ミーマン日記

週1回ディサービスに夫婦で行って、楽しく過ごしています。

忘年会に~

2017-12-18 09:52:00 | 万葉関係

15日(金曜)万葉関係の人達、15名の忘年会をしました。

場所は「北斎」 御猟鍋(ごりょうなべ)

会長の挨拶が有り、乾杯の音頭で、忘年会の始まり~

お料理の始まる前、脇には、小屋・蓑が有り野菜が入ってる。          前菜

     丸い器の中の、鍬の鉄板で焼く               ご飯とみそ汁と漬物

両脇には、お野菜が入っており、鴨肉等を焼きタレニつけて食べます。 皆さんビールや、お酒等を飲まれて・・楽しいひと時を過ごしました。

御猟鍋の由来について・・・

鎌倉時代に宮仕え公家たちが、武士とともに洛北の北山へ狩猟に行き、たくさん獲物をとっての帰り道に空腹をおぼえ、雲ヶ畑のさる百姓家にたちより獲物を料理するように命じました。  ところがあいにく鍋にはひびがはいっており役に立たず、百姓ははたと困りました。 そこで一計を案じ、畑を耕す鍬を加茂川の清水で磨き清め、その鍬の上で野鳥の油にて肉を焼いて供しました。 ところが暖色の公家や武士は、その野趣にあふれ、素朴な味に舌鼓をうち大そう気に入りました。 それ以後、北山へ狩猟にいくときまってこの鍬鍋の料理を楽しみましたので、いつしか御猟鍬鍋とよばれるようになりました。

 


万葉歌会始め

2014-01-20 17:03:24 | 万葉関係

19日早朝雪が降り寒い朝になりました。

我が家の郵便受けにも、雪が三センチ程積っていました。

近所のご婦人が、「孫が来るから、喜ばせようと思って作ってます。」お孫さんもきっと喜ばれたでしょう~雪には関係ないのですが、可愛い置き物が有ったから、思わずパチリ。

午後1時から、「万葉歌会始め」が有るのに・・・心配です。

今回は慌てました・・・その日の10時にやっと、資料が出来、主人はチョットでも寝てくると言い、寝室に・・出来あがった資料を貼り付けるのは、私の役目。一人五枚の資料を22人分貼り付け、後は食事の片づけや洗濯を済ませると、11時半過ぎ・・・主人を起こして、出かける用意をしても、最初の予定12時には、出られない・・・時間は過ぎ、早く出かけないと、13時には間に合わないとイライラする。 

会場に着いたのは、13時前・・足場の悪い処、殆どの人が来て居られました。遅くなって申し訳ございません・・・

資料を配布して、「万葉歌会始め」が始まる。

最初に「遅くなり申し訳ございません」と・・の挨拶から始まる。

新年の挨拶代わりに、歌を披露(解説しながら)

◎ 17-3925   新しき 年のはじめに 豊の年 しるすとならし 雪の降れるは    葛井連諸会

◎ 17-3926   大宮の 内にも外にも 光るまで 降れる白雪 見れど飽かぬかも  大伴宿禰家持

◎ 20-4493   初春の 初子の今日の 玉箒 手に取るからに ゆらく玉の緒     大伴宿禰家持

◎ 8-1418    石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌出づる春に なりにけるかも     志貴皇子

今回は歌を覚えたい~歌いたいと言う要望が有り、万葉集の二番歌(629)

◎ 巻1-2      大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は

              煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は   舒明天皇

    「長歌」

◎ 巻1-17      味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隅 い積るまでに

                つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情なく 雲の 隠さふべしや 額田王

    「反歌」

◎ 巻1-18     三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや         額田王

    「富士の高嶺」

◎ 巻3-317      天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 振り放け見れば

               渡る日の 影も隠らい 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 

             雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は        山部宿禰赤人

    「反歌」 

◎ 巻3-318    田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不尽の高嶺に 雪は降りける  山部宿禰赤人

皆さんで繰り返し朗詠の練習をしたが、出だしの音程が把握出来ない・・・これからも練習して行きましょう~

最後に集合写真を撮り、16時になり会は閉会します。

 

次回はお花見を兼ねてやりたいでね。   サイクリングは中止となりました。

 

