貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

芭蕉翁逗留! 敦賀市出雲屋敷跡

2023-05-21 11:27:50 | 日記
令和5年5月21日(日)
敦賀市:  芭蕉翁逗留出雲屋敷跡      
 芭蕉が宿泊したという
「出雲屋の跡碑」は、
レストラン「うめだ」の脇にある。
 遊行宗(時宗)
二世の他阿真上人が人々のために、
自ら砂を運んで参道を整備したという。   
 「お砂持ち」
の故事踏まえて詠んだ句が、
「月清し
  遊行のもてる 
     砂の上」
 この故事を
芭蕉に伝えたのが
ここ唐仁橋町の宿、
出雲屋の主人弥一郎さん。
 芭蕉は、逗留の記念として
杖と笠を残したが、
残念ながら杖しか現存していない。
 その夜、
弥一郎の案内で、氣比神宮を参拝。
 その時、詠んだ句でもある。
 次の日は、
宿の主人の言ったように雨となる。
「名月や 
  北國日和 
    定めなき」
と詠み、
十五夜の月が見られなかったことを
残念がる。
 この日の日中は、
金ヶ崎の金前寺で遊興する。


敦賀市金前寺:芭蕉鐘塚と清浄心!

2023-05-20 11:26:22 | 日記
令和5年5月20日(土)
敦賀市:  金 前(こんぜん) 寺        
 泰澄大師が天平8年(736)に
開創したと伝えられる由緒ある
お寺。
<本殿>

 境内には
五重塔や除夜の鐘突きを行う鐘楼堂
などがあり、寺歴も掲示されている。
<寺暦>

 近くには金崎宮や金ヶ崎城跡があり、
特に桜の美しい春には多くの人が参拝する。                                                                                         
 延元元年(1336)10月、
新田義貞は金ヶ崎に城を築き、
翌2年3月6日、
足利尊氏の軍に攻められて敗走。
 後醍醐天皇の皇太子恒良親王は
後に囚われ、皇子尊良親王及び、
新田義顕(義貞の長男)は、
金前寺の観音堂にて自害する。
<袴掛け観音の謂れ>

 この戦いに敗れる際、
義貞は陣鐘を海に沈めた。
 その後、
国守が海女に命じて探させたが、
鐘の竜頭がさかさまに落ち込んで
泥に埋まり、引き揚げることが
できなかったと云われている。
 芭蕉は
元禄2年(1689)8月15日、
雨の中を天屋玄流らに案内されて
金前寺を訪れる
<芭蕉翁鐘塚>

 そして、延元の戦い、
陣鐘の物語を聞いて歌を詠む。
「月いつこ 
  鐘は沈る 
   うみのそこ」 
        はせを。
 この鐘塚の句碑は、
宝暦11年(1761)に
敦賀の俳人、白崎琴路らが
芭蕉の没後68年目に建立。
<芭蕉句碑>

 真筆を刻んだと伝えられているが、
この真筆は不明。 
 鐘塚は県内に残る句碑の中で
最も古いもの。  
<鐘塚の説明碑>
  
 ご近所の方が迎え入れる
おもてなし!
 金前寺のパンフレットも
持ってきてくださる。
 有難し、ありがたし!   
 「清浄心」 

 日々掃き続け、清浄心を、
そして布施の命、
老いて今日より遍路! 
<遍路姿の老夫婦の句碑>

 ほんと、実感!
 健康的な朝は、
掃き浄める清掃から
始まるのかもしれない。
 清浄が正常かな。
 毎朝、家の掃除から
私の1日も始まる!


芭蕉杖跡碑と芭蕉句碑!と”気比”という地名の由来?

2023-05-19 15:08:23 | 日記
令和5年5月19日(金)
 近くに、
「芭蕉翁杖跡」の碑
<芭蕉翁杖跡碑>

氣比の宮芭蕉句碑がある。
<芭蕉句碑>

 芭蕉の句は、
「月清し 
   遊行のもてる 
     砂の上」

 さて、
主祭神の伊奢沙(いざさ)別命
(わけのみこと)は、
御食(みけ)津(つ)大(おお)神(かみ)とも
称される気比神宮にのみ
祀られている神。

 謎の多い神だが食物を司る神で、
『古事記』には
ここ敦賀から朝廷に海産物などの
食物が奉られていたと記されている。
 ちなみに”気比”という地名は、
「食の霊(けのひ)」
が由来とされているらしい。
 ともかく
主祭神が食物を司るところから
ついた名のようだ。


気比神宮その二 芭蕉と名月八句!

