは「浮ついてない」「地に足がついてる」農家の少年・モッキーがディスカバとそれに代表されるニュータウンの人工性・虚構性を本能的に感じ取っているがゆえなのでしょう。
対するマナは「ディスカバリーセンターなしじゃ死ぬね」。「野猿」行きの後二人が疎遠になってゆく根がここにあります。

・ポケットから取り出した煙草を吸うモッキー。
服装なども特別不良っぽいわけじゃないのだけど適度にだらしなくて、その口調なども合わせ「ちょいワル」な印象。未成年のくせに煙草を吸う仕草が堂に入ってます。
勝地くんはデビュー直後(『永遠の仔』)から、喫煙シーンのある役が妙に多いような。

・煙草つながりでスムーズにさと子(大楠道代さん)のストーリーへと場面転換。
病院のベッドの上で煙草を吸っているというシチュエーション、ハの字に開いた足を脛まで出しているあたり、原作以上にファンキーで傍若無人なさと子のキャラが数秒で観客に伝わるよう配慮されている。

・さと子がベッドの下に置いていた5円玉入りの缶を蹴倒してしまった絵里子は、床に這いつくばるようにして5円玉を拾い集める。
見舞いの青年?の差し入れに無邪気に喜ぶさと子とのコントラストに、絵里子が母親の前で常に感じている圧迫感、みじめさが凝縮されている。

・絵里子を「ナヨコ」と呼ぶサッチン(今宿麻美さん)。
絵里子の隠している過去を(間接的に)知っていて、彼女を嘘つき呼ばわりするサッチンは、絵里子の世界を揺るがす最初の「他人」である。
いやむしろ、サッチンに先立って登場する母こそが最初の他人だろうか。この段階ではまだ匂わされてるだけだが、今後さと子は絵里子にとって最大の「敵」としての姿を露にしてゆくことになるのだから。
中盤の「野猿」の場面で、コウがさと子を「さっちゃん」と呼んでいますが、この映画独自の愛称も、絵里子に忘れたい過去を突きつけてくる存在としてのサッチンとさと子の共通性を示唆するもののように思えます。

・店長にサッチンがクラミジアを患ってると告げ口をする絵里子。「クラミ・・・アジ?」などと笑顔でカマトトぶってみせるのも含めなかなかにタチが悪い。
にっこり笑いながら邪魔者を排除しようとする絵里子の怖さがわかりやすく出ている。

・マナに「野猿」に連れ込まれるモッキーの腰の引けっぷり、声の裏がえりっぷりが見事。
勝地くんいわく「彼女とエッチすることばかり考えてる普通の男の子」なモッキーは、悪ぶってる一面結構ウブな部分もあって、本当等身大の男の子な感じ。
部屋に入ってからも、妙に躁状態だったかと思えば、いきなり真顔で彼女に迫ったり、性急に押し倒して服を脱がせにかかったり、「自分で脱ぐよ」と言われるとあっさり「ごめん」と引っ込んじゃったり・・・。
初心な男の子の感情の流れがリアルに伝わってきて、勝地くんの力量を感じたものです。

(つづく)


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『空中庭園』(1)

2007-09-13 01:26:56 | 空中庭園
2005年秋公開。2005年夏公開の『亡国のイージス』以降、勝地くんの出演作品は全部(舞台と一部のバラエティー除く)リアルタイムで見ているんですが、唯一見逃したのがこの映画。見逃してしまった理由というのが二つあって、

1 どうやら出番が少ないらしい。
2 パンツ一丁シーンがある。

・・・これ、1と2のどちらかだけだったら迷わず見に行ってたと思うんですよ。けれど「出番が少なくてパンツ一丁シーンがある」となると、なんだかパンツを見に行くみたいで(笑)「こんな不純な動機でいいのか」とかあれこれ思い悩んでいるうちに、公開が終わってしまったのでした・・・。
(まだファンになったばかりの時期でウブだったわけですねー。今なら躊躇わず見に行きます)

――というわけでレンタル開始を待ってようやく見ました。勝地くんの役は、鈴木杏ちゃん演じるマナの彼氏・モッキーこと森崎くん。
髪型をはじめとするビジュアルは数ヶ月前に演じた『ちょっと待って、神様』の茂多くんとさして変わらないのに、茂多くんが見るからに真面目で圧倒的に爽やかな少年だったのに対し、モッキーは制服もちょっと着崩した感じで、煙草吸っちゃったりもする、気だるげでちょこっと悪ぶってる感じの男の子。
自堕落ぽいところも存外純情なところも含めて等身大の男子を、勝地くんはごくナチュラルに表現していました。

さて映画の方はというと、現実と妄想の境目が曖昧であったり、やたら画面が揺れたり血が流れたりという前衛的な演出が目につく、本来なら苦手な部類の作品でした。
「本来なら」というのは、今回感想を書くために映画を細かく見返したり人様のレビュー(とくに「ランプシェードの柄がバビロンの空中庭園」「京橋家と「野猿」のクッションの模様が同じ」「繰り返される円環運動」などについて指摘された方の文章には学ぶところが多かった)を読んだりする中で、この映画の凄みがだんだんに理解できてきたため。
とくにその映像的な完成度の高さには圧倒されました。

原作のエピソードを取捨するだけでなく映像ならではのオリジナル要素(「バビロン」や回転運動のモチーフ)を付け加え、それでいて原作を壊すことなく、むしろ原作の持つメッセージをより強化する効果をあげている。
オープニング他の揺れる画面やラストの血の雨を浴びながらの咆哮など、「撮りたい絵が先にあったんだろうな」という場面でも、それがストーリーから浮くことなく重要な伏線や心理描写としてきっちり機能している。
素人目にも、シーンの組み立てやカメラワークが緻密な計算の上になされているのが伝わってきました。

(2007年1月公開の映画『幸福な食卓』について、『空中庭園』と比較言及する文章(ブログ)をいくつか見かけましたが、「母親が決めた家庭のルールを厳守する、表面は穏やかな一家の抱える闇」というテーマ以上に、上で書いたような「原作のメッセージをより強化」「撮りたい絵とストーリーの見事な融和」という点で、確かにこの二作品は共通するものを持っているように思います。・・・そういや「どちらの作品も娘の彼氏役が勝地涼」という点に触れてる文章は見かけなかったな。

もう一つ驚いたのがパンフレット。普通なら役者さんたちのコメントなどが大きく載りそうなところを顔写真つきプロフィール紹介にとどめ、スタッフのインタビューが半ばを占めている。
俳優陣は主演の小泉さん、母親役の大楠さんをはじめ皆さんハズレなしの名演だったのですが、個人的には映像・演出の妙により惹きつけられたので、映画作りの過程や裏話の一端を知ることができたのが嬉しかった。
役者さんの人気に乗っかるのではなく、才能あるスタッフの能力を結集して映画を作り上げたという自負心が感じられる構成に思わず拍手したくなりました。


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