読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

【読了本】『ふしぎな国道』 知ってるようでぜんぜん知らなかった国道のあれこれに「ヘェ~」連発の面白本

2014-11-09 17:32:03 | 本のお噂

『ふしぎな国道』
佐藤健太郎著、講談社(講談社現代新書)、2014年


ひとつのモノゴトにとことんこだわり抜いた内容の本や雑誌というのは、なかなか面白いものであります。
取り上げられている対象が、普段はまるで意識もしていないようなモノゴトだったりするとなおさらで、「ふーん、いままでたいして興味もなかったんだけど、こんな面白いヒミツや裏事情があったのかー」てな感じで、実に新鮮なオドロキや発見に満ちていて、けっこう好奇心を刺激してくれたりいたします。
国道をはじめとする道路のあれやこれやにとことんこだわりまくった、この『ふしぎな国道』という本も、まさしくそのような新鮮なオドロキと発見に満ちた実に面白い一冊なのであります。
著者の佐藤健太郎さんは、科学ジャーナリスト賞を受けた『医薬品クライシス』(新潮新書)などの著書でも知られるサイエンスライターですが、実は17年におよぶ国道マニアでもあるそうで、もともとは科学の本を書くよう依頼してきた編集者氏を説得した末に、本書を上梓するに至ったとか。それだけに本書には、佐藤さんが国道に注ぐ熱意と愛がたっぷりと詰まっています。

まず取り上げられているのが、全国各地の変わりダネ国道の数々です。
そのインパクトから、国道マニアならずとも知名度の高いのが、青森県は龍飛崎にある「階段国道」こと国道339号。362段におよぶ階段もさることながら、民家の間を抜けて伸びる区間もあったりして「日本で最も狭い国道」でもあるそうです。もちろん、どう頑張ってもクルマが通れるはずもありません。いやはや、こうしてあらためて知ると、この339号は変わりダネ国道の王者、という感じがいたしますね。
他にも、山の中に細く伸びる登山道国道(しかも、国道標識がくくりつけられているのは自然木)や、通行人行き交うアーケード国道、別の国道から分岐したと思ったら、わずか62メートルで海に突き当たってしまう「盲腸国道」などなど、ケッタイな国道の数々に、いきなりわたくしの胸は鷲掴みにされてしまいました。
まともに車が通るのにも困難をきたすような「酷道」にも、なかなかインパクト十分な物件が目白押しです。中でもキョーレツなのが、大阪市と奈良市を結ぶ国道308号。とんでもない急坂はあるわ、幅が2.2メートルしかない場所があるわ。あまつさえその最狭部分の道端には「道路狭小につき通行ご遠慮願います」という「国道にあるまじき看板」まで立っているという「最初から最後まで、車を通らせようという気概が微塵も感じられない」国道なんだとか。もの凄すぎる•••。
ちなみに九州代表の「酷道」として名が挙がっているのが国道265号。北半分は阿蘇山周辺をめぐる快適な観光道路ながら、宮崎県に入ると細く頼りない、崩落箇所も目に入る「酷道」になるんだとか。•••ああ、やっぱり(苦笑)。
さまざまな最高記録を持つ国道にもオドロキの物件が。日本で最長の国道は、東京都中央区と青森県青森市を結ぶ、約743.6kmの国道4号なのですが、これには思わぬ「伏兵」があるといいます。鹿児島市から種子島、奄美大島を経由して沖縄の那覇市に至る国道58号は、途中の「海上区間」を含めると約857kmにも及ぶ最長の国道になるんだと。まさか海の上にも「国道」が伸びていたとは•••。

笑いを誘われる変わりダネ国道や、オドロキの記録を持つ数々の国道の紹介にも気持ちを鷲掴みにされるのですが、国道をめぐる歴史や国道周辺の話題にも、興味を惹かれることが多々ありました。
国道というと、その名の通り国がすべてを管轄していると思いきや、国が管理するのは特に重要な区間のみで、ほとんどは「補助国道」として都道府県や政令指定都市が管理を受け持つようになっているんだとか。うーむ、それも初めて知りましたね。
その形状から「おにぎり」なる愛称で呼ばれているという国道標識も、観察してみるといろいろなことが見えてくるようです。国道標識にも、幅が1メートルを超える異常に大きなものが歩道橋に架けられていたり、ガードレールにステッカーに印刷されたのが貼られていたりと、いろんな地域性があったりもするんだとか。
また「ROUTE」の綴りが間違っている標識もいくつか存在しているそうで、「ROUOE」やら「ROUET」、果ては「ROUTO」なんて表記のものも。目薬かよ(笑)。
さらには、国道にまつわるグッズや(本物の国道標識と同じ素材で作られた「ミニチュアおにぎり」など)、国道をテーマにした歌を紹介した章まであります。あの龍飛崎の「階段国道」を歌い込んだ曲もあるそうな(演歌歌手・長保有紀さんが歌う「龍飛崎」)。