2023-05-18 10:50:00 | 日記
令和5年5月18日(木)
往昔、遊行二世の上人、
大願発起の事ありて、
みづから草を刈、
土石を荷ひ、
泥渟をかはかせて、
参詣往来の煩なし。
 古例今にたえず、
神前に真砂を荷ひ給ふ。
これを『遊行の砂持と申侍る』と、
亭主のかたりける。                            「月清し 
  遊行のもてる 
     砂の上」 
 十五日、
亭主の詞にたがはず雨降 。             
「名月や 
  北国日和 
    定なき」 」
と記されている。
 芭蕉の敦賀市訪問の目的の一つが、
美しい月の姿を句に詠むこと。
 敦賀では特に、
“中秋の名月”
を心待ちにしていたようだ。
 1689年(元禄2)
旧暦の8月14日の夕方、
快晴の敦賀に入り、
宿の旅籠出雲屋の主人に、
明日も晴れるかどうかを問う。 
 出雲屋の主人は、
北陸の天気は変わりやすく
明日は晴れるか分からないので、
月見なら今晩の内にと・・・。
 芭蕉は、
その夜に「氣比神宮」を参拝し、
月明かりに照らされた神前の白砂と
その由来に感動し、
次のように詠む。
「月清し 
  遊行のもてる 
     砂の上」
 翌15日、
亭主が言ったとおり雨天となる。
 そして、
「名月や 
  北国日和 
    定なき」
  という句を詠む。
 樹齢七百年といわれる
タモの木の前には、
高さ26m、横44m、奥行き1.3m、 
重量が約30tの巨大な句碑。
<芭蕉翁月五句碑>

 しかも
日本では数少ない自然石を使用したもので、
上記の敦賀の地を詠んだ
“芭蕉翁月五句”
が刻まれている。
「國々の 
  八景更に 
    氣比の月」
「月清し 
  遊行のもてる 
     砂の上」
「ふるき名の 
  角鹿や恋し 
     秋の月」
「月いつこ 
   鐘八沈る 
     海の底」  
「名月や 
   北国日和 
     定なき」

また、
別の「芭蕉と敦賀の月」の石碑には
他3句が刻まれている。
<芭蕉と月の説明碑>

「中山や 
  越路も月ハ 
    また命」
「月のみか 
  雨に相撲も 
    なかりけり」 
「衣着て 
  小貝拾ハん 
    いろの月」
~つづく。

芭蕉翁立像と越路の習い!~気比神宮その1~

2023-05-17 11:48:48 | 日記
令和5年5月17日(水)
敦賀市:  気 比 神 宮     
   
 敦賀駅の北1Kmほど。
 8号線に面して朱の大鳥居がある。
 この大鳥居は、国の重要文化財。
 敦賀湾の最奥部。
 京都から北上して、
日本海へ向う道の終着点。
 当地から、東へ向えば越中・越後、
西へ向えば丹後。
また、大陸への表玄関として、
交通の要衝に位置する重要な場所に
鎮座する。
 西に面した大鳥居を東へ進むと、
左手に猿田彦神社。
 その先に、垣に囲まれた境内がある。

<社殿>
<気比神宮由緒>

 その前に、
芭蕉の像や句碑等が整備されている。
<芭蕉翁立像>

『奥の細道』には、
「漸白根が嶽かくれて、
比那が嵩あらはる。
 あさむづの橋をわたりて、
玉江の蘆は穂に出にけり。
 鶯の関を過て、
湯尾峠を越れば、
燧が城。
 かへるやまに初雁を聞て、
十四日の夕ぐれ、
つるがの津に宿をもとむ。
 その夜、月殊晴たり。
「あすの夜もかくあるべきにや」
といへば、
「越路の習ひ、
猶明夜の陰晴はかりがたし」
と、あるじに酒すゝめられて、
けいの明神に夜参す。
 仲哀天皇の御廟也 。
 社頭神さびて、
松の木の間に月のもり入たる、
おまへの白砂霜を敷るがごとし。