A・パジェット・ウィルクス 著 大江 邦治 筆記
創世記(10章)講演には以下のように記されています。(川守田英二師は「日本へブル詩歌下巻」432ペ-ジにおいてヘテ人は先住渡来民であって、エッタと呼ばれたとしている。)
「ヘテはヘテ人の先祖であった。このヘテ人のことは後に聖書にたびたび出て来る。すなわちヨシュア記一章四節、士師記一章二十六節、列王紀上十章二十九節、列王紀下七章六節その他聖書の各所に記されてあるのを見れば、ヘテ人の国は広い強い国であったに相違ない。高等批評家はいつもヘテ人は神話的であると言ってその存在を信ぜぬが、今はそのヘテ人の実際存在していたことと、その国が驚くべく広い帝国であったことが発見された。西暦1872年にダマスコの宣教師ライトという人がハマテで実に珍しい記念碑を発見した。その附近の土人はその碑の価値あることが分かると、宣教師に取られぬようにこれを破壊せんとしたが、ライト氏は親切な賢い取扱によってこれが破壊を免れしめた。しかしてオックスフォードのセイス博士の研究によってこれがヘテ人の記念碑であることが判明した。このセイス博士は『ヘテ人の帝国』という書を著している。しかしてそのヘテ人の記念碑の文字は未だ誰も読むことを得ないが、だんだんとエジプトの記念碑を読むことによってヘテ人の帝国とその驚くべき力とその広さとを知ることができるようになった。名高いエジプトの詩人ペントールの詩にもラムゼス第二世とヘテ人との戦のことが書いてある。またこのヘテ人記念碑の文字はアジアの全体にわたって各所に発見せられた。或る人は日本人の先祖もヘテ人であるという説を立てている。エジプトの絵画で見れば、ヘテ人は背の低い、鬚の少しもない、髪は黒く顔は黄色でおも長い眼を持っている。しかして彼らの特色は戦争に強いことであったということである。しかしそのヘテ人の帝国は紀元前717年にカルケミンにおいてサルゴン王に打ち破られてから衰えて、帝国としては全く失われてしまったのである。今もなおヘテ人の文字は読むことができぬけれども、エジプトの記念碑を読むことによってエジプト人とヘテ人との関係が明らかに知られたのである。」
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