 

 


「平成26年万葉歌会始め」お知らせ

2014-01-15 19:58:50 | 万葉関係

謹賀新年

   初春の  初子(はつね)の今日の  玉箒(たまはばき)

       手に執るからに  ゆらく玉の緒   万葉集 巻20-4493

   今年の年賀状でしたが、宮廷での行事で、天皇は農園で鋤(すき)鍬(くわ)で耕作の農事はじめの行事をされ、皇后は養蚕場での蚕卵・温度管理・桑の木の育成など専門の職員と共に行われる。 皇族の伝統行事で祝いの記念品を宮廷人に下賜された模様。賀歌として万葉歌に残る。

正倉院展に玉箒・唐鋤など玉で飾ったものが想像されます。 ◎ 本年の初子(はつね)の日は、1月5日でした。

今年は『万葉歌会始め』を計画しました。

内容は◎ 『不世出な風土学者犬養孝先生の力説された事』

◎『風土とともに・万葉の心』

                   『  お知らせ  』

① 日時    平成26年1月19日  13時~16時

② 会場    紫明センター 京都市北区小山東大野町55 紫明小学校正門南並び

③ 提言    京都万葉同好会  水口 昭男

(地下鉄烏丸線「北大路駅」下車  市バス北大路ターミナル下車)

地上に出て北大路通を西へ徒歩7分 更に北大路室町通を南へ約100m

ご出席希望の方は、ミーマン日記に書いてくださるか、又はメール、もしくはお電話下さいね。

お茶を用意しますので、必ず連絡して下さいませ~多くのご参加お待ちして居ります。(^O^)/

 


忘年会

2013-12-11 15:12:20 | 万葉関係

9日サイクリングの仲間12名と忘年会をしました。 会場は、私が良く利用して居る「旅籠屋」です。

皆がそれぞれの飲み物を注文し、会長の乾杯で始まり(#^.^#)

  卵と、牛テールと鴨肉パートフィロ包み、               フォアグラポワレとトリュフリゾット  

聖護院蕪のスープ、柚子の泡のせ〈ピンボケ〉      洋梨の赤ワインコンポート、番茶のジュレ

  鳥取県A4ランク 網焼きステーキ                    フランスパン

ご飯と、香の物が有りましたが、写真撮るの忘れた。(;一_一)

4人分のデザートが出てきて、左端にエッフル塔が有るのですが・・1人分だとこの様です。焼きプリンとドリンク(コーヒ)もついています。少しづつの量ですが、結構お腹いっぱい~(満足)(#^.^#)

二つのテーブルに別れましたが、テーブル毎に話が弾んでいたわ~(^_-)-☆

14時過ぎに散会となりましたが、まだ話し足りない者同士が、近くのホテルにお茶を飲みに行き、

皆さんなかなか離れがたいのね。(*^_^*) 此処でも話が弾み、一つでも良いから、ちゃんと歌える歌(万葉歌)を練習したいと言う人が居り、歌会始をする事となりました。

今年はこれでお別れですが、1月19日(日)「紫明センター」で歌会始。

詳しいお知らせは、来春の初めにご案内します。(^o^)

 


天の香具山周辺、藤原京讃歌

2013-11-19 15:20:15 | 万葉関係

17日、今日は今年最後の万葉サイクリング ~  天気予報では、午後からは曇って、にわか雨も降るかも??

京都駅で、8人が乗車し、樫原神宮駅に着いた時には10名になっていた。  電動自転車が10台予約してあり、皆さんが電動自転車で行けるのが良かった。

走り出して、20分くらいした時、突然リーダーが、橋のたもとで自転車がひっかかり転倒・・・太い鎖の所で、鼻を打ち、鼻血が出て・・止まらない  手当をして少し休む。  落ち着いた様なのでサイクリング出発

最初に行った所は、奥山・久米寺

久米仙人の伝説[編集]

