朝目覚めると雨が降っている・・・
家を出かける頃になると、
になって来た。
京都駅に着いて、集合時間が過ぎても人が集まらない・・・8人で電車に乗る。
当麻駅に着いて人数を数えると24人(男性17人・女性7人)お天気が悪い中、良くご参加くださいました。
最初に「相撲館」の前を通り過ぎ・・・
交差点の手前の場所で「二上山」の見える処で説明と、集合写真を撮る。(あの山を登る)
「二上山は」地質上古い「火山性」の山で、雄岳515メートル・雌岳474メートル、の間に沈む夕陽は息をのむほど美しく素晴らしい感動を与える。
「太陽の道」とか「西国浄土」への入り口と考えられて人々の信仰を集めた。
雄岳の山頂付近に24歳で謀反のかどで死を賜う悲劇の皇子、大津皇子の墓所がある。
「悲劇」◎大海人皇子=(妃)、太田皇女、天武即位前に薨去:遺児【大伯皇女(7歳)・大津皇子(5歳)】
◎朱鳥元年(686)9月9日 天武天皇崩御[日本書紀]
◎朱鳥元年(686)9月24日 大津皇子の謀反の記事[日本書紀」
◎同年10月2日大津皇子逮捕
◎翌10月3日処刑
説明の後、健脚組と、麓組に別れて、健脚組は(21人)竹内街道を通り「二上山」に登りかける。この頃から雨がしとしとと降りだしたが、誰も登るのやめようとは言わない・・・此処まで来たからには、覚悟をきめて登るしかないか・・・
まずは腹ごしらえをしてから登ろうという事で昼食とする。
満腹なっていよいよ登山(二上山)再開、しかしキツイ・・・休み休みしながら登る。
鞍部まで登り、チョット一服、「雄岳」目指して又頑張ろう~
「雄岳」の近くに「大津皇子」の墓の前で写真を撮る。
◎ わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて暁露に わが立ち濡れし
2-105 大伯皇女
◎ ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
3-416 大津皇子
◎ うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世とわが見む
2-165 大伯皇女
下でリーダーから説明を受けた三首だけ載せました。
これから下山に向かいます。
厳しい坂道を、滑らない様に気をつけながら下りて行く
(雨で下が濡れていたり、落ち葉を踏まない様に気をつけながら・・・)足が突っ張ったりみがいったりしたが、下りなければ帰れないからと・・・
全員無事下山、高齢者が多かったが皆さん頑張って事故なし、良かった。
傘堂を見ながら~「傘堂」は左甚五郎が造ったと伝えられている。
犬養先生の歌碑
「当麻寺」でやっと麓組と合流する。
「当麻寺」は、聖武天皇の御代右大臣、藤原豊成の娘『中将姫』の物語。
姫は継母に疎まれて16歳で出家。
在るよ阿弥陀仏の力を借りて、五色の曼陀羅を一晩で織り上げたと言う伝説がある。
現在本堂の(曼荼羅)に収められている本尊は、16世紀(文亀年間)初頭に織られた模写と伝える。 (国宝)根本曼荼羅は秘蔵となっている。
[中将姫物語は]、歌舞伎・謡曲などで脚色された諸説も有りますが、姫は幼い頃に母をなくし、継母に育てられたが、姫の美貌ゆえに天皇に召された事から、継母に嫉妬され、世をはかなんで当麻寺に籠り、日夜念仏に明け暮れていた。
ある日阿弥陀仏の化身「天女」が姫のもとへ現れ、一夜のうちに五色の曼陀羅を織り上げた。
姫の信仰心はさらに深まり、生身のままの極楽浄土への昇華をとげるのである。
(寺伝)
当麻寺の本尊は「大曼荼羅」で本堂の中心に収められており曼荼羅堂とも言われている。
毎年5月14日午後に「聖衆来迎練供養会式」(当麻寺のお練り供養のこと)曼荼羅堂から人間界を意味する娑婆堂へと渡された長い橋の舞台に25菩薩に扮した人達が介添え役に付き添われて、娑婆堂へ進み中将姫を蓮台に乗せて浄土へ導く。と言う筋道で展開される宗教劇である。
曼荼羅堂
中将姫の像
寺には国宝◎本堂(曼荼羅堂)◎梵鐘◎根本曼荼羅◎東塔◎西塔
国指定重要文化財○白鳳時代の石灯篭○金堂○講堂始め多くの文化財が見られ花の寺、牡丹の名所で有名。
仁王門を後に帰途につく。
天候は良くなかったが、皆さんの感想では「二上山に登れて良かったと」言われ、無事に終わった事に満足しています。お疲れ様でした。