チタンの素晴らしさと、使い方や感想、
そして、「よくある質問とその回答」などを書き綴って行きたいと思います。
ミラクルチタン(チタンオンラインショップ 店長日記)
2023.08.02 今から78年前の今日、起きたこと。
昨日、たまたま、このブログを見ていると、今から11年前に書いていた投稿を見つけ
ました。
それを読みながら、あらたな感慨を抱きました。
そして、これを、ぜひ、皆さんにも読んでいただきたいと思いました。
先の戦争で、多くの方々が、自分の国を守るために、尊い命を捧げられた。
私のこの投稿の内容は、たまたま78年前の今日、8月2日の出来事でした。
それは、終戦の直前に起こったことです。
少し長い投稿ですが、ぜひ、この文章を、読んでいただき、今の幸せな日本への想いを
新たにして頂きたいと思います。
では、下に原文のまま転載いたします。
「2012.08.17 67年目の終戦記念日に思うこと。
(宝塚予科練少年兵の墓にお参りして) 」
(以下原文のまま転載)
8月15日は、67年目の終戦記念日でした。
その終戦の前年、私の次兄は上海中学2年生で14歳でしたが、海軍予科練習生予科練)
その終戦の前年、私の次兄は上海中学2年生で14歳でしたが、海軍予科練習生予科練)
を志願して、上海から日本に渡りました。
志願者は、兄ともう一人で、クラスから2名だったそうです。
終戦直前、兵員不足の為、上海、満州などの海外に住んでいた就学中の日本人少年達が
かき集められたと言うことです。
訓練中に四国から淡路へ船で移動中に米艦載機2機の機銃掃射を受け船は撃沈されました。
乗っていた111名の内82名が壮烈な戦死を遂げました。殆どが14~15才の少年兵でした。
阿那賀の村民は、戦死者のあまりにもあどけない幼い顔を見て絶句したと言います。
淡路島と四国の地元民の献身的な救助活動により、17名程が救助されました。
兄は、頭に銃弾を受け重傷を負いましたが、奇跡的に生き残ることができた一人です。
今から67年前、終戦直前の8月2日のことです。
(兄達が書いた記録を読みますと、何度も胸が塞がり読み続けることが出来なくなります。
私はこれを多くの方々に知って頂きたいと思いました。)
その後、昭和40年に、鳴門海峡を一望する土地を、淡路島出身の三洋電機故井植社長が
寄付され、82の墓碑ができました。
42年には、住友銀行堀田頭取がこの悲話を聞かれ、日本経済新聞紙上に下記の記事が
掲載されました。以下はその抜粋です。
「祖国への至情に燃え散華せし、空の勇者と言えども未だ、いたいけな十四、五歳の少年
であれば、母を恋う気持ちはひとしおであったと思う。聞けば母の名を絶叫しながら息を
引き取った少年も少なくなかったと言う。もしこの鎧崎墓地の片隅に少年たちをやさしく
見守る慈母観音の像があれば、英霊の眠りにいっそうの安らぎを与えてくれるであろう。」
と呼びかけられて、賛同された多くの知名人や財界人などが結束し、墓地のある岡の上に
「慈母観音像」が建立されました。
除幕式には、高松宮殿下、妃殿下にもご臨席頂きました。
同時に、有志で「慈母観音会」を結成運営し今日に至りました。
しかし、世話役をする人々が皆さん高齢になられ他界されたり出席もままならなくなられ、
若年だった兄たちが今迄頑張っておりましたが、その兄も今では80才を越え車で淡路迄
人様を乗せて通うのは心配になってきたので、残念ながら閉会を考えていると言いました。
そこで、今迄心ならずもお参りが出来ていなかった私は、今回こそお参りさせて頂こうと
思い、妹夫婦を誘って去る8月2日淡路島阿那賀の春日寺へお参りに行ってまいりました。
その後、兄から、やはり遺族の方々が今後も墓参されるので会を閉じることはできない、