久米仙人による開基伝承は『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などのほか、『今昔物語集』巻十二本朝仏法部にも収録され、『徒然草』にも言及されている著名な話である。それによると、吉野龍門寺の久米仙人は仙術で空を飛べるようになったが、ある日空を飛んでいる時、川で洗濯をしている女のふくらはぎに見とれて法力を失い、地上に落ちてしまった。久米仙人はその女とめでたく結婚。その後は普通の俗人として暮らしていた。その後、時の天皇が遷都を行うことになり、俗人に戻った久米仙人は遷都のための工事に携わる労働者として雇われ、材木を運んだりしていた。ある日仕事仲間から「お前も仙人なら、仙術を使って材木など一気に運んでしまったらどうだ」とからかわれた。一念発起した久米仙人は7日7晩祈り続けた後、仙力を回復。久米仙人の仙術で、山にあった材木が次々と空へ飛び上がり、新都へと飛んで行った。これを喜んだ天皇は久米仙人に免田30町を与え、これによって建てたのが久米寺であるという話である。net引用

古代の塔基壇の上に建っている鎌倉時代 の十三重石  の前で説明

奥山久米寺跡を見て、西の方の「大官大寺」址の碑を見て、爽やかな風に吹かれながら~次の目的地「天の香具山」に向かう

「天の香具山」 大和三山中目立たないが、万葉には多く詠まれている山です。海抜147.9メートル、山麓は75メートル、比高73メートル一番低い  頂上まで登山する。

       天の香具山の入り口                      遠くに「耳成山」が見える。            

         途中で説明                      頂上から「畝傍山」が見えた

天香具山の頂上の御祭神は「国常立尊」と「大龍神」二柱が合祀されている。付近の説明が書かれてある。

頂上で朗唱

 万葉集巻(1-2)番歌 「天香具山国見歌」

   大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ

   海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は          舒明天皇

 1-28 春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山            持統天皇 

天の香具山を降りて、チョット休憩 

綺麗な風景に思わずパチリ・・・絵になるかな??

近くに哭沢の神社が有り、チョット覗いてみる。

啼沢女神は伊邪那岐命が伊邪那美命を失った哀しみの涙から成った神、なのだと言う

2ー 202 泣沢の 神社に神酒据ゑ 祈れども 我が大君は 高日知らしぬ   檜隈女王

最初に1時間のロスが有り、昼食が遅くなりますが、「藤原京」に向けて走る。

ポカポカ陽気で、昼食場所からなかなか離れがたいが・・腰を上げ「藤原京」の中を見て回る。

「藤原京」  わが国最初の都、藤原京。その16年の栄華は、日本の歴史上に大きな役割を果たしました

藤原京は、中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都城でした。持統天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年のこと。新たな都の造営は、亡き夫・天武天皇の意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一代事業でした。その大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都です。藤原京時代には大宝律令が制定され、貨幣も発行されました。初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使でした。net引用

  香具山をバックに記念撮影                       大極殿跡

万葉の藤原宮:讃歌『藤原宮の役民の歌』・『藤原宮の御井の歌』 が有りますが『藤原宮の役民の歌』、これは作者未詳なので省く。

 『藤原宮の御井の歌』

あまねく 国土を お治めになる わが大君 高く輝く日の御子 荒栲の藤井の原に 新しい朝廷を、お作りになり 大御門を 始め給まひて、埴安の池の、堤の上に、いつも立たして 大和を御覧になり・

『日の経』=(東側御門)には、  香具山が、 春山として 茂り茂って 在る。

『日の緯』=(西側御門)彼方   畝傍山が、 瑞山(瑞々しい山)として存在する。

『背 面』 =(北側御門)彼方   耳成山の  青菅山が神々しく 控え 聳え 立つ。

『影 面』 =(南側御門)には   遥か 彼方の  雲居なす  吉野の山々。

こう言う立派な山々に、囲まれ高々と統治なさる、此の大殿、天高く御支配なさる日の大宮よ。

その水こそは永久にあるだろう、藤井の真清水よ。 藤原宮の御井よ。

1-53 藤原の 大宮仕へ 生れつくや 娘子がともは ともしきろかも    作者未詳

リーダーの怪我も大した事無く、無事にサイクリングが出来た事に感謝。

皆様お世話になり有難うございました。(#^.^#)

 

 

 

 

 

 

 

 


