『知ろうとすること。』
早野龍五・糸井重里著、新潮社(新潮文庫)、2014年
2011年3月11日に起こった東日本大震災。あまりにも甚大であったその被害にも慄き、ショックを受けましたが、それに追い打ちをかけるようなショックを受けることになったのが、続けて起こった東京電力福島第一原子力発電所の事故でした。
それ以前から、原子力発電の存在に対して強い疑問を持っていたわたくしは、刻一刻と報じられる発電所の状況に怖れを抱きつつ、これを契機にして原子力発電のあり方を見直すような議論が巻き起こっていったら•••と、正直期待してもおりました。
しかし、時が経つにつれて、そんなわたくしの気持ちの中に、ざらついた違和感が生まれてきました。原発事故による「放射能」の影響を強調しようとするあまり、明らかに不正確でおかしなデマ的言説が撒き散らされ、それによって生じた風評で福島とその周辺の人たちの気持ちが傷つき、苦しめられていることを知ったのが、ざらついた違和感の原因でした。原子力発電や放射能を否定したいからといって、そのようなことが許されていいものなのか•••と。
そんなざらついた気持ちを持て余していたとき、わたくしのツイッターのタイムラインに流れてきたのが、糸井重里さんによるこのツイートでした。
「ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、『よりスキャンダラスでないほう』を選びます。『より脅かしてないほう』を選びます。『より正義を語らないほう』を選びます。『より失礼でないほう』を選びます。そして『よりユーモアのあるほう』を選びます。」
この糸井さんのツイートに、わたくしは大いに共感いたしました。そしてそれ以来、原発事故に限らずさまざまな問題を考える上で、この考え方をお手本にしながら、冷静に偏らずにものを見ながら考えるよう、心がけているつもりです。
そんな糸井さんの考え方に影響を与えたのは、本書『知ろうとすること。』の共著者である東京大学の物理学者、早野龍五さんだといいます。早野さんは事故直後から事態の推移を分析し、それをツイッターで冷静に伝えることを続けてきました。そして、福島での給食調査や子ども向け内部被ばく測定装置開発にも尽力し、その結果を内外に向けて発信したりもなさっておられます。
この『知ろうとすること。』は、早野さんと糸井さんの対話をまとめた文庫オリジナルの一冊です。語り口はどこまでも平易な200ページ足らずの文庫本ではありますが、震災、そして原発事故後を生きる日本人にとって大切なことが詰まっている良書でありました。
糸井さんは自らを「もともと、科学的にものを考えるタイプの人間ではない」といい、物理学者である早野さんを含め、「非科学的なことも、みんなの中に普通にある」という話がなされます。
そんな、誰の中にもある「非科学的」な部分を踏まえた上で、それでも「心の片隅に『科学的に正しいことを選びたい』っていう意思があるだけで、大げさにいえば未来をちょっとだけ良い方向に進めることができるような気がする」と語ります。
何かことが起こったときにしばしば見かけるのが、感情的でヒステリックなもの言いなのですが、糸井さんはそのような「叫ぶ人」は「信用できない」といいます。
「何か大きな問題が起こったときに、大きい声を出したり泣いたりして伝える、って手法は、歴史的にずっとあったわけです。(中略)でも、本当に問題を解決したいと思ったときには、やっぱりヒステリックに騒いだらダメだとぼくは思うんです。『大変だぞ!』『死んじゃうぞ!』って、でかい声を出している人は、何か落ち着いて説明できない不利なことがあるのに、それはひとまず置いといて、とりあえず大声出せばみんなが来ると思ってやっているんじゃないかと思う。だから、どんなにいい人でも、叫びながら言ってることは注意深く聞かなくちゃいけない。」
わたくしも、考えの違う者をひたすら敵視し、ヒステリックに騒ぐばかりでは、何ひとつものごとは良い方向になど進んではいかないのではないか、と感じることが多々ありました。それだけに、このお話には深く頷きました。
科学的に正しい事実とデータを積み重ね、それを共有することなしに、まともな議論はもちろん、未来を良くしていくこともできないのではないか、ということを、本書はまず教えてくれました。
本書からもう一つ教えられたのは、地道なデータの積み重ねとその分析結果を、広く発信していくことの重要性でした。
原発事故後に初めて、福島における内部被ばくの現状を現地調査によるデータに基づいて分析し、「チェルノブイリ事故の経験に基づく予想よりも、福島の人々が受けた内部被ばくははるかに低い」ということを、査読付きのきちんとした論文で発表したのが、他ならぬ早野さんでした。それも、3万人分ものデータの地道な蓄積があったからこその成果だったのです。早野さんは、そういった論文がそれまで出ていなかったことについて、「日本の発信力の低さを物語っているのかもしれません」と指摘します。
発信力の低さにより、海外にも正確な情報が伝わっていないこともまた問題でしょう。本書の後半、早野さんが福島の高校生3人をヨーロッパのCERN(欧州合同原子核研究機関)に引率したときの話がされるのですが、そのときヨーロッパの高校生からは「生きてる人間が福島から来た」「福島って人が住んでるの?」という驚きの声が上がったといいます。
そんな中で、福島から来た3人の高校生は内部被ばくや外部被ばくについての調査結果や、福島が蒙っている風評被害の実態(福島から引っ越してきた生徒がいじめに遭ったり、検査で放射性物質が含まれていないことが証明されても、なお農産物の価格が元に戻っていないことなど)を英語で発表し、その後の質疑応答まできちんとこなしていた、とか。この話は実に感動的でしたし、希望を感じるものがありました。
海外はもちろんのこと、福島の内外においても、まだまだ不安を感じておられる人たちがいるということも、また事実です。本書では、たくさんの第三者が、「正しいことを広めるお手伝い」を「ひとりひとりが普通に実践すること」の大事さについても語られていて、これにも教えられるものがありました。
福島の外に住む人間として耳が痛かったのが、事故後の福島の現状について、「離れたところに住んでいる人たち」は「離れていることで、やっぱりどこか無責任になっているような気がする」という糸井さんのことばでした。
事故後、福島の皆さんは当事者としてすごく勉強し、新しい知識を当たり前のように吸収しているといいます(実際、そういった話は別のところからも知ることができました)。
「わからないから怖い」で留まったまま、新しい知識や情報に対してオープンではないというのは、「知ろうとすること」とは対極の姿勢なのではないか。そのことは社会の一員としても、そして人間としても、いささか無責任な姿勢なのではないだろうか•••。
われわれ、福島から「離れたところに住んでいる人たち」に向けて、そのように問いを投げかけているのではないかと思われてなりませんでした。
科学的に正しい事実と知識、データをオープンに吸収し、それをもとにして可能な限り的確な判断を下し、行動や言動に結びつける。そのことはどのような意見や考えの持ち主にとっても必要なことだし、それを心がけていくことで、社会と未来を少しでも良い方向に進めることができるのではないか•••。
震災と原発事故後を生きるわれわれにとって、しっかりと心に留めておきたい大切なことを、この薄くて小さな文庫本はしっかりと教えてくれました。
一人でも多くの人に本書が読まれて欲しいと、心から願います。