毎日の朝の散歩は、百万辺から西側を散歩していましたが、昨日古本まつりの、幟(のぼり)が目にとまり、東側を歩くことにした。
古本まつりは、「百万編知恩寺」の境内で、10月30日~11月3日 午前10時~午後5時迄 古本供養と青空古本市
東山通りの西門から入る。
東山通りの西門
芙蓉の花、朝は蕾だった。 菊の花
鐘楼 本堂
「知恩寺」もとは皇円阿闍梨の住房比叡山功徳院の里坊で、平安時代前期に円仁が創建したものと伝えられる。賀茂社との関わりが深く、神宮寺として、御所の北、今出川(京都市上京区、現在の相国寺付近)にあった。その所在地から、賀茂の河原屋といった。円仁作とされる釈迦如来像を安置したことから今出川釈迦堂、などとも称された。
法然は度々この地を訪れていた。法然が賀茂の河原屋に一時住んだのは、賀茂の神職から招かれたといわれる。法然入滅後、弟子の勢観房源智は賀茂の河原屋をついで、功徳院神宮堂とし、法然の御影を安置して、法然を開山第一世とした。念仏の道場とし、伽藍を整備し、如空のとき功徳院知恩寺と称した。
1331年(元弘元年)第8世善阿空円のとき、京都に疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により七日念仏百万遍を行い疫病を治めたことから「百万遍」の号が下賜された。1382年(弘和2年:永徳2年)相国寺が建立される際に一条小川に移された(京都市上京区一条通り油小路上ルに元百万遍町の町名が残る)。
1592年(文禄元年)には豊臣秀吉の寺地替えにより土御門(寺町通り荒神口上ル)に移された。江戸時代に入り、1662年(寛文2年)現在の北白川の地に移転した。
現在 [編集]
境内や本堂・庫裡はしばしばフリーマーケットの会場として貸し出されており、特に京都古書研究会主催で開かれる「秋の古本まつり」(会期は概ね10月末から11月初めまで)の会場となっていることで知られている。
目立つ様にこんな工夫も こんなものまでが、門の外に
今出川通りの門
今出川通りを東に行くと、京大の門が見えてきた。
中に入ると、「理工学部」「農学部」と通り過ぎ、御影通りに出て帰宅
今日の散歩は、50分かかった。
頂き物
S君が北海道からの直送便で、「ホタテ」を4キロも買った。
夕べ早速バター炒めで食べた。美味しかった~S君有難う~
古本まつりは、「百万編知恩寺」の境内で、10月30日~11月3日 午前10時~午後5時迄 古本供養と青空古本市
東山通りの西門から入る。
東山通りの西門
芙蓉の花、朝は蕾だった。 菊の花
鐘楼 本堂
「知恩寺」もとは皇円阿闍梨の住房比叡山功徳院の里坊で、平安時代前期に円仁が創建したものと伝えられる。賀茂社との関わりが深く、神宮寺として、御所の北、今出川(京都市上京区、現在の相国寺付近)にあった。その所在地から、賀茂の河原屋といった。円仁作とされる釈迦如来像を安置したことから今出川釈迦堂、などとも称された。
法然は度々この地を訪れていた。法然が賀茂の河原屋に一時住んだのは、賀茂の神職から招かれたといわれる。法然入滅後、弟子の勢観房源智は賀茂の河原屋をついで、功徳院神宮堂とし、法然の御影を安置して、法然を開山第一世とした。念仏の道場とし、伽藍を整備し、如空のとき功徳院知恩寺と称した。
1331年(元弘元年)第8世善阿空円のとき、京都に疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により七日念仏百万遍を行い疫病を治めたことから「百万遍」の号が下賜された。1382年(弘和2年:永徳2年)相国寺が建立される際に一条小川に移された(京都市上京区一条通り油小路上ルに元百万遍町の町名が残る)。
1592年(文禄元年)には豊臣秀吉の寺地替えにより土御門(寺町通り荒神口上ル)に移された。江戸時代に入り、1662年(寛文2年)現在の北白川の地に移転した。
現在 [編集]
境内や本堂・庫裡はしばしばフリーマーケットの会場として貸し出されており、特に京都古書研究会主催で開かれる「秋の古本まつり」(会期は概ね10月末から11月初めまで)の会場となっていることで知られている。
目立つ様にこんな工夫も こんなものまでが、門の外に
今出川通りの門
今出川通りを東に行くと、京大の門が見えてきた。
中に入ると、「理工学部」「農学部」と通り過ぎ、御影通りに出て帰宅
今日の散歩は、50分かかった。
頂き物
S君が北海道からの直送便で、「ホタテ」を4キロも買った。
夕べ早速バター炒めで食べた。美味しかった~S君有難う~