明日香サイクリング

2013-09-26 16:12:37 | 万葉関係

9月22日(日)京都駅7時50分集合 8時06分発に乗車。橿原神宮前に9時16分に到着

最終の人数は10名です。 電動自転車を10名申込みして居たので、丁度10名で良かった。

最初に行ったのは、「剣の池」此処は何時も素通りで、今回は池の前で説明

『日本書紀』には、第15代応神天皇の11年冬10月、軽池、鹿垣(かのかき)池、厩坂(うまやさか)池と共に剣池を造った、とある。

『日本書紀』にはもう一度剣池に関する説話が登場する。皇極天皇3年(644)の6月、すなわち大化改新のちょうど一年前に、剣池で一本の茎から二つの花を咲かせた珍しい蓮が見つかった。当時繁栄の絶頂期にあった蘇我本宗家の蝦夷(えみし)は、「これは、蘇我臣が栄えるという目出度い前兆と勝手に考えて、金泥で蓮の花を描かせ、大法興寺(飛鳥寺)の丈六の仏に献上した。皮肉なものである。それから一年後、蘇我蝦夷・入鹿親子は中大兄皇子や中臣鎌足らが起こしたクーデターによって滅ぼされる運命にあった。net引用

13-3289  み佩かしを 剣の池の 蓮葉に 溜まれる水の 行くへなみ 我がする時に 逢ふべしと 逢ひたる君を な寝ねそと 母聞こせども 我が心 清隅の池の 池の底 我れは忘れじ 直に逢ふまでに。

解説と朗唱

次に行った場所は、輕

柿本朝臣人麻呂妻死之後「泣血哀慟」作歌二首 井短歌 

女性の所に、度々も行きかねて、恋焦がれているうちに、訃報を得て、どうにもたまらず、輕の市に来てみると、畝傍山の鳥の声も聞こえず。 女性の姿も全くなく、仕方なしに彼女の名を呼んで袖を振ったという歌。

石川・輕・大輕・見瀬は由緒ある処です。

推古朝では、見瀬・丸山古墳の前方部の整備と。第33代推古天皇の即位宣言をした処とされる伝説も有る。 

橿原から~明日香村・野口へ   橘寺と川原寺の間に出て、橘寺は聖徳太子の誕生地と言われる処。

8-1636     大口の 真神の原に 降る雪は 痛くな降りそ 家もあらなくに   舎人娘子

13-3268    「長歌」 三諸の 神奈備山ゆ との曇り 雨は降り来ぬ 天霧らひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原  ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に至りきや    「思いやり心」 

13-3269    「反歌」 帰りにし 人を思ふと ぬばたまの その夜はわれも 眠も寝かねてき 「おもいやり心」

今回は「橘寺」省略して、川原寺に行く

川原寺 『日本書紀』~『続日本紀』 中に10回に及ぶ川原寺の記事がある。 就中、天武紀14条には、川原寺行幸を伝える。川原寺は礎石を残すのみで、古い建造物は残していない。写経を始めたのは川原寺が最初です。 現在は『弘福寺』が跡地に建立され、礎石の保管が有る。

   

                        川原寺 

次に向かったのは、『伝飛鳥板蓋宮遺跡』は、荒川式井戸を中心に石敷きの遺跡は上層部の『飛鳥浄御原宮跡』そのものとされ、この下の中層・下層に「伝飛鳥板蓋宮跡遺跡」があるとされている。

◆ 飛鳥浄之宮尓御宇天皇代・天渟中原瀛真人・大海人・浄御原天皇・謚:40代天武天皇。

浄之宮讃歌

19-4260  大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 都と成しつ   大伴御幸

19-4261  大君は 神にしませば 水鳥の 須抱く水沼を 都と成しつ    作者未詳

    

尚この西方に池をめぐらせた庭園跡、建物跡も発掘され、プライベートの皇居ともいわれる。

  

1-51 采女の 袖吹かへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く   志貴皇子

原文の歌碑  その後ろで団体写真。

  

    『伝飛鳥板蓋宮遺跡』 の解説版           木陰で明日香風に吹かれながら説明を聞く

次に「酒船石」に行く

 

