中心メンバーが著名な研究者がほとんど、というある団体に関わっている。私は、若い頃からこれらの人たちを知っているので、この人たちの人柄の良さ、正義感、公正さ、というような部分を多分にわかっていて、関わっている。が、少し遠い所から見ると、この人たちは、権力者に見えるのだろう。著作がたくさんあり、大学教授で、名前も業界では知られている。
この団体への攻撃めいた言説が流布している。私もいささか、頭が痛い。攻撃している人も知らない人ではなく、攻撃されている人たちの苦悩は、とてもよくわかる位置にいる。
個人攻撃ではなく、考え方、価値観等をもう少し、議論できないものだろうか。この人達は、傷つく心を持っていないと思われているのだろうか、というような攻撃ぶりだ。
そう言えば、私がとあるブログ上で攻撃されたときも、私という人間には、「心」などないかのような扱いだった。言葉を極めて、攻撃してきた。それに対して抗議をしても、その当時の私は「公人」だったから、何を言われても仕方がない、というような攻撃側の言い分だった。
有名人とか公人の立場にある人は、人間ではないような扱いを受けても仕方がないのだろうか。マスメディアの芸能人や政治家への言及の仕方は、ほんとうにおぞましいものがある。
今、起こっていることもそれに近い。誹謗中傷の程度が度を超しているように思える。何か、論理的な主張ではなく、毒がある。憎悪のようないやなものがある。いったい、何がそんなに憎らしいのか。
一つの見方は、この著名な研究者たちへの嫉妬。自分たちも権力が欲しい人が、ここまで力を持った人たちを攻撃するのではないか、と言っていた人もいる。
研究や思想は、様々な成り立ち方をする。多様な展開がある時代だ。確かに主流となる勢力というのはあるかもしれないが、カウンター・グループもたくさん出てきている。思想闘争ならば、思想の部分でおこなわれるべきで、相手の一挙手一投足をあげつらうような毒々しい攻撃は読んでいても良い気分にはならない。
私も、思想的には、この団体の中心となる人たちと、一線を画していると思っている。そして、その位置を堅持しようとしているし、そういう私の「バランス感覚」を重んじてくれている。この人たちは、決して、独善的でもなく、多様な価値観を尊重しようとしてきた先鋒であった人たちだ。ただ、ただ、この社会で、大学教授という特権的地位に就いてしまった。しかし、常に真摯で公正であろうとしているし、下積みの頃の志を持ち続けているように見える。そして、その地位に就いたために、なし得ること、というものもある。この人たちが、この地位に就いてくれたのはよかった、とは思えないものだろうか。辛抱強く、対話を続けて、この人達と共闘していくか、自分の立場から独自の発信をしていくか、しかないような気がする。
攻撃して、応酬して、というようなことが何かを生み出すとは思えない。またもや、この争いに対して、高見の見物をするバックラッシャーが喜ぶことは目に見えている。内ゲバだと思われるのだ。
権力者を許せない人、というのは、何なのだろう? 権力に敏感な人、というのは、ひょっとしたら、権力志向の人かもしれないと思い始めた。力学に敏感なのだ。
映画「ミルク」で、主人公ミルクの恋人だった男性(スコットだったか)のせりふがいいね、と一緒に見た友人と語り合ったことがある。彼はこう言った。「政治はやらないが、ムーブメントはやる」と。政治家として立ち上がろうとして、票集めに奔走するミルクのもとを去ったが、市民運動は続けていた彼が、ミルクに言う言葉だ。
この団体への攻撃めいた言説が流布している。私もいささか、頭が痛い。攻撃している人も知らない人ではなく、攻撃されている人たちの苦悩は、とてもよくわかる位置にいる。
個人攻撃ではなく、考え方、価値観等をもう少し、議論できないものだろうか。この人達は、傷つく心を持っていないと思われているのだろうか、というような攻撃ぶりだ。
そう言えば、私がとあるブログ上で攻撃されたときも、私という人間には、「心」などないかのような扱いだった。言葉を極めて、攻撃してきた。それに対して抗議をしても、その当時の私は「公人」だったから、何を言われても仕方がない、というような攻撃側の言い分だった。
有名人とか公人の立場にある人は、人間ではないような扱いを受けても仕方がないのだろうか。マスメディアの芸能人や政治家への言及の仕方は、ほんとうにおぞましいものがある。
今、起こっていることもそれに近い。誹謗中傷の程度が度を超しているように思える。何か、論理的な主張ではなく、毒がある。憎悪のようないやなものがある。いったい、何がそんなに憎らしいのか。
一つの見方は、この著名な研究者たちへの嫉妬。自分たちも権力が欲しい人が、ここまで力を持った人たちを攻撃するのではないか、と言っていた人もいる。
研究や思想は、様々な成り立ち方をする。多様な展開がある時代だ。確かに主流となる勢力というのはあるかもしれないが、カウンター・グループもたくさん出てきている。思想闘争ならば、思想の部分でおこなわれるべきで、相手の一挙手一投足をあげつらうような毒々しい攻撃は読んでいても良い気分にはならない。
私も、思想的には、この団体の中心となる人たちと、一線を画していると思っている。そして、その位置を堅持しようとしているし、そういう私の「バランス感覚」を重んじてくれている。この人たちは、決して、独善的でもなく、多様な価値観を尊重しようとしてきた先鋒であった人たちだ。ただ、ただ、この社会で、大学教授という特権的地位に就いてしまった。しかし、常に真摯で公正であろうとしているし、下積みの頃の志を持ち続けているように見える。そして、その地位に就いたために、なし得ること、というものもある。この人たちが、この地位に就いてくれたのはよかった、とは思えないものだろうか。辛抱強く、対話を続けて、この人達と共闘していくか、自分の立場から独自の発信をしていくか、しかないような気がする。
攻撃して、応酬して、というようなことが何かを生み出すとは思えない。またもや、この争いに対して、高見の見物をするバックラッシャーが喜ぶことは目に見えている。内ゲバだと思われるのだ。
権力者を許せない人、というのは、何なのだろう? 権力に敏感な人、というのは、ひょっとしたら、権力志向の人かもしれないと思い始めた。力学に敏感なのだ。
映画「ミルク」で、主人公ミルクの恋人だった男性(スコットだったか)のせりふがいいね、と一緒に見た友人と語り合ったことがある。彼はこう言った。「政治はやらないが、ムーブメントはやる」と。政治家として立ち上がろうとして、票集めに奔走するミルクのもとを去ったが、市民運動は続けていた彼が、ミルクに言う言葉だ。