読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

【読了本】『文人悪食』 「食」を通した文士たちの生きざまと作品世界を濃密に凝縮した出色の評伝

2014-11-03 19:59:56 | 美味しいお酒と食べもの、そして食文化本のお噂

『文人悪食』
嵐山光三郎著、新潮社(新潮文庫)、2000年(元本は1997年、マガジンハウスより刊行)


夏目漱石、森鷗外、正岡子規、島崎藤村、樋口一葉、永井荷風、志賀直哉、石川啄木、谷崎潤一郎、芥川龍之介、江戸川乱歩、宮沢賢治、川端康成、林芙美子、坂口安吾、中原中也、太宰治、三島由紀夫•••等々。
いずれ劣らぬ近代文学史のビッグネームたる文士たちは、何をどのように食べ、飲んだのか。そしてそれは、それぞれの作品世界とどう結びついているのか。本書『文人悪食』は、「食」という側面から、37人の文士たちの足跡と作品を見つめ直した労作です。

著者の嵐山光三郎さんは、執筆にあたって文士たち本人の著作はもちろん、彼ら彼女らと交流のあった人びとの手になる著作や雑誌記事など、膨大な文献を参照したといいます。その数なんと700余り。小さな文字、しかも2段組で13ページにおよぶ巻末の参考文献一覧には圧倒されます。
かくも膨大な量の文献をバックにして綴られた「食」をめぐる文士たちの物語は、一章につき十数ページという短いものでありながらも、それぞれの作品世界と生きざまを濃密に凝縮した評伝として出色で、実に読み応えがありました。

子どもの頃から甘い物好きであったという森鷗外は、なんと饅頭をご飯の上に乗せてお茶をかけるという「饅頭茶漬」が好物だったとか。
それについて嵐山さんは、鷗外がドイツで学んだ衛生学との関係を深掘りします。細菌についての知見を得ることで、生ものに対して極度の警戒心を持つようになったという鷗外は、果物も生で食べずに煮て食べたとか。のみならず、マヨネーズなどの「ドロドロしたもの」を使う洋食は、「作っているときも、皿に盛るときも細菌が入りやすくて衛生上よくない」という持論の持ち主だったそうで、「饅頭茶漬」という珍奇な料理は、そんな鷗外の志向からすると当然の帰結である、と。
さらに上をいくような潔癖性だったのが泉鏡花。とにかくバイ菌が怖くて、大根おろしまで煮て食べていたという鏡花は、鍋物を食するときにも具をとことん煮てから食べていたそうです。
小島政二郎ら文士仲間とシャモ鍋を囲んだときには、煮える具をかたっぱしから食べていた小島に対し、鏡花は鍋の真中に五分に切った葱をせっせと並べた上で、
「小島君、これからこっちへは箸を出さないようにしていただきたいものですな。そっちはあなたの領分、こっちは私の領分、相犯さないようにしましょう」
とジロリとにらみつけた、のだとか。
そんな、私生活における異常なまでの潔癖性が作品世界では反転し、鏡花はまるで「わざと恐怖を体験する自己治療」であるかのように、おぞましい化け物たちが登場するような怪異譚を書き続けた、と。

作品を読むだけでは見えてこなかった、文士たちの意外な生きざまを知ることができるのも、「食」という営みから文士たちを捉え直した本書の面白さでしょう。
教科書にも掲載されるような“美談”といってもいい代表作『一房の葡萄』を世に出しながら、理想主義に破れた挙句に人妻との情死という最期を選んだ有島武郎の修羅。地方に根を下ろした粗食かつ菜食主義者、というイメージとは裏腹に、ひたすら西欧文化に憧れ、肉も食べれば料亭で酒も飲んでいたという宮沢賢治の「自己分裂」。酒が入ると異常なまでの攻撃性を発揮して、大岡昇平や太宰治などの作家や批評家にかたっぱしから喧嘩をふっかけていたという中原中也。等々。
中でも面白かったのは放浪俳人・種田山頭火を取り上げた一章でした。破れた僧衣をまとい、漂泊行乞の境涯を過ごしたことから「清廉な漂泊詩人」のイメージを持つ山頭火。わたくしもやはり、そのようなイメージを強く抱いていたのですが、嵐山さんはこう言うのです。

「しかし、だまされてはいけない。山頭火はいささかも悟らず、脱俗しきった形跡はない。したたかであり、欲の人である。だからこそ珠玉の句が生まれた。」

句のみならず、日記でも食べることばかり記していたという山頭火は、主婦の家計簿のように収支を残すなど、金銭についても細かい性分だったとか。そして、与えられる側の弱さを表出しつつも、与える側、人にものをおごる人の心理をも見抜いていた、というのです。うーむ、なんというしたたかさ。