この石造物は「酒船石さかふねいし」と呼ばれていますが、かなり古いものです。
名前の通り、酒を搾る槽とも、あるいは油や薬を作るための道具ともい
われていますが、この石の東約40メートルのやや高いところでここへ
水を引くための土管や石樋が見つかっていることから、庭園の施設だと
いう説もあります。(現地の案内板による)
他の説として、
砂金精選、辰砂 ( 銅で着色した鮮紅色の釉うわぐすりのこと) 製造とい
った用途説もあります

net引用 

次は『飛鳥寺』

 飛鳥寺は588年に百済から仏舎利(遺骨)が献じられたことにより,蘇我馬子が寺院建立を発願し,596年に創建された日本最初の本格的な寺院。
 法興寺・元興寺ともよばれた。現在は安居院(あんごいん)と呼ばれている。

 創建時の飛鳥寺は,塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらした伽藍配置だった。 寺域は東西約200m,南北約300mあった。百済から多くの技術者がよばれ,瓦の製作をはじめ,仏堂や塔の建設に関わった。瓦を製作した集団は,この後豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わっていく。さらに,これらの技術を身につけた人たちやその弟子たちが全国に広がり,各地の寺院造営に関わるようになる。

6-992 故郷の 明日香はあれど あをによし 奈良の明日香を 見らくし良しも  大伴坂上郎女

          飛鳥寺 金堂 

      飛鳥大仏

年代のわかる現存の仏像では日本最古のものと言われている。

 金銅仏の釈迦如来像(飛鳥大仏)は推古天皇が止利仏師(とりぶっし-鞍作鳥・鞍作止利 くらつくりのとりともよばれるように,もともとは馬具製作に携わっていた百済からの渡来系氏族の一人)に造らせた丈六(約4.85m)仏。605年に造り始め,606年に完成した。
 しかし,887年と1196年の落雷のため火災に遭い本堂が焼失したが江戸時代に再建された。飛鳥大仏も補修されたが,顔の一部,左耳,右手の中央の指3本だけが当時のまま残っている。法隆寺金堂の国宝釈迦三尊像とよく似ている。net引用

     左側 聖徳太子               右側 阿弥陀如来坐像

          三体の水かけ地蔵が有る。   飛鳥大仏を後にして~

「国立飛鳥資料館」に行く。

      「国立飛鳥資料館」                       二面石

        石像物                           橋の上から写す

主な展示品
 新羅土器・施釉陶器 飛鳥・藤原京出土
 山田道 敷葉遺構 石神遺跡出土
 壬申乱模型
 富本銭 飛鳥池遺跡出土
 各地の土器・瓦 飛鳥・藤原京出土
 荷札木簡 飛鳥・藤原京出土
 金属製人形・木製人形・斎串・土馬 飛鳥・藤原京出土
 他

明日香風が心地よく、爽やかな日でした。  皆さまお疲れ様でした。

 

 

 

               


「万葉三昧・親睦会」

2013-07-16 14:59:13 | 万葉関係

7月14日 紫明センターで、万葉三昧で「朗唱・唱・吟」を体験してみよう会が開催されました。

二・三日前のあの暑い日差しとはうって変わり、何時雨が降るか分からないようなお天気でしたが、出席の回答を頂いた人は出席されました。  足場の悪い、蒸し暑い日にお越しいただきまして有難うございました。

13時になりましたので、「朗詠・解説」が始まりました。

◆『犬養 孝先生から教授を受けた事』

◆別紙 『万葉歌 資料』

◆資料  明日香 (1)~(3)

概説

● 万葉仮名。「原文」は漢字で1000文字を使用・古事記と同じく「美音」で読む。

● 名称、古今和歌集仮名序に「万えふしふ」とある。「古今集」「真名序」「続万葉集」とも。

● 分立て 「雑歌・相聞歌・挽歌」基本。 又万葉集の中で「正述心緒・(ストレートに述べる) 寄物陳思・(物に   寄せて思いを述べる。)譬喩歌・(例えの歌)騎旅歌・(旅の歌)贈答歌・(上の人が下の人に贈る歌)問答歌・(対等の人の歌のやり取り)防人歌・(さきもりの歌)東歌・(静岡寄り、東の歌) など万葉集自体で分類しているものもある。

● 「歌体・と歌数」・・長歌265首(長歌は5・7調で続けて最後に57577で留める。又は577で留めるのが長歌。)   短歌4207首(短歌は57577)  旋頭歌62首(577・577) 連歌1首(575を一人の人が歌い、次の人が77とつける)仏足石歌体1首(575777)

