昨日は、京都地方午前雨がきつく、午後晴れてくると言う予報の中、出かけて行きました。
バスの中で、雨が降ってきた。(やばいなぁ~) 阪急に乗り変え、「西向日駅」に着いた頃は、雨もあまりきつくなく、このままの状態で一日持ってくれれば良いのになぁ~雨降りだから、参加者は少ないかな~と思っていましたら、続々と会員さんが改札から出てこられました。 久し振りに来られた人も居られ最終には、44名になっておりました。
雨足がきつくなってき、しばらく様子を見ていたが、小雨になりそうにもないので、歩き出しました。
最初に行ったのは、「長岡京大極殿跡」
【長岡京】
長岡京(ながおかきょう)は、山城国乙訓郡(現在の向日市、長岡京市、京都市西京区)の地にあった
桓武天皇は、父親の光仁天皇の代から皇統が天武系から天智系に変わったことにより、
既存の仏教勢力や貴族勢力と距離をおいて、政治を一新したかったといわれる
母親方の渡来人勢力が山城国を勢力圏としていたことも影響したといわれる
長岡京は、平城京、平安京と並ぶ京域を持った都だったとされる
造営途中ではあったものの、難波宮や多くの旧宮、平城京の建物が移築されていたといわれる
【長岡宮跡】
大極殿跡の近くには、内裏内郭築地跡や朝堂院西第四堂跡、築地跡などがある
発掘された木簡などの遺物は、向日市文化資料館に展示されている
<大極殿公園>
1965年(皇紀2625)昭和40年
公園として整備され、日本で最初の史跡公園に指定される
<長岡京大極殿遺址>
1895年(皇紀2555)明治28年
現在の地の北に石碑が立てられる
その後、発掘調査の結果から、現在の地の大極殿公園に移建された
<長岡宮宝幢跡(ほうどうあと)>
宝幢(ほうどう)は、古代中国伝来の儀式用旗飾り
長さ約9mの大柱の上に、青龍(せいりゅう)・朱雀(すざく)・白虎(びゃっこ)・玄武(げんぶ)の
四神の絵がはためき、鳥・日・月の華やかな飾り物が付けられる
宝幢は、天皇の権威を象徴するもの
即位式と、元旦に盛大に行われる「朝賀の儀式」でのみ、大極殿の前に7本の宝幢が建てられる
1997年(皇紀2657)平成9年
発掘調査で、宝幢を建てた柱の掘形が発見される
長さ約3m、幅約1.2m、深さ約0.8mの楕円形をしている
中央に大柱、両側に添柱の痕跡があった
柱堀形は3基あり、大極殿の前約100尺(29.6m)の位置に、東西方向に3m間隔で並んでいる(net引用)
天平宝字3年(759)正月元旦 因幡国庁において多くの軍使及び国庁の職員を前に・・
●20-4516 新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事 大伴宿禰家持
これを最後に万葉は一般的に終焉を迎えている。 長岡京遷都からすると25年前になる。
古歌12集ぐらいの歌が認められる。 家持はその後26年間生存し「歌は亡くなった家持」は、相模守(兼上総守)・薩摩守・大宰少弐・伊勢守等周辺地へ派遣される。 万葉集の中で家持は478集を残している。
もっもも多く残している処から、歌は作り続け歌集・草稿・歌日記等、多くを残していたと思います。
藤原種継事件連座のかどですべての財産書類等も没収され事件発生の24日前家持は、死亡している。処分として、葬儀の停止まで宣告される。後刻無罪復権された。
藤原種継暗殺事件で首謀者に早良親王ともいわれ、実質不明 、遷都反対のテロと思われる。一族と対立族との複雑な中傷・讒言の渦巻く中、疑心暗鬼な処分で早良親王の断食死となり、行きすぎた処分も見られ、桓武天皇の身近な夫人が病死、生母高野新笠薨去・皇后乙牟漏31歳薨去・皇太子、安殿親王病気ト定で早良親王の怨霊と言う事で、毎年の不幸と怨霊に悩まされた。延暦11年6月と8月の2回にわたる大洪水が有り水が引かず京域の参分の一が大災害を受け、再度遷都を決め「延暦13年(794)10月22日平安京へ遷都した。」 「長岡京」は10年で終わった。(10月22日平安京へ遷都したので、この日が、時代祭りの日になった。)
雨の中、説明が有るが、雨がきつく降り、説明が聞きにくかったと・・・(-_-メ)
次に行く前に三分の二ぐらいの人がリタイヤした。(靴の中に雨が入っては仕方ないですね。)
少ない人数になりましたが、次を目指して歩く・・・16名
「乙訓座火雷神社」 (角の宮神社)
祭神賀茂建角御命が祭られている。長岡京市井の内・南内畑に鎮座。 「続日本紀」に長岡京遷都のおり『神階従五位下』が送られている。神婚説話~丹塗矢伝承~別雷命誕生。
乙訓座火雷神社「角の宮神社」 説明をしているところ
次に向かって歩き出す。(この時から雨が上がって晴れてきた。)(^o^)
「乙訓寺 」 長岡京市今里広野に有る真言宗・豊山派・大悲山と号す。(法皇寺)とも言う。 早良親王幽閉の地として有名。
推古天皇の勅願により聖徳天皇の創建と伝えるが未詳、弘仁2年(811)~3年(812)にかけて空海が別当をつとめ最澄が訪れたこともある。以後真言宗となる。空海別当は怨霊は存在しない。怨霊を恐れる者の心、良心の中に棲む幻影にすぎない。継体天皇の弟国宮について確証はないが、乙訓寺周辺と推定され、当時の乙訓郷の中心部は今里・井の内とされる。
乙訓寺は花の寺として知られていますが、昨日はボタンの花の時期が済んでいました。
次に行ったのは、「長岡天満宮」
長岡京市開田天神山「長岡天満宮」祭神は「菅原道真」社伝によれば、この地は道真の所領で、築地に向かうとき立ち寄って名残り惜しむ、乙訓寺に付属した長岡精舎の坊官、中小路宗則・西小路祐仲・東小路祐房らが都へ菅原公の配所まで御供を届出て許可をうけて同行することとなり、淀から舟で下り、海路で配所へ向かうが、菅原公は再び帰ることは無かった。
前途有為な若者を田舎に朽ちさすことはできないから、早く都へ帰るように促すと、「私達は、菅原公のお側に仕えるだけで満足です。」とこの地に留まる事を願った。やむなく菅原公は自分の姿を彫った一寸八分(約6センチ)木彫りを贈り名残惜しんだ。それから約2年後の延喜3年(903)道真が太宰府の配所で寂しく世を去ったと聞いた宗則らは、この木像を神霊ご神体として信仰をあつめている。
拝殿の前で記念撮影 天満宮と言えば牛ですね。
天満宮の休憩所で昼食を済ませ、記念撮影を済ませて、14時28分のサントリー工場の送迎バスに乗り工場に行く。
3時過ぎに30分の工場案内をして貰い、それから試飲に行く
出来たてのビールとおつまみを頂き、売店でビールを買って、又送迎バスで「長岡駅」まで送ってもらい帰ってきました。
今日は色々と有りましたが、会員さんが「終わりが良ければ良しとしよう~」と言ってくださり、嬉しかったです。
雨にぬれて帰られた人達、風邪をひいておられないかと心配をしておりますが・・・又 帰られた人の中で、挨拶もなしで帰って行かれた人も居られます。(-_-メ) 皆さん大人なんだから、きちんと挨拶ぐらいはして欲しいなぁ~と思いました。(^o^)