日々雑感 ~写真と思い~

今日と言う日は、二度と来ない。 
だから今日を大切に・・そんな私のデジカメ散歩 

* 母は背に・・ *

2022年12月27日 | 雑感

 

 

 

 

 


11月の終わり 姉や妹たちは実家に集まった。

8月旅立った母、2年前に亡くなった兄、コロナ禍故に見送る事も出来ないままに、お墓参りを願っていたので。
それと、母の着られるものや、作品があればとお姉さんが帰省を了解してくれたのである。 
何しろ100歳である。 4姉妹、母へのプレゼントのもの洋服など、新しい衣類、箱のままの洋服もあるようで。
その夜カメラで「みっちゃんこれどう?」妹が画像を送ってくれた。 「皆がいいかなと思うものをお願い」

なんで私に声がかからなかったのかと内心すっきりしなかった、が・・。
母が亡くなる3日前退院したばかりの夫と危篤と聞き帰省し、窓越しにだが面会できる妹が母に声をかけて
母は反応してくれた。 兄のお墓参りも出来たし、夫の実家のお墓参りも兄夫婦にも会えた。
その時お姉さんも会ったから労いも感謝も言えた。
お姉さんが言うには退院したばかりの夫よりも、私の方が体調悪そうで案じ、帰省することを拒んだと。
そんな心配をして下さっていたのだ。 知らなかった。 すごいと思った。 

姉や妹が帰宅後、4人が毎日やりとりしているスマホのグループラインで申し合わせたように 
「ばぁちゃんのちゃんちゃんこ暖かい」と書いていた、(どんなんやろう)みんなの嬉しそうな顔が浮かぶ。
いいなぁ・・私も欲しいなぁ・・。 私の体調をかんがみて呼ばれなかった私は少し寂しかった
ちょっと羨ましかった。 お姉さんから電話があって、「みくさんのもとってあります」 

間もなくお姉さんから母の形見分けが届いた。 何枚かの洋服の中に、クリーム色のボアベストがあった。 
今すぐ着られるのはベスト、いわゆる皆が言うちゃんちゃんこ。 これはちゃんちゃんこ?
母は何度か袖を通したのだろうか。 私の好きなスタンドカラーのベスト。

昨日は4度目の母の月命日だった お姉さんを含めた5人のグループラインにメッセージを入れた
お姉さんはお嫁さんの具合が良くなくて、3歳の孫をあずかっていたが孫が発熱し、コロナだった。
自宅隔離。 お姉さんは翌日9度9分の発熱、検査の結果、コロナ陽性だった。
3年以上実家に帰られなかったけれど 大阪は感染者東京の次多いし、お姉さんはワクチンが出来ないので
母の為に私たちを警戒して、「帰らないで下さい」と言われていたのだ。 元気なうちに会わせてあげたい、
ご近所さんにも気を使うので断られたが、どんな思いでどんなに言いにくかったことだろう。
ワクチンしてない自分が感染してもしや母に・・もし母が感染したら・・、ひたすら母を守ってくれたのだ。
どんなに苦しかった事だろう。
母がいなくなって・・、自分だけならと安心されたのだろうか。

大晦日に向かう残り少ない日々、寒さがいよいよ加わって来た・・母のベスト・いえちゃんちゃんこ、
着たらすぐに暖かい、 ヒーター入っている? 厳しくも暖かい・・母の声を背に感じる、顔が浮かぶ。
姉妹4人。 毎日母を背に・・きっと冬・・元気に越せるに違いない。
母の言動には説得力がある、感謝がある、愛がある、お姉さんには・・ありがとう。 

良く、叔母や友人にも言われた。 「お母さんが生きているうちに、実家には帰りなさいよ」と。 
母も兄もいなくなって1人、お姉さんとは前より距離が近くなった気がする。 4姉妹そう思っている。

(分かった?) 母が編んだわんちゃん・・に言われた。


* 焦っている・・ *

2022年12月21日 | 雑感


焦る・・焦っている。

昭和48年結婚した当時、近くに産科の医院があって募集していたので面接に行った。
院長先生が「大丈夫か? 結婚したら女の人は勤め始めても、すぐできちゃいましたやからなぁ」
「大丈夫です、働かないといけないのですからせめて一年くらいは」
「鍵かけとっても泥棒は入るんやで」意味わからなくてポカーンとしていた私。