● 歌数 塊と繋がり 塊には大和・畿内(浪速・河内・摂津・播磨・山城・近江・不破・美濃・尾張・三重・紀伊)●繋がり(筑紫)大伴旅人・山上憶良・瀬戸内も含む。  関東筑波・東国 山部赤人・高橋虫麻呂。   北陸越中(大伴家持。 山陰・石見・因幡。)

● 歌数 「国歌大観番号」 松下大三朗先生の発案で、1~4516首 但し重出歌を含めると4536首となる。

●編集者は、万葉集の歌の集められた時代 130年間 を一人で編集したとは考えられない。「複数の人達が、数次にわたって編集し最後の処に、大伴家持がいたとするのが、通説とします。」

明日香を、サイクリングで三回に分けて廻ってきました。

「文武陵」「高松塚古墳」「天武:持統合葬陵」「真神の原」「橘寺」「「川原寺」「南淵山」「石橋」「甘樫の丘」「石川池」「元薬師寺跡」「飛鳥坐神社」「雷丘」「石舞台古墳」「犬養記念館」「於美阿志神社」キトラ古墳」等を回ってきた。(説明は資料に書いてます。)

● 7-1109 左檜隈 檜隈川の 瀬を速み 君が手とらば 言寄せむかも

● 16-3850 世の中の 繁き仮廬に 住み住みて 至らむ国の たづき知らづも   川原寺僧

資料2 

「纏向、箸中、三輪、磯城、海石榴市、泊瀬朝倉、忍阪」 桜井駅から~サイクリングで2回行きました。

最初に行った所は、万葉以前の所で、箸墓古墳、第7代孝霊天皇の皇女『倭迹迹日百襲姫命』の古墳が箸墓古墳と言われるもの・一説には、卑弥呼の墓とも言われている。 崇神天皇(10代)垂仁天皇(11代)・景行天皇(12代)記紀歌謡の中に有名な歌

紀ー22 倭は 国のまほろば 畳なづく 青垣 山籠れる 倭し 美し

大神神社の拝殿(山が御神体)参拝して、狭井神社 三輪山の登山口  三山眺望の丘で朗唱(三山が良く見えた)

香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき 

「忍阪」 舒明天皇(34代)御陵 で朗唱

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ うまし国ぞ あきつ島 大和の国は

この歌を最後に朗唱の会を終わりとします。

その他の歌は資料に有ります。

教室内の写真です。

雨のため、親睦会は中止になりました。

次回9月22日(日) 明日香の資料の中のまだ行ってない所を廻ります。

 

 


サイクリング~(^O^)/

2013-05-30 16:32:26 | 万葉関係

日記遅くなりましたが、26日の日曜日に、先月の続きの「三輪山」「忍阪」をサイクリングで廻ってきました。

お天気は最高で、31℃の暑い日でしが・・自転車に乗っていると、心地よい風が頬に当たり、暑さを感じなかったです。

今回は今までで、一番多く、15名でした。    先月は「三輪山」の麓まで行きましたが、廻る場所が多く、お参り出ませんでしたので、今回は拝殿にお参りして来ました。  山全体が御神体です。

「大神神社の由来」

遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)【大国主神(おおくにぬしのかみ)に同じ】が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)
【詳しくは(やまとのおおものぬしくしみか たまのみこと)】の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿 は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられて おり、我が国最古の神社であります。
大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様 として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。net引用

  「大神神社」に行きます。                   「三輪鳥居」の処で説明

「御神木」                      拝殿の前で記念撮影

巻4-712 味酒を 三輪の祝が 斎ふ杉 手触れ罪か 君に逢いかたき     丹波大女娘子 

巻1-17  味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積るまでに

        つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情なく 雲の 隠さふべしや  額田王

巻1-18  三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情 あらなむ 隠さふべしや               額田王

これは、天地天皇6年(667)3月滋賀大津宮へ遷都した時「三輪山惜別歌として歌われたもの

惜別歌と言われるもので、原因は(663)8月27~28日白村江の戦いに敗れて、恭順の意を表すためで有るが、「柿本人麻呂歌・・・空満つ大和を置きて、あをによし奈良山越えて、いかさまに思ほしめせか、天離る鄙にはあれど、石走る近江の国のささなみの大津の宮に・・・」

