河野美砂子の「モーツァルト練習日記」+短歌+京都の日々の暮らし

9/7(土)15時 京都府民ホール・アルティ シューマン「ピアノ三重奏曲第2番ヘ長調」Op.80 

「塔」の評・つづき

2008-02-27 23:58:51 | 短歌
昨日書いた、批評文について。

「評を書く前に見開き2ページを想像する」
と書いたけど

別の言い方すると、
私の脳の中の感じでいえば
音楽といっしょだということ。

一つの曲を演奏するとき(たとえばソナタなど)
最初の音から最後の音までの
なんというか、距離みたいなもの(演奏は一種の「旅」ですね)を
あらかじめインプットして
その中で、

たとえば冒頭のテーマの重み(全体を統べるもの)や、
始まって約4分の1のところでエネルギーが増すこと(属調)、
3分の1ほどのところでもっと複雑になり(展開部)
3分の2過ぎたところで、聞きなれたものに戻り(再現部)、
終結部で今までのを総括する重み(コーダ or カデンツァ)などを

エネルギー的にバランス良く配置する。

どこかの部分のみが突出しないように。

どこかの部分が突出しそうになったら
別の部分で、その補償をするというか。

別の言い方もできるかな。

演奏ではなく、曲のでき方でいうと
たとえば

いくらきれいなメロディでも
あるいは劇的な音楽でも、
おんなじようなことが続くと退屈する。

大きい音は、
その前にそれより小さい音があるから
大きいと感じる、とか。


このような思考パターンと訓練を
長年にわたって無意識のうちに行っているので

文章を書くときも
そういうことをやるのではないかしら?

コメント
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