(ピリピ書3章)
復活のいのちを生きるとは、御霊に頼って生きることです。
パウロがダマスコへの道で復活の主と出会ったのは、栄光の御座に引き揚げられたからです。
主との出会いが、主への信仰に導き、聖霊によって超自然的に新生した結果です。
信仰は御霊によって与えられ、信じること自体が神の業であり、聖霊が内住された証拠でもあるのです。
創造主ご自身のいのちの内に迎えられ、天使よりも高い至聖所に入れられたのです。放蕩息子が使用人ではなく父の家族として迎えられたように。
御子とみ父との交わりの中に入れられて、直接語り合えるという驚くべき特権と恵みによって、ますます深く主を知るようになります。
パリサイ人であったパウロはこれを自分から、人間の側から成し遂げようとしましたが
聖霊なしに行おうとしたので、復活のいのちが溢れることはありませんでした。
外側は飾っても内側は腐敗している白く塗った墓のような偽善者でした。
アダム以来の自然的いのち(プシュケ-)はサタンと死に支配されているので、復活のいのち(ゾ-エ-)が分からないし、復活はありえないことだと考えます。
人間の側からは不可能ですから、神の側から降りてこられて、十字架の贖いを成し遂げられて、聖霊として私たちの内に住まわれることによって、ほんとうのいのちの喜びを与えられました。
12節で「復活の力」と語られたのは「聖霊の力」であり、悪霊よりはるかに強い、神自身のいのちの体験です。
それは試練によって自我が砕かれ、人間的な力に頼ることから、創造主に頼ることによって溢れる力です。
やがて復活の霊の体を与えられて完成しますが、まだ肉の体に生きている現在においても
その弱さや外部からのストレスのなかで、主に御頼りすることによって溢れてくる神の力であります。