「狭井神社」 

記ー19  葦原の しけしき小屋に 菅 畳 いやさや敷きて 我が二人寝し       神武天皇

狭井とは、山ユリの花の事   此処で三輪山に登ることが出来ますが、私達は展望の丘に向かう

左から、天の香具山・畝傍山・耳成山が一望に見えます。     右端には二上山が見えてます。

巻1-13  香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ 

         うつせみも 妻を 争ふらしき                     中大兄皇子

であるが、これは此処で歌った歌では無く、天智6年(663)正月百済救援の途中、1月7日~8日 明石の難所を越えて沿岸で船泊した時、付近の国主が慰問した時の歌です。

景色の良い処で記念写真を撮る。    休憩所で昼食

昼食後、「忍阪」に向けて走ります。

三輪・磯城・海石榴市・泊瀬朝倉・忍阪

御間城入彦五十瓊殖尊・御肇国天皇:磯城瑞籬宮御宇天皇・謚:崇神天皇(10代) 

イメージ 3

◎  高市岡本宮御宇天皇代[息長足日廣額天皇]・謚:舒明天皇(34代)

  天皇、香具山に登りて国見したまひしの時の御製歌

巻1-2  大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 

        海原は 鷗立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は 

『 隠口 の 泊瀬 の山  青旗 の 忍坂 の 山は  走出の よろしき山の 出立 の くはしき山ぞ
   あたらしき 山の 荒れまく惜しも 』  作者不詳

◎ 泊瀬朝倉宮【泊瀬朝倉宮御宇天皇御代]:大泊瀬幼武尊:謚:雄略天皇(21代)

脇本灯明田遺跡~朝倉小学校 体育館辺りまで宮址

巻1-1  籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね

        そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 

        告 目 家をも名をも 

巻13-3310    巻13-3311  巻13-3312 巻13-3313 は解説省略

   泊瀬の山、忍坂の山は、地形が素敵な山です。
    たたずまいの立派な山です。そんな山が荒れてゆくのが本当に惜しいことです

                                 万葉集に 忍阪の山として登場します。

巻2-92  秋山の 樹の下隠り 逝く水の われこそ益さめ 御思よりは          鏡王女

巻2-95  われはもや 安見児得たり 皆人の 得難にすといふ 安見児得たり     内大臣藤原卿

色々とハプニングも有りましたが、無事に終了でき何よりです。(事故もなく)

今年の前半はこれで終わり、7月14日(日)紫明センターにて、思う存分万葉歌の朗唱を聞き、万葉三昧で「朗詠・唱吟」を体験してみよう会を考えております。  その後、希望者で親睦会をしたいと思います。

高島屋のビアガーデン 18時から~ 祇園祭の前ですので、鉾を見るのも良し、皆さんで出かけましょう~(^O^)/

 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 


今年初めてのサイクリングに・・

2013-04-16 13:12:19 | 万葉関係

お待たせしました。今回はエリアを桜井市に移してのサイクリングです。

14日(日)近鉄京都駅 ②番ホーム 07:50分集合

久し振りに参加された人と、初めて来られた人も含めて10人でした。  案内を出すのが遅かったのか・・参加者は少なかったが、サイクリングの場合は、これくらいの人数が良いのかもね。

近鉄京都駅08:06発 急行橿原行き乗車 大和八木で乗り換え 近鉄桜井駅下車

桜井サンフラワーレンタサイクリングで自転車を借り出発

先ずは、三輪山を眺めながら~

泊瀬川で万葉歌朗唱   泊瀬川の歌は計13首見られますが、その内の代表作を載せます。

20 ● 泊瀬川 白木綿花に 落ち激つ 瀬を清けみと 見に来し我を

21 ● 泊瀬川 流る水脈の 瀬を速み ゐで越す波の 音の清けく

次の行き先は、大神神社の大鳥居を目指して進み、大通りを避けて裏通りを北上 目的地「箸墓古墳」に到着

大市墓 孝霊天皇皇女「倭迹迹日百襲姫命墓」 卑弥呼の墓とも言われが有る。 池も有った。古墳を取り巻くように、池の一部分が見れた。 

ホケノ山古墳に移動

 

