(ヨハネ福音書15章)
先週は「聖会」をオンラインのズームで見させていただきました。千葉先生の神学校時代のクラスメートの小野先生のメッセージもありました。「開天と御声、経過と完成」についてご自身お証を交えつつ霊的な糧を分かち合ってくださいました。キリストに倣うというテーマだったようです。
主は「私の語る言葉によって既にあなた方は清いのです」(3節)とありますように、聖霊に依る主の言葉は力があり神の業としての実が結びました。イエス様の人格と働きは創造主なる神と一体でしたので、いつでも天の響きと奇跡が現われました。
その秘訣をぶどうの木と枝の例えで説明されたのが15章です。
ローマ書11章16節ではオリーブの枝について「根が清ければ枝も清いのです」とあり、クリスチャンは選民イスラエルに代わって、神という台木に「つぎ木された者」とされました。枝が木の幹につながれることによって実を結ぶように、私たちは主にとどまることによって聖霊の実を結ぶのです。
根である神と幹であるイエス様に、御霊に依って私たちは結ばれ、樹液が流れるように聖霊が私たちを通して流れて実を結びます。
アダムが善悪を知る知識の木と結ばれて以来、サタンによる死と滅びの実を結んでいたのですが、十字架を通して罪が赦され、いのちの木につながるものにされました。
主の十字架の血による贖いと「父よ、彼らをおゆるしください」という言葉によってのみ、私たちは清くされ神いのちを与えられます。アダム以来の汚れた血をきよめていただいて神の子にされます。
しかし私たちは古い自分に帰ろうとする誘惑にさらされます。自我(魂)を主人公にし、自分の能力や知恵という枝ぶりを誇ります。罪とは「真に頼るべき創造主でなく被造物に頼ろうとする、的外れの歩み」の事です。
箴言3章5節-「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな、・・・自分を知恵ある者と思うな。主を恐れて悪から離れよ。それはあなたの体を健康にし、あなたの骨に元気を与える」
ここで自分を頼ることは、悪であり、主に頼るなら、サタンの呪いから解放されて祝福が与えられるとあります。
「自分を知恵ある者と思っている人をみただろう。彼よりも愚か者のほうがまだ望みがある。」(26・12)」
ブラザー・ローレンスは寒い戦場で葉を落とした木を見、再び樹液が流れて芽吹く姿を描いて希望を与えられました。つまらないような皿洗いの仕事の中でも、共におられる主をあおいで賛美の生活をしました。
自我に依存するのでなく内住の主に頼りきって、主がご自身を現わされ、主が実を結んでくださることを願いましょう。創造主との交わりによって、深い平安を与えられます。ただ十字架で流された神の血と神の御霊のみが永遠のいのちの勝利をもたらします。
主への祈りと賛美の中で、主が偉大な働きをされ永遠の実を結んでくださるのです。