組織立った活動はできなくとも会は残す必要があると聞きました。
しかし、これらの少年兵の場合は子孫がいないので、親兄弟が亡くなれば、弔う人も無く
なります。それを思うと本当に辛くなります。
これを読まれた若い方々が、こころの隅に入れて頂き、いつか、こちらを通られるときは、
思い出して墓参をして頂けるならば有難いと思いこれを書きました。
又、私の長兄(次兄より2つ年上)も同時期上海中学4年の時、陸軍に志願して日本に
向かいましたが、日本に着いたときには栄養失調となっていて(魚雷を避けるため大きく
迂回して航行)、丙種不合格となり、又すぐ終戦となり戦地には赴かず命を長らえました。
なお、第二次世界大戦による死者数は計310万人、内訳は軍人240万、民間人70万で、
軍人として闘った戦死者の6割の140万人の死因は何と、餓死だったということです。
自国を離れて他国で闘うのに充分な食料など、調達するのはいかに困難なことか。
ましてやジャングルや孤島では…。戦争はあまりにも過酷です。
未だに、113万人の遺骨が元戦地に残存しており、日本に戻って来ていないそうです。
その様な時代に生まれ、過酷な戦いに命を落とした人々にどうか思いを致して下さい。
飽食と平和に首まで浸かっている現代人には想像を絶する時代ですが、国の為に命を
落として行った多くの方々のことを忘れ去るとしたら、忘恩のきわみだと思います。
終戦直前、兵員不足の為、上海、満州などの海外に住んでいた就学中の日本人少年達が
かき集められたと言うことです。
訓練中に四国から淡路へ船で移動中に米艦載機2機の機銃掃射を受け船は撃沈されました。
乗っていた111名の内82名が壮烈な戦死を遂げました。殆どが14~15才の少年兵でした。
阿那賀の村民は、戦死者のあまりにもあどけない幼い顔を見て絶句したと言います。
淡路島と四国の地元民の献身的な救助活動により、17名程が救助されました。
兄は、頭に銃弾を受け重傷を負いましたが、奇跡的に生き残ることができた一人です。
今から67年前、終戦直前の8月2日のことです。
(兄達が書いた記録を読みますと、何度も胸が塞がり読み続けることが出来なくなります。
私はこれを多くの方々に知って頂きたいと思いました。)
その後、昭和40年に、鳴門海峡を一望する土地を、淡路島出身の三洋電機故井植社長が
寄付され、82の墓碑ができました。
42年には、住友銀行堀田頭取がこの悲話を聞かれ、日本経済新聞紙上に下記の記事が
掲載されました。以下はその抜粋です。
「祖国への至情に燃え散華せし、空の勇者と言えども未だ、いたいけな十四、五歳の少年
であれば、母を恋う気持ちはひとしおであったと思う。聞けば母の名を絶叫しながら息を
引き取った少年も少なくなかったと言う。もしこの鎧崎墓地の片隅に少年たちをやさしく
見守る慈母観音の像があれば、英霊の眠りにいっそうの安らぎを与えてくれるであろう。」
と呼びかけられて、賛同された多くの知名人や財界人などが結束し、墓地のある岡の上に
「慈母観音像」が建立されました。
除幕式には、高松宮殿下、妃殿下にもご臨席頂きました。
同時に、有志で「慈母観音会」を結成運営し今日に至りました。
しかし、世話役をする人々が皆さん高齢になられ他界されたり出席もままならなくなられ、
若年だった兄たちが今迄頑張っておりましたが、その兄も今では80才を越え車で淡路迄
人様を乗せて通うのは心配になってきたので、残念ながら閉会を考えていると言いました。
そこで、今迄心ならずもお参りが出来ていなかった私は、今回こそお参りさせて頂こうと
思い、妹夫婦を誘って去る8月2日淡路島阿那賀の春日寺へお参りに行ってまいりました。
その後、兄から、やはり遺族の方々が今後も墓参されるので会を閉じることはできない、