2週間後つわり・・いわゆる。 先生が笑いながら「なんや・・まぁ産むまでサポートするから頑張って来てや」
先生を始め、仲間も患者さんも好意的で、何しろ産婦人科・・産むまで勤めた。
夫は毎日麻雀、布団のあげおろしもしてくれなかった。 と言うより、母を見てきたし「尽くしなさいよ」と言われてたし。
毎日靴磨いて、アイロンかけたハンカチ、お風呂あがりは着るものから順番に置き、帰りが遅くても起きて待っていたし、
起きない夫の靴下まではかせたことも。 お弁当作りも欠かさなかった、おなか大きい時くらいと思いしも妻のつとめ。 
遅い帰りを待つとき、帰宅した夫の顔をみるなりほっとしたのかはたまた不足からか、つわりでいつもトイレにかけこんだ。

長女が生まれ生後に2ケ月にして「うちで寝かせてたらいいから」と言われ、泣いたら母乳やおむつ替え、分娩室にいるとき、
鳴き止まぬ娘を背中に負ぶって「もう少しですよ、頑張って!」患者さんのおなかさすっていたりした。
奥様が乳母車で散歩や、待合室の患者さんも相手したり面倒をみてくれた。 長女は沢山の人の愛情いっぱい受けて育った。
2つ離れて長男が生まれた。 さすがに退職、お弁当作りも欠かさなかった。 してあげたいし、夫は私がして当たり前、
悪気はないけど夫のすべき・・が気がつかないし分からなかったのだと思う。 頼めばしてくれたのだろうけど。
ついに目の前のつま楊枝さえ「取って」と言う人になった、妻の用事・・爪楊枝。

以前”夫のトリセツ”に、男は昔から今日は何の獲物を採って家族に食べさせようかそればかり考えていて気がつかない。 
家庭の用事の大変さを見て気がついたらやってよと言う妻に「言ってくれたらやったのに」が夫らしい、そうかうちもそうだ。
洗濯機壊れた直すの私、家のことあちこち破損、やるの私、私の方ができる人になってしまった。
「それくらい気がついてやってよ」「言ってくれたらやったのに」

ある時娘達から言われた。 
「今の時代、どっちが先にどうなるか分からないよ、お父さんも家のこと出来るようにしないと困るよ後で」いいこと言う。 
レンチンもまともに出来ない、魚はさばくけど。 洗濯機も使えない、蕎麦は打つけど。 チェストに下着とかシールを貼った。
少しづつ家事に参加、お風呂掃除を頼むようになった。「ありがとう!助かったわ」そのくらいで私べた褒めするのに、
”人には愛想するくせに 妻には言えない ありがとう” なんで? いえ、思っていても言えないのがその時代の人、仕方ない。
心根の優しい人なのに・・言葉にしたらもっと素敵なのにね。 

・・・て、最近同居の娘が言う、言いだした。 
「母さんが何もできひん父さんにしてきたんよ、手がかかる父さん面倒用見ないよ、お母さんが後に残ってよ」と。
もっとも。夫が残ったら娘の用事が増え負担が大きい大変である。 私はどんなに足腰が・・と言っても家事が少しは出来る、確かに。
そう言いつつ娘の夫への心遣いは私より純粋のような気がしている。 人の悪口言わないし、お年寄りも子供も大好きで優しい。

8月4回目のワクチンの翌日から40度近い熱が下がらなくて、歩くことも食べることも出来なくなり、声もかすれてきた。
サポートセンターに何度電話しても、「もう一日様子を見てください」 三日目思い余って真夜中に救急車、玄関に座り込み
「受け入れ先時間かかりますよ」折れ線グラフの夫の熱や症状を書いた紙、お薬手帳やら見せた。 一発でかかりつけの大きな病院が
受けてくれた。 ここには何度も入院手術した夫の全てのデータがある。 
病院でもすぐに熱下がらず病院から説明しますの連絡に出向くとき死ぬんじゃないかと娘達と泣いた。 
1週間で退院できた幸運な夫であるが、体重が8キロ落ちた、筋肉も。 誰よりもしっかりありますと言われていた夫なのに。
ゴルフも飛距離がでなくなった。 一気に減った食が今やっと戻った。 嬉しそうな夫・・私も嬉しい。
体重が落ちた分、目がへこんできた。 「亡くなったお母さんにそっくりになったね」と娘と笑う。