レプリカですが、古墳の内容を知るためにこの様なものが有る。ホケノ山古墳の円墳部に上って、説明を受け記念撮影

この辺りは万葉以前の纏向遺跡で、景行天皇の「記・紀歌謡」 

記ー30 倭は 国のまほろば。  畳なづく 青垣。 山隠れる 倭し美し。

昼食場所に移動  昼食 

              

昼食後 、大神神社の大鳥居をくぐり、磯城島方面に行く

鳥居には、『志貴御県坐神社』と書かれてあり、境内には、『磯城瑞籬宮址』

階段を上がって行くと、『志貴御県坐神社』が有り、「崇神天皇磯城瑞籬宮址」石碑が有った。

金谷の石仏堂 左が釈迦・右が弥勒と推定されている。右の赤茶色の石は、石棺の蓋であろう。

海柘榴市観音 前で万葉歌を朗唱

17 ● 紫は 灰さすものそ  海柘榴市の 八十のちまたに 逢へる児や誰

18 ● たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 道行き人を 誰と知りてか

  

朝倉宮址 には、「松田」さんの立派な家と、大きな楠が有った。

脇元・灯明田遺跡『泊瀬朝倉宮御宇天皇御代』:大泊瀬幼武尊:雄略天皇(21代)

時間的に遅くなり桜井駅まで戻り、有志でお茶を飲み帰る。

今日は16キロ走りました。 自転車だから行けたんですね。

お天気に恵まれ、涼しい風もあり、鶯の鳴き声を聞き、田園風景の中のサイクリング、とても気持ち良かった。 次回は5月26日の予定をしております。(^O^)/

 

 


年忘れの会・・(^O^)/

2012-12-15 16:44:31 | 万葉関係

サイクリング仲間が一年の締めとして同好の志が集い、旅の思い出話で花を咲かせようとの案が出て『同好のつどい』が11日の夜、縄手四条上がる「料亭 北斎」で開催された。

「北斎」のお料理は、御猟鍋   御猟鍋 (ごりょうなべ)の由来に付いて

その昔、鎌倉時代に宮仕えの公達が武士とともに洛北の北山へ狩猟に行き、たくさん獲物をとっての帰り道に空腹をおぼえ、雲ヶ畑のさる百姓家にたちより獲物を料理するように命じた。

ところがあいにく鍋にはひびがはいっており役に立たず、百姓ははたと困りました。そこで一計を案じ、畑を耕す鍬を加茂川の清水で磨き清め、その鍬の上で野鳥の油にて肉を焼いて供しました。

ところが暖色の公達や武士は、その野趣にあふれ、素朴な味に思わず舌鼓をうち大そう気に入りました。 それ以後、北山へ狩猟にいくときまってこの鍬鍋の料理を楽しみましたので、いつしか御猟鍬鍋とよばれるようになりました。

このような料理法に研究と改良をくわえましたのが「御猟鍋」であり、「北斎」のオリジナルです。

             

                         前菜 

            

       籠の中には葱や、パプリカ牛蒡のささがき等  「みのかさ」の中には、茄子、サツマイモ等

             
            

            丸いコンロが運ばれて、炭の上には鍬がのせられた。

            

Yちゃんが左利きなので、鍬の鉄板は左側。牛ロース・鶏肉・鴨ロース、野菜等を焼き特製のタレにつけて食べる

            

           最後に生卵をわり、ささがきゴボウと混ぜて焼く。美味しかったです。

お料理は「御猟鍋」飲み物は飲み放題で、お好きな飲み物で、和気藹々と、2時間があ~と言う間に過ぎ、団体写真を撮り、散会となりました。  参加者は20名でした。

お世話していただきました「丸山様」有難うございました。   私のデジカメ持って行ったのですが、撮影は出来ませんと表示された。何故かな?と思い蓋を開けると、メモリーカードが無い・・・PCの中に入れたままでした。(@^^)/~~~

万葉の会も今年は終わりですが、又来春4月にお会いしましょう~皆さんお元気で良いお年をお迎え下さいませ