観覧車の思い出について「自分の記憶を夢の中で書き替えてるのよ、いい方へ」とさと子が話したことからすると、「よく食事に行った」のもさと子の美化された記憶だろうか。
さと子と絵里子の周りをカメラがずっと回りながら撮ってゆく円形運動に、「やり直し、くり返し」というさと子の言葉がかぶさる。
蝋燭の炎が一つ消えるたび暗く沈んでゆく部屋。外には雷鳴が聞こえるのも静かな緊迫感をあおる。
・最後の蝋燭を吹き消し暗転したあとに、病室で眠るさと子の映像に切り替わる。
台本では蝋燭を吹き消したところで倒れたと書かれている。本当に命の炎を吹き消していたかのよう。実際には命に別状はないんですが。
・兄(國村隼さん)からさと子が自分の話ばかりしてると聞かされ、言葉を失う絵里子。
彼女のさと子に対する反発は詰まるところ、「自分は母に愛されていない」と思っていた(思い込んでいた)ところにあったので、その思い込みと対立する情報にとっさに対応できなくなってしまう。
さと子からの電話を契機に「生まれ変わる」ための下地がここで作られている。
・コウとすれちがった女性が子供二人の腰に紐を結わえてその先を握っている・・・。
まるで犬のお散歩状態。小さい子はあちこち動き回るし、いきなり車道に飛び出したりもするから、二人連れてれば大変なのはわかるが。
彼らを振り返るコウは、この子供をペットのように扱う母親と、子供たち(姉と弟)という組み合わせに自分たち母子を重ね合わせているのだろうな。
・絵里子が通りすがりにたんぽほの花を摘み、綿帽子をふーっと吹くシーン。
先の蝋燭を吹き消すシーンに対応しつつ、ラストの白い花の登場を準備する。
・サッチンとその彼が逮捕されたとのニュース(具体的内容はよく聞き取れないがパンフレット収録の台本によれば罪名は強盗殺人)。
「以前同店で~」というアナウンサーの言葉からすると、例のおそば屋さんへ押し入ったようだ(殺されたのは店長?)。先に絵里子に電話で頼もうとした「ロッカーに忘れたピアス」を取りに行こうとしたのがきっかけか。
この後絵里子はさと子から「お誕生日おめでとう」の電話をもらって、彼女への憎しみに繋がる過去の記憶を良い方向へと修正してゆきますが、それに先立って絵里子の本当の過去を知る唯一の登場人物(本来ならさと子も知ってるはずだが、彼女の記憶は本人が語る通り多分に「書き替え」が行われているので)サッチンは、もはや絵里子を脅かさない場所へと「排除」される。
・コウの部屋のカレンダーに大きく花のマークがついてる日付がある(後の展開からすれば今日この日)。
花模様というところに彼が母の誕生日を、ひいては母を、大切にしてる気持ちが滲んでいる気がする。
・コウは団地の窓の構造を「太陽が平等に差し込んでみんな幸せになれる」ためじゃないかと言うが、ミーナは「洗濯物が乾くため」だと一蹴する
(とはいえその少し後で「ほなね」と別れを告げる声の優しさからすれば、決してコウをバカにしてるわけじゃないだろう)。
思春期の少年少女の、物事を妙に形而上的に捉えたがる理屈っぽさとロマンティシズムを、合理的・世俗的な大人の視点であっさり無効化する。
絵里子に「思い込んでると本当の物が見えなくなる」と言ったコウもまた思い込みに囚われていた。そんな彼の思い込みに風穴を開け、世の中はもっと単純で適当なものだと教えてくれる。
コウはミーナに勉強を教わるようになって、自分の弱点は思い込みの激しいところだとわかったと語っていたが、このバスのシーンはミーナの「最後の授業」だったのかもしれない(原作ではミーナはこの後少しして遠くへ転居する)。
・いつ動き出すかわからないバスを捨てて、窓から脱出するミーナ。
雨に濡れるのも水溜りに足を突っ込むのも構わずに、軽やかに彼女は走り去る。安全な場所を出て、リスクを恐れずに自分の足で、外へ向かって
(この作品に繰り返し表れる「生まれ直し」のモチーフからして、このトンネルは産道の見立てなのではないか)。
そしてコウはミーナを見送るだけで、彼女に続いて脱出しようとはしない。彼は母が作った京橋家の嘘臭さを知りつつ、結局そこへ帰り、明日からも「学芸会」を繰り返すのだろう。