落ちた体力「悔しいなあ・・」とつぶやきながら、一生懸命筋肉をつけたいと、ストレッチや素振りや運動をしている。 
カウンターの中で夕食の準備をする私の目の前で、ふうふう言いながらチェストに手をつき体操している。
熱しやすく冷めやすいB型の私と違い、やると決めたら即実行、コツコツと継続する几帳面なA型の夫である。
(負けられない! 私が残るんだ!)そう思いながらも、やったりやらなかったり、私ちゃらんぽらん。
ハルメクの菊池体操何ページも切り取ってラミネートしてファイリング見ながらしているのに、続かない!
「母さんが残ってよ」いつか夫のいる目の前で娘が冗談めいて笑いながら言った。 
「そうやなぁ、わしがおっても手をかけるばかりやからなぁ、その時は施設に入るわ」苦笑いする夫。 複雑な私。

焦る・・だからと言って真面目に続けもせずに・・だから、焦っている! 
夫の方が、生きたい・・気持ちが大きくてすることして頑張っている。 同居して二年半になった。
みんながみんなの一日を把握しながら、孫たちともしっくり頼りにもされながら楽しく暮らせるようになった。
今その事が嬉しくてたまらない、が喜んでばかりおれない。 私には目的があるのだ、夫を見送ると言う。
露骨に言わずに、こっそり足腰鍛えよ、自分を労われよ、障害もないのに転ばぬように、階段から落ちないように。

6時を過ぎた。 私の背で夫の寝息が聞こえる、時々何か言っている。 (長生きしたい・・)って夢見てるんかなぁ。
夫は一生懸命に頑張っている、私より頑張っている、レンチンできなくていい、私が残れば・・いい。
夫は”生まれ変わったら、今度は可愛げのある女と一緒になる”と言った、40代に。 私には宿題が残っていた!
反省だらけの毎日、反省だけなら猿でも出来る。

焦る・・、焦っている。
人と過去は変えられないけれど、自分と未来は変えられる。 
12月は・・まだ・・10日もある。 
今からでも自分は変われる・・今日一日くらいは。 それを重ねて行けばいいのだ。 
夫と競争だ。 


* 今の私・・ *

2022年12月19日 | 雑感


今年も2週間を切った。 
本来ならこの時期はせわしい、年末らしく家の掃除に加え楽しみでもあるが心にかかりながら過ごす毎日。  
小学校の5,6年を受け持った担任の男先生から、今年卒寿なのでこの辺で年賀状を失礼させて頂きますと届いた。
達筆で優しい文字、心に残る言葉を必ず添えてくれていた年賀状、生涯尊敬できる先生だった。
夫の30枚はある時期から夫が書いてくれるようになったので、夫婦連名、私の宛名分の年賀状は80数枚。

子供の頃から下手でもイラストを描いたり折り紙を貼ったりと手を加えて、表と裏は自筆そのスタイルは未だ変えられない。
受け持ってくれた先生や身内や友人、ブログ繋がりの方や増えて行った、それはそれで年に一度でも嬉しい繋がりだった。
今や年を重ね・・印刷でもいつも手書きの言葉を添えて下さる方はいいとして、表裏印刷の方には負担ではないかと思ったり、
失礼しようか、どこかで夫闘病につき・・とか切り出してこの辺で・・と葉書を出そうかとか思ったりしたが出来なかった。
故郷のブロ友さんはご主人を亡くされ、寂しいので年賀状は届けて欲しいと、電話した何人かの方にもそう言われた。
楽しみにしていると言われたら嬉しいが、頂いた年賀状を見ながら思いを馳せ書かせて頂くのも、私の大きな楽しみなのである。

今年この時期なんか違う・・意外と落ち着いていられるのは・・8月末亡くなった母の喪中葉書を出したからだと思った。
エプソンのサイトから母に似合う色あいのテンプレートを選び、言葉やレイアウトに少し時間を費やした。 
せめてもと宛名書きは筆ペンで書き11月半ば過ぎに投函した。 その心の余裕が今なんだと思う。
この頃から、いやもっと後から毎日毎日筆ペンで年賀状を書き、いつも28日頃投函していた。 30日に出したこともある。 
私は80数人に書くけれど、頂く方は一人の私からである。 さっささっさと書くべきものでもない年賀状。