本書を読むことで、実にさまざまな興味と着眼点から国道にこだわる、愛すべきマニアたちの存在も知ることができました。
実は道路趣味者の中では最大勢力という「酷道」マニアをはじめ、もう使われていない道路を巡る「廃道探検」、各地の国道標識を撮影してコレクションする、などなど。極めつきは、「国道の有り難みを知るには、国道がなかったらどうなるかを試すのが一番」と、スタートからゴールまで一切国道を通行することなく走り抜けようという「非国道走行」なんてのもあるんだとか。•••ちなみに、そのような「非国道走行」の趣味人たちのことを「非国民」というそうで(笑)。
そんな道路趣味の中で、「これならけっこう面白そうだなあ」と感じたのが「国道完走」。一本の国道を最初から最後まで全区間走り抜けることで、普段は一部分しか通行していない道がさまざまな街へ通じていたり、広い幹線道路だった道がやたら狭い道になっていたりと、「身近な国道の知らない面、日本という国の知られざる姿を再発見できる」楽しさがあるといいます。

「国道など毎日見慣れているようでいて、実は我々が知っているのはそのうちの一点、あるいはせいぜい数kmの短い『線分』に過ぎない。一本の国道を走りきり、『線』として捉えてみると、今までと全く違ったものが見えてくるわけである。」

また、かつては国道だったのが、その後の道路整備などで都道府県道となった「旧道」を辿る、というのにも興味を惹かれました。古い街道の名残りがあったり、昔の道路元標(道路の起終点を示す石碑など)がひっそりと眠っていたり、昔ながらの商店街や重厚な造りの旧家が軒を並べていたり•••など、地域と道路をめぐる歴史を窺うことができるようで、なかなか味わい深いものがありそうです。
鉄道の旅が大好きなわたくしではありますが(というか、そもそも自分のクルマを持っていない)、こういう国道完走や旧道巡りというのは、旅としても面白いものがあるように思いましたね。いつか機会を作ってやってみようかなあ、クルマ借りて(笑)。

普段はほとんど意識することもなく通り過ぎていくだけの、空気のような存在である国道。そこにとことんこだわることで、実にいろいろなことが見えてくる、ということがよくわかり、読みながら「ヘェ~」の連発でした。佐藤さんの記述もユーモアが満載ですし、カラー写真も豊富に収められていたりして、読みものとしてもまことに楽しいつくりとなっていました。
国道マニア道路好きならずとも、読んでおいて損はない一冊だと思いますぞよ。

【読了本】『知ろうとすること。』 震災と原発事故後を生きる上で大切なことを教えてくれる良書

2014-11-09 17:31:11 | 本のお噂

『知ろうとすること。』
早野龍五・糸井重里著、新潮社(新潮文庫)、2014年


2011年3月11日に起こった東日本大震災。あまりにも甚大であったその被害にも慄き、ショックを受けましたが、それに追い打ちをかけるようなショックを受けることになったのが、続けて起こった東京電力福島第一原子力発電所の事故でした。
それ以前から、原子力発電の存在に対して強い疑問を持っていたわたくしは、刻一刻と報じられる発電所の状況に怖れを抱きつつ、これを契機にして原子力発電のあり方を見直すような議論が巻き起こっていったら•••と、正直期待してもおりました。

しかし、時が経つにつれて、そんなわたくしの気持ちの中に、ざらついた違和感が生まれてきました。原発事故による「放射能」の影響を強調しようとするあまり、明らかに不正確でおかしなデマ的言説が撒き散らされ、それによって生じた風評で福島とその周辺の人たちの気持ちが傷つき、苦しめられていることを知ったのが、ざらついた違和感の原因でした。原子力発電や放射能を否定したいからといって、そのようなことが許されていいものなのか•••と。
そんなざらついた気持ちを持て余していたとき、わたくしのツイッターのタイムラインに流れてきたのが、糸井重里さんによるこのツイートでした。

「ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、『よりスキャンダラスでないほう』を選びます。『より脅かしてないほう』を選びます。『より正義を語らないほう』を選びます。『より失礼でないほう』を選びます。そして『よりユーモアのあるほう』を選びます。」

この糸井さんのツイートに、わたくしは大いに共感いたしました。そしてそれ以来、原発事故に限らずさまざまな問題を考える上で、この考え方をお手本にしながら、冷静に偏らずにものを見ながら考えるよう、心がけているつもりです。
そんな糸井さんの考え方に影響を与えたのは、本書『知ろうとすること。』の共著者である東京大学の物理学者、早野龍五さんだといいます。早野さんは事故直後から事態の推移を分析し、それをツイッターで冷静に伝えることを続けてきました。そして、福島での給食調査や子ども向け内部被ばく測定装置開発にも尽力し、その結果を内外に向けて発信したりもなさっておられます。
この『知ろうとすること。』は、早野さんと糸井さんの対話をまとめた文庫オリジナルの一冊です。語り口はどこまでも平易な200ページ足らずの文庫本ではありますが、震災、そして原発事故後を生きる日本人にとって大切なことが詰まっている良書でありました。

