[イザヤ9章]
6節の口語訳聖書は「霊妙なる義士、大能の神」、別訳では「ワンダフル・カウンセラー(驚くべき指導者)」と訳されています。
不思議さや奇跡は創造主なる神が霊Spiritであることに起因しています。
私たちは時間と空間である3次元の中に住んでいますが、霊はそれを超えています。
創造主は失われた真の人を回復されるために、世に下りました。それは霊のいのちを回復するということです。
紀元前700年前の預言者イザヤが見たのは、真の人としてこの世に来られる主の姿でした。
どのようにして未来を認識できたでしょうか。
霊は空間を超えますから、離れていても対話し活動できます。チャールズ・ウェスレーは多くの讃美歌を造り兄ジョン・ウェスーと共にイギリスで人々を救いに導きました。よく旅に出ました。妻との間が疎遠にならないため、同じ時間を決めて祈りあったと言われます。体は離れていても霊では、主と共にあって交わりが出来ました。パウロもエリシャもそのような経験をしています。主を礼拝する時、天に帰られた人々と共にあり、また遠く離れていても近いのです。
礼拝では、神との交わりの中で、天国の民や天使たちとも出会っています。
これは空間だけでなく時間においても同じです。時間も神が造られたものですが、聖霊による祈りは時間を超えて働きます。創世記を書いたと言われるモーセは、宇宙の起源についてどのように知ったのでしょうか。恐らく神の霊によって天地創造の様子を見たのだと思います。
イザヤが700年後のイエス様の生涯を驚くほど正確に描いているのは、霊によって時間を超えてみることが出来たからではないでしょうか。聖霊の知恵や知識は、3次元の人間の能力をはるかに超えるのです。聖書が不思議と奇跡に満ちては創造主のいのちと活動を伝えているからです。
主のカウンセリング(助言)は御霊に依って行われました。御霊は時空だけでなく、私たちの心の深みまでご覧になります。人の目はうわべを見ることが出来ても隠されている心の思いまで洞察できません。
旧約聖書が明らかにするのは、神の真実な愛に対してイスラエルや異邦人がその愛を裏切る心と罪です。
神の霊は聖なる霊です。イザヤは主に近づいた時、「私はもうだめだ。(6章)」と光に照らされた自分の心の闇に絶望し、パウロも「私は何というみじめな人間なのだろう。(ロマ7章)と嘆きました。体育の教師として指導中の事故が原因で手足の自由がきかなくなり、口に筆をくわえて絵を描きはじめられ、その後、洗礼をお受けになった星野富弘さんは「黒い土に根を張り どぶ水を吸って なぜきれいに咲けるのだろう。私は大ぜいの人の愛の中にいて なぜみにくいことばかり 考えるのだろう」という詩を書いています。
イザヤは61章で語ります。「神である主の霊が私の上にある。主は私に油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために遣わされた。・・」また、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139篇23〜24節)とあります。
傷つく道とは「偶像礼拝」です。
私たちの思いが主からそれる時、悪霊が心をとらえ、責めや咎めとなります。
しかし、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53章5節)のです。
御子が人になられたのは、十字架上で傷を受けられ、血を流されて、罪の代価を負ってくださるためでした。そこで罪が赦され、清められて悪い霊とその思いから解放されます。代わって聖なる神の霊が心に宿ってくださり、愛と喜びと平安をもたらしてくださるのです。神のいのちはやがて、永遠の復活の体を与えてくださいます。