30年くらい前だったろうか、会合で使用する印刷物を100人分ホッチキスで留める作業を頼まれた時、注意された事がある。
「あなたは100冊分を留めるが、もらう人は1冊を手にする。 ホッチキスの位置を正しく心を込めて止めるように」
そのような時に合う時必ず思い出す、もらう人には1つ、1冊だと言う事を。 年賀状にして然りである。

イラっとしてないと言えば噓になるが、今私には一番欲しいものがある。 美味しいもの、洋服でも、旅行支援の旅でもない。
コンビニの個と、ちょっと何がしかをそばに置いて・・一日何も家の用事をせずに
家族とはラインで。 部屋に閉じこもり、パソコンの前に座りたい! 宅配さんには出るけど
家族や姉妹の次に・・私の一番のお気に入りは撮った写真を添えながら、パソコンの前に座りブログを書く事なのだ。
先達ての旅の富士山の絶景画像も、草稿中の記事もある訳で・・。

今は、リアクションが出来るが、コメントを閉じておられる方には、そうそう・・私も同感です! 写真とても素敵です! 
感動したり残したいコメントもあるのに、ツイッターもフェイスブックも知らないし残せないコメント。
この記事もある方の記事を拝見し、同じようなことをずっと思っていたのでそれをヒントに書かせて頂いたのである。
一日中・・私の部屋を訪ねて下さった方の足跡を追いブログを訪問させて頂き、せめてひとつでもコメントをさせて
頂き(ありがとうございます)を伝えたい。 今少し不足に思うことがあるとすれば、それが中々叶わないことかな?
見えないネットの縁と言えども、私の人生の一部を楽しませて頂き感動や共感や生活のヒントも沢山頂いている訳である。

今日と言う日は、二度と来ない。 だから今日を(縁を)大切に。 今の私・・。


* ひとつ・・年を重ねました・・ (12月6日) *

2022年12月11日 | 雑感


無事・・ひとつ年を重ねた。

今の時代、病気はもとより生きたくとも自然災害やコロナ、事件、事故、・・思わぬ事柄で尊い命を失うことが良くある。
今こそ、今だから・生きていると言う事は決して当たり前でなく、奇跡・・位に思っている。

誕生日、NHKのドラマが終わった頃、必ず電話が鳴った。
私ばかりか、兄弟皆が同じようにいくつになろうと、母は誕生日には必ず電話で祝ってくれるのだ。
旦那さんの誕生日も、結婚記念日にも。


9年前  ”ごちそうさん”  のドラマ見て夫と二人で涙が止まらなかった時があって、その時電話が鳴った。
「おめでとう」まったり優しい母の声「ありがとう」
会社に行く前だった夫が電話をとって、「お母さんありがとう、お元気で・・会社に行くけん」

「ごちそうさん見ながら、家族みんなが揃うっていいねと二人で泣いててん」
「そうかね、あんた一緒に見る人がおる、一緒に泣ける人がおるのは幸せなことじゃよ、感謝しんさいよ」
はっとした。 言われるまで二人で・・って当たり前に話したのに、母の言葉にはっとさせられた。 
「お母さん、すごいね。 すぐにそんな言葉が出るなんて本当にすごい。 お母さんはなんでも感謝やし、
なんでもプラス思考、すごいね」 そう言いながら母の言葉に涙が止まらなかった。  
「朝、お仏壇のお父さんに、みっちゃんが64歳の誕生日を迎えたよと報告したよ」 

半分泣きじゃくりながら「私はお母さんみたいな母親にはなれないわ、いつもなんでもそんな風に思われへんし、
子供たちにもそこまで思いが足りて無いし、本当に駄目やわ」 
母は笑いながら「そがに思わんでも・・。 まぁ身体に気をつけて元気で頑張りんさいよ」 90歳の母に言われた。  
「お母さんこそ身体に気をつけて・・」 
電話を切った後、かなわない母の深い親心に打たれたと同時に、自分の至らなさや薄っぺらな心に力が抜けた。

あれから9年、享年100歳・・8月に母は逝った。 
見事に生き切った人生を讃えることはあっても、悲しいと言う気持ちはそれほどなかったのに。
こと秋に至っては時に触れ折に触れ・・日が経つごとに、事あるごとに母の言葉が次々と溢れ涙ぐむ時がある。

「年を重ねるほど 元気で誕生日を迎えられることのなんと有難いことか」母にいつも言われた。
54歳で父が亡くなり・・どれだけ寂しくどれだけ責任感を持ちながら5人の子供たち家族に寄り添って来てくれたことだろうか。

