読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

気負った若書きながら、早くも荷風文学のスタイルが確立された佳作『地獄の花』

2022-02-13 22:36:00 | 本のお噂


『地獄の花』
永井荷風著、岩波書店(岩波文庫)、1954年


もうすでに2年以上も経つというのに、社会はあいもかわらず、コロナコロナでおかしくなったままであります。
わが宮崎でも、〝感染拡大防止〟を錦の御旗にした「まん延防止等重点措置」とやらが先月(1月)から適用され、さらにそれが延長されるに至りました。旅行やレジャーはおろか、美味しいものを好きなように呑み食いできる楽しみまでもが、1ヶ月以上も奪われるという異常かつ理不尽きわまりない状態が続くことになります。感染力は高いものの、陽性者のほとんどは無症状か軽症にすぎない「オミクロン株」を相手に、社会は真っ当さと正気を失ったまま。
こんなおかしな状況が延々と続く世の中にあっては、こちらの精神までおかしくなってきそうです。実際ここ1ヶ月近くの間、ものを読んだり書いたりする意欲や気力も失せてしまっておりました。
こんなときには、確固とした自我とポリシーを持った書き手の書物を読んで、精神の活性化を図るに限ります。永井荷風は、わたしにとってそんな書き手の一人。ということで、まだ未読のままだった初期の作品『地獄の花』を読みました。

女学校の教師をしている園子のもとに、黒淵家の息子の家庭教師の話が舞い込んでくる。黒淵家は巨大な富を持ちながらも、それが公明正大な手段で得られたものではなかったことを理由に、世間からは白眼視され排斥されていた。はじめのうちは決断しかねていた園子だったが、黒淵家に出入りしていた知己で宗教家である男のたっての頼みもあって引き受けることに。黒淵家の置かれた境遇に同情を寄せるようになった園子は、その息子の教育に熱心に取り組んでいくが、やがて過酷なまでの運命のいたずらに翻弄されていくことに・・・。

明治35年、当時24歳だった荷風さんが文芸誌の懸賞小説の募集に応じて書き上げた長篇小説(とはいえ文庫本で100ページ少々という長さですが)で、この作品の出版により新進作家として認められることとなりました。
完全なる理想の人生を形造るためには、人間の持つ暗黒なる動物的な一面を研究しなければならない・・・と冒頭の一文で述べているように、本作は教育家や宗教家などといった、世間からは「崇高な人格者」とされている人間たちが持つ欺瞞や醜悪な俗物性を、容赦なく暴き出していきます。その語り口はまことにストレートすぎていて、若書きらしい青臭さが感じられるのは否めません。
ですが、コロナ騒ぎで明らかにされた、権威や世間体、キレイゴトの裏にある世の中の偽善や欺瞞に嫌気が差しまくっていた今のわたしには、いささか気負っていて青臭い本作の語り口が、想像以上に気持ちに響いてまいりました。
とりわけ魅力的に映ったのが、黒淵家の娘である富子という人物でした。本家から離れ、ひとり向島の別荘に住む富子は、世間における体面や名誉といったものをとことん否定し、自由な生き方を志向する気高い女性として描かれています。その富子が語る人生観が実にいいのです。
(以下、引用文はあえて旧字旧仮名のままとします。カッコ内は引用者による補足です)

「社會から受ける名譽とか名望とか云ふものは果たして何であるか。名望を得やうと思つたら、表面の道徳とか道義とかを看板にして、愚にもつかない事にまで自分の身を欺く偽善者にならねば成らぬ。其様(そんな)事より世の中から卑まれ退けられた自由の境に、悠々として意(こころ)のまゝに日を送る方が何(ど)れ程幸福で愉快で、そして又心に疚(やま)しい事が少いか」
「自分はもう世の中は馬鹿々々しいものである、何様(どんな)美しい名誉の冠を戴いて居やうが、其は皆見せかけばかりであると云ふ事を悟りきつて、自分は自分である。世間は世間である。自分は世間の評判なぞには決して心を向けずに自分の爲(し)たいと思ふ事を少しの遠慮もなく自由に振舞つて行けば可い」

浮薄な名誉や世間体を排する、凛とした痛快さに満ちた富子の語りには、荷風さん自身の人生観が反映されているようで興味深く思われました。
過酷なまでの運命のいたずらによって、園子は身も心も傷つけられていきます。それでも園子は、富子や黒淵家の息子・秀男とともに、「世間が云ひ囃す汚い地獄の中」で毅然として生きていく道を選びます。その決意表明がまたいいのです。

「今は如何なる汚行も自身を欺く事はない。人は此の自由自在なる全く動物と同じき境涯にあつて、而して能く美しき徳を修め得てこそ始めて不變(変)不朽なる讃美の冠を其の頭上に戴かしむる價値を生ずるのである。否始めて人たる名稱(称)を許さるゝのである」

運命に翻弄されながら、それでも前を向いて生きていこうとする女性像。「成功者」「人格者」などとして世間で持て囃されている存在ではなく、むしろ世間から疎まれ、蔑まされている存在に人間としての価値を見ようとする姿勢・・・。それらは、のちの荷風さんの作品群にも共通して見られる要素でしょう。
『地獄の花』は青臭く気負った若書きでありながら、早くも荷風文学のスタイルを築き上げた佳作ではないかと思います。


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