けれどそれは無気力に周囲に合わせているのではなく、カレンダーの花マークが示すように、家族とりわけ母親に対する愛情があればこそだろう。
彼は自分の意志で、幸せ家族の幻想に囚われない自由な視点を保ちながら同時に京橋家の良き息子であることを選択した。
それがミーナが開けた窓からの外気に触れつつ、外へは出てゆかない彼の行動に現れているのでは。
・自分の分身というべきバースディベアを引き出しにしまう行動に「子宮への自閉」をうかがわせていたマナが、引き出しからクマを取り出す。彼女の「誕生」-生まれ直しの瞬間。
そしてこれまではモッキーやテヅカが一緒だったマナが一人でホテルへやってきている。
場所がラブホテルだから男性同伴が当然ではあるのだが、(家庭を与えてくれる存在としての)男性に依存する傾向のあった彼女が一人で行動できるようになったのも彼女の成長を思わせる。
クマを手にしたときのマナの明るい笑顔がまぶしい。
・マナがバスに乗り込んできたとき貴史は携帯の画面を見ているが、絵里子との電話を切った直後だろうか。
電話であれだけ罵られた直後にもかかわらず、マナに「愛してなければできない」と答えたのだから、これは確かに「愛」なのだろう。
・「ママなんかやばいかもよ。(中略)最近独り言多いんだよね。ぶつぶつぶつぶつ。「バカ」とか、「死ね」とか、「殺す」とか」。
独り言というが、マナは絵里子がさと子に「もう死ねば」と言うのを聞いているはず。独り言よりもっと「やばい」状況に陥ってると思うのだが、それには触れない。
・・・ひょっとすると、あの誕生パーティの場面で絵里子が口にした罵倒は全て彼女の妄想であり、実際は独り言をぶつぶつ言っていただけだったのだろうか?
(マナは父に「エロ本隠してないでさ」とも言ってるから、あの場で起きたこと全てが妄想ではないはずだが)
だとすれば絵里子はいよいよ現実と妄想の区別がつかなくなっているわけで、本当に「やばい」。
・「あのしょーもない団地の家守るなんて地味なこと、愛がなかったらできるかい!」
貴史は絵里子のように、あの団地になんら幻想を見てはいない。
団地のみならず自分の現在や未来にも別段夢を抱くでもなく、場当たり的に「チョロ助みたいにヘラヘラと」その場その場の快楽を求めている感じ。
それは飯塚やミーナとのつき合い方や職を点々としてることに表れている。
けれどそういう男だからこそ北海道自転車一周旅行という「夢」を捨てて、絵里子の妊娠という現実を受け入れることができた。
いや、むしろここで夢を捨てたことで、もともとあった傾向が増幅されて、現在の至極現実的な貴史が出来上がったのだろう。
自分にも他人にも過分な幻想を抱くことなく、目の前の現実に彼なりのベストを尽くして対処し続けている貴史は、絵里子のような「思い込み」とは無縁である。
職を頻繁に替えるのも彼に言わせれば「ちょっとでもええ仕事があったらそれに飛びつい」た結果。
自分は幻想の外にいながら妻の家族幻想に付き合ってあげている彼は、(それがいい加減な性格ゆえの行動としても)結構いい旦那さんなんじゃないかと思います。
・タイトル前の場面では朝バスに乗ったらばらばらの席に座り、口も聞かなかった彼らが、この帰りのバスでは(やっぱり席は離れてるけど)ごく家族らしい会話をしている。
貴史とマナの会話は相変わらず赤裸々ではあるが、普段の京橋家のような「本来伏せておくようなことをわざわざ白日の下に晒している」うそ寒さはなく、ごく自然に家族への思いを口にしているのが伝わってくる。
・家族を待ちながら、花模様を描いた玩具?をいじる絵里子。花が崩れては元に戻るその仕組みは「やり直し、くり返し」の象徴。
・さと子が(自分の留守中に)家に電話してくることを激しく嫌がっていた絵里子が、その電話によって救われ、生まれ直す。
兄から自分の思い込みとは正反対の事実=「さと子は絵里子を深く愛している」ことを知らされ、心揺らいでいたところに母の愛情を示す「お誕生日おめでとう」の言葉。
