(ローマ8章1-17)
人生において最も大切なのは、神を心に迎えること、そして神に働いていただくことだといわれます。
パリサイ人のニコデモは、宗教上のエリートであり、世間的にも一目置かれていましたが、心の深いところでむなしさと無力さに悩んでいたようです。
それに比べてナザレからやってきたイエスという若者に働く力と愛に羨望と驚きを抱いたのでしょう。その理由を知ろうとしてイエス様を訪ねました。
主の答えは、聖霊を心に迎え、神のいのちに新生して生きることでした。
しかし肉のレベルのみで生活するニコデモはどうしても理解できませんでした。
そこで主は、モーセが荒野で揚げた青銅の蛇について話されました。
罪の毒が回った者が、いやされるにはただ、青銅の蛇を見上げるほかありませんでした。
既に毒が自分を支配していて、自力では脱出は不可能だからです。
主はニコデモがサタンと罪から解放されるために、自らが呪われて罪を負う以外にないことをご存知でした。
十字架の主を見上げて頼る時に、人は罪を清められて、聖霊なる神を心に迎えることができます。そこでニコデモも心の渇きを、神の永遠の水である聖霊によって満たされることになります。パリサイ主義はは今日のカルト信仰に似ています。聖霊なしで、生まれつきの人間的肉の力や精神力に依存するのですが、内側に神のいのちと力がないので、結果的にサタンに敗北し、騙され、盗まれ滅ぼされます。
同じパリサイ人であったパウロも復活の主との劇的出会いによって、表面的形式的宗教家から、神のいのちをもつ神の子に変えられました。しかし、ロマ書7章には義人であり罪人であるという相反する自己矛盾に苦悩する姿が記されています。
パウロも、ガラテヤ人とおなじように「御霊に依って始めたのに肉によって完成しようとした」のではないでしょうか。長い間、自力依存で生きた者は、聖霊様が内住された後でさえ、自分の力や努力に頼ろうとします。ですが、死の力をもつサタンと罪にたいして、人間の精神力とか努力では勝てないのです。
神の子とされ、神の宮とされている自覚は、聖霊に依存することによって、はぐくまれます。
主イエスは「父が自分の中で働かれるのを見る」といわれました。
パウロは自己絶望と共に、自分ではなく聖霊様に頼ることを学びました。その時に、主を復活させた御霊の神がご自身の力を現わされました。
今日、神の子とされた者の中で神はご自身の御性質と無限の力をもって働かれます。
何をするにも、主は外側でなく私たち内面を見られ、御自身にいつも頼りつつ歩むことを喜んでくださいます。
新聖歌211