朝から、家族・・子供や孫はもとより、姉妹から、お嫁さん、田舎の友人たちから電話やメッセージ、プレゼントをもらった。
母がいつも言っていたけれど「私は・・何もしてあげてないのに・・」同じ気持ち、もったいない。

月一のゴルフだった夫を早朝見送るとき、「帰りにケーキを買ってくるけん」
ピザパーティーのあと、歌うたってから「一応ローソクしようや」と言う・・吹けるかな? 
こんな誕生日を祝う習慣も、幼い頃から決して欠かさなかった母からの継承である。

年を重ねるほどに迎える誕生日のなんと有難く幸せなことか、73歳を無事迎えられた。

誕生日は生んでくれた親に感謝する日でもある。

決まり文句ではあるが 生んでくれてありがとう、お母さんの子供に生まれてきて幸せです


* 繋がる・・ *

2022年12月02日 | 雑感


3時きっかりに目が覚めた。 夫も同時に起きた、今日は違う。 

テレビはサッカーの試合前の練習風景を映していた。 競技場は半端ない盛り上がり。
勝って兜の緒を締めよ、いや負けていっそう兜の緒を締めたに違いない。
時間が迫ってくると、なんだかこちらまでドキドキしてきた。

千葉は一回戦、「どうせ・・とかたぶん・・とかで見てなかった非国民」と反省して・・今回は違う。
私だって変わらない、サッカー分かっている訳ではないが、日の丸背負って世界と戦ってくれている、
さすがに応援しないとね。 夫はああだこうだ語りながら興奮気味。 

4時16分に千葉からスマホのグループライン 四姉妹の部屋 がONになった。 次々と勢ぞろい。
ホイッスルが鳴ると緊張、もう後がないのだから。
夫はなんだかんだ言いながら騒ぐ、珍しく。 私も合わせて応援を楽しむ。  

ゴールが決まる最後の奇跡的な瞬間、歓喜!  歓喜! 「やった~!」手を叩いて喜んだ。
現地の競技場のサポーターさん、ありがとう! 全国の熱いファンの方々ありがとう!
監督や選手の喜びはもちろんだけど、ファンの方たちの応援や歓喜、映し出された涙を見るともらい泣き。
監督以下皆が言う、「朝早くから応援してくれていたファンのお陰・・、また応援よろしくお願いします」
抱き合い 喜び合う姿、心ひとつに 見ていて その事が 嬉しい なんか 繋がっていることが 嬉しい 

私らもどれだけスマホで、スタンプや言葉が飛び交ったことだろう。 場所は離れていても同時刻にテレビを
見ながらスマホで声をあげ応援、布団の中で? 時間を共有している温かさが嬉しい。

コロナ禍2年以上が経った今、感染対策にピリピリし、無観客で過ごした事柄は多くオリンピックでさえ。
コンサートやスポーツも・・無観客の非日常があった。 応援・・のあるなしをこれほど感じた年はなかったであろう。
学校も会社もオンライン、テレワーク、急ピッチなデジタル化で、私たちはスマホで繋がりビデオ電話で今会うことが出来る。
全国の知事さんたちが一同に会してのオンライン会議、お陰で他府県の知事さんたちの顔や活躍を垣間見ることが出来た。

試合終了後、一番下の広島の妹が「皆さん! お疲れさま。 お姉ちゃんの満々ちゃんのお陰この年齢底上げの姉妹が
この時間帯にひとつになっての応援できるこの光景・・お婆ちゃんに感謝」と書いた。
姉は母の遺言のように、朝に晩にお仏壇に手を合わせてくれて、それを朝に晩に報告してくれている、すごい数のスタンプで。
何か事があれば「ばぁちゃんに頼む、サッカーの勝利まで満々ちゃんあーーん。 」
母も笑いながら天獄から声援を送ってくれてたことだろう。 そんな母を父や兄も笑いながら見ているかな。
細やかに、その毎日の姉の努力は、妹たちへの家族への思い見守ってくれ寄り添ってくれ、さすが姉である。 
誰もがそのように育ててくれた母に感謝している。 いつもいつでも話の終わりは「兄弟仲ように」だったから両親は。
京都も千葉も「寝ます」とあった。 広島は仕事だし。 私は、夫と温かい生姜湯でほっこり。