組織立った活動はできなくとも会は残す必要があると聞きました。
しかし、これらの少年兵の場合は子孫がいないので、親兄弟が亡くなれば、弔う人も無く
なります。それを思うと本当に辛くなります。
これを読まれた若い方々が、こころの隅に入れて頂き、いつか、こちらを通られるときは、
思い出して墓参をして頂けるならば有難いと思いこれを書きました。
又、私の長兄(次兄より2つ年上)も同時期上海中学4年の時、陸軍に志願して日本に
向かいましたが、日本に着いたときには栄養失調となっていて(魚雷を避けるため大きく
迂回して航行)、丙種不合格となり、又すぐ終戦となり戦地には赴かず命を長らえました。
なお、第二次世界大戦による死者数は計310万人、内訳は軍人240万、民間人70万で、
軍人として闘った戦死者の6割の140万人の死因は何と、餓死だったということです。
自国を離れて他国で闘うのに充分な食料など、調達するのはいかに困難なことか。
ましてやジャングルや孤島では…。戦争はあまりにも過酷です。
未だに、113万人の遺骨が元戦地に残存しており、日本に戻って来ていないそうです。
その様な時代に生まれ、過酷な戦いに命を落とした人々にどうか思いを致して下さい。
飽食と平和に首まで浸かっている現代人には想像を絶する時代ですが、国の為に命を
落として行った多くの方々のことを忘れ去るとしたら、忘恩のきわみだと思います。
終戦から67年目の日を迎えて、もう一度記憶を新たにし、これからの若い人々に
鎮魂の思いを引き継いで行って頂きたいと切に願います。
鎮魂の思いを引き継いで行って頂きたいと切に願います。
淡路島と四国の間の海峡で、悲劇は起きました。(写真の橋の左は淡路島、右は四国です)
82の遺体を荼毘に付すことは火の手を見た敵機の襲撃を受ける危険がある為出来ず、
そのままこの丘の斜面に仮に埋葬されたそうです。
この丘の道は、雨が降れば油が沁み出して流れ、人々の涙を誘ったと、当時救助に
当った住民が語った言葉を、以前テレビで聞き衝撃を受けたことを思い出します。
その後、お骨になった時点で掘り出されて埋葬されたのです。
こいねがわくはこの淡路の地に予科練という童顔の防人ありて
壮烈なる戦死を遂げられたることをいつの世までも伝えられんことを 合掌
82基の墓碑があります。
元宝塚海軍航空隊予科練習生 鎧崎桜ヶ丘英霊墓地の由来
優しく見守って下さる慈母観音像に思いを託して。
____________________________________________________
<参考サイト>
母の「悔恨の海」
⬆️この記事は、URLを替え新たなページとなっておりましたので、リンクを張り替えました。
体験者の素晴しい得難い記録ですので,ぜひお読み下さい。
(鳴門市にお住まいだった母親の体験を通して、その娘さんが、予科練少年兵の事件を書いておられます。
なお、「NHKはこの事件を取り上げて「悔恨の海」と題したドキュメンタリー番組を制作。徳島局で
放送された後、反響の高さに全国放送された。」とのことです。)
(*2019.05.20 追記)
<我が家の上海時代の写真。>
我が家の上海時代の写真。
先日兄妹で会った時、兄が持って来た。(戦時中のこととて、母はもんぺで全員戦時下の服装。)
姉の顔の一部が、白く剥がれていたので、 この部分直そうか?と言うと、兄弟はびっくりして
そんなことできるの?と聞くので、え〜?と私の方がびっくり。そんな簡単なこと。
「私はプロよ。」そして「Photoshopで修正出来るのよ。」と言っても、反応がなかった。
廻りに、誰一人私の仕事を分かってくれている人はいないのだと、ちょっと落胆した。
でも、自分が好きでやっている仕事、感謝以外に無いと思うので、愚痴言ったらいけない。
