凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

大義名分も、実は気持ちが先行しているだけかも。

2010-01-25 11:20:04 | 自分
 年明けに、頼まれて、コミュニケーションについて話をした。これまでとは違うテーマなので戸惑った。依頼してきた自治体の職員は、先に企画書を出して、講師を私に決めてしまってから、市民ボランティアの人たちと話し合ったようで、だんだん、主題が「コミュニケーション術」というようになってしまった。そのようなノウハウは持っていないし、私はカウンセリングとかコーチングを専門にしているわけではないので、そんなことは話せない。 話し合いを重ねて、なんとか、自分の土俵に引きつけつつ、相手の意向も汲みながら、落ち着き先をさがした。結局、女性達が人との関係に心くだくことがとても多く、コミュニケーションがうまくいく道をさがしているらしい、ということがわかってきたので、とにかく、「良い人間関係を築くためのコミュニケーション」ということについて話をした。

 後日、受講者の感想を送ってもらったが、皆さん、とても素直に、平たい心で受け止めてくれたようで、良い感想ばかりだった。コミュニケーションの基本は、「愛と共感」と、結論づけたのだが、それもとてもよく受け止めてくれた。

 が、人様にはそのようにエラソーなことを言いながら、自分がそれをできているかと言うと、なかなか難しい。理屈は成立するのに、気持ちは頑固だ。ほんとうは、皆が悩むのもそこなのだけど。
 
 が、私は、理屈で納得しようとする人間だ。理屈で、感情の理不尽さ、偏りを理解し、その理解の到達点から、自分を鍛錬するしかあるまい。

 が、自分が正しいと思っていると、なかなか、他の言い分というものは入りにくい。受け付けなくなる。時間を置いて、ゆっくり振り返ると、他の言い分も「なるほど」と思えるものなのに、その最中では、全く受け付けない。自分がとにかく正しいと思っている。そこで支配しているのは、たぶん、理屈ではなく、感情の方なのだろう。
 何かを一気に遂行したいときは、それを阻むような意見は、全部ノイズになる。「遂行」することが正しいのだから、それを推進する以外に、正義はない。が、それは、「遂行したい」という欲望や願望に支配されているだけかもしれない。つんのめっている。戻れないのだ。

 ずいぶん、時が経つと、その時の正義ですら、あやしくなることもある。長いスパンで見ると、正義が悪に変わることすらある。
 嘗て、労働組合は、労働者の権利を守るための、正しい運動をしているものだった。が、今、労働組合は、既得権を守るための、とても利己的な集団に見えたりする。特に、既存の大手の労働組合は、とてもじゃないが、弱い労働者の味方とは思えない。嘗てのプロレタリアートとプレカリアートは、全く違う地平にいる。

 日本の憲法24条に書き込まれた、「婚姻は両性の合意のみにもとづき、、、」というような条文も、当時の「家」のための結婚がおこなわれていた時代には、若い世代にとって、自由で平等をうたったすばらしいものだったのだろう。が、今や、「両性の合意」しか認めない偏った憲法だ。つまり、「両性」は法の体系からみて「男性と女性」と解釈されるが、
男性同士、女性同士の結婚は認められない、という差別的な制度をかたちづくっている。

 昔、いっしょに活動していた私より20歳くらい年上の人が、反戦・平和を唱えているのだが、人々のちょっとした言動にも厳格で、何一つ許さず、譲らず、結構まわりの柔軟な人たちを困らせていたことがある。同じくらいの年配の人が、たまりかねて尋ねた。
「あなたは、戦争中はどうしていたのか?」と。
すると、その人は、即答した。
「軍国少女だった」と。
それで、まわりは、すべてを了解した気になった。その人は、とにかく、信じる道一筋なのだ。信じると、それ以外を認めない。戦争中は、政府の代弁者のように、軍国少女として生き、戦後の平和な日本社会においては、息苦しいほどの平和・反戦論者になる。

 基本の価値観は確固としていても、それ以外を排除するというのではなく、他のものの見方、考え方を取り込む余裕は持っていたいものだ。
 なぜ、そのような考え方が成り立つのか、と、考察する余力は持ちたい。

 昔のリブの人が、嫌われるのも、そのあたりがあるのだろう。フェミニズム・ファシスト、と呼びたくなるような人たちがいる。

 価値観は変容する。私が出会ってきて、頭を悩ませてきた、一つの考え方一辺倒の人たちのことを他山の石としよう。そして、いかに拙速を回避して、思慮を深くしていけるか、を考えようと思う。

 話を元に戻そう。コミュニケーションは、「愛と共感」だと結論づけたのは、よかったと思っている。私は、人々に話しながら、自分にも言い聞かせていたと思う。
 たいていの人は、悪意ではない。たいていの人は、自分の気持ちをわかってもらいたいと望んでいるだけだ。気持ちに耳を傾け、たとえ、語法、価値観にずれがあっても、その人がわかってもらいたい気持ちをくみ取ることは、良い人間関係の形成につながるだろう。
 「気持ち」は、受け取ろう。
 結局、自分も、大義名分ではなく、「気持ち」に左右されているのだろうと思うから。

 今日も途中で、主旨の変わる文章を書いてしまった。頭が多動です!