「山頭火は、弁当は一番気にいった風景のもとで食べ、水も吟味を重ねた。旅をして喉がかわいても、すぐには水を飲まない。喉をからして、からして、からした果てにたどりついた泉の水を飲んだ。この水の飲み方は、酒好きが酒を飲む姿勢に似ている。自分の躰を、水や酒がうまい状態にもっていく。節制は、そのあとの食味を増すための用意である。美食を得るための行乞である。悟りがひらけるわけがない。行乞は、山頭火が、うまい飯を食い、うまい酒や水を飲むための技術であった。山頭火は、谷崎潤一郎の正反対に位置するもうひとつの快楽主義者である。」

この見事なまでの見立てっぷり。それまでどこか別世界の存在のように思われていた山頭火が、なんだか急に人間くさくて身近な存在に思えてきてしまいました•••。

また、文筆においては料理について一切書かなかったという小林秀雄が、実はことのほか料理にうるさかったという話にも面白いものがありました。
馴染みの店で出された柳川鍋が気に入らなかった小林は、「教えてやるから、俺の言う通りやってみろ」と言い、そのお店の柳川鍋を「秀雄流」に改善させたとか。
ところが、後にやってきた永井龍男はその「秀雄流」の柳川鍋を出されて「柳川はこんなに甘いもんじゃない」と叱り、以後そのお店の柳川鍋は「秀雄流」と「龍男流」が揃うようになった、そうな。いやはや、口うるさい文士先生をお得意さまに持ったお店もタイヘンなことよのう(笑)。
もとより、そのように個々の作家のイメージを覆すような側面を知ることは、その作家および作品を否定することにはなりません。むしろ、固着した先入観が崩れることであらためてその作家に興味を抱かせ、作品を読み直してみたいという気持ちにさせてくれたりもいたします。こういうところが、観念だけで語られる文学論、作家論にはない本書の力、であるように思います。

終盤では、檀一雄や深沢七郎、池波正太郎、三島由紀夫といった、嵐山さんが編集者として関わった作家たちが取り上げられます。
それまでの章では、取り上げる作家たちと距離感を保った客観的な記述だったのが、この4人を取り上げた章ではそれぞれの作家たちへの敬慕の念がけっこうストレートに出ていたりして、それはそれでまたいい感じでした。
嵐山さんが日本各地への取材旅行をともにし、その料理術からも多大な影響を受けているという檀一雄。彼が料理に目覚めたのは、子どもの頃に家出をした母親に代わって、妹たちに料理を作ったことがきっかけであったと檀本人は語っています。
しかし、その後の檀に見られた料理への執着については、別の要因があったのではないかと嵐山さんは指摘します。料理は自らの狂気を押さえる自己救済の手段であり、だからこそ檀の料理は多くの人にふるまわれ、人々を楽しく幸せにするとともに、同じ「無頼派」と呼ばれながら、坂口安吾のように薬物で身を持ち崩したり、太宰治のように情死を選ぶことなくふみとどまることができたのだ、と。
ここでもまた、嵐山さんは実に印象的なことばを記しています。

「料理は人を慰安する。
素材を煮込んだり、蒸したり、焼いたり、いろいろといじっている混沌の時間は、狂気を押さえつけ、ひたすら内部に沈静させる力がある。料理に気持をこめることは他の欲望をしずめるための手段である。」


料理を食べることのみならず、料理を作ることの達人でもある嵐山さんだからこそ発することのできた、滋味豊かなことば、ではないでしょうか。

読書の秋、そして食欲の秋にふさわしい、とても美味しい一冊でございました。

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2 コメント

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読んだ気にさせる♪ (けい)
2014-11-04 18:50:10
いつも思うのですが 閑古堂さんの文章はその本をもう読んでしまった感じにさせる力を持っていますね。
今回も凄い!なんか字面を追っているかのごとく・・・生き生きと描かれていて 驚きながら読みました。
嵐山さん 恐るべし!読んでみたくなります♪
読んでみたくさせる閑古堂さんの表現力にも脱帽です。これはぜひ注文してみなくては♪
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Re:けいさん、嬉しいお言葉恐縮です・・・。 (閑古堂)
2014-11-04 21:01:58
でもやっぱり、ほんとにすごいのは著者の嵐山さんだと思いますねー。ものすごい量の文献をきちんと読み込みながらも、それらの要素を噛み砕いて読みやすく面白い読みものに仕立て上げておられるんですから。さすがだと思いますね。
あらためて、取り上げられている文豪たちに対する興味を掻き立ててくれましたよ。けいさんにも大いにオススメしたい一冊です!
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