先日兄妹で会った時、兄が持って来た。(戦時中のこととて、母はもんぺで全員戦時下の服装。)
姉の顔の一部が、白く剥がれていたので、 この部分直そうか?と言うと、兄弟はびっくりして
そんなことできるの?と聞くので、え〜?と私の方がびっくり。そんな簡単なこと。
「私はプロよ。」そして「Photoshopで修正出来るのよ。」と言っても、反応がなかった。
廻りに、誰一人私の仕事を分かってくれている人はいないのだと、ちょっと落胆した。
でも、自分が好きでやっている仕事、感謝以外に無いと思うので、愚痴言ったらいけない。
この写真を撮った時の経緯を、6才だった私は覚えている。
兄が上海中学校2年(14才)の時、予科練に志願すると言い出した。学級から2名 志願すると。(*注)
我が家は父が船乗りで常時家には居ないので、頼れる男性は居ない為、同郷で旅館を経営する
男性Hさんに、兄に思い留まる様に言って欲しいと母が頼み込み、家に来て貰って説得したが、
兄は、「僕が死なないと、日本は勝たない。」と言って、どうしても意志を曲げなかった。
兄が上海中学校2年(14才)の時、予科練に志願すると言い出した。学級から2名 志願すると。(*注)
我が家は父が船乗りで常時家には居ないので、頼れる男性は居ない為、同郷で旅館を経営する
男性Hさんに、兄に思い留まる様に言って欲しいと母が頼み込み、家に来て貰って説得したが、
兄は、「僕が死なないと、日本は勝たない。」と言って、どうしても意志を曲げなかった。
説得に失敗した母が、泣く泣く撮った最後となるかも知れなかった家族記念写真がこれだった。
(姉が何故ここに居るのか?姉は東京へ留学中だった筈。最後と思った母に呼び寄せられたと思う。)
私が、この時のことを言うと、兄は驚いて「◯◯ちゃん(私のこと)は良く覚えているね。」と
感心していた。兄は覚えていないそうで、色々よく覚えているねといつも言われている。
上海の生家の間取りも三階迄全部覚えていて、生家訪問前に兄が「覚えてる?」と聞くので見取り図
を書いたら全く同じで驚かれた。女性の方が、細かいことを覚えているものなのかも知れない。
兄が「僕が死なないと日本は勝たない。」と言った時の、兄の傍にあった彫りのある座敷机の
ことも妙に覚えていて、2011年に兄妹3人で上海に行った時も、生家でその机を探した程だった。
もちろん、後に住んだ中国人はそんな背の低い座敷机など使う筈も無く、見つかる訳も無かった。
(姉が何故ここに居るのか?姉は東京へ留学中だった筈。最後と思った母に呼び寄せられたと思う。)
私が、この時のことを言うと、兄は驚いて「◯◯ちゃん(私のこと)は良く覚えているね。」と
感心していた。兄は覚えていないそうで、色々よく覚えているねといつも言われている。
上海の生家の間取りも三階迄全部覚えていて、生家訪問前に兄が「覚えてる?」と聞くので見取り図
を書いたら全く同じで驚かれた。女性の方が、細かいことを覚えているものなのかも知れない。
兄が「僕が死なないと日本は勝たない。」と言った時の、兄の傍にあった彫りのある座敷机の
ことも妙に覚えていて、2011年に兄妹3人で上海に行った時も、生家でその机を探した程だった。
もちろん、後に住んだ中国人はそんな背の低い座敷机など使う筈も無く、見つかる訳も無かった。
(*注)
兄の学級から志願したもう一人の同級生Oさんは戦死し、 こちらに埋葬されています。↓
兄の学級から志願したもう一人の同級生Oさんは戦死し、 こちらに埋葬されています。↓
(以上は「2019.05.20 突然思い出した「当座煮」のこと、上海時代の家族の写真。」より転載。)
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