糸井さんは自らを「もともと、科学的にものを考えるタイプの人間ではない」といい、物理学者である早野さんを含め、「非科学的なことも、みんなの中に普通にある」という話がなされます。
そんな、誰の中にもある「非科学的」な部分を踏まえた上で、それでも「心の片隅に『科学的に正しいことを選びたい』っていう意思があるだけで、大げさにいえば未来をちょっとだけ良い方向に進めることができるような気がする」と語ります。
何かことが起こったときにしばしば見かけるのが、感情的でヒステリックなもの言いなのですが、糸井さんはそのような「叫ぶ人」は「信用できない」といいます。

「何か大きな問題が起こったときに、大きい声を出したり泣いたりして伝える、って手法は、歴史的にずっとあったわけです。(中略)でも、本当に問題を解決したいと思ったときには、やっぱりヒステリックに騒いだらダメだとぼくは思うんです。『大変だぞ!』『死んじゃうぞ!』って、でかい声を出している人は、何か落ち着いて説明できない不利なことがあるのに、それはひとまず置いといて、とりあえず大声出せばみんなが来ると思ってやっているんじゃないかと思う。だから、どんなにいい人でも、叫びながら言ってることは注意深く聞かなくちゃいけない。」

わたくしも、考えの違う者をひたすら敵視し、ヒステリックに騒ぐばかりでは、何ひとつものごとは良い方向になど進んではいかないのではないか、と感じることが多々ありました。それだけに、このお話には深く頷きました。
科学的に正しい事実とデータを積み重ね、それを共有することなしに、まともな議論はもちろん、未来を良くしていくこともできないのではないか、ということを、本書はまず教えてくれました。

本書からもう一つ教えられたのは、地道なデータの積み重ねとその分析結果を、広く発信していくことの重要性でした。
原発事故後に初めて、福島における内部被ばくの現状を現地調査によるデータに基づいて分析し、「チェルノブイリ事故の経験に基づく予想よりも、福島の人々が受けた内部被ばくははるかに低い」ということを、査読付きのきちんとした論文で発表したのが、他ならぬ早野さんでした。それも、3万人分ものデータの地道な蓄積があったからこその成果だったのです。早野さんは、そういった論文がそれまで出ていなかったことについて、「日本の発信力の低さを物語っているのかもしれません」と指摘します。
発信力の低さにより、海外にも正確な情報が伝わっていないこともまた問題でしょう。本書の後半、早野さんが福島の高校生3人をヨーロッパのCERN(欧州合同原子核研究機関)に引率したときの話がされるのですが、そのときヨーロッパの高校生からは「生きてる人間が福島から来た」「福島って人が住んでるの?」という驚きの声が上がったといいます。
そんな中で、福島から来た3人の高校生は内部被ばくや外部被ばくについての調査結果や、福島が蒙っている風評被害の実態(福島から引っ越してきた生徒がいじめに遭ったり、検査で放射性物質が含まれていないことが証明されても、なお農産物の価格が元に戻っていないことなど)を英語で発表し、その後の質疑応答まできちんとこなしていた、とか。この話は実に感動的でしたし、希望を感じるものがありました。
海外はもちろんのこと、福島の内外においても、まだまだ不安を感じておられる人たちがいるということも、また事実です。本書では、たくさんの第三者が、「正しいことを広めるお手伝い」を「ひとりひとりが普通に実践すること」の大事さについても語られていて、これにも教えられるものがありました。

福島の外に住む人間として耳が痛かったのが、事故後の福島の現状について、「離れたところに住んでいる人たち」は「離れていることで、やっぱりどこか無責任になっているような気がする」という糸井さんのことばでした。
事故後、福島の皆さんは当事者としてすごく勉強し、新しい知識を当たり前のように吸収しているといいます(実際、そういった話は別のところからも知ることができました)。
「わからないから怖い」で留まったまま、新しい知識や情報に対してオープンではないというのは、「知ろうとすること」とは対極の姿勢なのではないか。そのことは社会の一員としても、そして人間としても、いささか無責任な姿勢なのではないだろうか•••。
われわれ、福島から「離れたところに住んでいる人たち」に向けて、そのように問いを投げかけているのではないかと思われてなりませんでした。

科学的に正しい事実と知識、データをオープンに吸収し、それをもとにして可能な限り的確な判断を下し、行動や言動に結びつける。そのことはどのような意見や考えの持ち主にとっても必要なことだし、それを心がけていくことで、社会と未来を少しでも良い方向に進めることができるのではないか•••。

震災と原発事故後を生きるわれわれにとって、しっかりと心に留めておきたい大切なことを、この薄くて小さな文庫本はしっかりと教えてくれました。
一人でも多くの人に本書が読まれて欲しいと、心から願います。