母を憎悪し、反面教師として京橋家を作った絵里子は、母へのわだかまりを解いたことで、表面的な平和をヒステリックに守ろうとする態度を少しずつ改めていけるのだろう。
・「本当に大切なことは墓まで持ってゆくもんだよ」と言われて、絵里子は大人しく「そうね」と答える。
「何事も包み隠さず」という京橋家のルールに反するさと子の言葉を自然に受け入れている。
上の場面に続いて、絵里子と京橋家が今後変化していくだろうことを示唆する場面。
・絵里子の記憶の中で、「生まなければよかった」と言った後のさと子の表情が、哄笑から「聞かれちゃいけない事を聞かれてしまった」ショックの表情に代わり、あげなかったはずのアイスは親子仲良く分け合ったことに代わる。パーティの時にさと子が言っていた「記憶の書き替え」。
ただしこれは、よい方へ記憶が書き換えられたのか、母への憎しみゆえに歪められていた記憶が本来の形を取り戻したのか。先のさと子の台詞とあわせれば、前者の「いい方への書き換え」が正解であろうか。
とすれば、結局それは真実から目を背けて、自分に都合のいい偽の記憶に逃げ込んだだけと言えはしないか。
処世術としては有効だろうが、一つの「思い込み」から別の「思い込み」に視点が切り替わっただけ、というなら、彼女は相変わらず自閉してるわけだ。
・血の雨を浴びながらくりかえし絶叫する絵里子。一声叫ぶたびに表情も声もどんどん幼く、赤ん坊に近付いてゆくようなのに驚愕。
この映画、とくにこの大詰のシーンでの小泉さんの演技が絶賛されたのも無理からぬところ。
(『キネマ旬報』2005年10月下旬号掲載の小泉さんロングインタビューによると、「目にも口にも血糊が大量に入って、半日くらいは視界にモヤがかかってたし、3日間、声が出なかった」そうです。お疲れさまでした!)
・帰宅した貴史たちがチャイムをたびたび鳴らしても、ベランダにいるはずの絵里子は無反応。カメラの視界にも一向に絵里子の姿が入らない。
あのまま赤ん坊から胎児へとどんどん退行して消滅してしまったんじゃないかと思わず恐怖を覚えた。
・絵里子へのバースディプレゼントをそれぞれに抱えて帰ってきた京橋ファミリー。
この「サプライズパーティ」は原作(絵里子視点の「空中庭園」の章)では絵里子の想像(願望)にすぎず、実際の彼らは待っても待っても帰ってこない、という場面で終わっているが、映画ではサプライズパーティが現実のこととして描かれており、後味のよいハッピーエンドになっている
・・・といいたいのだが、気になるのはドアを開けたシーンで貴史、コウ、マナの顔が映らないこと(正確には、マナは顔の下半分がちょっと映る)。
単に彼らが抱えたプレゼントをクローズアップするためなのかもしれないが、絵里子が求めているのは個々の顔を持つ生身の彼らではなく、自分のためにパーティを企画し、こっそりプレゼントを抱えて帰ってくるような心優しい(彼女にとって都合のよい)「家族」なのではないか、という疑念が湧きあがってくる。
先のバスでの会話シーンがあるので、さすがに玄関前に立つ彼らの存在までもが絵里子の妄想ということはないんだろうが・・・。
・夫は白い箱を、息子は白い花を、娘は白いクマをそれぞれ抱えている。
絵里子の絶叫シーン初め繰り返し表れる血のモチーフ-赤い色に対して、「まっさらからやり直す」イメージの白がここで登場し、生まれ直した絵里子の新しい人生を寿いでいる。
その中からさらに白い花がクローズアップされ、冒頭部と最後の場面の食卓に飾られた赤い花に代わって、これからの京橋家を彩るだろうことを暗示する。
この作品、とりわけ導入部の揺れる街並みや観覧車、「野猿」のベッドなどの回転(円環)運動を、繰り返し見るうちに感じたのが一種の「癒し」。
心の凝りがほぐれて外へ解き放たれて行くたぐいの癒しではなく、安全な繭の中で体を丸めているような自閉的な居心地の良さ。
「野猿」で「ここずっといたい」とつぶやいたマナにうっかりと共感してしまいそう。
そしてさと子のように「やだやだ」と付け加えてみたりしたくなるのです。